城―戦国時代のさいたま市・寿能城
1500年代の話、旧大宮市近辺は上杉謙信の上杉方の支配下にあった。
当時の軍事拠点は、川越城、岩槻城などであった。
岩槻城は、旧江戸城築城で有名な太田道灌が築城、その子孫、太田三楽斎資正(おおた さんらくさい すけまさ)が城主となり、上杉勢と戦い、上杉方となってからは、南から進軍してくる北条氏康・氏政などの北条方に対抗していた。
太田三楽斎資正は、軍事的天才で、上杉謙信の家老に、「主君に匹敵する」といわれ、秀吉が朱印状を送ったこともある。連絡手段に伝書犬を考え出したアイデアマンでもあった。関八州ではかなり名のある武将であった。
1560年、北条方におちた川越城に対抗し、旧大宮地区に寿能城、伊達城(現・大和田陣屋跡)が築城された。
寿能城主は資正の四男、潮田出羽守資忠(うしおだ でわのかみ すけただ・姓は母方)が、伊達城主は太田家家老、伊達与兵衛房実がそれぞれ治めた。
寿能城の地区は、現在の大宮北中学校〜ひょうたん池手前までの範囲が寿能城であった。
北面、南面は谷、東面は現・川口まで続いたという大きな"見沼"(今は見沼代用水、芝川がある低地)に面し、西面には堀を掘ったらしい。
見沼を隔てた台地に伊達城があった。さらに南には、中丸城(南中丸)、松野城(御蔵)を建て北条方に備えた。
1562年、北条方は、圧迫を強め、太田氏ゆかりの水判土慈眼院に焼き討ちし、氷川神社も兵火で焼けた。
1564年、資正が、宇都宮に出かけている最中に、長男、氏資(うじすけ)が北条方と組み、資正を岩槻城から追放、寿能城も、北条方の支配下に入った。
潮田氏の領地は浦和〜桶川にいたる広さであった。
人物としては、氷川神社に土地を寄進したり、大宮の五穀豊穣のため城内に稲荷を祭り当地の守護神とするなど、信心深い人物だった。(現在は、市役所横に移設されている。)
1590年、資忠は、秀吉の小田原攻めに対抗するために、一族・家来衆と北条の小田原城に入城する。
しかし、石田三成の軍勢により、小田原城四ッ門蓮沼で、息子・資勝とともに潮田勢37名が討死した。
同年、秀吉軍の家康配下の浅野氏の軍勢が北上、北条方軍勢と合戦になった。
寿能城は当時の他の戦国の城のように、村民の避難所となり、多くの大宮村民が篭城、急ぎ戻ってきた家老、北沢宮内、加藤大学の奮戦も空しく、寿能城はあえなく、主君の死と同年に落城、二人の家老は氷川大門に蟄居にいたった。
主君の妻と幼少の息子・資政は助け出され常陸に逃れたが、家来衆や、その妻子、名前が残っているのは能姫、侍女のお漣(れん)など、かなり多くの人々が、見沼に身を投げた。
秀吉方の軍勢は市域で、戦場の他聞にもれず暴行・略奪行為を行なったようで、軍勢の乱暴狼藉を禁ずることと、逃げていった農民の帰還を命ずる秀吉禁制(案)が残っている。
難攻不落の岩槻城も、4月22日落城、家老・伊達与兵衛房実は、その地で降参、退散した。房実は、家康の時代になって、召し抱えられ、伊達城の地域に陣屋を置いて大和田を治めた。
同じく家老、加藤大学は、後に氷川神社に仕える家となった。
他の家老、北沢宮内ら多くの武将は帰農してゆき、大宮町の成立に尽力していった。
家康の時代になって、領主が寿能城付近の開発を命じられた、ということもあり、城の形は残らなくなっていった。
旧大宮はこのように、戦国時代には戦場となって多くの人が亡くなっていた地であった。
大正〜昭和初期に、笛のうまい少女が蛍を追っていった所、侍女風の少女が現われ、案内されてお屋敷に入った所、少女の姿のお姫様が現われ、その地であった悲劇を告げ、「今は見沼の竜神の力で蛍の姿を借りて生きている。優しい村人に供養をして欲しい」と訴えた、という伝承があり、青い石の供養塔が資忠公の墓石の隣りに建てられ、戦前までは、命日の4月18日に供養祭が行われていた。見沼の蛍は戦前までは数多く見られ、天皇陛下まで献上されていたらしいが、今は見られない。
しかし、戦時中に寿能城跡に高射砲陣地が造られたときに、多くの土塁などが削られ、供養塔等も失われた。
現在は住宅地内の急な坂が当時をしのぶが、残っているのは出丸跡、潮田出羽守資忠公の墓所のみである。資忠公の墓地が立つ所は物見櫓跡であったらしいが今は寿能公園となっている。 見沼用水にかかる潮田橋、そこからひょうたん池までの間が出丸跡である。大手門は北中学校のあたりにあったというが今はない。
(本文提供 : さいたま市大和田 石川さん)