「本当の仏教(者)とは? 」

(2000. 1.16現在 ご投稿件数 3件

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問いかけのご投稿

_subject=本当の仏教とは _

message=

近くの寺にいったり、住職に会ったりしても、本当の宗教として

どうしても素直に認めることができません。

中には商売とどう違うのか…と思ってしまうこともあります。

今仏教界はこの世の問題をどうかかわっていこうとしているのでしょうか。

真剣な宗教者はどのくらいいるのでしょうか。

name=もも  


ももさん問いかけをありがとうございました。
「本当の仏教とは」とか「本当の宗教とは」という問いかけは、実はももさんの仰有るとおり
議論ではなく私たちそれぞれが自分の生きようを問われるものなんですよね。
 
ももさんの問いかけは他の誰でもない私自身を問うて下さるものと受け止めてます。
 
「今仏教界はこの世の問題をどうかかわっていこうとしているのでしょうか。」とのことですが、
たとえば真宗本願寺派では基幹運動というものを推進していますが、私にはあまり分かりませ
ん、「信心の社会性」という言葉にもなにか、作り上げた信心の上に懲りずにまた何かを作り
上げようとしているような自分を思います。
 
私は真剣な仏教者ではありませんが、web上にだけでも大勢の真面目な仏教者の方がおられ
ますし、社会の問題に真摯に取り組まれておられる仏教者の方々も大勢おられます。
たとえば、HP「SHIUNZAN JODOJI WEB SITE」神通寺ご法話のページ
西順寺衆徒のページ」などの掲示板ではそんな方達が集まっておられますので是非一度
お訪ね下さい。 
  
たまたまつい先日更新させていただいた仏教Q&Aで「仏教とはなにか」を取り上げさせ
ていただいたのですが、「仏教とは・・・・である」などと語る前に「お前はどう生きているのか」
だと、ももさんに叱咤されたような気持ちです。
 
どうか皆さんのご意見をお聞かせ下さいますようお願い申し上げます。
  

subject=ももさんへ _
message=
  
>本当の宗教としてどうしても
> 素直に認めることができません。中には商売とどう違うのか…と思ってしまうことも
> あります。
  

ももさんのご意見は尤もな事ばかりで同感です。

世の中の宗教が人間の心の満足の為に有るかのような思いに立脚すれば 商売と変わらなくなり、習俗に埋没してしまいます。

ももさんがもたれている疑問は、葬式仏教を是認している伝統教学の矛盾を鋭く 突いています。

世の中の殆どの宗教が人間の煩悩を満足させてくれる為にあるものです。 そうでなければ死者を供養してあげる為の習俗そのものになっています。これは 仏教ではありません。

如来心に立脚した真実の宗教が存続している事が奇跡であると池田勇諦師がおっ しゃいます。

家の宗教として寺檀制度に甘んじて来た時代を過ぎて、いま核家族化して 個人の宗教として問われる時代になりました。一人一人が選び取らねばなりません。

いま、巷ではオウムの排斥に躍起になっています。しかしオウムやその他の偽宗教に拠り所 を求める若者は後を立ちません。 豊かさと長寿と平和の中にあって、なぜいま彼らは宗教を求めて 行くのか。たとえ若者を強引にオウムから隔離しても、それは彼らの魂の救いに は ならないと、大江健三郎氏が仰有っています。

どんな宗教も我が宗教こそが真実といいますが、そこでその宗教が人間心に立脚 しているのか 如来心に立脚しているかで全く教義が異なってきます。

ももさん、住職やご講師に懲りずに問ってみましょう。 答えてくださらなかったら答えて下さるまで問うと共に 自分自身にも問い続けてください。問ってみたい師が近くに見当たらなかったら 遠くまで出かけていって門を叩いてみて下さい。ももさんを待っていてくださるお同行 (僧俗ともに)がいらっしゃいます。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲 がたし。 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、 かへってまた曠劫を逕歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、 超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」

宗祖のこのお言葉を拝読すると涙が出ます。

遠回りでも構わないと思います。真宗は気付きの教えです。疑って疑って疑いが 消えたところに 気付かせて頂く教えと開き直ってください。

私はいつも開き直って恥も外聞もな く 問い聞いています。煙たい奴と言われても、誰にも変わってもらえない 私自身の問題ですから問わずにおれないのです。 僧俗ともに平座相対で問い返してあう事が必要であると思います。 蓮如さんがものをいえいえと仰有っているのもこのことですね。 師ありて弟子無き教えとも頂いています。まこさんにもあさとさん兄弟にもお会いして メールや掲示板以外の事もお話できました。GoshinさんもRyusenさんも、様々の人達が 私のとっての善智識です。

>今仏教界はこの世の問題をどうかかわっていこうとしているのでしょうか。

仏教界全般の事は良く判りませんが、少なくとも今問題になっている脳死・臓器 移植に 殆どの仏教宗派が異議を申し立てています。そうした動きがマスコミに取り上げ られていませんが いのちの問題がなぜ宗教者にスポットがあてられないのか不思議であり不満で す。

>真宗本願寺派では基幹運動というものを推進していますが、私にはあまり分かりませ ん、「信心の社会性」という言葉にもなにか、作り上げた信心の上に懲りずにまた何かを作り >上げようとしているような自分を思います。(GoshinさんのHP)

基幹運動が伝統教学に邪魔されて前へ進めずにいる事への苛立ちを覚えていま す。 伝統教学と話し合っても平行線が多いのですが、それでも10年前の本山と 今の本山の取り組みには目をみはるものがあるとRyusenさんからメールを頂きま した。

一部の伝統教学固執者を除いて、ゆっくりでは有るけれどお西の大型タンカーも社会性に目をむけはじめています。 同和問題、ヤスクニ問題、ハンセン病患者隔離、ガイドライン法案、等の問題に も取り組んでいます。

現当二益の当来の事ばかり、すなわち死後の事ばかりを説いてきて、世の中との 関わりから目をそらしてきた伝統教学では、親鸞聖人の教えを説明できなくなっ ています。

世の中の事は世の中の事、信心は別という真俗二諦の教えは宗祖からは聞こえて こないのです。

「念仏と生活」を分けて聞いているところに社会との関わり合いは出てきませ ん。 「念仏の生活」に生きれば、社会との関わり合いを避けて通れません。 様々な社会問題を観てみぬ振りはできないのです。

>作り上げた信心の上に懲りずにまた何かを作り上げようとしている

のではありません。世の中の不条理に苦しんでいる人々を踏みにじって その上に成り立つ信心とは何かを問い返そうとしているのです。

みずからを「いし、かわら、つぶてのごときわれら」とともに民衆と泣いて行か れた 親鸞聖人のお心に触れたら押さえ切れない衝動のようなものなのです。

そのおこころに私が戻る事なのです。現世正定聚の念仏の行者は、如来のお手伝 いを させて頂くという、やらずにおれない思いを大切にしていこうという事です。

本山の伝統教学や一部の僧侶は自らの保身の為に、葬式仏教に埋没し 親鸞聖人をお留守にしたいのでしょうが、心有る真宗僧侶は真摯にこの困難な問 題に 取り組もうとしています。

>真剣な宗教者はどのくらいいるのでしょうか。

心有る僧侶は沢山いらっしゃいます(と思います)。

全員聞法、全員伝道を 基幹運動ではうたっています。

自分は真剣な宗教者とか、自分は信心を獲得した とか いっている人を見たら、眉につばをつけて聞い方が宜しいようです。

インドブッダガヤの金剛宝座に座った麻原尊師の例をひくまでもなく。 念仏の行者といいながら念仏に後ろ足で砂を引っかけている自分であるという事 を 自分自身に問いつづけていらっしゃる方々のお言葉にこそこころを打たれます。

一緒に道標を探しに行こうと門戸を開いて下さる方々を多く知っています。 いずれにしても最後は自分自身の主体の確立に行き着きますが。(面々のおんは からい)

問い返さずにおれないこの思いを、伝統教学の人は念仏がないと批判するかも知 れません。 念仏する心もまた念仏なのです。念仏すると自らを問い返さずにおれませんと答 えます。

「単なる議論の素材としてでなく、本当に実感する部分多 いので、このテーマをぶつけてみました。」とのお言葉ですが 勝手に議論の素材にしてしまっていますね(^^;)

Goshinさん、あさとさん、Ryusenさん、まこさんの思われるところを 是非お聞かせください。

name=大願


 
このご投稿は、こちらから是非にと御無理を言って、大願さんからのご意見をメールでいただき、ここへの掲載をご許可いただいたものです。
 
ももさんの「本当の仏教とは」、との問いかけは「本当の仏教者とは」を問われておられるのだ、他でもないこの私自身が問われているのだと感じました。
  
けれどもこの私はといえば、自分が歴史社会とどう係わっているのか、常に自分を問い続けたいと口ではいいながら、口だけの私です。どのようにお答えしても身勝手で愚かな自己弁護でしかないと思うと何もこたえられなくなってしまいます。
 
それに対して、この大願さんは、ももさんと同じことを、真摯に問い続けて来られたお方です。
 
大願さんのご意見を賜り、「大願さんならではの明解なご回答で、ももさんが訊ねたかっただろうこと を、やはり、大願さんはきちんとお答え下さってるのですね。ももさんが 聞きたかっただろうことにお答えをいただいて、ホントに有り難いです。」と申し上げたところ、大願さんは次のようにお答え下さいました。
 
「私の言っていることは有漏の分別に過ぎません。おまえはどうかと問い返された らグーの音も出ないことばかりです。それをお互いに言い合える事が嬉しいのです。(^o^)v」
 
(^o^)v付の「有漏の分別」とのお言葉が有り難かったです。 
お念仏が私たちの主義主張のどこまでもで自分本位であることを気付かしめて下さるからこそ、お念仏に生きる大願さんは「それをお互いに言い合えることを嬉しいのです」と仰有って下さるんだと思います。私もまたお念仏があるからこそ、こんな私に世の中の悲しみを自分のものとさせていただける道が開かれているのだと思います。
 

 
お知らせ
ももさんからのとの問いかけに対し、SHIUNZAN JODOJI WEB SITEの今月のミラー法話でRyusenさんが
「問われ続ける生きざま」というご法話でももさんにお応え下さっております。是非お訪ね下さい。
 
SHIUNZAN JODOJI WEB SITEより抜粋

subject= 本当の仏教(者)とは

message=

ももさんの言うように今の日本に本当の仏教(者)などない(いない)。
葬式や高い戒名料で稼いでいるのは商売だからだ。
それを批判している人も仏教者とは思えない。いくら理屈をいっても、「世の中の不条理に苦しんでいる人々を踏みにじって 」しか生きてはいけない。
name=みゅう

 
みゅうさんのご意見、goshinは「ごもっともだ」と思います。
お布施だけで生活させてもらっている身としては、「葬式で稼いでいる商売」と言われるなら、
「そうです」と頭を下げるしかありません。ついでに言わしていただくと、私は、頭の上げようが
ない自分を教えてくれるのが仏教であり、「世の中の不条理に苦しんでいる人々を踏みにじ
って」しか生きていけないことに頭の下がったのが仏教者なのじゃないかと思っています。
 
ただ、私の頭はちっとも下がらないけど、み教えによって、そんな自分、世の中の不条理に苦し
んでいる人々を踏みにじってしか生きていけない自分に気づかしてもらえるからこそ、世の中の
苦しみを、人ごとでない自分自身の問題と受け止め、真摯に活動をされている方も多くいらっし
ゃいます。そんな方々からみるとgoshinのこのレスは自己保存自己欺瞞って言われるかな(^^ゞ
と・・何度も何度も書き直したのだけど・・やっぱりこのままにさせてもらいます(^^ゞ
  

ご投稿をありがとうございました。心より御礼申し上げます。

皆さまからのご投稿を無駄にしないようページを充実させていきます。

  
  

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