ライフ・バーゲン


燐光群『ライフ・バーゲン』無星

見る者をして不愉快にさせる芝居であった。その原因は何であろうか。
第一に、テーマが掘り下げられぬままの脚本。
第二に、キンキン声を張り上げ叫ぶだけの役者。
そして、なによりも、それらを野放しにしてしまい、
観客を居心地悪くさせてしまった演出の責任である。

まず言っておくが、醜悪な人物を登場させ、観客に嫌な思いをさせそれでもって、観客の心をある一方に傾けさせてしまうことが「演出の手法」なんだ、と勘違いしてはいないか。それは、映画におけるサブリミナルのような物で、観客の心を踏みにじる事だと思う。一部に、それ自身を目的にする表現方法があるにせよ、今回の舞台はあきらかに稚拙で、スマートさにかけていた。

舞台は、四方をコンクリートに囲まれた半地下の部屋で展開する。かつて、レズとしての生き方に目覚めたのであるらしいグループ。そこへ、様々な外部からの侵入があり、そのたびにくりかえされるエキセントリックな議論、中傷、誹謗。そんな物が見たくって芝居見にきてんじゃないよ。出てくる敵役もいかにものステレオタイプ。

頭の堅そうな教育ママに、レズやホモを感情的に毛嫌いするタイプ。一見理性的で実は世間体を気にするタイプ。彼等はただ大声で、いささかの共感も呼び起こさない意見をどなるだけ。「魅力的な悪役を作り出せたら、創作は半分以上成功したもおなじである」とはよく言うが、彼等は全然魅力的でない。

シナリオもおかしい。勉強の跡が見られない。「むこうでは、台風にはすべて女性の名前がつく」という台詞があるが、現在は、男女平等が叫ばれるおり、男の名前と女の名前が交互に付けられていると言うことは周知の事実であろう。それを脚本にとりこまないでどうする。男女平等についてはセクハラの問題でわかるように、アメリカでは、行き過ぎとも言えるほどに敏感になってきているのにどうしてそれを取り上げないのか。

現在を生きる芝居になっていない。レズやホモの問題に、何か今日的な問題があるのだろうか。わたしはおおいに疑問であるし、その疑問に答えるだけの説得力は彼等の舞台には残念ながらなかった。劇中、ホモの男性がエイズになり、それをビデオで撮るシーンにしても、まことに添え物的にしか扱われていない。掘り下げられていない。レズに関連して、実名で日本の歌手の名前を持ち出したのは何のためだったか。笑いをとるためか? 外国の女優の名前をだしたのは何のためか。その姿勢こそが、レズに対する差別だとは思わないのか?

レズ、ホモ、マスコミ、自衛隊、身体障害者、日の丸、農薬、民主主義における少数‥‥、材料として、現代の問題を様々提示したつもりかも知れないが、それらがいささかも有機的に結合していない。観客の目には、それらは単なる羅列としてしかうつらないのである。

芝居の最後、皇太子のご成婚の行列が通るとかで、日の丸を掲揚しないレズの奴等を閉じ込めろ、ということで、灰色の地下室に閉じ込められてしまうかれら。(舞台に登場する数では、圧倒的に大多数の彼等が、あの陳腐な少数の町内会の人々 に閉じ込められてしまうというのも、説得力はないのだけれど)天窓さえも閉じられてしまい、絶望的な状況の中、自閉症?の青年を介抱しながら(最後のほうで初めて主役だったと気づいた)女の子がいう。

『あなたとわたしは別の人間だ』

と、突然、天窓に赤い火花と白煙が上がり赤く燃え上がる。それまでの閉塞状況をこの花火で一気に解き放ち、カタルシスへと導こうという作者の意図ありあり。確かに、すこしだけ効果を上げていました。でも、それまでの展開が強引すぎたからねぇ四方の壁全部壊すくらいのことはやってほしかった気もする。

で、問題の台詞ですが、この言葉が、提示の仕方によってはそれなりの力を持っていることを認めた上で、この芝居においては、「唐突にそんなこといわれても、見ているほうは訳が分からないよ。たった一つの言葉で世界を変えようたってそうはいかないよ」

といわざるを得ない。前々作の「汚名」で、一つの言葉に、舞台空間=世界を変え得るだけの力を持たせることに成功した坂手氏にこの言葉をいうのは悲しい物があります。その坂手氏の才能を信じたいがゆえに、今その言葉を贈りたい。

『あなたの力で扉を開け』


燐光群「ライフ・バーゲン」無星
1992/1/23〜 2/2 下北沢ザ・スズナリ
2/ 6〜 2/8 大田区民プラザ大ホール
作・演出、坂手洋二 出、黒田明美、尾形可耶子、塩見由里子、他

by. 時をかける少年



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