浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.185

  

問167 念仏は呪文ではないのでしょうか。

呪文とは、人間が自分の願望を実現するために、何らかの力を借りようとしてとなえる言葉です。ですから、それは自分の意志で自由に操作ができるという考えにたつ、自己中心的なものです。

これに対して、念仏は如来さまの本願力にすべておまかせした他力の信心が、私の口をとおして外にあらわれたものです。したがって、となえることによって何らかの効果を求めようとするのではなく、となえるままが如来さまの仰せにしたがったすがたであり、報恩感謝の心からでるものです。このように、如来さまが中心であることと、人間の祈願や祈祷の心が含まれないという点で、念仏は呪文とまったく本質をこ とにしています。


浄土真宗本願寺派出版部刊  山本仏骨先生著 「あなたの問いに答える」p.123〜

問い41 お念仏は呪術か

 真宗のご法話を聞きますと、よくお念仏一つで救われていくといわれます。しかし お念仏一つで・・ということは、神秘な呪術のような気がしてはっきりなっとくできません。そこに何か深い理由があるのでしょうか。かりそめにも私たちが救われるということには、もう少し筋みちの立った道理がなければならぬと思うのですが。

あなたは毎日水道の水を使って生活しておられることでしょう。あの水道の水は蛇口の栓をまわすと、いくらでもでてきますが、それは蛇口の栓だけから水がでてくるのでしょう か。決してそうではありますまい。それには水源があるのです。京都では、その水源は近江のび わ湖だということですが、びわ湖の水ということになるとちょっと尽きることがありませんね。

お念仏一つということもそれと同じ道理です。私が発声したから値打ちがあるというのでなく、お念仏となって現われる水源のあることに気づかねばならないのです。

法然上人は第十八願によって念仏往生といわれました。ところがその念仏をあやまって、われわれが口を開いて発声するから救われると考えちがいをしたものがいるから、親鸞聖人はさ らにその前の第十七願を開きだして、念仏となって現れるわれる水源に気づかねばならないと示されたのです。実は私たちの口は、うそをいったり、人の悪口をいったり、生きたものを殺して食べたりするので、こんな口を動かして発声することに値打ちがあるとはいえないでしょう。 そうした私たちに仏が名号を聞かせて、仏の生命をそそいで救うと誓われた、第十七願の水源から通うて来るお念仏であればこそ値打ちがあるのです。

その第十七願の名号は、さらにさかのばって第十二、第十三願の光明無量、寿命無量の仏のさとりの水源から流れでているのです。すなわち時間無限、空間無限の真理をきわめ尽した、 仏の真実のさとりと、まことの救いをあたえるべく、名号を聞かせ、信じさせ、お念仏の喜び をうかべさせねばおかぬと誓われているのです。このようにお念仏には永遠のまことの救いが 脈々と通うていることを仰ぐことが大切なので、そこを親鸞聖人は称えるより前に、聞いてい ただくことが肝要だと示されたのです。また聖人が「無慚無愧のこのみにて、まことのこころはなけれども、弥陀の廻向のみ名なれば、功徳は十万にみちたまう」とうたわれているおここ ろをよく味わっていただきたいものです。


浄土真宗本願寺派出版部刊  山本仏骨先生著 「あなたの問いに答える」p.120〜    

問い40  南無阿弥陀仏とはどういう意味ですか。

南無阿弥陀仏とは、インドの言葉です。だから、南無という漢字そのものには何の意味もありません。「南無」というインドの言葉は、「まかせる」、「信ずる」とか「帰依する」、「たのむ」という意味です。「阿弥陀仏」の「阿弥陀」は、「はかりしれないいのち」 と「はかりしれない光り」という意味で、「かぎりない智慧(ちえ)と慈悲(じひ)」というわけがこめられています。「仏」は「さとりを開いたもの」ということです。ですから南無阿弥陀仏ということを一口で言えば「仏さまにおまかせします」とか「阿弥陀さまに帰依しま す」ということになります。

このような意味を、別な言葉で言いますと「正信偈」のはじめの「帰命無量寿如来、南無不可思議光」ということになるのです。そしてこれらの言葉の中に「正信偈」の全体が含められていますから、「南無阿弥陀仏」というわずか六字の中には「正信偶」のわけが全部含まれていることになります。このことは、浄土真宗の教えのすべてが「南無阿弥陀仏」の中に要約さ れるということにもなりましょう。

親鸞上人は、「南無阿弥陀仏」は、仏さまのお名まえであるといわれました。そしてまた、仏さまのよごびごえであるともいわれました。毎日、煩悩にあけくれしている私どもに、仏さまは、つきまとうて絶えずよびかけて下さっているのです。そのよび声が、私どもに聞こえたとき、 おのずからお念仏の意味が知られるのであります。ちょうど、くら闇の中を、あちらにつきあたり、こちらにぶつかって、手さぐりで歩いているような姿が、私たちの現実ですが、その私たちに 「本当の生き方はこれだぞ」とよびかけて、明るい世界を教えておって下さるの仏さまです。だから、そのおよひ声に気づいたならば「阿弥陀さま、あなたにおまかせします」、「南無阿弥陀仏」と手を合わさずにおられなくなるわけです。このようにして、ほんとうの生き方は、仏さまのみ教え、法を聞くことによって知らされるのです。

ある和上は、「南無阿弥陀仏」は「安心せよ、ひきうけた」ということだ・・といわれています。私どもが、口に称え、耳で聞いているお念仏が、仏さまの「安心せよ、ひきうけた」というおよひ声てあったと知られたならば、くら闇の中に、ひとりさ迷うているとおもっていた私が、一人ではなかった、仏さまといっしょであったと、はんとうに安心ができて、しっかりと力強い、そしてさまざまな迷いにも惑わされない、まことの人生の歩みが続けられることでしょう。


浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.173

問155 お念仏の意味について教えてください。

念仏とは、仏のみ名である南無阿弥陀仏が、私のうえにはたらき、私の口をとお して出てくださる称名をいいます。それはみ仏のお名前であり、み仏は、このお名前によってご自身を、私たちに知らせてくださるのです。

南無阿弥陀仏の意味を、ひとくちにいえば「まかせよ、救う」というみ仏のおよび声であります。この切なる願いのこもったよび声が私の心にとどいたとき、私の自分本位のはからいが砕かれて、「すべてをおまかせします」という信心になり、それが 私の口にあらわれて「南無阿弥陀仏」という称名になるのです。親鸞聖人ほ「ほんとうの信心には、必ずお念仏がそなわりている」といっておられます。


浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.174

問156  青年に、南無阿弥陀仏の意味をたずねられたら、一口で説明するのに、どのようにいえばよいでしょうか。

南無阿弥陀仏の意味をただ一口で説明すれば「われ汝を救う」というみ仏のよび声です。

南無阿弥陀仏は、もとはインドの言葉であり、それを漢字に音写したものです。

その内容は、私にむかってはたらきつづけている、限りない智慧と慈悲をもつみ仏の活動の全体です。それは私の生きていく指導原理となり、楽しいとき、苦しいと き、いついかなるときでも、またいかなる場所でも、南無阿弥陀仏によって私の身も心も満たされて、必ず仏になる身に定まるのです。


浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.176

問158  念仏は口に出さなくても、心のなかでとなえればよいのではないでしょうか。

こういう質問のでる間は、その念仏は私がとなえるのだという気持ちが、まだそこに動いているようです。念仏は、私のはからいでとなえるものではありません。他力の念仏は「たすけんとおぼしめしたちける」如来の本願が、私のうえに「念仏もうさんとおもいたつこころ」となってあらわれてくださり、それがおのずから口に称名となってでてくださるものであります。

信心の人は、自然に念仏申すようになることをお示しになって『歎異抄』には「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なることをつねにおもいだしまひらすべし。しかれば 念仏もふされ侯、これ自然なり。自然は他力なり」とのおことばがあります。


浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.177

問159  どんな気持ちで念仏したらよいのでしょうか

念仏は、これこれの気持ちでとなえたらよいというようなものではありません。 「われとなえ われ開くなれど これはこれ つれて行くぞの 弥陀のよび声」という歌のように、念仏はたとい私の口からでていても、如来さまが私を必ず救うとのおよび声であります。ですから、私の念仏は、いついかなるときにとなえようとも、み仏の大悲の恩徳に報いる「報謝の念仏」なのです。

このうえは日にちの生活を、「おかげさま」「ありがたい」「おはずかしい」という思いでたしなみながら、あらゆることをご縁として念仏申しつつ、強く明るく生きぬきましょう。


浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」p.52

  

問48 ただ念仏すれば、行いを正しくしなしないでもよいのでしょうか。

  

 

 人間はだれでも行いを正しくしなければなりません。しかし、人間の本性である煩悩が、たとい念仏をとなえさせていただく身になっても、ただちになくなるというものではありません。

 むしろ、お念仏をいただく身になれば、み仏の智慧の光明によ って、煩悩のなくならない私を知らされるとともに、全く申し訳のない恥ずかしいこ とだという懺悔の心が生じ、そこから自然に、たしなみの心と、行いを正そぅとする 反省が恵まれてくるのです。

 


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