2006年5月

2006年5月20日(土) 「国家の品格」
 著者:藤原正彦、1943年生まれ。お茶の水女子大理学部教授。数学者。
 [要約]
 論理には出発点が必要だが、それを選ぶのは主に選ぶ人の情緒である。情緒とは論理以前のその人間の総合力といえる。経験がその人の情緒力を形成し、論理の出発点を選ばせている。宗教や慣習からくる形や伝統も無視できない。情緒力や形というものを身体にすり込んでいない人が駆使する論理は、ほとんど常に自己正当化に過ぎない。
 世の中の論理には絶対的に正しいことは存在しないし、絶対的な間違いもない。また、論理は長く進めて深みに達するが、日常の論理は長いと危険で、使い物にならない。一方短い論理は深みに達しない。したがって、論理というものは本来効用がほとんど無いものである。
 「自由」という概念は、戦後特に強調されてきたが、「身勝手の助長」にしかつながらなかった。人間にはそもそも自由が無く、我々の行動や言論は全面的に規制されている。必要な自由は権力を批判する自由だけである。「自由」とは、欧米が作り上げてきたフィクションである。国家とは人民が自由を放棄した状態を言う。
 民主主義も同様である。民主主義の根幹は国民主権すなわち主権在民であるが、主権在民の大前提は「国民が成熟した判断をすることができる」ということである。しかし、民主主義や主権在民は平和を保証するものではなく、民主国家で戦争を起こす主役はたいてい国民である。主権在民とは「世論がすべて」ということであり、国民の判断材料はほぼマスコミだけであるから、事実上、世論とはマスコミであり、いわば、日本やアメリカにおいてはマスコミが第一権力になっている。民主主義国家でマスコミが発達すれば行政がポピュリズムに流れるのはほぼ必然といえる。「国民は永遠に成熟しない」ということが冷徹なる事実であり、民主主義に大きな修正を加える必要がある。暴走の危険をはらむ民主主義を抑制するのが真のエリートである。エリートは教養を身につけ、圧倒的な大局観や総合判断力をもっていること、そして国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることが必要である。昔の旧制中学、旧制高校はこうした意味でのエリート養成機関であった。
 平等もフィクションである。差別ほど醜悪で恥ずべきものはないが、この「差別」にたいして「平等」という対抗軸を無理矢理立て、力でねじ伏せようというのが、闘争好きな欧米人の流儀なのである。我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠をもって応じた。弱者、敗者、虐げられたものへの思いやりである。惻隠こそ武士道精神の中軸である。ひとびとに十分な惻隠の情があれば差別などはなくなり、従って平等というフィクションも不要となる。
 論理や合理は重要であるが、それだけでは人間はやっていいけない。付加すべきもの、論理の出発点を正しく選ぶためのものは、日本人の持つ美しい情緒や形である。日本人の持つ情緒や形とは、自然に対する繊細な感受性である。「無常観」は仏教が日本へ伝わって、敗者や弱者への共感へと変質した。この無常観はさらに抽象化されて「もののあわれ」という情緒になった。悠久の自然と儚い人生との対比の中に美を発見する「もののあわれ」の感性は日本人がとりわけ鋭い。
 日本の自然そのものが繊細にできており、かつ四季の変化が繊細微妙にできているから、自然に対する感受性というものが特異に発達した。「もののあわれ」の他にも、日本人は自然に対する畏怖心とか跪く心を元来持っている。
 もうひとつ、日本人の誇りうる情緒として、「なつかしさ」という情緒がある。この情緒は「家族愛」「郷土愛」「祖国愛」「人類愛」の基本になる。これは順番が重要であり、「家族愛」をきちんと整えることから始まる。
 「祖国愛」の無いものが戦争を引き起こす。「愛国心」という言葉には、二種類の考えが流れ込んでおり、ひとつは「ナショナリズム」すなわち自国の国益のみを追求するというあさましい思想である。もうひとつは「パトリオティズム」という、自国の文化、伝統、情緒、自然というものをこよなく愛することである。これらは明確に峻別する必要がある。
 武士道は鎌倉時代以降多くの日本人の行動基準、道徳基準として機能してきた。この中には、慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠などが盛り込まれている。それに加えて「名誉」や「恥」の意識もある。武士道とはもともと鎌倉武士の「戦いの掟」であった。いわば、戦闘の現場におけるフェアプレイ精神をうたったものといえる。しかし260年の平和な江戸時代に武士道は武士道精神へと洗練され、物語、浄瑠璃、歌舞伎、講談などを通して、町人や農民にまで行き渡った。武士階級の行動規範だった武士道は日本人全体の行動規範となっていった。武士は権力と教養は独占していたものの、金がなかった。武士は武士道精神という美徳をもっとも忠実に実践しているという一点で、人々に尊敬された。金銭よりも道徳を上に見るという日本人の精神性の高さの現れである。武士道に流れこんだ禅や儒教が日本で根付いたのは、日本人の土着の考え方と適合性が高かったからである。
 美しい情緒や形が重要な理由は「美しい情緒や形は普遍的価値」ということである。イギリスのような大いなる普遍的価値を生んだ国に対する尊敬は、一世紀ぐらい経済が斜陽でも揺るがない。日本の生み出した普遍的価値のうち最大のものは、「もののあわれ」とか、自然への畏怖心、跪く心、懐かしさ、自然への繊細で審美的は感受性といった美しい情緒と、武士道精神という日本独特の形である。また美しい情緒から生まれた神道も普遍的価値である。
 グローバリズムがもたらす効率性はある意味ではすばらしいが、各国、各民族、各地方に生まれた文化や伝統や情緒などは、はるかに価値が高い。効率、能率に幻惑されて画一化を進めてはいけない。そう言う意味で21世紀はローカリズムの時代である。この中核をなすのがそれぞれの国の持っている普遍的価値である。日本人が有する最大の普遍的価値は美しい情緒とそれが育んだ誇るべき文化や伝統である。そして美しい情緒は文化や学問を育ててゆく上でもっとも大事である。独創性を育むのには美的情緒こそ最も重要である。美しい情緒は国際人を育て、人間のスケールを大きくする。知識や技術は蓄積するが、人間としての賢さや情緒力は一代限りである。
 国家の品格を取り戻すためには、「美の存在」と「なにかに跪く心」があること、「精神性を尊ぶ風土」を備えることである。日本はこれらを有しており、先人の作り上げた日本文明の非常に優れた独自性を守り続けるのが子孫である我々の義務である。日本人それぞれが情緒と形を身につけることが国家の品格となる。品格の高い国に対して世界は敬意を払い、まねをしようととする。それは、文明国が等しく苦悩している荒廃に対するほとんど唯一の解決策と思える。
 品格ある国家の指標とは、「独立不羈(ふき)」、「高い道徳」、「美しい田園」、「天才の輩出」の四点である。この世界を本質的に救えるのは日本人しかいない。

 「国家の品格」著者藤原正彦(新潮新書)2005年11月20日発行
=============================要約終わり。以下書評。

[書評]
 読者が共感するのは、「日本は自然が微妙にできていて四季の移り変わりがあり、そこから日本人の繊細さと情緒が生まれた」という書き出しであろう。それは支配階級だけのものでなく、確かに庶民のものでもあった。明治初期に日本を訪れた外国人達の著述を見ると、自然と一体になった形(地方の風習など)を見て、日本人の美徳として賞賛している。
 しかし教科書的な反駁をすれば、日本の自然が優しかったゆえに、太古には風物に神が宿るというアニミズムが芽生え、日本の神道という多神教の原型になった。多神教では良い神も悪い神もいたから、いわば絶対的な価値という感覚が日本人には希薄である。作者が好きらしい禅や儒教は、形無き精神に形を与えたから受け入れられたが、いずれも絶対価値ではなかった。
 自然環境の厳しい彼の地では、自然は多くの恵みを人に与えなかったから、人と人のつながりを緊密にするような絶対価値が必要とされたのだ。人々の行動が画一に見えても、家族や民族を愛する心は日本人よりはるかに強いことは、イスラムの最近の報道を見ても良くわかる。彼らが日本人よりも情緒が乏しいとは言えないだろう。そしてまた、情緒がテロを解決はしないのだ。多くの他民族国家では、個人の情緒そのものが多様であるのだ。現代の日本もしかり。

 この本を読んでいる間ずっと、ある種の不快感が消えなかった。それは作者の、中曽根を思い起こさせるようなエリート意識がふんぷんと臭うからだ。「惻隠の情」とは「弱者への哀れみ」というが、上から見た言葉である。日本人が秀でた民族であるから、他の民族から尊敬される(=支配する)ことを目指すべきだという展開は、日本人にとっていつか来た道である。
 この類のくすぐりは、日本人向けの日本人論に無くてはならぬものではある。 また、作者が女性問題について考えていることは想像がつくが、ベストセルのために触れないことは賢明であった。

 武士道が洗練されたという江戸時代には階級があったし、「恥ずべき」差別があった。貧困もあった。近代の大きな戦争は、確かにその時々は自国民の支持を得たかもしれないが、扇動や情報操作によるものであれば、それは正しい民主主義ではなかったのだ。作者の言う「跪く伝統」とは、皇統もそのひとつのようである。
 ハンチントンの「文明の衝突」は、「中国こそアジアの覇者」と言っている。同書で日本は“?”付きで触れられているのは、日本人の購買力故である。見下してきた中国にアジアの主導権を執られ、自分たちの築いた日本が二流国だとようやく気づいた団塊の世代を慰撫しているにすぎない。そして作者は何の手段も示さず、「情緒と形を大切に」と言っているに過ぎない。

 「先進国のさまざまな荒廃」の理由のひとつに、情報化や生活の多様化や急激な変化があるだろう。愛すべき郷土は、作者の記憶への憧憬に過ぎない。つまり、この本は私には老人の昔語の様に感じるのである。
 この本が成功したのは「国家の品格」というタイトルと、(他人を思いやる)情緒という一点に救いを求めるわかりやすさと、数学者らしい論理の明快さ故と思うが、作者風にいえば、情緒という論理の出発点を選択することに、違和感を禁じ得ない。

 借りた本にいちゃもんをつけてスミマセン。一日禁酒すると機嫌がわるくなるのはアル中の兆しかしら。
END