都市の遠近 京阪三条


 人間は、一つでも信じるものがあって、それによって自分の生が肯定出来れば、どんなに苦しくても、何とかして乗り切ってゆけると思うのだが、だれもが大人になろうとするころ、そういうものが、確かにつかめなくて、求めれば求める程、答えが遠のき、自分の無力さに対する絶望感でがんじがらめになってしまう。

 私自身がちょうどそんな風だった時期は、当時、京都の東山七条にあった京都芸大で、真剣に絵を描き始めたころで、正直言って毎日毎日が八方ふさがりの気分だった。

 そのころの行動範囲というと、学校のアトリエから、岡崎の美術館、それと京都で一番にぎやかな河原町の辺り。手に入りにくい本を求めて、河原町に出るのだが、「出たついで」と、ついついその度に、三条、四条、祇園の辺りを歩いて、その辺の京阪の駅から帰る。

 河原町には、地元の人なのか観光客なのか、常にたくさんの人があふれていて、人の波に逆らわずに、同じ速度で歩いていると、何だか自分の存在がなくなっていくような気分になる。雑踏を過ぎるころには、道々すっとすれちがいざまに見た、大きな口を開けてしゃべりながら通り過ぎる人々のたくさんの顔が、目分の頭の中でごちゃごちゃになって押し寄せてくるようで、とても気分が悪く、鴨川沿いの夜の駅のホームにたどり着いた時にはほっとする。

 つい先日、七条〜三条間の、ユリカモメやシラサギのいる鴨川を見おろす駅が閉鎖されて地下に潜ってしまった。水の音を聞きながら、かすかに光る川面を見ながら、疲れてたたずむ駅のホームで、いろんなことを考えた人は、少なくなかったと思う。

 「人込みはこりごりだ」と、出る度に思いつつ、ものの二週間もたたないうちに、また理由を思いついては、雑踏へと足を向けたくなるのはどういう心理なのだろう。

 ところで、常々、不思議に思っている事が一つある。私自身の、京都の街での記憶も当てはまるのだが、人が、自分の過ごしてきた過去のシーンを思いおこす時、なぜ、その心に描いた映像の中に、見たはずもない自分目身がいるのだろう。人は、鏡やガラスでもそこにない限り、自分の目で、自分だけは見えないはずなのに、ごく幼いころの記憶にまで遡っても、必ず、思い出のシーンの中には、どこか隅の方にでも、自分の姿が存在する。そして、その周りの風景はたいてい、当時見ていたより、少し俯瞰的になっていて、自分は、多くは後ろ姿だったり、豆粒ほどに小さかったりする。そんな自分を包んでいたアトモスフィアに、後になって思いをはせると、何て、それはいつも、あたたかかったんだろう、と思う。

 悲しくみじめな場面でさえ、自分を見守ってくれて、次の展開へと運んでくれた、目に見えない存在が、確かにあったんだ、と気付く。もちろん、その当事者であった時は、これっぽっちも気付く余裕なんてなかった訳だが。

 思い出のシーンの画像がそうであるように、現時点でも、自分自身を、心の目で少し高みから客観的に見おろせたなら、どんなに知恵にあふれた、目覚めた心で生活が出来る事だろうか、と思う。

 雑踏を歩いているたくさんの人。みんなが自分自身の事はよく知っているつもりでいる。悩みや喜びをかかえて歩いているのは“自分”だと思っている。けれど、だれもが漠然と区別している、「自分」と「外のもの」との関係というのはいったい何なのだろう。本当は、それぞれの生命の中の見えないエッセンスは、自他の区別なく一つのものなのかもしれない。

 行きかう人々は、どこへ行っても満足出来ずに、いつまでも「どこかへ行きたい」という思いを抱え続ける。群衆を見おろしているアトモスフィアはゆったりとささやき続ける。「君たちは眠っているんだよ、早く目を覚ましでおいでよ。いっしょに行こうよ」。一体みんなどこへ行こうとしているのだろう。

松生歩