見沼の歴史その1
−見沼溜井以前の時代(1)−

 見沼は大昔、武蔵第一の大瀦(ぬま)で、三沼・御沼・箕沼とも書いています。また一名見沼溜井とも呼んでいました。新田開発以前は、上尾・大宮・浦和の三市に跨り、沼の形があたかも大鹿の角が聳(そばだつ)ような形に似て、東の角(つの)は大宮市風渡野、西のそれは上尾市原市のあたりまで延びていました。沼の形を頭の部分と東西の角の三水面に分けることができることから三沼と名づけられたといいます。
 沼の周囲はフルマラソンのコースにも匹敵する42キロほどあります。面積は12平方キロで、諏訪湖(14平方キロ)よりやや小さく、山中湖(6平方キロ)の2倍の大きさです。
 この見沼がいつどのようにして移り変わり、今の姿になったのでしょうか。その歴史を繙(ひもと)いてみませんか。その移り変わりを見沼溜井以前の時代、見沼溜井の時代、見沼新田開発の時代、新しい見沼の時代とに分けて、その姿を復原してみました。できるだけ各時代の変化と特質がはっきり掴(つか)むことができるように配慮いたしたつもりです。

見沼の成り立ち
 見沼を囲む大宮台地の辺(ほとり)にある縄文式時代前期(今から5000〜6000年前)の遺蹟、中川貝塚(大宮市中川)・山崎貝塚(浦和市三室)からは、マガキ・ハマグリ・オオノガイ・サルボウ・ハイガイ・アカニシ(以上鹹水産)とヤマトシジミ(淡水産)などが採取されています。ここはもと奥東京湾が入り込んでいたことが貝塚の存在で立証されたのです。貝塚は人々が生活した跡ですから、食糧とした貝殻のほかに土器や石器・骨角器などが出土して、その生活ぶりを偲ぶことができます。
 縄文時代の終りごろには海退が進み、海退後には古い荒川が延びてくるに従い出口が塞がれて、大きな沼沢地(しょうたくち)が出現しました。ここには潮水(しおみず)ではなく明らかに真水(まみず)の水沼(みぬま)が形づくられたのです。
 縄文時代がおわり弥生時代になると、見沼辺(ほとり)の県立博物館敷地内の遺跡からは、煮炊(にた)き用の台付甕(かめ)が発掘されています。この土器は米を蒸(む)すための甑(こしき)に使用されたものです。すでに稲作が行われた証拠になるのです。県では県立博物館敷地内の弥生時代の竪穴住居跡と方形周溝墓および出土遺物を県指定史跡にして保護をはかっています。
 ところで、こうした見沼の変化を如実に示した遺跡として寿能泥炭層遺跡(大宮市寿能町)があります。この遺跡は昭和54年(1956)から昭和56年にかけて発掘調査されたのですが、縄文時代の全時期・弥生時代後期・古墳時代・平安時代までの各時期にわたる複合遺跡とされたのです。海進によって海中に没した縄文時代前期を除いて、除々に泥炭層が堆積した低湿地に変わり、さらに江戸時代前期の溜井造成期までの時代の移り変わりとともに、自然環境の変化に適応してきた見沼周辺の人々の暮しぶりを垣間見るできる貴重な遺跡として注目されたのです。遺構は木道と杭列ですが、特徴として木製品の出土があげられます。漆器100点余と杭など合わせると1000点余になります。しかし、隣接する台地上の近くには大規模な集落跡はなく、小支谷を西に1キロの距離にある氷川神社社叢に点在する遺跡群と関連して、ウォーターフロント基地の役割をもつ遺跡と主張する人もあります。これに対し、疑問を唱える人もあります。いづれにせよ今後の研究が待たれます。

見沼は氷川の御沼
  一般に「氷川」のヒは氷(こおり)の古語で、カワは「泉」を表現したものといわれています。氷川神社に伝わる氷川本紀に「氷川とは古へ水沼あり、下流は隅田川に接したる大いなる流れにして、其大さ三里余、広さ五六丁其後新田に開きしが、今当社御手洗は古昔水沼の残存せるものなり、池中に蓴菜(じゅんさい)を繁生す。三冬の比(ころ)、今も御手洗に竪氷を結ぶ、故に氷と云ひしを、今は氷川と云ふなり」と記しています。
 氷川神社を称する神社は、埼玉県・東京都・神奈川県に約250社あります。これらの多くは川の上流か沼の水源の傍らにあります。見沼周辺にある大宮市高鼻の氷川神社・浦和市三室の氷川女体神社・大宮市中川の中山神社は、それぞれ男体宮・女体宮・簸王子宮と称していました。この三社にはそれぞれ縁起書や古記によって創建年代を定めていますが、実際とは異なる場合があるともいわれています。信濃国諏訪湖畔の諏訪大社は、上社下社に分かれていますが、もとは一社で大社名は両社の総社であるといわれています。氷川三社も恐らくもとはこのような形態ではなかったといわれています。これは三社が深い関係をもっていたことを示しており、かつては一社であったことを物語るものと考えられます。その遺制として、氷川女体神社の磐舟祭(いわふねまつり)と氷川神社の橋上祭(きょうじょうさい)があります。

御船祭
 甲子夜話(こうしやわ)の文政6年(1823)2月の記事に、「御宮の後の山には杉、榊多く生(はえ)て、あたかも三輪山(みわやま)によく似たり 前の石段を下りて鳥居あり、此より並木を直に東に出て四本竹と言う所、これ祭場なり、打見わたしたる所平田なり。昔は大沼の御手洗ひにて九月十四日の例祭には神輿を舟にて出し奉る。出御の時は必ず西風吹き還幸には東風なり、舟師棹を取るを待たずして風に任かせて池中に至り、祭式終了後、また風に随いて還着す。また其祭礼の時刻ばかり往古より雨降ることなし、霖雨連日の時と言へども、九月十四日午未(うまひつじ)の刻と言へば必ず雨止むが故に此神事に雨具の用意あらずとぞ」と御船祭を情緒豊かに祭の情景を霊験あらたかに描えています。
 伝統的な御船祭は享保12年(1727)の見沼干拓により執行不能となり、代つて「磐船祭」が今は隔年9月8日に神輿を船に乗せ、見沼に見立てた御手洗瀬3町ほど沖へ進み祭祀を執り行っています。万葉集に「天雲(あまくも)に磐船浮べて」と詠まれているように、神話に擬(なそら)えて平安を言祝(ことほ)ぎ奉ったものと思われます。氷川女体神社には御船祭に用いられた神輿(みこし)をはじめ神具の鉾(ほこ)、剱(つるぎ)、瓶子(へいし)など、南北朝から室町時代に制作された伝世品があります。これらは歴史的、美術的にすぐれた貴重なものとして、県指定有形文化財となっています。このほか、四本竹は御船祭の御旅所と伝える祭場遺跡で、見沼の下山口新田にありました。近年の発掘調査で集中して突(つき)刺(さ)った多数の祭竹が発見され、同時に古銭、磁器片、土錘などが出土しています。
 御船祭・磐船祭と祭祀の仕法は変化しても、氷川女体神社では最も重要な祭祀として時代を超えて今日まで継承されてきたのです。

橋上祭
 氷川神社の御船祭の実態は定かではありません。見沼干拓後は神幸祭として、江戸時代は旧暦の6月15日、明治維新後は8月2日に執行されてきました。同社でも最も大事な祭礼としております。
 当日は井垣(大宮・大成・土呂・本郷・北袋・天沼・加茂宮)と神領(与野市上落合・浦和市新開)の氏子が寅の刻(午前4時)に参集し奉仕します。神幸に先き立ち笹付竹で池水を橋上に撒き散らします。小麦殻で敷き詰めた橋上に神輿・神宝・神具が安置されると神酒神餅が奉納され、厳(おごそ)かに神事が執行されます。祭祀が終ると、行列を組んで池の周りを一巡します。

著者プロフィール  秋葉 一男(あきば・かずお)
1927年埼玉県白岡町に生まれる。國學院大學文学部史学科卒業。埼玉県立博物館学芸部長、同民俗文化センター所長を経て同文書館長で退職。現在、幸手市史編集委員長、埼玉県警察学校講師、著書「埼玉ふるさと散歩・大宮市」(さきたま出版会)、「埼玉県の地名」(編著、平凡社)、「吉宗の時代と埼玉」(さきたま出版社) 他。


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