龍野心象

 

 私の父が生まれ育った兵庫県の龍野とそこの揖保川の話。50年以上も前の龍野の風景を思い出してみる。

  

 龍野へは、私が幼いころは毎年盆暮れに両親と帰省していた。父の実家の裏口をでると堤防を隔ててすぐ揖保川があり、幼稚園から小学校3,4年生ころまで夏は1週間ぐらい滞在し、その間毎日揖保川で遊んでいた。

 
 幼稚園のころは中学生ぐらいの子どもが面倒を見てくれて、メダカ取りが上手になった。メダカとりは、手ぬぐいの両端をそれぞれ二人でもって、足で追ってメダカをすくい上げて一網打尽にするというもので、それを持ち帰りたらいに入れて一緒に入っていた。たぶん祖母が生き残ったメダカを川に戻していたと思う。

 

 堰がある場所は川幅が50m程もあり深くて、小学生になってから祖父が付き添ってくれて初めて対岸まで泳げた。そのあたりの子どもは夏休みは一日中海パンで、昼食時以外は朝から夕方まで揖保川で遊んでいた。川の水は透き通って丸石の川原や小さい砂地や淵が所々にあり、年齢に応じそれぞれに遊べた。船遊び用の10mぐらいもある木造船が昼間は係留されており、川の中央部は水深も十分あった。

 

 旧城下町には揖保川から川の水がひかれ、狭いがかなり速い流れの石積みの水路があり、所々の水路へおりる階段では洗濯をする女性を良くみかけた。冬の朝は手を真っ赤にして女性達のはく息が白く、たくし上げた手足からも湯気が立っていた。洗濯物をパンパンと石にたたきつける音が遠くまで響いた。子ども達だけでなく大人にとっても川は生活と切り離せない大切な存在だっただろう。

 

 このような子供時代の体験のおかげかどうか、私は今も山や川が好きなのだが、その揖保川が昭和の終わり頃には全国でワースト5の常連に入るぐらいに汚染された川になった。主に市街化と皮革工場の廃水のせいだった。鮎釣りの釣り人など全くみられず、川原に出てもいやな臭いがして、みんな川に寄りつかなくなった。

 

 現在も国交省が毎年一級河川の水質を発表しているが、全国の川の汚染度はかなり改善されて、昨年度揖保川は環境基準のAランク−BOD2ppm以下。現在は鮎釣りの釣り人を多数みかけるようになった。だが龍野あたりの川の水は白く濁りとても川遊びができる水質ではない。

 

ずいぶん以前から、泳げる川を取り戻しそういう川を水道の水源にすることが下水や水道事業の目標であったが、今なお泳げる川は少なく、東京都のように下水の処理水を水道の水源としているところもある。

 

 江戸時代以前は川は田んぼの水源であるとともに交通手段であった。交通とは米を運ぶ手段であり町は川沿いに発達した。川は船がいつも通れるように年間を通じて水量を確保するために、上流の水源地には涵養林を育てた。現在は大河川であっても大量に水道水を取るために、雨が降らないときは殆ど水が流れず、降ればただちに水位が上昇し濁流が流れる。数年前の水道法の改正にあたって、日本の水道はこれからも飲用水を供給するのだ、という確認がなされたが、川からの取水は飲用の最小限にして飲用以外の水は都市の中で循環利用する。そうして日本中の川が泳げる川になる、というのが夢である。

 河川敷き公園やグラウンドではなく、自然の砂地や淵がありメダカが群れる揖保川があれば、龍野は私の心のなかにある昔のような輝きを取り戻す。人々は、夏は路地に縁台を持ち出し、秋はすすきの堤防を散歩し、冬は子供達が河川敷でたこ揚げし、春はツクシを摘む。かっては日本中が、そうであったに違いない。


END

2011.10.8 作成