失うことの恐怖

(2001. 3. 6現在 ご投稿件数 3件

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問いかけのご投稿

subject=『失う』事の恐怖

message=

 14日(だったけ?)の小渕前首相の死去に始まって 実に多くの方々が、この世を去りました。唯でさえ以前より、 誰かの『死』に敏感になっているのに、こう多くの訃報に接すると あの『恐怖』が脳裏から離せれません。

今度は大切な人達の番 ではないのだろうか−と。もし、そうなってしまったら私は どうなってしまうのだろうと思うと、胸が抉られる感じです。

 『もう、大丈夫』−そう思ってました。彼の死を通じて、 『哀しみ』の向こうには『今でも心の中で生きている』って、日頃 当たり前に言われている言葉を実感できた思ったのに。

 本当に恐いのです。もう、誰も失いたくないから。

name=小夜


恐いのが当たり前じゃないのかなぁ・・
どんなに大切な人ともいつかは別れていかなきゃならない・・愛別離苦は当たり前のことなんだけど
当たり前だと分かっていても「分からない」・・
 
> 『哀しみ』の向こうには『今でも心の中で生きている』って、
> 日頃 当たり前に言われている言葉を実感できた思ったのに。
 
分かっていても分からない・そんなことだらけだよね。
 
恐いのが当たり前だと分かっている小夜ちゃんなのだけど、その恐怖心や不安感をどうにかしたい。
どうして、「どうにかしたい」のか・・小夜ちゃん、そんなことを考えてみるのもいいかも知れない・・
 
そうすると、失うことに耐えられないほどの大切な人に出会えたこと・・をひょっとしたら喜べるかも・・
それから、その大切な人たちに出会えた喜びのためなら、この恐怖心や不安感など、どんと引き受け
てやろうと思えるかもしれない・・
 
   

subject=小夜さんへ

message=

 小夜さんへ。 失うことへの恐怖は誰しも持っています。 不慮の事故や病気で「失った」経験をした人はそうでない人よりもより強い恐怖 を持っていることでしょう。

私のまわりでは、私と妻が33歳の時に妻の母が、35歳のとき私の父が、父の 死後一月して息子が、そして37歳の時妻の父が立て続けに亡くなりました。愛 する人が突然いなくなると言う恐怖心は今でも人一倍持っています。

> 今度は大切な人達の番 ではないのだろうか−と。もし、そうなってしまったら >私はどうなってしまうのだろうと思うと、胸が抉られる感じです。

そのようにおっしゃる気持ちは痛いほど分かります。今度は妻が、下の子供たち が突然死んでしまったら私はどうなってしまうだろう。もちろん私がそう考えな いはずもありません。しかし恐怖から逃れるために自ら死を選ぶという事は致し ませんでした。そこに至った経緯はここでは省かせていただきますが、死を選ぶ よりも幸福を求める事を選択いたしました。

親である私たちが心の暗部を自ら食い入るように見つめて生きていったら、子供 たちはどのように育つでしょう。私たちが暗部をのみ見つめて生きていたら私の 老いた母はどう思うでしょう。そして私たち自身は心の暗部をのみ見つめて暮ら すことなど果たして出来るのでしょうか。

私の心の中にはどす黒く暗い闇が今も大きく残っています。正直言って私も暗い 部分と向き合うときが多々あります。もしその闇にとらわれてしまったら息をす るのがイヤになってしまうほど脱力してしまうでしょう。しかし闇の部分よりも 断然大きい明るい光の部分が存在しています。闇とは悲しみです。闇とは新たな 悲しみが生まれるのではないかという恐怖です。光とは家族です。友人です。光 があれば影も出来るでしょう。闇の存在を知っていることは大事なことです。 それを知っているからこそ「今日このときを生きよう」、明日死んでも良いくら い愛する人、大切な人と「いま」本気で接していこうと考えられるからです。

>「もう大丈夫」

と一度でも感じたあなたにはそのことがきっとわかっているはずです。

>「心の中で今でも生きている」

その言葉を一度でも実感できたのならきっとあなたには光の部分がたくさんある はずです。

亡くなった愛する人の思い出を大切にするのは至極当たり前のことです。でもそ の大切な思い出があなたの心の闇とすり替わっていませんか?あなたの大切な方 は小夜さんの心の闇となることを望みますか?

闇の誘惑から逃れるのは難しいことかも知れませんが、暗部を自分から追い求め るのはよしましょう。深い悲しみの中で、暗部を追い求めることによって今はい ない大切な方と自分のつながりを保とうとする気持ちはよくわかります。闇を見 つめることで自分を追い込み、どんどん闇に飲み込まれていきたくなる気持ちに 私もなったことがあります。しかしそれは悲しみをよけいに増幅するだけの行為 であって、決して先に行ってしまった者が望んでいるところではないはずです。

大切な光が失われたとき闇が出来ます。闇はいつも私たちとともにあり、それは とても大きくそして時に私たちにとってそれそのものが大事な物であると感じさ せるため、そればかりを凝視してしまいます。しかし光すなわち愛する人との思 い出と、愛する人を失ったことで生じた闇とは似て異なる物だと思います。闇は そして恐怖は私たちの心が愛する人を失ったゆえに自ら生み出した物であり、愛 する人が残していってくれたものとは少し違うような気がします。自分からそれ を凝視し、増幅することはもうよしましょう。

私事で恐縮ですが、今私にとって大事なのは今いる子供たちが死んでしまうこと をビクビク恐れながら育てていくことだとは思っていません。妻が僕より先に行 ってしまうのを恐れながら暮らしていくことでもありません。たしかにそれは大 きな恐怖ですが、それにとらわれてしまったら今このときの家族の笑顔を楽しめ ないじゃないですか。

なくなった長男の笑顔は今でも決して忘れることはありません。それは僕の大事 な大事な宝物です。けっして闇の中に深く沈んだ笑顔ではありません。

あなたが今ある光の部分とともに生きていく中で、大切な宝石箱を開けるような 気持ちでなくなった方の思い出を呼び起こせるようになって欲しいと切に願いま す。

name=Makoto Kichinaka


まこっちゃんの言葉をただただ静かに聞かせていただいてます。まこっちゃんの言葉の前にgoshinの言葉は空しすぎるので(^o^?、安田理深先生のこんな言葉「闇は光の象徴である」(^o^)/

「大切なの は(少なくとも私にとっては) 悲しいということではなく、亡くなった方と過ごした日々、時間、言葉を交 わした一瞬なのだと思います。 あなたが死んでしまいたいほど悲し いのは、その日々、時間、一瞬が、 それほど幸せだったからなのです。 」と仰有って下さったまこっちゃんのHP「TEARS IN HEAVENには光を仰ぐ方達が大勢集まって下さってます。


subject=失うことの恐怖(ほんとにこのサブジェクト?)

message=

 ゴシンさんお久し振りです。m(_ _)m

何とか私は生きてます。

年末に起きた世田谷の一家惨殺事件の報道が続いて、また調子がおかしくなってしまいました。入浴中とか、消灯後とか、涙が止まらなくなるし、人の話もいつもの3倍ぐらい集中しないとなかなか頭に入ってきません。

もうPTSDはだいぶ楽になったかと思ったのですが、なかなかしつこいです。

父を失ったという現実となかなか対峙できません。逃げ続けないと自分が変になりそうです。外へ出ると、父と同じ髪型だったりなんとなく背格好が似ていたりという人を、じっと見てしまいます。もしかしたら父かもしれないという思いが未だに消せないでいます。おかしいですね。お骨も拾ったというのに。

急に肉親を失うという予期せぬ出来事に未だに対処できません。

そろそろ年の肉親を失うことに対して、何の心構えもなかったわけではありません。しかし事が犯罪となると、「何で犯罪で亡くならなければならないのか」と思います。この出来事をすんなりとは受け止められません。

犯罪という起こってはならないことで命を奪われるということが恐怖でなくてなんなのでしょう。

もしかしたら未だに悲しんでいる私は仏教的に言えばまだまだ「修行が足りない」のかも知れません。時々自分が「人間が出来ていないから未だに苦しむのではないか」とも思います。 一度この点についてお伺いしたくて投稿しました。

name=jura


> 「何とか生きてます」

何とか息をさせていただいてるのはわたしのほうで、しっかり生きていて下さってるのがjuraちゃんです。インターネット上のNPO非営利組織を立ち上げ、その犯罪被害者支援活動の中心として活躍して下さってること、あなたのサイトでもテレビなどマスコミでも拝見させていただいてます。

> もうPTSDはだいぶ楽になったかと思ったのですが、なかなかしつこいです。

ほんとどこまでもしつこいのですね、だからこそ、犯罪というものの恐ろしさ、被害者や家族にこんなふうにどこまでも重い苦脳を負わせるんだということを訴え続けていかなきゃならないんだと思います。

> 犯罪という起こってはならないことで命を奪われるということが恐怖でなくてなんなのでしょう。

juraちゃんが、こういうふうに訴えかけて下さることが、どんなにか多くの犯罪被害者の方々を力づけ、そして私のような傍観者に問題提起をして下さってきたことか。。juraちゃんは、お父さんを奪われたという現実と対峙することが出来ない・・と仰有るけど、今まで、必死で向き合って来て下さってるではあいませんか。そんなあなただからこそ、世田谷の一家惨殺事件の報道を人ごとと思えず、苦しんで下さってるんだとわたしはjuraちゃんの苦しみを拝みます。

いつも同じことをいうけれど、あの事件でまたjuraちゃんの具合が悪くなってしまったことは当然のことだと思います。これからも、きっと、やっぱり、そのような犯罪の報道に対して、juraちゃんは、どこまでも傍観者ではいられないんだと思う、そして、つらいだろうけど、どうかどうか、そのつらさを、その尊いつらさを、juraちゃんの誇りにしてほしいと私は願ってます。わたしはこんなにも一生懸命生きてきてくれたjuraちゃんを誇りに思ってます。

> もしかしたら未だに悲しんでいる私は仏教的に言えばまだまだ「修行が足りない」のかも知れません。時々自分が「人間が出来ていないから未だに苦しむのではないか」とも思います

とんでもありません。修行を積もうと人間が出来ていようと、人間はどこまでも苦しみから逃げたい弱い心をもってるのだと教えてくれるのが仏教でしょう。弱い心を強い心にするのが仏教ではないし、苦しみを喜びに変えるのが信仰ではないと思う。弱い心そのままで、苦しみを嫌う心を怖れずに苦悩を引き受ける、その腹を座らせてくれるのが仏教だと思う。弱さを引き受けることが強さでしょ。

juraちゃんはしっかりとこの大きな、あまりにも大きな苦悩を自分の命を削るほどに、しっかりと引き受けてきてくれたじゃありませんか。そんな強いjuraちゃんの心だからこそ、たまに弱音を吐かせてあげなきゃ、うんと弱音を吐かせてあげなきゃ・・どうかどうか、自分を、こんなにも頑張ってる自分を存分に労ってさしあげてほしいと思います。


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