2016年1月


2016年1月10日 ベッキーをきっかけにして

 年明け早々からタレントのベッキーが、ゲスの極み乙女「川谷絵音(えのん)」との交際発覚、というニュースが新聞、週刊誌をにぎわせた。今日あたりはようやく下火になってきたが、テレビ報道はベッキーが各局それぞれの人気番組に出演中なだけに、批判がましいものは少なかったようだ。週刊誌やウェブのコメントは辛辣で、一部CMの降板が伝えられるとこれに追い打ちをかけるような口調が目立った。

 いったい不倫は悪か。
 法律は善悪を規定するものではない。まして不倫は民法上のルールである。相続や扶養義務を基礎とする家族という制度の前提として親子の関係性を明確にするために論理的に必要とされたルールに過ぎない。きわめて個人的な行為を、結婚という契約によって社会的な行為に転換させるところに無理がある。
 結婚とは何か。子育てと親の扶養を家庭という個人に法的に担わせるための制度。制度上はそこに愛があろうがなかろうが関係ないのである。しかし子育ても親の扶養も、愛がなければ満足にはできない。つまり愛があっての制度なのだ。しかし紙切れ一枚で結婚はできてしまう。愛の認定試験などはないのだ。また子育てや親の扶養の前提となる経済的な基盤や能力を検定されることもない。制度上結婚して得なことは、扶養手当や扶養控除、児童手当など制度以外に、いずれ自分が年老いた時、家族に面倒を見てもらえることだ。
 明治以前ぐらいの昔は、最も多数であった農民の家族のための制度は家父長制程度しかなく、また個人にとってはまことに不自由な時代であったが、大家族のなかで互いが守られる面があった。地域は個人を大いに束縛したが、一方枠の中にいる限りはこれを保護した。それはコメの生産という封建制度の必要から生まれた家族制度であり、また地域のコミュニティであったのだ。
 戦後の家庭像はアメリカナイズされた夫婦と2名ぐらいの子供だけの核家族で、妻は家庭で家事をし夫は外でサラリーマンをする、というものだった。工業化に伴い急速に必要な都市の労働者を大量に生み、一方家事労働や育児を女性に押し付ける仕組みだった。

 現代は、円満な家族やゆたかな家庭生活というものより、きままさや豊かさが個人の目的になってきた。子育てに多額の費用と労力をかけても、子供は年老いた親に見向きをしなくなって、老後の面倒を見てもらえるという投資効果にも期待しにくい風潮となった。その結果、結婚しない人が男性で2割、女性で1割である。この数字は50歳までに結婚しない人の割合(生涯未婚率)であるが、増加率をみると、10年後には3割、2割程度になる見込み。また離婚数は結婚数の3割である。さらに前回国勢調査では15歳以上の独身者は3千万人(男性32%、女性23%)である。現在の傾向が続くと推断すると、20年後ぐらいには15歳以上の日本人の半数以上が独身という時代がやってくる。家族制度は近い将来崩壊するのである。
 そうなれば老人は社会が扶養する。シングルマザー、シングルファーザーも社会が支援するしかない。民法の法体系は家族を前提にした制度から転換し、単身者向きの制度設計をおこなう必要がある。子供や親の扶養義務の度合いを薄めていく必要もある。そういう展望の下に、新しい制度に合致する倫理が必要とされるだろう。
 以前はやったヒッピーの集団家族制度のような形は、シェアハウスという若者の共同住宅が急激に増えている中で生まれるかもしれない。あるいは子供は手厚い制度上の支援の下に女性が育てる女系相続か。はたまた小学生ぐらいから全寮制か。
 
 最後に、来るべき制度の下での新たな倫理については、すでに明らかである。家族の崩壊とともに不倫という概念は無用となる。それを純愛と称するかもしれぬが、人々は今よりも幸福になるのだろうか。



END