■□■□■ 『湯島の白梅』の謎(オロモルフ)■□■□■


■■■ 1.名フレーズ「こころの錦」■■■

 水前寺清子の初期のヒット歌謡に『いっぽんどっこの唄』があります。

『いっぽんどっこの唄』昭和41年
(クラウン/詩:星野哲郎/曲:富侑栄/歌:水前寺清子)
ぼろは着てても・こころの錦
どんな花より・きれいだぜ
若いときゃ・二度ない
どんとやれ・男なら
人のやれない・ことをやれ

「いっぽんどっこ」は博多帯の一種で、博多男の心意気を歌った唄だそうですが、この一行目にあります「こころの錦」は記憶に残る名文句です。
 で、この歌を聴きましたとき、どこかで聞いたフレーズだなあ――と思って、歌謡曲全集をぱらぱらとみて見つけたのは、『勘太郎月夜唄』の二番でした。

『勘太郎月夜唄』昭和18年
(ビクター/詩:佐伯孝夫/曲:清水保雄/歌:小畑実・藤原亮子)
形(なり)はやくざに・窶(やつ)れていても
月よ見て呉れ・こころの錦
生まれ変って・天竜の水に
うつす男の・晴れ姿

 まったく同じフレーズで、それ以外の言葉は違いますが、詩の雰囲気はよく似ています。 というわけで、星野哲郎さんは佐伯孝夫さんの詩にヒントを得たのかもしれないなあ――と思ったものです。
 むろんその前からあったかもしれませんし、昔の都々逸などから採った可能性もあります。真似がどうのというような難しい話にはなりません。

 さて、本稿の主題は「こころの錦」ではありません。
 上にあげた『勘太郎月夜唄』とその前年の同じメンバーによる『婦(おんな)系図の唄(湯島の白梅)』の二曲の〈謎〉なのです。


■■■ 2.『婦系図の唄』と『勘太郎月夜唄』■■■

『勘太郎月夜唄』は上に記しましたので、『婦系図の唄』を下に示します。

『婦系図の唄(湯島の白梅)』昭和17年
(ビクター/詩:佐伯孝夫/曲:清水保雄/歌:小畑実・藤原亮子)
湯島通れば・思い出す
お蔦(つた)主税(ちから)の・心意気
知るや白梅・玉垣に
のこる二人の・影法師

 ヒット歌謡のほとんどが映画に関係していますが、この『婦系図の唄』と『勘太郎月夜唄』もそうですので、簡単に記しておきます。

 昭和17年の『婦系図の唄』は、泉鏡花原作、マキノ正博監督、長谷川一夫・山田五十鈴・高峯秀子・古川緑波ら競演の東宝映画「婦系図」をあてこんで作られたものだそうです。
 しかし映画では一度も流されなかったので、映画の主題歌とは言えないそうです。
 およそ戦時中らしからぬ主題の映画と曲ですが、売り出しが許可になり、静かにヒットしました。
 ただし本当に大ヒットとなって誰でもが知る歌謡曲となったのは戦後のことで、大映が「湯島の白梅」という題でこの映画を作り直したとき、曲も『湯島の白梅』として再発売したので、こちらの題名の方が有名になりました。
 歌詞は新派の「婦系図」の湯島境内の場面を取り上げていて、「月は晴れても心は闇だ」の名セリフがあります。
(わたしは両方とも歌謡曲のことしか知りませんで、歌謡曲全集の類を見ながら書いています)

 次に昭和18年の『勘太郎月夜唄』ですが、これは戦時中の最大のヒット歌謡と言われており、滝沢英輔監督、三村伸太郎作、長谷川一夫・山田五十鈴ら競演の東宝映画「伊那節仁義――伊那の勘太郎――」の主題歌で、『婦系図の唄』と違って映画の中で流れました。
 信州伊那の山並みをロケして、そこにモンタージュして伊那の勘太郎(長谷川一夫)の姿を映し、そこらあたりから小畑実の美声を流したところ、大評判になりました。
(信州伊那はわたしの祖父の出身地で父の生まれたところでもありますが、じつに緑豊かな山並みの続く森林地帯です)
 ただし滝沢監督はこの曲が西洋風にすぎて股旅映画に合わないという意見だったようで、間に立つ人が苦労し、最初の曲とはリズムを少し変えたのだそうです。
 途中で転調がありますので、それが洋風に聞こえたのかもしれません。

 この歌も戦後になってさらに大ヒットし、股旅演歌の定番となりました。
 主人公の伊那の勘太郎はもちろん架空の人物ですが、戦後に勘太郎の墓が見つかったという話が起こり、昭和33年になって大映社長が墓碑銘を書いて、伊那市でその除幕式が盛大におこなわれたそうです。
 町おこし作戦だったのでしょう。

 先に『勘太郎月夜唄』の二番を記しましたので、有名な一番を書いておきます。

影か柳か・勘太郎さんか
伊那は七谷・糸ひくけむり
棄てて別れた・故郷の月に
しのぶ今宵の・ほととぎす

 つぎに、これら二曲を歌って一躍スターダムに躍り出た小畑実について記します。
 本稿の主題に密接に関係することです。


■■■ 3.美声の在日歌手・小畑実 ■■■

 まず略歴をウイキペディアによって記します。
 小畑実は本名康永吉吉(カン・ヨン・チョル/大正12年〜昭和54年)で、現北朝鮮の平壌の出身です。
 日本に憧れて昭和12年14歳で日本本土に渡り、苦学しながら音楽学校で学びました。小畑という芸名は、苦学していたころ世話になった秋田の小畑イクという人にちなんでつけたそうです。
 和製クルーナーと呼ばれた天性の美声の持ち主で、レコード会社から注目され、昭和16年春にポリドールでレコードを出しましたがヒットせず、その年の秋にビクターに移りました。
 そして翌昭和17年19歳のときに、『婦系図の唄』で本格デビューし、さらにその翌年の『勘太郎月夜唄』でヒットメーカーの仲間入りをしました。
 レコード会社は、ポリドール、ビクター、テイチク、キング、コロンビア、さらにビクターと転々としながら、ヒットを続けました。
 主なヒットはビクターとキングから出ています。
 昭和32年にいったん引退し、実業を志しますが、昭和44年頃から復帰。復帰後はステージ活動などをしていましたが、ゴルフ場で倒れました。まだ55歳でした。
 復帰後は終戦直後ほどのヒットはありませんでしたが、ときどきテレビなどにも出ていました。

 以下に代表的なヒット曲の題名を並べておきます。

昭和17年『婦系図の唄(後に湯島の白梅)』ビクター
昭和18年『勘太郎月夜唄』ビクター
昭和23年『長崎のザボン売り』キング
昭和23年『小判鮫の唄』キング
昭和24年『薔薇を召しませ』キング
昭和24年『アメリカ通いの白い船』キング
昭和25年『星影の小径』キング
昭和25年『涙のチヤング』コロンビア
昭和26年『高原の駅よさようなら』ビクター
昭和26年『山の端に月の出る頃』ビクター
昭和26年『雨のダンスパーティ』ビクター
昭和27年『ロンドンの街角で』ビクター
昭和28年『花の三度笠』ビクター
昭和29年『そよ風のビギン』ビクター

 昭和前半の歌謡曲ファンなら誰でも知っているヒット曲ばかりです。題名は思い出さなくても、メロディを聴けば「ああそうか」と思うでしょう。
 たしかごく最近もテレビのCMで『星影の小径』が流れました。

 小畑実が最初にビクターに入ったのは昭和16年の秋ですが、作曲家の江口夜詩の案内でテストを受けに来ただそうです。
 その時はまだ18歳でしたが、みなその美声に驚いてすぐに採用が決まりました。しかし戦時中なのでその美声を活かす曲がなく、苦労していたとき、『婦系図の唄』の企画が出来て、小畑向きだというので吹き込みが決定。
 当時の習慣として新人を売り出す時は異性の先輩歌手と組み合わせることになっており、中堅歌手の藤原亮子が一緒に歌いました。
 このとき小畑実は藤原亮子を前にしてすっかりあがってしまって、NG続出だったそうです。

 ちなみに藤原亮子の代表作としては、小畑実と一緒に歌った『婦系図の唄』『勘太郎月夜唄』のほかに『誰か夢なき』や『月よりの使者』(ともに竹山逸郎と一緒)があります。

 でもとにかく、この『婦系図の唄』が小畑実の最初のヒットとなりました。
 戦時中とはとても思えないほどソフトな唄です。詩も曲も・・・。

 なお小畑実が自分の意志で日本に渡ってきた朝鮮出身の歌手である事は、当時の人は誰でも知っており、小畑自身も隠してはいませんでした。
 中学高校時代のわたしも、当然のことのように知っておりました。
 歌謡曲ファンは、真に実力のある人ならば、出身がどうであろうと応援していました。
 小畑実は、当時の日本人にもっとも愛された在日歌手でした。今でも私の耳朶に、その類いまれな美声が響いています。

 で、問題は、この小畑実の美声に古賀政男が惚れ込んだことから起こるのです。


■■■ 4.本当の作曲者は誰なのか? ■■■

 さて、これからが本題です。
 在日歌手小畑実が戦前に歌った二つの大ヒット曲『婦系図の唄』と『勘太郎月夜唄』の作曲者は清水保雄と、レコードにも楽譜にも書いてありますが、
「じつは違うのではないか、本当の作曲者は古賀政男ではないのか」
 ――という噂が、前々から流れていたのです。

 わたしは事情通ではありませんが、歌謡曲関連のちょっとしたエッセイとか座談会とかにその話題が出ていました。
 そういう話題の中で、もっとも確からしい記事を以下に引用します。

『オリジナル版古賀政男大全集』に付属する資料集の解説を音楽記者の森一也が書いていますが、その『銀座シャンソン』の箇所につぎのようにあるのです。
(この歌は門田ゆたか作詞/古賀政男作曲/小畑実歌、昭和25年5月発売です)

「昭和二十五年の正月でした。筆者が『古賀メロディ・ショウ』を上演中の御園座の楽屋を尋ねると、作曲者は上機嫌で満面に笑みをたたえて、「たった今知らせが入った所だが、小畑実がコロンビアに入社した。彼は僕の唄が唄いたくて専属契約を結んだのだから、大いにヒットを出さにゃならん」とワクワク、ソワソワのようすでした。考えてみると、小畑はポリドールでデビューした頃(注:昭和16年)から古賀邸の門を叩き、教えを受けていたのです。しかし、今までは専属会社が別々(古賀政男は一時期テイチクでほとんどの期間コロンビアの専属、小畑実はビクターやキング)なのでコンビを組む事が難しかったのです。しかし、吉田信(音楽記者大先輩)も発表された通り、『湯島の白梅(婦系図の唄)』『勘太郎月夜唄』は小畑のために古賀政男が作曲、弟子の名を借りて(ビクターで)レコーディングしたものです。
 さて、小畑の新入社を祝って早速創られたのが『銀座シャンソン』でした。・・・」

 つまりベテラン音楽記者の森一也が断定的口調で「この二つの歌の真の作曲者は古賀政男である」と記しているのです。
 この『オリジナル版古賀政男大全集』の監修は「古賀政男音楽文化振興財団」ですから、この解説がいい加減なものだったら監修者がクレームをつけたでしょうから、信憑性はかなり高いと思います。

 で、文中に「吉田信が発表した通り」とありますので、その発表なるものを見てみたいと思ったのですが、まだ見つかりません。
 そこで、吉田信なる人物について、つぎに記してみます。


■■■ 5.音楽著作権協会で活躍した作曲家・吉田信 ■■■

 森一也は吉田信のことを「音楽記者大先輩」と呼んでいますが、歌謡曲ファンとしては作曲家としての吉田信の方が親しみがあります。
 有名なのは『熱海ブルース』と『南から南から』です。

『熱海ブルース』昭和14年
(ビクター/詩:佐伯孝夫/曲:塙六郎/歌:由利あけみ)
昨日来た街・昨日来た街
今日また暮れて
つきぬ情(おも)いの・湯けむりよ
雨の匂いも・やさしく甘く
君は湯上がり・春の顔

『南から南から』昭和17年
(コロンビア/詩:藤浦洸/曲:加賀谷伸/歌:三原純子)
南から南から
とんで来た来た・渡り鳥
嬉しそうに・楽しそうに
富士のお山を・眺めてる
茜の空・晴れやかに
昇る朝日・勇ましや
その姿・見た心
一寸ひとこと・聞かせてよ

『熱海ブルース』の作曲者は塙六郎ですが、これは吉田信の初期のペンネームです。
 吉田は神戸に生まれたので最初期には神戸道夫という名前を使っていたそうですが、その後東京の麹町下六番町に住んだので塙六郎と名乗ったらしい。
『群書類従』で有名な塙保己一が住んでいた場所だからです。
 当時の吉田信は東京日々新聞の記者をしており、国民新聞の記者だった佐伯孝夫に歌謡曲の作詞を勧めたのだそうです。
 詩ですぐに分かりますように、これは熱海の温泉街が宣伝のために依頼してきた企画でした。
 歌手の由利あけみはこの曲でデビューし、すぐあとに出来た『長崎物語』の大ヒットで有名になりました。
 作詞の佐伯孝夫が取材と称して熱海で遊んでしまってなかなか詩を作らなかったので時間が無くなり、歌手由利あけみをそばに置いてわずか数十分で作曲したと言われますが、名曲とは長く時間をかければ出来るというものではなく、そういう話は多くあります。
 それほど有名な曲ではありませんが、聞けば「ああそうか、聞いたことがあるな」と、昭和前半に青春を送った人なら思い出すでしょう。
 とても良いメロディです。

『南から南から』の作曲者は加賀谷伸となっていますが、これも吉田信で、もっとも多く使われたペンネームです。市ヶ谷の加賀町に住んだのでつけたそうです。
 この歌は戦時中ではありますが、詩にも曲にも無邪気な明るさがあり、ヒットしました。
 大東亜共栄圏の宣伝もかねて、平和で明るい歌を作ろうという企画だったようです。ほとんど同時に売り出された『南の花嫁さん』(高峰三枝子歌)も同様の主旨の歌です。
 歌った三原純子はタイヘイからコロンビアに移ってこの歌が最初のヒットになりましたが、翌年の暮れ、当時の代表的男性歌手の楠木繁夫と結婚しました。
 もう敗色が濃くなりつつあった時代だったので、警戒警報発令中の挙式であり、有名歌手の結婚式でありながら薄暗い中でなされ、音楽関係の出席者も古賀政男・高木東六・吉田信の三人だけだったそうです。
 気の毒に戦後結核を病んで故郷の飛騨高山に帰って没しました。

 さて、吉田信とは、このようなヒット曲の作曲家だったのですが、生まれたのは明治37年(1904年)、東大の法学部を出て東京日々新聞の学芸部記者を出発点として、作曲で活躍すると同時に、記者としても解説者としても評論家としても活躍し、戦後はNHKの音楽部長、東映の取締役、レコード大賞の審査員なども務めました。
 また、昭和40年代には日本音楽著作権協会の常務理事も務めたいたそうです。はっきりしませんが、会長に就任したことがあったかもしれません。
 当時の大衆音楽界で、明治生まれの東大法学部卒というのはきわめて珍しい存在であり、重宝されたのだと思います。
 没したのは昭和63年、享年84でした。

 吉田信とは以上のような人で、著作権協会の理事でもあったのですから、『婦系図の唄』と『勘太郎月夜唄』が実は古賀メロディだという説が無責任なガセであるとは考えにくく、相当な信憑性があると思います。

 で、そうなりますと、レコードや譜面に記されている作曲家の清水保雄とはどういう人で、古賀政男とどういう関係があるのか――という疑問が浮かびます。
 そこでつぎに清水保雄について記します。


■■■ 6.宮本旅人の歴史的古賀政男伝 ■■■

 宮本旅人という作詞家兼伝記作家がいます。
 歌謡曲の作詞をしたり音楽関連の伝記を書いたりしていた人で、明治40年に生まれ、昭和10年ごろから戦後にかけて活動し、昭和57年75歳で亡くなりました。
 この人の作詞活動で、ほとんど唯一のヒット作が、有名な『旅姿三人男』です。
 誰でも知っている明るい演歌です。

『旅姿三人男』昭和14年
(テイチク/詩:宮本旅人/曲:鈴木哲夫/歌:ディック・ミネ)
清水港の・名物は
お茶の香りと・男伊達
見たか聞いたか・あの啖呵
粋な小政の
粋な小政の・旅すがた

 この曲を作詞した宮本旅人の、伝記作家としてのもっとも有名な仕事は、古賀政男伝でしょう。いまでこそ古賀伝はたくさんありますが、昭和13年という早い時期に古賀伝を出したのです。たぶんこれが古賀伝の最初です。
 古賀邸に寝泊まりするほどの熱心さで、入念に打ち合わせて作られたとされる本で、したがって客観的な伝記というよりも、今活躍している芸能人の伝記と同様にPR的な色彩のつよい本ですが、それでもテイチク時代の古賀政男の周辺の事情などがわかり、貴重な資料となっています。
(宮本旅人はいろんな本を書いた人で、わたしの編纂したCD−ROM版SF書籍データベースには『シベリアのターザン』という本を入れてあります。シベリアを侵略してくるロシア人と戦うシベリア原住民の少年の話です)

 で、その古賀伝とは――

◎宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和十三年十一月/復刻昭和五十三年十月)

第一篇 半生物語『丘を越えて』
第二篇(上)古賀政男作品研究
第二篇(下)古賀政男を巡る人々
第三篇 古賀政男作品集

 B5判ハードカバーという豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、サトウ・ハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿しています。

 私はこの本を神田の古書街で若いころ(50年くらい前です)に見つけて購入しました。
 古賀メロディのファンでも持っていない人が多く、当時すでに一種の稀覯本だったと思います。
 古賀政男が没した直後に、多くの人の希望で復刻されました。
 復刻本には、著者の宮本旅人の復刻の言葉と同氏が撮ったらしい晩年の古賀政男の写真があって貴重です。

 その言葉で分かりましたのは、明大マンドリン倶楽部の古賀の愛弟子でテイチクで仕事をしていた宮崎良治氏が、宮本旅人のヒット歌謡『旅姿三人男』の企画を担当していたという事です。
 この宮崎氏の葬儀に病をおして出席した古賀政男を、宮本旅人が撮影した写真が、上記の貴重な写真のようです。
 この時古賀政男は、宮本旅人が中山晋平の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。筆まめな人だったのですね。
 それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。


■■■ 7.古賀邸の秘書兼運転手兼作曲編曲家だった清水保雄 ■■■

 さて、問題の清水保雄ですが、この本の第二篇(下)の第一章にテイチク文芸部で古賀政男を支えた人たちが紹介されており、その中に触れられています。
 紹介されているのは次の六人です。
 いずれも、古賀政男が主催していた明大マンドリンクラブのメンバーで、古賀の子分衆であり、伝記類にもちらほらと名前の出てきますが、古賀がコロンビアからテイチクに移った際に一緒にテイチクに入った人たちです。

(1)小山令道
(2)東堂守三
(3)宮崎良治(上記の葬儀の人)
(4)茂木了次
(5)原野堅三
(6)清水柾雄

 この(6)にある清水柾雄について書かれている事を、一部略しながら引用します。

**********

 明治四十三年生まれ。
 昭和六年、明治大学予科を卒業し、日本郵船に就職。
 昭和九年、古賀政男に従ってテイチクに入社。
 古賀政男の懐刀とも言うべき人である。
 古賀の苦難時代から起居を共にし行動を共にして、常にその直接相談役補佐役たりし人。性格は茂木了次の直裁さに、原野堅三の確実さ、小山令道の忠実穏健さ、それらを等分に持っていると見ることが出来る。
 古賀政男の、あの豪華なパッカードを縦横に操縦するのもこの人、それと同じ意味において、古賀政男の意見を、対外的に自由に駆使するのもこの人だ。それだけに清水柾雄の責任は重く、立場は辛いと言うことも出来よう。
 彼が、常に古賀政男の身に近くいて、一切の、内部、外部の切り盛りを、滞りなく恙なくやって行く才腕また買うべしである。

**********

 これを読みますと、清水柾雄という人は、古賀政男の六歳下で、明大マンドリンクラブの学生時代から古賀に憧れて部下になり、秘書兼書生兼自家用車の運転手兼雑用係でかつテイチクで企画を担当していた人であることが分かります。
 問題の清水保雄とは一字違いですが、音楽家の名簿に清水保雄の本名が清水柾雄と書かれています。

 また、戦後に書かれた古賀伝にも、清水保雄は古賀政男の自家用車を運転しており、アメリカなど海外に行った時も古賀の乗る車を運転していたことが記されていますので、間違いなくこの清水柾雄が後の清水保雄です。
 さらに後の伝記から、清水保雄は秘書兼書生だっただけでなく、古賀メロディの編曲を名前は出さずに相当やっていた事も分かります。
 古賀メロディに憧れ、古賀に密着して生活していた人ですから、ある意味当然のことでしょう。

 要するに古賀政男の忠実な子分なので、前記森一也の解説にある「弟子の名を借りてレコーディングした」ことが本当だとすれば、まさにその弟子であることは明らかです。

 さらにもう一つ、興味深いエピソードがあります。
 出典は下嶋哲朗の『謎の森に棲む古賀政男』(講談社)です。古賀政男を顕彰するためではなく、影の部分に注目して書かれた本ですが、それだけに貴重な記録もあります。
 昭和30年に卒業した明大マンドリンクラブのメンバーBの記憶として、清水保雄に対して古賀政男が怒った時の言葉が記されています。
「古賀先生は、おまえがつくった「湯島の白梅」を取り上げてやるぞ! と清水さんに怒鳴った。それもマンクラメンバーが大勢いる前ですから、いくらなんでもそこまで、と内心じつに不快だった」

 下嶋氏は『湯島の白梅』の真の作曲者は誰か――という問題意識は持っておられないようなので(清水保雄の未亡人にインタビューしても、そういう質問はしなかったようです)、この話はこれだけなのですが、この古賀政男の言葉は――本当にこう言ったのだとすれば――意味深長です。

「「湯島の白梅」を取り上げてやる」の「取り上げてやる」は、何らかの理由で怒った時の言葉ですから、取り上げて褒めてやる――の意味ではありません。
「お前の持っているものを取り上げるぞ」という意味です。
 しかし、作曲が実際に百パーセント清水保雄だったとすれば、そんなこと出来るはずはありません。
 音楽著作権協会の監事などをつとめ、後に会長にもなった古賀政男が著作権を侵害したことになってしまいます。
 ですからこれは(森一也の解説が正しいとすれば)、「俺が作った歌をお前の名前で出しているが、じつはお前が作ったのではないと公表するぞ」という意味だと解釈せざるをえないのです。

 なお清水保雄/柾雄が没したのは昭和55年でした。
(古賀政男が没した昭和53年ごろに、古賀に縁の深かった多くの人が没していることが印象的です)


■■■ 8.『誰か夢なき』――むすびにかえて―― ■■■

 清水保雄の名で出ている曲は、校歌の類や地方の宣伝歌謡の類なども含めてかなりあるようですが、わたしの知るかぎり、ヒット曲は次の三曲です。

 戦前――
『婦系図の唄(湯島の白梅)』
『勘太郎月夜唄』
 戦後――
『誰か夢なき』昭和22年
(ビクター/詩:佐伯孝夫/曲:清水保雄/歌:竹山逸郎・藤原亮子)

 このうち戦前の二曲は、曲想が古賀メロディにとても似ており、たしかにそうかも知れないなあ――と思います。
 とくに『勘太郎月夜唄』は転調の部分が『男の純情』に似ていて、いかにも古賀メロディ的です。
 一方戦後の『誰か夢なき』はちょっと違う感じがします。古賀政男が手伝ったという可能性はあるでしょうが、古賀メロディとは曲想が少し異なるようです。

 もう一つ、清水保雄について不思議に思うことがあります。
 それは、清水保雄が古賀政男の秘書兼・・・雑用係を離れて独立したのは昭和35年ごろだという事です。
 ふつう戦前の二曲の大ヒットで一流作曲家の仲間入りをしたら、多忙でとても古賀邸の雑用係などやっていられないでしょう。
 しかし清水保雄は、ヒットのあと20年間もそれを続けたのです。
 そして自分の後継者を作ってから古賀邸を離れました。
 昭和35年は清水保雄が50歳の年ですが、それ以後歌謡界で大活躍したという話は聞きません。

 一般に当時の歌謡曲の作曲は集団作業的な側面がありました。
 テイチク時代の古賀メロディを多く歌ったディック・ミネは没後の座談会で、「古賀さんは超多忙なので、曲が大体出来ると呼ばれて楽譜を渡されて、「空白部分を適当に埋めてくれ」と言われるので、そうしていた」と語っています。
 そういう事は古賀政男にかぎらず当時の売れっ子の風習だったでしょう。

(逆に新人の曲を古賀政男が補作して売れる歌にしたこともあったようです。前出の『南の花嫁さん』(任光作曲)もそうだったようです)

 とくに清水保雄は秘書兼運転手兼雑用係ですから、古賀政男と二人きりになる機会は毎日のようにあり、そういう時に清水の方がアドバイスを仰いだり、古賀がアレンジを命じたりすることはよく有ったでしょう。
 それは不思議なことではありません。
 ただ、戦前の『婦系図の唄』と『勘太郎月夜唄』は、そういう作業とはまったく違います。
 小畑実に歌わせるために古賀政男が力を入れて作曲し、所属レコード会社の垣根を越えるために弟子の名を使ったというのです。
 だから、特別な話題になるのです。

 この二曲の古賀メロディ説は、東大法学部を出て日本音楽著作権協会の理事を務めていた吉田信が発表したとされ、それを記した森一也のパンフレットは古賀政男音楽文化振興財団が監修していますから、相当な信憑性があります。
 また、補強する資料も上述のようにいくつかあります。
 ただし吉田信の発表なるものを見ておりませんので、断言はできません。

 この問題は、昔の桜チャンネルなど歌謡曲ファンが集まるいくつかの掲示板に質問したのですが、どこからも返事が得られませんでした。
 そこで、家にある資料で分かる範囲内で、自分なりにまとめてみました。

(本稿の目的は清水保雄を批判するためでも、古賀政男を批判するためでもありません。生来の歌謡曲好きなので、真相を知りたいと思っただけです。とくに清水保雄の名誉のために附記しますと、前記下嶋氏が未亡人にインタビューしたとき夫人は、夫は長い間文句も言わず古賀政男のために律儀に働き続けていた――と語ったそうです。生真面目な人だったのでしょう)


■■■ 文献 ■■■

◎宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10)
◎古賀政男『自伝 わが心の歌』展望社(平成13年4月/前版昭和57年5月/元版昭和40年)
◎三枝孝栄・永来重明『なつかしの歌声(正続)』日本音楽出版(昭和45年3月/昭和46年1月)
◎古茂田信男・島田芳文・矢沢保・横沢千秋『日本流行歌史』社会思想社(昭和45年9月)
◎平凡出版『昭和の日本のこころ 古賀政男 わが歌は永遠に』平凡出版(昭和53年12月)
◎古茂田信男・島田芳文・矢沢寛・横沢千秋『新版日本流行歌史(上中下)』社会思想社(平成6年9月/平成7年1月/平成7年5月)
◎下嶋哲朗『謎の森に棲む古賀政男』講談社(平成10年7月)
◎古賀政男『古賀政男 歌はわが友わが心(人間の記録93)』日本図書センター(平成11年2月)
◎古賀政男音楽文化振興財団『生誕100年記念古賀政男展資料』古賀政男音楽文化振興財団(平成16年5月)
◎菊池清麿『評伝 古賀政男』アテネ書房(平成16年7月)
◎古賀政男顕彰会『古賀メロディーの思い出エッセイ集――古賀政男生誕100年記念』古賀政男顕彰会(平成16年11月)
◎古賀政男音楽文化振興財団『夢人生を奏でて――古賀政男生誕百年記念特別版』小学館スクエア(平成16年12月)
◎古賀政男音楽文化振興財団『古賀政男音楽博物館』
◎財団法人古賀政男音楽文化振興財団(監修)/森一也(解説)『オリジナル版古賀政男大全集CD13枚』
◎ウイキペディアなどインターネットの資料
◎全音歌謡曲全集(全44巻)など歌謡曲集各種

[完]


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