まえがき
本書は某メーリングリストにおける私(小林真彦)と福地俊夫氏による脳死臓器移植をめぐる議論に加筆修正したものです。もともとは賭博・売買春・麻薬の是非をめぐる議論から派生したものであるため、議論が時として脳死以外のことに流れることがありますが、ご容赦いただきたく存じます。
読者の皆様が本書を通して脳死臓器移植の問題に興味を持っていただければ幸甚です。
2002年10月21日 14:53
いろいろ雑感
小林
私が言いたかったことはカジノ構想の時と同じです。
要するに
私自身は賭博をやらないが賭博を違法化する根拠は無い。
私自身は売買春をやらないが売買春を違法化する根拠は無い。
私自身は麻薬をやらないが麻薬を違法化する根拠は無い。
ということです。
特に障害者など性的弱者の自己決定権を考えるなら売買春の違法化がもたらす被害は甚大であるといえましょう。
いずれにせよ他人に迷惑をかけない行為は愚行権によって認められるべきということです。
ただ、脳死者からの臓器移植は残念ながらそうはいかないようです。「残念ながら」と書いたのは、脳死者からの臓器移植を認めれば生きられるかもしれない人を見殺しにすることになるからですが、脳死者からの臓器移植は臓器提供者が合意していても論理的には肯定できません、感情的には割り切れないものが残りますが・・・
(なお、この点については『臓器移植 我、せずされず』(池田清彦・小学館文庫)を参照してください)
もっとも、献血や皮膚の移植は問題ないですが、とにかく脳死者からの臓器移植に関しては単純に「他人に迷惑をかけない」とは言えません。
2002年10月22日 0:22
RE: いろいろ雑感
福地
福地です。
一般的な言葉の問題ですが(つまり、小林さんに対する批判ではありません)、なぜ「賭博」「売買春」「麻薬」が「愚行」とあらかじめ断定できるのでしょうか。確かに「一般的には」「愚行」と考えられることが多いですが、本質的に「愚行」かどうか断定できないと思います。その意味で「愚行権」という言葉は引っ掛かります。
> ただ、脳死者からの臓器移植は残念ながらそうはいかないようです。
> 「残念ながら」と書いたのは、脳死者からの臓器移植を認めれば生きられる
> かもしれ
> ない人を見殺しにすることになるからですが、脳死者からの臓器移植は臓器
> 提供者が
> 合意していても論理的には肯定できません、感情的には割り切れないものが
> 残ります
> が・・・
> もっとも、献血や皮膚の移植は問題ないですが、とにかく脳死者からの臓器
> 移植に関
> しては単純に「他人に迷惑をかけない」とは言えません。
このあたり、私には理解できません。なぜ、臓器提供の権利が認められないのか、もう少し詳しい説明をお願いします。受け取る側の問題なのでしょうか。例えば、相続のように偶然性により、莫大な利益を得る場合とか。
2002年10月23日 16:00
RE: いろいろ雑感
小林
「何をもって愚行と呼ぶか」について。
愚行の定義や愚行権について考えるには、その前に「人がやって良いことの限界」を考えてみた方が良いと思います。私としては以下のように考えます。
「人々が自分の欲望を解放する自由(これを恣意性の権利と呼ぼう)は、他人の恣意性の権利を不可避に侵害しない限り、保護されねばならない。但し、恣意性の権利は能動的なものに限られる」
恣意性の権利の保護で私が最も強調したいことは、恣意性の権利は能動的なものに限られ、受動的な権利はないという点である。人は、他人を愛する権利、他人を無視する権利、アホなことをする権利などを有するが、他人に愛される権利とか、ちやほやされる権利とかはないのである。
もちろん、この原理の前提には、人々は原則的に平等である、との公準がある。
(『正しく生きるとはどういうことか』池田清彦・新潮社・7頁)
実を言うと、社会の規範としてはこの原則のみを採用すれば十分で、愚行権というものは本来なら必要ないと思います。では愚行権という概念をわざわざ作る必要があるのは何故かというと、それは道徳とか倫理とかいう美名のもとに自らの価値観を押し付けるおせっかいな人に対抗するためでしょう。「賭博や売買春や麻薬は愚かな行為だから止めろ」と言ってくる人たちが強行派なので、それに対抗するには、上記の原則の中に含まれるそれらの行為(賭博・売買春・麻薬)をあらためて「愚行」と呼んで批判者と同じ価値観の土俵に立ち、その上でその「愚行」をする権利というものを訴えねばならないからだ、というのが私の考えです。
そうすると「何をもって愚行と呼ぶか」という問いは、「他人の行為を止めさせようとするおせっかいな人が愚行と呼ぶもの全て」であって、逆におせっかいな人が止めさせようとさえしなければ「愚行権」をささえる「愚行」の定義さえ必要ないでしょう。誰も文句を言っていないのに「これは自分でも愚行だと思うけど、その愚行をする権利は社会で守られるべきだ」などと言い出したら「別に誰も文句つけてないじゃん」と突っ込むのが常識的な反応でしょう。
>このあたり、私には理解できません。なぜ、臓器提供の権利が認められないのか、も
>う少し詳しい説明をお願いします。
>受け取る側の問題なのでしょうか。例えば、相続のように偶然性により、莫大な利益
>を得る場合とか。
とのことですが、偶然性の問題もなきにしもあらずなんですが、他にもっと大きな問
題がたくさんあります。主な問題を3つ箇条書きにして若干説明を付け足します。
第1点:脳死は人の死の定義として不適格。
日本では死の定義は心拍の停止・呼吸の停止・瞳孔の拡大の三徴候死(心臓死)を採用してきたが、心臓死には第1に判断が容易であること、第2に人の素朴な感覚に合致すること、という利点があり、脳死を人の死とするためにはこの従来の定義を変えねばならない。脳死は人工呼吸器の発明により作られた「死への過程」に過ぎず、それを死と定義するのは例外的な現象に合わせて一般的な現象である死の定義を変えることであり無理が生じる。そもそも脳死は上記の2つの利点を充たさずしかも判断が難しいが故に、移植をして儲けたい医師が生きている人をわざと脳死と判断をしても取り締まりにくい。さらに臓器移植をして儲けるために、本来なら助かる患者の治療をわざと手抜きして脳死者を意図的に作り出すこともありうる(第3点と関連)。そしてまた、脳(自我)を生死の判断基準とすると植物人間や脳の前頭連合野(自我を司る部位)が破壊された人間も死人とみなして臓器を取り出されかねない。
第2点:脳死臓器移植は医者にとっては経済行為であるのに自由経済になじまない。(それゆえ犯罪を助長する)
脳死者からの臓器は原理的に大量生産できず、普通の高価な商品とは違って労働に応じた対価として買うわけにいかない。このことは大金を動かすのに自由経済の原理に反するので、死に続いて経済活動も例外的な現象である脳死のために基準の変更を迫られる。
また、脳死臓器移植を合法化すると、人を誘拐して生きたまま臓器を取り出すという犯罪を誘発する。そうした犯罪は単に大金を盗むという犯罪よりはるかに深刻である。通常なら金さえ儲ければ命までは奪わない犯罪者であっても、臓器移植で金を儲けるには生きた人間から臓器を取り出すしかないのであれば実際に臓器を取り出しかねない(というか、おそらくすでにそうした犯罪は起きている)。
第3点:脳死臓器移植は大金がかかるため、より良い医療行為を圧迫する。
脳死臓器移植には大金がかかるので保険の対象外にすると金持ちだけが助かることになる。保険の対象にすると他の医療への圧迫が激しい。しかも、自分の細胞から移植用の臓器を培養する技術(再生医学)は研究がかなり進んできている。それが実現すれば第2点で述べた問題は解決して多くの人の命が助かるので、限りある財源は再生医学のようなより良い医療行為にまわすべきである。また、脳死臓器移植を認めた場合、再生医学への圧迫は財政面にとどまらない。第1点で指摘した「本来なら助かる患者の治療をわざと手抜きして脳死者を意図的に作り出すこともありうる」という現象と似た現象も起こる。脳死臓器移植を専門とする医師の利害は、重傷者が脳死にならないよう治療することや再生医学の発展とは対立する。それゆえ、脳死臓器移植を容認することで生じる圧力は財源にとどまらず、主に医師が形成する強力な圧力団体が再生医学の足を引っ張るおそれがある。
私が賛成する主な論点は以上の3点です。ただ、これら3点に賛成していても、移植を受け名来れば確実に死んでしまう人を見殺しにすることは感情的に全く割り切れませんが。
ともあれ、『臓器移植 我、せずされず』(池田清彦・小学館文庫)は他にも脳死臓器移植や未来の医療の問題を論じていて興味深いです。賛成できない箇所もありますが、読んで損をしたというような箇所はありませんでした。
さて、そんな中、社会的な弱者についても以下のような分析があって面白いです。
極めて不幸な社会的弱者は一方的に助けるほかはない。それは当然だ。私の考えでは、社会がシステムとして弱者にゲタをはかせるのは、そうしないと、人は原則平等であるという民主主義社会の公準(フィクション)が守れないからであってそれ以外の理由からではない。かわいそうとか倫理とかいう話とは関係がないのだ。だから社会的弱者は社会システムとして助けてもらっても恩義を感じる必要はないのだ。これは社会が民主主義という自らのシステムを守るためにやっている事であって、実は弱者のためを思ってやっている事ではないからだ。余談だが、そう考えないと、社会的弱者に対する人々の精神的差別をなくすのは難しいと私は思う。(154頁)
2002年10月23日 21:57
RE: いろいろ雑感
福地
小林さん、福地です。
詳しい回答をありがとうございます。
> のは何故かというと、それは道徳とか倫理とかいう美名のもとに自らの価値
> 観を押し
> 付けるおせっかいな人に対抗するためでしょう。「賭博や売買春や麻薬は愚
> かな行為
> だから止めろ」と言ってくる人たちが強行派なので、それに対抗するには、
> 上記の原
> 則の中に含まれるそれらの行為(賭博・売買春・麻薬)をあらためて「愚行
> 」と呼ん
> で批判者と同じ価値観の土俵に立ち、その上でその「愚行」をする権利とい
> うものを
> 訴えねばならないからだ、というのが私の考えです。
以上の点、了解です。原理的に「愚行」の基準は存在しない、という点では一致です。
> 第1点:脳死は人の死の定義として不適格。
>
> 日本では死の定義は心拍の停止・呼吸の停止・瞳孔の拡大の三徴候死(心臓
> 死)を採
> 用してきたが、心臓死には第1に判断が容易であること、第2に人の素朴な
> 感覚に合
> 致すること、という利点があり、脳死を人の死とするためにはこの従来の定
つまり、科学よりも習慣や「素朴な感覚」を優先させるということですか。
> 義を変え
> ねばならない。脳死は人工呼吸器の発明により作られた「死への過程」に過
> ぎず、そ
> れを死と定義するのは例外的な現象に合わせて一般的な現象である死の定義
> を変える
> ことであり無理が生じる。そもそも脳死は上記の2つの利点を充たさずしか
> も判断が
> 難しいが故に、移植をして儲けたい医師が生きている人をわざと脳死と判断
> をしても
私は生理学・医学について詳しくわかりませんが、脳死の判断が難しいのか、できないのか、ここが要点になると思います。脳死の判断が「できない」のであれば、ここで議論は終りです。「難しい」と「できない」はきちんと区別すべきでしょう。
> 取り締まりにくい。さらに臓器移植をして儲けるために、本来なら助かる患
> 者の治療
> をわざと手抜きして脳死者を意図的に作り出すこともありうる(第3点と関
連
> )。そし
医師の犯罪が増えることを前提にしたら、「賭博」「売買春」「麻薬」も同じことでしょう。犯罪を誘発する恐れが高い点ではあまり変らないのでは。私が考えているのは、あくまで原理論です。他者危害原理から考えれば、臓器移植は非難される根拠がないということです。
> てまた、脳(自我)を生死の判断基準とすると植物人間や脳の前頭連合野(自
我
> を司る
> 部位)が破壊された人間も死人とみなして臓器を取り出されかねない。
脳死状態の人と植物状態の人とでは、明らかに生理的な状態が違います。脳幹の生死で分かれるはずです。ただし、大脳が死んでしまった時点(植物状態)で、臓器移植可とする考えもあります。生理的に100%生き返られないのなら、私はそれでもいいと思います。このあたりはよくわかりません。
> 第2点:脳死臓器移植は医者にとっては経済行為であるのに自由経済になじ
ま
> ない。
> (それゆえ犯罪を助長する)
>
> 脳死者からの臓器は原理的に大量生産できず、普通の高価な商品とは違って
> 労働に応
> じた対価として買うわけにいかない。このことは大金を動かすのに自由経済
> の原理に
> 反するので、死に続いて経済活動も例外的な現象である脳死のために基準の
> 変更を迫
> られる。
上記はよく意味がわかりませんが、いちおう意見を書いておきます。自由主義経済原理を前提にせず、医者の技術料だけ高額にし、臓器提供者と被提供者間ではお金が動かないようにしたらどうですか。
> また、脳死臓器移植を合法化すると、人を誘拐して生きたまま臓器を取り出
> すという
> 犯罪を誘発する。そうした犯罪は単に大金を盗むという犯罪よりはるかに深
> 刻であ
> る。通常なら金さえ儲ければ命までは奪わない犯罪者であっても、臓器移植
> で金を儲
> けるには生きた人間から臓器を取り出すしかないのであれば実際に臓器を取
> り出しか
> ねない(というか、おそらくすでにそうした犯罪は起きている)。
確かに、お金のために人を殺すのと、人を殺してお金を得るのとは違いますね。しかし、ブラックマーケットのある社会では、非合法・合法に関わらず、犯罪は存在するでしょう。また、法的・制度的整備をすれば、極端に犯罪が増えるとは思えません。諸外国の具体的な数的データがあれば、ぜひ教えてください。興味があります。
ただ、すでに述べているように、私はまずは原理論を問題にしています。
> 第3点:脳死臓器移植は大金がかかるため、より良い医療行為を圧迫する。
>
> 脳死臓器移植には大金がかかるので保険の対象外にすると金持ちだけが助か
> ることに
> なる。保険の対象にすると他の医療への圧迫が激しい。しかも、自分の細胞
> から移植
> 用の臓器を培養する技術(再生医学)は研究がかなり進んできている。それが
> 実現すれ
> ば第2点で述べた問題は解決して多くの人の命が助かるので、限りある財源
> は再生医
> 学のようなより良い医療行為にまわすべきである。また、脳死臓器移植を認
「財源」の問題を根拠にするなら、ぜひ数的なデータを示していただけますか。興味があります。例えば、年間何件の臓器移植手術があって、保険の対象にしたらどのぐらい医療財政を圧迫するのか。確かに、医者の技術費を当事者負担にすれば、金持ちだけが助かるという点は認めます。
> めた場
> 合、再生医学への圧迫は財政面にとどまらない。第1点で指摘した「本来な
> ら助かる
> 患者の治療をわざと手抜きして脳死者を意図的に作り出すこともありうる」
> という現
> 象と似た現象も起こる。脳死臓器移植を専門とする医師の利害は、重傷者が
> 脳死にな
> らないよう治療することや再生医学の発展とは対立する。それゆえ、脳死臓
> 器移植を
> 容認することで生じる圧力は財源にとどまらず、主に医師が形成する強力な
> 圧力団体
> が再生医学の足を引っ張るおそれがある。
医者が私的利害を優先させるのなら、まずはその点を改革する制度なりを考えるべきであり、それを前提にした議論はあまり意味ないと思います。決して現実を無視しろということではなく、まずは原理論をつきつめてから、現実との引き合わせをしないと、議論がごっちゃになると思います。
私がまずは問題にしたいのは原理であり、他者危害原理の根拠から、臓器提供・移植は非難される根拠はないということです。現実的な問題として、金銭の多寡により命が助かる人と助からない人が出てしまうこと、医者の倫理問題などがありますが、解決できる問題だと思います。前者は国家が負担すればいいことだし、後者は制度を整備すれば解決できるのではないでしょうか。
> 極めて不幸な社会的弱者は一方的に助けるほかはない。それは当然だ。私の
> 考えで
> は、社会がシステムとして弱者にゲタをはかせるのは、そうしないと、人は
> 原則平等
> であるという民主主義社会の公準(フィクション)が守れないからであって
> それ以外
> の理由からではない。かわいそうとか倫理とかいう話とは関係がないのだ。
> だから社
> 会的弱者は社会システムとして助けてもらっても恩義を感じる必要はないの
> だ。これ
> は社会が民主主義という自らのシステムを守るためにやっている事であって
> 、実は弱
> 者のためを思ってやっている事ではないからだ。余談だが、そう考えないと
> 、社会的
> 弱者に対する人々の精神的差別をなくすのは難しいと私は思う。(154頁)
以上の点もすこし引っ掛かります。倫理・システム・民主主義は公的意志の問題であり、「かわいそう」は個別意志の問題です。倫理と民主主義を対立させるところは納得できません。また、「民主主義という自らのシステムを守る」ことと「弱者のためを思ってやっている事」は同じことでしょう。誰のため、何のためのシステムかを考えずに、つまり、民主主義の本質・理念・存在意義を明確にせずに、「システムを守る」など馬鹿げています。
2002年10月26日 23:30
脳死再論(←立花隆の著書名のパクリ)
小林
福地さん、お返事です。
>以上の点、了解です。原理的に「愚行」の基準は存在しない、という点では一致で
す。
とのことで、愚行権に関しては合意いただけたようなので、脳死臓器移植について以下に論じますが、福地さんのご意見を聞いて「脳死臓器移植が不可避的に他者に危害を与えるとは言えないかもしれない」と感じるようになりました。
ただ、少なくとも脳死臓器移植にはかなり特殊な困難があり、それゆえ少なくとも「脳死臓器移植を問題のないものにするのは不可能ではないにしてもきわめて困難である」とは思います。その理由は以下に述べるとおりです。
再度、論点をいくつかに分けて検討してみます。
第1点:脳死という基準の妥当性について。
>つまり、科学よりも習慣や「素朴な感覚」を優先させるということですか。
基本的にはそういうことです。もっとも、習慣や素朴な感覚を変更するに足る利点があると思えれば変更しても良いのでしょうが、そもそも脳死臓器移植には下記のような諸問題がありますので、変更するに足る利点があるがどうかは疑わしいと感じます。
>私は生理学・医学について詳しくわかりませんが、脳死の判断が難しいのか、でき
ないのか、ここが要点になると思います。脳死の判断が「できない」のであれば、こ
こで議論は終りです。「難しい」と「できない」はきちんと区別すべきでしょう。
脳死を機能死(脳が機能しなくなるほど多くの脳細胞が死んでいる状態)と見なすか気質死(脳の全細胞が死んでいる状態)と見なすかによって事情は異なりますが、現行の判定法(機能死)ならまだしも可能なようです(たぶん)。
ただ、脳死を人の死と見なす考えは大脳の機能の一部である人格の崩壊を死と見なす考えに支えられているので、その立場を貫けば機能死と気質死のどちらでもなく植物人間や更に前頭連合野(人格をつかさどる部位)が破壊された人間も死人と見なすのが首尾一貫した考えのはずです。
>大脳が死んでしまった時点(植物状態)で、臓器移植可とする考えもあります。生
理的に100%生き返られないのなら、私はそれでもいいと思います。このあたりはよ
くわかりません。
という福地さんの考えが良いのか悪いのかは私にも「よくわかりません」が、少なくとも首尾一貫した考えです。逆に言うと脳死は「人格の有無を生死の基準とするなら植物人間の時点で死人と見なした方が良い」し「個体としての人体の機能の有無を生死の基準とするなら心臓死の方が良い」という点で「帯に短し、たすきに長し」という首尾一貫性の無い基準です。
ところで、植物人間を死人と見なすと、今度は植物人間を判断する基準が問題となるでしょうが、その基準を私は知りません。ただ原則論として、移植手術で儲けたい人が判断の基準をどんどん拡張する恐れは予測できるでしょう。それをきちんと社会が抑えれば良いのですが、心臓死の基準と違って素人には判断しにくいので社会による抑制が難しいことは間違いないでしょう。そしてこの判断の難しさは犯罪の温床になりうるのですが、その点については以下の福地さんの意見にお答えする中で述べます。
第2点:脳死臓器移植が副次的にもたらす問題。
>医師の犯罪が増えることを前提にしたら、「賭博」「売買春」「麻薬」も同じこと
でしょう。犯罪を誘発する恐れが高い点ではあまり変らないのでは。私が考えている
のは、あくまで原理論です。他者危害原理から考えれば、臓器移植は非難される根拠
がないということです。
賭博・売買春・麻薬が犯罪を誘発するという俗説は頻繁に聞きますが、そうした俗説の根拠を聞いてみると、他の行為に比べて特に賭博・売買春・麻薬が犯罪を誘発するという根拠を述べておらず、要するに根拠が無いのです。
それに対して脳死臓器移植は臓器提供者たる脳死者が多いほど医師が儲けられるシステムである以上、脳死になりそうな人を助ける医療や自分の細胞から臓器を作る再生医療と利害が対立するので、明らかにそれらの医療の発展と対立します。そして「脳死になりそうな人を助ける医療や自分の細胞から臓器を作る再生医療」が発展することには批判すべき根拠が無い、むしろ良いことでしょう。それゆえ脳死臓器移植は、より良い医療行為の発展の妨げになっているのです。(この妨げが絶対不可避とは断言しませんが、逆にどうすれば避けられるのかも分かりません)
>上記はよく意味がわかりませんが、いちおう意見を書いておきます。自由主義経済
原理を前提にせず、医者の技術料だけ高額にし、臓器提供者と被提供者間ではお金が
動かないようにしたらどうですか。
私が言いたかったのは、自由主義経済のシステムに齟齬をきたすので場当たり的な(アドホックな)基準を付け足さねばならないのがシステム全体を揺るがせるので問題だということですが、ただそれでも「脳死臓器移植に限っては自由経済と別枠で考える」と割り切れば、確かに問題はないのでしょうね。
>確かに、お金のために人を殺すのと、人を殺してお金を得るのとは違いますね。
私が書いたのは「通常なら金さえ儲ければ命までは奪わない犯罪者であっても、臓器移植で金を儲けるには生きた人間から臓器を取り出すしかないのであれば実際に臓器を取り出しかねない(というか、おそらくすでにそうした犯罪は起きている)。」ということですので、生きている人から臓器を取り出す動機がない犯罪者(そんなことをしても儲からないから)に、生きている人から臓器を取り出すことを誘発する(それで儲かるから)ということです。この場合、臓器を無料とするのが建前であっても、移植によって手術料を儲けたい医者が「臓器を持ってきた人に手術料の一部を渡す」という闇の広告を出せば犯罪をする動機は生じます。
もっとも、たしかにこの犯罪は
>しかし、ブラックマーケットのある社会では、非合法・合法に関わらず、犯罪は存
在するでしょう。また、法的・制度的整備をすれば、極端に犯罪が増えるとは思えま
せん。
と言われるとおり必ずしも不可避な犯罪とはいえないでしょうが、そうした犯罪が避けられるためには臓器の入手経路が全て公開されて、なおかつ入手経路が犯罪がらみと疑わしい場合には捜査をする体制が必要でしょう。そしてさらに、世論が常時ある程度は臓器移植に関心を示していることも必須です。そうでないと建前上捜査をしていても、その捜査のいい加減さを見逃してしまうことになりかねません。
いずれにせよ移植用の臓器が他の稀少財と違うのは、その唯一の入手方法が人体から取り出すことだということです。その特殊性を考えると、入手経路が少しでも怪しいものは生きている人間の体から取り出された可能性が極めて濃厚であり、それゆえ一度犯罪が起これば被害者は死んでいるので補償は不可能なわけです。ですので、原理的に犯罪防止のための社会負担はきわめて高額になり、それならその社会負担を、原則的に全員が受けられてしかも自由主義経済の原理に沿うから安価になっていく再生医療の開発に使った方が、最終的に多くの人間を、しかも犯罪を誘発する危険性もなく、救う社会に移行していくという推測は成り立つでしょう。
もっとも、社会負担に関しては、具体的な資料を持っていないため
>諸外国の具体的な数的データがあれば、ぜひ教えてください。興味があります。
>「財源」の問題を根拠にするなら、ぜひ数的なデータを示していただけますか。興
味があります。
とのご質問にはお答えできません。
また、お答えできないといえば
>私がまずは問題にしたいのは原理であり、他者危害原理の根拠から、臓器提供・移
植は非難される根拠はないということです。
>現実的な問題として、金銭の多寡により命が助かる人と助からない人が出てしまう
こと、医者の倫理問題などがありますが、解決できる問題だと思います。前者は国家
が負担すればいいことだし、後者は制度を整備すれば解決できるのではないでしょう
か。
という解決に関してもはっきりとはお答えできません。原則論として不可能ではないかもしれませんが、かなり困難だとは思います。その理由は上記のとおり犯罪を誘発する要素があるからです。
あと、原則論としてもおそらく不可避なのは「脳死臓器移植と再生医療は医療行為が経済行為である限り利害が対立する」という点です。この対立もあるいは、どうにか調停することが出来るのかもしれませんが、きわめて困難だとは思います。「絶対対立する」という断言はあえて控えますが。
以上、歯切れの悪いものになりましたが、現時点で思うところは以上のとおりです。
いずれにせよ、脳死臓器移植には上記のような独自の諸問題があるため、よほど慎重に臨まないと他者に危害を加えうると思います。
ところで、もともと脳死臓器移植の例は賭博・売買春・麻薬との対比で出したのですが、少なくともそれら3つほど単純に認めるわけにはいかないということは疑い得ないでしょう。(などとあらためて言うまでもなく、もともと疑ってなかったかもしれませんが…)
以下は前回書いた中の別件です。
第4点:脳死臓器移植とは別件の社会的弱者論。
>以上の点もすこし引っ掛かります。倫理・システム・民主主義は公的意志の問題であり、「かわいそう」は個別意志の問題です。倫理と民主主義を対立させるところは納得できません。
また、「民主主義という自らのシステムを守る」ことと「弱者のためを思ってやっている事」は同じことでしょう。誰のため、何のためのシステムかを考えずに、つまり、民主主義の本質・理念・存在意義を明確にせずに、「システムを守る」など馬鹿げています。
福地さんの言われるとおり、倫理と民主主義は対立関係にあるのではなく異質な物でしょうが、池田氏はそれらを対立させているのではないと思います。私が思うに池田氏の意見は「倫理の問題でないのに倫理の問題であるかのように論じているのが欺瞞である」ということでしょう。
また、「民主主義という自らのシステムを守る事」(民主主義)は「それをやらないと強者たる自分自身の立脚点を正当化できなくなるので、民主主義の前提たる平等という公準を守っている」という意味で「弱者のためを思ってやっている事」(倫理)は「ただ単に可哀想だから助けよう、という倫理観でやっている善行」という意味でしょう。ですので、両方とも弱者を助けている点で表面的には同じですが、前者は結局「強者が自らの立脚点を正当化するためには弱者を見殺しには出来ない」ということですので本質的に異質です。そして前者のような民主主義の立場の方が打算的ではあるものの普遍的な説得力があるので、「民主主義に立ってそのことを明言せよ」つまり「倫理の問題でないのに倫理の問題であるかのように論じるな」ということだと思います。
以上、お返事になってますかどうか。
とりあえず自分なりには分かる限りで答えたつもりですが…
では、また。
2002年11月5日 16:10
RE: 脳死再論(←立花隆の著書名のパクリ)
福地
小林さん、福地です。
返事が遅くなって申し訳ありません。
> 下に論じますが、福地さんのご意見を聞いて「脳死臓器移植が不可避的に他
> 者に危害
> を与えるとは言えないかもしれない」と感じるようになりました。
このあたりで、ほぼ合意に達したように思われます。私自身は、脳死に関する細かい論点、とくに生理学的・医学的な点はよくわかりません。もっと勉強が必要です。
>
> ただ、少なくとも脳死臓器移植にはかなり特殊な困難があり、それゆえ少な
> くとも
> 「脳死臓器移植を問題のないものにするのは不可能ではないにしてもきわめ
> て困難で
> ある」とは思います。その理由は以下に述べるとおりです。
おっしゃるとおりだと思います。やはり、直接、具体的に生命にかかわるという点(提供者も被提供者も)で、特に現実的に「特殊な困難」が生じるのでしょう。
> 第1点:脳死という基準の妥当性について。
> >つまり、科学よりも習慣や「素朴な感覚」を優先させるということですか
> 。
>
> 基本的にはそういうことです。もっとも、習慣や素朴な感覚を変更するに足
> る利点が
> あると思えれば変更しても良いのでしょうが、そもそも脳死臓器移植には下
> 記のよう
> な諸問題がありますので、変更するに足る利点があるがどうかは疑わしいと
> 感じま
> す。
以上の点は了解です。しかし、「習慣や素朴な感覚」を出発点にして、物事を考察することには賛成ですが、「習慣や素朴な感覚」だけを根拠にすることには反対です。
> ただ、脳死を人の死と見なす考えは大脳の機能の一部である人格の崩壊を死
> と見なす
> 考えに支えられているので、その立場を貫けば機能死と気質死のどちらでも
> なく植物
> 人間や更に前頭連合野(人格をつかさどる部位)が破壊された人間も死人と見
> なすのが
> 首尾一貫した考えのはずです。
このあたりになるとよくわかりませんが、確かに「脳幹の生死」をなぜ人間の生死と言えるのか、きちんとした根拠が必要ですね。
> とも首尾一貫した考えです。逆に言うと脳死は「人格の有無を生死の基準と
> するなら
> 植物人間の時点で死人と見なした方が良い」し「個体としての人体の機能の
> 有無を生
> 死の基準とするなら心臓死の方が良い」という点で「帯に短し、たすきに長
> し」とい
> う首尾一貫性の無い基準です。
つまり、死の基準は様々であり、一つの基準のを見出すことは極めて難しいことですね。この点は合意ですね。
> 第2点:脳死臓器移植が副次的にもたらす問題。
> 賭博・売買春・麻薬が犯罪を誘発するという俗説は頻繁に聞きますが、そう
> した俗説
> の根拠を聞いてみると、他の行為に比べて特に賭博・売買春・麻薬が犯罪を
> 誘発する
> という根拠を述べておらず、要するに根拠が無いのです。
確かに。私自身、根拠もなく述べてしまったことは撤回します。考えみると、現在、違法行為にもかかわらず、需要があるために暴力団などが参入しているのかもしれません。合法化してしまったら、暴力団などがする意味もないのかも。
きちんとしたデータが必要なことは確かです。
> それに対して脳死臓器移植は臓器提供者たる脳死者が多いほど医師が儲けら
> れるシス
> テムである以上、脳死になりそうな人を助ける医療や自分の細胞から臓器を
> 作る再生
> 医療と利害が対立するので、明らかにそれらの医療の発展と対立します。そ
> して「脳
> 死になりそうな人を助ける医療や自分の細胞から臓器を作る再生医療」が発
> 展するこ
医療行為=儲けのため、と単純に言えるのでしょうか。「儲け」だけを人間の動機付けとして捉えることは短絡的ではありませんか。
> とには批判すべき根拠が無い、むしろ良いことでしょう。それゆえ脳死臓器
> 移植は、
> より良い医療行為の発展の妨げになっているのです。(この妨げが絶対不可
> 避とは断
> 言しませんが、逆にどうすれば避けられるのかも分かりません)
現実的な問題なので、現実的なデータが必要でしょうが、「対立」や「妨げ」が必然的に起こるものなのでしょうか。医療技術の発展などにより、その時々で比較衡量し、優先させるべきことを決めていくしかないように思います。
> 題だということですが、ただそれでも「脳死臓器移植に限っては自由経済と
> 別枠で考
> える」と割り切れば、確かに問題はないのでしょうね。
前に議論をした経済の問題に戻ってしまいそうですが、 医療行為を経済の問題にだけ還元するのは無理に思われます。
> >確かに、お金のために人を殺すのと、人を殺してお金を得るのとは違いま
> すね。
>
>
>
> 私が書いたのは「通常なら金さえ儲ければ命までは奪わない犯罪者であって
> も、臓器
> 移植で金を儲けるには生きた人間から臓器を取り出すしかないのであれば実
> 際に臓器
> を取り出しかねない(というか、おそらくすでにそうした犯罪は起きている
> )。」とい
> うことですので、生きている人から臓器を取り出す動機がない犯罪者(そん
> なことを
> しても儲からないから)に、生きている人から臓器を取り出すことを誘発す
> る(それ
> で儲かるから)ということです。この場合、臓器を無料とするのが建前であ
> っても、
> 移植によって手術料を儲けたい医者が「臓器を持ってきた人に手術料の一部
> を渡す」
> という闇の広告を出せば犯罪をする動機は生じます。
私の以下の発言は、小林さんと同じ意図です。表現がわかりにくくて申しわけありませんでした。
> >確かに、お金のために人を殺すのと、人を殺してお金を得るのとは違いま
> すね。
> いずれにせよ移植用の臓器が他の稀少財と違うのは、その唯一の入手方法が
> 人体から
> 取り出すことだということです。その特殊性を考えると、入手経路が少しで
> も怪しい
> ものは生きている人間の体から取り出された可能性が極めて濃厚であり、そ
> れゆえ一
> 度犯罪が起これば被害者は死んでいるので補償は不可能なわけです。ですの
> で、原理
> 的に犯罪防止のための社会負担はきわめて高額になり、それならその社会負
> 担を、原
> 則的に全員が受けられてしかも自由主義経済の原理に沿うから安価になって
> いく再生
> 医療の開発に使った方が、最終的に多くの人間を、しかも犯罪を誘発する危
> 険性もな
> く、救う社会に移行していくという推測は成り立つでしょう。
以上のことに関しては、特に反対しません。
私は現在、再生医療の開発がどの水準のものかわかりませんが、現実化する可能性が高いのであれば、そちらの開発にお金を使うのも一つの手でしょう。
> >私がまずは問題にしたいのは原理であり、他者危害原理の根拠から、臓器
> 提供・移
> 植は非難される根拠はないということです。
> >現実的な問題として、金銭の多寡により命が助かる人と助からない人が出
> てしまう
> こと、医者の倫理問題などがありますが、解決できる問題だと思います。前
> 者は国家
> が負担すればいいことだし、後者は制度を整備すれば解決できるのではない
> でしょう
> か。
>
>
>
> という解決に関してもはっきりとはお答えできません。原則論として不可能
> ではない
> かもしれませんが、かなり困難だとは思います。その理由は上記のとおり犯
> 罪を誘発
> する要素があるからです。
>
> あと、原則論としてもおそらく不可避なのは「脳死臓器移植と再生医療は医
> 療行為が
> 経済行為である限り利害が対立する」という点です。この対立もあるいは、
> どうにか
> 調停することが出来るのかもしれませんが、きわめて困難だとは思います。
> 「絶対対
> 立する」という断言はあえて控えますが。
>
>
>
> 以上、歯切れの悪いものになりましたが、現時点で思うところは以上のとお
> りです。
>
> いずれにせよ、脳死臓器移植には上記のような独自の諸問題があるため、よ
> ほど慎重
> に臨まないと他者に危害を加えうると思います。
>
> ところで、もともと脳死臓器移植の例は賭博・売買春・麻薬との対比で出し
> たのです
> が、少なくともそれら3つほど単純に認めるわけにはいかないということは
> 疑い得な
> いでしょう。(などとあらためて言うまでもなく、もともと疑ってなかった
> かもしれ
> ませんが…)
以上の点は了解いたしました。臓器移植の特殊性は、生命に直接的・具体的に関わること、高度な医療技術に関わること、死の定義が多様性であることなどだと思われます。
よくわかりました。
> 第4点:脳死臓器移植とは別件の社会的弱者論。
>
> 氏の意見は「倫理の問題でないのに倫理の問題であるかのように論じている
> のが欺瞞
> である」ということでしょう。
ずれている点がよくわかりました。「倫理」という言葉の使いですね。私は民主主義も一つの倫理だと思っています。池田氏は「倫理」を普遍性(民主主義・人権理念)を介さない(つまり普遍性を目指して他者と議論をして妥当性を検証しない)個々人の一時的な感情という意味で使っているのですね。それなら、よくわかります。私は「倫理」を普遍性を介した社会的妥当性のあるものという意味で使いますから、それでずれたのだと思われます。
しかし、少なくとも、普遍妥当性を検証する時の出発点は、個々人の一時的な感情だと思います。したがって、池田氏の使う意味での「倫理」から出発しなければ、意味のない思想・原理・哲学になってしまいます。その意味でも民主主義の問題は、池田氏の使う意味での「倫理」をも含まなければ、むしろ、それこそ欺瞞に陥るのではないでしょうか。
2002年11月6日 13:53
RE: 脳死再論(←立花隆の著書名のパクリ)
小林
以下はお返事です。
>このあたりで、ほぼ合意に達したように思われます。私自身は、脳死に関する細か
い論点、とくに生理学的・医学的な点はよくわかりません。もっと勉強が必要です。
合意に達することが出来てうれしいです。私も細かい点は分からず書いてしまいましたが、たぶんおおまかな論点は網羅したのではないかと思います。
>おっしゃるとおりだと思います。やはり、直接、具体的に生命にかかわるという点
(提供者も被提供者も)で、特に現実的に「特殊な困難」が生じるのでしょう。
そうですね。脳死臓器移植は、生命に関わるという点と、科学によって最近生じた特殊な状態であるという点で二重に困難なのでしょう。
>以上の点は了解です。しかし、「習慣や素朴な感覚」を出発点にして、物事を考察
することには賛成ですが、「習慣や素朴な感覚」だけを根拠にすることには反対で
す。
そうですね。池田氏は科学を低く評価しすぎる面があるような気がします。科学が死のより良い定義を与えるという場合はその新しい定義を採用するのは問題ないでしょう。ただ、脳死は前回お話したとおり首尾一貫性のない基準だと思います。
>このあたりになるとよくわかりませんが、確かに「脳幹の生死」をなぜ人間の
生死と言えるのか、きちんとした根拠が必要ですね。
それはつまり「脳幹の生死」には「それならでは」という特殊性、それも死の定義と直結しそうな特殊性がないからですね。「自我の有無」を「生死の基準」とするなら植物人間は死人ですし、「全身の統一的機能の有無」を「生死の基準」とするならば心臓死をしてはじめて死人になるわけですが、「脳幹の生死」にはそうした根拠はないわけですから。
>つまり、死の基準は様々であり、一つの基準のを見出すことは極めて難しいことで
すね。この点は合意ですね。
ただ、この点についてはちょっと違うと思います。たしかに絶対的な死の基準はないでしょうが、心臓死は判断が容易ですし人類史上長期にわたって広く用いられた基準として一般的な感覚と齟齬をきたさないので、絶対的ではないとはいえ少なくとも現時点では最上の基準でしょう。
>確かに。私自身、根拠もなく述べてしまったことは撤回します。
いや、まぁ福地さんは「賭博・売買春・麻薬はけしからん」と述べたわけではないので、この点は問題ないのではないでしょうか。「賭博・売買春・麻薬はけしからん」と述べる人ならば「なぜけしからんのか」を示す挙証責任がありますが。
>考えみると、現在、違法行為にもかかわらず、需要があるために暴力団などが参入
しているのかもしれません。合法化してしまったら、暴力団などがする意味もないの
かも。
きちんとしたデータが必要なことは確かです。
その辺については『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版・1900円)の
252〜258頁を読むと、性産業の違法化が性産業を暴力団の巣窟にしているという構図
が良く分かります。まさに「禁酒法とマフィアの関係と同じです。」(254頁)
>医療行為=儲けのため、と単純に言えるのでしょうか。「儲け」だけを人間の動機
付けとして捉えることは短絡的ではありませんか。
私は法律の専門家ではないのですが、法律などの社会制度を作る時は「なるべく打算的な人間を想定して、その打算的な人間が他の人間の上前をはねられない制度を作る」という姿勢が必要なのではないでしょうか。つまり「犯罪は割に合わない」という状況を作ることが社会制度のすべきことだと思います。
>前に議論をした経済の問題に戻ってしまいそうですが、 医療行為を経済の問
題にだけ還元するのは無理に思われます。
これも同じです。「医は仁術」と考えて金儲け主義に陥らない道徳的な医者も少なくないとは思いますが、社会制度は考えうる限り最も悪質な悪人がいることを前提に作らねばならないのではないでしょうか。
>以上の点は了解いたしました。臓器移植の特殊性は、生命に直接的・具体的に関わ
ること、高度な医療技術に関わること、死の定義が多様性であることなどだとと思わ
れます。
合意いただけて幸いです。
脳死臓器移植の特殊性はこの福地さんの発言に凝縮されているでしょう。
>ずれている点がよくわかりました。「倫理」という言葉の使いですね。私は民主主
義も一つの倫理だと思っています。
なるほど。そういう意味で「倫理」という言葉を使うならそのとおりですね。
>しかし、少なくとも、普遍妥当性を検証する時の出発点は、個々人の一時的な感情
だと思います。したがって、池田氏の使う意味での「倫理」から出発しなければ、意
味のない思想・原理・哲学になってしまいます。その意味でも民主主義の問題は、池
田氏の使う意味での「倫理」をも含まなければ、むしろ、それこそ欺瞞に陥るのでは
ないでしょうか。
出発点はたしかに池田氏の言う意味での「倫理」(つまり個々人の感情)ですね。ただ、当然制度的に保障すべき福祉などを個々人の倫理で解決すべきであるかのように言う人がいるわけですので、その辺は見極めが重要でしょう。特に為政者がそんな発言をする時は「お前らが福祉を充実させないのが問題なのに、それを個々人の倫理に任せるなんて職務怠慢だ!」と叫ぶことが重要でしょう。
ではまた。
2002年11月10日 10:51
RE: 脳死再論(←立花隆の著書名のパクリ)
福地
小林さん、福地です。
脳死のほうは、ほとんど合意に達したようなので、細かい点をすこし。
> >つまり、死の基準は様々であり、一つの基準のを見出すことは極めて難し
> いことで
> すね。この点は合意ですね。
>
>
>
> ただ、この点についてはちょっと違うと思います。たしかに絶対的な死の基
> 準はない
> でしょうが、心臓死は判断が容易ですし人類史上長期にわたって広く用いら
> れた基準
> として一般的な感覚と齟齬をきたさないので、絶対的ではないとはいえ少な
> くとも現
> 時点では最上の基準でしょう。
「最上の基準」である根拠を判断「容易」性と、歴史にもとめることはわかりますが、おっしゃるとおり「絶対的ではない」という意味から、あくまで原理的に、私は「死の基準は様々」である主張したいです。
さらに、死の基準をきめなければいけない根拠は、現実的要請(すなわち、悪利用する人間がいる。)であり、原理的なものではありません。つまり、自身の肉体の所有権(処分権)を完全にみとめることにすれば、生きながら、部分的な器官を売買することも認められるはずです。論理的な帰結は自殺権といえましょう。そんなると死の基準などはまったく個人的なものになってしまうというわけです。
> >確かに。私自身、根拠もなく述べてしまったことは撤回します。
>
>
>
> いや、まぁ福地さんは「賭博・売買春・麻薬はけしからん」と述べたわけで
> はないの
> で、この点は問題ないのではないでしょうか。「賭博・売買春・麻薬はけし
> からん」
> と述べる人ならば「なぜけしからんのか」を示す挙証責任がありますが。
>
ここでの私の「撤回」の意味は、賭博・売買春・麻薬が必然的に犯罪を引き起
こすという記述を「撤回」するということです。
> >前に議論をした経済の問題に戻ってしまいそうですが、 医療行為を経済
の
> 問
> 題にだけ還元するのは無理に思われます。
>
>
>
> これも同じです。「医は仁術」と考えて金儲け主義に陥らない道徳的な医者
> も少なく
> ないとは思いますが、社会制度は考えうる限り最も悪質な悪人がいることを
> 前提に作
> らねばならないのではないでしょうか。
この点は了解です。おそらくここも、脳死臓器移植問題の特殊性から出てくることだと思います。つまり、すこしの間違いもあってはならないということですね。脳死臓器移植問題の場合、死に直結しているために、絶対に間違いが起こらないために、極めて厳しい制度が必要になるということですね。よくわかりました。やはりこの「特殊性」をどの程度強調するか否かで、現実的な実施・制度がどうなるか、左右されそうですね。
> 出発点はたしかに池田氏の言う意味での「倫理」(つまり個々人の感情)で
> すね。た
> だ、当然制度的に保障すべき福祉などを個々人の倫理で解決すべきであるか
> のように
> 言う人がいるわけですので、その辺は見極めが重要でしょう。特に為政者が
> そんな発
> 言をする時は「お前らが福祉を充実させないのが問題なのに、それを個々人
> の倫理に
> 任せるなんて職務怠慢だ!」と叫ぶことが重要でしょう。
上記の点も了解です。この点はまったく合意に達しました。
2002年11月14日 20:58
お返事とお知らせとお願い(RE: 脳死再論)
小林
小林です。
まずはお返事です。
脳死臓器移植に関しては、以下の福地さんのご意見が本質を突いていますね。細部はともかく、下記の点さえ忘れなければ最重要な点は踏まえた主張となるでしょう。
> おそらくここも、脳死臓器移植問題の特殊性から出てくる
> ことだと思います。つまり、すこしの間違いもあってはならないということで
> すね。脳死臓器移植問題の場合、死に直結しているために、絶対に間違いが起
> こらないために、極めて厳しい制度が必要になるということですね。
> よくわかりました。やはりこの「特殊性」をどの程度強調するか否かで、現実
> 的な実施・制度がどうなるか、左右されそうですね。
> さらに、死の基準をきめなければいけない根拠は、現実的要請(すなわち、悪
> 利用する人間がいる。)であり、原理的なものではありません。
というわけで、脳死臓器移植に関してはほとんど全て合意に達したと思います。
あとがき
本書における一連の議論を終えた後、『改訂版 再生医療とはなにか』(上田実・メディア株式会社・2004年3月25日初版発行)という本を見つけました。脳死臓器移植の問題点に関する記述は、本書(本誌?)で参照した『臓器移植 我、せずされず』(池田清彦・小学館文庫)にくらべて淡白ですが、再生医療の進歩状況を詳述している点が大変参考になりました。一読をお勧めします。
2005年3月26日補足
今国会で「脳死」臓器移植法を改悪しようとする動きがあるというおそろしい知らせを聞いたため、法改悪に反対する集会に参加しました。そこで以下のような証言を知り、「そもそも根本的な問題として、『脳死』といわれる状態であっても身体の各器官の統合された機能や意識がある」という確信にいたりました。仮にそれらがないとしても「脳死」臓器移植には問題があるのはすでにのべたとおりですが、当初予想していた以上に問題があるといえましょう。
証言1:『ふぇみん』(2004年4月5日号における清水昭美氏の証言)
「脳死」の女性が自然分娩をし、子どもは無事成長した例が新潟であった。
証言2:『神経内科』(2001年6月号(54巻6号)における古川哲夫氏(千葉西総合病院神経内科)の証言)
脳死患者の体動は反射とされているが、脊髄反射を抑えるためならば筋弛緩剤を用いれば十分であるのに、なぜモルヒネ(米国の事例)を使わねばならないのか。手術台上に起き上がる脳死患者もいるのである(会田薫子私信)。これが脊髄反射であろうか。
2008年5月15日補足
インド「家族同意で可能」
法改正着手 臓器売買増懸念も
【ニューデリー栗田慎一】
インド政府は、脳死者が生前に臓器提供の意思表示をしていなくても、家族の同意があれば臓器摘出を可能とする臓器移植法の改正に着手した。同国では移植用の臓器不足から、貧困層の臓器を売買する世界最大規模とされる違法な臓器ビジネスが横行している。法改正は脳死者からの臓器提供を容易にして不法な臓器売買を少しでも減らす狙いがある。
政府関係者が毎日新聞に明らかにした。政府は法改正の年内の下院議決と、09年の施行を目指す。
インドでは非政府組織(NGO)などが臓器提供カードの導入に取り組むが普及せず、法に基づく脳死移植はほとんど実施されていない。
一方で交通事故などの急増で脳死と診断される患者は増え続け、昨年1年間で役15万人に上った。
財団法人・インド医学研究所は「脳死者の臓器を無駄にするのは、さらに多くの命を殺すことにつながる」と、法改正を求めてきた。
これに対し地元NGOのシャビル・アフマッド代表は「移植は必要だが、貧富の差が激しいインドでは、高額報酬と引き換えに遺族が摘出への同意を求められる恐れがぬぐえない。徹底した監視と不正防止策が必要だ」と指摘する。
(「毎日新聞」2008年5月12日号朝刊2ページ)