■■■ 巡洋艦「吉野」の遭難と無線電信(オロモルフ)■■■


◆◆◆ 巡洋艦「吉野」の遭難(1)◆◆◆

 島村速雄は、日露戦役前後に日本海軍で活躍した大秀才で、後に大将・元帥、当時は少将でした。
 日露戦役前半では聯合艦隊参謀長、後半では第二戦隊(旗艦磐手)の司令官として活躍しました。
 じつにバランスのとれた知識と判断力の持ち主であり、そのため聯合艦隊参謀長という要職を担ったのですが、すでに戦前に秋山眞之の天才ぶりを書簡類によって知っていて、すべてを秋山に委せて、自分は潤滑油的な役割を果たしたと言われます。
 つまり、秀才ではあったが、太っ腹でもあり、部下の才能を見抜く力もあり、部下を使うこともうまかったのです。
 さらに、一般人に対しても腰が低く、威張らない軍人としても知られていました。

 その島村速雄が、明治三十八年五月二十五日夜――つまりは日本海海戦の直前に――無電機開発の木村駿吉に対して、長い書簡をしたためております。
 これは、木村駿吉が『世界之無線電信』という名著の稿本を送って、推薦文を依頼したことに対する返事の手紙でした。
 この手紙の中に、悲劇の軍艦「吉野」のことが書かれておりますので、最初と最後の部分にくわえて「吉野」の部分を引用いたします。

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「世界之無線電信」御稿本御送付ニ預リ候處時節柄且つは御出版御急きの事と察し、緩々拝讀の餘暇を得さるは遺憾の至ニ候へ共其処此処と・・・
(中略)
貴下御序文中に於て此最も新らしき科學の発明に係る巧緻の機械を最も古くより伝来せる大和魂を以て今はのきわ迄泰然として使用せる軍艦吉野無線電信係下士卒の忠烈なる事績を紹介せられたる事は唯ひとり小生が粛然として当時の事を回想し亡友佐伯大佐(*)も定めて地下ニ満足いたし候ハんと察して最も会心の点ニ有之候のみならす此事蹟たるや科學の進歩が教育の注意ニ依り決して我大和魂に些少の影響だも与ふるものニあらさることを證明いたし候ものにて識者の擧て満足感謝すへき事と存候抑も無學なる小生か如きものは日夜無線電信の恩沢に預りながら其原理の如きハ今に了解ニ苦み却て他の感想ニ馳せ開戦以来我四千餘萬の同胞が各其分ニ應して義勇公ニ奉しつつある至誠天ニ通し一種霊妙にして物質界の電波ニ對比せる正氣の波動を起し出征軍隊と後援国民との間ニ互に相感應して斯く都合克く戦局を進めつゝあるニあらすや而て其氣の凝るや恰も電氣の結んて雷電となれるか如く或ハ奮激死ニ赴くの決死隊となり或ハ従容死ニ就く吉野電信係の如きものとなり壮烈鬼神を泣かしむる幾多忠勇の士を現ハしつゝあるニあらすやなどとの觀念を起し候事ニ有之候・・・
(中略)
明治三十八年五月二十五日夜
時々刻々「波爾的艦隊見ユ」との無線電信を待ちつゝ
   軍艦磐手電燈の下に於て
         島村速雄
木村駿吉先生
      案下

*:佐伯大佐は「吉野」の艦長で遭難により戦死。豪放な性格の軍人だったらしいです。


◆◆◆ 巡洋艦「吉野」の遭難(2)◆◆◆

 島村元帥が書簡の中で「吉野」に触れていますのは、木村駿吉が『世界之無線電信』の序文の中で、この遭難のことを書いて涙しているからです。
 その部分を記してみます。

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無線電信發明せられて茲に十年、今や戰役に於て大に其の使用せらるゝを視る、依て時期を明治三十八年五月日本海々戰に於て敵國艦隊殲滅の際に定め、既往の進歩と現在の状態を編叙し、聊か以て日露戰役の紀念に資す、
(中略)
日露戰爭に際し、帝國海軍無線電信の利益頗る大なりしは、通信の局に當る下士水兵の献身と熟練に據るもの少からず、依て全般の一隅を擧け、吉野遭難の記事を録し、危機に臨みて尚且沈着冷靜の態度を亂さす、任務を知て生死を顧みさる、幾多無名勇士の行爲を示し、戰役紀念と爲すの義に反かさらんを期す、
時維れ明治三十七年五月十五日、軍艦吉野旅順封鎖の哨務を終り、春日其他と共に南航す、渤海々上波高けれ共夜半の星光晴朗なり、忽然四塞する濃霧寸前暗黒、軍艦春日應急の所置を施さんとし、閃光の電信旗艦の許可を促すに際し、吉野の艦體轟然として震動し、浸水直に發電機を犯して艦内咫尺を辨せす、時將に午前一時に近し、吉野艦無線電信室の當直員は、三等兵曹竹村倉之進(*)と云ふ、艦長命あり發信す其文に云はく、春日本艦の左舷を衝く浸水猛烈、次に又命あり發信す、第五區満水と、程なくして旗艦より通信あり云はく、自艦の力にて浮ひ得るやと、次に返信す浮び得る見込なしと、此時艦體大に右舷に傾き、後甲板全部浸水し、將に無線電信室を犯さんとす、之より以前一等水兵小山音市なる者、來て當直員の通信を補助す、艦長特に信號兵曹を傳令とし、最後の命令を下して發信せしむ、其文に云はく、本艦凡て満水人員の救助を要すと、該時艦體の傾斜益甚しく、小山水兵は閉塞器を机上より解装し、之を掌上に載せて水平に保持し、竹村兵曹は電鑰を採り、明瞭精確なる送信幾回を終る、時既に室内浸水して深さ膝を没し、電池短絡して電源最早存せす、此時總員退去の命あり、兩人始て室を出づ、次で佐伯艦長の發聲あり、 衆皆 陛下の祝福を唱し乗艦吉野に告別す、兩人甲板を泳きて釣床の格納所に達し、生時の交を謝して別離の情を陳へ、身を霧海の裡に投し了る、春日の探海燈は濛々として、四面幽かに妖霧悪龍の暗闘を影し、奈落も此くやあらんと疑はれたり、嗚呼此れ人生任務の念慮に於て、何等好個の詩題ならずや、アルパイン鼓手の悲調、カサビヤンカ勇童の烈韻、奚んぞ此冷靜にして沈壮なるに加へんや噫矣。
(中略)
             横須賀海軍工廠造兵部
              無線電信工場に於て
   明治三十八年七月      海軍技師  木村駿吉識

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 木村駿吉の文章は決して名文とは言えないのですが、心底感動しつつ記したことが文面から伝わってきます。
 最後の最後まで持ち場を離れず職務を全うした下士卒たちの死をかえりみない奮闘は、明治の日本人の感涙を呼び、精神を高揚させました。

*:竹村倉之進は、明治三十四年末から翌年春にかけて第二回の下士卒無電訓練を受けた人です。100点満点で96.27点という卒業時の優秀な点数が記録にあります。


◆◆◆ 巡洋艦「吉野」の遭難(3)◆◆◆

 補足をいくつか・・・。

◎「吉野」
 二等巡洋艦(防護巡洋艦)「吉野」は、4000トン強の軍艦で、日清戦争から日露戦争にかけて、日本海軍の貴重な戦力でした。
 日清戦争の当時は世界最速(23ノット)の巡洋艦として有名でした。
 日露戦争前半では第一艦隊第三戦隊に属していました。
 しかし、明治三十七年五月十五日、旅順沖で濃霧の中、この「吉野」に一等巡洋艦の「春日」が激突してしまい、浸水によって無念の沈没となりました。
 上の島村速雄と木村駿吉の文章はこの事件を語っています。

◎戦死者と生存者
 この遭難事件の戦死者と生存者全員のリストが見つかりませんので、困っています。
 木村駿吉の文中にあります、三等兵曹竹村倉之進と一等水兵小山音市の責任感旺盛な事蹟については、それを見ていた生存者がいたから伝えられた筈です。
 それがどういう人だったのか、また竹村・小山の二名はやはり戦死だったのかどうか、これらの事がはっきりしないのです。
 正確な数字は不明なのですが、この遭難での戦死者は三百名余、僚艦に救われた生存者は九十余名だったそうです。

◎開閉器の水平とは・・・
 木村駿吉の文中に、
「小山水兵は閉塞器を机上より解装し、之を掌上に載せて水平に保持し」
 ――とあります。
 これはどういう事かと言いますと、開閉器の中にある水銀を機能させるためです。
 当時の無電機では、交流を作るのに開閉器を利用していましたが、大電流の開閉をしますので、通常の固体金属どうしの接点では、火花が飛んで、接点がたちまち損傷し、機能しなくなります。
 そこで、液体金属である水銀を接点の片側に使用することによって、接点の損傷を減らしていたのです。
 この構造だと、開閉器が傾くと水銀が傾いてしまい、接点として機能しなくなってしまいます。
 だから、小山水兵は浸水して傾きつつある「吉野」の無電室で、開閉器だけは水平に保とうと必死に腕で抱えていたのです。

◎電源について
 当時の無電機は、艦底にある発電機につながると同時に蓄電池も使っていました。浸水によってまず発電機がダメになり、ついで無電室の蓄電池も水没して使えなくなって、諦めたわけです。
 無電室は甲板に近い場所にありましたから、そこの床が浸水するという事は、このとき「吉野」はほとんど全体が水没に近い状態だった事が分かります。
 二人の無電担当は、そんな中で必死に艦長の電文を打電していたのです。

[完]


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