2007年9月


2007年9月26日 「ミュンヘンの中学生」子安美知子 朝日文庫1984.10第1刷発行 

 シュタイナー学校というのは、ルドルフ・シュタイナーがシュトゥットガルトに最初の学校を設立し、日本の小学校〜高校にあたる12年間の一貫教育を行う学校。ヨーロッパを中心に世界中に500校以上有る。そのほかは、文末のリンクを参照。

 本書は、娘をミュンヘンのシュタイナー学校へ入れた体験記であり、同時に教育学者である子安美知子が、この学校で実践されている教育の思想と方法について紹介したものである。以下本書より。

 シュタイナー学校では、子供が生まれてから大人になるまでの、ほぼ20年の年月を、三つの「7年期」と呼ばれる段階に分けて、そのそれぞれに、本質的な教育課題を定めている。

 第一・七年期 (生まれてから七歳まで。身体の健全な発育と、五感による環境の模倣。) 子供にとって学び取ってもらいたいものを、ゆったりとその場その場の模倣で身体化していかせる。言葉や生活習慣、そして倫理的な姿勢をも、そういう身体的模倣で学び取らせる。悪い手本を見せておいて「こうしてはいけません」というのはこの第一・七年期には通用しない。

 第二・七年期 (七歳から十四歳まで。芸術体験によって世界を美的に感じ取る。) 子供の歯が抜けかわる頃、これまで膜に包まれてもっぱら内部で生命現象を司ってきた生命体が膜内での働きを終了し外部に出る。外界との膜を持たなくなった生命体によって、子供は同じ外界にある、ほかの生命体を意識することができる。他社と自己との区別がつく。それまで他社を身体的(本能的)に模倣していた子供が、今度は与えられるものを意識的に取り入れようとする。ここで学校という世界が始まる。生命体は、いままで膜内で身体、感覚器官に向けてきた力を、これからは記憶や気質の形成に働かせるようになる。ただし、感情体がまだ膜の中であり、十分な感情教育が必要で、この感情体を保護しながら熟させていくためには、まだ決して思考や抽象概念などを子供に押しつけてはならない。それをすると、感情体が自然な成熟を遂げられず、感情面の未熟な人間となる。子供に記憶をさせるための勉強は、思考を要求するものではなく、感情を通す。したがって芸術教育となる。数学や文法など抽象概念が必要だと思われるような勉強でも、一つの芸術体験として、子供がまず感性で触れていくようなやり方で行われる必要がある。また七歳までの子供にとって、大人は模倣の対象だったが、第二・七年期には子供にとってもっとも重要な大人、つまり学校の先生は「権威」となる。子供が安心し、愛をもって頼り切ることのできる「権威」なのだ。そういう「権威」を体験しなかった子供は、のちに自立した人間になれない。大人になってから代償権威を求めてしまう。本当の自由を体験すること、自分の判断を自信を持って下すことができなくなり、他によりかかりながらしか生きられなくなる。

 第三・七年期 (十四歳から二十一歳まで。嗜好把握によって世界と人間のことを知る。) 十四歳になった子供は「権威」であった大人から離れる。シュタイナー学校の先生はその担任の最後の時期に、この子供達の自立劇を、反逆という形で体験する。それが、これまでの七年間をつうじて継続した権威にむかってこそ、なされる必要があるので、担任は八年間の持ち上がりになっているのだ。第三・七年間での教師は「人間」であれ、ということにつきる。すべての教科がその人から流れ出てこなければならないような「権威」である必要はなくなった。そのかわり、専門の教科に関しては、限りなく生徒に、賛嘆の気持ちをよびおこすようであってほしい。同時に人間としてのひとつの個性が、その先生を通じて生徒のまえに現れ出るようであってほしいのだ。

 身体、生命体、感情体、自我、この四つの構成体は、教育に当たる大人の側にもあるわけである。それを私たちは子供の成長にあわせて、子供のなかで次回の出生を待って、膜の中にいる構成体にあわせて、自分の中のそれと同じ構成体を一番強く働かせる、というふうに発揮してみよう。

 以上、「ミュンヘンの中学生」より。


 本書は、作者の「ミュンヘンの小学生」に続く著作であり、本書の出版時点では娘はシュタイナー学校を卒業している。娘を通じてシュタイナー学校の一通りの教育課程を体験し、また教育学者としても十分な研究の期間を経たうえで出版された。教育学といえば、昔ユリイカの「現代教育学」特集で、ピアジェの「子供と大人の違い」は、「自己中心言語」すなわち他者を意識しない言語の割合が大半であるのが「子供」、という言葉が印象的だった。ウィキペディアのピアジェをみてもらうと、ピアジェの思考発達段階説というのがあり、ルドルフ・シュタイナーの思想とちょっと似ている。
 
 いったい日本の教育は、子供の成長過程をどのようにとらえ、学校教育をどのように位置づけているのだろうか。日本の小中学校の教育科目は、単に教科教育学のそれぞれのプロセスを割り当てたに過ぎないように見える。日本でシュタイナー教育は異端であるだろうことはわかるが、教育関係者は私が一冊の本を読んだ以上に知っているはずだ。そうであるなら、どこでどういう議論や研究が行われたのかが知りたいものである。

 ウィキペディア「シュタイナー教育」 
 ドイツの学校とシュタイナー教育
 子安美知子のホームページ



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