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首都・ブダペスト


 ブダペストはハンガリーの政治、経済、商業、文化の中心です。北から南へ流れるドナウ川はブダペストの中央を通って、ブダペストをブダ側とペスト側に分けています。ペスト側は平らですが、ブダ側は小高い丘に取り囲まれ,林、や森など、緑が非常に多い所です。歴史的な中心はブダ側でした。13世紀に建てられた宮殿は国王の住まいとなりました。ペスト側は平らな地域です。昔はドナウ川の水があふれることがかなりありました。しばしば洪水があったため、ペスト側の発達は遅れました。ペスト側は以前は市場がたくさんあり、商人は船で品物を運んでものを売りました。ペストが都市化して、急速な成長を見せたのは19世紀からです。オーブダという町がブダ側の北のほうにあり、昔は商業の町でした。このオーブダ、ブダそしてペストが1873年に統一されました。そのときからブダペストは急速に発展し、現在の姿はだいたい20世紀の始めには出来上がっていたと言われています。

 以下にブダペストの名所について述べます。

鎖橋(ラーンツ・ヒード)

 鎖橋はブダとペストを結ぶ最初の橋でした。ブダペストにある8本の橋の中で最も美しいと言われています。1848年の、大きな革命のあった年に作られました。ブダペストの象徴の一つでもあります。いまではハンガリー全土のおへそ(0m地点)として機能しています。つまり、そこを基準にしてハンガリーから他の地域や国への距離が決められるのです。

 この鎖橋は19世紀のハンガリーの発展に決定的な役割を果たしました。セーチェニー・イシュトバンのおかげでこの橋は生まれました。実はこのようなエピソードがありました。セーチェニー・イシュトバンのおとうさんは当時ブダ側に住んでいました。1820年の2月におとうさんが亡くなりましたが、ドナウ側を覆う氷が溶けるのを待たなければなりませんでした。そのためブダで行われるおとうさんの葬式に行くこともできず、彼は一週間ペストから動けませんでした。この時の経験から、ぜひ橋をかけようと、セーチェニー・イシュトバンはつり橋の見学にイギリスをたずねました。そして彼はイギリス人二人をつれて帰国しました。一人は橋をデザインする人で、もう一人は建設現場を指揮するアダム・クラークでした。このクラークはハンガリーの女性と恋に陥り、ブダペストに住むようになりました。

 アダム・クラークに関してはこのような話があります。

 1849年、完成した橋を見た彼は「我ながら傑作だ。実によくできた橋だ。非の打ちどころがない。この橋に欠陥があったら死んでもいい」と友人たちに言いました。ある日靴屋の見習いが何の気なしに覗いたところ、橋のたもとにあったライオンの像の口に舌がないのに気がつきました。それで、アダム・クラークは死んでしまった。という話です。実は、ライオンの像は橋より後にできたものです。おそらく誰かが作った話でしょう。

 ブダとペストを初めてつないだ鎖橋は、1945年ドイツ軍に壊されてしまいました。現在の橋はその後に作られたものです。


王宮

 現在王宮は博物館になっています。鎖橋のブダ側のふもとから上までケーブルカーが走っています。これで一番はやく上まで行くことができます。また石の階段の曲がりくねった道もあります。門のところにある鉄の扉は19世紀のものです。ハンガリー民族の父、アルパードをうんだとも言われる神話の鳥が門の上に構えています。

 王宮の歴史は中世、13世紀にはじまります。モンゴルの襲来の後、エステルゴムから逃げてきた王ベラ4世が、ここに新居を構えることにしました。ゴシック様式の城を築き、マーチャーシュ教会も建て、300年間王朝の繁栄が続きました。

 16世紀に入り、トルコとの戦いの時に城はこわされました。続いて17世紀には、今度はウィーン、ハプスブルク家の支配下に置かれて、バロックの王宮が新築されました。18世紀の間いろいろな工事をしたのは、女帝マリア・テレジアでした。1849年火事の後、大改装、拡張が始まり、1904年におわりました。

 現在は3つの博物館と国立図書館になっています。一つ目のナショナル・ギャラリーでは、中世から現代までのハンガリー美術の集大成が展示されています。芸術家の大部分は、残念ながらハンガリー国外ではあまり知られていません。特に重要なのはムンカーチ・ミハイ(19世紀の終り、ヨーロッパでとても有名だった)、セーケイ・ベルタラン、チョントバリー・コストカ・ティバダル(驚くほど現代的な絵です)。

 王宮にある二つ目の博物館はブダペスト歴史博物館です。三つ目は近現代史の博物館です。


マーチャーシュ教会

 マーチャーシュ教会ほど(聖母マリア教会とも呼ばれる)ハンガリーのその長い歴史において苦しみを経験した建物はないと言われています。1015年にイシュトバン王はハンガリーにいるドイツ人たちへの贈り物としてこの地に教会を建設したといわています。しかし、それは1241年にタタール人の侵入によって破壊されました。教会の原形は1255〜1269年、ベラ4世によってゴシック様式でつくられました。教会の名は、1470年にマーチャーシュ王の命令で、高さ88mの尖塔が増築されたことに由来します。ルネサンス時代の有名な王となったフニャディの息子マーチャーシュはl458年14才でこの教会で王になり、結婚式も挙げました。歴史的な王の戴冠式が行われたため、戴冠教会の名もありますが、実は正式には聖母マリア教会というそうです。1541年トルコがブダの砦を占領したとき一夜にして教会はイスラムの教会、つまりモスクに変えられ、トルコ王がアラーの神への儀式を行うようになりました。145年間の占領のあいだ城の壁は白く塗られ、コーランから引用された文句が書かれていました。やがて1686年にトルコ軍が撤退するとすぐにカトリックの教会に戻りました。オーススリア・ハンガリー君主のとき何回かバロック様式に建てかえられました。1874〜1896年、建築家、シュレック・フリージェッシュがゴシック様式を基本に改築し、現在の姿となりました。1945年の第二次世界大戦の空襲で大変な打撃を受けました。マーチャーシュ教会のまえの美しいバロックの像はブダの丘の中で一番高いところに立っていますが、1712〜13年の伝染病、ペストから助かった人たちが感謝の意を表して作ったものです。


漁夫の砦

 1896年、教会の回りを整備するため、またハンガリー建国千年記念の市街美化計画の一つとして、漁夫の砦を建てることが提案されました。漁夫の砦は城を守るための建て物ではありませんでした。なぜそのような名前がつけられたのか不明ですが、中世にこの周りに魚の市があったからだという説が有力です。ネオロマネスク様式の白い砦で、すぐ下にドナウ川が見え、素晴らしい眺めです。ブダペストの若者のファースト・キスの場所は、ここが一番多いと言われています。


ゲレルトの丘

 王宮の南にある235mの岩山はゲレルトの丘です。伝説によるとその昔、箒の柄にまたがった魔女たちがここに集まったそうです。ゲレルトという名はイシュトバン1世によって招かれたイタリア人伝道師の名前でした。ベニスから来た司教、聖ゲレルトはハンガリー人をキリスト教への改宗させるために、来ました。しかし、1046年、異教徒の暴徒によって樽詰めにされ、この丘からドナウ川に突き落とされたと言われています。

 ゲレルトの丘の頂上にある要塞は、ツィタデラと言います。1850年に作られました。ハプスブルグ帝国がハンガリーの独立運動を鎮圧した後、王宮を監視するために建てたものです。1961年以来、観光名所になっています。中にはホテルもあります。ここに1947年の解放記念碑があります。ナチス・ドイツと戦って倒れたソ連兵士の慰霊塔である女神の像があります。それは14mもあるのでかなり目立っています。ブダペストの市街からでもよく見えます。


国会議事堂

 国会議事堂の建設は1885年に始まり1902年におわりました。単純に計算すると1000人が毎日15年間働いたことになるそうです。ドナウ川に沿って中世の尖塔、尖った屋根が続き、ルネサンス風のエレガントなドームがあり、その上にはゴシック式の尖った塔がのびています。691の部屋、27の入り口、41キロの24カラットの金で飾られています。長さ268m、幅118m、ドームの高さ96mです。高さは聖イシュトバン寺院とおなじです。ゴシックの見本のような外観で、釘のような尖塔が空を刺しています。


聖イシュトバン寺院

 寺院の建設は1851年に年老いたヨージェフ・ヒルルドによって始められました。かれが亡くなってから、下見に行ったところ、寺院の壁にひびを発見しました。8日後大きな地震がありドームがくずれました。地震などめったにないハンガリーのことだったので、その地響きが人々に与えたショックは大変なものでした。周辺の建物の窓ガラス300枚が割れたと言われています。次の建築家イブル・ミクロッシュは最初からやりなおし、ネオ・レネサンス様式を基調に立派な建物を設計しました。しかし彼も完成を待たずして亡くなった。1906年に完成した時、ウィーンから演説にきた皇帝フランツ・ヨーゼフは式の間中いつもドームばかり気にしていた。落ちるかどうか不安だったのです。

 教会の奥にある小さい礼拝堂に宝石で飾られた聖イシュトバンの右の手が遺品とともに公開されています。日本では考えられませんが、ヨーロッパでは大きい教会になると聖人の遺体の一部が保存され、展示されているのはよくあることです。

 毎年8月20日には、聖イシュトバンの祭の日に聖なる右手はブダペストの町に持ち出され行列を組んで町を行進します。

 イシュトバン大聖堂は8000人も収容できます。ドームの高さ96mはハンガリー人が896年に今のハンガリーの地に定着したことを記念しています。


ヴェルシュマルティ広場

 ペストの重要な待ち合わせの場はヴェルシュマルティ広場です。そこにジェルボという喫茶店があります。19世紀のインテリは、そこをまるでオフィスか家のように使い、詩を書き、外国の新聞をよみ、手紙を書きました。いまでもその昔の雰囲気を伝えています。その喫茶店の前には、アンドラシュ通りに沿って英雄広場に向かう地下鉄の終着駅がある。1896年に、建国一千年記念として開通された、ヨーロッパで最初の地下鉄でした。


アンドラシュ通り

 アンドラシュ通りはブダペストのシャンゼリゼ。エルジェベット広場から英雄広場まで2。5kmを結ぶ美しい並木道です。1872年に工事が始まりました。オーストリア・ハンガリー帝国の政治家の名をとって、アンドラシ通りになった。アンドラシ首相はパリへの旅行からもどって、彼のアイディアは、小さい方の環状通りから出て、大きい環状通りと交わり(keresztezniまじわり)町の公園までで達する新しい大通りを作ることでした。1872年,一階建ての200以上の家が壊され(こわされ)、2キロに渡るアンドラシ通りがつくられた。15年間の間に5階建てのエレガントなアパートやデパートやビルが建てられました。


国立オペラ劇場

 国立オペラ劇場は1873年から1884年にかけて、建築家イブル・ミクロッシュによって建てられました。劇場は、金とむらさきの美しさで輝いています。一番大きな大理石の階段はカーブをしながら、広がり、驚くべき空間的な調和を生み出しています。


英雄広場

 ハンガリー建国千年を記念する儀式が1896年にこの広場で行われましたた。記念行事が終わってからモニュメントの建設が始まりました。建国千年のモニュメント、記念碑は連続性と誇りを象徴しています。建国千年を記念して建設がスタートして、1929年に完成しました。36mの高い円柱のうえに大きな天使、ガブリエルがいます。初代国王イシュトバンの夢に現れて、冠をくれた天使です。円柱の下にはハンガリー建国の英雄、マジャール族の首長アルパードと6人の部族長がいます。そのまわりに半円形の列柱がたっています。そこに14の人物像がならんでいます。14人のハンガリーの王さまたちです。


エルジェーベット橋

 エルジェーベット橋はハプスブルクの皇帝フェレンツ・ヨージェフの妻エルエルジェーベットの名にちなんでいます。エルジェーベットはハンガリーを愛し、ながい時間をハンガリーで過ごしました。そしてハンガリー人から愛されました。


市民公園

 市民公園は英雄広場の裏手に広がる大きな公園です。豊かな緑、温泉、そして楽しいところがたくさんあります。池に浮かんだ島に立つ城はトランシルバニアにあったものを再現したものです。ロマネスク、ゴシック、バロック様式と様々な要素が混ざっています。


国立博物館

 ハンガリー最大の博物館で、1846年に建てられました。展示品は考古、中世、近代のものなど様々です。

 博物館の最も重要な展示品は王冠とそこにある宝石です。王冠には傾いた十字架がついています。そのほか戴冠式の時のマント、球、剣などがあります。 この王冠は初代王イシュトバン1世を初めとして、最後の王ハブスブルグ家のカーロイ4世まで歴代の王の頭を飾ってきたものです。ここに飾られている宝石は、ローマ教皇シルベステル2世がイシュトバン王に贈りました。ローマから戴冠の町エステルゴムまでの危険な旅行中に十字架が傾いたといわれています。この王冠は支配者の象徴として続きました。

 第二次世界大戦直後、ファシストがこの王冠を持ち逃げし、何十年もアメリカ合衆国にありましたが、1978年カーター大統領によって里帰りしました。

 この博物館は1848年の独立革命の舞台でした。革命が勃発した3月15日に群衆がここに集まって演説が行われました。

 検閲を無視して出版されたばかりの、ハンガリー民族を鼓舞するペテフィの詩のコピーがみんなに配られました。


マルギット島

 島がまるごと公園になっています。ながさ約2.5km、幅は広いところで約500mです。ローマ時代からブダ側と橋で結ばれ「うなぎの島」と呼ばれていました。13世紀ベラ4世の王女、マルギット姫がこの島の修道院で一生を送ったため、マルギット島の名がつきました。一万本の木々、噴水、ばら園、プール、野外劇場、温泉ホテルなどがあります。



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