武蔵野線に乗って東浦和駅から東川口駅にむかうと、まわりになーんにもない田圃ばっかりの車窓がのぞまれます。ここらあたりが見沼たんぼの南の端のほうです。 見沼たんぼは、埼玉県の川口市、浦和市、大宮市の3市にまたがる水と緑の広大な空間です。その広さは芦ノ湖の2倍、1200ヘクタールにもなります。 埼玉県による見沼たんぼ全域にわたる開発規制により宅地開発がおこなわれず、昔ながらの風景が今も残っています。今から25〜30年位までは、ちょっと郊外に出るとこんな風景だったんですけどね。 首都圏25キロ圏内でこれだけの自然がまとまって残っている所は、そう多くはありません。宅地化が進み次々と自然が消えて行く中で、見沼たんぼも開発規制があるとはいえその例外ではありません。公共施設等の建設は、見沼たんぼをターゲットとしてきています。このホームページで紹介している散策スポットには載せていない、悲しい光景があちこちで見られます。一度、破壊してしまった自然は、もう人間の手では戻すことができません。この見沼の自然をいつまでも保全していきたいですね。
【歴史】 見沼は埼玉県東南部に広がる広大な沼沢地で、武蔵国一宮である氷川女体神社(浦和市宮本所在)とも関わりが深く、その中で御船祭なども行われていました。 江戸時代初めの寛永6年(1629)関東郡代伊奈半十郎忠治によって八丁堤が築かれ見沼溜井がつくられました。この溜井の完成によって、溜井の南側の新田開発は進みましたが、見沼沿岸の地域では水没田が生じたこと、上流がないために恒常的な水不足とたび重なるわく溢水などいろいろな問題がでてきました。 江戸時代の中頃になると徳川吉宗は幕府財政建て直しのため各地で新田開発を押し進め、見沼も開発されることとなりました。この工事は幕府勘定方(後に勘定吟味役)井沢弥惣兵衛為永により行われ、まず八丁堤を切り、中央にある芝川の旧河道を使って排水を進め、新田造成を行いました。新たな用水として、利根川から水をひくこととし、延べ60Kmにわたる用水路を完成させました。これは在来の見沼に代わる用水という意味で、見沼代用水と呼ばれています。こうした一連の工事は、翌享保13年(1728)の春に完成し、その年から新田に植え付けが行われました。 なお、新田造成工事は村請けや町人請けという方法で進められ、代用水縁辺の各村に新田が割り当てられました。 (見沼通船堀の掲示板から)
【見沼の伝説】 「見沼の笛」
昔、このあたりの見沼が、まだ満々と水をたたえていたころのこと。夕暮れになると、沼のほとりのどこからか美しい笛の音が流れてきます。そしてその笛の音に誘われるかのように、村の若い男たちが、一人また一人と沼のほとりから消えてゆきました。 村の若者は、だんだん少なくなって、お百姓もできなくなるほどになりました。困った村人たちは、これはきっと見沼の主が、なにかを怒ってなされるに違いない、見沼の主の心を鎮め、いなくなった若者たちを慰めるため供養塔を建てることにしました。そして大きな石の塔を建てねんごろに供養しました。それ以後は、不思議な笛の音は、ぴたりと止んで、行方不明になる若者もなくなり、再び村は平和になったということです。 (見沼通船堀公園近くの見沼代用水西縁の掲示板から) |