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国際結婚・外国人問題

福地俊夫


目次


外国人問題の基礎知識E<外国人と選挙権>(→目次へ)

 みなさん、こんにちは。お元気ですか。

 今回は、外国人と選挙権(いちおう被選挙権も含めて考えます)について考えてみます。さて、質問です。私の妻は選挙権があるでしょうか。実際、何人かの人に質問されたこともありますし、当然選挙権を持っていると思っている人もいました。答えはNOです。選挙権はありません。なぜか、日本国籍がないからです。つまり、日本国籍がない人には選挙権はありません。逆に言うと、日本国籍を取得さえすれば、選挙権をもらえます。

 ところで、最近ニュースなどで取り上げられている外国人の選挙権にはいくかの制限があります。まず、外国人と言っても定住外国人に限られることです。前にも書いたことがありますが、外国人と言ってもいろいろで、決してひとくくりにして論じられないということです。旅行や短期滞在で日本へ来て自分の国へ帰る予定のある外国人に選挙権を与える必要はないでしょう。それから、地方選挙権に限られているということです。現在、定住外国人に国政の選挙権を与えている国はありません。しかし、地方選挙権であれば、いくつかの国で認められています。つまり、いまニュースで話題になっているのは、正確には定住外国人の地方選挙権ということになります。

 では、なぜ定住外国人に地方選挙権を認めよ、という主張が出てきたのか。また、国政の選挙権はなぜ認められないのか。定住外国人の地方選挙権の論拠は、まずその地域に密着して生活していて、その地方議会で決められたことが外国人住民に大きな影響を与えるからです。例えば、ある地域で原発を作ろうという計画があった場合、地域住民たちの声が反映される必要があります。その地域に密着して生活している外国人の声を聞くことも必要でしょう。しかし、国政で外国人に影響を与える問題はどうするのか、という疑問が湧いてきます。例えば消費税を7パーセントに上げようとした場合、あきらかに日本に住んでいる外国人に影響を与えます。しかし、国政の選挙権がなければ、自分の意見を反映させることはできません。それなら、定住外国人に国政選挙権も与えるべきか。これは難しい問題です。なぜなら、現段階では国籍=国政選挙権ということは自明のことであり、外国人に国政選挙権を認めることは二つの国籍を認めることに等しいからです。一般的には国籍は一つであり、国籍のある国政に参加し、その国政に責任をもつと考えられています。

 理論的に言えることは、国籍の取得をどこの国でも簡単にしてしまうことです。つまり、住んでいる国=国籍を持っている国としてしまうことにより、住民はみんな選挙権をもって国政に参加するということになります。これは確かにわかりやすいですが、人類が国家や民族にこだわっている限り、実現は遠い将来のことでしょう。

注:以上の文章は池袋エスペラント会発行「Krokodilo Krokodilas」(1999年9月号)に掲載されました。



外国人問題の基礎知識D<外国人と言語>(→目次へ)

 みなさん、こんにちは。お元気ですか。

 今回は、外国人と言語について考えてみます。いきなり質問ですが、日本にいる外国人(日本語を話せない人)は日本語を話すべきでしょうか。原則として「ある地域にいる人はその地域の言葉を話すべきだ」と言えるのでしょうか。エスペランチストなら、おそらく日本に来ていきなり英語で話し掛けてくるアメリカ人などを快くは思わないはずです。その理由は簡単です。平等原則から外れるからです。「いきなり英語」が認められるなら、アメリカで「いきなり日本語」も認められるべきです。しかし、そんなことをする日本人はいないでしょう。通じないからです。それなら、日本にいる外国人すべてに日本語を学んで日本語を話せ、と言えるのでしょうか。やはりここでも外国人と一般化することができないということを考える必要があります。例えば、単なる旅行者にそれを求めるのは無理でしょう。ただ、本多勝一は、すくなくとも現地の言葉で自分できる言葉ができるかどうか最初に確認すべきだ、と述べています。これは正論でしょう。「いきなり自分の言葉」よりもはるかに礼儀ただしいと思います。

 では、長期滞在者はすべて日本語を話すべきなのか、実はこれは難しい問題です。確かに外国人英語教師などで数十年も日本に住んでいて、日本語を話せない人もいます。そのような人に対しては腹立たしい気もしますが、自分の意思ではなく、やむなく、また何らかの事情で日本にきた人はどうでしょう。例えば、在日朝鮮・韓国人、インドシナの難民、外国人労働者の子供、中国残留孤児などです。そのような人たちには「日本語を話せ」と強制できないでしょう。つまり「日本語を学ぶ義務」があるとは断定できません。むしろ行政などが日本語を学べる環境を積極的に作っていくことが大事です。では、逆に「日本語を学ばない・話さない権利」はあるか、これはさらに難しくなります。例えば、外国人の子供が将来は自国に帰る予定だから、日本語を学びたくない、話したくないと本人や親が主張できるかということです。日本語を学ぶことによって自分の言語の発達が遅れることも有り得るでしょう。私はこの問題については答えが出せないでいます。ただ、すくなくとも「日本語がわからない→かわいそう→日本語を教えましょう」と単純ではないということです。また、言語権などという「権利・義務」の問題として考えるべきものなのかも、最近は疑問に思っています。

注:以上の文章は池袋エスペラント会発行「Krokodilo Krokodilas」(1999年8月号)に掲載されました。



学校へ"行かない"自由のない外国人就学生(→目次へ)

 外国人就学生とは、多くは大学や専門学校へ入学するために、民間の日本語学校で勉強している学生たちを指す。彼らは、法的には就学生ビザの範疇に入り、専門学校生や大学生がもつ留学生ビザとは異なる。

 就学生たちは、出入国管理局(以下、入管)で、だいたい一年か半年おきにビザの更新を行なう。その時に重要な書類の一つが出席証明書である。つまり、どのくらい学校に出席していたかを証明するものだ。この出席率が悪いとビザの更新が厳しくなる。80パーセント以下だと、3ヶ月しかビザの更新ができないということもある。ただ、これは入管の裁量であるため、正確な基準があるわけではない。

 したがって、就学生たちはとにかく学校へ行かなければならない。なぜなら、出席率が悪くビザの更新ができなければ、帰国するしかないからだ。当然学校側も休まないように指導する。そして、ちょっとした病気でも医師の診断書をもらい、10分程度の遅刻でも駅で遅延証明書をもらってくる。出席率を悪くしないためにも、休んだり、遅刻したりするときは、紙の証明書が必要なのだ。

 しかし、就学生には学校へ行く、行かないを決定する権利があるはずだ。なぜなら、授業料を払っているのは彼らだからだ。決して行くことが義務なのではない。しかも、週20時間も授業を受けねばならないと入管に決められている。さらに、彼らには学校を選ぶ権利もない。すなわち、入国する時に、決めた日本語学校に2年間いなければならず、学校が倒産したなどという特別な事情がなければ転校は許されない。

 現在、義務教育においてさえも学校へ行かない自由というものが、認められつつある。すなわち、子供が学校へ行きたがらないのは、学校や教師に問題がある場合が多く、無理に行かせるべきではないという考えだ。就学生はすでに大人であり自分の意思・判断力をもっている。さらに日本語学校は単なる語学学校である。

 学校へ行く義務は、当然授業にも影響を与える。就学生にしてみれば、自分に合わない授業、必要と思わない授業、興味が湧かない授業には出席したくない。念のため断っておくが、現在の日本語学校の授業の質が低いということでは決してない。数年前に比べれば、多くの学校の授業の質は上がっている。それでも、自分に適さない授業があったり、反りが合わない先生がいたりするものだ。そんな時、学生は居眠りや私語をする。教師の側も興味のない学生を教えるのは辛い。さらに、やる気がないなら帰れ、とも言えないところがもっと辛い。学生の中には、出席率が重要でなければればあの授業はでない、と公言する者もいる。学校へ行く義務のせいで、教師も学生も我慢しながら教室の中で授業ゲームを演じる。

 入管で決められた週20時間の授業も多すぎる。常に授業に出るよりも自宅学習のほうがむしろ効果が上がる場合もある。また、言葉を学ぶためには、授業に出席するだけではなく、教室の外で様々な日本人とコミュニケーションすることも極めて重要だ。週20時間も授業があると、その余裕もなかなかない。

 入管が就学生の出席率を重視するのは、就学生ビザを隠れ蓑にして、単純労働するのを恐れているからだ。かつては、そのような学生たちもいたが、今はほとんどいない。多くは真面目に大学・専門学校を目指している学生たちだ。出席率だけを異常に重視することで、学生も教師も窮屈になり授業が停滞し、実は学生の日本語力向上にもいい影響を与えない。入管はもう少し柔軟に考えられないものだろうか。もちろん、私は学校へ行かないことを奨励するつもりはない。ただ、彼らに学校へ行かない権利があることは事実だ。そして、出席率よりも重要なことは彼らが日本語能力を高め、日本社会に適応することなのである。

1999年10月 「週刊金曜日」不採用投書



外国人問題の基礎知識C<外国人の税金>(→目次へ)

 みなさん、こんにちは。お元気ですか。

 今回は外国(籍)人の税金について考えてみます。みなさんに質問です。外国人は税金を払っているでしょうか。もちろん買い物するとき消費税などの間接税は払わなくてはいけないのですが、では、所得税などの直接税はどうでしょうか。ちなみにいまのところ外国人は日本では選挙権(国政・地方両方とも)をもっていません。しかし、日本にいる外国人は直接税を払います。つまり、税金制度(どこから、だれから、いくらとるか)をきめる国会の代表者を選ぶ権利がないのに、税金をとられてしまう。なんか変な気がします。もちろん、税金を払うことにより公共サービスを受けることができるとも言えますが、どんな公共サービスをどれぐらいするかは国会・議会が決めるわけですから、それらの代表者を選べなければあまり意味がありません。ただ、詳しくは知りませんが、これは他の国でも同じようなので、日本だけが特殊であるというわけではありません。

 以上は、居住者(1年以上日本に滞在する予定、もしくは、している外国人)に関することについて述べたものですが、非居住者(1年未満滞在の外国人)に関する税金はまた違います。居住者は日本人と全く同じですが、非居住者の場合、品物によっては消費税が免除になることがあるということです。秋葉原の電気街などで「免税店」というのがあるでしょう。そこでは非居住者なら消費税抜きで買えるというわけです。しかし、おかしなことで、非居住者は所得税は払います。しかも年間所得が300万円以下の時は日本人より高いのです。日本人の場合は300万円以下の場合は10パーセントですが、外国人の場合は20パーセントです。ただ、外国人の場合は一律20パーセントなので、600万円を超えた場合は得をします。

 かつて私が教えていた学生で、アルバイトの時給が800円の人がいました。しかし、20パーセントの税金をとられて実質540円になってしまって、労働意欲がなくなったという人がいました。その時、私は外国人であるのに、日本人よりも税金が高いなんて、そんなことがあるのだろうか、と信じられませんでしたが、法的には決められているのです。

注:以上の文章は池袋エスペラント会発行「Krokodilo Krokodilas」(1999年5月号)に掲載されました。



外国人問題の基礎知識B<ビザとは?>(→目次へ)

 みなさん、こんにちは。お元気ですか。

 今回はビザについて考えてみます。エスペランチストの多くは海外旅行に行ったことがあると思いますので、ビザもとったことがあるでしょう。日本語では「査証」と言って、つまり、その国に入ってもいいですよ、という証明書のようなものです。ただ、旅行のような短期滞在のような場合は、日本との相互協定により、ビザが免除になっている国もあります。

 もちろん、日本に入国する外国(籍)人もビザが必要です。ただ、短期滞在の場合は、日本と相互協定をしている国から入ってくる場合は、必要ありません。ビザが必要であるか否かは政治的なものなので、政治情勢によって常に変わる可能性があります。

 日本に滞在する外国人のビザは27種類あります。外交・教授・宗教・報道・技能・留学など様々です。日本に合法的に滞在しようとする「外国人」には、この27種類のいずれかのビザがなくてはいけません。日本国内でもビザの変更をすることがありますが、通常は自分が滞在する資格のビザを自国で取得して、入国します。ただ、ここで重要なのは、ビザがあれば入国が認められるとは限らないということです。国際法の慣習では、「外国人」の入国は国家の裁量行為となっているからです。ですから、ビザをもっていても、極端なはなし、何の理由もなしに、もしくは適当な理由をつけて、入国を拒否することは可能なのです。政治的にも、自国にとって好ましくないと思われる「外国人」を拒否することはよくあることです。

 ですから、外国人は日本に入国する時や日本でのビザの更新の時、様々な書類を準備します。私が外国にいる時、友人のエスペランチスト(日本に不法滞在者の多い国の人だったので、当時は入国が難しかった)が日本に入国する時、滞在するであろう日本人住居の見取り図・写真や住民票を準備したことがありました。これは在外日本大使館の私の知り合い(よほど慎重な人だったのでしょう。あとで法務省からの出向ということで納得しました)から聞いて、アドバイスをしたものでした。つまり、外国人が日本を旅行するなら、滞在場所を明確にしなければならないというわけです。もちろん、見取り図や住民票などは法的な必要書類ではありませんが、説得材料としてあったほうがいいということです。通常はホテルの予約証明書などを見せます。おそらく日本で不法滞在者のすくない国の人などは簡単に入国できると思いますが、そうでない場合はかなり難しいのでしょう。ある国の人たちが日本で集団事件など起こすと、その国の人たちはすぐに入国審査が厳しくなるようです。

 ちなみに私の妻が日本で日本人の配偶者ビザを取得する時は、二人のスナップ写真や「なれそめ書」(どこで知り合い、どのように結婚に至ったか)などというくだらないものが必要(法的には必要ではないが、できれば出してほしい、ということでした)でした。

注:以上の文章は池袋エスペラント会発行「Krokodilo Krokodilas」(1999年4月号)に掲載されました。



外国人問題の基礎知識A<外国人とは?>(→目次へ)

 みなさん、こんにちは。お元気ですか。

 今回も前回の続きで「外国人問題」について考えてみます。前回は法的な観点から「外国人」を考えましたが、今回は一般的・社会的な観点から「外国人」をみてみましょう。

 前回述べたように法的に「外国人」と日本人とを分けることは簡単です。前者は日本国籍をもっていなくて、後者は日本国籍をもっているということです。しかし、例えば、ハンガリーである私の妻が仮に日本国籍を習得した場合、私の妻は「日本人」と言えるでしょうか。もちろん法的にはそうです。でも、妻にはじめて会った日本人は、「この人は日本人だ」と思うでしょうか。答えは否です。直感的に「外国人」と感じるでしょう。これはなぜでしょうか。容貌が違うからです。このように考えると、外国人を定義するとき「国籍」以外にも容貌を生み出す「血統」という観点があることになります。さらに、その他にも「文化」ということも考えられます。例えば、「国籍」「血統」が「日本人」でなくても、日本社会の中で生まれ育った場合、日本語を身につけ、日本的態度を習得し、かなり「日本人」的と言ってもいいでしょう。『在日韓国・朝鮮人』(福岡安則著 中公新書)には以上の三要素を取り出し、「非日本人」から「日本人」まで、類型化しています。論理的にこの三要素の組み合わせで考えられるのは、八種類です。例えば「国籍」だけが「日本」であるとか、「国籍」と「文化」が「日本」であるとか、このようなことです。現実に八種類の人たちがいるかどうかわかりませんが、少なくとも「非日本人」(「外国人」)と「日本人」という単純な二分法では、現実に即していないと言えます。さらに、「血統」や「文化」というのを厳密に言い出すと様々な例外が出てきて、八種類以上、無限の数になることでしょう。例えば、国際結婚の子供などは、「血統」や「文化」が一つであるとは限らないはずです。

 以上のことから「外国人」といっても簡単に定義できないということがわかったと思います。「外国人」に近い「日本人」もいるし、「日本人」に近い「外国人」もいるというわけです。だから、「外国人」という言葉で安易に一くくりにすることは、現実の姿を見えなくさせる可能性もあるでしょう。

 私たちは「外国人」という言葉を聞く時、話す時、どのような意味で使っているのか、充分に吟味する必要があるのかもしれません。

注:以上の文章は池袋エスペラント会発行「Krokodilo Krokodilas」(1999年3月号)に掲載されました。



外国人問題の基礎知識@<国籍>(→目次へ)

 みなさん、こんにちは。お元気ですか。インフルエンザが流行っているそうで、注意しましょう。実は私も風邪をひいて寝込んでいました。

 さて、今月から少し上記のことについて書いてみたいと思います。私は前からずっと「外国人問題」には関心がありました。理由は外国人に日本語を教える仕事をしてきたこと、私自身が外国人になった経験があること、私の妻が外国人であることなどです。最近特に興味をもって、いろいろな本を読んだり、他の人と討論しているので、簡単にまとめて自分の考えをより明確にしてみようと考えていました。また「人権思想」「多文化・多言語主義」にも興味をもち自分なりに勉強しているので、その点も含めていきたいです。この場を借りて、特に基礎知識のない人を中心に説明していこうと思います。

 今回は「外国人」と日本人を法的に区別している「国籍」について述べてみます。そもそも「外国人」とは何かという問題は難しい問題ですが、法的には極めて簡単で、「外国人」とは日本からみた場合日本国籍をもっていない人ということになります。

 ある人が私の妻に対して「あなたは日本人と結婚したから日本国籍があるんでしょ」と言った人がいました。これは違います。日本人と結婚しただけでは日本国籍は得られません。ただ、国によっては結婚することにより配偶者の国籍を得られる場合もあります(韓国などがそうです)。日本の場合は帰化の条件が「国籍法」に定められています。日本人の配偶者の場合、結婚によってすぐに日本国籍を得られるというわけではありませんが、普通の「外国人」よりは帰化の条件が緩和されています。日本では重国籍は原則として認められていませんから、日本国籍を希望する外国人は自分の国籍を離脱しなければならないことになっています(ただ罰則はありませんので、重国籍のままの人もいます)。ですから、私の妻は帰化を希望して許可されなければ、ずっと「外国人」(外国籍)のままというわけです。したがって、現在妻の戸籍や住民票はありません。「外国人」は「外国人登録」により管理されているからです。戸籍がないということは夫婦別姓でいいということです。日本人の場合は今のところ結婚した男女は新しい戸籍をつくりどちらかの姓にしなくてはいけません。ただ「外国人」と日本人の結婚の場合でも、姓を変えたい人は変えることができます。それは自分の国の法律に従うことになります。ちなみにハンガリーでも日本でも「外国人」との結婚により名前を変えることができます。妻は自分の希望により、ハンガリーの法律に従い名前を変えました。

注:以上の文章は池袋エスペラント会発行「Krokodilo Krokodilas」(1999年2月号)に掲載されました。



配偶者ビザの申請には「なれそめ書」が必要!?(→目次へ)

 私の妻は外国籍であるため、日本でビザをとらなくてはいけない。彼女は観光(短期)ビザで入国してから、日本で結婚手続きをし、配偶者ビザに資格を変更しなければならなかった。そのため私と入国管理局にいった。そこで何種類かの提出書類をもらい書こうをしたところ、それらの書類の中に「質問書」というのがあり、私たち夫婦が初めて会った時期、場所などを書かなければらなかった。私はプライバシーに関わることだなあ、と思いながらも、しぶしぶ書いて提出した。そしたら、さらに私たちの「なれそめ」を別紙に書いて提出してほしい、という。それは、私たちがどのように知り合い、どのように結婚に至ったのか、という内容だ。私は我慢できなくなり「それはプライバシーの問題でなぜ必要なのか」と聞いたところ、上司らしい人が出てきて、「それは強制ではない、お願いしているだけだ」という。

 二つのことを考えた。一つはこのような書類を書かせるという背景にはおそらく偽造結婚防止ということが考えられる。しかし、以上のような書類は簡単に偽造できるものではないか。偽造結婚でないかを見分けるために本当に必要なのか。もう一つは法的に決まっていない書類なので「お願い」しかできないにもかかわらず、当然提出しなければならないようにしていることだ。「お願い」であるとはどこにも書いていないし、聞かなければ何の説明もなかったであろう。ビザを必要とする多くの人が当然提出しなければならないものだと信じていると思う。

 ちなみに「質問書」と「なれそめ書」以外にも二人が写っているスナップ写真が必要であったが、これも同様に法的に決められた提出「書類」ではないと思う。

(1997年4月 『週刊金曜日』不採用投稿)



国際結婚・私たちの場合(→目次へ)

 まず私たちのことについて述べる前に、「国際結婚」という言葉について私の考えを述べてみたいと思います。

 日本では普通「国際結婚」というと、日本人と外国の人(外国籍の人)が結婚することを指します。私はつい最近まで知らなかったことですが、妻の国ハンガリーでは「国際結婚」という言葉はありません。もちろん「国際」という言葉と「結婚」という言葉はあるのですが、その二つの言葉が結びついて「国際結婚」という言葉にはならないそうです。つまり「国際結婚」という考え、概念が存在しないのです。もちろん多くのハンガリー人が外国の人の結婚しています。それでは、どうして「国際結婚」という言葉、つまり概念が存在しないのでしょうか。それはハンガリー人にとって外国と自国の違いをそれほど重視しないからだと思います。また、結婚する上で外国人であろうと、自国人であろうと重要ではないからでしょう。それに比べ、日本では結婚というと、外国人ではない自国人と結婚することが普通だと考えているので、外国人と結婚する普通ではないことに関してわざわざ「国際結婚」という言葉を生み出したのだと思います。つまり、日本ではまだ、自国と外国との区別を強くしているということです。ハンガリー以外の国のことは知りませんが、「国際結婚」という言葉がある国はあまりないのではないでしょうか。

 私はここでよく言われるように「だから、日本は閉鎖的なのだ」とか「外国人を差別しているのだ」というつもりはありません。日本独自の地理的、歴史的事情があって日本の民族性が作られていると思うからです。しかし、少なくも「国際結婚」や「国際化」などという言葉が使われて、もてはやされている限り、日本は本当に国際化しているとは言えないのでしょう。

 さて、前置きはこれくらいにして、私たち自身のことについて述べていきたいと思います。私たちの出会いは私の配属先の大学で、妻は私の学生でした。誰が言ったか知りませんが、「肉屋は売り物の肉を食べない」などということわざ(?)があるそうです。つまり、教師は自分の教え子に手を出してはいけないということらしいです。もちろん、こんな法律などどこの世界にも存在しないと思いますが、道徳的、倫理的によくないと思う人もいるようです。OG・OB会などでかつての隊員たちと会うと一度は「おまえは肉屋の肉を食った悪いやつだ」などと言われてしまいます。私はいまだにその理由がわかりません。

 話をもどしますが、妻はハンガリーでの最初の学生の一人でした。自己紹介の中でいまでもよく覚えていることは、私が「エスペラントに興味があり、勉強している」としゃべったところ、彼女が大変な関心を示したことです。彼女はかなり前に自分もエスペラントを勉強したことがあったが、なかなか使うチャンスがなく今はほとんど忘れてしまったと話しました。日本からきた一人の日本語教師がエスペラントを使うことに驚いたようでした。

 彼女に初めて会って何ヶ月かしてから私はデートに誘いました。ブダペストにある国立美術館でした。授業が終わった後、偶然二人きりになったので、これはチャンスと思い、思い切って誘ってみました。日本語で誘ったのですが、彼女にはなかなか私の意図がわからなかったようでした。後で聞いたところでは、クラスの全員ではなく、なぜ自分だけを誘うのかわからなかったとのことです。とにかく私は今度の日曜日に美術館の前に10時に待っていると伝えました。当日私は本当に彼女が来るだろうかと心配しながら待っていました。すると黒いロングコートを着た彼女が遠くに見えました。その時の光景は今でも頭に焼き付けいています。

 その時から私たちは付き合いはじめました。ブダペストには様々な文化施設があり、よく博物館や美術館などに行きました。文化施設の中で私たちがいちばん通ったところはサーカスでした。ブダペストにはサーカス専用の建物があり、ある期間をのぞいて、毎日のようにサーカスショーがありました。私たちはとにかくサーカスが好きでたまりませんでしたから、月に2回も3回も、それがたとえ同じ内容であっても見にいきました。なぜ好きかと言われると答えに窮してしまいますが、能力の限界に挑戦する人間の姿が見られるということでしょうか。妻に聞いたところ、サーカスでそのような人たちを見たあとに体の中からエネルギーが沸いてくるということでした。

 私のたちの共通の関心事、趣味はハンガリーにいた時から今まで変わっていません。それはエスペラントとジャグリングです。エスペラントについては知らない人もいるかもしれませんが、ここでは詳しく説明できません。人工的な国際共通語と理解しておいてください。ハンガリーは比較的エスペラントを話す人が多く、様々なエスペランチストと交流しました。ハンガリー人だけではなく、ロシア人やイラン人のエスペランチストとも交流しました。また、ハンガリーで行われたエスペラントの大会などにも参加しました。エスペラントに関連して異文化コミュニケーションの問題など、よく二人で話し合いました。

 もう一つの共通の趣味であるジャグリングについても知らない人がいるかもしれませんが、一つの曲芸でボールやボーリングのピンのような形をしたもの(「クラブ」と言います)をいくつも連続的に投げることです。お手玉を少し高度にしたものと思ってください。ブダペストのサーカスでジャグリングのショーを見ているうちに、自分自身でも試したくなりました。私は子どもの時からけん玉や手品など曲芸的なものは好きだったので、すぐやってみようと思いました。彼女もサーカスに影響されていっしょにすることにしました。パリに任国外旅行にいった時にジャグリングの道具を買って、ブダペストで練習をし始めました。始めたのがちょうど夏休みだったので、毎日のように二人で練習しました。しかし、指導者がいたほうがいいと思い、ブダペストのサーカス学校に聞いたところ、ある先生が個人的に見てくれることになりました。私たちはジャグリングの虜になり、冬は部屋の中で、それ以外は近くの小さな公園で練習しました。私の部屋は天井がとても高かったので大変助かりました。また公園の近くに住んでいる人には顔を覚えられて、ちょっとした有名人になりました。帰国間際にはブダペストで一番大きい広場で学生たちに練習の成果を披露しました。さらに日本に帰ってくる時には、ウィーンとプラハの広場や通りでも少し大道芸を行いました。外で大道芸を行うことは勇気のいることです。とくに私たちは技術的にも未熟だったので自信がありませんでした。しかし、とにかく挑戦したい気持ちがありました。ウィーンでは通りで見せるかどうか迷っていましたが、ある日「明日やろう」と決めました。しかし、当日になってみると「やっぱりやめようか」などと弱気になりました。その朝ジャグリングができそうな場所までは行ったのですが、自信がなくアイスクリーム屋で時間を潰したりしました。でも、思い切ってやってみました。最初はほとんどの人が通り過ぎていきました。そのうち、こちらも向きになり「こうなったら誰かがお金をくれるまで、やり続けよう」と決め、ねばっていたら小さな子どもがお金を置いてくれました。この時はドイツ語で大きな声で「ありがとう」と言いました。その時から多少自信がつきました。

 話は変わりますが、私たちの共通語について説明したいと思います。私たちの共通語はハンガリーにいる時から今まで基本的にハンガリー語です。しかし、お互いにコミュニケーションできる言語としては日本語、エスペラントがあります。ですから、時々共通語を日本語やエスペラントに変えて話すこともあります。また、私も妻も基本であるハンガリー語に他の言語が混ざることがよくあります。私たちにしかわからない新しいハンガリー語が生まれつつあると言ってもいいでしょう。私はこの新しい言語を否定的ではなく肯定的に評価しています。なぜなら、異言語間のコミュニケーションを通じて私たち自身で生み出した新しい文化だからです。

 さて最後になりましたが、私たちの異文化体験について述べてみます。私は日本文化、妻はハンガリー文化を背景にもっています。従って異文化衝突ということが起こり得ます。身近な例をあげれば、妻は一般的な欧米人のように私に「愛している」と常に口に出すことを願っています。しかし、一般的に日本では夫が妻に「愛している」と言うことはあまりありません。日本人である私は「言わなくてもわかっているだろ」と言いたくなりますが、それはヨーロッパ文化で育ってきた妻にとっては不満です。では、どうすればいいのでしょうか。私たちの考えはこうです。お互いの文化は、どちらもお互いにとって大事です。無理に日本的にすることもないし、ハンガリー的にすることもありません。個々の状況に即してお互いに正直に自分の気持ち、文化的背景を説明し、話し合いをしながら、妥協点を見つけていくしかありません。言い換えれば言語と同じように私たち自身の新しい文化を創造していかなければならないということでしょう。これは苦痛でもあり、同時に喜びでもあると思います。突き詰めれば文化に関係なく個人と個人がお互いを理解し共存していくためには私たちのしているようなことしか方法がないように思えます。ちなみに「愛している」に関しては私はかなり譲歩をし、毎日何度も妻にハンガリー語で言っています。

注:以上の文章は「クロスロード」(国際協力事業団 青年海外協力隊事務局 1998年6月)に掲載されたものです。ただ、かなりの加筆があります。