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ハンガリーの歴史


 マジャール部族(「ハンガリー」は他の民族がつけた名前で自称は「マジャール」といいます)のもとの地はウラル山脈の地域であったといわれています。ここから8世紀の中ごろ南へ移りました。ボルガ川を渡って西へ移動し、ドン地方に住むようになりました。記録によると、9世紀の始めにマジャール部族はドン川を渡って、ドン川とドニエペル川の間にあったステップ地方へ行きました。さらに西へ進み、ドニエペル川、次にドニエステル川、シレト川の地域へ移りました。そこはエテル地域といわれます。何度も恐ろしい敵が攻めて来たため、七つあったマジャール部族は、おたがいに力を合わせることにしました。血による盟約、血盟を結び、族長にアルパードが選ばれました。マジャール部族はそのとき民族になったと言われます。

 894年、ブルガリアの軍隊と戦いました。ブルガリア王と同盟関係を結んだ他のベシェネグ軍は896年にマジャール部族をカルパチア盆地まで追い払いました。その時スラブ人、アワル人と小数のローマの植民地住民がドナウとティサの川沿いに住んでいました。そこで耕作をしながら生活を続けていました。マジャール人もそこで狩りをしたり、漁業をやったり、農耕をしたりして生活し始めました。アルパードの子孫たちは、ヨーロッパで生活を続けるためにはヨーロッパ風の生活様式に適応すべきだと悟りました。つまり、キリスト教に改宗しなければならなかったのです。1000年にイシュトバン1世が王に選ばれて、ハンガリーの国家を築いて、自分もキリスト教へ改宗して、マジャール人をキリスト教に改宗させました。

 1241年にモンゴル軍がハンガリーの東国境に現れました。モンゴルの軍隊は、力のなかったハンガリー軍を一掃しました。それから1242年2月に凍ったドナウ川を渡って、西ハンガリーをも略奪しました。外国から援助を頼んだのに、どこの国も助けてくれませんでした。幸いなことに、モンゴル君主の死によって、全軍隊がアジアにもどりました。1235年から1270年まで統治していたベーラ4世にとって、これからの仕事が大変でした。国を強くするため新しい教会や城を建設して、また町々を発展させました。王家の住まいとしてブダの丘を選びました。この時、ハンガリー国家再建が行われたたといわれています。

 14世紀に統治したのはアンジュー家の王たちです。ハンガリーは経済的にも文化的にも発達を見せました。

 15世紀にオスマントルコ軍がヨーロッパへ前進し、ハンガリーに攻めてきました。ハンガリーに強力な軍隊と力のある指導者が要求されました。指導力のあるフニャディ・ヤノシュが現れて、軍司令官に任命され、それからハンガリーの摂政、つまり王の次の地位につきました。1453年にトルコのモハメッド2世はビザンティウムを占領しました。1456年、ハンガリーの町、ナンドルフェヒールバールはトルコ軍によって攻められました。フニャディの戦略のおかげでトルコ軍は追い払われました。そのあと70年間トルコはハンガリーを攻めませんでした。この勝利を記念して、ローマ教皇は教会の鐘を12時に鳴らすことを命じました。今もヨーロッパの各町・村で毎日かならず鳴っています。

 1458年、フニャディ・ヤノシュの息子マーチャーシュが国王に選ばれました。この国王は強力な中央集権政治を目指す典型的なルネサンス時代における統治者でした。彼はまず強い軍隊を作りました。文化活動を強めるため、イタリアから建築家、学者、芸術家などを国へ呼び、それと同時にハンガリーの学生を外国へ遊学されました。素晴らしい図書館を作り、王立図書館に集められた有名なコルビナ文庫は約2000巻もありました。マーチャーシュ王の統治下の間ハンガリーは大きな発展をみせました。

 1526年にハンガリーはまたトルコ軍にモハーチ町で攻められました。ハンガリーの軍はシュレイマン2世の軍に敗れました。ほとんどすべての軍人、そして国王ラヨシュ2世が命を落としました。これによって次の150年の歴史が決まりました。

 1541年にハンガリーは三つに分割されました。北西の国境地帯は、ハプスブルク家の統治下のおかれました。南部と中央部は150年間トルコ帝国の一部になりました。東部、東南部、トランシルバニアはトルコの監督下の公国になりまた。この三つに分割された国家それぞれの中で戦争がひんぱんにありました。トルコ帝国とハンガリー王国の間の国境地帯では城から城へと戦いを続け、命をかけて国のため戦かった人たちがたくさんいました。

 17世紀、東部のトランシルバニア公国は独立国家を望みました。トランシルバニア公国はハプスブルク家とトルコの間をうまく取り持ちました。経済の発展、文化の発展を行いました。他の二つの分割国家はトルコ支配から独立したハンガリーを得るために、ハプスブルクとの同盟をねらいました。

 1683年、ウィーンを、トルコ軍が占領しました。ハプスブルク家はヨーロッパから助けられ、1699年にトルコ軍をハンガリーからも追い出しました。このようにハンガリーは17世紀の終わりにトルコから解放されましたが、長い間くるしんだ国民は自由になれませんでした。解放者と言えるハプスブルク・オーストリアはいわゆるハンガリーの統治を行いました。ハンガリー国民にとって、この統治はトルコ支配より時期としても長く、より大変だったと思われています。そのため、18世紀、19世紀のハンガリーでは次々と独立戦争が続きました。例えばラーコツィ・フェレンツェ2世は(1703〜1711)8年間の間ハンガリー独立のために戦いました。

 19世紀にはハンガリーの発展を願う貴族たちが次々と現れました。

 1825年から1848年の間は改革の時期と呼ばれ、その頃の代表的人物はドナウ川の鎖橋をつくったセーチェニ・イシュトバンでした。

 ヨーロッパは1848年2月に革命的状況になりました。まず、フランスでパリの民衆によって爆発しました。パリ2月革命の勝利はプラハやウィーンにも影響を及ぼしました。1848年の春、ウィーン革命に次いで3月15日にペストにも革命が起こりました。有名なハンガリーの詩人ペトーフィと三月の青年たちと呼ばれる彼の仲間たちは、12項目の要求を作りました。その項目には出版の自由、宗教における平等、法の前の平等、国民代表制議会の毎年の招集などが書かれていました。もともとブルジョアが要求した革命は独立戦争に変わりました。しかし、1849年にハプスブルク皇帝フランツ・ヨーゼフがロシア皇帝の援助を受け、ハンガリーの独立戦争は敗れました。

 1867年オーストリアはハンガリーと協定をむすびました。そして、オーストリア・ハンガリー帝国になりました。1914年まで続きました。

 1914年6月28日、サラエボでセルビアの一学生がオーススリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドを殺しました。この事件によってオーストリア・ハンガリー帝国とセルビアの間に戦争が起きたと言われています。しかし本当の原因はオーストリア政府がバルカン諸国を征服する口実だったのです。ハンガリーも戦争に突き進むほかに道はありませんでした。4年間の戦いは大変な苦悩をハンガリーにもたらしました。第一世界大戦にドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコが敗北し、オーストリア・ハンガリー帝国は解体しました。1919年のトリアノン平和条約によってハンガリーの領土は3分の1になりました。

 1940年ハンガリーは再びドイツの同盟国として第二次世界大戦に参戦しました。ハンガリー軍は対ソ連戦争に参戦し、ドン川の近くでおおきな敗北を喫しました。そのときドイツ軍に支持されたサラシがハンガリーの指導者になりました。数ヶ月続いた矢十字党(ファシストのシンボル)とサラシの恐怖政治は20世紀のハンガリーの歴史の中で最も血なまぐさい時期の一つでした。ドイツ軍はハンガリー国土で1944年秋から45年4月まで戦いを続けました。ハンガリーは1945年4月に解放され、解放者ソ連の影響化にはいりました。



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