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修士論文

「言語権に関する理論的考察」

福地俊夫

1999年1月

一橋大学大学院言語社会研究科提出


目次

第1章 はじめに

第2章 言語権の内容・歴史・批判

第3章 言語権の理論的考察

第4章 おわりに

参考・引用文献




第1章 はじめに(→目次へ)

 1980年代に言語権概念(注1)の定義が試みられるようになり、言語権が新しい普遍的な人権の一つとして注目されるようになった。言語権は主に少数者(注2)の権利の一つとして取り上げられ、最近では、特にヨーロッパにおいて少数言語の保護の重要性・必要性が語られるようになった(注3)。それと同時に多文化主義・多言語主義という考えも強調されるようになり、そのような観点からの国家の具体的な文化的・言語的政策も現れている(注4)

 言語権という概念は、人権と同様に「普遍性」を訴えるものだが、「普遍的」であるかどうか、疑問がないわけではない。また、言語固有の問題もあり、一義的に定義することも容易なことではない。さらに、具体的に法的な整備をし、実際の言語権保障の制度化になると極めて困難となる。しかし、少数者の言語の保護を訴える運動などがヨーロッパを中心に各地で起こっているのも事実であり、また言語権を明記している法制度をもつ国家も存在する(注5)。そして国際的な人の移動により、異言語間コミュニケーションの機会が増大し、言語権という観点から国際共通語の問題を再考する動き(注6)も現れている。

 言語権の定義・内容に関してはいくつかの論考があり、また言語政策・計画という観点からの研究も進み、各地の具体的な報告なども見られる(注7)。しかし、言語権を一つの普遍的人権として捉え、原理的・理論的に考察したものは多くない。特に正当化根拠をはじめ、十分にその権利が明確化できているとは言い難い。

 本論文では、言語権概念の内容・性質・問題点を、主に人権論・国際人権論・権利論・多文化主義などの観点から、成文化された言語法や各地の言語政策を例として取り上げながら考察していきたい。

 言語権を原理的・理論的に考察し、それのもつ意味を明らかにすることにより、今後の議論の叩き台となるような問題提起を行いたい。さらには具体的な言語法、言語政策・計画にも寄与できることを期待したい。




第2章 言語権の内容・歴史・批判(→目次へ)

 この章では、主に先行研究を中心にし、最も一般的な言語権の定義をとりあげながら考察する。特に議論の分かれている問題を提起し、様々な観点から言語権の性格を明らかにする。ここで十分に論じ切れないことに関しては、第3章の理論的考察でさらに詳細に論じてみたい。


1節 言語権の内容(→目次へ)


@言語権の定義(→目次へ)

 言語権はSkutnabb-Kangasが1983年に以下のように定義している。その当時は「自集団の言語(the language(s) of his/her group)」が「母語(mother tongue)」と表されていた。以下の内容は1987年にブラジルのレシフェで「多文化コミュニケーション国際協会(AIMAV)」によって決議された(Skutnabb-Kangas 1994a p.98-99)。

1.すべての社会集団は、一つまたは複数の言語に肯定的帰属意識を持つ権利、およびその帰属意識を他者から認められ尊重される権利を有する。

2.すべての児童は、自集団の言語を十分に習得する権利を有する。

3.すべての人は、あらゆる公式の場で自集団の言語を使用する権利を有する。

4.すべての人は、自身の選択にしたがって、居住国(the country where s/he is resident)の公用語のうち少なくとも一言語を十分に習得する権利を有する。

(吉田(1997 p.30)の訳を参考にし変更を加えた)

○補足(番号は上記に対応)

2.母語によって少なくとも6年間の初等教育を受ける権利、また母語を一つの教科として全教育課程で学ぶ権利。

4.全教育課程で公用語を第二言語として二言語話者の教師から教わる権利 (Skutnabb-Kangas 1994a p.110)

 以上の言語権の内容を以下のようにまとめてみた。私見では「自集団の言語」よりも「母語」のほうが望ましいと考えるので(理由は第2章1節のAで述べる)、以下では「母語」を使うことにする。

1.母語による帰属意識の尊重

2.公教育における母語による学習、及び母語の学習の権利

3.母語の公的使用の権利

4.居住国の公用語学習の権利

 言語権の定義は以上の他にも提出されている(注8)し、また当然ほかの定義もありうるが、本論文の考察には以上の定義を基礎にしていきたい。また、より細かく厳密に定義づけたのが国際ペンクラブを中心に提案された「世界言語権宣言」(注9)である。


A言語権が主張される時の「言語」(→目次へ)

 言語権の最初の定義によれば「自集団の言語」が「母語」であったということである(Skutnabb-Kangas 1994a p.98)。ここでは、この「自集団の言語」と「母語」に「自己選択言語」を加え、言語権における「言語」とは何を指すのか、考察してみたい。

 ある少数言語集団が「母語による教育」をもとめてキャンペーンを行うときに、家庭で使われる言語・母親から自然に習得する言語という意味での「母語」を掲げない場合もある。たとえばイギリスのパキスタン出身者は家庭で使うときの言語(いわゆる「母語」)と民族的な団結をうながす原動力となる言語と分けて考えていて、前者はパンジャーブ語で後者はウルドゥー語であるという(ロメイン 1997 p.47)。つまり少数者が集団で民族語の権利を主張する文脈においては「母語」という用語では十分ではなく、むしろ、その集団の運動にとって都合が悪くなってしまう場合もででくる。したがって、このような場合には「自集団の言語」というほうが、その運動にとって望ましいということになる。

 しかし、言語を使っている本人の「自由意思」を尊重すると考えた場合に、言語権を主張する時の言語として、「母語」として家庭で使われているパンジャーブ語を使用したいという人の存在はどう考えればよいのだろうか。ウルドゥー語を使おうとする集団の目標がその人にとって抑圧的に働く可能性もある(個人と集団の関係については、詳しくは第2章1節のC、第3章5節のAで述べる)。言語権には「個人的言語権」と「集団的言語権」との両者が存在すると考えられている(Phillipson 1994 p.2)が、以上のイギリスのパキスタン出身者のように、「母語」と「自集団の言語」が異なる場合、「個人的言語権」と「集団的言語権」の衝突が起こる可能性もある。したがって厳密に言えば「自集団の言語」という用語でも不十分と言わざるを得ない。さらに、「自集団」という時の集団とは何か、という問題も充分に議論しなければならない(詳しくは第3章1節)。

 ただ、あくまで権利の出発点を個人ととらえた場合(第2章4節の@でも少し取り上げる)、つまり言語権に関して個人を重視するという立場(詳しくは第3章5節のAで述べる)から考えると、「母語」のほうがより望ましいと言えないか。すくなくとも集団の目標による個人の抑圧は防ぐことはできる。

 たしかに、より厳密に「母語」の定義を考えていくと、様々な事実により、一義的に定められないのは事実だろう(ロメイン 1997 p.45-47)。しかし、現段階では「起源:最初に学んだ言語」「帰属意識:帰属意識を自分で感じ、また他人からも母語話者として認められる言語」「能力:いちばん知っている言語」「機能:もっともよく使う言語」(Skutnabb-Kangas 1994b p.360)という定義の一つ以上を充たせば「母語」としても構わないのではないだろうか(注10)

 また、アフリカのなどの「制度化」されていない「言語状況」を挙げて「母語の絶対化の幻想」(川田 1997 p.30)を説く例もあるが、「母語」をまったく相対化し、その本人と切り離して考えてしまうと、言語権そのものが成り立たなくなってしまう。すくなくとも、「母語」は多くの場合、各人の帰属意識と結びつき、簡単には変えられないものだ、という認識が必要である。

 以上は「客観的」に外から母語について考えてみたが、人権論における「自己決定権」(注11)という考えをおし進めるなら、例えば、言語権において「客観的」にみた「自集団の言語」や「母語」を主張するのではなく、まったく個人の観点から「自分の使いたい言語」すなわち「自己選択言語」を各人が主張することも考えられる。例えば人工語・エスペラントを使いたい場合や、「母語」ではない言語を使用していきたい場合などである。自分で使いたい言語は「起源」としての「母語」にはもうなりえないが、「帰属意識」「能力」「機能」としてのあらたな「母語」には充分になりうる。その言語はもともと本人にとって、「母語」でも「自集団の言語」でもない第三の言語である。自己決定ができると考えられる年齢以降にもともとの「母語」をかえることは原理的には可能だ。従来、自己決定ができないと思われていた「死」(「尊厳死」や「安楽死」などの問題)や「性」(「性同一障害」「インターセックス」などの問題)に関しても自己決定ができるという考えがあるが、この考えからすれば、使用言語の自己決定ということも可能なのかもしれない。しかし、「死」や「性」の問題とは違い、言語には社会性があり、他者との共通のコミュニケーション手段でもある。したがって、「危害原理」(田中成明 1994 p.138)、すなわち、他人に迷惑をかけさえしなければ何をしてもいい、という原理だけで正当化できるとは限らない。さらに、実際問題として使用言語を自由に自己選択することはほとんど不可能である。もちろん、私的な言語領域においては、自由に使用言語を自己決定できるかもしれないが(注12)、公的領域において使用言語の選択権を与えることは不可能に近い(私的・公的に関しては第2章1節のBを参照)。公的な使用領域において、本来の「母語」の使用権さえも困難な現在(注13)、あらゆる言語の選択権を与えるというのは事実上不可能なことだ。しかしながら、言語権をあくまで実定法上の権利ではなく背景的権利と考える(第3章4節を参照)ならば、一つの理念モデルとして使用言語の選択権を与えるということも考慮すべきかもしれない。つまり、本人の意思と関係なく、「外から」勝手に「母語」や「自集団の言語」を決めつけられてしまう現状(注14)に対抗する考えとして、言語の自己決定権も考慮して議論すべきであろう。


B私的・公的言語領域(→目次へ)

 言語の使用領域を私的・公的と分ける観点から、言語権を考えみたい。フィッシュマンは、「言語領域」として、家庭、街頭、学校、教会、文学、マスコミ、軍隊、法廷、官庁を区別している(シュリーベン=ランゲ 1996 p.163)。これらの領域を私的と公的に分けてみると、私的領域は、家庭、街頭、教会、文学、マスコミで、公的領域は学校、軍隊、法廷、官庁と考えることができる。しかし、厳密に考えると、現代社会のマスコミの影響力は大きく、公的な性格も強い。したがって、「半公的言語領域」と言ってもいいかもしれない。いずれにせよ、基本的には国家の行う行為に関わる領域が公的で、それ以外は私的と考えてよいだろう。

 公的な領域に関しては、母語が使えないことが大きな不利になることは明白である。例えば、学校や裁判において母語が使えなければ大きな不利益を蒙る。したがって、言語権定義の「2.公教育における母語による学習、及び母語の学習の権利」「3.母語の公的使用の権利」は、当然主張されて構わないだろう。

 ところで、言語権の定義には「公式の場(official situation)」と明記されているが、「私的な場」は明記されていない。たしかに「1.母語による帰属意識の尊重」の中に、私的な領域における言語による差別を禁止していると解釈が可能かもしれない。しかし、それは他者の言語もしくは言語による帰属意識を尊重をするということだけで、使用言語について何も語っていない。つまり、母語が違う者同士が何語で話せばいいかという問題には触れていない。

 言語権の侵害、つまり言語差別を以下のように定義してみると私的・公的に関係なく、言語差別が起こりうることがわかる。

(決議)

3.異なる言語の二集団の内の一つが、他の集団の言語を学び使わなければならない時に、言語差別が生ずる。

5.異なる言語の話者との接触において、自己の言語を用いて、他者にその言語の使用を余儀なくさせる全ての人々により言語差別が生ずる。

(1980年のエスペラント世界大会の決議、津田(1990)から再引用)

 したがって、「公式の場」だけでなく「私的な場」における言語権侵害も同時に言語権の考えに入れるべきではないだろうか。もちろん、私的な領域において、何語を使用をすべきかを固定的に決めることはできないし、それはあまり意味がないことだろう。事実、私人間の言語権侵害は国家が関与するのは難しく、また実定法化の必要性も疑問がある(第3章2節のDでもすこし触れる)。だが、少なくとも私的領域における言語権は背景的権利であり、またその内容は「手続的正義」の問題とは言えないか。具体的には異言語話者間の合意によって(「共通語合意原則」)言語権の侵害を調整するということだ(詳しくは第3章3節、4節を参照)。

 さらに、すでに述べたマスコミなどは現代ではかなりの影響力があるもので、決して無視はできない存在だ。私的な領域だから言語権に関係がないとは言えない。私的な領域と見られた経済活動も、さまざまな弊害(資本独占、労働問題)により、国家の関与が必要となり、現在ではまったくの「自由」主義経済はありえない。マスコミで使用される言語なども言語権の視野にいれ、十分に議論すべきではないだろうか。


C個人的・集団的(→目次へ)

 言語権は通常、「個人的言語権」と「集団的言語権」とに分けて考えられる。「個人的言語権」というのは母語を習得する権利であり、「集団的言語権」とは同じ言語を話す集団が、その集団としての行政サービスをもつ権利である(Phillipson 1994 p.2)。具体的には、学校や教育機関を維持する権利、裁判所や公的機関、つまり公的領域において、母語が使用できる権利である。それによって、自分たちの言語を維持し、発展させていけるということだ。多数者の言語の場合は、通常は公用語に制定されている場合が多いので、問題になることはなく、特に少数者の言語が問題になる。

 言語権において集団性を強調するのは、言語特有の事情による。すなわち、言語は、それ自体で存在することはできず、また同じ言語でコミュニケーションをする複数の人たちがいなければ、言語として意味がないからだ。言語を維持し、発展していけるのは集団であるという考えだ。文化に関する考え方とも通ずるものがある。

 しかし、「集団的目標は、個人の行動に対して、彼らの権利を侵害するような制限を要求」することもあるとして、個人的権利と集団的権利の対立を説く考えもある(テイラー 1996 p.75)。

 ここでは、具体的内容には入らずに、第3章5節のAで詳しく論じたい。


D地域語・国家語・国際語(→目次へ)

 ここでは言語権侵害の問題を地域・国家・国際の三階層に分けて考察してみたい。

 言語権は、通常少数者側の権利の一部として取り上げられることが多く、事実、歴史的にも少数民族の文化権の一部と重なりあってきた(Phillipson 1994 p.3)。一般的に国家(多数者)によって少数者言語や地域語が抑圧されることが多かった(注15)。つまり常に多数者の話す言語である国家語・公用語(と思われている言語)が少数言語を抑圧するという構造があった。

 言語権においては、少数言語・地域語と、公用語との関係は重視されていて、定義には「4.居住国の公用語学習の権利」が明記されている。当然のことながら、公用語が母語ではない少数者は、公用語が母語そのものである多数者とくらべて、不利益を蒙ることが多い。なぜなら、母語と公用語の二言語生活にならざるを得ないからだ。しかし、国家に存在する以上(注16)、そこで話される公用語は必要である。「4.居住国の公用語学習の権利」とは、居住国の公用語を学ぶ権利があるということで、逆に言えば国家には公用語を教えるまたは学べる環境を積極的に保障する「義務」があると考えられる。スウェーデンでは1965年にすでに「すべての在住外国人は成人教育施設でスウェーデン語を無料で受講できること」になっている(岡沢 1991 付表3p.12)。国家内の少数者のみならず、外部からの少数者、すなわち外国人に対しても公用語教育の保障をしている点は注目に値する。

 理想的・原理的には国家に存在するすべての言語(少数言語・地域語)を公用語にし、公的に使用できることが望ましいが、費用・人材の観点からそれは困難が伴う。さらに国家に存在する言語として、外国人の言語まで含めるのは、それが極めて可変的・流動的なものでもあり、不可能なことだ。そのような点から考えると、少数者の言語をできる得るかぎり尊重しつつ、公用語を学ぶ環境を最大限に国家が準備するより他はないだろう。

 以上のような少数言語・地域語と、公用語との関係は言語権の定義から読み取れるが、国家を超えた国家間の言語問題については触れられていない。それは言い換えれば国際共通語の問題と言えるが、言語権は少数話者の言語と同時に国家を超えた、広い意味の異言語間コミュニケーションの問題も取り上げるべきではないだろうか。

 Lapenna(1966 p.31-32)によれば言語問題を考える上では国際レベル、国家レベル、地域レベルと三階層に分けて考えたほうがいいと言う。彼は地域語は地域に根ざした重要な言語であると言い、国家語は公的な活動に使うという。さらに国際語は異言語間コミュニケーションにおいて使うことを提唱した。彼はエスペランチストであり、国際語として唯一エスペラントを使うことを主張した。ここではエスペラントの国際語としての是非は詳しくとりあげないが(注17)、国際語のレベルも言語権の問題として十分に考慮すべきではなかろうか。国際化の時代と言われ、国家を超えた人の行き来も激増し、環境問題をはじめとして国家を超えて話し合わねばならない問題が山積している現在、国際コミュニケーションにおける共通語の問題は重要な課題の一つである。

 ところで、英語は国際語であり、英語を学ぶことも言語権の一つであるという主張も存在し、また、英語に限らず、外国語の学習が言語権の一つであるとの考えもある(Skutnabb-Kangas 1994a p.100-103)。まず、この考えを取り上げたい。

 最初に、国際語としての英語を学ぶことを言語権とする主張を検討してみよう。まず英語が国際語であるか否かに疑問がないわけではない。例えば、英語帝国主義批判や言語差別からの批判が存在する(注18)。ここではそのような主張をいちいちとりあげないが、英語を国際語とすることに様々な問題点があるということを忘れてはならないだろう。英語を国際語とするのであれば、少なくとも異言語間コミュニケーションにおいて、なぜ英語母語話者の言語権だけが守られるのか、説明できない。ただ、国際英語論という考え方(注19)も存在し、それは母語話者の規範に従わない国際英語を話せばよいという主張である。もし英語母語話者も、自分の言語とは違う新しい国際英語を話すのであれば、少なくとも「中立」と言えよう。そうでなければ、意識的に国際英語を学習しないという点で、英語母語話者だけなぜ利益を受けることができるのか説明ができない。

 次に外国語を学ぶことが言語権と言えるかどうかだが、Skutnabb-Kangas (1994a p.102)が述べているように、母語や居住国の公用語に比べれば、少なくとも、より緊急性の高いものではないと言えるだろう。母語や公用語に関しては、言語的「人権」として構わない思うが、外国語学習まで人権の一つとは言い難い。むしろ国際感覚を養ったり、母語を客観的にみられるようになったりする、という教育的効果という観点から外国語学習を捉えるべきでだろう。しかし、外国語としてどの言語を選択するかは、「政治的な力関係に左右」されることが多く、「東欧国でロシア語がこのような理由によって学習」されたことがある(野元 1988 p.1013)。国家が学習外国語を決めるより、すくなくとも国民の意思や地域の意思も充分に尊重すべきであろう。原理的には、できるだけ多くの選択外国語があったほうがより望ましいと言える。

 最後に、言語権の定義には明記されていない、国際レベルの言語権問題について考察を加えたい。国家レベルでは国家内で国家語・公用語、および保護すべき少数語・地域語に関して、具体的に何語であるとある程度決めることができるが(もちろん、簡単に決められるわけではないが、国家を運営していく上で、公的場面における言語が必要だ)、国際レベルでは国家の利害がからんでくるため、具体的に使用言語を定めることは難しい。事実、加盟国の多い国際機関、たとえば国連などでは、大国の言語が公用語・作業語となっていて、言語差別的状況がある(二木 1981 p.20-30)。公的な国際レベルにおいては、例えば国際機関の公用語に関しては、エスペラントなどの母語話者のいないという点(注20)での中立言語や他の人工語も一つの選択肢として考えられる。ただ、私的な国際コミュニケーションにおいては、第2章1節のBで述べたように、具体的な共通語を定めることはできず、参加者によって可変的である。したがって、手続き的正義(第3章3節で詳しく述べる)の問題に関わると考えられる。つまり、「コミュニケーションの参加者同士によって共通語に関して合意をする」(「共通語合意原則」)ということが言語権と言うことができよう。  以上述べたように国際レベルの言語問題も、特に公的な領域に関しては、言語権の問題としてきちんと取り上げるべきである。つまり、三階層のどの領域でも言語権の侵害を避けることが大事と思われる。


E言語権と国家(→目次へ)

 言語権は少なくとも国家を前提に考えていると思われる。言語権定義「4.居住国の公用語学習の権利」の「居住国」(country)という言葉が示しているように、居住国の公用語を学ぶことは言語権の一つであり、その権利がなければ行政サービスに参加することが極めて困難になることは明白である。究極的に考えれば、国家の存在の是非や国家をどう捉えるか、など様々な議論があると思われるが、現段階では国家の存在を無視して言語権の問題を考えることはできない。

 例えば、言語共同体と国家が同一の場合以外で、少数言語・地域語と、公用語が異なる社会集団と、同じ社会集団では平等ではない。なぜなら前者は母語の他に公用語を学ばなければならないが、後者は母語=公用語であり、公用語を意識的に学ぶ必要がないからだ。この不平等状態を原理的に解決するには、その国に存在するすべての言語を公用語にするか、もしくはその国に存在するすべての言語以外の言語を公用語にするしかない。どちらとも現実的には難しいようで、そのような例はあまりみない(注21)。ただ、後者に関しては旧宗主国の言語(例えばアフリカ諸国における英語やフランス語など)が中立的な働きをしていると言われている例もある(注22)。さらに、移民・外国人までの言語権の保障を考えると、少数言語・地域語と、公用語との原理的平等の実現は不可能になる。

 国家内に存在するすべての言語を公用語とするのは現実的には無理にしても、国家の機能の一つを権利の分配と考えるなら、すなわち、言語権の保障義務を国家の役割とするなら、言語権は特に社会権的性格が強い(第2章1節のFを参照)と言える。つまり言語権は国家を前提には考えられない。例えば、行政サービスにおいて、少数言語・地域語による情報提供や通訳者を準備することなどは主に国家にしかできないし、国家のすべき行為であろう。

 以上のように考えると、言語権の概念が適用でき得る条件というのは、少なくとも国家が存在しているということだ。そして、実定法上で公用語が成文化されていなくても、国家の言語と思われているものが、一つまたは複数認識されていなければならない。それで初めて、何が少数言語であるのかがわかり、保護ができるということである。


F人権の中の言語権の位置(→目次へ)

 ここでは、言語権は人権のどこに位置づけられるのか、また一般的に人権と言われる他の具体的な権利とどう関連づけられるのか考えてみる。

 人権は個人と国家との関わりの中で、「広義の基本的人権」として自由権、参政権、社会権に分けられる(辻村 1994 p.18)。具体的には、自由権は国家からの自由(生命権、拷問されない権利など)社会権は国家による積極的給付(福祉・社会保障など)、参政権は国家への参加を意味する(樋口 1996 p.75-76)。ただ、参政権は限られた権利であるため、通常は「自由権的基本権と社会権的基本権とが、人権保障の二本柱たる地位を占めるようになっている」(田中成明 1994 p.164)。例えば、国際人権規約によれば、自由権規約は「即時にその内容を履行すべき義務を締約国が負っているのに対して」、社会権規約は「漸進的に達成」すればよいと、と定められ(宮崎編 1996 p.1-2)、自由権と社会権とを分けて考えている。すなわち、自由権に関しては即時に履行できるし、しなければならないのに対して、社会権は費用・人材や社会的条件を考慮に入れなければならず、「漸進的に達成」すればよいということである。

 以下では、このような自由権と社会権の二分法を基に論じてみたい。

 最初に、言語権の4つの定義を順に追ってみていきたい。

 第一に、「1.母語による帰属意識の尊重」についてだが、これは自由権に属すると考えられる。他者の母語を尊重せよ、ということだから、それぞれの個人や公的機関が自制すれば原理的に可能なことだ。ただ、個人(他者)が家庭などの私的な領域での母語習得を妨げることは実際にはできないだろうが、国家・公的機関が学校教育などにより母語に対して劣等意識を抱かせ、私的な領域などでも使いにくくさせる政策などは可能だ(注23)。しかし、現在では、このような強制的母語抑圧政策は認められないだろう。したがって、原理的には、私的な領域での母語習得の権利は個人や公的機関が自制すれば済むことで、特に費用・人材や設備などは必要ない。もちろん、個人対して、それぞれの母語の「尊重」を理解させるために、つまり「啓発」のために、マスメディアや教育などの手段を使い、費用・人材・設備がかかることがあるかもしれないが、通常人権侵害をするのは国家が多いわけなのだから、原理的に国家・公的機関は余計なことさえしなければそれで充分だろう。しかし、異言語話者間のコミュニケーションにおいては何らかの共通語を使わざるを得ず、多くの場合、少数言語話者は不利になる可能性が高くなるのは事実だ。ただ、すくなくとも「共通語合意原則」(詳しくは第3章3節を参照)は必要である。

 第二に、「2.公教育における母語による学習、及び母語の学習の権利」は社会権に関わる。「公教育」という点で、国家の役割となり、当然社会権の一つとなる。これは費用・人材や社会的整備が必要な「社会権的言語権」と言ってもよかろう。特に言語権の主張できる主体を最大限に広く考えると(第3章1節参照)、例えば定住外国人児童などの母語も考慮に入れると、莫大な費用・人材がかかることは明白だ。例えば、「国際人流」編集局(1998)によれば、1997年9月現在、日本に在住している外国人児童・生徒の母語は53言語にのぼるという。国家として、この53の母語を保障すること、つまり、母語の教育、母語による教育を行うことは事実上無理だろう。また「多文化主義」の歴史のあるオーストラリアにおいても、「100か国以上からの移民・難民が流入しているため」「コスト」や「教育者の不足」から、「多言語教育の掛け声は大きくない」という(関根 1998)。

 第三に、「3.母語の公的使用の権利」に関してだが、当然社会権の領域となる。公的領域である学校、軍隊、法廷、官庁などで、国家内に存在するすべての少数者の母語使用を認めることは容易なことではない。具体的方法としては公務員に様々な外国語を習得させたり、通訳者を準備することなどになるが、特に費用・人材の観点から困難なことである。国家への請求権である社会権的性格が強いと言える。

 最後に「4.居住国の公用語学習の権利」だが、これも社会権の領域となる。具体的には学校教育や社会教育の中での公用語非母語話者(一般的には少数者)に対する公用語教育ということになる。そのような教育課程をつくることは国家側の義務であり、社会権的性格が強いと言える。

 以上のように、言語権は、私的な領域では自由権的性格、公的な領域では社会権的性格が強いと言える。しかし、第2章1節のBで述べたように、私的(自由権)・公的(社会権)では簡単に捉えられない領域、例えば、マスコミ、商業分野などもある。一般的には自由権の領域と考えられているが、多数者の言語が使われれば、少数者には明らかに不利だ。したがって、それらの領域は言語権の観点からは、社会権と位置づけ、国家によるある程度の規制が必要であると思われる。

 次に言語権と関わりのある具体的な権利ついて考えてみる。人間の行動はすべて言語とかかわると言えば、言語権はすべての権利に関係していることになってしまうが、特に言語に関わると思われる具体的な人権を明示したい。世界人権宣言に列挙されてある権利を例にとると、自由権と言われている逮捕や裁判に関する権利、意見及び表現の自由、参政権(世界人権宣言では「参政権」は自由権と考えられている)、そして、社会権と言われている教育の権利、文化的権利などが言語権と深いつながりがあると言えるだろう。

 以上、人権における言語権の位置を考えてみたが、「自由権的言語権」と「社会権的言語権」の違いが明白になったと思われる。すなわち、言語権定義の1は前者にあたり、2、3、4は後者にあたる。「自由権的言語権」の侵害は、原理的に個人や国家の自制により、防ぐことが可能なのに対して、「社会権的言語権」は国家側の費用・人材・社会的条件が必要である。つまり、「社会権的言語権」をどのように保障していくかが、重要な課題であると言えよう。もちろん、費用・人材が必要だから、社会権的人権は保障されなくても構わないということではない。事実、通常、社会権が保障されにくい外国人に対しても保障をおこなっている国家も存在する。例えば、スリランカなどでは「一人あたりの国民所得が、日本の五○分の一にも達していない」のに、「外国人の無償医療がおこなわれている」(中村 1994 p.56)という。また、スウェーデンでは在住外国人に対して、「複数言語による情報提供」「通訳使用申請権」「スウェーデン語学習機会の提供」「在住外国人児童への母国語学習機会の提供」が制度的保障として存在するという(岡沢 1991 p.108-109)。このような政策は歓迎すべきものであり、費用・人材の観点から困難な社会的人権であっても、かなりの程度実現できることを示している。


2節 言語権の歴史(→目次へ)

 この節ではSkutnabb-Kangas(1994a p.72-79)の内容を中心にして、言語権の歴史について概略したい。

 Skutnabb-Kangasは、特に教育における言語権の歴史が重要であると述べている。というのは、多数者よりも少数者の子どもたちに対してこそ言語権が緊急に必要で、さらには、多くの場合、公教育において少数者の言語を守り、発展させる役割が求められているからだ(Skutnabb-Kangas 1994a p.72)。公教育において母語を使ったために精神的、肉体的に罰を与えられることあった(田中克彦 1981 p.118-121)し、現在でも行われているという(Skutnabb-Kangas 1994a p.72)。すなわち、多数者の言語を教育言語とすることにより少数者の子どもたちは同化を強制させられ、帰属意識を失わせられるということだ。

 言語権の歴史は人権の歴史と当然に関連している。したがって、人権の歴史も多少とも関連づけて考える必要がある。しかし、人権の歴史も決して古いものとは言えず、近代以降発展してきたものだ。また、人権は今は南北問題や民主主義の世界的促進の問題とも関係している。さらに、現在は人権が政治の道具になってしまっており(武者小路 1996 p.162-164)、これによって概念の混乱やあいまいさが生じている。そのため、人権の問題が言語権に対しても影響を与えることも考えられる。

 今までは「実定法上の制度として、人権の保障は、伝統的な国際法のとりあつかう事項の外にあ」り、「国内の人権問題は内政不干渉の原則によって多国の関心外におかれ」ていたし、また「国際法の主体はあくまでそれぞれの主権国家であって、個人は法主体として登場していなかった」(樋口 1996 p.107)。つまり、「普遍的」人権というのが認められておらず、ある国家内で人権の侵害があったとしても、他の国家は何も為し得なかったということである。実際、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも、少数者のための権利の条項は具体的には存在しなかった(Skutnabb-Kangas 1994a p.73)。

 以下、Skutnabb-Kangas(1994a p.72-79)に従い、5つの時期に分類して、言語権の歴史を概観してみたい。


@第1期(〜1815)(→目次へ)

 1815年以前には、いわゆる国際条約とは言えない、二国間相互の合意に基く、言語に関する権利の記された条約が存在したが、少数者に関する権利条項は主に言語的少数者ではなく宗教的少数者に関するものだった。

 一つの言語を国家内の他の言語話者にも使わせようという考えは、15世紀後半のスペインに起こったのが最初と言われている。それは近代ヨーロッパが作られていく過程のことであり、国内的には「同質性」、国外的には「拡張性」の道具として言語を利用した。また、「一つの国家、一つの民族、一つの言語」という思想の基に、言語が広められ、帝国とともに広まった。

 フランス革命時には、フランス語を母語とする人たちは半数以下だったが、市民権という名のものに排他的にフランス語が広められた。また言語の賛美というイデオロギーがあり、逆に地方の言語を馬鹿にして無視した。その信念はギリシアまで溯ることができる。

(以上の記述はSkutnabb-Kangas(1994a p.74)を基にした。)

 Fettes(1997 p.182)によれば、近代国家成立には必ず言語差別が起こり、それが近代化の一つの特徴だという。つまり、一言語主義の基に、他の言語が抑圧・無視されるということだ。ただ、フランスのような同化的な考えと、アイヌ人に対してのような無視、つまり異化的な隔離政策もあった(山本 1996 p.28)。第3章5節の@でも検討するが、同化・異化の両方に差別的な政策が起こるし、差別的な政策ではなくても、どちらかの方向で言語権を考えざるを得ないのは確かだ。


A第2期(1815〜第一次大戦)(→目次へ)

 第2期は、1815年のウィーン会議から始まる。そこで初めて宗教的ではない、民族的少数者の保護を含んだ重要な国際的な文書がつくられた。民族的少数者とは、すなわち言語的少数者も同時に意味する。

 しかし、当然のことながら世界的にみれば、19世紀は大抵の多国間の条約には民族的・言語的少数者の権利を認めていなかった。

 ただ、1867年のオーストリアの憲法には民族的少数者の保護を条項に含めるのもあった。そこには民族性や言語の維持・発展を保障する権利が明記されていた。

(以上の記述はSkutnabb-Kangas(1994a p.74-75)を基にした。)


B第3期(世界大戦の間)(→目次へ)

 第3期は、世界大戦の間の期間である。第一次大戦後、国際連盟が成立し、数々の主要な国際条約が作られた。また、国家の憲法(「ワイマール憲法」(1919)、「ロシア諸民族の権利の宣言」(1917))にも少数民族保護が謳われるようになった。もちろん、それが憲法などに明記されたからといって、必ずしも、完全に守られていたとは限らないが、すくなくとも少数民族の権利についての一つの認識の現れと言えよう。

 第一次大戦後の主要な平和条約は、国際連盟のもとに中欧・東欧の少数者の権利の保護を取り入れている。平和条約に関係した13か国のうちの人口のおよそ20パーセントがそれらの少数者にあたっていたという。それらの国際文書の多くはパリ条約から広まったが、言語的少数者の権利を守ることが具体的に明記されている。

 第一次大戦後の条約や国家の憲法に明記された、少数者の権利に関する内容は、私的・公的を含めたあらゆる場面での母語の使用権利、公用語が母語ではない少数者に対する裁判所での母語使用に関する設備の保障、少数言語話者がある程度いる地域では小学校をつくる権利などである。以上は現在の言語権に近いような権利と言える。

 しかし、逆に少数者に自国民と同等の権利を与えない国(イギリス、フランス、アメリカ)なども存在した。

 以上の国際条約は国際連盟や国際司法裁判所に訴えることも可能にした。しかし、どこの国も国際的なレベルにおいて少数民族問題で圧力を受けたくなかった。したがって、国際連盟の枠内で普遍的な保護をするように提案する国(ラトビア、リトアニア、ポーランド 1922〜1934)もあったが、それは拒否された。

(以上の記述はSkutnabb-Kangas(1994a p.75-76)を基にした。)


C第4期(1945〜1970年代)(→目次へ)

 第4期は戦後から始まる。

 国際連合において、全人類の守るべき規範として人権が明文化された(世界人権宣言 1948年)。人権宣言の目的は、恣意的な不正義の行いから個人を守ることとなっている。あくまでも個人を基本にしたすべての人が対象であったため、とりたてて少数者のことまでは考えられなかった。第二次大戦のファシズムに対する人権の擁護という観点から、特に個人の人権が強調された。そのために、むしろ第一次大戦後よりも、少数者に対する関心は下がってしまったと言えよう。

 個人を基にした、人としての人権の範囲を十分に設定しようとした結果として、少数者の人権を疎かにすることになった。実際、少数者に関する特別な権利は必要ないとも考えられていた。このことは国連も認めているし、国連憲章・世界人権宣言にも具体的に少数者の権利に関して明記されていない。

(以上の記述はSkutnabb-Kangas(1994a p.77)を基にした。)


D第5期(1970年代〜)(→目次へ)

 第5期は、再び言語権を含む少数者の権利に関心が出てきた時期である。この時期には、少数者の権利とともに、具体的に言語に関する権利も明記されるようになってきた。いちばん多いのは国家の憲法であり、地域人権宣言(ヨーロッパ、アフリカ)などにも見られるようになったが、世界的レベルでは存在していない。ただ、世界的レベルの条約・宣言において、言語による差別を禁止するという表現は「ついでに」述べられていることがある。つまり、言語権は今だに限られたところでしか明記されていないということである。

 国連の枠組みにおける言語権の位置を以下に評価しておく。

1.言語的少数者の実質的な保護が必要と認めている。

2.現存する国際的文書に、教育における言語権が現れてきているのは、第二次世界大戦以来、30年間無視されてきた結果である。

3.今まで言語そのものが取り上げられなかった。つい最近になり、少数者の特徴として民族的、宗教的、言語的と言及されるようになった。

4.移民・難民・無国籍者・外国籍者という少数者は、いまだに少数者として認められていない。

(以上の記述はSkutnabb-Kangas(1994a p.77-79)を基にした。)

 1996年に「世界言語権宣言」(第2章1節の@を参照)として、言語権だけを具体的に明記した宣言が現れた。しかし、あくまでも民間の団体を行ったもので、今のところ国際社会では受け入れられてはいない。ただ、言語権の内容を詳細に明確に定義したという点では評価できるかもしれない。しかし、私見では、その必要性、実現性には疑問がある(詳しくは第3章4節、第4章参照)。


3節 国際人権規約における言語権(→目次へ)

 この節では、人権に関する国際文書の中でも最も重要と思われる、国際人権自由権規約27条を基に言語権について考えてみたい。

 国際人権規約の前身である世界人権宣言には、第2条に「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしに」(田畑編 1994を参照)とあるように、言語による差別を禁止している。しかし、抽象的かつ曖昧であり、また少数者という視点がまったく入っていない。その点で言語権の考え方をこの条文から読み取ることは難しい。世界人権宣言をより具体化したのが国際人権規約であり、自由権規約第27条に少数者の権利の一つとして言語権が明記されることになった(注24)

第27条 種族的、宗教的又は言語的少数民族が存在する国において、当該少数民族に属する者は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない。(田畑編 1994を参照)

 Phillipson(1994 p.15)は「消極的に言語に言及している」と批判し、積極的差別是正措置の重要性を訴え、さらに、Skutnabb-Kangas(1994a p.80)も、公教育における言語権が明記されていないことや、「〜否定されない」という消極的な表現から第27条に厳しい評価を下している。

 ところで、第27条に「少数民族」という用語が出てきているが、苑原(宮崎編 1996 p.261 苑原執筆)は「民族(種族)としてばかりでなく、言語または宗教の側面で他の者と区別される特徴を有する集団にも、本条が適用される。その意味で、日本政府訳が少数者を「少数民族」と訳しているのは、適切でない」とし、さらに、この「少数者」に「自由権規約委員会の外国人の地位に関する一般意見15」(日本弁護士連合会編 1997 p.428-431)を根拠に「外国人を除外する必然性はない」と述べている。つまり、この第27条の少数者にはかなり広い範囲まで含まれると考えてよかろう。具体的には、先住民族、少数民族、外国人(移住労働者、短期滞在者など)などが含まれる。

 さらに、第27条の「自由権規約委員会の一般的意見23」(日本弁護士連合会編 1997 p.452-455)によれば、「この権利は少数民族の集団が自己の文化、言語又は宗教を維持する能力にも依存している。したがって、少数民族の同一性を保護し、かつ、この少数民族の構成員が他の構成員とともに自己の文化及び言語を享有し発展させ、また自己の宗教を実践する権利を保護するための締約国による積極的措置もまた必要である」とあるように、集団性、積極的差別是正措置の必要性も認めている。

 以上の点を考えると、今のところ、第27条はかなりの効力を発揮でき、意義があるものと考えられるのではないだろうか。文字通り解釈すれば、少数者を保護するには不十分というPhillipsonやSkutnabb-Kangasの批判もはずれてはいないが、「自由権規約委員会の一般的意見15、23」を根拠にすれば、運用レベルにおいて、様々な措置が考えられる(注25)

 言語権を明文化している国は僅かであるし、たいていの国は自国の少数者の権利を認めたがらない(注26)。したがって、国際的に効果のある条約を明確化し、各国が守らなければならない状況をつくっていくほうが、より具体的で現実的であると言える。確かに言語権は社会権的性格が強く(第2章1節のF参照)、実際に実施することは、国家にとって費用・人材の点で困難なことである。しかし、人権思想が認められた現在、少数者の権利を保護していくことは無視できないことである。この自由権規約27条を活用し、国際的な圧力や個人通報制度(注27)などにより、言語権を実現させていくことが望ましいのではないか、そして具体的な訴訟などによって、言語権がより明確になっていくことだろう。


4節 言語権に対する批判(→目次へ)

 この節では、人権に対する一般的な批判をおおまかに取り上げ、その次に言語権の固有性から生まれる批判に関して考えてみたい。

 言語権は人権の一つと考えられているために、人権そのものに対する批判も、ある程度議論に中に組み込む必要があると思われる。ただ、ここでは深く入り込まずに、一般的な批判を概観しておきたい。


@人権そのものに対する批判(→目次へ)

 辻村(1994 p.22-25)は「人権批判論の歴史的展開」として「保守主義・功利主義からの批判論」「マルクスとマルクス主義からの批判論」「人権主体論に関するフェミニズムからの批判」と三つに分けて論じている。まずは、この辻村の議論を紹介したい。  第一に「保守主義・功利主義からの批判論」であるが、辻村によれば、「バークの伝統主義的批判は」「1789年宣言の形而上学的性格、非現実性を攻撃した」。また「功利主義の立場からなされたベンサム(J.Benthem)の批判では、自然権論の否定がより明確にされ」「すべての権利は実定法によって生じるものであり、自然権の存在や社会契約の理論自体がフィクションであるとして、人権宣言に対し痛烈な批判をあびせた」。さらに「ドゥ・メストル」は「摂理主義」から「1795年の憲法」を「単なる抽象であり、理想的な仮説にしたがって空論を振り回すためにつくられたスコラ学的な所産にすぎない」と批判した、という(辻村 1994 p.22-23)。

 以上の批判は「近代的人権の自然権的・形而上学的性格に対する批判」であるが、もちろん近代的人権は歴史的に獲得されたものであり、少なくとも「生まれながらにもっているもの」では決してない。ただ、歴史的に生まれたその人権理念・思想内容の妥当性を考えずに、単に抽象的であるから、非現実的であるからという理由だけで、切り捨てることはできない。また、実定法として成文化されていなくとも、実定法は時代とともに変わっていくものであり、また、その人権理念を背景的・道徳的権利として、実定法を変えていくものだ。現実化されないからと言って、その理念の内容自体に妥当性がないとは言い切れない。

 第二の「マルクスとマルクス主義からの批判論」は「私的所有権を中核とする人権の抽象性・欺瞞性」(辻村 1994 p.24)に対する批判であるが、これは国際人権規約に見られるように、すでに「社会権的人権」も同時に人権の一つと考えているために、この批判はすでにあたらなくなっていると考えてよかろう。

 第三の「人権主体論に関するフェミニズムからの批判」は「近代的人権の主体が男性(オム=ブルジョワ)に限られたこと」に対する批判である。また「現代では、フェミニズムからの女性の人権排除に対する批判や、先住民族・障害者など社会的弱者の人権排除に関して「人権の普遍性」論を批判する議論が強い」(辻村 1994 p.25)という。つまりこの議論は「すべての人」が人権をもっているといっても、実際に享受しているのは強者である、ということだ。これは現実の問題と理念の問題とが一緒になってしまっている。現実の状況から人権理念の内容を批判するのは、本末転倒である。人権理念が普遍的なものであるなら、むしろ人権理念の方から現実の状況を批判すべきである。すなわち、弱者に人権がないことを批判すべきである。

 つぎに樋口(1996 p.46-73)の人権に対する批判の議論を紹介したい。樋口は、辻村が挙げた批判以外にも、「強い個人への疑問」と「文化相対主義からの批判」の二つを述べている。

 第一に「強い個人への疑問」(樋口 1996 p.50)を取り上げる。「強い個人への疑問」を、さらに樋口は「「強い個人」の自己決定にホントに従ってよいのか」という問題と「自己決定できない弱い者は「人権」の主体でなくなるではないか、という問題」の二つにわけている(樋口 1996 p.55)。

 前者の「自己決定」に関して、樋口(1996 p.57-58)は「近代法は」「諸個人の意思の自立と自律、すなわち意思主義(voluntarism)を原則とする」が、また「人間の意思によって左右されてはならない個人の尊厳という価値を、その倫理的前提としてもいる。」「そして、この、個人の自己決定という形式と、個人の尊厳の不可変更性という実質価値内容の、緊張にみちた複合が、人権と呼ばれるものだったのである」と説く。つまり、「自己決定」を前提としながらも、それができない状況や許されないと考えられる場合などがあり、かなりの矛盾が含んでいるということだ。ここでは詳しくは触れないが、「自己決定権」に対する疑問が高まっているのは事実である(注28)(第3章6節のAでも「自己決定」について少し取り上げる)。

 後者の「弱者の人権」についてだが、樋口は「強者に「なった」弱者ではなくとも、強者であろうとする弱者、という擬制のうえに、「人」権主体は成り立つのである」(樋口 1996 p.64)と述べて、人権はフィクションの上に成立しているという。つまり、弱者の人権はどうするのか、という問題によって人権理念そのものは否定される根拠にならず、あくまで、自由意思をもって、自己決定できる個人としての人間観を原則として、その上で弱者の人権も考えていこうというものだ。

 第二に「文化相対主義からの批判」だが、それを樋口(1996 p.65)は「「人権」は普遍性を自称しているが、実は西洋近代という、時間的にも空間的にも限られた特定の文化の所産でしかないはずだ、それを世界中に押しつけようとするのはやめてくれ、という声である」とまとめ、そして「第三世界の強権的統治者や将軍は、自分たちの力の支配を正当化するための居直りの言説として、この論法を好んできた」という。彼らは西洋中心主義に対してのみ「相違への権利」を主張し、「自分自身の共同体内部での「相違」は、端的に禁圧されることが多い」(樋口 1996 p.67-68)。そして、最後に樋口(1996 p.68)は「わたしたちはもはや、単純に西洋近代をモデルとして想定された普遍主義の立場をとることはできない。しかしまた、人権に関するかぎり、単純な文化相対主義に助けを求めることもできない」と結んでいる。


A言語権に対する批判(→目次へ)

 以下では、言語権に関する批判をいくつか取り上げ、考察してみたい。すでに人権に関する批判はとりあげているので、言語の固有性による批判と新しい権利という観点からの批判を中心に考えてみたい。

 言語そのものの問題として、言語現象の複雑性が挙げられる。田中春美(田中春美他 1975 p.3 田中執筆)は「人間のさまざまな活動のうちで最も複雑で不可思議なものは、おそらく言語活動と言ってよい」と述べているように、言語活動の複雑さは計り知れない。これは突き詰めれば、言語は人間にとって何か、という本質的な問いになってしまい(第3章6節でも少し取り上げる)、ここで詳細に論じることはできない。ただ、少なくとも言えることは、言語を一義的に定義したり、説明したりすることは困難であり、それが言語権の定義にも大きく影響を与えるということである。厳密に定義すればするほど、例外で出る可能性が高く、言語権の有効性が落ちてしまう。

 言語の複雑性を生み出すこととして、以下のことが挙げられる。

 第一に、言語は社会的なものであるために、個々の社会によってかなり異なる状況が存在する(シュリーベン=ランゲ 1996 p.20-25)。そのような状況で言語権のような普遍的な原則を明確に定義することができるか、という問題がある。

 第二に、一つの言語とは何かという問題が存在する。それは同時に一つの言語共同体とは何かという問題と同じだと考えていいが、実際、それを定義するのは難しい。一つには言語・方言の問題と、もう一つは言語領域の問題がある。前者は言語の内的構造によって、たとえ区別できたとしても、じっさい言語は社会的なもので政治的な要因が強く働くことが多く(田中克彦 1981 p.2-24)、その区別は意味がない。後者は同じ言語共同体内でも、使用領域によって、異なる言語変種を使用するという問題であり、一体どれを一つの言語と呼ぶのかという問題である。

 このような複雑な言語を果して一つの普遍的な人権として考えることができるのか、という批判がある。つまりは、結局言語権を定義しようとする概念の曖昧さの問題に尽きる。たとえば「母語」(第2章1節のAで一応の定義を試みたが、必ず例外があるはずだ)「少数者」「言語集団・共同体」などの用語を定義するのは困難である。厳密に定義すると具体的な事例を排除することにもなりかねない。実定法のレベルでは厳密さは必要かもしれないが、言語権を背景的権利(第3章4節を参照)と考えれば、ある程度の曖昧さはやむを得ないだろうし、むしろ個々の状況に合わせられるという点で望ましいと言える。そのような点から考えれば、用語が厳密ではないというのは致命的な批判にはならない。他の権利などと同様に、完全な正確さは期待できないことだ。むしろ、大まかな内容を決めておいて、個々の地域や場合によって、具体的な訴訟などを通じて、具体的に決めていく以外ないのではなかろうか。ただ「世界言語権宣言」(第2章1節の@)はかなり詳しく、様々な場合を考えていて厳密に定義しようと試み、その点においてはかなり成功していると思われる。しかし、その必要性、実現性には疑問がある(詳しくは第3章4節、第4章参照)。

 最後に新しい権利の生成という観点からの批判が可能である。

 「人権保障の拡大や新しい人権の主張によるいわゆる「人権のインフレ」・「人権の氾濫」がいわれるなかで」「人権概念の質的限定」と「人権概念の量的拡張」をめざす立場がある(辻村 1994 p.13,19)。前者は「人権の概念を本来の自然権的権利に限定しよう」とするもので、自由権優先の考え方と言えるが、後者は社会権や、より新しい環境権なども人権概念にとりこもうとする考えだ。言語権の考えは後者に近い。したがって、「人権のインフレ」・「人権の氾濫」を批判する立場からは、「新しい」言語権を普遍的人権の一つとすることに批判もできるかもしれない。また、言語権は社会権的性格が強いという点で、本来の自由権的人権からは離れたものと言える。しかし、通常言語権を擁護する言語本質主義的立場(第3章6節を参照)に立てば、言語はそれぞれの人間と密接に結びついているもので、簡単に切り離せるものではないと考えられる。その点で、そもそも言語権は自由権を出発点にしているとも言える。つまり、もともと自由権の中に存在したものを取り出したということだ。したがって、たとえ「人権概念の質的限定」を目指したところで、言語権は振り落とされてしまうものではない。確かに言語権は社会権的性格がかなり強いが、それは言語権の自由権的性格を補うものとして機能するもので、社会権性が言語権の本質ではない。また、「人権概念の質的限定」を目指す立場でも社会権自体を全く否定するものではないはずだ。ただ、言語権に関しても、二つの方向があり得る。ひとつは自由権の枠の中で、言語権を限定し、例えば自由権規約27条の解釈の中で保障していく方向(「自由権」といっても「社会権」的性格が強いものだが)、もう一つはまったく新しい人権の一つとして言語権を位置づけることだ。後者は「世界言語権宣言」のように独立した権利を目指すものと思われる(その証拠に「linguistic right」という言葉を使っている )。私見では、第2章3節で述べたように、第27条の解釈のレベルで、かなりの程度言語権が保障されるのではないかと考えるため、とりたてて言語権を「新しい」人権として位置づける必要はないかと思われる。




第3章 言語権の理論的考察(→目次へ)

 第3章では、第2章で残った問題点と、新たに権利論や多文化主義などの概念を援用しながら、考察していきたい。


1節 権利主体(→目次へ)

 言語権が普遍的人権の一つであり、権利の個人性を重視する立場(第3章5節のA参照)からすれば、言語権は原理的には当然すべての人間にあると主張すべきである。しかし、実際に言語権を侵害され、主張せざるを得ない状況に至るのは少数者であり、多数者が主張することはめったにない。確かに多数者が主張する「相違への権利」も存在するが、それは「異化」的な差別の主張となっている(梶田 1993 p.172-174)。

 ここでは、現実問題としてその言語権を侵害されやすい少数者、つまり言語権の権利主体に関して具体的に考察してみたい。したがって、原理・原則的な考察よりも、実定法や解釈の問題(第3章4節で述べる「法的・具体的権利」の問題)に近づくが、言語権の問題を考える上では、侵害されやすい少数者を考察しないわけにはいかないので、取り上げることにした。

 少数者と一口に言っても、様々であり、その相違を明確にしなければ、言語権に関する議論も混乱してしまう。そのため、個別的に考えていくことも、ある程度は必要である。実際に少数者によって言語権の侵害される程度が違うし、少数者側でも言語・文化に対する意識や態度が大幅に異なることも多い。例えば、多文化主義が実現したカナダでは、「インディアン、アボリジニーなどの先住民族が、この多文化主義政策に必ずしも賛成していない」という(梶田 1993 p.147-148)。また、ヨーロッパにおいて、「各地域・民族の文化や言語が尊重され、少数民族の自己主張が容易になるにつれて」、「外国人労働者や移民・難民の問題」も取り上げられるようになっているという(梶田 1993 p.128)。さらに短期滞在者の外国人の言語権も完全に保障すべきであるか、という問題も出てくる。このように少数者同士の考え方の違いや権利主体をどこまで認めるかという問題が存在する。

 Phillipson(1994 p.13-14)は、おおかた以下の順に言語権が認められると述べている。国家のある多数者、国家内の少数民族、先住民族、移民・難民、旅行者の順である。ごくおおまかに言えば、定住度の高いほうが権利が主張しやすいということになる。

 以下に具体的に言語権の侵害されやすい少数者をそれぞれに考えてみたい。


@先住民(→目次へ)

 先住民とは、文字通り解釈すれば、ある土地に最初から居住している集団を指すが、現代ではどちらかと言えば、後からきた移住者により征服されたりして、一種の少数者にさせられてしまった集団と考えられている。世界中に先住民はいるが、後からきた集団により少数者にさせられた点で、特にアメリカ先住民やオーストラリアのアボリジニなどは顕著な例と言える。歴史的にみれば、あとから来た集団により、多くの場合、同化政策、または隔離政策がとられたものと見られる。

 国際労働機関では、1956年に「母語から当該国の国語または公用語に漸進的に移行する措置をとることが規定された」が、「これは「統合=進歩・発展」という当時のイデオロギー」が前提とされていたと言えよう。しかし、その後、1970年代に入ると「統合に代わり、先住民族の伝統、文化、制度などの存続が必要と主張されるようになった」という(柳下 1993 p.3-4)。さらに1989年には「独立国における先住民及び種族に関する条約(先住民条約)」が採択された。そこには「初期の基準の同化主義的傾向を除去する」と明記されている。すなわち、現在では、先住民に対する同化的政策のイデオロギーは破綻していると考えてよいだろう。

 ところで、言語権の問題であるが、「先住民条約」によれば「児童の教育」(第28条)において「先住民語又はその属する集団によって最もひろく用いられている言語」と「国語又は国の公用語の一つ」が重視されている点を考えれば、言語権の定義の「3.母語の公的使用の権利」「4.居住国の公用語学習の権利」と同様な考え方をしている。

 先住民の言語にしても、すでに母語話者がほとんどいなくなっているようなアイヌ語のような言語(中川 1997 p.60)や、「一定の地域では」「行政・法廷などで」「用を足すことができるという権利を得」たサーミ語のような言語(庄司 1996 p.23)もある。ここでは、その相違の理由に触れることはしないが、言語権の観点からみた場合、言語権を主張されるべき言語とは何か、という問題に関わってくる(第2章1節のA参照)。アイヌ人の場合、すでに日本語を母語として、アイヌ語は第二言語で学習している人が多い。もちろん、アイヌ語が「死語」になりつつあるのは、歴史的な日本政府の隔離・同化政策が大きな影響があったはずだが、現在、母語話者がほとんどいない以上、普遍的な人権としての言語権をどう主張すべきか、これからの課題となる。私的な領域で、つまり自由権的言語権において、第二言語としてアイヌ語を学ぶことは、まったくの自由意思によって構わないが、社会権的言語権を要求する上では、起源母語ではない言語、つまり帰属意識母語(「祖語」)になるわけであるが、どこまで要求できるか、認められるか、これからの課題となろう。第2章1節のAで述べた「自己選択言語」という発想も考慮に入れて考えていく可能性もある。


A少数民族(→目次へ)

 すでに述べた「先住民」と「少数民族」との区別は明確にはできないが、ここでは、「少数民族」とは、同時期に多数民族と共存したり、多数民族の居住地域の拡大や国境の変更などにより、少数者になった民族集団としてとらえる。また、特に多数民族のいない国家内の複数の少数民族なども考えられる。

 先住民と同じように、近代国家成立とともに少数民族も国家の中で同化・隔離主義のイデオロギーにより、差別された。しかし、現在では先住民の場合と同様、そのイデオロギーは破綻したと考えてよかろう。

 少数民族の言語に関しても、世界中で様々な言語政策があり、様々な取り扱いが行われているが、言語権の観点から言えば、先住民同様「祖語の復活」や「母語」の維持が考えられる。

 移民がいつから「少数民族」になるかは、また困難な問題である。また、地域のもたないロムのロマニー語を言語権の観点からどう扱うかの問題がある(Phillipson 1994 p.13)。これは地域を持たないエスペラントなどと同様の問題である。


B移民・難民(→目次へ)

 ここで言う「移民」とは、アメリカのように近代において移民によって国ができたものと違い、現代になって、特に「新しい民族問題」(梶田 1993 p.127)と呼ばれるものに近い。また「難民」とは政治難民も経済難民も含んで考えてよかろう。いわゆるグローバル化により、人の国際的移動が頻繁に行われるようになり、異言語話者が同言語話者間に定住することが増えてきている。それにより、言語権の問題も出てきている。

 移民や経済難民の場合は、自らの意思で入国しているものも多く、例えばカナダの「ドイツ系、ウクライナ系、ユダヤ系といった新移民」は「英語に同化していた」というし、「ビジネス移民」は「一定の資産と高い学歴とを有し」「英語を理解するため言語的には障害は少な」く「英語への同化に対してはそれほど抵抗を感じて」いないという(梶田 1993 p.131-133)。しかし、先進国の移民としての「外国人労働者」問題は深刻である。特に高度経済成長期に労働力として外国人を必要とした背景があり、ある程度の経済成長後に外国人を必要としなくなった時に、定住化の問題が噴出してくる。特にその移民者の児童の言語権は疎かになりがちだ。


C外国人(→目次へ)

 ここで考える外国人とは存在する国の国籍がない人を指すが、一口に外国人といっても、その種類は様々である。例えば、単なる旅行者から長期滞在者まで、定住度・定住方法・定住目的などにより、かなりの違いがみられる。また、例えば日本国家によって外国人にさせられた在日韓国・朝鮮人なども、日本人と変わらぬ生活をしていながら、外国籍をもつ外国人である。外国人という言葉では決してひとくくりにできない。しかし、少なくとも外国籍であるという点で共通性があり、そのために法的な差別待遇を受けることが多々ある。また、すでに述べた「移民・難民」もこちらのグループに入るものもあり、その区別は可変的である。

 一般的に外国人の定住度によって、権利の主張のしやすさ、保障のされやすさが変わってくると考えられる。すなわち、定住外国人がいちばんその人権主張がしやすいし、実際保障されているだろう。ただ、言語権の観点から考えると、外国籍であること=居住国の公用語ができない、とは言えないので、問題を複雑にしている。

 一般的な外国人の人権問題は一つの論点となるので、まずそれを述べて、その後で外国人の言語権に関して考えてみたい。

 まず、国際人権規約の観点から外国人の人権を考えてみよう。国際人権自由権規約委員会が採択した一般的意見15によると(日本弁護士連合会編 1997 p.429-430)「一般的に言って、規約に規定された権利は、相互保障の有無や国籍の別にかかわらず、無国籍者を含むすべての人に適用される」ということで、当然外国籍者に関しても同様のことが言えると考えてよかろう。特に自由権(参政権は含まれない)に関しては、国家に高い人権尊重意識さえあれば十分に適用できる。しかし、それに比べて社会権は費用・人材の観点から完全保障が困難であり、特に税金を払っていない旅行者まで国家予算で社会権を保障しようとすることに対しては異論があって当然だ。しかし、宮崎編(1996 p.257 升味佐江子執筆)によれば「本来社会権規約の対象となる社会保障などの権利についても、いったん法律が制定された以上その内容においても適用においても、差別は禁じられる」としている。つまり、法律が制定されれば、社会権保障は外国人にも及ぶということになる。ただ、これは年金支給額などを問題にしており、言語権まで考えに及んでいるとは考えられない。実際には社会権は一つの努力目標であり、法律を制定する努力をすればよいということだから、実際にすべての社会権の内容がすべての外国人に対して実現することは容易なことではないだろう。

 さて、次に外国人の言語権の考察に移るが、自由権的言語権(「1.母語による帰属意識の尊重」)に関しては国家が関わる必要は少なく問題はないが、社会権的言語権(「2.公教育における母語による学習、及び母語の学習の権利」「3.母語の公的使用の権利」「4.居住国の公用語学習の権利」)は、外国人にまでその保障を認めるかどうかについては議論がわかれる。公用語学習に関しては、その公用語のみを使う直接法のよう外国語教授法で教育するなら可能であろうが、定義4の補足として明記してある「全教育課程で公用語を第二言語として二言語話者の教師から教わる権利」を実現するのは難しい。すべての異なる外国人児童それぞれに二言語話者の教師をつけることは極めて困難だ。

 また、例えば公的な領域ですべての外国人の言語の使用を保障することも困難だ。確かに刑事裁判において自由権規約14条3項(a)(f)や日本の刑事訴訟法175条には、外国人に対して通訳者をつけることが明記されているが、すでに述べたように(第2章1のA)、日本の判例(『判例六法』1998 p.1226)によれば、「母国語」(筆者注:母語も含むと理解する)でなくても、「理解する言語」で充分であり、また「日本語を用いさせるか、外国語を用いさせ通訳を介するかを決定するのは、専ら裁判所の訴訟指揮権に属する」としている。つまり裁判所で用いる言語は自分では選べないということだ。もちろん、自分の選んだ母語で裁判を進めることが望ましいが、世界中のすべての言語を、裁判所を含めた公的機関で使えるようにすることを義務づけることは困難と言えよう。

 以上のように外国人に対してまで、すべての言語権の保障は困難だが、ある程度実現している国家も存在する。第2章1節のFですでに述べたように、スウェーデンでは在住外国人に対して「複数言語による情報提供」「通訳使用申請権」「スウェーデン語学習機会の提供」「在住外国人児童への母国語学習機会の提供」が制度的保障として存在するという(岡沢 1991 p.108-109)。また、スウェーデンでは、在住外国人の子供に対して三種類のプログラムがあり、一つはスウェーデン人と一緒に第一言語として教育を受けるもの(もちろん、すでに、ある程度スウェーデン語ができなくてはならない)で、二つ目は「移行型バイリンガル教育の伝統的な同化モデル」と言われ、スウェーデン語での教育と母語での教育を平行して進めて、徐々に母語での教育を減らしていくもので、三つ目は主に母語で教育を行い、スウェーデン語はあくまでも第二言語とするものだ(ロメイン 1997 p.276-277)。言語権を含めた外国人の社会権を保障するのはすべての国の義務とは言い難いが、少なくとも、スウェーデンのようにより多くの選択肢があることが理想と言えないであろうか。当然、このようなプログラムは外国人だけではなく、言語権の主体となりやすい少数者すべてに対しても十分に通用するものである。


D一般的・社会的少数者(→目次へ)

 ここでは、通常は言語権の対象にならないような少数者について考えてみる。

 ここで問題になる「言語」とは、例えば、児童、女性、老人、障害者、外国人などの言語についてだ。言語内の一つの変種(社会方言)として、一般的に幼児語、女性語、老人語というものが、どの言語でも認められている(真田共著 1992 p.69 陣内正敬執筆)。また、障害者の使う手話なども一つ言語と考えることもできる(田上共著 1983 p.212-215)。第2章1節のAで述べたように言語権が主張される時の言語を自己決定権を根拠に「自己選択言語」とし、言語変種も一つの言語とした場合に、その言語を使う権利と同時に、使わない権利も有り得るのではないか。例えば、女性語と呼ばれるものが日本語には存在するが、使いたくない女性もいるはずだし、実際使っていない女性もいるであろう。また、例えば外国人の使う日本語に対して、規範を押し付けたり、それを差別的に考える人もいる。そのような日本人に対して、外国人の日本語についての「第三の日本語教育」を提案する主張もある(杉戸 1995)。これは私的な場面に限られ、公的な場面では問題になることはないが、自己選択「言語」を使う・使わないは自己決定権の問題であり、社会的な差別は許されないと考えることもできるのではなかろうか。詳しくは論じることはできないが、このような言語変種も言語権の一部として議論することは可能であると考えられる。


E多数者の言語権(→目次へ)

 すでに述べたように(第3章1節)、多数者は多数者であるがゆえに、多数者自身の言語権が侵害されることは通常にはないと考えられるが、多数者側が「相違への権利」を主張することがある。ただ、これは差別的な異化の傾向(第3章5節の@を参照)ということができ、積極的差別是正措置に対する批判や少数者排除の主張がなされる(梶田 1993 p.172-174)。

 原理的には言語権は「普遍」的なものであるので、少数者・多数者にかかわりなく、すべての個人に認められるため、多数者の主張も一概に否定できるものではない。しかし、ここで考えねばならないのは、少数者抑圧の歴史性であり、少数者の権利は一般的に侵害されてきたという事実を見逃すわけにはいかない。また、少数者側も権利の集団性の強調は、かえって多数者側の反発を生む。したがって、以上のような多数者の主張に対しては、普遍的人権の一つである、言語権それ自体の主張よりも、むしろ抑圧された歴史性の強調のほうが有効に思われる。


2節 義務主体(→目次へ)

 権利はそれだけでは意味がなく、当然義務とともに考えなくてはならない。ここでは権利を保障しなければならない側である義務主体を考えたい。

 権利主体と同様に、ここでは原理論というよりも、実定法上の問題(第3章4節で述べる「法的・具体的権利」の問題)に近くなる。人権概念の生まれた歴史的過程を考えるなら、人権保障の義務は国家が役割を担うと考えられるが、当然私人もその中に入れることもできる。もちろん、義務を怠った私人に対する制裁は国家が行うものだが、義務主体となるのは私人と考えてよかろう。また、個人通報制度(第2章3節参照)などを含めて国家を超えた国際機関も義務主体と考えられる。


@国際機関(→目次へ)

 今のところ、国際社会において国家が独立した主権をもっているので、国際機関が人権や言語権の義務主体となることはありえない。しかし、次(第3章2節のA)で述べるように、国家主権が相対化されつつあるのも事実であり、国連や国際的な人権擁護の非政府組織などは義務主体とは言えないまでも、「監視」主体ということは言えるかもしれない。国家の人権侵害がいちばん権力性が強く防ぎにくいことを考えるなら、国家を超えた組織の役割もこれからますます重要になることだろう。


A国家(→目次へ)

 国家に関してであるが、人権理念(特に「自由権」)の考え方では、何よりも人権を守る義務をもっているのは国家である。国家が人権理念を理解して、実行していれば、自由権的人権の侵害は通常おこらない。なぜなら、自由権的人権は「国家からの自由」であって、それを守るためには国家が余計なことをしなければ、それで済むからだ。しかし、残念なことに自由権的人権に関しても強大な権力をもつ国家の侵害の事例は後を絶たない(注29)。しかし、今までは国家主権は、どこからも侵されることのない独立したものであったが、現在では、やや相対化される傾向にあり、特に国連を中心とした人権委員会の活動(注30)や非政府組織になどにより、国家に対する非難が行われるようになっている。国連の具体的な実施措置は、社会権規約においては政府報告制度、自由権規約においては政府報告制度、国家通報制度、個人通報制度などがある(注31)

 言語権に関しては、自由権的言語権を国家が侵害する例は、同化イデオロギーが破綻した現在、少なくなっているであろうし、実際に家族や私人間のコミュニケーション活動を国家が介入するということもあまりできないはずだ。しかし、具体的に言語を禁止するようなことはしないまでも、国家による強制移住(注32)や、言語や文化に関して、恥ずかしさを植え付ける教育(注33)などは可能で、それによって、自ら自分の言語を捨てるようになることもありうる。したがって、このような場合は国家を超えた機関による勧告・制裁などが必要となってくるであろう。

 また、言語権の場合は、国家が積極的差別是正措置などを行わなければ、少数言語が消滅してしまう可能性が高く、その点で現在では社会権的言語権の領域で国家の義務がより重要になってきていると言えるだろう。さらには、国家とは直接関係のない、中間領域である、例えば商業広告、マスコミなどの使用言語に関しても国家が積極的に少数言語を守る義務があると言えるだろう。


B地域行政(→目次へ)

 通常、人権は国家との関係の中で論じられることが多い(樋口 1996 p.35-41)が、言語権に限れば、地域によってかなり違う側面も現れてくる。特に社会権的言語権の場合は、国家レベルではなく地域レベルで異言語話者の数や種類に大きな隔たりが出て、国家政策とかなり違う側面が生じる。そのため義務主体として、国家とは違う地域行政の役割もあり得るのではなかろうか。また、言語権に関する地域の考えと国家のそれが食い違う例も存在する。有名なのはケベックの例であって、地域住民の意思決定が国家の憲法に反してしまった(テイラー 1996 p.73)。地域自治の在り方の問題になるが、一概には結論の出せないことだ。

 フィンランドにおいて、「授業における言語使用については」、フィンランド語とスウェーデン語の「いずれかの言語の話し手が少数者であって、総住民の10パーセント以上を構成し、5千人以上の数に達する地域は、小学校において、その少数者の言語による授業を開かねばならない」そうだ(田中克彦 1992 p.143)。これなどは地域性を生かした言語政策と言えよう。

 また、中央集権的な国家と地域分権型の連邦国家との国家による違いも考えねばならない問題の一つだろう。


C私人(→目次へ)

 人権は通常は国家と個人との関係で論じられるが(樋口 1996 p.35-41)、個々の私人の義務も無視はできない。国家に比べれば、その権力性ははるかに弱いが、当然私人が他の私人の人権を侵していいということはありえない。ただ、私人の場合は、行政的サービスなどの公的機関、つまり国家の役割をすることはありえないから、社会権的人権ではなく、自由権的人権の義務が出てくる。

 言語権に関して言えば、主に私的領域における母語使用の問題になる。同言語話者間のコミュニケーションにおいては、まったく問題がないが、異言語話者間のコミュニケーションにおいて、問題が起ってくる。すでに述べたように(第2章1節のB)、どんな言語を共通語とにしてコミュニケーションするかという問題である。すくなくとも、「共通語合意原則」(第3章3節参照)をお互いにまもる義務があると言える。ただ、これは実定法上の問題よりも背景的権利(第3章4節参照)に近くなると思われる。


D言語権侵害に対する制裁(→目次へ)

 現代世界は国家主権を基にしているため、国家を超えた権力機構は存在せず、国家が義務を遵守しない場合、国家を超えたものからの制裁はありえない。したがって、国家が義務を違反した場合に制裁を加える手段がない。しかしながら、ほとんどの場合、問題になるのは国家の人権侵害である。

 すでに述べたように(第3章2節のA)、現在では国家内の人権侵害を国家を超えて、国連に訴えることのできる制度がある(ただし批准している国のみ)。どこまで有効かは疑問の声もあるが(注34)、十分に可能性のあることで、評価できることだ。しかし、あくまで国家が行うような具体的・強制的な制裁ではなく、いわゆる国際的非難が中心である。

 自由権的言語権に関しては、国際的非難は十分可能であるが、社会権的言語権に関しては、非難しにくいという弱点がある。確かに、それは国家の義務であり、義務不履行には、制裁として国連や非政府組織を通した国際的非難などが考えられる。しかし、一般的な社会権同様、社会権的言語権に関しても、「漸進的に達成」(宮崎編 1996 p.2)すればよいとも考えられ、制裁と言える国際的非難も喚起しにくいとも言える。国家の役割が重要な言語権に関しては致命的である。もちろん、社会権的言語権の完全履行義務があるかどうかは疑問がある。となると、いまのところは、できる限り保証すべきだと主張することぐらいしかできない。ただ、すでに述べたように(第2章1節のF)、実際にかなりの程度実行している国家も存在していることを忘れてはならない。

 私人間の言語権侵害に関しては、通常、国家が制裁を加えるということが考えられる。しかし、自由権的言語権は、具体的権利(つまり、裁判に訴えて勝ち負けをはっきりさせる権利。第3章4節参照)とは言い難く、実際の私人の義務違反に関して国家が制裁を加えることは難しい。あくまで私人間で解決する道徳性の強いもので、どこまで実定法化する必要があるのか疑問が残る。


3節 手続的正義と実質的正義(→目次へ)

 「手続的正義」とは「決定に至るまでの手続過程に関するものであり、その決定の利害関係者の各要求に公正な手続にのっとって公平な配慮を払うことを要請」し、それに対して、「実質的正義」とは「決定の結果の内容的正当性に関する要請」をする。「従来、「目的は手段を正当化する」とか「結果よければすべてよし」などと言われ、「実質的正義」の実現の手段にすぎないとみられがちであった」が、「最近では、手続的正義の遵守自体が、その結果如何を問わず、別個独立の固有の価値をもつことが一般的に認められるようになっている」(田中成明 1994 p.185-186)。

 以上の「手続的正義」と「実質的正義」の観点から、言語権について考えてみたい。前者は私的コミュニケーションにおいて、後者は公的コミュニケーションにおいて、その性格が現れやすいが、両者とも言語権を考える上で重要である。私的コミュニケーションにおいては、第2章1節のDで述べた国際レベル・国家レベルの違いは見られないが、公的コミュニケーションにおいては、国際レベル・国家レベルにおいて違いがややみられるので、その考察も同時に行いたい。

 すでに述べたように(第2章1節のBを参照)、私的コミュニケーションにおいては、実質的正義よりも手続的正義の性格が強く現れる。すなわち、この問題は、異なった母語話者同士が私的にコミュニケーションする時に、言語権定義の「1.母語による帰属意識の尊重」から、すべての人の母語の尊重が重要と考えるなら、使用言語はどうすればいいのだろうか、という問題だ。コミュニケーション参加者内のある特定の人たちの母語だけが優遇されることは許されず、もし許されるなら、それは「言語差別」(第2章1節のBを参照)と言ってもよかろう。ここで一種の言語権の衝突が起こるといってもよい。しかし、言語によるコミュニケーションをしなければならない場合、何らかの共通語を使わざるを得ない。実質的正義の観点から、どんな共通語が望ましいと言えば、原理的にはコミュニケーション参加者の誰の母語でもない第三の言語または中立な人工語(例えば、エスペラントなど)が望ましいと言える。なぜなら、コミュニケーションの参加者の誰かの言語が共通語であれば、その共通語を母語とする参加者のみ有利になり、他の人たちは不利になるからだ。しかし、私的コミュニケーションにおいて、実質的正義により使用共通語を強制し、義務とすることは望ましいとは言えない。また、たとえ自分が不利になるといっても、自分の母語以外の言語を学んでみたい、使ってみたいという気持も当然あるわけで、使用共通語を「外から」決めることはできない。ただ、すくなくとも、コミュニケーションの参加者が自分の母語の使用を他の参加者に無理に押し付けるのは許されないと言えよう。そこで、異言語間コミュニケーションにおいて、共通語に関して、お互いの合意を得ようというのがすでに述べた(第2章1節のBを参照)「共通語合意原則」である。これは実質的正義ではなく手続的正義と言えよう。本多(1971)は自分の母語が話されていない国に行った時、そこの国の言語で「自分の母語ができますか」と聞くのが「最低限の礼儀」だと述べている。つまり、たとえ、おそらく相手は自分の母語または「通用度の高い」言語(注35)を使うに違いないと思ったとしても、まず共通語に関する合意を得るということだ。「言語差別」を避ける意味で重要な点である。

 しかし、参加者の合意という手続的正義には疑問がないわけでもない。それは、われわれは本当に「自由意思」によって合意して、共通語を選ぶことができるのか、という点だ。物理的・精神的強制力により、ある言語を使わせるのは論外だとしても、やむなく、ある共通語を選ばざるを得ないという状況が多いのは事実だ。国際レベルにおいては、現代ではその共通語とは英語だ。英語は確かに「通用度が高い」言語であり、異言語間コミュニケーションにおいて、共通語として最も使われている言語であろう。たとえ「共通語合意原則」を実践したとしても、やはり多くの人は英語を選ぶのではないだろうか。英語が共通語として使われれば、少なくとも英語母語話者が有利になり、「言語差別」が生まれるということは確認しなければならない。したがって、原理的な「共通語合意原則」という手続的正義で、現在の「言語差別」的状況が解消されることはない。各言語をまったく平等に選択できる状況ではなく、これだけ英語の通用度が高まった世界では、「共通語合意原則」を訴えても、実際にはほとんど意味がないのかもしれない。また国家レベルで考えてみても同じで、私的コミュニケーションにおいても、多数者側の言語を用いらざるを得ない状況が多いのではなかろうか。そう考えると、私的コミュニケーションにおいても、手続的正義だけでは不十分で中立言語・手段なども含めた実質的正義も、同時に視野にいれていくことも必要だろう。ただ、原理的には手続的正義の側面が強いことは事実だろう。

 それでは、公的なコミュニケーションにおいては、手続的正義と実質的正義はどう考えればよかろうか。公的なコミュニケーションの場合は、国際レベルと国家レベルで分けて考えたい。

 まず、国際レベルにおいてであるが、例えば国連などの公的国際機関における異言語間コミュニケーションはどう考えればいいのだろうか。多くの国が参加している国際機関では通常は幾つかの特定の公用語が決まっていて、それ以外の言語を使用する時は自前で通訳者を準備しなくてはならないことになっている(二木 1981 p.28-31)。実質的正義として共通語の在り方が決まっているということだ。しかし、国家主権平等原則、言語相対主義から考えれば、ある特定の言語だけが公用語として選ばれているのは、言語差別的状況と言える。言語の平等原則から考えれば、加盟国の母国語・母語でもない第三の言語、もしくはすべての加盟国の言語が公用語になることが原理的には望ましい。ほとんどの国家が参加している国連などでは、誰の母語でもない言語を公用語にすることは難しいが、例えば中立語・エスペラントなどの可能性も考えられなくもない。また、新しい中立言語の作成、機械翻訳システムなども将来可能性はある。手続的正義の観点から考えると、国連などにおいて大国に常任理事国という特権を与えず、すべての国が平等に話し合えることが望ましい。それを前提に公用語を決定したのであれば、手続的正義の観点のみからはすくなくとも妥当性があると言える。今の大国の政治力で決められた公用語よりは少しは「まし」と言えよう。

 次に国家レベルにおける国家語・公用語に関する言語に関してであるが、すでに述べたように(第2章1節のD)、国家の存在を否定できない現在、実質的正義として国家語・公用語を決めなくてはならない。国家語・公用語が母語ではない人たちにとっては「言語差別」が生じるが、言語権定義「4.居住国の公用語学習の権利」をできるだけ保障していくほかないだろう。旧宗主国の言語が公用語になってしまっている国や公用語がはっきり定められていない国などは、どのように公用語を制定しなおすか、制定するか、という手続的正義が重要になってくるだろう。


4節 背景的権利・法的権利・具体的権利(→目次へ)

 「佐藤は、「人権観念は、人間存在のあり方の複雑さに対応して、理念的な性格のものから具体的なものに至るまで、多様なものを包摂しており、法秩序(憲法典)に対して批判的視点をもっている」として、背景的権利、法的権利、具体的権利という三つのレベルに大別する。背景的権利とは、「それぞれの時代の人間存在にかかわる要請に応じて種々主張され」、法的権利を生み出す母体として機能する権利であり、法的権利としての人権とは、「主として憲法規定上根拠をもつ権利」のことであり、具体的権利としての人権は、「裁判所に対してその保護・救済を求め、法的強制措置の発動を請求しうる内実をもつまでに成熟し、かつ、とりわけ憲法の基本権体系と調和する形で、特定の条項に定礎せしめることができる」という状況ないし条件が整えば、「解釈を通じても憲法上の『法的権利』たる地位を取得することがありうる」として、「自己についての情報をコントロールする権利」としてのプライバシーの権利、「政府情報開示請求権」としての知る権利などについて、このような可能性を認めている」(田中成明 1994 p.166)。

 以上の佐藤による人権観念の三つのレベル分けを基にして、言語権について考えてみたい。

 言語権は人権の一部と考えられ、また、そのように主張もされている。しかし、言語権概念の考察や分析は始まったばかりで、まだ十分な議論がなされていない。また法的権利、具体的権利と考えられる実定法においても、きちんと明文化されているのは決して多いとは言えない。つまり、言語権は多くの人の同意を得ているかは疑わしい。したがって、現段階では、一般的に言って、言語権は、十分に広く支持されているとは言えず、「一部の人たち」が支持する背景的権利に留まった人権と言えよう。法的権利と考えられる国際人権規約のように条約の一つとして定まり、多くの国家が批准すれば、かなり効力を期待できるが、いまのところ言語権に関しては、それは未知数だ。

 確かに「世界言語権宣言」(第2章1節の@参照)が作成され、明確にしようという努力もなされている。それは一種の法的権利と言えよう。国際機関や国家による制裁はないが、具体的かつ詳細に提起されている点で、国際人権規約などと同様に法的権利を目指したものと考えてよかろう。しかし、言語権自体が社会権的な性格が強いという点で、「世界言語権宣言」にあらわれている事項をすべて守ろうとするのは困難であるし、各国に義務づけるのは難しい。そのため、現段階で国際社会がそれを受け入れることは難しいと思われる。また、ある意味では「世界言語権宣言」は具体的権利までを視野に入れて、実施を早急に目指してしまっており、それが説得力を生むかどうかも疑わしい。例えば、以下の条文などは、かなり具体的ですぐにでも訴訟を起こせるレベルではないだろうか。

世界言語権宣言

第45条

すべての言語共同体は、領域に固有の言語が、文化的行事・サービス(図書館、ビデオ・レンタル、映画館、劇場、博物館、公文書館、民間伝承、文化産業、他のすべての文化的生活の表現物)において優越した地位を占める権利を有する。

第46条

すべての言語共同体は、資料の収集物、芸術と建築の作品、歴史的建物、自分自身の言語による碑文などの物的表現物を含めた、自己の言語的、文化的遺産を保存する権利を有する。

 むしろ、言語権はすぐに具体的権利を目指すのではなく、背景的権利として、すでに述べた定義(第2章1節の@)のようなおおまかな基準を指し示すようにし、各地域で様々な議論や具体的な訴訟などを通じて、各地域の個別の具体的権利として明確化していったほうが、現実に即しているのではないだろうか。

 また、すでに述べたように(第2章3節)法的権利と考えられる国際人権自由権規約第27条の解釈により、かなり言語権の侵害が防げると思われる。したがって、わざわざ「世界言語権宣言」のように新たな権利として主張するよりも、国際人権規約の枠内で、主張していったほうが、実は具体的な言語権侵害に抵抗できるのではなかろうか。

 以上、佐藤の三つのレベルを基に考えてみた。言語権を現段階で「世界言語権宣言」のように法的・具体的権利として主張する必要性があるか疑問を呈しておきたい。むしろ、国際人権規約第27条や、すでに述べた言語権の定義レベルで、具体的な事例から訴訟を重ねっていったほうがよいと思われる。


5節 多文化・多言語主義の観点(→目次へ)

 ここでは、多文化主義の議論の中で、言語権の問題を考えてみたい。特に少数者集団の同化・異化の観点と個人的権利・集団的権利の観点から論じることにする。

 言語権に限って言えば、多文化主義は多言語主義と言い換えてもいい。ただ、多文化主義よりも多言語主義のほうが国家の政策として行った場合、「コスト」や「教育者の不足」から実施が難しいと考えられる(関根 1998)。また、多文化主義はその内容が一義的に決められず(注36)、言語権同様に曖昧に使われることもある。


@同化・異化の観点から(→目次へ)

 一般的に多数者の中に存在する少数者と多数者との関係は「同化」傾向と「異化」傾向の二つに分けられる(注37)。少数者に対する強制的・抑圧的な「同化」・「異化(隔離)」のイデオロギーはすでに破綻していると考えてよいが、実際に少数者は「同化」か「異化」の傾向をとらざるを得ないことが多いし、理論上もそういうことが言える。

 言語権に即して考えれば、「同化」というのは自分たちの言語を捨てて、居住地・国の多数派の言語に乗り変わるということで、「異化」というのは、その逆で、自分たちの言語を保持し続けることだ。歴史的にも、また現実にも、そのどちらもあるわけで、そのどちらかが望ましいかということは決められない。ただ、言語権の生まれてきた背景には、強制的な言語の抑圧・隔離が多くの場合に起こったことは忘れてはならないであろう。

 まず、問題として挙げられるのが、言語共同体の意思をどのように確認できるかだ(注38)。確かに多くの先住民・少数民族などのように地域的・集団的居住地が定まっている場合は、民主的な手続(例えば住民投票など)により、共同体の政策を決定することができるかもしれない。しかし、そうではないことが多い移民・外国人などは難しい。さらに、現実的な観点から考えると共同体の意思が確認できたとしても、どこまで実現できるのかという問題がある。多数者の強制的・抑圧的政策のイデオロギーは破綻したとしても、経済的な理由などにより、現実には困難だ。しかし、もし本当に独立国家確立の集団の意思が確認できたなら、国際社会への訴えなどを通して粘り強く活動する他はないだろう。

 また、「同化」にしろ「異化」にしろ、個人の意思が抑圧される可能性がある。民主的な手続を踏んで共同体の意思・目標を確認しても、言語権が普遍的人権の一種であるなら、個人の言語権は優先して守られる必要がある(詳しくは第3章5節のA)。

 次に「同化」と「異化」の言語権上の問題点を考えたい。

 第一に「同化」についてであるが、言語権定義の「4.居住国の公用語学習の権利」がもっとも重要になってくる。居住国家、または居住地域の行政ができる得る限りの公用語学習の機会をつくるべきであろう(第2章1節のDFのスウェーデンの例などを参照)。できれば、言語権定義4の補足のように少数者側の言語のできる教師が教育を行うのが望ましい。逆に共同体内の「同化」を拒否する個人に対しては、できる得るかぎり母語を尊重すべきだろう。

 第二に「異化」に関してであるが、「異化」の究極的目標は政治体(つまり「国家」)の確立であるが、国家内の連邦制などもありうる。この場合は、共同体の言語を公用語にして、国家を運営していけばよい。しかし、様々な方言や言語変種が存在したり、正書法がない場合など、その公用語をつくる上での困難が生まれることが多い。また、その共同体内に少数者がいる場合や入ってきた場合などは、その個人の母語を最大限に尊重すべきだろう。


A個人的権利か集団的権利か(→目次へ)

 まず集団的権利というものを認めた場合の問題点をいくつか挙げたい。

 第一に、権利主体としての集団とは何か、という問題である。すでに述べたように(第3章1節)、言語権を侵害されやすい少数者集団は、ある程度特定できるが、その線引きが簡単ではない。また、移民や外国人までその集団としての権利が認められるのかという問題も生じる。

 第二に、集団的権利を推し進めると政治体(国家または自治のある連邦)を構成するところにまでいく。言語権の観点からは、原理的に言って特に否定されるものではないが、極めて政治的な問題になる。

 第三に、なぜ一般的に少数者だけに集団的権利があるのか、という問題だ。言語権が普遍的人権の一つであるなら、すべての人が有するはずで、当然多数者にもあるはずだ。すでにみたように(第3章1節のE)、多数者側からの「相違への権利」が主張される場合もある。多くの場合差別的主張なのだが、原理的に、少数者同様に多数者に対しても集団的権利を拒む根拠はない。

 第四に、集団的権利を強調、また優先させた場合に、その集団の個人が逆に抑圧されることはないか、という問題がある。

 以上の問題を鑑みて、私見では、集団的権利の存在はまったく否定しないとしても、言語権において常に個人的権利を優先すべきだと考える。特に第四の個人の抑圧は個人主義から出発した人権思想に反する(樋口 1996 p.35-36)と思われるので、具体的な例を挙げながら、さらに詳しく論じたい。

 ある集団が民主的手続により、政策的目標を定めた場合、もしくは国家または連邦制を獲得した場合、個人の権利を制限されることもあり得るが、すくなくとも普遍的人権に反することを制限することは許されない(特に自由権など)。言語権が普遍的人権として主張されるなら、すくなくとも自由権的言語権はどんな場合でも尊重されなければならない。もちろん、社会権的言語権の場合は、費用・人材の観点から国家に対して絶対的な義務を負わせるものではないが、集団の目標として、自由権的言語権の一つである個人の母語の尊重を無視することは許されない。したがって、例えばケベックの英語禁止問題(注39)は普遍的人権である言語権の観点からみて不当であるし、また、独立したあとロシア語母語話者に対して市民権獲得にラトビア語の試験を義務づけたラトビア政府の政策(「朝日新聞」1998年3月5日)も不当である。民族自決権(国家・連邦制)を認めた場合でも、その中の少数者の言語権は常に認められるべきである。

 個人的言語権と集団的言語権はそもそも対立せずに補うものであり(Phillipson 1994 p.12)、そして言語権は個人的権利を優先すべきと考えられる。

「文化の相違を否定することは困難だが、文化の相違を理由に普遍的権利に制限を加えることは、それ以上に困難」(梶田 1993 p.162)。

「「少数者の人権」という言い回しの含む論点に、われわれはセンシティブである必要がある。少数者への帰属ゆえにではなく、そもそも個人であるがゆえに主体となるのが、狭義の「人」権なのである。」(樋口 1996 p.92)

「それぞれの人が特定の民族的出自、言語、文化のなかに生まれるという過去による規定としてのエスニシティとは区別されるあたらしいあり方」、「各人が自覚して自分の帰属とか愛着の関係を選びなおすあり方」が、「現代には登場してきている。」(花崎 1993 p.170)

 以上の引用からも、普遍的人権と主張する以上は、民族や言語共同体という集団よりも、常に個人の権利が優先されなければならないだろう。

 では、なぜ少数者という集団として保護しなければならないと考えるか。それは集団の権利があるからではなく、差別されつづけた歴史的特殊事情があるためである。それにより積極的差別是正措置(保障問題)も正当化されるのではなかろうか。


6節 正当化根拠(→目次へ)

 少数言語保護運動の立場に身を置く人たちをはじめ、少数言語の研究者たちも少数言語の保護を訴えることが多い(ジオルダン編 1987)。また最近では言語権の観点から、つまり、母語使用の権利としてその保護を説く場合が多い(鈴木敏和 1992b)。しかし、その少数言語保護や言語権の根拠が十分に問われることは少ない。少数言語に対する歴史的な強制的同化・隔離政策(田中克彦 1981 p.118-128)は当然非難されるべきとしても、普遍的な人権の一つとして言語権を主張する以上は、その正当化根拠を明確にすべきではなかろうか。

 しかしながら、実は普遍的人権と言われている人権の正当化根拠さえ、明確にはなっていない(辻村 1994 p.20-22)。様々な見解が存在し、統一的な見解はでてきていないようだ。人権の根拠について「人間性」や「人間の尊厳」などによって根拠づけることで十分だという考えもあるというが、「人間であること(事実命題)」=「当然に権利を有する(当為命題)」とするのは論理の飛躍であろう(辻村 1994 p.20)。

 また、普遍的権利として広く認められれば、つまり、世界人権宣言や国際人権規約に明記されれば、その正当化根拠を問うことは、あまり意味がなく、それで十分であるという実務的な見方もできる。ある程度、背景的権利として認められるようになれば、訴訟などにより権利が明確化していくことになるだろう。言語権に関しては、まだ背景的権利としてさえも不十分と言えるので、正当化根拠の明確化はより説得力を生むために必要と思われる。

 ただ、人権論に関してもそうであるが、早急に正当化根拠を一義的に定める必要はなく、現段階ではそれに関する議論や問題提起をすることが肝要であろう。

 この章では、早急に言語権の正当化根拠の結論を出さずに、それらに関わる議論や言説を見ていきたい。


@言語の本質・言語観について(→目次へ)

 言語とはそもそも人間・社会にとって何か、という問題に答えるのは言語学・社会言語学の重要な役割の一つであり、簡単に答えられるものではなく、永遠のテーマといってもよかろう。また、言語学・社会言語学の学問としての存在意義の問題になり、ここでそれを検討することはできない。しかし、言語権の正当化根拠を考える上で、言語観や言語の本質を避けてとおるわけにはいかない。ここでは、言語権の正当化根拠が問題になる時の一般的な言語観をいくつか挙げ、言語権と関連づけてその論点を考えてみたい。

 さらに、言語権の正当化根拠を考えるときには、人権の正当化根拠と同様に、人間観自体も無視するわけにもいかない。とくに人間の「自由意思」をどうみるかによって、言語権の正当化根拠も様々な観点から考えられるからだ。そのような人間観も考慮に入れながら、考察していきたい。


A言語道具主義の観点(→目次へ)

 言語の本質はコミュニケーションのための道具・手段にすぎないというのが言語道具主義と考える。田中克彦(1975 p.41-43)は、ソンメルフェルトの言説「言語は他のすべてのことに優先するような社会事象ではない」を取り上げ、「言語において、伝達機能以上のものに重きを置かないたちばがはっきり表れている」という。これが、まさに言語道具主義の立場と言えよう。したがって「少数民族の言語から大言語への乗り換えは、人間にとってさして致命的であるとはみなされない」(田中克彦 1975 p.43)ことになる。つまり、少数者の自由意思により使用言語を選べばそれでいいということだ。

 確かに、どの言語を「母語」(起源母語以外)とするかを使用者の言語権の一つと考えるなら(第2章1節のA参照)、少数言語話者が自分の意思により自らの言語を捨てるのは問題ないとも言える。鈴木敏和(1992b p.44)も「在日朝鮮人」の例を挙げ「在日朝鮮人として、その国籍を保持しつつ、日本の市民生活に同化を希望する者が、母語である日本語の権利を主張する事は、自己決定権の問題である」と述べ、母語を選ぶことが自己決定権であることを強調している。

 言語道具主義の観点から考えれば、「自然」に少数言語はなくなる可能性が高くなる。多数者言語・大言語のほうが「通用度が高く」様々な点で便利だからだ。言語の「権利」を自らが行使するもので、「母語」というものを柔軟に考える(第2章1節のA参照)なら、「大言語への乗り換え」を自己決定する少数者たちを非難する根拠はない。したがって言語道具主義は原理的には言語権の正当化根拠の一つに十分になりうる。

 ただ、考慮に入れなければならないのは、「自由意思」による「自己決定」が、どのように行われているかだ。つまり、言語の社会経済的不平等により、大言語を選ばなくてはならない状況があるということを忘れてはならない。しかし、この状況を具体的にどう変えていくか、そもそも変えられるのか、は今後の課題となろう。

 しかし、言語道具主義により、当然に母語の全くの相対化をすることはできない。母語が簡単に変えられないことは事実だからだ。したがって、母語を守りたい人たちの言語権は当然保障されるべきである。

 さらに、国際レベルのコミュニケーションにおいては、「通用度の高い」英語がよく使われている。言語が単なる道具であるなら、世界的コミュニケーションにおいて、単一言語がもっとも効率がいいということになり、英語の一元化の根拠ともなってしまう可能性もある。


B言語本質主義の観点(→目次へ)

 以上述べた言語道具主義の観点に対する一つの批判として、言語本質主義がある。すなわち、「母語は運命であるから、皮膚の色と同様に、一たん身についてからは、その個人から引き離して、別の言語で置きかえるわけには行かない」(田中克彦 1975 p.55)という考えだ。また、その人間の帰属意識とも結びついているとも言えるだろう。さらに、田中は「母語がこのような性質のものであるとすれば、ある個人が、他の言語のいずれでもない、固有の母語を用いること、人間生まれながらの権利であって、何人もこの権利を侵すことはできないはずである」と続けている。以上は言語権を基礎づける一般的な主張ととらえてよかろう。

 しかし、「母語の絶対化」も避けねばならない。なぜなら、言語「権」という以上は、その話者の「自由意思」が尊重されなければならないからだ。確かに起源母語はかえることは不可能だが、第2章1節のAで述べたように起源母語以外の母語はかえることは可能だし、事実そのような人もいるだろう。言語権として主張する「言語」をどうするかはすでに検討したが(第2章1節のA参照)、「自由意思」を前提とする権利という考えからは「自己選択言語」という視点も可能である。したがって、言語本質主義の考えをおし進めると、話者の観点からみた場合、権利よりも義務に転じてしまう可能性もある。つまり、「母語」は「運命」であり、変えられないものだから、その本人はそれを受け入れ、尊重すべきだということにもなりかねない。

 ただ、義務という観点から、言語・文化の保持を説く考えも実際に存在する。例えば、「人及び人民の権利に関するアフリカ憲章」(田畑編 1994)には「第2章 義務」の項目に「積極的なアフリカ文化の価値を保持しかつ強化すること」(第29条7項)と明記されている。その解釈は詳しくはわからないが、少なくとも言語を含めた文化に関する義務という考えであることは確かであろう。また「人の権利及び義務の米州宣言」(田畑編 1994)にも「少なくとも初等教育を受けることは、すべての者の義務である」と明記されており、母語の言語教育を含めた教育を義務という観点からとらえている。

 また、言語本質主義は、言語道具主義とは全く反対に、国際コミュニケーションにおける英語非国際語化の根拠になる。つまり、英語が国際語になれば母語話者だけが有利になり、非母語話者が不利になる。さらに、英語固有文化と結びついているため、全く平等ではないということだ。


C言語エコロジーの観点(→目次へ)

 それぞれの言語は「人類にとって大事な遺産」または「地球とって重要な資源」だから、保護・保存しなくてはならない、というのが一般的な言語エコロジーの観点である。「生態学的多様性」の保護(鈴木孝夫 1989 p.52、宮岡 1996 p.22-23)の観点と言い換えることができる。たとえて言えば、有形・無形の文化財(歴史的建造物・人間国宝)や絶滅の危機にある少数動植物の保護に近い考えと言ってもよい。実際、少数言語の研究者たちは絶滅に瀕した生物種にたとえることが多い(千野 1989、宮岡 1996、宮本 1998)。

 田中克彦(1993 p.126)は「一つの言語の否認、その滅亡は、一つの精神世界の否認と滅亡を意味する」と述べている。つまり、それぞれの言語はそれぞれの世界像をもっているということであり、それにより、他の言語を通じて他の世界像に触れ、自分自身の世界像を相対化することもできるし、視野を広げることができるということだ。だから、言語の多様性は人間文明にとって重要であると考えられる。

 さらに言語学者の学問的観点から少数言語の研究の「有用」性を擁護する考えもある(田中克彦 1981 p.6)(注40)

 以上の考え方は、いずれも言語話者自身の観点からではなく、少数言語そのものを保護しようという「外から」の観点と言ってもよかろう。

 まず、言語が文化財や少数動植物と同じか、という問題について考えてみたい。これらの二つと決定的に違うのは、言語には、人間が使う手段的機能があるということと、人間集団、つまり社会が必要だということだ。つまり、その言語を使う人間、社会がなければ、言語は存在できないということである。また、少数動植物に関していえば、それらの死が生態系を破壊し人類の存続を危うくする可能性があるということだが、それに比べて、ある一つの言語の死が人類の存続を危うくするかどうか、疑問が残る。

 言語は無形文化財である人間国宝などと近いかもしれないが、人間国宝の場合は、一人でも継承がいれば(もちろん多ければ多いほどいいが)、それで伝えることが可能である。だが、言語の場合はある程度の社会的な共同体なしでは存続しえない。存続のためには、まず少数言語を話す意思のある人たちが必要であり、そして、その言語共同体を維持していかなければならない。学問的な見地から、絶滅の危機にある少数言語をテープにとったり、辞書や文法書に残すことは可能であるし、十分に意味のある行為であるが、言語共同体そのものを維持することは、その言語話者が必要不可欠だ。たとえば、ジオルダン(1987 p.29)は「死滅した美しい文化への郷愁感から、文化それ自体を見世物にしてしまうことは、人類のもっとも重要な資産に対する策謀」と述べ、言語共同体そのものの維持の重要性を説いている。

 以上のことを言語権に関連させて考えると、言語権という考えは、果して、人間に対するものなのか、言語そのものに対するものなのか、ということになる。または、言語を使う権利か、言語を保護する義務か、とも言い換えられる。すなわち、言語話者の観点からみれば、言語エコロジーの主張は「権利」ではなく「義務」になってしまう。つまり、少数言語話者は「地球のため」「人類のため」に自分の母語を維持しなければならない、ということだ。これでは「自由意思」を前提とした「権利」という考えからはかけ離れてしまう。少なくとも権利という以上は話者の「自由意志」が尊重されなければならない。したがって、権利という観点からは、話者が自分の言語をやめて大言語に乗り移り、その話者の言語が消滅したとしても非難できない。その人が持つ権利なのだから、その人が自由に行使できるはずだ。

 もちろん、第3章6節のAで述べているように、少数言語話者が「自由意思」により「自己決定」していると言っても、社会的な影響(政治的・経済的・文化的)により、やむを得ず、少数言語話者たちが、自分たちの母語を捨てている可能性が高い。すべての言語が全く平等な社会的条件を作り出すことができれば、少数言語が消滅することは減るかもしれないが、現段階では不可能に近い。したがって、もし、エコロジーの観点の重要性を説くなら、「権利」ではなく、「義務」ということになる。

 以上のように考えると、言語エコロジーの観点からの言語「権」の正当化というのは無理なことになる。

 しかしながら、言語エコロジーの考えは、人類にとっての言語の多様性の尊重ということであり、少数言語話者の言語権主張を容易にすることに与することができる。つまり、言語エコロジーは少数者が言語権主張をしやすい社会的・経済的環境をつくるという外の人たち、おおくは多数者側の「義務」(もちろん、法的義務というよりも背景的・道徳的義務と言えよう)を導くことができる。また、言語エコロジーの観点は、言語の効率や手段性を追求する単一言語主義や言語道具主義を見直すきっかけになる観点として肝要であると思われる。




第4章 おわりに(→目次へ)

 以上、人権論・国際人権論・権利論・多文化主義などの観点から言語権の問題を考えてみた。以下に、強調しておきたいことを何点か挙げ、また、提案や残った問題点などもまとめてみたい。

 まず、強調しておきたいことは五点ある。

 第一に、言語権の社会権性の強さである。つまり、国家の費用・人材・設備の問題があるため、国家政策・地域住民の意思がおおきく関わってきて、なかなか言語権保障の具体的実現が難しいということだ。また、国家に存在するすべての言語の保障をすることは事実上不可能で、どこまで様々な言語話者に対する社会権を認めることができるかという困難な問題に突き当たる。特に外国人などの社会権的言語権を認めるのは困難であるし、認めないことを全面的に非難することもできない。ただ、スウェーデンなど外国人の言語権を大幅に認めている国なども存在し、できる限りその方向に近づけることが理想と言えよう。

 第二に、言語権の個人的権利の優先性である。言語権の社会性・集団性を認めることは、言語の性質上、必要であるが、権利の行使は各個人の「自由意思」を前提にしている以上、個人の言語権が優先されるのが妥当と思われる。特に集団の目的や政策によって個人の言語権が侵害されることは許されない。そのため言語権定義においても「自集団の言語」ではなくて「母語」や「自言語」などを使うほうが望ましいのではないか。また、個人的言語権と集団的言語権は対立するものではなく、後者を社会権的言語権として捉え、個人的言語権の実現を集団的言語権が補うと考えたほうが妥当であろう。

 第三に、言語権における、実質的正義とともに手続的正義の重要性である。特に私的な異言語話者間のコミュニケーションでは、具体的な共通語を義務的に決めることはできない。すべての人の母語が重要という観点に立てば、自分の母語を無理に押し付けたり、相手の母語を押し付けられることは避けなければならない。そこで、少なくても「共通語合意原則」が重要になってくる。また、国家や国際機関の公用語を定める場合においても、できる限り民主的な手続によって定められることが望ましい。このような手続的正義と同様に、使用言語をどれにすれば平等なコミュニケーションがはかれるか、という実質的正義も当然重視すべきであろう。したがって、言語権を考える上で、両者とも考慮にいれなければならない。

 第四に、異言語間コミュニケーション・国際コミュニケーションにおける言語差別問題である。言語権定義からはそれを読み取ることは難しい。少数語・地域語と、国家の公用語との関係は明らかにされているが、国家を超えたコミュニケーションに関しては定かではない。地域語・国家語レベルの他に国際レベルの層を設定し、国際共通語の問題も同様に言語権の議論の中に含めていくことが肝要だろう。その際、常に手続的正義(どのように民主的に合意を得るか)と実質的正義(どんな言語を使えば平等なのか)の両者の観点から議論することが必要ではなかろうか。

 第五に、言語権の正当化根拠における言語観についてである。言語本質主義や言語エコロジーの観点からでは、言語「権」は義務に転じてしまう可能性があるということだ。一般的には言語権を基礎づける考えとして、両者が呈されることが多いと思われるが、注意しないと、言語話者の意思を無視した「義務」になってしまう。

 次に提案をしたい。

 それは、たとえば「世界言語権宣言」のように具体的かつ詳細な実定法を目指すよりも、第2章1の@で触れたようなある程度の大まかな言語権の定義を決めておいて、各国・各地域で実定法化していったほうが、より多くの人の賛同を得られやすいのではないかということだ。また、すでに明文化されている、自由権規約27条の解釈でも言語権の重要性が説かれていて、その有効性も期待できる。そのため、まずは言語権を背景的権利として明確にし、各国・地域の事情によって実定法化していくのが望ましく、「世界言語権宣言」のように詳細に定義したものを世界のすべての国・地域で適用しようというのは無理があるように思われる。「人権のインフレ化」「人権の氾濫」という言葉が示すように、現在「人権概念の量的拡張」の傾向が見られる(辻村 1994 p.13,19)。それより、むしろ言語権においても「人権概念」と同様、「質的限定」を目指すほうが説得力を持つと思われる。

 そして、最後に残った問題は、「自由意思」の問題である。言語権も権利という以上、「自由意思」を前提にしなければ成り立たない。そうであれば、少数言語話者は大言語に乗り換えることが多くなり、少数言語が消滅する可能性が高くなるのは当然の結果だ。しかし、いくら「自由意思」といっても、様々な社会的・経済的・文化的な条件により、やむなく大言語に乗り換えている場合がほとんどであろう。ただ、その現状は認めるとしても、少数言語(話者)にとって不利にならない社会、つまり、すべての言語(話者)が平等で権力関係のない社会が果して作れるのだろうか。このような社会をいかに作り出すか、作り出すことができるのか、今後の課題と言えよう。実際の少数言語研究者も言語そのものを守ることよりも「社会的背景」(森口 1989)や「言語の復興がおのずと生じうるような状況、つまりは、民族の政治的・法的地位」の「確立」(細川 1989)の重要性を説いている。




参考・引用文献(→目次へ)

<英語・エスペラント文献>

<日本語文献>

<日本語翻訳文献>



(→目次へ)

本論文では「linguistic human right」の訳語として「言語権」を使う。より正確には「言語的人権」となるが、「言語権」が日本語として一般化していると思われるので、それに従う。私見では「言語権」が「普遍的人権」の一つであるという主張を支持するものである。もとのところへ

本論文で使用する「少数者」とは「数」の問題ではなく、それを取り囲む多数者との関係において、相対的に政治的・法的・社会的に弱い立場にいる集団を指す。逆に「多数者」とは相対的に政治的・法的・社会的に強い立場にいる集団を指す。もとのところへ

ジオルダン編(1987)、原(1995、1996)など参照。もとのところへ

梶田(1993)、『国際問題』1996年8月号、三浦編(1997)、『言語』1998年8月号など参照。もとのところへ

言語権を明記したカナダの言語法に関しては鈴木敏和(1992a)を参照。もとのところへ

大石(1990、1997)、津田(1990)、津田編(1993)など参照。もとのところへ

新プロ「日本語」研究班1+言語政策研究会編(1995、1996)に「言語政策関係文献目録」がある。もとのところへ

Skutnabb-Kangas(1994a p.100)に「外国語学習も人権の一つであるか」という議論がある。第2章1節のDでも、この問題を取り上げる。もとのところへ

「世界言語権宣言」(英語)(日本語試訳)は、ホームページで見られる。もとのところへ

10 特に「母語」という用語には拘る必要はなく、以上の定義を充たした「言語」ということである。例えば「自言語」でも構わない。言語権における「母語」を以上のように定義することを提案するが、一般的に考えた場合、以上の4分類の言語が重なることが多いと考えられるので、以下、本論文で使われる場合は、4つを「だいたい・ほとんど」充たしているという意味で「母語」を使うことにする。ただ、厳密に考えた場合などは「起源母語」などの用語も使うことにする。もとのところへ

11 自己決定権に関する議論は、田中成明(1994 p.138-152)、樋口(1996 p.50-64)、立岩(1998)などを参照。最近では従来の自己決定権に疑問を投げかける見方もかなりあるようだ。もとのところへ

12 Tonkin(1997)によると、アメリカのテレビドラマの「クリンゴン」という言語を学ぶ趣味のグループがあるという。もとのところへ

13 例えば日本では、三井(1996b p.81)によれば、「国語」が理解できない外国人に関して「原則として第一言語の通訳人によるべき」としながらも「それが少数言語(希少言語)の場合」「もし被疑者に第一言語以外に理解できる言語があれば、第二次的にその言語の通訳人を介して取調べをおこなうことは必ずしも違法ではない」との判例があるという。もとのところへ

14 例えば、テイラー(1996 p.73,76)には「ケベック州政府は、[フランス語文化の]存続という集団的目標の名のもとに、州民[の言語使用]に対して規制を行ってきた」とある。また、「(おおざっぱに言えば)フランス語系の人々と移民に対しては、英語で教育を行う学校へ子供を送ることを禁止する一方で、英語系カナダ人に対してはこれを許容している」という。日本の判例(『判例六法』1998 p.1226)によると、日本語の理解できない外国人に対して「日本語を用いさせるか、外国語を用いさせ通訳を介するかを決定するのは、専ら裁判所の訴訟指揮権に属する」という。もちろん、これら以外にも、本来の「母語」が公的領域で使えず第三の言語が押し付けられる、という事例は枚挙に遑がない。もとのところへ

15 同化的差別も異化的差別(隔離)の両方ともある。詳しくは第3章5節の@を参照。もとのところへ

16 もちろん、異化の立場を貫く場合、独立した政治体をもつことも可能だ。これに関しては第3章5節の@で述べる。もとのところへ

17 日本におけるエスペラントの普及・研究活動をしている機関として「(財)日本エスペラント学会」(TEL 03-3203-4581)がある。もとのところへ

18 大石(1990、1997)、津田(1990)、津田編(1993)など参照。もとのところへ

19 渡辺(1983)、鈴木孝夫(1985)などを参照。もとのところへ

20 エスペラント話者の親からエスペラントを母語のように「自然に」学ぶ場合もあるが、その数はわずかである。また、エスペラントはあくまで第二言語としての共通補助語なのだから、母語としてエスペラントを教えないほうがよいという考え方も存在する。もとのところへ

21 公用語が複数存在する国家としてスイスなどが有名であるが、それでも一部の地域で話されているスペイン語・ポルトガル語・トルコ語などは公用語にはなっていない(エンカルタ 97 エンサイクロペディア マルチメディア 百科事典「スイス」の項)。少数者(定住外国人も含めた)の言語・地域語を含めた国家内のすべての言語を公用語としている国家は、超小国を除いて存在しないのではなかろうか。もとのところへ

22 しかし、津田(1990 p.78-81)は旧植民地の「英語エリート」の問題点を指摘している。もとのところへ

23 深谷(1997 p.20)には、チャウシェスク時代のルーマニア政府が、政策として少数者ハンガリー人をルーマニア人地域に移住をさせ、同化をすすめた例がある。また、福地ジタ(1997)には、少数者ハンガリー人とルーマニア人との混血を奨励し、さらにハンガリー文化・言語の劣等意識を植え付けることにより、ルーマニア国内のハンガリー民族を撲滅しようとした例がある。もとのところへ

24 自由権規約第27条以外にも、第14条3項には、刑事被告人は「(a)その理解する言語で速やかにかつ詳細にその罪の性質及び理由を告げられること」「(f)裁判所において使用される言語を理解すること又は話すことができない場合には、無料で通訳の援助を受けること」とされている。これも言語権の一つと考えてよかろう。もとのところへ

25 第27条一般的意見の評価に関して、また、第27条からみた日本の少数者(アイヌ人、在日韓国・朝鮮人)問題については岡本(1994)を参照。もとのところへ

26 ちなみに、岡本(1994)によれば、日本政府は在日韓国・朝鮮人などを第27条の「少数者」ではないと否認し続けているという。もとのところへ

27 自由権規約選択議定書には個人通報制度があり、おおまかに言えば、個人が国家を超えて国連の自由権規約委員会に国家の人権侵害を通報できるという制度である。ちなみに日本はこの選択議定書を批准していない。もとのところへ

28 田中成明(1994 p.138-152)、立岩(1998)など参照。もとのところへ

29 アムネスティ・インターナショナルなどの非政府組織が世界の人権侵害について報告している。もとのところへ

30 日本弁護士連合会編(1997)を参照。もとのところへ

31 詳しくは宮崎編(1996 p.271-303)を参照。もとのところへ

32 谷村(1998)を参照。もとのところへ

33 福地ジタ(1997)を参照。もとのところへ

34 宮崎編(1996 p.272 今井直執筆)によると、国連の「経済社会理事会」の「会期内作業部会」は「時として政治化することさえあった」し、「その任務、構成、作業方法が理事会の意向により不安定に左右される可能性は否定できない」という。もとのところへ

35 中村(1989)は英語の「国際語」性や「世界語」性についての分析をしているが、ここでは、それに従い「通用度が高い」と述べておく。もとのところへ

36 梶田(1993 p.131-147)は様々な国の多文化主義政策を検討し、その意味の多義性を指摘している。もとのところへ

37 梶田(1993 p.149)は「多文化主義は「目的」なのか、それとも「手段」なのか」と述べているが、「目的」は「異化」に、「手段」は「同化」に近いと考えられる。しかし、私見では「異化」の最終的形態は政治体(つまり「国家」)または連邦制の確立と考えている。また、梶田(1993 p.150-162)は、「M・ゴードン」の「リベラル多元主義・コーポレイト多元主義」、「P=A・タギエフ」の「反人種主義T・反人種主義U」を紹介している。それぞれ「同化傾向・異化傾向」に当ると考えられる。もとのところへ

38 宮崎編(1996 p.21 西立野園子執筆)には「自決権の行使形態」の解説がある。もとのところへ

39 テイラー(1996 p.73-75)によれば、ケベック州の法律によって「フランス語系の人々、および移民は」「自らの子供を英語で教育を行う学校に送」ることができない。また、「フランス語以外のいかなる言語の商業用の看板をも違法とする」。もとのところへ

40 「文字も文明もないドジンのことばを研究して何になるのかとたいていの人は考えるだろう。ところが言語学にとってはなかなか有用なことがある。それは、たとえば見かけはぱっとしない昆虫や植物の新種の発見によって、進化の過程の重要な空白が見事に埋められるばあいにもたとえられるであろう。しかしそれだけにとどまらないのは、ことばが社会という個性的な環境を持っているための特別の関心による。」と述べている。もとのところへ

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1999年1月