見沼の歴史その4
―新田名義と特色―

 見沼新田は、見沼干拓によって形成された新田の総称で、ここには個別に付けられた多くの新田が含まれています。これらは、成立の事情によって、村請(むらうけ)による持添(もちぞえ)新田と開発者の身分によって町人請、百姓請とに分けられます。

村請の持添新田
 見沼新田には溜井周辺の17か村が請負いした持添新田があります。持添新田は反高(たんだか)はあるが新田村居の農民が不在の土地を指しますが、一様ではないのです。その主なものを取り上げてみましょう。
 下木崎村新田 ―― 下木崎村の持添。享保16年(1731)と寛政元年(1789)と同6年に検地が実施され、300石と高請しています。
 宮本新田 ―― 当初は三室村の持添であったのですが、後に分村。石高は313石。
 三室村新田 ―― 三室村は山崎、宿、松木、芝原、馬場のそれぞれが組を構成し、見沼新田にもそれぞれが持添新田を有しています。山崎組新田は461石余、宿組新田は596石余、馬場組新田は92石余、松木組新田は219石余、芝原組新田は204石余で、天保郷帳(ごうちょう)には各組合わせて、三室村新田1,689石余となっています。
 大間木村新田 ―― 大間木村の村民の開発で、享保16年の検地で、高236石余(反別25町1余反)が打出されたのです。寛政元年には浅間下と悪水東で見取田が23石余が検地されました。ここには、八町堤の北側に堤と並行して見沼通船掘があります。
 片柳村新田 ―― 片柳村の持添。享保16年の検地で、石高489石(田反別40町9反余、畑6町六反余、屋敷2反余、名請人86名)。
 西山村新田 ―― 片柳村の持添。享保16年の検地で石高284石余(反別、田25町1反余、畑1町6反余、屋敷9畝余、名請12人)。
 東山村新田 ―― 山村の持添。検地年代同上、(高25町1反余)。
 新井新田 ―― 開発前は海老沼低湿地。新井村持添。高226石余(反別、田39町3反余)。 町人・百姓請新田  個人の名請による町人請や百姓請は次の通りです。
 加田屋新田 ―― 江戸町人加田屋助右衛門が新墾し、入江新田を号し、享保の開発に出願し、再び当所を開き、己の屋号をもって新田名とした。高614石余。助右衛門は見沼代用水の関枠見廻役に任ぜられ、役給田3反歩を賜う。
 上山口・下山口新田 ―― 江戸小田原町鯉屋藤右衛門が開発し、己の姓を採り新田名としたのです。上山口新田は高163石余(反別、田15町5反余、畑5町7反余、屋敷3反余、名請人10人)。寛政元年に高46石余(反別、田8町9反余)同6年に高48石(反別7町6反余)が高入され、天保郷帳で258石余。下山口新田は享保16年、安永4年(1775)、寛政元年、同6年に検地を実施。天保郷帳には168石余とあります。家数は22軒、人数93人です。当地の四本竹遺跡は、氷川女体神社の御旅所と伝える祭場遺跡です。
 新右衛門新田 ―― 享保年中(1716〜1736)大宮宿本陣内倉新右衛門が開発し、己の名を村名とし、享保16年、寛政元年、同6年に検地が実施され、高31石余(反別、田4町5反余、畑8反余、屋敷は5軒)です。
 蓮見新田 ―― 大牧村の紀州鷹場鳥見役蓮見万之助が開墾、ついで、その子亭次郎が開発した新田で、己の姓を村名としています。天保郷帳には高66石とあります。
 以上、見沼新田における個別新田の成立事情による名義をみてきたが、見沼新田では、享保16年、寛政元年、同6年の3回の開発による検地があったことに気付かれたかと存じます。

見付田(みつけた)・沼田
 見沼新田の開発計画は、当初1,228町余であったが、開発後の検地では、1,178町余で、実質150町歩は残り水内(みうち)として処理しなければならなかったのです。その後、見沼中悪水路、新芝川の浚渫(しゅんせつ)や水路拡幅によって排水機能も高められ、泥深い土地も開発可能になって、寛政元年(1789)には代官萩原弥五兵衛による検地が執行されたのです。耕地悪条件の中での開発には、位付(くらいづけ)は見付田とされています。
 さらに、寛政3年には、幕府御普請役による見沼中悪水路、新芝川川幅の切広げや床下げにより、窪地の湛水(たんすい)が除去されることとなったのです。同6年、代官菅沼嘉平、同山口鉄五郎らによって検地が実施されました。しかし、地位は見付田より低い沼田が大部分でした。
 ところで、見付田や沼田がどの程度なのか、見沼新田の標準的石盛は次の通りです。
 品 等
上 田
上ノ下田
中 田
中ノ下田
下 田
下ノ下田
見付田
沼 田
斗代(石盛)
1石3斗
1石2斗
1石1斗
1石
9斗
8斗
7〜6斗
5斗

 石盛りは、租税賦課のために検地によって耕地屋敷地の反当りの収穫量のことです。見付田、沼田は上田の半分以下で極く低いのです。

植田(うえだ)と摘田(つみだ)
 浦和市南部領辻には、小名(古い地名)に五斗蒔下(ごとまきした)という田圃があります。五斗蒔というのは、中世に行われた田畑の高表示法の一つで、町反歩や貫高で示すかわりに、その田畑にまく蒔く種籾(たねもみ)の量によって何合蒔き、何升蒔き、何斗蒔きと称していました。1反の播蒔量は、約5〜6升といわれていますから、5〜6町位と考えられます。台地の地名は五斗蒔で畑や屋敷地になっており、田圃が五斗蒔下とまことに穿(うが)っています。また、開発の古さが感じられます。
 ところで見沼新田と大宮台地の比高差は5〜7mもあり、見沼代用水の豊かな水量の他に台地からのしぼり水も加わって、前述したように、窪地では湛水が除去されにくく、水損に見舞われることも少なくなったのです。
 見沼田圃は、一見広々として、同一条件のように見えますが、植田と摘田が共存する場所なのです。 田植のできない泥深い深田では、代掻(しろかき)きした田(掻田(かいだ))にウネヒキ(畝引)棒で、縦横(たてよこ)十文字に掘りたてて、その交点に種を播くのです。
 見沼新田では、八十八夜が通水開始ですから、一斉に苗代の準備や田摘みにかかります。田摘みは、朝の風の立たないうちに、肥料(木灰と下肥)とまぶした籾種を摘むのです。
 田の水入れは、田越(たご)しといって水路から取り入れる養水は、順次、田から田へと水を入れていきます。 やがて、秋にたわわに稔った稲の刈上げになると、摘田では「田下駄」と「田舟」が利用されるばかりでなく、田に埋め込まれた木の上を歩かなければならないため作業は困難でした。
 稲干しは、検地帳に記載されているように「稲干場」「のろし」架けして乾燥させます。中には田圃に矢来(やらい)を立ててのろし架けすることも少なくありません。
 このように摘田は植田に比して大変苦労したのですが、田の地位は低く、見付田か沼田と検地帳には格付けられています。

島 畑
 見沼の入り江の台地端は島畑(しまばたけ)といい、大変肥沃な土地です。台地からのしぼり水は溝を掘って見沼田圃に落とし、里芋、百合根、牛蒡、長芋、八つ頭、人参、生姜などの野菜をつくっています。中には、水廻りがよいといって陸稲を作る家もありました。
 住まいは、台地上にあって、山林に囲まれ、母屋、蔵、物置、木小屋、そして長屋門と四方を囲んだ庭は、作業場兼籾干し場です。北側は居山といって屋敷林です。南側は雑事畑といって日常生活の
惣菜を作ります。

著者プロフィール  秋葉 一男(あきば・かずお)
1927年埼玉県白岡町に生まれる。國學院大學文学部史学科卒業。埼玉県立博物館学芸部長、同民俗文化センター所長を経て同文書館長で退職。現在、幸手市史編集委員長、埼玉県警察学校講師、著書「埼玉ふるさと散歩・大宮市」(さきたま出版会)、「埼玉県の地名」(編著、平凡社)、「吉宗の時代と埼玉」(さきたま出版社) 他。


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