最初のページへ(フレーム使用)


日本語教育

福地俊夫


目次


人間中心の観点を具体化した日本事情教育の実践報告(→目次へ)

 この実践報告は1993年5月に書かれたものです。日本語教育学会誌「日本語教育」に投稿し、不採用になりました。拙い点、不十分な点が多々ありますが、当時私としては一生懸命授業をし、そして書いたものなので、ホームページに載せることにしました。とても懐かしい思い出の授業であり、ずいぶん頭を悩まし時間をかけて書いた文章でもあります。(99年9月記)

1.はじめに(→目次へ)

 私は現在、就学生に対して日本語教育を行っている。彼らは初級のうちは目標を明確にもってやる気もあり、また生活上の必要性から、積極的に授業に参加し集中して学習する。しかし、ある程度日本の生活にも慣れ、日本語による意志疎通ができるようになってくると授業に積極的に参加しなくなり、授業内容にも興味を示さなくなる。それは、アルバイトや生活の大変さなどから学習目的が不明確になったことが考えられる。また一部の就学生の中には来日当初から将来について十分に考えていない者もいて学習よりもアルバイトが中心になってしまう学習者もいる。いずれにしても彼らにとって意味のある授業になり積極的に授業に参加できるように、私は学習内容、方法の改革によって彼らにアプローチしてみた。

 私の学園では入門から始めて1年半学習したのちに「日本事情」の授業がある。しかし、具体的な内容、方法は検討中で現段階では担当教師に任されているのが現状だ。私は一つの試みとして、人間中心の考え方、つまり学習者を人間として信頼し、尊重するという哲学を具体化してみることにした。なぜなら、学校、教師が一方的に内容、方法を決め、知識を与えるだけでは、学習者が本当に自発的、主体的に好奇心をもって学習できないし、彼らにとって意味のあるものにならないと考えたからである。つまり、学習者の自発性を具体的に尊重することにより授業への積極性を高めることができると考えた。

 以下の報告は極めて不十分であるが、教育における人間中心の観点の再考、教師の態度の重要性、就学生の日本に対する興味の再確認のため、発表することにした。


2.授業の内容と学習者について(→目次へ)

2-1.全体の流れ

 週に1日(50分授業を4時限)、およそ6か月間行った授業である。最初の時間に以下のプリントを配り、学習者に日本事情という大まかな線を変えなければ、授業内容、方法などいっさい好きなようにしていい、という主旨を伝えた。結果的には以下の2回(以下、1回目、2回目)の流れができた。1回目の発表が終わったあとに、再び方法を話し合う時間を設けた。

 1回目(約9週間)は、各学習者の日本社会、日本人に関する興味、関心、疑問をまず出してもらい、興味が合いそうな学習者同士で教師がグループをつくった。さらにグループごとに一つの主題を決め、それらを調査して、最後に発表する、という形になった。学習者に話し合って決めてもらうつもりだったが、私の考え方(3-2,5-1.参照)に合わせようしたことが多かったように思う。インタビューや書物によって調べたグループがほとんどだった。積極的に学習した学習者は半数程度だった。

 2回目(約10週間)は、学習内容は1回目と同じで、各学習者に興味を出してもらい、それを自分で調べるという個人学習でおこなった。この方法は再び話し合いで決めたが、グループでは活動しにくいという学習者の意見を反映したものである。書物によって調べた学習者が多く、ほぼ全員が積極的に学習をした。

 私の主な役割(目に見える具体的な仕事)は、前の週のまとめと当日行うこと、そして当日の反省項目(最後に学習者に考えてもらうため)を毎週プリントして配布することであった。他には、学習者に応じて内容や方法の相談を受けたり、日本語に関しての質問に答えたりした。また、2回目は1回目の反省(5-3.参照)から教師が積極的に資料などを準備したり、学習の自覚化という観点から、毎週、当日の反省と次週の予定、及び教師に準備してほしいものを書いて提出してもらった。

 評価に関しては学習者の完全な自己評価とし、1回目、2回目ともに最後に自分の反省、授業方法についての反省を提出してもらった。2回目の時は毎週、当日の反省を書いてもらっていたが、それも一つの自己評価と言える。

○プリント

 この授業では皆さんの希望を最大限に尊重しようと考えています。そして皆さんができるだけ自主的に参加することを私は望んでいます。

 授業形態としては私が教室の前で一人でしゃべり皆さんが聞くという形はしないつもりです。皆さんが中心になって自分で調べたり、皆さん同士で話し合ったりすることを期待しています。また、教室で授業をする必要もありません。外に出て日本人にインタビューするのもいいでしょう、図書館に行って調べるのもいいでしょう。いろいろなことが考えられます。

 私は何をしてもいいと思っています。このクラスは世界中で一つしかないクラスです。また、歴史の中ではじめてできたクラスです。今までどこの学校でもやったことのない、誰もが驚くような、創造的で、独自的、そしておもしろいことをしようではありませんか。

(以下は内容や方法を考えるための質問などで省略)

2-2.学習者の興味、学習したことの例

 日本の男女差別について/日本の遺産相続について/なぜ日本は経済大国になったか/日本の家族について/日本女性の結婚観と仕事観/なぜ日本は地震が多いのか/日本の季節料理/日本人と労働時間/日本人と外国人のつきあい方/日本の小学校教育について/日本人は外国人をどう思っているのか/能と歌舞伎について

2-3.学習者の背景

男:5人(途中2人退学)  女:6人(途中1人退学)

国別:中国7人(途中3人退学) フィリピン2人 マラウイ1人 韓国1人

年齢:20代前半から30代前半

日本語能力:日本語能力試験3級上から2級上程度(ただし1級合格者1名)


3.人間中心の観点から私が学び授業で重視した点(→目次へ)

 ここでいう人間中心の観点(哲学)とは主にロージァズとそれを発展させた伊東博氏の考えによるが、私自身それらをすべて十分に理解したとは言い難いので、その中から私が理解した範囲で重視した点を以下に挙げる。

3-1.自然発生している興味、関心、疑問

 伊東(1975,p.133)は「すべての子ども(人間)には、教師や教材や単元や他の子ども(人間)に向かって動いてゆく『自然発生』の動き(興味・関心・疑問・感情など)がもともとある」と述べ、教師側の「動機づけ」や「導入」などは学習者のそういった動きを無視するものだと警告している。つまり、興味、関心、疑問はいつでもどこでも発生しているもので、さらに、そういった「『自然に発生している』ことが『自発』のほんとうの意味」(伊東 1975,p.130)なのである。つまり、外的な刺激を加えなくても、おのずから学習しようという欲求があるということである。

 したがって、自発的に発生している学習者の興味、関心、疑問を最大限に尊重し、さらに明確にして学習を促進することが教師の重要な役割の一つとなる。また、学習者が明確にできればできるほど追究しようという意欲が湧いてくるはずである。

3-2.学習者同士の相互作用

 通常の授業では教師一人対学習者という構図になり「教師は何でも知っていて学習者を教え導くものだ」と学習者に思われがちになるため、他の学習者からも様々なことを学んで欲しいという私の考えから、1回目では学習者同士の話し合いなどの相互作用を重視していた。しかし、そのために単に「グループ学習にすればいい、それがいちばんいい」という固定観念が私にあり(5-1.参照)、自分自身も学習者も束縛していたかもしれない。また、目に見える相互作用ばかりが私の頭の中にあった(5-5.参照)。

 しかし、今では本来「自分なりのお答えを『伝えたい』、他人のお答えを『聞いてみたい』という欲求もまた、『自発的』な」(伊東 1975,p.140)もので、わざわざ教師の側から意図的に相互作用を起こすものではないのではないかと思っている。

3-3.学習の内容、方法、評価の決定に学習者が参加する

 ロージァズ(1967,p.107)は人間は「自分で選択した方向へ動き、責任をもって選択し、考え、感じ、経験する一人」(1968,p.107)であると学習者を全面的に信頼し、学習内容、方法、評価に学習者が参加するということを提唱した。つまり学習者のことは学習者がいちばんよく知っているということだ。さらに、学習者に内容、方法、評価の選択権を与えることにより、学習について責任をもってもらうと同時に、学習について学習できる機会も提供する。

3-4.学習過程、および学習そのもの

 普通の教育では「何を教えるべきか」「学習者はしっかりそれを学んだか」と学ぶべき内容とその結果が重視される。しかし、ロージァズの教育哲学では「学習の内容は、重要であるとはいえ二次的」(ロージァズ 1984b,p.119)なもので「固定した知識よりもむしろ過程に信頼をおくこと」(前掲書,p.6)を重視している。最初から学ぶべきことがあり、それを学んだからいい授業だった、ということではなく、学習者自身が自分の学ぶべきこと(興味、関心)に本当に気づき、さらにどのような方法でそれを学ぶかということが大事なのである。だから興味、関心が途中で変わってもいいし、何か目に見える成果(レポートや発表など)を出さなくてはいけない、ということは決してない。

 結果を重視するあまり、例えば発表やレポートのために学習するということも起こるのではないか。

3-5.教師の態度

 ロージァズ(1984b,p.8)はカウンセラーの態度と教師のそれはほぼ同じと考え、学習が促進される教師の態度として、「純粋性(真実さ)」、「無条件の肯定的配慮(尊重と受容と信頼)」、「共感的理解(感情移入的理解)」の3つを挙げた。特に私は「共感的理解」がもっとも大切で必要なことと考え、学習者と接する時はいつでも心していた。

 「共感的理解」とは簡単に言ってしまえば「相手の身になって考える」ということであるが、実は極めて困難なことである。特に日本語教師は文化の著しく異なる学習者と接するのだから、自分の文化の価値観で学習者を判断してしまうことが多い。彼らの培ってきた文化、そして彼らの個人個人の置かれている状況を把握し理解することが大事である。

 ロージァズ(1967,p.23)は「私が真に他人を理解しようとするならば、そのために私が変化するかもしれないのであります。しかも私たちはみんな変化を恐れています。」と述べた。つまり、学習者を本当に理解するためには教師自身のパーソナリティーをも変える必要があるのである。

 ただ、私はこの「共感的理解」を気にしすぎて自分が自由でなかったことが多かったようだ(5-4.参照)。そのため学習者も自由に行動できなかったかもしれない。


4.学習者の変化(→目次へ)

 学習者の感想や反省を基に学習者の変化を述べてみたい。

4-1.学習に対する自覚

 1回目の時は半数ぐらいの学習者がこの授業方法を批判的に捉えていたが、最終的な感想では大部分の学習者は「この方法は先生による一斉授業よりもいい」と書いていた。理由としては「自分の好きな興味を調べることができるから」が多かった。

 授業中に「先生は私たちにすべて任している。だからそれに甘えてはいけない。自分でやらなければいけないんだ」と熱弁を奮う学習者もいて、自分の学習態度などを自覚せざるを得なかった学習者も多かったようだ。また、ある学習者は授業態度の不真面目な学習者が多いことに我慢できず、「学習は内発的動機によって起こる」「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」(日本語がわからないから出来ないという学習者に質問を促すため)などの言葉を教室の壁に貼り、他の学習者に自覚を促していた。

4-2.学習者同士で日本人、日本社会について話すようになる

 学習者の興味、関心を重視し、彼らにとって意味のある学習だったため、日本社会、日本人に関して授業でさまざまなことが話題に挙がり、話し合う機会がずいぶんあった。学習者の感想にも「日本でみんな同じようなことで悩んでいることがわかった」というのもあり、同じような問題に立ち向かおうとする力になったようだし、いい意味での連帯意識もできたようだ。普段の授業では異文化のことを深く考えることはなかなかできないので、他の学習者からさまざな考えを聞くことにより、より多角的に日本、自文化を見る目が養われたと思う。

4-3.学習者同士で学習方法について話すようになる

 休み時間などに日本語能力の高い学習者に対して「なぜ、そんなにうまくなったのか、何をすればいいのか」という質問をしている学習者が何人かいた。同国人同士で母語を介して語彙や文法などを教え合うということはよくあるが、学習方法そのものに関して話し合う機会はあまりない。この授業によってそういった機会が増えたようだ。

4-4.日本人との接触が増える

 学習者たちは日本にいるといっても、日本人の友人をもっていない学習者や、アルバイトなどに日本人がいてもほとんど言葉を交わさないという学習者もおおい。そのため今回の授業では日本人との接触の機会を増やすことも多少意図していた。急に友達が増えたということはもちろんないが、保証人を中心にいろいろな日本人と接触したり、他の教師の家族に学習者の興味に関する専門家がいて、そのような人から話を聞いたりと接触の機会が増えたことは事実である。そして、「いままで内向的だったが日本人と話すことに積極的になった」という学習者もいた。また、学習者の中には街頭で全く知らない人にインタビューしたという強者もいた。

 日本人に直接話を聞いてみたいという「自発性」がもともと存在していて、この授業によりそれが具体的に出てきたのであろう。


5.教師が学んだこと(→目次へ)

5-1.一斉授業はよくないという固定観念に気づく

 学習者一人ひとりにとって意味のある学習、また興味、関心を重視した教育となると、形態としては教師が前で話す一斉授業ではなく個別学習やグループ学習が主なようである。実際、ロージァズの紹介している授業などはほとんどが個別学習であることが多い。私自身もそう思い込んでいたので、最初の時点でプリント(2-1.参照)にもあるように、当然一斉授業をするつもりはなかった。 しかし、ロージァズ(1984a,p.80)も「自己指示と自由を子供に与えることはもしもそれが単に新しい”方法”に過ぎないならば、完全な失敗になり得ること明白です。委託と確信が不可欠なのです。」と述べているように、形態や方法は大事なのではなく、その観点、哲学を確信していることが大事なのである。

 学習者に授業内容、方法を選んでもらい学習の自覚をすることが大事なのであるから、学習者が一斉授業を強く望み、教師もそれが適切と判断すれば、一斉授業でもまったく構わないわけである。

 学習者にすべて任せ、どのようにしてもいいと言っておきながら、実は教師には一斉授業はよくないという固定観念があるのだから、教師の態度である「純粋性」に反している。学習者もそれを感じて十分に学習を促進できないことがあったようだ。

 ただ、途中で自分自身の固定観念に気づいたことは大きな発見であった。

5-2.日本に対する学習者の興味、関心、疑問の存在

 日本に長く住むようになると生活の大変さから、来日した当初の目的や学習意欲も揺らいでくる学習者が多い。授業に集中しなくなったり、遅刻や欠席が目だつようになる。そこで教師はついその現象だけで判断をして「学習者たちはあまりやる気がない」と思い込んでしまい、教師自身も意欲をなくしてしまうことが多いようだ。実は私自身もそうであった。

 しかし、今回の授業では、普段あまりやる気を見せない学習者も日本社会、日本人のことになるとものすごい興味を示し、様々な疑問を持っていることが再確認できた。教師が知らないところで日本人、日本社会と接していろいろなことを感じ、考えているのだろう。2回目は私のほうで各学習者の興味にあった様々な資料を準備したが、日本語の難易にかかわらず必死に読み意味を理解しようとしていた。

 自分の興味に合ったものを学習材料にすることは本当に彼らにとって意味のある学習になったはずである。

 教師は常に学習者の背景を十分に理解し、可能性を信じることが大切だと再び確認することができたし、人は興味、関心がいつでもどんな場合でも存在することを確信することができた。

5-3.ともに授業を作り上げることの重要性

 当初、教師はできる限り余計なことをしないで学習者に自由にやらせなければならない、それが学習者を尊重することだという先入観が最初、私にあって、具体的に何もしないという態度をとってしまったことが多かった。例えば、学習者が自分の疑問を調べる方法がわからなくて困っているときなどに、「自分のことだから自分で考えてください」という突き放した第三者的な態度をとっていた。また、クラス全体対私という構図になり観察的になっていたことも多かったようだ。確かに授業は学習者が主人公であるが同時に教師も主人公である。「グループの重要な1人の学習者であるとして自分自身を見なすことができ」(ロージァズ 1984a,p.155)ていなかったのだと思う。教師自身も学習する場にいるということを忘れてはなるまい。1回目の授業では学習者の中に自分自身がいなかったことが多く、その反省から2回目では積極的に自分の日本についての考え、学習観などを語った。

5-4.「共感的理解」と「純粋性」の重要性

 私のパーソナリティーの問題にもなると思うが、私は学習者を批判的に見ることが多かった。いまでもその傾向があると思うが、この授業をして共感的理解の重要性を痛感し、自分が多少変わったと思う。と同時に「純粋性」の重要性も認識することができた。

 例えば学習者が教師に対して「先生は何もしない、何も教えてくれない、この授業方法はよくない」と訴えてきた時に、「私の考え方、方法は間違っていない」という態度で応じたことがあった。当然、学習者が自分で興味をみつけ方法を考えることのほうが理想的であるが、それでは教師がいらなくなる。この場合教師の役割としては教師に頼りたい気持ち、どうすればいいのかわからなくて困っている気持ちを共感しなければならない。まず、それが先で、教師自身の考えを述べるのはその後になる。逆に「学習者は今どんな気持ちなのか」「何か不安や集中できないことがあるのか」という気持ちで接していると学習者が自分自身で解決することが多かった。

 一方、この「共感しなければいけない」という強い観念から自分自身の気持ちを抑えたり、気持ちと行動が一致しないこともあったようだ。例えば、共感できないときに「共感しなければいけない、学習者の気持ちをすべて受け入れなければならない」と無理をしたり、怒りたいのに無理に笑顔を作ったりと。学習者の気持ちを受け入れると同様に自分自身の気持ちも受け入れる必要がある。

 ロージァズ(1984b,p.17)は「共感的理解」よりも「純粋性」のほうが大切だと述べている。共感的理解を示せない時は、正直にその気持ちを述べたほうがいいということである。共感できていないのに、共感しているような言動をとることは自分も学習者も偽ることになり、いい結果を生まない。

5-5.学習者同士の目に見えない相互作用

 当初、この授業を考えた時は学習者同士の話し合いなどの相互作用を重視していた(3-2.参照)。しかし、これも私自身の固定観念で学習者を不自由にさせたようで、学習を促進することはできなかった。

 2回目の時は個人活動が主だったが、十分な相互作用があった。学習者同士で話をしたり、調べたりすることだけが相互作用ではなく、目にみえない相互作用というものがあるはずだ。一緒の場所に存在して個人で学習しているだけでも相互作用が有り得る。具体的に言うと、全員が学習している場所で一人だけ騒ぐことはまず有り得ないのではないか。集団の雰囲気がいかに大事か、ということを実感した。特に2回目は教室での活動が多かったのだが、教室が静まり返り、全員が集中して学習するということがよく起こった。


6.問題点と今後の課題(→目次へ)

6-1.「移行」の問題

 「移行」というのは教師主導型(教師が一方的に内容、方法を決めること)の授業に慣れてきた学習者を学習者中心の授業に変えることを言う(岡崎・岡崎 1990,p.169)。「移行」の問題を十分に考えずにいきなり授業方法を変えてしまい、学習者に戸惑いがあったようだ。1回目は学習者の感想にも「この授業はよくない」というのも何人かあったし、授業中に「先生は何もしない」という批判が出たこともあった。

 しかし、いきなり授業方法を変えたというのは結果的にはそれなりの効果を生んだようだ。なぜなら、私自身、学習者の批判から様々なことを学べたし、学習者も戸惑いながら学習について学習する機会を得て、いままでの学習を省みることができたからだ。感想の中には「小学校の時からいかに自分が一方的な授業を受けてきたか初めてわかった」というのもあった。

 学習者自身も当然教育観を持っているのだから、教師の教育観を前面に押し出せば、衝突は避けられない。もちろん最初は学習者の教育観を最大限に尊重し共感的理解を示すことは言うまでもないが、学習者の教育観とどこまで、どのように関わっていくべきか、困難な課題である。

 ただ、ロージァズ(1984b,p.68)は「受身的に学習する自由」も認めている。

6-2.日本語の問題

 今回の授業は日本語能力の向上を目指したものではない。しかし、日本語は学習者にとって第二言語であり、それをコミュニケーション手段としてこの授業を進めたため、避けて通れない問題でもある。

 資料を読むなどの行為は興味もあるため、また、わからない語句などがあっても各自のペースで進めることができるため、あまり問題はなかったと考えられるが、発表になると日本語能力の差が歴然と現れた。1回目の時は私のほうで日本語に関して何も準備をしなかったが、2回目では発表の時に使う簡単な表現などをプリントにして渡した。しかし、実際の発表ではあまり生かされていなかった。日本語に関して、どの程度かかわっていくかという問題は今後十分に考慮されるべきであろう。

 ただ、学習者の感想を見る限り、この授業をすることにより、自分の日本語能力の不足を十分に自覚した学習者が多かった。「文法能力がない」「発音がうまくない」など。この授業を機会に日本語そのものの学習の動機にもなったのではないかと思っている。この授業はあくまでも過程を重視しているのだから、発表がたとえ不十分であっても問題ではない。これからの学習のプラスになるだけでも十分成果があったと思う。


7.おわりに(→目次へ)

 この授業がおわり、いちばん変化したのは多くのことを学んだ私自身であるようだ。この授業を始める時、学習者がどんな反応をするだろうか、という大きな不安があったし、授業を進めながらも常に緊張があった。予想とはまったく違う方向に進み困惑したことも何度もあった。また、この授業に対する思い入れが強く、学習者を「信頼するということに熱中し過ぎ」(ロージァズ 1984a,p.154)、私が一人で空回りしていると感じたこともあった。しかし、その中で私自身の人間観や教育観に気づくことができたのは、私にとって大きな収穫であった。この授業の学習者たちには人間中心の観点を十分に生かしきれなかったかもしれないが、学んだことは今後の授業に生かしていきたい。

 結局、この授業で学んだことは教育の「観点」「哲学」の重要性に尽きる。教師はつい目に見える「こうやればこうなる」という技術論に走ってしまうことが多く、教育哲学を見失うことが多い。ロージャズの教育哲学でさえ、契約個人学習という「形態」と誤解されることが多い。大事なのは目に見える「方法」や「形態」ではなく教育の「観点」「哲学」なのだと思う。


【参考文献】