2006年12月


2007.12.24(日) 「ドイツ婦人の家庭学」 八木あき子 1983年新潮社より発行。1990新潮文庫初版発行。
 作者は放送作家。1959年以降30年間ドイツに住む。ヨーロッパの放送マスコミ界で仕事をし、日本の新聞、雑誌にも多数寄稿。

以下本書の「序(Vorwort)にかえて」より。
 女性たちだけで理想社会を作るわけにはいかないようだ。そうであるならまず、“城”でもある家の中を自分の手で心地よく、なおかつ合理的に切り盛りすることから始めるべきだ。その時、世の男性達が本当に求めている寛ぎの場というのは外ならぬ女のその“城”を措いて措いて無いということが、男性のみならず女性自身にもはっきりわかる。そのように男性の造った世界を内側から征服していくことこそ実は、女性の真の仕事と言えるのかも知れない。ひいては外部(社会)をも、女性達のセンスで以て充実させていく、ということにも繋がる。女性の内なる充実こそが、その出発の第一歩ではないか。
 ドイツ女性といえば、まず質素倹約良妻賢母といったイメージがあるが、私の経験でも一般にドイツ女性は、生活の上での実用的センスという点でひときわ優れている。ドイツ女性がなぜ合理的な暮らしぶりを身につけたのかというと、まずドイツが位置する中・北部ヨーロッパの厳しい自然を無視できない。激しい自然環境に加えてゲルマンの男達は昔から絶えず戦に明け暮れていたから、婦人達の生きる条件はさらに輪をかけて過酷なものであった。このように彼女たちの積極的な姿勢は、長い歴史の積み重ねと自然の過酷さなどにより一見男勝りのたくましさが養われたのだ。いわゆるドイツ的合理精神というものは、「即物的(sachlich)」な精神とも言えるが、特にドイツ婦人にとって重要なことは、人のいる場所の「居心地の良さ(gemutlichkeit)」である。私たちがドイツ女性から学ぶものは、彼女たちの“ザッハリヒ”そのものではなく、合理精神に裏打ちされた"ゲミュートリッヒカイト”であろうと思われる。
/以上「ドイツ婦人の家庭学(序にかえて)」より要約。

 本文では、あらゆる家事に関することやマナー、ホスピタルについて作者の体験を交えながらハンドブックさながらに具体的に記されている。犬養同様に窓の話から始まるのは、ことほどにドイツ人にとって窓を美しくするのがマナーといえるほどに大切なことなのだ。作者は職業を持つ女性であるのだが、ドイツでふたりの子供を産み育てる中で家主夫人等から様々な知恵を伝授される。成長した子供と同居しないドイツでは、このように隣近所の付き合いのなかで作者のように様々な知恵を授かるらしい。

 解説(木崎さと子)より。
 「日本の家庭は慣習と呼べるものを失い、寄るべき哲学を失って、右往左往している。日本の一般家庭が、偽物であれ、"西洋式”を取り入れてきたのは、主体的な選択の結果ではなかった。住まいに関することだけでなく、食生活も衣生活も、子供の教育問題も、あらゆることが後手後手に選ばされた折衷方式だから、自分で考えるには大変すぎるのだ。日本の農家へ嫁いできたフィリピン人女性は、日本式でもフィリピン式でもない第三の道を工夫していくことだろう。自分自身にも周囲にも余り大きな犠牲を強いず、誇りを持って家庭とその環境を愛していける心の状態を発見して、努力の基盤をつくっていくしかない。私たち日本人の家庭経営も同じだ。どういう家事のやり方が私たちの心に喜びと情熱を感じさせるか、そしてもろもろの外国人と共に、互いに家庭文化の違いを楽しく語り合えるか、私たちは模索しなければならない。」
/以上本書の解説より要約

 解説のこの文には共感する。日本の戦前にも家庭や地域で連綿と生活の規範が伝えられてきたのだ。それは明治に日本を訪れたドイツ女性フリーダフィッシャーの日記でもわかる。戦後の日本は生活の規範どころか倫理や秩序も変節した。日本人は個々が自分の生活を造ってゆかねばならなくなったのだ。作者のドイツは既に一世代以前となった。情報化の波以降のドイツ家庭はどうであろうか。観光客としてドイツの田舎を訪れる我々は、花で飾られた美しい窓を今も見ることができるのだが。


 関連GAB(ドイツと日本に関する本の読後感)
 2006.11.26 「ラインからきた妻と息子」 湯浅慎一
 2006.11.01 「ラインの河辺」  犬養道子
 2006.04.19 「ドイツの犬はなぜ幸せか」 グレーフェケ子(あやこ)
 2004.05.16 「明治日本美術紀行」 フリーダ・フィッシャー

 和独辞典 http://www.wadoku.de/
 ドイツ家族ドライブ紀行(私の旅行記です)


2007.12.23(土) 遺伝子組み換え食品の人体への影響  

 日本では遺伝子組み換え食品の安全性検査が、法律により義務化されている。食品安全委員会は、遺伝子組み換え食品の開発者の提出資料に基づいて、作物としての形や性質、栄養成分などが非組み換え食品と違いが無く、「実質的同等性」があるかどうか判断する。同等である場合には、導入された遺伝子の安全性や、新しくできたタンパク質の有害性の有無などを確認し認可する。
 実質的同等性に基づき評価する理由は、遺伝子を導入する前の既存の食品(作物)で、「安全=ゼロリスク」を証明されたものは無いためだ。どんな食品にも発ガン物質など未知の物質が含まれ、未知のリスクがある。そのため、遺伝子組み換え食品もまず既存の食品と同等のリスクがあることは許容した上で新たなリスクが生まれていないかどうか調べる。
 専門家が重視するのはアレルゲン性の確認であり、国立医薬品食品衛生研究所によれば、これまでに国内で安全性審査を終えた組み換え食品ではアレルゲン性と免疫毒性は確認されていない、とのことである。耐性菌の不安についても既存の食品を上回るリスクが科学的に示された組み換え食品はない。米国など遺伝子組み換え食品が普及している国でも健康被害の報告はない。
 現在日本で販売を認められている組み換え食品は、大豆、トウモロコシ、ワタ、ナタネ、ジャガイモ、天災、アルファルファの7作物。実際に流通しているのは大豆、トウモロコシ、ワタ、ナタネであるが、国内では商用栽培されておらずすべて輸入品。これらを原材料にして加工食品を作る場合、豆腐やコーンスナックなど31食品群には表示義務がある。しかし醤油や油は組み換え遺伝子やタンパク質が加工段階で除去・分解されるため、表示義務はない。
 米国では組み換え作物と非組み換え作物が不分別のまま流通しているため、日本で表示義務のない加工食品(しょうゆや油)のメーカーは、不分別の作物を使い、表示義務がある加工食品(豆腐やコーンスナック)のメーカーは非組み換え作物を使用するのが一般的だ。日本向けに分別された非組み換え作物は1〜2割高価なのが実情である。
 EUは98年から遺伝子組み換え作物の新たな承認を停止してきた(モラトリアム)が、2004年に承認を再開した。米国やカナダが2003年に「EUのモラトリアムは保護貿易主義に基づき、科学的根拠を欠いている」として世界貿易機関(WTO)に提訴し、WTOは2006年2月EUはWTO協定に違反している、との中間報告を出した。
 また、日本はじめ各国は遺伝子組み換えによってβカロチンを強化したゴールデンライスなど栄養改変作物や医薬成分を産生する作物を開発中である。これらに対しては「従来の実質的同等性の概念を適用した安全性評価はできない」という意見もあり、今後FAO/WHO合同食品規格委員会がその評価法を検討していくことになる。
 結論=「既存の食品を上回る人体リスクが示された組み換え食品は無い」

/以上、日経エコロジー2006.8記事を要約。


 引用元は日経の記事だから、遺伝子組み換え食品に肯定的な立場で書かれている。「実質的同等性」とは外形や栄養だけを言うらしい。その後の安全性審査でアレルゲンと免疫毒性について新たなリスクの有無を確認するとのことだが、検査とは一定の条件下のみでの安全性を調査するのだ。長年自然界に存在し、人類が食用してきた作物でない以上、人類や他の生物にとって未知のリスクが生じる可能性を排除できないことが問題なのである。

 既存の食品に未知のリスクがあっても、それは誰のせいでもないが、遺伝子組み換え食品には製造者の責任がある。しかし企業の責任は有限であり倒産すれば満足な補償すらできないのだ。遺伝子組み換え食品の表示義務は、その責任(または制度の責任)の一端を消費者に負わせるだけにすぎない。

 さらに、大豆やトウモロコシといういわば食料分野の戦略物資と言える作物の生産が、米国の特許となる遺伝子組み換え作物を通じて、いずれはグローバル企業の支配下に入るということが第二の問題である。水と食料とエネルギーが、国家間競争勝者の三種の神器と言えるのではないか。種苗ビジネスと遺伝子組み換え技術がアメリカの食料戦略のツールであるようだ。

 作物の遺伝子操作技術は食料生産を効率化させる。重要なことは核同様に、食物の安全性の検証方法と情報公開である。企業論理を優先させるような国家や、そのような国家の強い影響下にある国際機関は信用すべきでないということだ。


END
2007.1.8 「ドイツ夫人の家庭学」 昨年読んだ本なので12月に掲載
2007.1.7 「食品の安心、安全」 に掲載した文を転載。