2006年10月


2006.10.22(日)  「非核三原則見直し」発言の背景

 麻生外相が18日、非核3原則を堅持するとしつつも、「核保有の議論をすべきだ」と発言。19日、この発言の説明として「言論の自由を封殺しないという意味」と説明。これを受けて阿倍首相は、「政府の公式な機関で議論することはない」と述べた。(ASAHI.COM)
 中川政調会長は、20日核保有の論議の必要性を強調した。(共同通信)
 阿倍首相が非核3原則の堅持を再々表明しており、23日中国の温家宝首相は、このことを「アジアと世界人民の利益に合致する」と評価した。(共同通信)

 「非核三原則を堅持する」と明言することは、「議論の余地がない」と名言することであり、「核保有の議論をすべきだ」という発言は、「現在は非核三原則を堅持する立場だが見直す必要がある」という意味である。これに対して「言論の自由だ」と言う麻生外相の発言は、かって「核アレルギー」という言葉があったように、日本人の核に対する過敏さに、言論封殺という大げさな言葉の反駁となった。

 「核保有の議論をすべきだ」、という発言は、日本が核保有を目指すというよりも、「米軍による核持ち込みを公認したい」と言っているのだ。原子力空母や原潜が戦略核を搭載していることは常識だ。非核三原則は既に堅持されていないのに、堅持と言い続けなければならないのは欺瞞であるし、核兵器搭載を主な理由としている根強い原潜や原子力空母の寄港反対運動が反米感情や、基地反対運動にも結びついているからだ。米国にとって日本国内に米軍基地を有することの価値を最大限に大きくするためには、核の存在を公然にして、極東諸国への軍事的な脅威を十分に大きくし、人員や通常兵器の大幅な削減を実現することだ。

 戦後の日本の安全保障のかたちと再軍備はすべてアメリカの意のままになってきた。今回もアメリカの意をくんだ人達が仕掛けたようにみえる。


2006年10月15日(日)  北朝鮮核実験に国連が制裁を決議
 1997年に韓国に亡命した北朝鮮の黄書記は、高齢ながら時折TVに出演するので見聞きした人は多いと思う。7月5日に北朝鮮のテポドンが発射されたとき、彼の見解は以下のとおり。「北の日本に対する軍事的驚異は無い。ミサイルが日本に向けて発射されることはないし、まして北の軍事侵攻はありえない。なぜなら独裁者がもっとも恐れるのは自らの生命の危機であり、北朝鮮が他国へミサイルを打ち込むことは金正日が自らの生命を最大の危機に晒すことであるからだ。」、「日本が北朝鮮と交渉することは無意味だ。子供の喧嘩は子供同士では解決できない。アメリカと中国の問題である。」
 確かに日本は国際社会の中でそのアイデンティティを認められているとは言い難い。東シナ海の200海里にかかる海底油田開発で中国が強硬なのはアメリカの石油資本が画策しているだろうとは容易に想像できる。平和憲法以外に戦後、日本が国際社会で一目置かれるようなリーダーシップを発揮したことは無かった。京都会議(COP3)でアメリカの合意を取り付けていれば。イラク出兵を拒んでいれば。米軍基地を縮小していれば。あるいはアジアで政治的な主導権を確保していれば、国連で常任理事国になれていたかも知れぬ。テポドンで騒ぐのは、アメリカの高価なBMD(弾道ミサイル防衛)システムを購入するためか。米軍基地批判(グァム移転費用)をかわすためか。はたまた憲法改悪のためとしか見なされていないだろう。
 10月9日、北朝鮮が地下核実験を発表、本日15日国連の安保理で北朝鮮制裁が決議された。北朝鮮が軍事制裁のリスクを冒してまで核実験を強行したのはなぜか。膠着状態の6カ国協議でより大きな譲歩を引き出し交渉を有利に進めるためとみてよかろう。だが、放置していると数年後にはアメリカの危惧するとおり、テロリストに核が引き渡されることは間違いなかろう。なお、イラクの場合と異なり、米が主導的に北朝鮮に軍事侵攻したところで何のメリットもない。軍事的な脅威が無いことを見越した北朝鮮の戦略と考えるべきだろう。国体護持の補償と各国からの経済援助を引き替えに、核技術は密かにアルカイダに技術者毎売り渡して一件落着、というのが北朝鮮の描いたストーリーだと考えられ、既に日本との二国間問題にすぎない拉致事件は棚上げされる可能性が高い。国連決議についても中国に対しどのような影響力を発揮したかということが外交上の成果と言えるであろうが、名目的な経済制裁の決議においては何の力も発揮し得なかったようである。
 北朝鮮との間に多くのチャンネルを有し、人的、経済的な関係も強い日本であったが、拉致問題以降はむしろ影響力を弱めたと言えるのではないか。アジア外交における務省の非力を実感するところであるが、現時点ではそういう論評を見聞きしていないのも不思議だ。


2006年10月14日(土) 更けゆく秋の夜
 既に秋である。かつ土曜であるから、明るい時刻から飲み始めている。
 司馬遼太郎の「台湾紀行」は、日本統治時代とその後の台湾人にとってさらに不幸だったであろう蒋介石時代までの、台湾と台日関係とについて記されたものである。出版当時(1994年春)は蒋経国が李登輝に政権を禅譲して台湾にとって明るい未来を予感させる時節が到来し、司馬の語る台湾も希望に満ちている。国家とは何か、民俗とは何かと問う時、台湾は歴史が台湾と台湾人を作ったのだ。


2006年10月14日(土) 天候急変
 先週末は7日から9日までの3連休で、海山はにぎわった。北アルプス北部の高山では降雪を伴う荒天となり、白馬では遭難事故が発生した。低気圧が急激に960hpaに発達して、日本近海を通過したためである。この天候急変について、登山者としては予測できた、または予測すべきだったとする意見もあったが、予測困難であったとする意見も多かった。したがって白馬では、計画や装備を検証するとともに、稜線へ二人を置き去りにした後の処置が検証されるべきだろう。
 最近の登山は中高年を募り、技量も不明確なパーティーをたとえば八つ峰から池の平という経験者向きのコースへ連れて行くという。昔は山岳会がそれぞれ責任を持って、メンバーを訓練したものであるが、最近は商売で大勢の素人をにわか仕立てのパーティーで高山へ連れて行くようだ。今回の白馬では1日で2,000mの高度差を登り、引き返す体力が無かったという。登山のツアーでは契約上主催側に賠償責任は無いのだろうが、道義的な責任は大きい。主催者やガイドの名前を公表したり一定の資格を要求すべきだが、それでも商売となれば客の要望を優先せざるを得ず、今後も無理な登山が繰り返されるだろう。


END