2006年9月    


2006年10月28日(土) 水ビジネス
 「地球の水が危ない」岩波新書 高橋裕東大教授(河川工学) 著者の「日本の川」、「都市と水」は私も昔読んだ古典。
 世界各地の水資源の枯渇、水源汚染、水紛争について多数の事例が挙げられている。学者らしく、事実とデータから問題をきちんと指摘している。以下要約。

 水循環の変化を健全化するには、「水循環マスタープラン」を作り、バラバラの水行政の一元化が必要である。

 水に関するシビルマキシマムを設定すべきで、ひとり一日322Lを上限と考えこれ以上にこの数値をあげる計画は慎むべき。そのための水需要抑制型の料金体系とすべきである。

 途上国の水を質量ともに救うためには1,800億ドル/年の投資が必要であり、現在のODAが500億ドル/年(水分野には30億ドル/年)の規模であるので、民間に依存せざるを得ない。そこでフルコストプライシング(すべてのコストを回収できる価格)の概念が生まれた(21世紀の水に関する世界委員会)。しかし世界に28億人にのぼる貧困層にはフルコストプライシング理論は適用できないとの主張も強い。このコスト論の対極としてNGOの多くが主張する「水の人権論」がある。これには水の確保の方法論がない。

 ダム建設は水資源開発技術の中心に据えられていた。しかしl、1980年以後ダム事業への批判が世界的に高まり、94年、米国開墾局のダニエル・ビアード長官が「アメリカにおけるダム建設の時代は終わった」と発言したことが、ダム批判の火を世界的に燃え上がらせた。先進国ではダム建設の有利な地点は開発しつくし、今後のダム建設は不利な地点での環境対策を十分に練った計画でなければならず、コスト高は不可避である。しかし人工が急増しつつある途上国の事情はこれとはかなり異なる。水需要が増大するので何らかの水資源開発をしなければならない。しかも一般に先進国と異なりなお、ダム建設地点は残されている。

 日本は、水田稲作農業による水循環に依存した人間と自然の共生システムのなかで存在してきた同じモンスーンアジアの諸国に対して、果たすべき役割がある。
/以上(要約終わり)

 「水戦争の世紀」集英社新書 著者は社会運動に関わるカナダ人
 本書の水問題の記述はややアジテーション的ではあるが、水問題に関わる政治やグローバル企業の実態を曝いている。以下本書の要約。

 世界水フォーラムを招集したのは世銀や世界的な水道企業であり、2000年ハーグで開催された同フォーラムでは、水を普遍的な人権とはせずに市場の需要と供給にゆだねる「商品」と規定した。すなわち、土地とコモンズ(共有財産)から水を分離した。水危機が拡大している世界は多国籍企業が動かすグローバル経済の支配下にある。政府は公益、つまり社会一般の利益を守る責任をほぼ放棄し、企業の権利を国民の権利に優先させるようになった。グローバルな水危機の原因を理解するには、グローバル化のこうした力と正面から対決する必要がありそれによって初めて解決策が見いだせる。
 私たちの時代を支配する開発モデルは、経済のグローバル化であり、冷戦後の時代を明らかに象徴しているのは、民主主義や環境への責務ではなく、経済の自由だ。経済のグローバル化はベルリンの壁が崩壊して以後に加速された。二次大戦後、工業超大国として台頭したアメリカは、大量生産する消費財を売りさばくグローバル市場を開拓し、自由市場体制とその価値観を世界に広めようとした。このイデオロギーはその後「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれるようになり、政府による貿易や投資、金融の大規模な規制緩和を特徴とし、新しい世界秩序の公式イデオロギーとなった。資本、商品およびサービスが政府の介入や規制に縛られず国境を越えて自由に流れることが不可欠である。このイデオロギーの根底には、資本の利益が国民の権利に優先するという信念があり、そのためワシントン・コンセンサスは「民主主義の遅滞」と呼ばれてきた。
 経済自由化のドクトリンは、経済界と政界の中枢メンバーで構成された三極委員会により、世界経済とIMF、世銀、GATTなどの構造を改革し、国境のない世界を作るため、世界貿易の関税と非関税障壁を削減するように呼びかけた。南半球の非工業国の債務が増えると、三極委員会は「構造調整プログラム」をこれらの国に押しつけるようIMFと世銀に提案し、グローバルな自由市場の優先事項に合わせて経済政策と社会政策を根底から変えさせた。世界貿易のルールは、グローバルな水道企業の権利や水道の民営化、淡水の大量輸出を守るためにある。北米自由貿易協定(NAFTA)や世界貿易機関(WTO)のような国際貿易体制が、水を「商品」、「サービス」、「投資の対象」として分類し水を商品としている。政府が水の大量販売と輸出を禁止したり、外資系の水道企業を事業権入札に参加できないようにしたりすれば、WTOかNAFTAの国際的な貿易ルールに違反したことになる。どちらの貿易体制にも強制力があり、貿易紛争に関する裁定は加盟国に対して拘束力を有する。
 WTOはまた、米州自由貿易圏(FTAA)のような地域貿易体制に守られている。WTOではパネルの審理を求める前に、企業は自国政府を納得させる必要があるが、NAFTAの「投資家対国家」の紛争解決メカニズムは、提訴された側の国内法と司法制度のいずれも無視して中央政府を直接提訴できるという前例のない権利を多国籍企業に与えている。この仕組みが盛り込まれたFTAAが批准されれば、ビベンディやスエズは南北アメリカ大陸全域の政府を提訴できるようになるのだ。FTAAでは、すべての外資系水企業には「内国民待遇」や「最恵国待遇」の地位が与えられ、各国政府による資本の流出入に関する規制を禁止している。将来の利益を含めた企業の資産もしくは価値を減じるかも知れない法案を通過させあるいは規制を課すれば企業が政府を提訴できるのだ。この規制には環境や消費者の利益、公衆衛生のニーズを守るためのものが含まれる。FTAAの暗黙の目標は公共サービスの民営化を促すことにあり、政府が新たな公共サービスを提供できなくすることと、維持する力を損ねることだ。
 IMFと世銀の「構造調整プログラム」(SAPs)は、南の債務国をグローバル経済に統合させる金融の道具であり、公共部門の縮小をはかり、医療と教育と福祉にかかわる政府支出を削って国営事業を民営化し、国内経済を輸出中心の生産に方向転換させた。この20年で南北アメリカの水道システムの買収に必要なSAPsの条件がすべて整った。さらにFTAAは、民営化と輸出計画を推進できるように、グローバルな水企業に法的武器を与える。また、WTOとIMFおよび世銀のようなグローバル化を推進する機関への抵抗の高まりを背景に挫折した多国間投資協定(MAI)にかわり、二国間投資協定(BIT)が、多国籍企業に多くの権限を与えていることはあまり知られていない。

 民営化モデルは効率の向上や公正な分配よりも企業の増益を主な目標としている。企業は水の消費を増やそうとするが資源の保全に配慮しないためいずれ維持できなくなる。民営化論者は、公営よりも民営のほうが説明義務が強化され透明性が確保されると主張するが、実態は反対であり水道企業がかなりの利益を得て一方水道料金が大幅に値上げされた地域が少なくない。また民営化という政治課題の背後には公共サービスを提供する部局が非能率的だとの前提があるが、チリやブラジルの公営水道では近代化と効率化とを実現している例がある。

 私たちが拠り所とする基本理念は、「ワシントン・コンセンサス」のそれとは正反対である。淡水は地球と全生物種のものであり、個人の利益のために水を使う権利は誰にもない。水を社会の「コモンズ」として保護し、各国内の条例や法律、国際法によって守るべきだ。コモンズを通して私たちは人類愛に目覚め、子孫のために保護すべき天然資源があることに気づくのである。
/以上(要約終わり)

 ブラジルのルーラ大統領がFTAAを拒否したのは9月(8月?)のことで、記憶に新しい。先進国の援助はFTA(自由貿易協定)といういわば植民地化と引き替えなのである。(資料参照−ただし資料はFTA肯定側の資料) 


[関連資料]
神戸大学経済経営研究所 西島章次教授のサイト   「米国の保護主義に反発強めるブラジル」 
JETRO 政治動向「ブラジル」


2006年10月14日(土) 日の丸・君が代強要違憲、東京地裁9.21判決
 日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強要するのが違憲というのは当然だ。ブログでも当然の判決という意見が多い。国旗や国歌が、忌まわしい記憶に結びつくのは私だけでは無かろう。戦後直ぐに生まれた子供達は当時の大人達からあらゆる機会に伝えられて来たのだ。国旗や国歌は国家の表象である。だがそれらはかっての悲惨な戦争の表象でもあったゆえに、60年経った今もなお受け入れられないのだ。サッカーで君が代が始まると複雑な思いを抱くのは、私の世代に共通の感情ではないか。
 判決は良いとして、教育の現場では子供の前でどう振る舞いどう説明するかという問題がある。教職員はそれをどのように議論してきたのかが聞きたい。そして説明できないとしたら、教育の現場には日の丸も君が代も不要と思う。
 国旗や国歌の強制が教育基本法改正で議論されている「国を愛する心」を育むとは考えられない。それは、愛情や信頼という人と人との絆を深めることによって育まれるのだ。そして、親や先生など身近で他者たる大人達が青年や子供達に敬愛されることから始まる。


END

9月の話題なので9月に掲載したものです。