永遠のライバル ジャイアント馬場

 年齢は馬場の方が上であるが、日本プロレスに入門したのはほぼ同じ時期で、二人は同期の間柄である。猪木はブラジル帰りの日系二世というふれこみになっていたが日本では全くの無名であったのに対し、馬場は元ジャイアンツの投手というバックボーンがあり、またあれだけの身長もあってデビュー前から注目を集める存在だった。先輩のマンモス鈴木、大木金太郎を含めて、4人は「四天王」と呼ばれ、しのぎを削り、マンモス鈴木が脱落してからは「三羽鳥」と呼ばれ、いろいろな面で比較されることが多かった。
 力道山は馬場をエリート待遇で扱い、猪木には徹底的なスパルタ教育で臨んだ。猪木は力道山の付き人を務めたが、人前で理由もなく殴られることもあったという。
 こうした背景から猪木と馬場はお互いに強いライバル意識を持った。日本プロレス時代の当時のプロレス界の掟を破り、馬場に直接対決を迫ったことや、新日本と全日本に舞台を移してからのブッチャー、ハンセン、シンらの引き抜き合戦など、常に猪木が仕掛け、馬場が守るという形になったのは、二人の性格の違いもあるだろうが、雑草とエリートというレスラー人生の違いもあると思われる。
 デビュー戦も同じ日に行われ、猪木は大木金太郎に7分6秒、逆腕固めで敗れたのに対し、馬場は田中米太郎に5分15秒、股さきで勝利している。この対象的な結果も後の新日本と全日本の若手の育て方に表れている。猪木はデビュー3戦目の田中米太郎戦で11分36秒、首固めで初勝利を飾り、馬場はデビューからシングル8連勝を記録した。
 日プロでの若手時代には両者のシングルマッチが実現している。初対決は昭和36年5月25日、富山市体育館で行われ、10分0秒、羽交い締めで馬場が勝利。以来猪木の0勝16敗の成績が残っている。うち4回の3本勝負でフォールは奪ったが、1度も勝利することはできなかった。
 お金がなくて一杯のラーメンを分け合って食べたこともあるという。いずれにせよ猪木と馬場、両雄のライバル心こそが、何十年という間、プロレス界を大きく動かしてきたのである。