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ギタリストになりたい
僕のギター遍歴



ギターとの出会い

●その1
いつも愚痴やボヤキばかり書き散らしていても仕方が無いのでしばらく僕自身のギター遍歴(独学法ならぬ独楽法?)について振り返ってみたい。名のあるプロならともかく自分みたいな一介のアマチュアが過去の練習方法を披瀝したところで何の価値もないのだが、僕の遠回りなギターの勉強法を読んで、もしかしたらこれからギターを上達したいという人が無駄な努力や効率の悪い練習をしなくても済むかもしれないから、そんな話題が提供できたら良いのだけど・・…先ずは時計の針を思いっきり過去に戻して記憶の糸を手繰ってみようと思う。
僕が初めてギターに触ったのは確か小学6年の頃・・。坊ちゃん刈?で髪の毛はまだふさふさだった頃・・・(^_^.)・・たまたま洋服箪笥の奥にプラスチックで出来たようなボディの今思えばいかにも安物のギターを発見したのだ。当時父がギターを弾いている姿等全く見た記憶はなかったのだが、おそらくその昔父が買ったは良いが弾くのを諦めそのまま箪笥の奥へと押し込んだまま永らく放置されていたのを偶然見つけたのだ。子供の頃僕は、暗くて狭い場所に入ると妙に落ち着いたことを覚えている。箪笥や押入れ、あるとき等、押入れの天井板を上げて屋根裏で潜んでいたこともあった。何故だか分からないけど子供の頃、外界から遮断された空間で一人でじっとしているのが好きだった。その時も洋服ダンスの中が暖かくて居心地がよさそうな気がして手を奥に入れたらコートの合間から変なものが手に当たったのだ。偶然発見されたそのギターはとにかく表面板の木目が全く見えないくらい黄色だか茶色の塗料が塗られていたのを今でもはっきり覚えている。その時は僕自身それが何なのかもよくわからず箪笥の奥へと再びしまい込んでそれっきり忘れてしまっていたのだが。当時我が家には、数少ないレコード・・イエペスの禁じられた遊びやアントンカラスの第3の男、エデンの東、鉄道員が収録されていた45回転のドーナツ盤と美空ひばりの悲しい酒の同じくドーナツ盤のレコードがあった。僕は父のいない時にハイフェッツのLPとそのドーナツ盤をよく聴いていたのだが禁じられた遊びがギターで演奏されているということすらはじめは知らなかった。

生涯忘れられない曲・・長谷川きよしの「別れのサンバ」

●その2
僕は、小学生の低学年の頃ピアノを習っていた。正確に言うと母親に無理やり習わさせられていた。音楽は嫌いではなかったのだけれどピアノの練習は嫌いだった。何故ならピアノの置いてある部屋は一階の北向きの部屋で冬寒く夏暑い・・何よりも一人でその部屋にいるのが怖かったから・・二階のコタツに入ってテレビを見ているのが好きだったから、いつも母親からピアノの練習をしなさいといわれると渋々一階に降りて寒い部屋で大急ぎで練習を終え大急ぎで二階に戻る。どんな曲も馬鹿みたいに速いテンポで一回弾いてそれでお終い。そんな身につかない練習ばかりしていたからさっぱり上達しなかった。その内ピアノのレッスンに行くと言って、行かずに近くの公園で遊んでいるところを友達に告げ口されピアノのお稽古は止めることが出来た。ちょっと時計の針を戻し過ぎてしまったが・・・。話を元に戻すとオンボロのステレオでドーナツ盤のレコードで聴いた禁じられた遊びの音は、偶然見つけた箪笥のギターとは余りにも音が違い過ぎ、それがギターの音だということに長い間気がつかなかった。
一体どういうきっかけでそれがギターの演奏だということを知ったのかは今となってははっきり思い出せない。おそらく両親からギターだということを聞いたのだと思う。箪笥のギターは弦こそ切れていなかったが調弦は狂っていたしどう調弦していいかも分からない。レコードの音を頼りに弾こうと試みたがどうしていいかわからず結局箪笥の中に戻すしかなかったのだ。

中学に入ると僕は親しかった友達がクラスが変わってしまい次第に学校に行くのが嫌になって授業をさぼっては、いわゆる非行に走るようになった。それから半年以上、荒んだ生活を送っていたが、その年の暮、僕にとっては生涯忘れられない曲、長谷川きよしの「別れのサンバ」に出会うことになる。実家の二階の押入れを改造し机を置いた西日しか入らない暗い部屋で、偶然ラジオから流れた長谷川きよしの唄とギターを聴いた時の全身がしびれるような感覚、それからしばらくして友達のY君の家でY君がギターのコードを鳴らすのを聴いた時もそうだった。彼はコードを4種類(C,Dm,G7、Am)知っていた。それから禁じられた遊びの出だしだけずっと一弦を左手一本で押さえていられるところまで弾けたのだ。それを聴いた時の僕のショックは大変なものだった。彼に調弦方法と4種類のコード、それから禁じられた遊びの出だしを教わると大急ぎで家に帰って箪笥から例のギターを引っ張り出して覚えたてのコードを鳴らした。Y君のギターとはまるで音が違う。それでもCのコードを弾いた時の感動、感覚は今もぼんやりとだが覚えている。今思えばY君のギターも決して良い楽器ではなかったのだが箪笥のギターは楽器とは程遠い箱でしかなかった。それでもギターの弦をなぞっていくと胸の中に何かが広がっていくような気がした。たどたどしい左手を眼で追いながら覚えたばかりのコードを人差し指から順にフレットを確認しながら押さえていく。左手の準備が整ったのを確認してからゆっくりと右手の親指で6弦から1弦に向かってすべらせていく。禁じられた遊びも途中までしか弾けなかったがレコードと同じような音が出てくるのが不思議だった。
4つのコードと禁じられた遊びの出だし・・それが僕の最初に覚えたギターだった。


毎月楽しみだった「東京音楽アカデミー」の教材

●その3
ギターに夢中になった僕は家に帰ると一日中部屋にこもってギターを弾く毎日を過ごした。覚えたコードをさらうと後はただ只管ラジカセで長谷川きよしの別れのサンバを聴いて箱のギターで似た音の出る和音を探す毎日を送った。禁じられた遊びはレコードコピーでどれくらいかかったか覚えていないが、メロディーと伴奏をピアノのように別々に弾くという意識で考えていた時はコピーはなかなか上手く進まなかった。(*)採譜した音を指板上で探している内にセーハの意味(**)を知ったこと、ギターはピアノと違って同じ音が複数のポジションで出せることに気付いたことはレコードコピーをする上でとても重要な発見だった。この頃はまだギターの楽譜は見たことが無かった。ただY君が唄の伴奏用のコードブックを持っていたのでそれを借りてコードを覚えた。

(*)ピアノ弾きの陥る罠かもしれないが、ピアノの演奏法のイメージ・先入観が強過ぎて、ギターでも左右の手でメロディーと伴奏を別々に弾いているのだという思い込みが、実際にはギターでは弾いていない音まで聞こえているような錯覚に陥らせていた。当たり前のことだが素直に聴こえている音だけ聴音(耳コピー)すればいい。
(*+)セーハは人差し指で全ての弦を押さえる奏法ではない。本質は高音と低音を同時に鳴らす上で人差し指を寝かせて弦を押さえる(セーハする)方が押さえる上で効率的な場合にセーハする。鳴らさない音は抑える必要は無いし、びりついても全く構わないということに気付いて左手の使い方が変わった。


家ではとにかくレコードコピーばかり、第3の男はギターではなくチターという楽器で演奏されているということも後になって父から教わった。実はギターに夢中になるまで両親、特に父親とは全く会話をしなかった。それがギターを弾くようになって両親の見る目が変わって僕の荒んだ生活も大きく変わっていった。
中学1年のお正月に貰ったお年玉で確か1万2千円ぐらいで買った量産ギター(春日)で毎日テレビやラジオからギターの演奏が流れれば(唄の伴奏やBGMみたいなものでもギターが入っていれば)何でもオープンリールのテープレコーダーにマイクで録音して(ライン入力じゃなかったから音がぼけて聞き取るのは大変だった)音を探し真似をした。

中学2年の終わりぐらいだったか当時流行っていた東京音楽アカデミーの通信講座を始めてようやくギター曲の楽譜を見て練習するようになった。この通信教育は僕のギターの基礎を作るうえでとても役にたった。とにかく誰も周りで教えてくれる人がいなかったから一ヶ月に一度送られる教材が待ち遠しくてたまらなかった。中でも観賞用で受講者に送られるLPは、ギターだけの合奏を聴いた初めての音源だったし、フラメンコギター奏者の伊藤さんのブレリアス等は擦り切れるまで何度も聴いた。東京音楽アカデミーを申し込む前に確か案内を送ってもらうはがきを出すとソノシートだったかドーナツ盤だかのレコードがついていてそれに伊藤さんの演奏のさわりが入っていたと思う。そのギターを聴いて自分もこんなギターが弾けるようになりたいと父親に頼んで申し込んだと思う。毎月プレゼントとしてテキストとは別に小原聖子さんの模範演奏を聴くのも楽しみで、彼女の演奏するアルボラーダとペルナンブーコの鐘の音(今思うとショーロのリズムではなかった気がする)が特に好きだった。とにかくこの東京音楽アカデミーで僕はクラシックギターの奏法の基礎を学んでカルリやソル、カルカッシ等の名前を知ることになる。ただそうしたクラシックギターの世界にふれるようになっても長谷川きよしの演奏するサンバやボサノバの薫り高いギターの伴奏がたまらなく好きだった。忘れられないのは当時FMだったかAMで公開放送された彼のライブ録音テープで、長谷川さんの弾き語りなのだが、アディオス、ジョージア・オン・マイ・マインド等一体どれくらい聴いたかわからないくらい飽きもせず何度も聴いて伴奏を真似をした。

中学3年になると英語の先生が顧問をされていたフォークソング部にY君に誘われ入部した。そこで顧問の先生からクラシックギターの弾き方について直接指導を受けることになる。それまで足台を使っていなかったのを先生の勧めで足台を使うようになったし爪もきちんと磨くことを覚えた。フォークソング部ではジョーンバエズやPPMの曲を(歌詞が英語だったから)みんなで歌った。スリーフィンガー奏法も顧問の先生から教わった。殆ど女の子ばかりだったので最初は入部するのはかなり抵抗があったが学校でギターを弾ける魅力に勝てず入部し昼休みや放課後Y君ともう一人仲間が増えて3人でギターやバンジョーを弾いて過ごした。この頃になるとラジオやテレビの流行歌の伴奏なら自分の知っているコードで殆ど出来るようになっていた。当時ヤングギターだったかフォークソング雑誌を本屋で立ち読みし、店頭でコードを覚えては家で再現して自分の知識を増やした。フォークソング部でも唄の伴奏は僕が一番キャリアは浅かったがコードワークだけでなくリードギターもやらせてもらうようになっていた。その内自分のアレンジでイントロや間奏も入れた。

家ではギターだけでなくピアノも弾くことが多くなった。ギターのコードをただピアノで再現するだけなのだが、Am7やCmaj7をピアノでペダルで弾くとなんだかとても上手くなったような気がしたことを覚えている。ギターに飽きるとショパンやポピュラー音楽をピアノで弾くようになったのもこの頃から。音叉の代わりにピアノであわせることもよくやったがピアノは調律しないと音程が狂ってくることもその時初めて知った。当時はフォークソングブームで、戦争を知らない子供達とかフォーククルセダースの帰ってきたよっぱらいとか森山良子、赤い鳥の翼を下さいなんかが大ヒットしていた。僕はそんな曲をラジオで聴いては自分でコードをつけていたのだがフォークソングクラブでアルペジオやストロークの伴奏だけでは飽き足らなくなるとメロディーも一緒に弾くようになった。
ラスゲアードでジャカジャカ鳴らしているのに飽きが来てメロディーを途中で入れて弾いて遊んでいる内にメロディーに低音を足したりアルペジオにメロディーを混ぜて弾くことを無意識にやっていた。唄の伴奏では声の音域に合わせて調性を変えるケースが多く大概カポタストを使ったが、カポタストを忘れてセーハで代用する内にセーハが全く苦にならなくなった。コードの展開も〜Cのコード一つでもポジションを替えて5パターンとか〜自然に体で覚えていった。

幸せだったフォークソング部時代・・ギタリストを職業として意識し始めた頃

●その4
中学校のフォークソング部時代、ギターの調弦は音叉の他、笛のチューナーも使っていた。Y君がチューナー用の笛を持っていて大勢でピッチを共有するのに便利なのでクラブでよく使っていた。ただ音楽室で練習する時はピアノに合わせていたから音叉のAよりピアノの調律のピッチが高いこともその時知った。その後社会人になってから音叉にも2種類あることを知ったのだけど。余談だが僕は絶対音感は無い。ただ耳から入ってくる音は何の音(音程)かは意識しなくても大体わかる。レコードコピーの賜物?なんだろうけどアレンジや唄伴には随分役立っている。歌い手のピッチに合わせてすぐに伴奏をつけるには耳から入る音に無意識に反応するくらいでないと間に合わない。日本の歌謡曲や演歌などは和声進行の単純な曲が多いので困ることは無いがジャズや海外のいわゆるポピュラー音楽になると和音の色彩感が微妙に変化したりするケースが多く音を聞き分けるのに苦労することも多い。
すぐに分らない時は和音の一番高い音と一番低い音をまず聞き取ってから内声部の音を聞き取るようにしている。ギターのコンサートで不満が残る原因の一つに調弦の狂いがあげられるが照明で温度の上がるステージ上で正確な調弦のまま演奏を続けるのは確かに至難の業。鎌田先生は疲れてくると耳が悪くなるとおっしゃっておられたが僕自身の体験でも実感…何故なのかよくわからないけど。
良い耳,や正しい音感を身に着けるにはソルフェージュ等をきちんと学ぶに越したことはないのだろうけどアマチュアにはなかなか勉強する機会が無い。その意味でもレコードコピーや唄の伴奏は耳を鍛える上で意味があると思うのだ。

●その5
中学時代のギターライフで触れない訳にはいかないのが当時のギターブームの凄さだろう。僕自身子供だったし余り実感はなかったのだけどとにかくギターケースを持っているだけで女の子にもてた幸せな時代だった。今思えば中学三年の文化祭は僕のギターライフの頂点だったかもしれない。フォークソング部では大勢の女の子に囲まれていたし文化祭では彼女達のバックでギターやバンジョーを弾くだけの簡単なステージなのに僕らはヒーローだった。体育館にあふれた生徒は、一クラス50名で5クラスはあったから3学年全員に先生や父兄も入れると1000名ぐらいの聴衆を前に演奏したことになる。そんな熱気の中でギターをストラップで肩からぶら下げ壇上にあがり、サウンドホールに固定したマイクをアンプにつないでエコーをかけスポットライトを浴びながらPPMやジョーンバエズにブラザーズフォー、ビートルズやサイモンとガーファンクルのヒット曲、当時大ヒットしていた杉田二郎の戦争を知らない子供達や赤い鳥の翼を下さい等演奏した。
おかげでその後学校ではすっかり有名人になってしまい女の子達から沢山プレゼントをもらった。卒業式の時も机の上には下級生の女の子達からのプレゼントが置かれ、同級生の女の子達から散々冷やかされ照れくさくて持って帰れなかった思い出がある。あの頃が僕にとって一番幸せな時代だったのかもしれない。ひょっとしたらあの時に一生分のツキを使い果たしちゃったのかも……σ(^◇^;)。。。

実はこの幸せな中学生活のフィナーレでちょっとした波乱があった。卒業式の数日前僕と一緒にフォークソング部に入っていた男子3名のうち2名が一部の運動部員達に生意気だと殴られたのだ。僕も学校の帰り道偶然、某運動部のキャプテンと出会い、すれ違い様、眼が合って胸倉をつかまれた。僕は睨み返すだけで抵抗はしなかった。右手を怪我してギターが弾けなくなったら嫌だったから。にらみ合っていた時間は随分長い時間だったような気がする。彼は、僕にいい気になるなとだけ言ってつかんだ腕を放した。僕は中学生の頃警察の厄介になったこともあって随分母親を泣かせたことがある。そんな生活がギターを弾くようになってすっかり一変していた。

中学を卒業し、高校に入るとフォークソング部がなかったことから今度はギターソロの世界にどっぷりとはまり込むことになる。当時バーデンパウエルやパコデルシア、ジョンウイリアムスといった僕が影響を受けたギタリスト達が多数来日し彼らの演奏にテレビ画面を通して触れることが出来たからだ。

●その6
テレビはNHKの音楽番組だったと思う。ジョンはアルベニスのタンゴを、パコはアレグリアス、バーデンはバックバンドと一緒で渡辺貞夫がフルートでセッションに参加し、ビリンバウを演奏していたのを覚えている。
一番強烈だったのはパコの高速スケールで、強靭なタッチに加えとにかく殆どミスが無い。ギターであれほど早いスケールが弾けるということは全く想像もしていなかったのでショックだった。その時のテレビ番組をオープンデッキで録音しテープの回転数を落として再生、スケールをコピーし真似をしたものだった。
中学3年の頃までは、爪を伸ばしたり伸ばさなかったりその時の気分でまちまちだった。例えばバレーボールの試合前には爪は全て切っていたから。サントリーのCMのBGMで有名になった?アルハンブラの思い出・・東京音楽アカデミーの教材の小原聖子さんの演奏で初めてこの作品を知り、中3の2学期ごろには、一応通して弾けるようになっていた。アルハンブラは爪を使わない方が綺麗に弾けた記憶がある。トレモロに爪の音が入らなかったせいかもしれない。

そうそう・・東京音楽アカデミーで初めて知ったことがもう一つ・・左右の運指である。レコードコピーでは運指の存在を知ることなど不可能だったが、本屋でよく立ち読みした音楽雑誌に載っているコード表には左手の指番号が書かれているものと無いものがあった。指番号の無いコードは自己流で適当に押さえていたが東京音楽アカデミーの教材の楽譜には運指が書かれていたので合理的な運指が存在することをその時初めて知った。ただ今思うと運指というのは演奏表現によって変えるべきもので合理的な指運びの面からもケースによっては色々なパターンが存在するもの。固定的に考えず常により良い、自分の目指す音を表現するのに最適な運指を考えることが大切だということを大分後になって学んだ。予想もしない運指の発見は常にあると思う。中でも僕が鎌田さんに習い始めるまで全く研究しなかったのがハーモニクスだ。変調弦にするとそれまで全く予想もしなかった音が出せるのだが(よく考えれば当たり前のことだったのだが) 特に現代曲では、変調弦の作品は非常に多く、古典派やロマン派、近代ぐらいまでの作品では余り使わなれないポジション、3フレットとか開放弦での19フレット以降のオクターブハーモニクス等がよく出てくる。
右手の運指も中指と薬指の爪が皮膚病ではがれるようになり、フィゲタ主体の運指を取らざる得なくなって初めて気付いた発見も多かった。やみくもに固定した運指で反復練習するより、限られた練習時間でよりハイレベルの演奏を望むのであれば運指の研究は大切だと思う。運指の研究はギターという楽器を理解することにも通じるし、とても奥が深い。
大聖堂の3楽章を僕はpiaの3本ならそこそこのテンポなら完全に演奏出来る。二本でもアレグロでなければ完全に演奏出来る。バッハも然り、爪や指に障害や問題の無い方には意味が無い話かもしれないがもしpimaが問題なく使える人があえて僕の運指も採り入れて演奏したら多分表現の幅は広がるだろう。例えば人差し指だけのスケールは音の質を揃えやすくメロディーを浮き上がらせるのにはとても有効なテクニックだと思う。但し急に練習し過ぎると指を痛める恐れがあるからやり過ぎないよう注意する必要があるが・・。僕も昔は長時間弾いていても一向に平気だったが今の指の状態では1時間以上練習すると指が疲労してくるのがはっきり分かるので止めるようにしている。腱鞘炎にでもなったら元も子もないからだ。

●その7
レコードコピーに始まり通信教育で基礎を学んだ僕の独学法だが一番悔いが残るのは左右のメカニックのトレーニングである。レコードコピーは時間が掛かる。その間ギターを抱えてはいても弾いている訳では無い。折角中学二年から真剣にギターを始めたのだがギターに触れている時間の割には指を動かしていなかったからだ。
確かに耳を鍛えるという意味ではレコードコピーは有効だったが、もっとメカニックの面で、(特に右手を)鍛えることが出来なかった点が残念でならない。当時の自分の情熱を持って適切な練習法を取り入れていれば遥に高いレベルの技術を身に着けることが出来たと思うのだが。結局どんなに素晴らしい唄心を持っていてもそれを表現する技術を持っていなければ人に伝えることは出来ない。
嫌いだったピアノのレッスンだが、習い始めた当初からエチュードと並行してメカニックを鍛えるハノン等を練習させられた。ギターでもおそらく先生についていれば、メカニックの訓練も併行して指導してもらえただろうと思う。

よく話題に上がる脱力だがメカニックの練習をする上でもけんしょう炎等の予防の意味で大切だと言われる…確かにある面では正しいとは思う。ただ僕の経験では脱力と左右の指の合理的な使い方とは最初は全くリンクしなかった。合理的な指使いを意識するようになったのは大学に入ってギター部の先輩から指の無駄な動きが多い点を指摘されてから。例えば左手の指先がばたつくのを直す為に指板や弦から出来る限り指頭が離れないようにして(弦との指先の距離を5ミリ以内にすると決めた)スケールを練習したのだが最初の内は脱力とは反対に力を入れないと全く出来なかった。結局気の遠くなるような遅いテンポでメトロノームに合わせて練習することで指のばたつきを抑えることが出来るようになった。よくメトロノームを余り使わないようにと言う人がいるが少なくとも基礎練習には絶対使うべきだと思う。特に脱力をしながら指の無駄な動きを強制するにはメトロノームを使った機械的な練習の方が頭が空っぽになって余計な力を入れずに済むと思うのだ。

家にあったぜんまい仕掛けのメトロノームはやたら音が大きくやかましかった。拍子を刻むチーンという音を聞く度に頭が痛くなるのでピアノの練習の為に買ったメトロノームだが全く使わなかった。大学のギター部に入ってから小型のぜんまい式のメトロノームを買って、確か6千円ぐらいだったと思うが、アルペジオやセゴビアやリヨベートの音階をメトロノームにあわせて飽きもせず練習した。今なら電気式メトロノームを使えば一々指でぜんまいをまかなくても長時間、音量も調整し練習出来るし光が点滅する奴もある。
最近はメトロノームは全く使わない。爪がはがれてスケールやアルペジオの基礎練習が殆ど出来なくなってしまったから・・メカニックは本当に落ちたと思う。自分の運動能力の限界まで高速でアルペジオやスケールを練習出来た大学生の頃が懐かしい。

●その8
高校一年の時、ちょうど学生運動が下火になりかかっていた頃だったけど僕の通った高校はキャンパスが大学のキャンパスと繋がっていたせいで高校生にも中核派の残党みたいのがいて学内を闊歩していた。彼らはみんな長髪でベルボトムのジーンズを履いていた。彼らはしばしば授業中に乱入してきて教師をつるし上げたり逃げる教師を駅まで追っかけたりしていた。彼らに目をつけられていたある先生の授業等、殆どまともに授業を受けられない状態が一年ぐらい続いていた。

高校にはフォークソング部は無かった。音楽系サークルで唯一あったブラスバンド部に仲の良かった友達に誘われ一時籍を置いた。そこで僕は初めてフルートにチャレンジした。借りた楽器で練習したのだが音を出すのが一苦労、いつも酸欠状態になっては頭が痛くなり、結局フルートは諦め代わりに家からギターを持っていってはブラバンのメンバーと小編成でアンサンブルをして遊んでいた。がそれも長くは続かず結局退部した。
ちょうどその頃ロックバンドをやってる先輩のところに放課後遊びにいき、ジャズ研でドラムをやってる先輩に声をかけられジャズ研に籍を置くことになった。チョーキングもその頃、覚えたがクラギでは上手く弾けないので未だに苦手だ。エレキギターのチョーキングを初めて見たとき弦を余りに上に引っ張り上げるのにびっくりしたものだ。クラギでは弦の張力が強くなかなか音程を上げるまで左手で弦を引っ張り上げられない。今だにチョーキングは苦手意識が残っている。

クラスの僕のすぐ前の席に座っていたK君がザ・フーのギタリストの熱狂的なファンで、フーやクリームのLPを貸してくれた。彼から借りたレコードでクラプトンのギターをコピーした。またFMで流れる色々なジャズギタリストの演奏、ウエスモンゴメリーやB.B.キング、バーニーケッセルなんかも一時はまってよく真似をした。色々つまみ食いはしたもののバーデンパウエルや長谷川きよし程には夢中になれず、いつしかジャズ喫茶通いも止め一人で家でギターを弾くことが多くなった。
そんな時僕のすぐ後ろに座っていたN君がイエペスを知ってるかといって僕にイエペスのLPを貸してくれた。N君とは先月癌で亡くなった友人のお通夜で高校卒業以来初めて再会した。当時N君から借りたLPを何度も繰り返して聴いた為、彼から後でレコードが磨り減ってノイズだらけになったと随分苦情を言われた。幸い友情にまでひびは入らなかったけれど・・僕は後になって自分でもそのLPをお年玉で買った。アランフェスとビバルディのニ長調のコンチェルト、そしてバッハのシャコンヌが入っていた。そのイエペスのレコードが僕が本格的にクラシックギターをやるキッカケを与えてくれたのだった。アランフェスを初めて聴いた時の衝撃は忘れられない。第二楽章を一体何度聴いたことだろう。ステレオの置いてある部屋は西日の当たる暑い部屋だったが、夕日が差し込む狭い部屋でアランフェスの第二楽章を聴きながら自分がイエペスになった気分でロドリーゴの音楽に浸っていた。

記憶が定かではないが、現代ギターという雑誌があることを知ったのも確かN君のお陰だったと思う。最初に買った現代ギターにはオイゲンミュラードンボアのリュートの記事と僕がはまったホルヘフレスノのメカニックのトレーニング方法が確か載っていた。背表紙には定番の河野賢さんのギターの写真広告があった。この美しいギターの写真を見る度に河野が弾きたいという願いが募った。それは大学二年の時にバイトでお金を貯め、御茶ノ水の下倉楽器で念願の河野(30号)を手に入れるまで続いた。現代ギターを通じて当時澁谷にあったギタルラ社の存在を知り楽譜を買いに行くようになった。僕の実家は池尻大橋にあるのだが隣駅の澁谷までよく歩いて行った。当時ギタルラ社は澁谷公民館の少し先にあった。狭い間口で二階に楽譜のコーナーがあったと記憶している。ある時一階でギターを試奏している人がいた。とても綺麗な音で弾いていてビラロボスの前奏曲一番を演奏されていたのがとても印象に残っている。アマチュアだったのかプロだったのか分からないが店員と話している雰囲気ではプロギタリストのような感じだった。高校生だった僕は自分もいつか周りがびっくりするくらい上手くなってこの店に置かれている銘器を弾いてやるぞとつまらない決意をしたものだった。


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