3年選択理科 未来の世代への責任を果たすために
3年 組 番 氏名( )
国境を超える環境問題
――政治的方法と経済的方法を組み合わせて環境問題を徐々に解決していくというこれまでのお話はある程度納得できたんですが、もしそういう方法で日本が環境問題を解決できたとしても、酸性雨のように、隣国の工業化が国境を越えて他の国の環境を汚染するというような問題が残るんじゃないでしょうか。
槌田 そうですね。酸性雨はとくにヨーロッパで深刻ですが、日本でも中国の石炭問題があります。中国では、良質の石炭は輸出用です。亜硫酸ガスのいっぱい出る質の悪い石炭を中国国内で使うんです。それで中国の森林はどんどん酸性雨でやられていくんですが、しかし、その酸性雨は九州地方を襲ってもいるわけです。今、日本の西のほうでは、建物の壁がどんどん崩れて、ひどいんですよ。山陽新幹線の駅を見ると、コンクリートのつららになっているんです。つまり、日本の亜硫酸ガス対策がいくら優秀でも、すぐ隣の中国が亜硫酸ガスを大量に排出していれば、日本も酸性雨の被害を逃れることはできないんです。これがこれからの環境問題を考えるうえでの重要なポイントです。一国だけで環境問題を解決しようとしても、無理なんですね。
一番簡単なのは日本から脱硫装置を輸出して、それを使ってもらうことです。でも、現実には輸出したうちの公害機器の部分だけ外してしまって、煙を出しているんですね。
もちろん経済発展は大事なことですが、こういう汚染の垂れ流しをこのまま続けていていいかどうかは疑問です。公害対策をちゃんとやった上で産業の育成をしないともたないんじゃないか、国土を荒らしてしまったら回復できないんじゃないか、という心配もあるわけですから。現在のことを重視すると未来がなくなってしまう。そのことを、公害輸出先である低開発国は考える必要があるんです。自分たちの将来を失って現在を開発しようとしているのだということを、考える必要があります。
未来に対する責任と動植物の生存権
――環境問題を論ずる人の中に、今の人類は未来の世代に対して責任がある、ということを言う人がいます。その責任というのは、有限の化石燃料をすべて使い切ってはいけない、廃棄物を捨てっぱなしにしてはいけない、そうやっておいてあとは知らないということではいけない、ということではないかと思うんですが。
槌田 それは世代間倫理と呼ばれる問題ですね。環境問題の論議は、自分たちだけのものではないんですね。環境をよくして木が育ったとしても、30年後のことですから、自分たちの利益にはならないんです。だから、自分たちの子供に対する責任、未来に対する責任を果たすという意味において、環境問題は議論されるべきでしょうね。自分たちが好き放題やったら、自分たちの子供が困るんだ。そんなことをする権利がわれわれにあるのか、ということです。われわれの祖先が残してくれたものを、今、自分は借りているだけにすぎないという発想で倫理をつくろうというのは、僕も賛成です。それは日本人が輪廻ということで習ったことと一致するわけですね。
――動物保護を主張する人たちの中に、個々の人間の生命よりも動物の種のほうが優先するんだという人がいます。たとえば、クジラという種がほんとうに絶滅するのであれば、その種を守ることは、日本の漁民の生活とか、クジラを食べる日本の文化などを守ることを優先する、というんです。
槌田 もちろん動物保護は大事ですが、それがあまり極端に走るようになると、ちょっとどうかと思うようなところもあります。ただ、だからと言って、文化相対主義を振りかざして捕鯨を正当化するのも問題ですね。たしかに、クジラやマグロを捕るのはいけないというのは、滅びるのがかわいそうだからです。もちろんかわいそうなのはわかるんですけれども、クジラやマグロを食べている日本人からすると、それは自分たちの食品がなくなることを意味するわけですね。しかしこれらは食べなきゃならんというものでもないし、それがなければ絶対駄目というものでもないから、みんなが嫌がるんならやめようというのでいいんじゃないでしょうか。他の人たちが嫌がることはしないでおこうということも含めて、ほどほどに暮らすという形で解決することはできるんじゃないですか。
これは、フロンの問題も同じです。フロンガスをいっぱい使うと空気中のオゾンが少なくなって、紫外線が地上に到達しやすくなるから皮膚ガンが増える、という理屈は、前に説明した地球温暖化説と同じで、「風が吹けば桶屋が儲かる」なんですね。ほんとうにそうかどうかは、よくわからないんです。仮にそうだとしても、紫外線で皮膚ガンにかかりやすいのは白人だから、黄色人種や黒人にはたいした問題じゃないのかもしれない。しかしまあ、フロンを使わなくても死ぬわけじゃないし、白人が嫌がっているんだから協力しましょうということで合意が成立していったんでしょうね。
――そういう形で合意ができるならいいんですけれど、ラディカルな動物保護主義者の中には、絶滅種を守るためなら人間が死んでも構わない、百人、二百人の人間が死んでも人間という種は生き残るんだから、絶滅種を守るほうが優先するんだという人もいます。
槌田 植物や動物の種に生存権を認めて、それを個々の人間の生命よりも優先するという議論ですね。それは、ちょっと行き過ぎだと思います。
従来は人間だけに認められてきた生存権の解釈を拡大して、人間以外の動物とか、植物とか、あるいは景色にも生存権があるんだということにして、そういうものを人間が勝手に侵してはいけないんだと主張するわけでしょうが、どうみても、それでは一般の人は納得できないんじゃないですか。
ただ、種というのはどんな種にもそれなりに存在意義がある、だから、人間だけに生存権があるわけではない、というのは正しいですね。殺生をしないという宗教的な倫理がずっと日本を覆っていたわけですが、それがそういうことでしょ。食べるのならいいんだけれども、それ以外の殺生はしない。食べるにしても、肉食をできるだけしないでおこう、魚にしよう。そういう観念がずっと日本にはあるわけですから、生存権の拡大だなんておおげさなことをいわなくても、それでいいんじゃないですか。
地球全体主義という「暴力」
――もうひとつ、例えば炭酸ガスの排出量を世界的に規制していこうとする場合、それは「地球全体主義」に向かっていくという議論もあります。
槌田 地球全体主義の名の下に国家主権を制限すべきじゃないかという議論ですね。環境問題の解決のために全体主義的な権力を持つ世界政府ができて、その権力が、それぞれの国の炭酸ガス消費量を決めるようにすればいいじゃないか、ということだと思うんですが、そうなると、個々の人間の生活や自由よりも地球の生態系が優先されて、それに服さなければいけないという社会になってしまうんじゃないですか。
環境問題を解決していくために、個人の倫理で何かをするというのではなくて、社会の倫理をつくっていかなければならないと僕も言ったわけですけれど、それを全体の倫理でやると、こういう話になっちゃうわけです。
でも僕はそうじゃないだろうと思います。あくまで個人個人が納得のいく範囲で交渉や折衝をし、妥協点を見出していくというやり方でやらなければいけないと思います。なぜかというと、そうでないと、納得しない部分がいつ爆発するかわからないわけです。だから、交渉して納得するということは、今後もあらゆるところで必要だと思います。
「急がば回れ」という格言がありますね。急いで全体主義にしてしまったら、あとはもう戻ることができない。戻る時には爆発で戻るしかなくなってしまうんじゃないですか。だから僕は、交渉でというんです。
僕のいう社会の倫理というのは交渉によって行われる倫理です。これがいちばんいいことだといって、誰かが決めて押しつけるような倫理ではないんです。地球賢人会議とかいうものがあって、誰だか知らないけれども、賢人という人が何人か集まって、そこで勝手に決めたことが全体の倫理だなんていわれたんじゃ困るわけです。
環境保護の名において暴力を振るってはいけないといういことです。いいことをするんだからという前提の中に、圧殺があるわけです。ある少数の人間の考えにしろ、社会の大多数の考えにしろ、自分たちはいいことをしているんだという信念がある場合に、そういうことが起きる恐れはあるんです。そのことを私たちは常に自覚しておく必要があるんじゃないかと僕は思います。
個人の倫理では、環境問題は解決しない。しかし、社会の倫理を強引に人々に押しつけるようなことをしたら、とても息苦しい社会になってしまう。だからこそ交渉のルールが必要になってくるし、また、これまで説明してきたように、経済原則を導入することによって、環境問題を解決する方向にごく自然にもっていくこともできるんです。だからこそ、焦ってはいけないんだと、僕は思います。
いたずらに地球の危機を煽るようなことも、もういいんじゃないか。人々を不安にしておいて、環境を守るために行動すべきだと脅すようなことも、もういいんじゃないか。これまで述べてきたように、この地球環境問題においては、人々を惑わす怪しげな理屈が多すぎるんです。だけど、そんな理屈に踊らされていても、何にもなりません。
今本当に必要なのは、環境問題をめぐるさまざまな状況をきちんと把握して、その問題を社会のシステムの中で解決していく具体的なプログラムをつくり、その実現のために社会的・政治的な運動を展開していくことなんじゃないかと、僕は思います。エコロジーやリサイクル運動をやっている人たちにずいぶんと厳しいことも言ったかもしれませんが、それは、こうした個人的な倫理に頼った運動が、社会的・政治的な運動の成立を阻んでいるという側面があるんじゃないかと思うからです。