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米沢英雄先生  

米沢先生は「何の為に生きるのか」と問う私に、次のように答えて下さいました。   
  
「本当のあなたに会うためです」
「あなたが、あなただと思っている、そのあなたの底に、 もう一人の〈真実のあなた〉がいるのです。」
 
【抜粋】 米沢英雄著 『もう一人のあなたへ』(文明堂刊)p.42〜           

私が、私自身と思っている私は、自分の思うようにしたいという魂胆、自我を内にかくしもつている私であって、この 私では、私に都合のよいものだけしか見えなくて、都合のわるいものはこれを、無視するか、うち捨ててしまいます。

こうした見方の前には、世界はその全貌をあらわすことがありませんし、 私は世界を見ているようでいて、わがまま な自分勝手な解釈をしているにすぎません。

こうした世界観は当然、いつかは行き詰るはずであります。

私たらは こうして行き詰った場合、自分の解釈が行きづまったとは思わずに、もう自分の生き甲斐は失われたと、勝 手に簡単に、人生に絶望しがちであります。そし て、つい、一番大切な自分に対し自殺を択んだり致します。身勝手 も甚しいも のと申さねばなりますまい。

私が、私自身だと思っている私の、その心の底にに、もう一人の私、真実を感じとることの出来る私がおる筈であり ます。 私の自我が、自分の都合・不都合で〈婆婆〉を虚構するものであれば、虚構している〈婆婆〉に気付いて、真実に触れる私がおる筈であります。

私の心の底にかくれていて、日常、私も気付 かずにいる〈もう一人の私〉は、いつ・いかにして顔を出すのでありましょ うか。

そうです。ナムアミダブツする時にのみ、もう一人の私が顔を出すのであります。 私もまた、私の中にかくれている もう一人の私にナムアミダブツする時に、 はじめて出あうことが出来るのであります。

ナムアミダブツは、外に〈真実の世界〉に触れ、内に〈もう一人の真実の私〉に出あうことのできる、たった一つの道 なのであります。

     米沢先生のご紹介は当HPの「今月の言葉 1998年 2月 」をご覧下さいね


  
應瑞寺ご住職 
 
人は何のために生まれてくるのか、それは誰にもわからない。
自分から希望して生まれてきたわけではない。
「偶然の生」を得ただけのことだ。
 
だから自分をこの世にもたらした大自然に対して、自分の生き方に責任をとる必要はなく、どんな生き方をしてもよいように思える。
ただし、因果の法則にはある程度縛られているようだ。
社会的な行為には、社会的な責任をともなう。
よいことをすれば人から喜ばれ、悪いことをすれば人から疎まれる。
道の選択1つ1つが将来の自分を決定することになる。
  
一方で、特定の人が生まれてくることは、特定の男女の出会いや特定の精子の選び取りを経て、極めて小さな確率の元で生起した、奇跡の現象である。
確率が小さいことは、即ち、希少価値が高いことでもある。
  
だから個人の人格や能力は尊重されなければならないし、発揮されなければならない。
自分を生かすこと、意義あらしめることが大事である。
  
同時に、同じ理由で、他人の人格も尊重されなければならない。
そして、自己を生かすのは、ちっぽけな自分のため(小さな欲)ではなく、自分以外のため(大欲)であることが、より価値があるといえる。
 
自分を生かすことが生きがいになり、精神的満足につながる。
自分を生かして、何かを達成することで、一時的な享楽とは違う喜びが得られるのだ。
生きがいをもって生きることに、生きる価値がある。
 
その結果、「偶然の生」を「必然の生(生まれるべくして生まれた生)」に変えることができるのだと思うのである。
  
そして、自分を生かすには、次の3つが要件となるのではないかと思うのだ。
「情熱をもつこと」
「努力すること」
「無心であること(自己犠牲、自分以外のため)」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
  

應瑞寺住職ご法話の抜粋「出会い」はHP「心の扉」でごらんになれます。


    

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