2006年11月


2006.11.26(日)  「ラインからきた妻と息子」 湯浅慎一 1983年9月文化出版局刊、中公文庫1988年初版発行

 作者は1938年生まれ。日本の大学を卒業後、1964年26歳でケルン大学へ留学。1976年に帰国し、1980年から信州大学勤務となった。本書出版当時は京都府立大学医科大学教授。ケルン大学では哲学と法学の博士号を得た。旧西ドイツに12年住み、ドイツ人女性マルガリータと結婚し子供が生まれた。その後家族で日本に移り住んだ。哲学者の実践的比較文化論と言ってしまえば文庫本の腰巻き的表現だが、個人的な体験を哲学者らしい語り口で綴るところが本書のおもしろさである。以下、日本男性と外国女性の結婚について。

 「残業や会食という男性的労働時間ゆえに毎晩遅く帰宅し、その上休暇もほとんど無い日本の平均的日常生活に、多くの外国女性は耐えられない。現代の殆どのヨーロッパ人にとって、自ら喜んで日本人並みに働くことは狂気であり、会社という他人のためにしかたなく働くことは悲惨を意味する。日本の男性がこの「狂気と悲惨」を克服しないかぎり、あるいはこれを彼女らが忍従しない限り、国際的なロマンスの花を咲かすことはできない。」

 「東西の男女は、たいてい文化(ロゴス)と愛(エロス)の両者を通して出会うのではないか。ロンドンの屋根裏部屋でヨーロッパのロゴスに対決した漱石の留学生活と、ハイデルベルクで悠々とヨーロッパのロゴスとエロスに生きた鴎外の留学生活を対比せざるを得ない。欧米で生き延びる方法はひたすら強烈に自己主張することであり、漱石のようにひとり屋根裏にひっこんでいては自己主張もできず、傷心のうちに帰国しなければならなくなる。プレイボーイであろうと決心するのでなければ、外国人は全面的に自国の固有性を表現しなければ軽蔑されるだけである。」

 長男の学校生活のことなど様々なエピソードについて、日本の社会制度や風習、日本人の気質について豊富な語彙で語られているところがこの本の魅力である。だが作者は伝統的なドイツの家庭を知っているとは思えず、彼の妻マルガリータはそこから脱出したかったのではないか。マルガリータの意見をもっと聞きたいところである。日本人の相互依存的な社会のほうがより動物的に自然で、ヨーロッパよりも精神的に楽だとは私も思っていた。本書に触発されて、またぞろ日本と日本人のことを考えてしまう。−日本人は言葉をあまり重視しない。論理よりも情。


2006.11.25(土) プラダを着た悪魔 THE DEVIL WEARS PRADA

 主演アン・ハサウェイ(Anne Hathaway)、メリル・ストリープ(Meryl Streep)、制作アメリカ、2006.11.18公開.
 学校を卒業してニューヨークの一流ファッション誌に勤め始めたアンドレア・サックス(Anne Hateaway)は、ファッションセンスのまったく無い、編集者志望の女性だった。そこにはファッション界のリーダーであり社内では誰ひとりとして逆らえない鬼編集長ミランダ・ブリーストリー(Meryl Streep)がいた。ミランダは、誰もがその華やかな仕事を望むが誰もが長続きしない自分のアシスタントの後釜として、これまでに無いタイプのアンドレアを採用したのだ。アンドレアは昼夜無く携帯で私的な雑用まで命じられ、無理難題を押しつけられ奮闘しながら、次第に敏腕秘書としてミランダにも認められてゆく。そして一流ブランドの服を着こなし、ミランダと共に華やかな場所へ出るようになる。だが、ミランダがその地位を追われそうになったとき、自分を守るための部下への非情な仕打ちを見て、ミランダの元を去り華やかな仕事も捨てて、以前の彼と普通の暮らしへ戻ってゆく。
 
 「どの映画が人気があるの?」と聞いたら、チケット売りのおねいさんがこれを勧めてくれた。特に女性の人気が抜群とのこと。ブランドファッションがてんこ盛りである。もっさりファッションだったアンドレア(アン・ハサウェイ)が一流ファッションを着こなし、モデルのように歩く。感情のないモデルのファッションショーと違って、とても生き生きとした装いに見える。ファッションは着る人の個性と一体になっていっそう美しいのだ。
 アン・ハサウェイが魅力的だ。アンはウェストも太くてモデルのようにスレンダーではないから、たぶん服はサイズアップした特注だ。だが手足が長く、タレ目の童顔がとても魅力的。のどの奥で「ケケケ」と笑う声の出し方もはやるかもしれん。字幕スーパーだから生の声が聞けるのだ。
 まあ、プリティウーマンとか、ノッティングヒルのような他愛のない映画だが、ニューヨークやパリの華やかな都会と最先端のファッションが堪能できるし、男性も楽しめる映画。音楽ものりとセンスがよくて上出来。
 おっと忘れてたが、メリル・ストリープは悪魔の役だ。やさしいお母さんや田舎の人の良いおばさん役がはまりどころなのに、今回は思いっきりダイエットしてこけたほおで一流ファッションをまとって出演した。マジソンではわざわざ太って役作りをした彼女であるから、やせるのも簡単なのだろう。彼女の新しい面をみられる映画。

 オールシネマの「プラダを着た悪魔」のページ


2006.11.12(日) 愛国心    (関連GAB、「2006.4.20愛国心について」、「2006.10.14 日の丸・君が代強要違憲、東京地裁9.21判決 」)
 内閣が替わり、新教育基本法改正案についての争点が明確になってきた。愛国心について、「国を愛する態度を養う」としており、生徒ひとりひとりがその態度を評価される。すなわち国旗を無視したり、国家を斉唱しないと悪い点を付けられるということだ。

 この夏以降、学校でのいじめによる自殺が多数報道された。いじめ自殺の真実が明るみに出たに過ぎない。いじめがずっと無くなっていないことは誰でも知ってる。「以前いじめにあった」という当の本人の発言を至る所で耳にするからだ。子供が集団の中でなじめなかったりパーソナリティの問題があることは成長過程の子供には当然のことであり、プロたる学校や教師がこれにきちんと取り組むのは職務そのものである。教育委員会の隠蔽体質や、教師自身のいじめまでも指摘されている。いじめは昔からあったが、以前よりかなり陰湿で、子供にとって逃げ場が見つけられない時代になった。

 「国家の品格」(関連GAB 2006.5.20)でいう、「惻隠の情」というのは、「弱者への哀れみ」という意味が中心だが、私は「恥」の感覚が大切と思う。「他人に悪く思われる」という矮小な「恥」ではなく、自分の中の「規範」に照らして行動することが「恥」を知ることだ。この「恥」の感覚はひとりひとりの心の中の「規範」から生まれる。「規範」をしっかり作るのが、家庭教育や学校教育の役割だ。規範の中心は自我であるが、「規範」とは自我の外郭であるとも言える。たとえば「惻隠の情」は「恥」と同様、その外郭の部分であろう。

 子供だけでなく未熟な大人も、仲間はずれにされたくないから「仲間がどう行動するか」ということだけに捕らわれ、自らの「規範」に照らして判断することができない。いわば規範無き「子羊」なのだ。自我の成長過程は、他者と自分を区別することから始まる。子供のそばにいる大人は、子供をひとつの人格として認めることによって子供の自我を育てる義務がある。そして、大人の規範に照らして良いことはよい、悪いことは悪いと子供に伝えることが、彼の「規範」を形作るのだ。彼自身の「規範」の表出である、モラルや行動に一定の評価をして彼自身にしっかり伝えることが、家庭のしつけの役割であり学校教育の重要な役目だ。

 彼の未熟な規範に照らして、国旗や国歌は敬愛されるだろうか。法は心の中の「規範」を作れない。国家は愛されるに足る国家になれ。大人達が子供に敬愛されることが課題だというのに、学者も教師も何を考え何をしようとしているのかが見えない。


2006.11.8(水) 韓国ドラマ「勝手にしやがれ」 毎週水曜22時〜23時 TOKYOMXTV
 本日第17話。酔って自宅に着いて途中から見た韓国ドラマ。不細工な男(ヤン・ドングン)が、美人達にひどい言葉を浴びせ続けるのだが、もてる。仲間の男達にも「もう来るな、みんなが帰って楽しい時が終わった後に変な気分になるから」と言うのだが、これが一番まともなセリフだった。翻訳がめちゃくちゃなのかも知れぬが、意味不明な言葉と超不条理な展開。もうシュールというしかない。イ・ナヨンという女優が結構魅力的だから、見続ける気になるのかも知れぬが、これでいったい17話もどうやってつないできたのか。ショック。
番組のサイト→http://www.mxtv.co.jp/katteni/全20話


2006.11.4(土)  日展 上野東京都美術館 11.2〜24(京都12,16〜1.14、大阪2.24〜3.25)
 前身の文展から通算して今年は99回目。来年は六本木に建設中の新しい国立新美術館で100回記念と銘打って開催される。都美術館入り口横の見事な銀杏は、11月というのに美しい明るい緑色をして日差しを浴びて輝いていた。新美術館について。六本木ヒルズも、恵比寿ガーデンプレイスも、屋外にはそこそこ大きな木が植えられているのだが、まるでコンクリートに植えられているように、根本まで金属のプレートで覆われていて、とても痛々しい。おまけにイルミネーションの電線が枝を覆っていて、夜はただのオブジェと化す。こういう木は生きている意味がない。都心の新しい建築物の生命を拒絶するような景観が私は大嫌いだ。夜の森は、暗くひんやりとして植物の密かな呼吸を感じて、木々の長い命の営みに圧倒されつつ、動物たる自分を感じるのが夜の森というものだ。新しい美術館はきっと、花を生けられない花器のような、大木の似合わない建築のための建築物に違いない。(違ってたらごめん)
 さて、古びた自己主張しない東京都美術館だ。同時開催中のエルミタージュ展は90分待ちでごった返していたが日展は直ぐに入れた。だが、前日オープンして3日は初めての休日のため、ブラックスーツの先生やお弟子さん達が多くあちこちで挨拶やら立ち話をする人達でちょっとしたサロンと化していた。ゲージツカも権威ある日展に入選するような人は不自由な人達のようだ。
 東京の日展は唯一全点出展されるので膨大な数である。1階はすべて日本画。二階は洋画。三階は書と工芸で、工芸は陶芸、金工、漆芸、木工、織物など様々な素材を使ったオブジェが並び楽しい。地下一階は彫刻である。一通り眺めるのと優に半日はかかる。私はいつものパターンで、陶磁器をじっくり眺めてあとはぶらぶら歩く。
 陶芸は漆器との区別は何とか付くが、金属との区別が付きにくい物もある。白磁や青磁のおとなしい形が好きだが、目新しい釉薬を使った物も目に付く。金賞は、外側全面にマッチ棒のような小さな陶片を貼り付けた器だった。技法は新鮮だが、色は織部のような柔らかい緑で好ましい。
 彫刻は相変わらず女性の裸立像が半数以上を占める。それがみんないかにも一昔前の日本人体型なのはなぜか。今時の若い女性は貧相な体型で、女性の優しさや穏やかさや強さや母性といったようなものを表現できないのかもしれん。ともあれ、芸術の秋をしてきました。 


2006.11.1(水)  ラインの河辺:1973出版。文庫版1976.1中公文庫

 筆者は、戦後直ぐアメリカ、パリに留学したのち、ドイツのボン郊外に2階建ての2階部分を借りて一人で暮らした。。ヨーロッパの豊かな住生活や、市民のモラルの高さについて、様々な体験を記し、ヨーロッパの生活を素直に賞賛し、彼我の違いはなぜ生じたのかということについても語られている。
 この本を読み終えて、断片的に記憶に残っている事柄を綴ってみる。

 ヨーロッパは乾燥しているから、家具や建造物が何百年もの間、腐ったり風化せずに残る。家具や調度品は何代も大切に使われる。
 長い冬は日本のように湿気は無く雪もさらさらで、暗く低温である。だから人々は明るい色彩を好む。
 普通の労働者も、月に一度か二度、地域や同じ職場の人たちと、夫婦でイブニングドレスを着て集まる。
 昼食は豪華で家族一緒にとる。だが夕食は簡素。このことが主婦を家庭に縛り付けているとの批判もあるが、夜は様々な集会や習い事に参加できる。
 低所得層も、住居は十分に広い。
 身障者が自由に外出し、皆が自然に手を貸す。
 寄付やボランティアは当然の義務として、収入に応じて金銭や労働奉仕をおこなう。
 老人ホームは明るく、広く個室で清潔である。
 一人暮らしで不自由な人などは、日本のように放置されることはない。教会や地域住民や自治体がそれぞれの役割を果たす。
 騒音に気遣い、静かに過ごす。規制法があり、皆遵守している。
 キリスト教の精神が背景にある。

 私が初めてヨーロッパへ行ったのは、15年ぐらいも以前だったが、短い旅行中にもこの筆者と同様のことを強く感じた。作者はその理由を、ヨーロッパの長く寒い冬という厳しい気候風土と、キリスト教の博愛の精神が市民の日常に深く浸透していることを挙げている。しかし明治の初期に日本に来た外国人が感動したように、かっての日本も清潔で、季節の移ろいに細やかな感性をあらわす日本人がいたのだ。田舎の生活も外から見れば秩序と博愛の精神に満ちたものであっただろう。戦後のヨーロッパの変化は日本ほど急激ではなかったのだ。そして、ヨーロッパにもジプシーがいたし、古くはインカ文明を破壊し奴隷売買をおこない、戦前はアジアアフリカを略奪した。キリスト教の国が迫害したのは異教徒だけではなかった。とはいえ、今もヨーロッパは美しく豊かで、人々は日本人より大人びていて、相変わらず私にとってもあこがれの的である。

 犬養道子:犬養毅の孫。1921東京生まれ。1948渡米、1954パリカトリック大学で聖書学を専攻。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E9%81%93%E5%AD%90


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