- 宮城聰が何を表現しようてしているのか、僕には最後まで理解出来なかった。ク・ナウカの特徴は、チラシによれば、
- 『指し示すコトバ、記号としてのコトバを俳優から奪い去る。
もはや彼は何ひとつ観客に意味を押し付ける事はできない。
だが、その時初めて、彼の体は無数のニュアンスを語り始めている。見る者の想像力に無限の自由を保証しながら‥‥』
- ということである。つまり、役者は言葉を禁じられ、影から別の役者の出す声に従って動きだけで表現する、というわけである。前回見た『サロメ』では、役者全員、声と演技の分業体制が確立していたのが、今回、分業化がなされたのは主要な役者のみであり、端役は普通に口を開けて声を出していた。その不徹底の理由は何故なのか? 分業は何を目指しているのか?
動きだけを任された役者は、宮城の要求にほぼ完璧に答えていたと思う。相当の練習を積んだ事が想像できる。役者が完璧なのだから、舞台が何も表現していないとすれば、その責任の所在は演出家にこそ求められるべきであろう。果たして舞台は何かを表現し得たのだろうか?
崇高な表現を志し、稚拙な表現に堕する。これなら理解できる。それは、少なくともやろうとした、ということだから。ところが、稚拙な表現によって稚拙にいたる。これは理解不能である。これなら、何もしない方がましだ。
ビジュアル的な美しさをめざしたのだろうか? その面では、ある程度、成果が上がったのかもしれない。僕には、宮城が「型」に決め込もうとしているようにしか見えなかった。けれど、宮城の「型」には心がこもって無かった。役者はほぼ、完璧にその「型」に嵌まった。しかしそこには、感動も無かった。これが僕の感想である。ただ一人の例外を除いて。
美加理には最初から「心」が無かった。空洞がぽっかり開いているだけである。美加理が動くとそれは「事件」になる。彼女の虚ろな表情は、観客のいかなる思いをも反射する万華鏡のようだ。人間の持つありとあらゆる感情が、その空虚な表情に込められている。彼女はあらゆるものから自由に飛翔している。言葉からも、演出からも。
- ク・ナウカ「トゥーランドット」☆
- 会 場:ラフォーレ原宿6階、原宿ミュージアム
期 間:1992/12/15 〜 12/18
観劇日:12/16 19:30 〜 中央最後列にて
連絡先:ク・ナウカ 03-3485-8456
時かけ