2006年3月

2006年3月21日(火)  知的財産権における南北問題
 中国が日本のデザインや商標を無償で使用し、いわゆる偽ブランド商品を製造、販売していることは良く知られている。これを輸入し日本国内で販売することはもちろん、偽ブランド商品を国内に持ち込むことは関税定率法21条に違反し違法行為である。税関では年間100万点が差し止められている。
 中国国内で販売することはどうか。中国は2001年12月にWTO世界貿易機構に加入したが、これによって関税の引き下げや知的財産権の国内法整備が義務づけられる。一方加盟国間での自由貿易が保証される。問題があればWTOに提訴され、加盟国による経済制裁もありうる。知的財産権についても、中国国内での法整備は進んでいるようであるが、運用面での問題が大きいようだ。
 本題は、知財権における南北問題である。WTOにおいても、途上国は自国内産業保護のための輸入制限が認められ、多くは農産物に関するものである。だが現実には途上国は、種苗や農薬を先進国から買わざるをえない。
 WTOはアメリカの技術覇権の手段だという意見もあるように、知的財産権の多くは先進国のものであるから、途上国との経済格差を一層拡大する面がある。知的財産権の保護はビジネスモデルにも及ぶから、途上国の産業全体の発展機会を奪い、一種の帝国主義的な支配ができつつあるともいえる。だが一方、大企業は労働力を中心とする資源を求めてグローバルな展開をしており、工業生産において国境はほとんど意味がない現状をみると、国益とはそもそも何かという所がわかりにくくなってくる。途上国では政治腐敗とこれに結びついた特権階級が経済的な利権を独占するような構造が典型的であるが、外国企業が進出することによって、むしろ公正な取引環境を作り雇用を確保し国家の租税収入を増やす可能性が大きい。外国企業の工場はかっては途上国の環境破壊の元凶と見なされたが、現在ではそのような企業は世界的な批判にさらされ存続を危うくされる可能性があり、自国内と同レベルで環境への配慮が求められている。
 また、近年批判されているのは、途上国が必要なエイズなどの治療薬が先進国の企業が特許を独占し高額のため、必要な数量を確保できないというケースであるが、途上国が自国で生産、消費する場合のみ特許の無償使用が認められるようになった。
 結論はいささか楽天的ではあるが、人とモノと情報の自由な動きが公平で均質な社会を作る。その中で、知財権の役割は資源や資本が乏しい途上国においてこそ、知財という権利を守る手段になりうるのではないか。というより途上国は知財で生きて行くより他にすべが無いともいえるのではないか。/以上

2006年3月19日(日)  ケネス・アロー(ノーベル経済学賞受賞者、スタンフォード大学名誉教授、経済学に科学としての厳密さを与えた)  
 我々が環境政策を議論する際の基本的な論点は、未来に対してどの程度関心を持つかと言うことです。つまり現在に対してどの程度未来に重点をおくかということです。ただし、ここでの未来はわれわれ自身の未来というよりも、未来世代のことを考えています。環境に関する多くの問題は、それが河川、海洋などの水質汚染であれ、大気中の二酸化炭素やその他の気体の蓄積によるいろいろな悪影響であれ、長期にわたって影響を及ぼすいろいろなステップを問題としています。そしてこれらの問題を軽減するためには、我々が現在の世代に対して将来世代をどれほど大切にするかと言うことが問題となります。現在と未来のバランスをどのようにとるかということです。つまり、われわれは今苦楽を共にする現在の世代の権利を有すると同時に、部分的にしろわれわれの今日の行動に応じて落胆したり、また感謝することになる将来の子孫の権利にも対処する必要があります。
 このことは哲学的に聞こえますがビジネスマンも現在と将来のバランスをいかにとるかという考え方に慣れているはずです。これらの態度を我々自身あるいはわれわれと子孫との世代間に対して、割引率という直裁的な形で表現してみましょう。
 何が適切な割引率であるのか、つまり、現在と将来のバランスをどうすべきかについては、多くの議論がなされてきました。それに関しては考慮すべきいくつかの論点があります。その一つは将来世代は一般に、いくつかの側面においてわれわれより豊かであると期待することができると言うことです。過去200年間、生産物のために利用されてきた知識の蓄積は、言うまでもなく世界史上、比類なきものでした。知識を利用したのはこのときが始めてではなく、農業の発展も人類の発展において大きなステップでした。しかし、過去200年間、知識が製品に体化されるスピードは、先例のないものでした。そしてわれわれはこのことが、少なくとも今後数世紀にわたる一定の期間は続くだろうと期待して良いものと思われます。したがって、将来世代は現在のわれわれより豊かであることを考慮しなければなりません。
 これとは別の考え方もあります。おそらく、われわれが未来に対して抱く同情(sympathy)あるいは感情移入(enpathy)というのは時間が遠ざかるにつれ希薄になるものと思われます。したがって、私の意見では(他にも考慮しなければならない点がいろいろあるので意見に過ぎませんが)、未来に対する割引率は、4%程度がリーズナブルな数値であると思います。ただし、未来を割り引くとしても、無限にはできません。というのは、われわれは現代世代と100年後世代との差に比べて、100年後の世代と500年後の世代との差を区別して意識しないからです。
 以上のように長期にわたって未来を強調することは、現在特に適切であると思います。ただし、なぜかと言えば、われわれは結局、未来に対する我々の義務についていつも心を砕くべきであったからです。大気中への二酸化炭素排出を防ぐことであれ、海洋の水銀汚染を防ぐことであれ、あるいは有毒廃棄物の適切な処理方法の問題であれ、長期的な観点から物事を考える能力をわれわれは持っていると思います。なぜ、今がそれを発揮するのに適切な時期かというと、ある意味では人類はもっぱら(少なくともわずか数年前々までは)短期的なことに関心を向けていたからです。それは国の存続の問題でした。世界政府のない国際体勢の下では、多くの国がある意味で他の国々に驚異を感じてきました。その下では、攻撃によって利益を得る機会がありました。しかし、冷戦の終焉は少なくとも当分の間、そして願わくば将来にわたって、これらの恐怖から我々を解放してくれました。しかしご存じの通り、われわれは相変わらず内部的問題(最近発生した悲劇によって思い起こすこととなった中東の和平の問題や、旧ユーゴスラビアの問題、そしていくつかのアジアの国々における同じ様な問題など)を抱えており、脅迫の世界はまだ存続しているということを思い知らされます。われわれが長期的観点で自由にものを考えることができるように転換したのは最近であるだけに、私はこの機会こそ、みんながこのバランスを新しい方法で発見し、前進させ、未来に対する永遠のステップを築き上げる良い機会にすべきだと思います。私は第三者としては大胆な言い方かもしれませんが、日本はとくにこの分野で指導的な役割を果たせるのではないかと信じます。
 日本は、実際潜在的には軍事力が大きい国であるにもかかわらず、歴史上まれにも軍事力を求める競争を避ける選択をしてきました。日本は多くの面で軍事力を経済力に代替してきました。しかしこれらの二つの力の間の選択は道徳的には非常に異なる状況に国をおくことになります。他の人々に便益を与えることによってのみ経済力を達成できます。他の国の人々が欲しいと思う財を売らなければなりません。貿易による利益には搾取はありません。周知の通り、貿易の利益があるからといって、貿易交渉が容易でかつ簡単であるという訳ではなく、また問題のない世界はありません。しかし、たとえば世界貿易の体制を考えてみると、貿易の利益は世界の統合に向けて非常に強い影響を与えてきました。しばしば激しく対立する国々も、振り返ってみれば、互いに協調のための多くの努力を行っています。  さらに、一般的な認識では、日本の産業は長期に対する関心、すなわち即時的、短期的なものより長期的に持続する問題に理解を持っていることで知られています。結果的には、日本の産業は、内部では低い利子率の考え方で運営を行ってきましたが、同じ様な思考方法が環境問題の際の集合的な思考にも発揮されることを期待します。
 もちろん、日本は、アメリカと同じように、環境上の誤りや環境政策の間違い、被害を防止できなかった失敗も犯してきました。私は両国とも、他の多くの国と同様にこれらの誤りから学ぶところが多いと思います。私たちは昔は理解できなかった問題を今は理解しています。さらに重要なことには、その問題に対して何かしなければならないという意識が高まってきています。
 環境に関する世界の問題はますます国家を超えたものになっています。最も顕著な問題は地球温暖化ですが、問題はそれだけではありません。いろいろな相互作用があります。例えば、大気汚染は国を超えて影響を及ぼします。水質汚染は至るところで国際的問題を引き起こしました。また、オゾン層枯渇の問題もあげなければなりません。これらすべての問題に対して、合意形成の必要があるばかりでなく、これらの問題を継続的に扱う機構をつくる必要もあります。私は、世界における日本の潜在的な経済力と日本の国際化とその中立的態度が今まで以上に優位に使われることを信じています。
/以上(1995年11月、地球環境と持続的経済成長に関する国際シンポジウム−東京)

 環境のために我々はどの程度の支出をすべきか、という10年前の興味深いシンポジウムの記録から抜粋したものである。出席者中もっとも私の興味を惹いたのが引用したケネス・アローという(存命中の経済学者としてもっとも著名人であるらしい)経済学者の発言である。現在の世代が未来の世代のために、どれだけ支出すべきかということを、未来に対する割引率は4%とするのが妥当であると言っている。
 割引率(Discount Rate)とは、償還差益の額面金額に対する1年あたりの割合をパーセントで表したものである。4%の割引率として福利計算だと、10年後に100円受け取るとして、(1/(1+0.04)^10)×100=67.6、従って現在は67.6円支払う。100年後に100円受け取るとすると、1.98円支払うことになる。25年だと37.5円となる。すなわち25年先の次世代のために我々は彼らが受け取る100円につき37.5円支払えばよいというのである。何を言っているのか、わかりやすく表現してみる。
 環境のために規制を強めてゆくことは、製品の価格を上昇させそれは消費者が負担する。現在の我々は将来予測される環境被害に対してどれだけ負担すべきかという議論においては、25年後に予測される環境被害に対して、現在支出することによって将来支出を免れる年間費用100円あたり、現在の世代は年間37.5円を支出すべきということだろう。
 ゼロエミッションという言葉があるが、あらゆる環境負荷をゼロに近づけてゆく場合、近づくにつれてコストが急激に上昇すると思われる。環境対策のコスト転嫁は製造に伴いただちに発生する被害については100%補償すべきというのは判る。たとえばCO2濃度上昇により25年後に予想される被害に対しては寄与分の37.5%補償すればよいというのはいささか少ないという気もするが、「将来の世代は現代より豊だ」、とも言い、実際の将来世代の負担は技術の発展により現在考えるよりも少なくて済むだろう、という楽天的な前提が述べられている。
2006年3月18日(土) 邦題「いつか晴れた日に」 原題「SENCE and SENSIBILITY」(=分別と多感)
 19世紀初頭のイングランド南西部サセックス州の私園ノーランドパークを構えるダッシュウッド家の主ヘンリーが死に、遺産は法律により先妻の子供ジョンに全財産が渡り、ダッシュウッド夫人と3人の娘にはわずかな500ポンド/年の年金のみが残される。長女エリノア(エマ・トンプソン)は慎み深く現実的、次女マリアンヌ(エミリー・フランソワ)は詩と音楽を愛する情熱家である。立ち退きを迫られる屋敷にエドワードフェラース(ヒューグラント)が訪れ、礼儀正しくシャイで物静かな青年にエリノアが好意を抱く。一方妹エリノアにはブランドン大佐(アラン・リックマン)が好意を抱くが、エリノアは若く社交的なジョン・ウィロビー(グレッグ・ワイズ)に好意を抱く。性格の異なる姉妹のそれぞれの恋愛が成就するまでの物語である。
 この映画は姉を演じるエマ・トンプソンが脚色しアカデミー脚色賞を受賞した。1995年コロンビア映画。

 一家が引っ越したバートンコテージという建物は、実は私の会社での英語の先生の妹さんの御自宅なのである。以下、パンフレットからこの家について。「イングランド南西部でデヴォン州の南西部ホルベトンの広大なフリーエステイト(意味不明)にある。正面から見ると質素なこの小別荘は、側面から見ると実は壮麗なエドワード7世時代の邸宅でスタッフはそれを隠すのを忍びなく思ったものである。このエリアは自然の宝庫でとりわけ珍しい鳥が生息していることで有名。」
イングランドの美しい風景がこの映画の価値であり、イギリスの上流階級の生活や風習がもう一つの背景である。私がこの映画でもっとも気に入ったのはイングランドの風景。
END