八十年代前半だったと記憶している。

 だが、それがデザインの専門学校生徒だった八十一年から八十二年か、アニメーターだった八十三年か、版下会社勤めの八十四年か、シルクスクリーン会社のデザイナーになった八十五年以降か、はっきりしない。

 日付けだけは分かっている。三月二十七日の日曜日の午後だ。その日に観た映画の半券とイベントのリーフレットが残っていて、それから知ることができた。

 その日は、港区麻布公会堂で、ヒルダファンクラブ主催の発足五周年記念上映会があった。自分は会員ではなかったが、一般参加可能であった。

 上映されたのは「太陽の王子・ホルスの大冒険」「パンダ・コパンダ」「パンダ・コパンダ 雨ふりサーカスの巻」だった。

 当時はDVDはおろかレーザーディスク以前の時代で、ビデオさえ高額だったのだ。家庭で視聴できない作品が多く、名画座や自主上映会は有り難いものだった。

 上映は十時開始と十三時半開始の二度あったが、どちらの会に行ったかは覚えていない。近所の建物で、刑事ドラマの撮影をしていたのは覚えているのだが。

 上映会会場から出て、フォラム六本木アネックス五階のイベントスペースで、「成田亨作品展」を丁度開催しているのを知った。しかも、この日だけ、成田先生本人が来てサイン会もしているという。千載一遇のチャンスだった。しかも入場無料。カラーコピーが高価で珍しい時代だったので、成田作品のカラーコピーなどを販売していた。学生の頃、卒業製作で特別なコピーセンターに行って使うカラーコピーが一枚数百円だったのだ。

 エレベーターに乗ると、可愛い女性が先に乗っていた。

「幸先いいなあ」と思った。

 すると、大荷物を抱えた大男が入って来た。長髪にバンダナだったが、ヒッピーよりはインディアンを思わせる風貌だった。当時の変わり者を気取るクリエーター志望者によくいるタイプである。

 それは構わないのだが、男の身体と荷物が女性を圧迫し、エレベーターが上がる間に、若いか弱い女性は少しながら恐怖の声を洩していた。これでこの男への感情が悪くなった。

 会場の展示は決して多くはないものの、奇想に溢れた怪獣や宇宙人のデザイン原画やスケッチの他、ウルトラマンの油絵まであった。

 件の女性も元気を取り戻し、眼を輝かせて見入っていた。

 成田先生は、サインを頼まれると、あまりに多くデザインしてしまったので細部を忘れているものが多いらしく、添える絵を入れるのにデザイン原画の前まで行って描いていた。

 自分もサインが欲しくなって、色紙を買い求めた。

 成田先生に、サインをお願いしたところ、

「君は色紙というものを知らんのか!」

 と声を荒げた成田先生に、驚いた。

「色紙というものは、本来金色の方を出すものだ! 相手に尊敬を込めてな!」

 それは確かに元々はそうであり、それに対してサインする側が「私はこのような金の上にサインするような者ではございません」とへりくだって白い側にサインをするのだが、そういうプロセスは普通省略するし、今までは成田先生は普通に白い側に描いていたのだ。

「何を描く?」

 と言う成田先生の声はまだ怒りをはらんでいる。

「ガラモンをお願いします」

「ガラモンだな!」

 先生はデザイン画を観て丁寧に描くことはせずに、乱暴に殴り描きした。サインもした。両方とも色紙の金の方に……。「俺様は偉いのだから当然だ!」と宣言するかのごとく。

 すぐあとに、インディアン男がやって来た。

「いやあ、成田先生のデザインの独自性と凄みに比べたら、ゴジラなんてクズですね」

 彼が言うや、私への怒りの態度から一変、成田先生は機嫌が良くなり、

「当然だ! あんなものはただのでかいトカゲだ。『ウルトラQ』でも、モングラーだの、ゴローだのナメゴンだの、ただ動物をでかくしただけのものは駄目だ!」

 確かに、成田先生のウルトラマンという宇宙服とも生物ともつかないデザインコンセプトは天才的だし、多くのデザイン作品も驚異のオリジナリティと言って過言ではないのだが、女の子に優しくさえできない男の追従に乗って、二人で気に食わない怪獣デザインやウルトラ兄弟という設定への罵倒を嬉々として繰り広げる先生は、すごく多弁にしゃべりまくるほどに、高いプライドと人格がつり合っていないのが感じられた。

 

 九十年代になって、新潟のSFコンベンション「ガタコン」に招かれた成田夫妻を観た時は、猛々しさが見られず、小さなお爺さんになっていて、三十代になっていた私は、時が経ったのを感じたのだった。