■□■□■ 靖國神社考(備中處士) ■□■□■


 平泉澄博士や松平永芳元靖國神社宮司の顕彰に心をくだいておられる備中處士さまが、これまで桜チャネルなどに投稿しておられた靖國神社に関する論考を、オロモルフの掲示板に編纂掲載してくださいました。
 靖國神社についての考え方は、同じ保守派でも人によってかなり違うようですが、備中處士さまの熱い思いは、万人を感動させるでありましょう。
 また、資料性がきわめて豊富で参考になります。読んでいると自分の知識の浅薄さが恥ずかしくなります。
 少しでも多くの方が読んでくださる事を希望しております。
(オロモルフ)


◆◆◆ 靖國神社考1・靖國神社に、清淨と静謐の環境を! 投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)00時22分43秒◆◆◆

 靖國神社の御事に關して、年來の疑問を述べることを、庶幾くば御許し賜りたい。俄か勉強であり、粗雜疎漏を免れず、大方の批判は、固より之を甘受する覺悟である。かつて平成四年十二月號の『諸君』で、松平永芳・元靖國神社宮司の『誰が御靈を汚したのか・靖國奉仕十四年の無念』を拜讀し、小生は泪を流したことを、昨日の事のやうに憶へてゐる。おほけなくも『松平精神の復興恢弘』を熱祷する餘り、敢へて言擧げしたい。

 現在の靖國神社奉贊者の大方(たいはう)は、『戰後の自民黨等の所謂國家護持』を、何故に求めるのか。戰前の帝國憲法下ならいざ知らず、現在の政治家の無知放言を見るにつけ、之を容認したら、非神道施設化も或は所謂分祀も、民主主義に於る多數決の名の下、時の權力者の思ひのまゝとなるではないか。進んで之を容認歡迎せむか、むしろ却つて靖國神社の環境が惡化するは火を睹るより瞭かと、如何して思はないのか。現在の靖國神社を巡る情勢は、之を悲しむことに吝かでは無いが、敢へてこゝは隱忍自重、將來の本來あるべき國家體制が確立するまで、容易に之を認めることは出來ない。小生は、「戰前と異質な、戰後の國家による國家護持では危險なので、國民護持・國民總氏子」を提唱して已まない、松平永芳大人の精神こそ、靖國神社を靖國神社たらしめるものと、深く確信する。此の松平精神の復興を、今ま一度、更めて強く喚起したい。

 靖國神社奉贊者の大方は、『中曾根首相以降の内閣總理大臣の行ふ非禮訪問』(敢へて參拜とは申さぬ)を、何故に容認するのか。否、一歩進んで、小泉首相の如き非禮を重ねて、恬然として恥ぢること無き首相訪問を、何故に求めるのか。況や一部の方が云ふ所の、支那・朝鮮の暴戻を挫く爲めに、パフオーマンスとして、終戰詔書奉戴記念日に、靖國神社を利用するなんぞは、絶對これを避けねばならない。小生は、日本國内閣總理大臣に、三木武夫首相以降の所謂私的參拜、中曾根康弘首相以降の所謂公式參拜をして戴きたくない。靖國神社の英靈は、之を嘉みし給ふとは、斷じて思へない。靖國神社は、あくまで神社であり、社頭參拜と雖も、手水・二拜二拍手一拜・祈念・二拜二拍手一拜は、最低限の神道儀禮にして、之も出來ぬとするならば、頑是ない子供ならいざ知らず、神社への立入りを禁ずるべきである。手水を用ゐるは、清祓の第一段階にして、之を用ゐないのは、殺菌劑で手を洗つてゐたとしても、清祓なしの參拜であると愚考する。神靈は非禮を享け給はず、所謂參拜を強行しても、神社の清淨と静謐を破るものであつて、斷じて之を赦す訣には參らぬ。特に平成十七年の小泉純一郎首相は、非禮なる社頭訪問を強行した(それ以外の五囘は、非禮なる昇殿訪問)。正門の鳥居も濳らず、手水も用ゐないのであるから、かりそめにも清祓したとは申せない。松平宮司の時の中曾根參拜は、昇殿訪問であつたが、神社側は已むを得ず、「陰祓ひ」をせざるを得なかつた。餘りにも情けなく、悲しい出來事と謂はねばならぬ。嗚呼、驕る者、久しからずとは、驕れる者、如何で知るべき。


◆◆◆ 靖國神社考2・靖國神社は、皇室御仁慈の發現なり。 投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)00時25分22秒◆◆◆

 靖國神社の淵源濫觴は、抑も畏くも代々木に坐す大神の思召しに由縁する矣。且つは歴代の聖上陛下には、勅祭を行はしめ、或は勅使を參向せしめらるゝ所の、御由緒深き尊貴なる神社である。忠良の臣民たる者の、擧國一致して、報恩感謝の誠を捧げ奉ることは、情・理の趨くところ當然と謂はねばならない。

 先づは其の淵源に當る史料を、森清人翁『みことのり』(平成七年六月・錦正社刊)等より、謹んで引用させて戴きます。又た阪本健一翁『明治神道史の研究』(昭和五十八年十二月・國書刊行會刊)に、「明治天皇の神祇關係詔勅解説抄」があり、靖國神社に關する宣命・御祭文の判り易い紹介があります。

●京都東山招魂社創建の御沙汰書「癸丑(嘉永六年)以來殉難者の靈を東山に祭祀の件」(明治元年五月十日附・太政官府布告)
 大政御一新之折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起遊ば被れ度く、既に豐太閤・楠中將の精忠英邁の御追賞、仰せ出だ被れ候ふ。就ては癸丑以來、唱義精忠、天下に魁けして國事に斃れ候ふ諸子及び草莽有志の輩、寃枉、禍ひに羅る者、少なからず、此れ等の爲す所、親子の恩愛を捨て、世襲の祿を離れ、墳墓の地を去り、櫛風沐雨、四方に濳行し、專ら舊幕府の失職を憤怒し、死を以て哀訴、或は縉紳家を鼓舞し、或は諸侯門に説得し、出沒顯晦、萬苦を厭はず、竟ひに身を抛ち候ふ者、全く名義を明かにし、皇運を挽囘せんとの至情より盡力する所、其の志、實に嘉みす可し。尚ほ況や國家に大勳勞有る者、爭(いかで)か湮滅に忍ぶ可けんやと、歎き思し食被れ候ふ。之に依りて其の志操を天下に表はし、其の忠魂を慰め被れ度く、今般、東山の佳域に祠宇を設け、右等之靈魂を永く合祀被致る可き旨、仰せ出だ被れ候ふ。猶ほ天下の衆庶、益々節義を貴び、奮勵致す可き樣、御沙汰候ふ事。

●招魂社大祭の宣命(明治五年九月二十三日・『陸軍省日誌』)
 天皇の大命(おほみこと)に坐せ。此の招魂社に鎭めまつれる諸もろの靈の前に、式部寮六等出仕・正四位・戸田忠至を使ひとして白し給はくと白さく。前年、戰場(いくさのには)にして大き功しを立てし事を、萬代までに傳へ給はむとして、年毎の此の月の今日の祭を永き例しと、武官の人等に命せて、種種の物等を備へ奉り齋き祭らせ給ふ。此の状を聞し食して、天皇の大御代を動ぐ事無く、さやぐ事無く、常石に堅石に守り幸へ給へと宣る天皇の大命を、甘良(うまら)に聞し食せと白す。

●招魂社を靖國神社と改稱し給へる御祭文(明治十二年六月二十五日・『靖國神社誌』)
 天皇の大命に坐せ。此の廣前に、式部助兼一等掌典・正六位・丸岡莞爾を使ひと爲て、告り給はくと白さく。掛け卷くも畏き畝火の橿原の宮に肇國知し食しゝ天皇の御代より、天日嗣高御座の業と知し食し來る食國天下(をすくにあめのした)の政の衰頽へたるを古へに復へし給ひて、明治元年と云ふ年より以降、内外の國の荒振る寇等(あだども)を刑罰(こらし)め、不服(まつろはぬ)人を言向け和はし給ふ時に、汝(いまし)命等(みことたち)の赤き直き誠心を以て、家を忘れ身を擲ちて、各もおのも死亡(みまかり)にし其の大き高き勳功しに依りてし、大皇國をば安國と知し食す事ぞと思ほし食すが故に、靖國神社と改め稱へ、別格官幣社と定め奉りて、御幣帛(みてぐら)奉り齋ひ奉らせ給ひ、今より後、彌や遠永に怠る事無く祭り給はむとす。故れ是の状を告げ給はくと白し給ふ天皇の大命を聞し食せと、恐み恐みも白す。


◆◆◆ 靖國神社考3・明治神宮と靖國神社 投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)13時57分8秒◆◆◆

●中今亭賀茂百樹大人『明治神宮と靖國神社との御關係』(大正九年十一月三日謹述・昭和九年十二月・有備會本部刊)に曰く、「
 今、熟(つらつ)ら國家の將來を考へて見ましても、素より國に農事殖産の必要なることと、又た此の武備の大切なることは、鳥の兩翼・車の兩輪として、いつの世に於ても、離るべからざるものであります。
 伊勢大神宮に豐受神宮を外宮として、特に尊重敬祭あらせられて、以て國民に産業を御奨勵になるが如く、明治神宮と靖國神社とも、亦た其の樣な關係にて祭祀し給ふことに、將來何れの時か相成りはしないかと思ふのであります。‥‥
 明治神宮は國民忠誠の結晶であり、靖國神社は皇室御仁慈の發現である、其處に我が國の美はしき君臣の情誼が、言擧げせずして事實に示されて居る、さういふ國體の精華をも、不言の間に宣揚することになるのであると思ひ、折柄、杉浦重剛翁が參拜せられた砌、此の事を語つて見た處が、翁も手を拍つて同意せられた事があります。然しかういふ精神的な事は外より強ふべきことでなく、國民一般の自覺に俟たねばならないことなので‥‥。明治神宮と靖國神社とは、既に離るべからざる御關係が結ばれて居るのであります。
 此處で私の最も欣快とする處は、それは全國の各地より上京せらるゝ明治神宮の參拜者が、同時に此の靖國神社の參拜者であり、又た必ず二重橋前にも參進して、其處から遙かに拜賀の心持を捧げらるゝことであります。就中く健脚な青年達は、尚ほそれから始終お濠に沿うて、宮城を一周し奉るのを見受けることもあります。此處で敬神・尊皇・愛國の精神が一貫して、誠に美はしく遂げらるゝので、遙々と遠國の地方から上京せる參拜者としては、凡そこれ程滿足なことはあるまいと思ふのであります。
 彼の孔子の語に、立國の基本として兵・食・信の三を擧げてをられますが、謹みて按ふに、豐受大神宮を尊び齋き奉ることは、やがて豐富に國力を足らすことであり、又た靖國神社を敬ひ祭らるゝことは、やがて兵を強くすると共に、我が國民の『信』を立つることになると思ふのであります。何故ならば、神武不殺の故に、我等は敢へて戰ひを好むものではないが、然し勅命に死生を任せ奉つて、一身を捧げて之に奉ずることが、即ち我が民族的信念の最高發露なるが故であります。それが故に私は、靖國神社の祭祀が衰へる時には、國民の元氣も亦た衰へ、靖國神社の祭祀が盛んなる時には、國民の元氣も亦た盛んなることを知るべしと思うて、轉た靖國神社に對する崇敬の念を禁ずる能はざるものがあります。
 [附言]中には靖國神社は、軍人の殉職者を祀る神社と思つて居るものがありますが、決して左樣ではありませぬ。平時に於ては、假令へ飛行機から墜落し、又は濳行艇の沈沒と共に慘死しても、特に演習等にては戰爭にも劣らぬ艱苦を甞めて、海に激浪に浚はれ、陸に瘴霧に侵されても、之等は一般の文官の殉職者と同じく、國家から何等祭祀を享けては居りませぬ。
 然らば如何云ふ人々が祀られるのかと申すに、此の國家に危害を加へんとする敵を防禦し、膺懲するが爲に死し、又は其れが原因になつて死んだもので、換言すれば、國家の生命に代りて自己の生命を捧げたものが祀らるゝのであります。此の場合に於て、軍人が主として之に當るのは勿論のことでありますが、軍人以外の人々と雖も、爲めに命を殞したものは、祭祀の恩典を受けるので、現在に於ても、外交官・地方官・逓信官・警察官・看護婦等、苟しくも帝國臣民にして、戰役に關して死歿したるものは、職の文武・官の高下を問はず、祭祀せられて居ります。
 平時に於ける殉職者も尊い犠牲ではありますが、危險を侵して健全なる自己の生命を國家に捧げて、國家の生命を健全にしたいと云ふ、特別の精神に對して、國家は之を護國の神として、永久祭祀するのであります。
 世間には此の譯を知らずして、軍人のみが優遇せらるゝが如く思つて、文官表彰の神社を建つるがよい、等云ふ人々もありますから、此處に一言附け加へるのであります」と。


◆◆◆ 靖國神社考4・靖國神社の合祀對象基準 投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)13時59分56秒◆◆◆

●阪本是丸氏『「靖國」の基礎知識』(江藤淳・小堀桂一郎兩氏編『靖國論集・日本の鎭魂の傳統のために』昭和六十一年十二月・日本教文社刊に所收)より
【合祀對象基準】昭和五十一年一月現在
一、軍人・軍屬
1.戰地・事變地及び終戰後の外地において、戰死・戰傷死・戰病死した者。
2.戰地・事變地及び終戰後の外地において、公務に基因して受傷罹病し、内地に歸還療養中、これにより死亡した者。
3.滿洲事變以降、内地勤務中、公務のため受傷罹病し、これにより死亡した者。
4.平和條約第十一條により死亡した者(戰爭裁判受刑者)。
5.未歸還者に關する特別措置法による戰時死亡宣告により、公務上負傷し、または疾病に罹り、これにより死亡したものと見なされた者。
二、準軍屬及びその他
1.軍の要請に基づいて戰鬪に參加し、當該戰鬪に基づく負傷または疾病により死亡した者。
ア.滿洲開拓團員。
イ.滿洲開拓青年義勇隊員。
ウ.沖繩縣一般邦人。
エ.南方及び滿洲開發要員。
オ.洋上魚漁監視員。
2.特別未歸還者の死沒者。
ア.ソ聯・樺太・滿洲・中國(愚案、ママ、支那)に抑留中、死亡した者。
イ.戰時死亡宣告により、死亡と見なされた者。
3.國家總動員法に基づく徴用または協力中の死沒者。
ア.學徒。
イ.徴用工。
ウ.女子挺身隊員。
エ.報國隊員。
オ.日赤救護看護婦。
4.船舶運營會の運航する船舶の乘組員中、死亡した者。
5.國民義勇隊の隊員で、その業務に從事中、死亡した者(廣島原爆死亡者)。
ア.學域組織隊。
イ.地域組織隊。
ウ.職域組織隊。
6.舊防空法により、防空從事中の警防團員。
7.阿波丸(交換船)沈沒により、死亡した乘員。
8.沖繩の疎開學童死沒者(對馬丸遭難)。
9.外務省等職員。
ア.關東局。
イ.朝鮮總督府。
ウ.臺灣總督府。
エ.樺太廳。

●賀茂百樹大人『靖國神社誌』の「祭神・附御靈代」に曰く、「
 水漬屍・草生屍と、硝煙彈雨の間に奔馳奮鬪して、一死以て護國の神と祀られ、社稷の鎭護となりませる本神社祭神の功烈は、固より萬世不朽なるべし。
 抑も明治維新の大業を始めとして、過去數囘の大戰役は、萬世に光れる丕績にして、其の間、我が祭神の靖獻は、最も能く皇國の精華を發揮し給ひぬ。即ち大權、皇室に歸して、王政復古の大御代を來たせるも、世界の強國に伍して、文明の惠澤に浴するに至れるも、克く聖旨を奉戴して、聖徳に副ひまつりし我が祭神の功烈、與かりて大なりと云ふべし。是れ至尊の、深く本神社を尊崇し給ひて、表忠旌功の典を忽せにし給はざる所以にして、今や祭神總數十一萬七千八百六十八柱に上り、神威、燦として維れ輝き、餘光、遠く異域に及び、外人の來朝するもの、先づ本神社に詣し、和魂の鍾まる所、優越せる精神の標識として讚歎せざるはなし。
 而して祭神生前の官職・身分等をいへば、陸軍の所屬あり、海軍の所屬あり、維新前後の殉難死節の士あり、地方官・警察官あり、公卿あり、藩主あり、士あり、卒あり、神職あり、僧侶あり、婦人あり、農・工・商あり、苟しくも帝國臣民にして、叡慮を奉體して、國家の爲めに忠節を抽んで、高潔なる大精神を發揮するに於て、何ぞ貴賤上下の別あらむ。わが祭神の、あらゆる階級・職業の代表たるは勿論のことなりとす。
 御靈代は、神劍及び神鏡にましゝゝ、神劍は、明治二年六月、栗原筑前(愚案、筑前守從五位下栗原健次平信秀)の鍛造し奉る所(御鞘は、鞘師・樅井源八)、神鏡は、製作者未詳なれども、明治元年六月、舊江戸城大廣間招魂祭の時、神籬に奉懸せし靈鏡に坐せりとぞ。内殿の左右の靈床に、副靈璽として、官位・姓名を列記せる卷物・牒册を奉安す。卷物は、明治五年五月六日を以て、始めて之を内陣に納め、爾來、合祀祭の度び毎に納められしが、明治三十八年、第三十一囘の合祀祭より、之を牒册に改められたり。而して別に一本を社務所に藏す。所謂祭神帳、之なり」と。

●賀茂百樹大人『靖國神社忠魂史』第一卷「序」に曰く、「
 靖國神社の祭神は男女の區別もなく、又た階級的に何等の差別なく、祭祀されてゐるのでありますが、世には往々靖國神社を以て、軍人の殉難者を祀る神社であるかに考へてゐる者があります。之は誤解も甚しいもので、かくては、一視同仁の聖徳を涜し奉るものと云ふべきであります。
 茲に祭神生前の官職・身分等の大略を擧ぐるも、維新前には公卿・藩士・神職・僧侶・百姓・町人あり、又た明治以後には、陸海軍を初めとし、地方官・外交官・警察官・鐵道從業員・從僕・職工等があります。かくの如く靖國神社の祭神は、階級を超越し、國民を綜合した、忠勇義烈の御靈でありまして、換言すれば、實に忠君愛國の全國民精神を表現し給ふところの神である、と申すべきであります」と。


◆◆◆ 靖國神社考5・歴代宮司略傳、其の壹 投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)23時25分13秒◆◆◆

 靖國神社の歴代宮司について、次に調査探索し得た所の梗概を、些か摘記してみたい。

【靖國神社歴代宮司】

初 代【青山 清 】明治十二年六月十六日〜明治二十四年二月六日
 文化十二年生る。明治四年八月、兵部省十一等出仕・招魂社祭事掛に補せられ、同十年一月、招魂社雇ひ申付け被る。神社誌編纂を企て、黒神直臣禰宜をして之に當らしめしが、幾許も無く黒神氏の不幸に接して已む。至從七位。同二十四年二月六日(或は四日)、宮司在職中に歸幽。享年七十七。
一、乃木神社社務所『乃木希典全集』上卷(平成六年六月・國書刊行會刊)「日記・明治十一年」より
十月第廿一日條、午後、青山清を訪ぬ。不在。
十月第廿二日條、午後、乘車。青山を訪ぬ。又た不在。
十月第廿三日條、午後、青山に、招魂社に逢ひ、祭事を托す。歸る。

第二代【賀茂 水穗】明治二十四年二月十七日〜明治四十二年三月一日
 遠江國濱名郡の人。天保十一年五月十二日生る。賀茂備後直章と稱し、炳音と號す。遠州報國隊に參加。のち海軍省へ出仕。海軍大祕書。後備海軍大主計。至從五位。神社誌編纂を繼承し、井上頼教主典に之を命ずるも、將に其の緒に就かんとして、明治四十二年三月一日、宮司在職中に歸幽、享年七十。

第三代【賀茂 百樹】明治四十二年三月二十九日〜昭和十三年四月二十一日
 周防國熊毛郡上關の人。慶應三年、祠職藤井氏に生れ、後に賀茂の家名を嗣ぎ、賀茂眞淵大人の後繼者となれり。中今亭と號す。學を伊勢の棒園御巫清直(外宮禰宜)に承け、國典に精し、夙に神職に仕ふ。靖國神社宮司を拜命し、其の在職は三十年間に及べり。病を以て職を辭す。同十六年五月四日歸幽、享年七十五。著述に『日本語源』二卷・『登極令講義』一卷・『漢文歴代詔勅解』一卷・『神職心得』一卷。校訂に『賀茂眞淵全集』全六册(國學院編輯部・吉川弘文館刊)。亦た『靖國神社事歴大要』(明治四十四年二月・國晃館刊)・『靖國神社誌』(明治四十四年十二月・四十五年六月改訂・平成十四年に神社本廳教學研究所より「近代神社行政史研究叢書W」として復刻)・『靖國神社忠魂史』全五卷(昭和八〜十年九月)を編輯す。なほ『日本語源』は、最も努力を拂ひ、本邦從來の語源中の名著とす。又た和歌に長じ、『中今亭雜歌』あり。人と爲り恬澹修飾なく、善く飲み善く談じ、其の人物と學力は、當時の全國宮司中、稀に見る所と云ふ(吉田祥朔翁『増補・近世防長人名辭典』等)。
一、『中今亭雜歌』より、哥一首
○ 黒がねは、よし碎くとも、日の本の、やまとだましひ、碎くべきかは
 蓮田善明大人『興國百首』(昭和十九年六月『忠誠心とみやび』日本放送出版協會刊)に曰く、「
 山口縣の人、元藤井氏、賀茂氏に入り、國學者賀茂眞淵の後繼者となつた人で、明治四十二年より、靖國神社宮司に任じた。人格高潔玲瓏、また長歌・短歌に秀で、國學につとめた。その和歌は、歌壇の時流にかゝはらず、卓然ぬきんでてゐるが、その文業は知己の間に知られるだけで、世上に多く知られてゐない。
 右の歌は、明治二十八年三月三日、呉港で軍艦嚴島を見た時、同艦の三宅少佐らが、「わが居りしは此處なり、こゝより彈かれて轉び落ちたりなど」談られた時、詠じたものである。氏の詠歌は、少年の時から、昭和十六年、七十五歳を以て逝かれるまでつゞいてゐて、國家の事にふれて詠まれたものが多いが、こゝには、たまゝゝ日露戰役に因んだ一首をとつたのである」と。
 愚案、『興國百首』は、蓮田大人が、其の撰を或る雜誌にもとめられ、嘗て戰場に身を置いた心に自問自答し、又た古い國の道を學ぶ學徒の一人として、思ふ所を此の撰歌にひそめて書き續けられしもの、「あはれ、あなおもしろ云々」(古語拾遺・八百萬神)に始まり、乃木將軍夫妻の辭世を以て終つてゐる。曰く、「
 和歌は、古來日本の文學の髓心となり、本流となつて來たものであるが、今その和歌だけについてみても、和歌は神隨の國ぶりといふやうなものであつた。即ち「神語」の流れであり、國の本心をのべるものであつた。これは和歌の歴史を以て、正しくさうである。從つて和歌を詠ずるといふこと自身が、既に國の心に報へてゐることであり、愛國・興國といふことが出來る。然るにこのやうなことは、現代には理解しない人が多いと思ふ。昔も和歌を私事としたことがあつたが、そのやうなことの起つた時代には、皇國の歴史も、實に忌々しい時代に傾いてゐる時代であつて、そのやうな沈痛な時代に、和歌に精進せる歌人達は、和歌を神にかけて熱く思つたりした。‥‥和歌によつて不純を清め雜物を雪ぎ、皇國魂をみがいて、神にしられ奉る祈りとしたのである」と。
一、『日本語源』二卷
http://uwazura.seesaa.net/article/3631175.html
一、『明治神宮と靖國神社との御關係』(大正九年十一月三日謹述・昭和九年十二月・有備會本部刊)
一、『大御心』(大正十二年七月十二日謹述・有備會本部『明治神宮と靖國神社との御關係』昭和九年十二月刊に所收)


◆◆◆ 靖國神社考6・歴代宮司略傳、其の貳 投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)23時29分6秒◆◆◆

第四代【鈴木 孝雄】昭和十三年四月二十一日〜昭和二十一年一月十七日
 明治二年舊十月二十九日(十二月二日)生る。勳一等功三級。昭和二年七月二十六日、陸軍大將に至る。大日本青少年團長を兼務(昭和十七年八月〜二十年六月)。戰後は偕行社會長(昭和二十九年四月〜三十三年七月)。海軍大將鈴木貫太郎首相の令弟。昭和三十九年一月二十九日薨去。享年九十六。

第五代【筑波 藤麿】昭和二十一年一月二十五日〜昭和五十三年三月二十日
 山階宮菊麿王の第三王子として、明治三十八年二月二十五日生る。從三位勳一等。貴族院議員(大正十四年二月〜昭和二十二年)。昭和三年七月二十日、願により臣籍降下が認められ、筑波の家名を賜り、侯爵に叙せらる。昭和五十三年三月二十日、在勤中に薨去。御歳七十四。

第六代【松平 永芳】昭和五十三年七月一日〜平成四年三月■日
 越前の春嶽松平慶永公の令孫にして松平慶民子爵(宮内大臣)の嫡男として、大正四年三月二十一日生る。昭和十九年十月、海軍少佐・正五位に至る。西貢(サイゴン)海軍部部長として終戰處理を濟ませ、昭和二十一年七月、部員四十七名を率ゐて、最後の復員船朝嵐丸で歸國。戰後は陸上自衞隊に轉ずるも、大病に罹り、再起後は防衞研修所戰史室勤務を經て、同四十三年、一等陸佐で定年退官し、福井市立郷土歴史博物館館長に就任。靖國神社宮司を退いた後は、再び同館長に復歸。平成十七年七月十日歸幽。享年九十一。『靖國神社百年史』全四卷(資料篇・事歴年表、昭和五十八年六月〜六十二年六月・原書房刊)を編纂す。平泉澄博士を師と仰ぎ、盡忠憂國、志操あまりに純粹一途、己の名利を追求することなく、日常の一擧一動に至るまで、全ての行動の判斷基準を、皇室と國家の護持といふ點に置いたと云ふ。
一、「日本の心、未だ失せず」(日本學協會『日本』昭和五十四年三月號・靖國神社々報『靖國』昭和五十四年四月號)
一、「新春隨想」(『東京教育懇話會志・續輯』平成二年十一月刊「東京教育懇話會・第二五二囘例會報告」昭和六十年正月十八日)
一、「靖國神社當面の諸問題」(『東京教育懇話會志・續輯』「東京教育懇話會・第二六四囘例會報告」昭和六十一年二月十七日)
一、「感懷「有難う」と言ふこと」(『日本』昭和六十一年五月號)
一、「我が家の生涯教育」(『日本』昭和六十二年七月號)
一、「靖國神社」(新人物往來社『別册歴史研究・神社シリーズ・靖國神社』平成元年■月刊)
http://www.tetsusenkai.net/official/yasukuni/data/matsudaira.html
一、「誰が御靈を汚したのか・靖國奉仕十四年の無念」(文藝春秋社『諸君』平成四年十二月號)
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html
一、「讓ることのできない傳統の一脈・祖父春嶽の精神を受け繼ぐ者として」(日本青年協議會『祖國と青年』平成五年一月號・『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集T』平成十五年三月刊に所收)
一、「家庭教育(精神・しつけ教育)について」(『日本』平成十八年一月號・三月號)
 主に大人に關係するものとして、
一、棚橋信之氏「正論編集部あて意見具申」(平成十七年七月二十日附)
http://www.geocities.jp/gutokujp/shokan.html
一、棚橋信之氏「大山晉吾靖國神社廣報課長宛・質問状」(平成十七年八月二十一日附)
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/questions.pdf
一、伴五十嗣郎氏「靈魂不滅・松平永芳樣を偲ぶ」(『日本』平成十七年九月號)
一、永江太郎氏「今は亡き松平永芳樣の追憶」(『日本』平成十七年九月號)
一、渡辺一雄氏「元靖國神社宮司・松平永芳氏・怒りの遺言「最後にこれだけはいつておきたい」。病床で語られたお言葉を、今、全公開する」(『諸君』平成十七年十月號)


◆◆◆ 靖國神社考7・歴代宮司略傳、其の參 投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)23時31分16秒◆◆◆

第七代【大野 俊康】平成四年■月■日〜平成九年■月■日
 肥後國の人。大正十一年五月二十日生る。昭和十八年十月、神宮皇學舘大學祭祀專攻科に入學するも、學徒出陣により、同十二月一日、陸軍西部十六部隊(熊本市の陸軍歩兵聯隊機關銃中隊大隊砲小隊)に入營。十九年六月、第三期特操として熊谷飛行學校に入校するも、訓練未了のまゝ終戰を迎ふ。二十二年二月、肥後本渡諏訪神社(天草島總鎭守)宮司。二十三年、九州帝國大學文學部卒。六十一年、熊本縣神社廳長。著書に『軍神松尾中佐とその母』等。現在は本渡諏訪神社名譽宮司。
一、『後に續くを信ず・戰歿學徒が殉じた「神國日本」』(『祖國と青年』平成十一年十月號、同十五年三月刊『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集T』所收)

第八代【湯澤 貞 】平成九年五月■日〜平成十六年九月十日
 下野國上都賀郡加蘇村(現・鹿沼市)の人。昭和四年九月十日、縣社加蘇山神社宮司・碧柳湯澤敬六の四男として生る。三十二年、國學院大學文學部宗教學科卒。三十二年四月、明治神宮に出仕し、五十四年〜平成二年八月、禰宜。五十三年〜六十三年、加蘇山神社禰宜・加園八幡宮宮司を兼任。五十七年〜平成五年、國學院大學文學部兼任講師。平成二年九月、靖國神社禰宜に轉じ、十一月、權宮司。十一年の御創立百三十年記念として、御祭神のデータベース化・遊就館改修と新館建設・參集所の建替を遂行す。現在は第八代靖國會總代。俳號は碧水。『句集・散る櫻』(平成十六年九月・近代出版社刊)あり。
一、平成十一年からの記念事業は、「平成十七年には、終戰六十年を數へ、御遺族(御祭神にお近い方)・戰友等の御高齢化と青少年を含む崇敬者の増員のための施策、即ち戰爭を知らない世代への世代交替といふ、靖國神社にとつては世の荒波を乘り切る方策の一つとして實施」(『句集・散る櫻』の「あとがきにかへて」)した。
一、『靖國の言ひ分、英靈たちの聲』(産經新聞社『正論』平成十七年八月號)

第九代【南部 利昭】平成十六年九月十一日〜現職
 昭和十年九月十六日生る。三十三年、學習院大學政經學部卒業後、廣告代理店電通に勤務。父の卒去に伴ひ、盛岡南部伯爵家第四十五代當主。五十六年、南部恆産株式會社代表取締役に就任。現在は靖國神社崇敬奉贊會名譽會長。日本會議本部代表委員。
 平成十五年十月、皇族や舊華族で組織される社團法人霞會館(舊華族會館)から、就任の推薦を受けた。「湯澤宮司が九月で七十五歳の定年を迎へ、この際、舊華族出身者がなり、元に戻してほしいと願ひ出られた。來年は、靖國に祀られてゐる南部家四十二代當主利祥公の沒後百年(明治三十八年に戰死)に當り、宮司就任に淺からぬ因縁を感じてゐる。‥‥青天の霹靂と云ふか、この歳になつて『宮仕へ』をやるとは、夢にも思つてゐなかつた。私にとつても南部家にとつて大變名譽なこと、岩手・盛岡にとつても名譽なことで、有り難く拜命することとした。九月で六十九歳になるが、七十五歳の定年まで、大任を全ふしなければならない。兩陛下には、『靖國神社の御守りを宜しくお願ひします』と云ふ御言葉を戴いた。誠に光榮で身の引締まる思ひがした。‥‥僕なりに、皆さんに信頼されるやうになり、南部を宮司にして良かつたと云はれるやうにしたい」と、抱負を語つた。


◆◆◆ 靖國神社考8・松平永芳大人の悲願 投稿者:備中處士 投稿日:11月13日(月)19時26分14秒◆◆◆

●渡辺一雄氏『松平永芳氏・怒りの遺言』(渡辺氏は、松平大人の海軍機關學校に於る十三期後輩)に曰く、「(平成十年暮れの聞書き。面會謝絶の病床に於る松平大人は、ベツドの上で正座されて曰く、)
 GHQの神道指令で、公務員が公的資格で神社一般を參拜することが禁ぜられた。從つて占領中は首相だけでなく、閣僚その他の公務員が、靖國神社に公式參拜することをは出來なかつた。昭和二十六年十月十八日、時の首相・吉田茂は、講和條約が締結されたことを、戰沒者に報告するため、靖國神社に參拜された[堂々と内閣總理大臣・吉田茂と署名し、榊を供へられた]。吉田首相は占領が終つてからも、靖國神社への參拜は缺かさなかつた。が、いづれの時も、どの國からも、首相が靖國神社へ參るのはけしからんと云つた態の抗議は寄せられなかつた。吉田首相は、長年の外交官經驗から、世界の人々は誇りを失つた國民を輕蔑することを知つてをられたから、たとへ戰ひに敗れても、卑屈になつては駄目、精神面の高さは守りぬかねばならないと思つていらつしやつた。吉田首相のあとの鳩山一郎は病氣、その次の石橋湛山は、在任期間が短かつたため參拜は出來なかつたが、それ以後、岸信介・池田勇人・佐藤榮作・田中角榮と、歴代の首相は靖國神社參拜をつゞけた[吉田首相と同樣の形式で參拜された]。その間、何ら問題は起こらなかつた。妙なことになつたのは、三木武夫が首相になつてからだ。
 三木は卑しい人間だ。日本の國より、わが身の方が可愛い三木は、アメリカ・一部マスコミの歡心を買ふことに汲々とした。首相の靖國神社參拜に異を唱へる連中のゐる事を、嗅覺の鋭い三木は察知し、とんでもないサービスをした。
 首相の靖國神社參拜は、原則として春秋の例大祭の期間中だつた。昭和五十年八月十五日に參拜する事になつた三木は、國會で、首相はどういふ資格で靖國神社を參拜するのか、と聞かれた。國會議員の中には、外壓を利用して自分達の勢力擴大を圖らうと思つてゐた人間がゐたが、質問したのは、その黨派に屬する議員だつた。その議員のバツクには、首相の靖國神社參拜に反對の立場をとるマスコミがついてゐる事を知つてゐた三木は、首相の立場で參拜すると答辯すれば、マスコミを敵に廻すと恐れ、首相としてではなく、澁谷區南平臺の一住民・三木武夫として參拜すると、逃げを打つた。そして公約どほり靖國神社へは、首相公用車を使はず、内閣總理大臣の肩書きをつけず、單に三木武夫と記帳して、昇殿參拜した。以來、首相だけでなく、閣僚の參拜ごとにマスコミが押しかけて、公人か、私人かといつた、愚にもつかない質問を浴びせ、だらしなく首相・閣僚が逃げまくる醜態を世にさらす事になつたのだ。
 三木が餘計なことをいつたため、そののちの福田赳夫・大平正芳の兩首相も、私的參拜で押し通すしか仕方がなかつた。何とかしてとつちめる法はないかと思つてゐたとき、出てきたのが、A級戰犯合祀問題だつた。マスコミは參拜のためにあらはれた大平首相を取り圍み、公的參拜か、私的參拜かと、一齊に質問の矢を浴びせかけた。大平首相が圍みを突破しようとすると、マスコミはさうはさせじと、A級戰犯を合祀してゐる靖國神社を一國の首相が參拜するのは、軍國主義の復活につながるのではないかと、首相を吊るし上げた。その風景はテレビを通じて全國に流され、A級戰犯合祀問題が、一躍、茶の間の話題をさらつた。マスコミに後押しされて、A級戰犯を合祀してゐる靖國神社に、首相が參拜するのは違憲であるといひ出す手合ひまであらはれた。首相に勇氣があれば、A級戰犯といふが、それは戰勝國が勝手につけた汚名で、國會の決議を受けて合祀されてゐる、違憲でも何でもない、お國のために盡くし、命を捧げた方々を祀つてある靖國神社へお參りするのは、首相として當然の義務だと、はねつけるべきだつた。ところがその聲に負けて、靖國神社參拜を自肅する動きまで出てきた。大平首相のあとの鈴木善幸首相も、公人・私人の別を明らかにせず參拜した。昭和六十年八月十五日、靖國神社を十年ぶりに公式參拜したのは中曾根康弘首相だが、中曾根康弘がその時とつた態度には、今思ひ出しても、腸が煮へたぎる思ひがする。中曾根首相の心にあつたのは、俺が八月十五日に、首相としてはじめて公式參拜したといふ自負心を滿足させること以外の、何ものでもなかつた。‥‥
 最後に、これだけは言つておきたい。私、松平永芳の願ひは、たゞひとつ、國のために盡くし命を捧げられた方々に、靖國神社で靜かに眠つて頂き、ご遺族の方々に、何ものも煩はされる事なく、靜かにお參りに來て頂き、靜かに語り合つて頂きたい、といふことである」と。


◆◆◆ 靖國神社考9・松平永芳大人の悲願、續 投稿者:備中處士 投稿日:11月13日(月)19時28分21秒◆◆◆

〜承前〜

 松平永芳大人の所謂國家護持法案反對・中曾根首相の公式參拜の非禮[(大人の曰く、)「今思ひ出しても、腸が煮へたぎる思ひがする」、「體を張つてもでも、中曾根參拜を阻止せねばならなかつた、と悔いてゐる」]については、下記が詳しい。こゝに敢へて再掲する。至誠横溢、盡忠憂國の言擧げ、願はくば、先づは、是非とも熟讀たまはらむことを。
●松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html
●松平永芳大人『靖國神社』
http://www.tetsusenkai.net/official/yasukuni/data/matsudaira.html

 これらを摘記し、又た松平永芳大人の遺事を追記したい。

一、石田和外・元最高裁判所長官(「英靈にこたへる會」初代會長)の強い勸めで、靖國神社宮司に就任。松平大人は、「所謂東京裁判を否定しなければ、日本の精神復興は出來ないので、所謂A級戰犯者の方々も祀るべきだと云ふ意見を、石田翁に申し上げた。それに對して石田翁は、これは國際法その他から考へて、祀つて然るべきものだと明言された」が故に、「命がけで神社をご創建の趣旨に違はず、また本來の姿で守らうと決意」された由。大人が「宮司になつて考へられたのは、何か決斷を要する場合、ご祭神の意に添ふか添はないか、ご遺族の心に適ふか適はないか、それを第一にして行く」との方針の下に、次の三原則を定めた。一、日本の傳統の神道による祭式で、御靈をお慰めする。二、神社のたゝずまひを、絶對に變へない。三、社名を變へない。

一、所謂A級戰犯十四柱の合祀について、大人は、「就任した早々であるが、前宮司から預つたこの課題は、解決しなければならない」。「國際法的にも認められない東京裁判で戰犯とされ、處刑された方々を、國内法に據つて戰死者と同じ扱ひをすると、政府が公文書で通達してゐる(愚案、昭和二十七年五月一日、木村篤太郎・法務總裁の通知。同四十一年二月八日、「祭神名票」を受理。同四十六年、總代會諒承)から、合祀するのに、何の不都合もない。むしろ祀らなければ、靖國神社は、僭越にもご祭神の人物評價を行つて、祀つたり祀らなかつたりするのか、となつてしまふ」と考へられた。故に「靖國神社の記録では、戰犯とか法務死亡と云ふ言葉を一切使はないで、『昭和殉難者』とすべし」と云ふ『宮司通達』(昭和五十三年十一月二十三日)を出し、之を徹底させた。

一、大人は、國家護持法案・中曾根首相の所謂公式參拜の經驗等から、「戰前と異質な、戰後の國家による國家護持では危險なので、靖國神社は、國民護持・國民總氏子で行く」べきことを強く提唱し、「靖國神社を絶對に政治の渦中には卷込まない方針を堅持」された。宮司退任に當つては、「權力に迎合・屈伏したら、ご創建以來の純粹性が失はれてしまふ」ことを懸念し、「權力の壓力を蹴とばして、切りまくる勇氣をもたないといけない、と云ふことを、次の(大野俊康・後繼靖國神社)宮司への、一番の申し送り」とされたと云ふ。

【語彙「殉難」の出典】
 愚案、「殉難」の語、蓋し前掲の京都東山招魂社創建の御沙汰書「癸丑以來殉難者の靈を東山に祭祀の件」に出づるのであらうか。
 なほ宮内省(圖書寮)藏版『殉難録』(明治四十二年十二月成功)あり。『修補・殉難録稿』(昭和八年十一月・吉川弘文館刊、題字は徳富蘇峰翁)序文である虚心黒板勝美博士「修補・殉難録の卷頭に辯す」に曰く、「
 明治維新の鴻業は、是等勤王憂國の志士が、所謂人柱となりて築き上げたりといふ。豈に過言ならんや。嗚呼、明治天皇、聖徳、日の如し。是等志士の神靈を崇めて、靖國神社に合祀せしめ給へり。志士の神靈は、天翔り國翔り、永く護國の神とまします。殉難録稿は、實に是等勤王憂國の志士を傳したるものなり」と。
 「殉難」の語、太政官府布告に始まり、宮内省より出づ。以て冥すべく、斷じて忽せにするべからざるなり。


◆◆◆ 靖國神社考10・盡忠憂國 投稿者:備中處士 投稿日:11月13日(月)19時30分2秒◆◆◆

【松平永芳大人の經歴・逸話】

一、松平大人は、越前の春嶽松平慶永公の長男で、宮内大臣(戰後は宮内府長官)を拜命した松平慶民子爵を父として、東京に生れた。尾張の徳川家を繼いだ徳川義親侯爵(「靖國會」初代會長)は、叔父に當たる。母幸子は、新田家直系の新田忠純男爵の四女。室は侍從武官・醍醐忠重侯爵(海軍中將、ボルネオ島バリツクパパンに於て法務死)の二女充子。一男二女を擧ぐ。前傾略傳の遺漏を拾へば(詳細は、永江太郎氏『今は亡き松平永芳樣の追憶』參看)、
昭和 七年、曉星中學校を卒業。
同 十二年 三月、海軍機關學校(第四十五期)卒業。戰艦陸奧に乘組む。
同 十三年 三月、海軍機關少尉に任官。
同 十四年 六月、中尉に昇進。
同 十五年十 月、支那方面艦隊の旗艦出雲に乘組み、支那事變に參戰。
同 十六年 五月、大尉に昇進。
同 十六年、大東亞戰爭では、第一水雷戰隊隷下の驅逐艦電の機關長として、南方作戰に從軍。
同 十七年 二月、海軍機關學校教官。
同 十九年十 月、少佐に昇進。

一、大正天皇の侍從から宮内大臣まで、一貫して宮内省の要職を歴任し、宮中の機密に關はつた父・松平慶民子爵(最後の宮内大臣)の日記は、遺命に從つて、表紙のみを殘して處分された由(『今は亡き松平永芳樣の追憶』)。大人の曰く、「父は、皇族方にとつては、一番こはい存在で、殿下方にお小言を申し上げる專門職であつた。父は、皇室は道義の中心でなくてはならないと考へて、殿下方に對しては、その御意見番を以て自ら任じてをりました」(『家庭教育(精神・しつけ教育)について』)と。曰く、「戰後父親の沒後より今日に至るまで、皇室の御在り方、御行く末の御事共を憂慮、懊惱して、事ある毎に側近要路の方々に對し、如何やうに思はれやうとも、意に介すること無く、進言して憚らないのは、兩親が私に對して施した、皇室に對し奉る生涯教育の然らしめる結果でもあらうか」(『我が家の生涯教育』)と。

一、松平慶民大臣は、平泉澄博士を深く信頼し、子である大人の海軍機關學校受驗準備中に、平泉家に預けて、勉學指導を依頼された(『今は亡き松平永芳樣の追憶』)。大人も、終生、平泉博士を師と仰がれた(松平永芳大人「平泉澄先生仰慕――御家庭における先生御夫妻」(『日本』昭和六十年二月號)參看)。

一、昭和五十三年七月、靖國神社の第六代宮司に就任。十月十七日、既定方針で宮司預りとして保留となつてゐた、『昭和殉難者』(十一月二十三日「宮司通達」の呼稱、大人の命名。東京裁判の呼稱は、A級戰犯またはA種戰犯容疑者)十四柱の合祀を、秋季例大祭前日の靈璽奉安祭にて執行した。曰く、「靖國神社の立場からすれは、昭和二十八年四月一日の時點(「恩給法」・「法務關係遺族に對する戰傷病者戰沒者遺族等援護法」の適用)を以て、『戰犯』として處刑された方々の御靈を合祀申上げなくてはならない責務を負ふに至つたのである」、「むしろ祀らなければ、靖國神社は、僭越にもご祭神の人物評價を行つて、祀つたり祀らなかつたりするのか、となつてしまふ」、「生涯のうちで意義のあることをしたと、私の自負することができるのは、いはゆる『A級戰犯』を合祀したことである」(『東京教育懇話會志・續輯』・『誰が御靈を汚したのか』)と。

一、松平大人の御葬儀は、「大田區の公益社・雪が谷會館において、(平成十七年七月十日午前四時五十五分に歸幽、)十二日に通夜祭、十三日に告別式が齋行されましたが、御遺志に從つて、宮中からの祭祀料をはじめ、生花や玉串料の類ひはすべて辭退された、簡素にして氣品溢れる祭典でした。告別式で唯一つ飾られた三笠宮寛仁親王の生花が、格別の御關係を物語つて印象的」(『今は亡き松平永芳樣の追憶』)であつたと云ふ。

一、皇學舘大學學長・伴五十嗣郎翁の曰く、「松平樣は、その御人格を一言で申し上げるとすれば、『盡忠憂國』といふ語以外に、適切の言葉を思ひ付かない。決して自己の名利を追求されることなく、日常の一擧一動に至るまで、すべての行動の判斷基準を、皇室と國家の護持といふ點に置かれた。御志操あまりに純粹一途にして、他から御眞意を理解されぬことも多かつたと思ふ。福井の博物館長時代には、作業服に着替へて展示ケースのガラス面の清掃や、館庭の草拔きなどを、毎朝の日課とされた。來館者が用務員さんと誤解して、横柄に話し掛け、後で松平樣と知つて恐縮し、大慌てする場面をよく目にした」(『靈魂不滅・松平永芳樣を偲ぶ』)と。


◆◆◆ 靖國神社考11・昭和殉難者十四柱の合祀 投稿者:備中處士 投稿日:11月14日(火)20時29分6秒◆◆◆

●寒林平泉澄博士『靖國神社總説』(昭和四十二年十一月『神道史研究』第十五卷第五・第六合併號)に曰く、「
 靖國神社は、終戰後無理に置かれたる變則の地位より、いまだに原態に復歸するに至らず、その爲に種々の論議が試みられつゝある。然るにそれらの論議の中には、現状を悲しむのあまり、一時便宜の策を講ぜむとするものもあるやうである。現状を歎いて、一日もはやく解決を急がうとする心情は、之を諒としなければならないが、問題は極めて重大であり、國家の基本に關する所であるから、一時の彌縫、便宜の妥協によつて、その本質を誤るべきでは無い。
 占領下に於いて、すべてが歪曲せられた事は、今更いふまでもないが、然し眞實をいへば、歪曲せられたるは、ひとり占領下に於いてのみで無くして、占領解除の日に、當然爲すべき修正復原の大事が怠られた爲に、歪曲はそのまゝ沿襲せられて今に至り、今日に至つては、本末の道理を分らず、是非の感覺も鈍つて來た。我等は、何よりもそれを恐れ、それを歎かねばならぬ。‥‥
 從前、國家の爲に一命を捧げたる忠士は、國家によつてこゝに祀られ、以後君國の爲に一命を捧げようとする人々は、死してこゝに祀られむことを期待した。即ち國家護持の精神は、明治二年以來、今に至つて百年、この靖國神社に凝集し、國家の柱石となつてゐるのである。それを看破し、最もあざやかに之を表現してゐるものは、ラフカヂオ・ハーン、即ち小泉八雲である。八雲はいふ、
 『日本の眞の力は、その庶民の道義性のうちに存する。即ちそれは或は農夫であり、或は漁夫であり、或は職人であり、或は勞働者であり、或は田畠に、或は町の片隅に、默々として靜かに働いてゐるが、日本民族のみづから意識せざる英傑の氣象は、實に是等庶民のすばらしい勇氣に存するのである。彼等は生死に無關心であるのでは無いが、しかも死者にさへ位を賜はり、位階をのぼせ給ふ天皇陛下の御みことのりのまにゝゝ、獻身せん事を冀ふのである。今や日露戰爭の爲に召出されたる幾千の若者の誰よりも、戰勝の榮譽を帶びて家へ歸りたいといふ願を聞く事は無い。彼等に共通の願は、唯一つ、招魂社にまつられて、天皇陛下及び祖國の爲に生命を捧げた人々のすべてと一所になるといふ事である。日本を敵とする國の恐れなければならないのは、その精鋭の武器よりも、此の古來の忠誠心である』。
 まことに八雲の洞察したる如く、靖國神社は、國家護持の精神のやどる所である。從つて若し此の崇高にして嚴烈なる本質を誤り、一時便宜の處置によつて、之を左右するとならば、それは國家の基礎を動搖せしむるものなる事を覺悟しなければならぬ」と。

 愚案、昭和殉難者十四柱の合祀は、「占領解除の日に、當然爲すべき」大事であり、松平永芳宮司は、國會の決議・祭神名票を承けた崇敬者總代會の諒承の通りを、宮司一任の責任と權限を以て、極く自然に斷行されたに過ぎない。
 亦た靖國神社『社務日誌』昭和五十三年十月七日條には、池田良八權宮司、宮内廳侍從職と掌典職へ「合祀者名簿」を屆け出るとの記述ある由。


◆◆◆ 靖國神社考12・參拜か、訪問か 投稿者:備中處士 投稿日:11月14日(火)20時31分36秒◆◆◆

●松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』に曰く、「
 「おれ(中曾根總理)が初めて公式參拜した」と自負したいからか、藤波官房長官の私的諮問機關として「靖國懇」なるものをつくつて、一年間、井戸端會議的會合をやりました。そして手水は使はない、祓ひは受けない、正式の二禮二拍手はやらない、玉串は捧げない、それなら「政教分離の原則」に反しないといふ結論を出したのです。しかし、これは私に言はせれば、「越中褌姿で參拜させろ」といふのと同じで、神樣に對し、非禮きはまりない、私は認めないと言つたんです。‥‥前日の十四日、藤波官房長官が見えたので、目立たないやう、奧の小さい應接間にお通しして、私は言ひたいだけのことを言ひました。天皇樣のご親拜のご作法――手水をお使ひになり、祓ひをお受けになり、それから本殿にお進みになつて、大きな玉串をおもちになつて、敬虔な祈りをお捧げになる――それを全部やらないといふのは、弓削道鏡にも等しい。さう、靖國の宮司が言つてゐたと、おつしやつていたゞきたいと、しかし、これは恐らく言はれなかつたでせうね(笑)。それから、私は明日は總理の應接には出ない、泥靴のまゝ人の家に上がるやうな參拜は、御祭神方のお氣持に反することで、「やうこそいらつしやつた」とは、口が裂けても言へないから、社務所に居て顔を出しません。それも傳へてほしいと。‥‥拜殿から中は、綺麗に玉砂利を掃き、清淨な聖域になつてゐるんです。天皇樣も拜殿で祓ひをお受けになつて、あとは待從長などをお連れになつて參進される。警護はなしです。だから、中曾根總理が、厚生大臣と官房長官を連れていくのは、幕僚だから、それは結構だ。しかしボディガードを四人も、自分を守るために連れていくのは、何たることだと思ふわけです。靖國の御祭神は手足四散して亡くなられた方が大部分です。その聖域で、御身大切、後生大事と、天皇樣でもなさらない警備つきとは何事かと、七年經つた今でも、無念の感情が消え去りません」と。

●湯澤貞・元宮司『靖國の言ひ分、英靈たちの聲』に曰く、「
(石川水穗氏)小泉首相の參拜形式は、二禮二拍手一拜のときもあれば、一拜だけのときもあつたといはれてゐます。
(湯澤氏)その時は、われゝゝの目が屆かないものですから、先導した者だけにしかわからないのですけども、一拜だけでも構いません。原則はお出でいたゞいたら、手水を使つて御祓ひを受けていたゞくといふことだけで、御參りの形式は問ひません」と。

 愚案、「手水(=禊祓)」について、松平永芳大人は、「手水を使はないのは、まあ宜しい。それは前もつて潔齋してくるなら、中曾根さんの心がけ次第」と仰つてをられますが、小生は深く之を悲しむものであります。如何に事前の洗手漱口が、消毒劑を使用して無菌状態にならうとも(水の科學分析にて、たとへ細菌・鹽素だらけとしても)、手水を使はなければ、心身は清まつたことにはならぬと存じます。
 抑も神道は、何より清淨を尊ぶ。穢れある状態で神拜・神迎へしても、神靈は其の不淨を嫌ひ給ひ、祭は成立しない。無論「非禮」參拜と雖も、頑是無い子供、或は無知な者ではあるが至誠あふるゝ參拜、或は已むを得ない場合の參拜については、神靈には、必ずや之を容認し給ふと信じますが‥‥。
 社頭參拜では、昇殿しないのであるから、神道上「公式」參拜では無い。たとへ昇殿參拜と雖も、知りながら「二拜・二拍手・一拜」せず、一拜で濟ますのは「非禮」參拜、「手水」を用ゐないのは「不淨」參拜にして、神は非禮不淨を享け給はざれば、其の祈念は遂に通ぜず、一席のパフオーマンスに畢るのみ。皇族には、皇族としての參拜を賜はるの御所作あり(神格は、英靈より遙かに上位)。首相が之を眞似し奉つたと云ふのであれば、明かに僭上不臣の沙汰と謂ふべく、斷じて之を容認する能はず矣。然らば中曾根氏以降の日本國總理大臣の行動を正しく表現するならば、決して靖國神社「參拜」と云ふべからず、むしろ靖國神社「訪問」と謂ふを至當とする。
 他人の家を訪問すれば、頭くらゐは下げるのは當り前でありませうが、ゆめ神社參拜なぞと云つて戴きたくないのであります。拜殿前に「參拜のしかた」の板が、確かに在りました。文字が讀めないのでせうか。人の家に立ち寄つたら、普通は其の家の家風に從ふ筈ですがね。無禮千萬、不快至極でありました。小生なら、鄭重にお引取り願ふ所であります。


◆◆◆ 靖國神社考13・みゆき 投稿者:備中處士 投稿日:11月15日(水)21時13分50秒◆◆◆

 「忠魂を慰むる爲に神社を建てゝ、永く祭祀せむ、益々忠節を抽んでよ」との、優渥なる叡慮によりて、靖國神社を御創建、御歴代の御殊遇を賜ひ、又た天皇陛下の行幸を拜し奉ること、左の如し。

【御歴代の靖國神社行幸】

【明治天皇】都合、八囘(内、御名代一囘)。
明治  七年 一月二十七日午前十時
同   八年 二月二十二日午前十時
同  十 年十一月 十四日午前十時
同 二十八年十二月 十七日午前十時三十分
同 三十一年十一月  五日午前十時三十分
同 三十八年 五月  四日(御名代として伏見宮貞愛親王を御差遣)
同 三十九年 五月  三日午前十時
同 四十 年 五月  三日午前十時

【大正天皇】都合、四囘(内、御名代二囘)。
大正■年■月■日
同 ■年■月■日
同 ■年■月■日
同 ■年■月■日

【昭和天皇】都合、二十八囘(御名代は無し)。
昭和  四年 四月二十六日・臨時大祭
同   七年 四月二十七日・臨時大祭
同   八年 四月二十七日・臨時大祭
同   九年 四月二十七日・臨時大祭
同  十二年 四月二十七日・臨時大祭
同  十三年 四月二十六日・臨時大祭
同  十三年十 月 十九日・臨時大祭
同  十四年 四月二十五日・臨時大祭
同  十四年十 月二十 日・臨時大祭
同  十五年 四月二十五日・臨時大祭
同  十五年十 月 十八日・臨時大祭
同  十六年 四月二十五日・臨時大祭
同  十六年十 月 十八日・臨時大祭
同  十七年 四月二十五日・臨時大祭
同  十七年十 月 十六日・臨時大祭
同  十八年 四月二十四日・臨時大祭
同  十八年十 月 十六日・臨時大祭
同  十九年 四月二十五日・臨時大祭
同  十九年十 月二十六日・臨時大祭
同 二十 年 四月二十八日
同 二十 年十一月二十 日・臨時大招魂祭
同 二十七年十 月 十六日
同 二十九年十 月 十九日・秋例大祭
同 三十二年 四月二十三日・春例大祭
同 三十四年 四月  八日・鎭座九十年臨時大祭
同 四十 年十 月 十九日・終戰二十年臨時大祭
同 四十四年十 月二十 日・御創立百周年記念大祭
同 五十 年十一月二十一日・終戰三十年臨時大祭

【今上陛下】平成十八年十月現在、行幸を拜し奉らず。


●賀茂百樹大人『靖國神社誌』の「行幸・行啓」に曰く、「‥‥
 大凡そ行幸の御時は、南行幸門より入らせ給ひ、本殿石階の下に於て下乘あらせられ、皇族・親任官公爵・從一位・勳一等及び各省勅任官總代・□[鹿に射]香間□[祇の右下に一]候總代・錦鷄間□[祇の右下に一]候總代・有爵者總代・各省奏任官總代・有位華族總代・貴衆兩院議員總代等、先着して迎へ奉り、陸海軍兩省大臣・大祭委員長、神殿階上に御先導を奉仕し、それより宮司、更に殿上中陣なる御拜座に御先導し奉り、恐くも玉座に登り給ひて、御立拜あらせ給ふなり。
 御環幸は、北行幸門より出でさせ給ふを例とす。明治七年一月・八年二月及び十年十一月の行幸の御時には、御拜の後、殿上の御椅子に椅らせ給ひて、親しく兵士の參拜を天覽あらせられ、三十九年及び四十年五月に行幸あらせられたる御時には、玉垣内庭松樹の側に設けられたる御休憩所にて、陸海軍兩大臣・臨時大祭委員長及び宮司に拝謁仰せ付けられき。斯く至尊の御身を以て、頻りに御參拜あらせ給へる大御心のほどこそ、畏しとも尊き極みなりけれ」と。

●同上「勅使」に曰く、「
 勅使を立てさせらるゝは、最も重き事なり。本神社へは、草創以來、例大祭并びに臨時祭等には、必ず勅使を差遣せらる。最初より茲(明治四十三年五月)に七十一囘、祭文を納めらるゝこと六十五卷なり。‥‥
 凡そ勅使の參向あるや、招魂社當時は、專ら武官、之を送迎せしが、社格制定以來、祭典掛官と倶に、宮司は拜殿の階下に、陸海軍兩大臣は縁側に迎へ、宮司先導して神殿に昇る。奉送、亦た奉迎の時の如し」と。

【附・戰後に於る歴代首相の參拜】
東久邇宮稔彦王=一囘
幣原喜重郎=二囘
吉田 茂 =五囘
岸  信介=二囘
池田 勇人=五囘
佐藤 榮作=十一囘
田中 角榮=六囘
三木 武夫=三囘(うち八月十五日參拜一囘)
福田 赳夫=四囘(うち同上一囘)
大平 正芳=三囘
鈴木 善幸=八囘(うち同上三囘)
中曾根康弘=十囘(うち同上三囘)
橋本龍太郎=一囘
小泉純一郎=六囘(うち同上一囘)
 平成十八年十月現在、都合、參拜六十七囘(うち八月十五日參拜九囘)。


◆◆◆ 靖國神社考14・天皇行幸 投稿者:備中處士 投稿日:11月15日(水)21時16分36秒◆◆◆

●昭和天皇御製

「靖國神社九十年祭」昭和三十四年
  ここのそぢ へたる宮居の 神がみの 國にささげし いさををぞおもふ

「靖國神社百年祭」昭和四十四年
  國のため いのちささげし ひとびとを まつれる宮は ももとせへたり

「八月十五日」昭和六十一年
  この年の この日にもまた 靖國の みやしろのことに うれひはふかし

「全國戰沒者追悼式・八月十五日」昭和六十三年
  やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど

●『増補・皇室事典』(井原頼明翁著・昭和十七年四月版・冨山房刊。宮内大臣松平恆雄氏の題字・宮内次官白根松介男の序・蘇峰徳富猪一郎正敬大人の紹介あり。井原翁は、今泉定助大人の弟子)「別格官幣社・靖國神社」に曰く、「
 祭神=明治維新前後以降、殉國の英靈
 嘉永六年以來、維新前後、王事に盡瘁して命を隕した勤王烈士を始め、日清・日露・日獨等の戰役、濟南・滿洲・上海・支那事變に至る忠勇義烈の神靈を合祀される。陸海軍將兵はもとより、苟も帝國臣民にして國家に殉じた神靈は、男女の區別なく、また階級の差別なく網羅され、永く護國の神として仰がれるのである。
 皇室の御崇敬、大方ならず、明治天皇には、明治七年一月二十七日、初の行幸に、「わかくにの ためをつくせる 人々の 名をむさしのに とむる玉かき」と、御製を賜うた。別格官幣社に列せられ、靖國神社の社號を賜はつたのは、同十二年のことである。神靈合祀のときは、特に勅使を御差遣、嚴かなる祭典を執行せられ、また毎年二囘の例祭(春四月三十日・秋十月二十三日)には、勅使を立てさせられる。行幸啓を辱うして、御親拜・御直拜を賜はること、實に數十囘に及び、御代拜、皇族各殿下の御參拜は枚擧するに遑がない」と。

 愚案、件にもあるが如く、天照大御神の皇孫たる天皇陛下が、臣民である所の神靈もしくは人靈に、「參拜」されることは、時勢、已むを得ざる言葉遣ひとは申せ、本末轉倒、斷じてあり得ない。陛下の「御親拜(御みづから拜させたまふ)」は、洵に畏れ多く、御親拜(嚴密には御拜)されるのは、宇内唯一、伊勢の神宮(内宮)のみ。其の外の神社へは、「御拜を賜ふ」・「御親拜を賜ふ」・「御直拜を賜ふ」のである。御拜を賜ふ、勅使の參向(勅使は御手代に他ならず、蓋し「(御)下向」の方が宜しからむ)を賜ふのは英靈の方であり、洵に畏れ多く、有り難い事と謂はねばならぬ。天皇陛下ましゝゝての皇國日本であり、亦た靖國神社である。
 なほ勅祭社の中に於て、唯一の別格官幣社・靖國神社に對し、勅使は春秋の例大祭の二囘、之を仰ぎ奉る。因みに伊勢の神宮が年三囘、其の外の勅祭社は年一囘、中には七年ないし十年に一囘の由。


◆◆◆ 靖國神社考15・幽顯一貫の冥福 投稿者:備中處士 投稿日:11月16日(木)18時31分12秒◆◆◆

●磐山友清歡眞大人『靈の世界觀』(昭和十六年十月刊)に曰く、「
 人間の普通の意味における「死」といふものはないのである。私は「死は神變なり」と言うて居るが、つまり生活の環境に對する「むすび」(産靈・結靈)の變化に過ぎないのである。だから死を怖れるとか、死を悲しむとかいふのは意味をなさぬのである。もつともこれは本來のありさまについていふのであつて、人情としては、死は悼み、悲しむのが當然である。人情を無視した神道なるものはない。親しきものに對する所謂死別の悲痛な感情は、尤も千萬のことで、それを嘲る理由は毛頭ない。まことにこれほど同情すべき事件はない。どんな修養のできた人でも、親しきものに對して、所謂死別の悲嘆を感じないものあらば、其れは神姦であり妖怪である。けれども、本來のありさまから申せば、死とは只だ神變のみであり、冬から春になつて綿入をぬぐ位ゐのことである。それにつけても、「善きむすび」こそ望ましいことである。「善きむすび」によつて、より良き環境へと進みたいものであり、それが幽顯一貫の生活の眞意義である。「善きむすび」には、内的なものと外的なものがある。内的なものとは、つまり善い心がけや善い行ひである。外的なものとは、種々の因縁である。
 わたくしは茲においてか、いつも思ふのであるが、靖國神社に合祀せられた御方の遺族の方々の認識や信念についてである。それが無上の光榮であることは、國民一統、みなよく拜感して居るところであるが、これは單に光榮の儀禮に浴せられたといふだけのことではないのであつて、天照大御神の人間世界における顯現であらせられる天皇陛下の大御心にもとづいて、神と齋ひまつられるといふことは、死後の實際生活の上に、これほど幸福なむすびはないのであつて、單に光榮の儀禮に浴せられたと申す位ゐのことでないのである。‥‥
 善惡と禍福との關係についても‥‥、平田篤胤翁が『古史傳』で力説した居られるところから、私の考へは一歩も進んで居らぬ。要するに正しい立派な道徳的な家庭でも、いろゝゝの災害のやうなものがつゞいたり、あまり感心いたしかねる人が、順境で萬事好調といふやうな例は極めて多いが、それは此の人間世界だけを眺めての話で、お互ひの生命は、誰でも無量壽であり、天神地祇の攝理に寸分の狂ひも記帳洩れもないことを斷言しておく。神界の實相と死後の生活の模樣を知り、その萬古不動の信念で、本當の徹底した御奉公も、一層の輝きを生じてくるのである。

 愚案、靖國神社の御祭神は、貴賤上下の差別なく、大臣大將と雖も、戰陣に殉じなければ、合祀の對象となり得ず、一兵卒と雖も、國難に殉じた者は、必ず祀られてゐる。
 飜つて惟ふに、正神界の御經綸に據りて、天皇陛下の大御心のまにゝゝ、神ながら、此の現世地上に靖國神社が應現したのである。神に祀られるか、祀られざるかは、遂に人間の業に非ず、一に天神地祇の攝理に因るのである。其のむすびに「寸分の狂ひも記帳洩れ」も、絶對に無い。何もかも、神ながら、どうすることもいらぬ。疑ふこと勿れ。


◆◆◆ 靖國神社考16・御門の御位は、いともかしこし 投稿者:備中處士 投稿日:11月16日(木)18時34分35秒◆◆◆

●勅使河原大鳳翁『「異境備忘録」釋義・幽神界研究』(平成十四年十月・山雅房刊)に曰く、「
 日本天皇は、各神社より位が上である。天皇をはじめとし、皇族やその代理の神拜方式は、一般人の參拜所作とは、全く異なる。
 今上陛下が皇太子のころに外遊したことがある。その歸朝報告の儀として、名代(使者)が伊勢神宮に詣でた時、たまゝゝ私(大鳳翁)は外宮參拜の途中だつた。衞視の注意で參道わきに控へ、私は外宮の御饌殿に神拜をさゝげる使者の一行を目にする光榮に浴した。お使ひの人の參拜を見て驚く。人間界の方式では無く、神界の玉串奉奠の禮式だつたからである。私の同行者は未熟で、つい、短見を口にした。
 『間違つた作法ではないか。宮内廳の人間が、あれでは困るなあ‥』と。
 『皇室には、皇室の方式があるんだ。みだらな事は言ふなよ』とたしなめたが、承知しない。數年後、その男は、玄道(神道)修行から脱落した。
 具體的な作法を公表することは出來ないが、皇室の神拜方式は、神界の正式作法で行はれる。それには少なくても二とほりある。@内宮に對しては、天皇が下位である。A一方、外宮の祭神に對しては、天皇が上位にある。この時はAの、上位の天皇が、下位の神に參拜する所作だつた。天皇や皇族方は、現界の神社より上位に在ると云ふ、何よりの證明である。但し神宮では、皇室の參拜方式は、内宮・外宮とも同一と説明してゐる。祕儀をやたらに漏らさないと云ふ配慮からか、或は末端の神職は知らないかの、いづれかであらう。天皇や皇族が、現界で下位になるのは、唯一、伊勢の大宮(内宮)だけである。外宮を含めた他の社には、上位の立場にて親拜される」と。

 愚案、「御門(みかど)の御位は、いともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞ、やんごとなき」(『徒然草』第一段)とは、徒らなる言葉、空理虚論では無いのである。
 一口に「御拜」と申しても、天皇陛下が、天下統御の淵源である所の、皇祖に坐す天照皇大御神を(皇上陛下よりも上位)を拜し奉る「御拜」、と、天皇陛下が、皇祖の勅命翼贊を奉行する所の、下位の神明・英靈を拜する「御拜を賜ふ」御作法あるを、先づは御承知いたゞきたいものである。

【「御參拜」と「御會釋」】

●永積寅彦・掌典長『八十年間お側に仕へて・昭和天皇と私』(學習研究社・昭和五十七年二月刊)に據れば、宮中に於る祭祀は、鎭魂祭(八枚手=やひらで・八度拍手)以外は拍手は無く、御拜のみの由。亦た曰く、「
 (昭和天皇の)神社御參拜の時などのご樣子をお後ろから拜見してをりますと、いつも非常にご丁寧に、本當に目の前に神樣がいらつしやる、その神樣に對する御拜禮のご態度であると感じてをりました。‥‥
 宮内廳では、お玉串を捧げて御拜禮になるのを「御參拜」と申し、お玉串のない場合を「御會釋」と、昔から申してをりますので、言葉の響きは大變違ひますが、先帝さまはじめ、皇族方皆さま、このやうにあそばしておいでです」と。

 愚案、「天皇樣のご親拜のご作法は、手水をお使ひになり、祓ひをお受けになり、それから本殿にお進みになつて、大きな玉串をおもちになつて、敬虔な祈りをお捧げになる」(松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』)と仄聞する。然らば天皇陛下の行幸を忝ふする所の靖國神社は、大内山に於る「御參拜」の御形式に相當し、思ふだに、實に畏き極みである。


◆◆◆ 靖國神社考17・所謂保守政治家・評論家への疑念 投稿者:備中處士 投稿日:11月16日(木)18時37分56秒◆◆◆

●小堀桂一郎・渡部昇一兩氏編『決定版・全論點・新世紀の靖國神社』(平成十七年十月・近代出版社刊)所收の藤波孝生・元内閣官房長官「インタビユー・中曾根政權を支へた元官房長官が明かす靖國參拜の舞臺裏」より、中曾根康弘インタビユー『私が靖國神社公式參拜を斷念した理由』(『正論』平成十三年九月號)に曰く、「(中曾根元首相の曰く、)
 やゝ長時間の默祷と最敬禮を一囘だけ。ちやうど天皇が、さうです。たゞお辭儀をするだけです。賢所で、皇族方が參拜するときも、お辭儀をするだけです。それと同じにやればいいと思ひました」と。

 愚案、やはり、さうでしたか。まさか、とは思つてをりましたが‥‥。無知とは恐ろしいものであります。相談相手に人を得ず、こゝまで來れば、其の識見性根は、洵に御立派と云ふ外はありませぬ。
 然し大勳位閣下ともなれば、やはり、偉い御方なのでせう、小生なんぞは、此の言を見て、唇かみて、血の涙、流れて已みませぬ。中曽根某は、「弓削道鏡にも等しい」(松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』)所以、將に本領發揮と謂ふべきであります。
 亦た蛇足ながら、靖國神社を語る本に於て、其の書題にある「新世紀」とは、何時の時代なのでせうか。杞憂ならば宜しいが、若し日本に於て異國の暦を奉ずることは、異國の時間の統治下に在ると云ふことに他ならず、足利幕府・一部儒者は支那の暦を使用して、我が國を輕んじました。誰も目にし且つ安易に使用して、之を怪しみませぬ。それとも何か、深い御考へがあつての使用でせうか。悲しい哉。
 飜つて惟ふに、日本國總理大臣の靖國神社「訪問」は、現今に於ては、英靈に對し奉り、御寛恕を懇祷するしか無い。神は非禮不淨を享け給はず、其の冥罰は覺悟しておくがよい矣。此の靖國神社「訪問」を、明日の皇國再興の契機とするべく、靖國神社祀職および我々崇敬者の、今後の行動が試されるであらう。

●小堀桂一郎博士『天皇陛下の靖國神社御親拜を』(『祖國と青年』平成十四年四月號、同十五年三月刊『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集T』所收)に曰く、「
 靖國神社に對して、天皇陛下御自身が、慰靈の誠を捧げることがおできになれないといふことは、日本人の道徳生活にとつて、非常な疵であります。ですから、特に日本の精神文化の問題として、外國の内政干渉などは、絶對に受け付けてはならないと、政治家に日本の國家主權の尊嚴をはつきりと認識していたゞきたい。‥‥とにかく、天皇陛下には、靖國の英靈たちに對する國民の感謝・慰靈の氣持ちを、國民の代表として行つて表明していたゞきたいのです。それが日本人の道徳の復興に、どれほどのよい影響を與へるか。
 今でも靖國神社の春秋の例大祭には、勅使が參拜なさる。これはほとんど報道されませんが、大變莊重な儀式として行はれるわけです。天皇陛下・皇后陛下がいらつしやれば、なほのこと、兩陛下の尊い御姿が、靖國の社殿に向かつてゐる寫眞が、國民の目に映つたゞけでも、大變よい影響を及ぼすと思ひます。靖國に祀られてゐる神樣は、伊勢の神宮・明治神宮、その他もろゝゝの神々と同じく、天皇陛下でさへも額づいて下さる神として祀られてゐる。國のために命を捧げるといふことは、それだけの大事なのだといふ認識が深められていくと思ひます」と。

 愚案、卒然と之を讀めば、何でも無いやうであるが、小生は慄然として之を懼れる。曰く、「天皇陛下御自身が、慰靈の誠を捧げる」、「とにかく、天皇陛下には、靖國の英靈たちに對する國民の感謝・慰靈の氣持ちを、國民の代表として行つて表明していたゞきたい」、「靖國に祀られてゐる神樣は、伊勢の神宮・明治神宮、その他もろゝゝの神々と同じく、天皇陛下でさへも額づいて下さる神として祀られてゐる」と。
 嗚呼、小堀博士は、畢竟する所、日本を異國竝の國として論じてをられ、其處には「神の如き天皇」・「國家」はあつても、「現人神の天皇」・「皇國」は絶えて無い。此の篤實なる博士には多くを學ばせて戴いたが、所詮「天皇機關説」の表白であつて、主客轉倒、本末錯誤、君臣の義を亂り、神道の堂奧には上つてはをられないのを、小生は遺憾とせざるを得ぬ。抑も靖國神社は、天皇陛下の御爲に在るのであつて、只管ら奉皇護國之神として鎭り坐します。御一新以前に想ひを致せば、如何なる明神大社と雖も、御親拜を賜ることなど、極めて稀有の御事(文久三年四月十一日の岩清水八幡宮行幸を想起せよ)でありました。たゞ行幸を仰ぎ奉ることこそ、恐懼感激の極みなのである。天皇陛下の靖國神社行幸を、我々は熱望はするものゝ、博士の如き發言の趨く所とは、確然として一線を劃するものである。


◆◆◆ 靖國神社考18・愛語、能く囘天の力あり 投稿者:備中處士 投稿日:11月17日(金)18時11分11秒◆◆◆

 こゝに松平永芳・元宮司の精神が、現在の靖國神社に活かされてゐないと仰られてゐる、元靖國神社祀職の方がをられる。
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/questions.pdf
●棚橋信之・豐國神社權禰宜『大山晉吾靖國神社廣報課長宛・質問状』(平成十七年八月二十一日附)に曰く、「
 『終戰六十年にあたり、天皇陛下、全國の護國神社に、幣帛料を御奉納』と云ふ見出し(『靖國』平成十七年八月號二面)の文言の遣ひ方に疑義があります。靖國神社も護國神社も、尊い一命をもつて國家に殉じられた『臣下』の御靈を、英靈として合祀してゐるのですから、上御一人の天皇陛下からの幣帛料は『下賜』せられるのが、正しい皇室への文言の遣ひ方のはずです。丁度、十年前「終戰五十周年」にも、同じく幣帛料の『御奉納』と云ふ文言で、靖國神社の全護會事務局から、各都道府縣の護國神社にフアツクスが流されました。當時の花田忠正・靖國神社前權宮司にも、小生(棚橋氏)、『下賜』が正しい文言ではないかと問ひ合はせたところ、「英靈は、天皇陛下よりも偉いから、『御奉納』である」とか、「宮内廳でも、『御奉納』が使はれてゐる」と云ふ囘答でした。正直なところ、愕然といたしました。この『下賜』か『御奉納』かの文言の遣ひ分けは、畢竟「英靈祭祀の神格」に關はる、根幹問題の奧義です。併せて「天皇陛下には、‥‥幣帛料を御奉納あらせられることとなつた」と云ふ、本文記事での「二重敬語」が、却つて天皇陛下に對しての慇懃無禮な表現ではないでせうか。松平元宮司は、皇室への言葉遣ひには、細心の注意でもつて、神社職員に御指導をしてをられたことをお忘れでせうか。
 人徳の譽れも高く碩學の雄たる靖國神社の神職が、縷々指摘させて頂いたやうな『皇室と英靈への誤謬を犯すこと』は、到底、信じられません」と。

 愚案、これは、看過默認し難い指摘である。若し本道ならば、宮内廳の役人は、はた靖國神社の祀職は、何うなつてしまつたのか、憂慮に堪へないのは、蓋し小生だけではなからう。「英靈は、○○○○よりも偉い」とは、棚橋氏の聞き間違ひであることを祈るばかりである。失禮放言の段は、何卒ご海容たまはらむことを。
 天皇陛下には「御下賜」、皇族は「御奉納」、とは、『靖國神社誌』に於る筆法である。

●『論語』子路篇に曰く、「
 必ずや也、名を正さんか乎。‥‥君子は其の言に於て、苟くもする所ろ無きのみ而已矣」と。

●北畠親房公『神皇正統記』後醍醐天皇條に曰く、「
 言語は、君子の樞機なり、といへり。‥‥亂臣賊子と云ふものは、その始め、心ことばを愼まざるより出で來るなり。‥‥心の兆して言葉にも出で、表には耻る色のなきを、謀叛の始めと謂ふべき也」と。


◆◆◆ 靖國神社考19・皇室に對する謹愼の心ばへ 投稿者:備中處士 投稿日:11月17日(金)18時18分36秒◆◆◆

●神宮元少宮司・幡掛正浩大人『神國の道理』(昭和五十二年三月・日本教文社刊)に曰く、「
 私どもは、つひ不用意に「天皇をお守りする」などと申しますが、嚴密に言へば、守られてをるのは、實はこちらの方でありまして、私どもが出來ることは、唯、その天皇の稜威(靈能力)を強くする爲の祈りと、その祈りと二つならぬ獻身だけであります。‥‥
 從ひまして、私どもが日常的な言ひ方として、「皇室の尊嚴を守る」といふやうなことを申しましても、それは、やはり第一義的には、守られてをるのはこちら側であるといふ自覺と感激の心を、いよゝゝ深くし、さればこそ、倍層倍に謹愼し、身もたな知らず、この大君に仕へまつるのだ、千代田の城の石垣の苔のひとかけらになるのだ、といふことを本義とするものでなければなりません。かつて恩師井上孚麿先生は、「桐野利秋に、『我れ獨り天地を護る』といふ文字があると聞くが、これでは薩摩一國のまもりすらも怪しい。『我れ獨り天地に慙づ』と言はれた和氣清麻呂公にして、はじめて國體を一髮の危機に保つことが出來た」と言はれたことがあります。「出師表」を讀んで泣かざる者は人に非ずと言はれてきましたが、千古、人の涙腺を刺戟するくだりは、讀んで孔明の筆、「先帝、臣が謹愼なるを知り云々」に至る數文字でありました。‥‥忠誠とは、つひに恩に感じて、その身を致すことであり、身の誇りの一毫もあるを許しません。‥‥
 これに對して、嚴しい批評もいたゞいた。その中の一つに、『天皇をお守りするといふ運動を進めてゐるさ中に、「守られてをるのは、こちら側だ」などと言はれたのでは、どうも士氣にかゝはる』といふ趣旨のものがあつた。‥‥私はひそかに思ふ。この私の論理を逆立ちさせねば昂(あが)らぬやうな士氣といふものは、むしろ昂らぬ方がいい、と。多分それは士氣といふ程のものではなく、匹夫の勇といふ程度のものではあるまいかと思ふ。
 もつと本當のことを言へば、今こゝでこんなことを文字に綴つてゐる事すら、私には面映い。私には、天皇をお守りするのだといふやうな言擧げは、到底聲高にできないばかりか、多分これまでさうして來たやうに、さういふ議論の座からは、そうつと身を外して避けるであらう。私は、さういふことを議論してはいけないと言はぬが、さういふこゝろが本當に切迫した場合、ひとはそれを議論にではなく、ひそかに歌にうたひ上げてきた愼しみの傳統を知つてゐる、とだけは言つておかう。‥‥
 忠誠の情とは、つねに含羞の思ひとともにある」と。

●三浦義一翁の哥
○ み濠(ほり)べに 寂(しづ)けき櫻 仰ぎつゝ 心はとほし わが大君に
○ ますらをの かなしき命 積み重ね 積み重ね守る 大和島根を

●松蔭二川相近翁(筑前の處子)の今樣
○ 同じこと言ふ 老の身を
  誰もをかしと おもふらん
  君は千代ませ 千代にませ
  君は千代ませ 八千代ませ


◆◆◆ 靖國神社考20・雲深き邊りの御配慮 投稿者:備中處士 投稿日:11月18日(土)17時25分59秒◆◆◆

●鈴木正男翁『昭和天皇の御巡幸』(平成四年九月・展轉社刊)に曰く、「
 伊勢市への空襲は、前後三囘あつた。最初と二囘目は大した被害はなかつたが、三囘目の二十年七月二十八日の空襲は、明らかに伊勢神宮を目標に來襲した、本格的な大空襲であつた。午前一時頃、外宮宮域にB29四十機が來襲、三囘にわたり燒夷彈攻撃を行つた。伊勢の街は紅蓮の?に包まれ、外宮宮域もたちまち火の海になつた。
 この空襲で、伊勢市の三分の二は燒けたが、外宮御垣内(外宮御正殿のあるところ)へは、一發も落ちなかつた。御垣内のまはりの宮域からは、空襲後トラツク三臺分の燒夷彈のカラが運び出されたから、いかに烈しい攻撃であつたか判る。この中で、ぜんゞゝ御被害がなかつたのである。
 外宮の爆撃を終へた四十機は、今度は内宮のある宇治へ來て、三囘燒夷彈攻撃を行つたが、どうしたことか、三囘とも流れて五十鈴川の向ふの山へ落ちてしまつた。内宮の宮域へは、一發も落ちなかつたのである。
 この空襲によつて、大少宮司以下、全神職はもとより伊勢市民全員が、神ましますを心の底から知つたのであつた。
 伊勢市に到着された陛下は、沿道での市民の奉迎を受けられ、内宮行在所に御到着。こゝで御參籠御潔齋の一夜を過ごされ、翌十一月十三日、先づ外宮に御親拜になり、次いで内宮に御親拜になられた。大御前で切々と御奏上遊ばされる御告文の御言葉を拜聽した杉谷房雄禰宜(後に少宮司)は、「生涯忘れることが出來ない」と、この時のことを、後年、筆者(鈴木翁)に語られたが、敗戰を大御神に告げ給ふ陛下の御心中、忖度し奉るも畏き限りである。‥‥
 十一月十九日夜、靖國神社で臨時大招魂祭を行はしめ給ひ、翌二十日、陛下は招魂齋庭へ行幸になり、大東亞戰爭全戰死者の御靈に、大元帥として最後の御親拜をされたのであつた。
 この大招魂祭に參加した飯村繁氏(當時陸軍少佐)は、その時の感懷を、次の如く記してゐる。
 「大招魂祭の時、昭和天皇は天皇服御着用であつたが、昭和十五年の陸士卒業の際、咫尺の間で、天皇を拜し、御體の御具合がお惡いのではないかとの印象をもつてゐた私は、招魂祭の天皇が實に逞しく、力強い玉歩をされたのに衝撃を受けた。敗戰武裝解除で最低の心境にあつた私には、考へられない逞しさであつた」(『偕行』昭和六十一年七月號)」と。

●大原康男氏『「靖國神社への○○」を解く』(小學館文庫・平成十五年八月刊)に曰く、「
 靖國神社に對する昭和天皇の、各別のお心遣ひである。臨時大招魂祭の御親拜を最後に、占領中は參拜はもとより、勅使の差遣すら認められなかつたけれども、天皇の戰沒者に對する深甚なお氣持ちは、一貫して變はりはなかつた。
 そのことを象徴するエピソードがある。昭和二十一年の春季例大祭にともなふ、戰後初めての合祀祭を前にして、神社で靈璽簿の淨書が進められてゐたときのこと。從來は調製のための專門家が、神職と同樣に身を清めて、社務所内の清淨な一室で作業を進めてきたが、戰後の混亂期にはそれができない。
 そこで勤務を終へた神職が、夜間、交替で淨書作業を續けることになつたが、思ふやうに進まない。このとき、それを手傳はれるといふ趣旨で、前後八囘にわたつて、女性の皇族が淨書作業を奉仕された。奉仕されたのは、秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃をはじめとする十一方(他に、北白川宮大妃・同妃・朝香宮妃・東久邇宮大妃・同妃・久邇宮妃・賀陽宮妃・李王妃)であるが、このやうなことはまつたく例のなかつたことで、當然、昭和天皇のご意向が反映されてゐると見なければならない。
 このやうな經緯で、占領下の靖國神社は、非常な苦難に滿ちた逆風の時代を耐へしのいだのである。昭和天皇から靖國神社關係者・遺族・戰友、そして多くの國民にいたるまで、心を一つにして靖國神社を守るために、懸命の努力が重ねられた史實を、あらためて想起すべきであらう」と。

 愚案、明治二年六月、初めて東京招魂社を御創建あらせらるゝや、同年八月二十二日附を以て、社領高一萬石を賜つた。永世高一萬石の社領を御下賜の御沙汰があつたのは、たゞ伊勢の神宮と招魂社の兩社あるのみ。然し招魂社側では、新政府の財政が未だ以て甚だ貧しく、豫算頗る逼迫の事情を承知してゐたから、其の年末になつて、御下賜高の半分の五千石を返上することを申し出て受納せられた由。こゝに靖國神社に於る國民護持の精神、一歩進んで官民一體の美しき姿を見ることが出來よう。


◆◆◆ 靖國神社考21・ご聖徳を仰ぎ奉る 投稿者:備中處士 投稿日:11月18日(土)17時37分39秒◆◆◆

●御製

「日本遺族會創立四十五周年にあたり」平成四年
  戰に 散りにし人に 殘されし うからの耐へし ながとせ思ふ

「硫黄島、二首」平成六年
  精根を 込め戰ひし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しき
  戰火に 燒かれし島に 五十年も 主なき蓖麻(ひま)は 生ひ茂りゐぬ

「戰後五十年、遺族の上を思ひてよめる」平成七年
  國がため あまた逝きしを 悼みつつ 平らけき世を 願ひあゆまむ

「對馬丸見出ださる」平成八年
  疎開兒の 命いだきて 沈みたる 船深海に 見出ださりけり

「日本傷痍軍人會創立四十五周年」平成十年
  國のため 盡くさむとして 戰に 傷つきし人の うへを忘れず

「サイパン島訪問、二首」平成十七年
  サイパンに 戰ひし人 その樣を 濱邊に伏して 我らに語りき
  あまたなる 命の失せし 崖の下 海深くして 青く澄みたり

●皇后陛下御歌

「硫黄島」平成六年
  慰靈地は 今安らかに 水をたたふ 如何ばかり君ら 水を欲りけむ

「戰後五十年、遺族の上を思ひて」平成七年
  いかばかり 難かりにけむ たづさへて 君ら歩みし 五十年の道

「終戰記念日」平成八年
  海陸の いづへを知らず 姿なき あまたの御靈 國護るらむ

「日本傷痍軍人會創立四十五周年」平成十年
  復興の 國の歩みに 重ね思ふ いたつきに耐へ 君らありしを

「サイパン島」平成十七年
  いまはとて 島果ての崖 踏みけりし をみなの足裏(あうら) 思へばかなし

●鎌田純一・元宮内廳掌典『宮中祭祀と建國の心』(平成七年十二月二十日取材・日本會議HP→歴史→日本の建國)
http://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1710-04kamata.html
 鎌田大人の證言は、此の上なく尊く重きものと存じます。願はくば、心して熟讀たまはらむことを。又た英靈への思召しについての體驗を、こゝに特に謹記させて戴きます。曰く、「
 硫黄島を詠まれた御製、それから(平成七年)八月に遺族會に下賜された御製に、英靈への深い思し召しを拜することができますが、(今上陛下には)私自身に、『鎌田掌典は、戰爭中はどこにゐたか』と、ご下問頂いたことがございました。『驅逐艦航海士として、津輕海峽を主として、敵潛水艦の哨戒と掃蕩の任に當つてをりましたが、最後は艦載機群のために大破、航行不能となりました』とお應へすると、『戰死者は?』と仰せられる。『二七十名乘艦のうち、二十三名が戰死。五十數名が重傷を負ひました』。すると、陛下には、『慰靈のことは』と。そこで『遺體の殘つてゐた者は、陸揚げして火葬しましたが、その後、毎年七月十四日に、その地で慰靈祭を行つてをります』と申し上げますと、『慰靈のことは、よくするやうに』と仰せられました。先帝が大東亞戰爭の戰沒者に對して、いかにお心を注がれたかといふことをよく知つてをられ、それを御繼承なされてゐるお姿を尊く拜しました」と。

 愚案、洵に恐懼に勝ふべからず。鎌田元掌典の尊話、一度び漏傳されて(本平成十八年一月に顯出した、谷朝子・元内掌典『宮中賢所物語・五十七年間、皇居に暮らして』ビジネス社刊も併せ見るべきであらう)、皇室に對し奉れる凡百の週刊誌的・電腦的不敬論評、したり顔なる諫言妄説は、こゝに其の論據を失はざるべからず。かつて昭和の皇太子妃報道と全く同じ次元、否、其の上を行く砂上楼閣なる、はた傍若無人なる、いい加減に氣づいて好いのではないか、惑はさるゝこと勿れ矣と、爾か云ふ。


◆◆◆ 靖國神社考22・終戰詔書奉戴記念日 投稿者:備中處士 投稿日:11月19日(日)11時16分2秒◆◆◆

●大東亞戰爭終結の詔書(昭和二十年八月十四日)
 朕は、帝國と共に、終始、東亞の開放に協力せる諸盟邦に對し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝國臣民にして、戰陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想ひを致せば、五内、爲に裂く。且つ戰傷を負ひ、災禍を蒙り、家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。

【靖國神社に於る八月十五日】

●松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』に曰く、「
 八月十五日だからといつて、神社は特別なことをするわけではないのです。靖國神社には、新年祭や建國記念日祭といつた、他の神社と共通の、我が國の安泰を祈願するお祭り、そして春秋の例大祭、月に三囘の月次祭(一日・十一日・二十一日)といつた、御靈をお慰めするお祭りと、いはゞ二通りございますが、八月十五日はいづれにも屬さず、特別なお祭りはないのです。朝夕に神饌をお供へする朝御饌祭・夕御饌祭が嚴肅にとり行はれてをりますが、これは三百六十五日、毎日行はれてゐることです」と。

 愚案、聖上陛下の御親拜を賜るの日は、八十か日はあれども、本來は春秋の例大祭、即ち御祭神を奉慰顯彰、其の遺志を繼承せんとする、御祭りの日が、蓋し神道の本義から云つても、やはり最も相應しかるべく、神國日本が大清祓を受けし八月十五日は、餘りに悲痛慨歎に過ぎ、殊に皇上陛下および御靈に對し奉り、マイナスの氣が集中することを、何より危惧する。
 天皇陛下には、皇孫命と御同體に坐しまし、伊勢の神宮(内宮)を除く諸神の上位に在り(神樣に品位を賜ふ靈理、或は主上の神社行幸形式に拜する君臣之別の嚴然たるを看よ)、洵に御親拜を賜ふとならば、神明・英靈にとつて、これ以上の冥福至幸、靈格向上は無いと恐察する。
 然しながら日本國總理大臣は、『八月十五日』を以て、特に靖國神社正式參拜の日と期するは、「昭和六十一年」以來と爲す謂れが存する。それまでは、蓋し神道の本義からして、春秋の例大祭日を以て之を期するを最勝とするであらうが、無論、其の日も當然であるが、「一度びは」、何としても、八月十五日とせねばならぬ。其の所以は、何處に在りや。昭和天皇の御製を、こゝに謹記し奉る(宮内廳侍從職編『昭和天皇御製集・おほうなばら』平成二年十月・神社本廳刊)。

「八月十五日」昭和六十一年
  この年の この日にもまた 靖國の みやしろのことに うれひはふかし

 「この日」とは、八月十五日を云ふ。我々の云ふ終戰詔書奉戴記念日、即ち是である。「五内、爲に裂く」と宣らせ給ひし先帝陛下には、未だ「うれひはふかし」との仰せである。畏こき極み、懺悔して猶ほ萬死も辭すべからざるなり矣。
 昭和五十年八月十五日、三木首相の所謂私的參拜以來、平成十八年に至るまで、實に此に三十一年、先帝陛下の大御心を默殺し奉り續ける罪は、途轍も無く甚大である。中曾根・小泉兩首相の「訪問」は、固より其の數には入らない。先づは首相による、堂々たる神道上の「正式參拜」を期したい。而して宸襟を惱まし奉つた罪を、只管ら御詫び申し上げて、之を積み重ねるべきである。靖國神社の御靈の爲に、聖上陛下の行幸を仰ぎ奉る日を、只管ら懇祷せずにはをられない。此の「堂々たる神道上の正式參拜」こそ、政府に於る何よりの緊急課題であつて、異國の掣肘干渉の如き、國内異教徒の反亂の如きは、低次元・形而下の御話(外務省・警察廳にでも、何とでもやらせておくがよい)、本末前後を誤ること無く、至誠純忠、勇氣ある首相の登場を、切に祈るばかりである。

【八月十五日參拜の逸事】靖國會HPより
http://www.kitanet.ne.jp/~ars/aumi1.htm
 八月十五日の終戰の日には、特別の參拜をすることを、全會一致で決議し、池田良八・國神社權宮司に相談した所、「八月十五日は、英靈の最も悲しむ日であるから、神社としてはやらない」との返事であつたが、再び權宮司に面談し、「英靈の最も悲しむ日であるからこそ、私々國民は、英靈の前で、日本の再建をお誓ひせねばならないと思ふ」と云ふ理由を訴へた所、遂に神社は、「皆さんが御希望であるならば、やつてもよい」と許しを戴いた。
 翌昭和三十六年八月十五日、第一囘國忠靈祭が、二十名位の參加者で執り行はれた。徳川義親侯(松平春嶽公五男)を總代に、今村均元大將が副總代に、山本健介老(水戸愛郷塾・橘孝三郎翁の友人)が事務局長、塙三郎副事務局長の體制が發足した(忠靈と云ふ呼び名を用ゐたのは、辯護士中里義美氏によるもの)由。


◆◆◆ 靖國神社考22・終戰詔書奉戴記念日 投稿者:備中處士 投稿日:11月19日(日)11時16分2秒◆◆◆

●大東亞戰爭終結の詔書(昭和二十年八月十四日)
 朕は、帝國と共に、終始、東亞の開放に協力せる諸盟邦に對し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝國臣民にして、戰陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想ひを致せば、五内、爲に裂く。且つ戰傷を負ひ、災禍を蒙り、家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。

【靖國神社に於る八月十五日】

●松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』に曰く、「
 八月十五日だからといつて、神社は特別なことをするわけではないのです。靖國神社には、新年祭や建國記念日祭といつた、他の神社と共通の、我が國の安泰を祈願するお祭り、そして春秋の例大祭、月に三囘の月次祭(一日・十一日・二十一日)といつた、御靈をお慰めするお祭りと、いはゞ二通りございますが、八月十五日はいづれにも屬さず、特別なお祭りはないのです。朝夕に神饌をお供へする朝御饌祭・夕御饌祭が嚴肅にとり行はれてをりますが、これは三百六十五日、毎日行はれてゐることです」と。

 愚案、聖上陛下の御親拜を賜るの日は、八十か日はあれども、本來は春秋の例大祭、即ち御祭神を奉慰顯彰、其の遺志を繼承せんとする、御祭りの日が、蓋し神道の本義から云つても、やはり最も相應しかるべく、神國日本が大清祓を受けし八月十五日は、餘りに悲痛慨歎に過ぎ、殊に皇上陛下および御靈に對し奉り、マイナスの氣が集中することを、何より危惧する。
 天皇陛下には、皇孫命と御同體に坐しまし、伊勢の神宮(内宮)を除く諸神の上位に在り(神樣に品位を賜ふ靈理、或は主上の神社行幸形式に拜する君臣之別の嚴然たるを看よ)、洵に御親拜を賜ふとならば、神明・英靈にとつて、これ以上の冥福至幸、靈格向上は無いと恐察する。
 然しながら日本國總理大臣は、『八月十五日』を以て、特に靖國神社正式參拜の日と期するは、「昭和六十一年」以來と爲す謂れが存する。それまでは、蓋し神道の本義からして、春秋の例大祭日を以て之を期するを最勝とするであらうが、無論、其の日も當然であるが、「一度びは」、何としても、八月十五日とせねばならぬ。其の所以は、何處に在りや。昭和天皇の御製を、こゝに謹記し奉る(宮内廳侍從職編『昭和天皇御製集・おほうなばら』平成二年十月・神社本廳刊)。

「八月十五日」昭和六十一年
  この年の この日にもまた 靖國の みやしろのことに うれひはふかし

 「この日」とは、八月十五日を云ふ。我々の云ふ終戰詔書奉戴記念日、即ち是である。「五内、爲に裂く」と宣らせ給ひし先帝陛下には、未だ「うれひはふかし」との仰せである。畏こき極み、懺悔して猶ほ萬死も辭すべからざるなり矣。
 昭和五十年八月十五日、三木首相の所謂私的參拜以來、平成十八年に至るまで、實に此に三十一年、先帝陛下の大御心を默殺し奉り續ける罪は、途轍も無く甚大である。中曾根・小泉兩首相の「訪問」は、固より其の數には入らない。先づは首相による、堂々たる神道上の「正式參拜」を期したい。而して宸襟を惱まし奉つた罪を、只管ら御詫び申し上げて、之を積み重ねるべきである。靖國神社の御靈の爲に、聖上陛下の行幸を仰ぎ奉る日を、只管ら懇祷せずにはをられない。此の「堂々たる神道上の正式參拜」こそ、政府に於る何よりの緊急課題であつて、異國の掣肘干渉の如き、國内異教徒の反亂の如きは、低次元・形而下の御話(外務省・警察廳にでも、何とでもやらせておくがよい)、本末前後を誤ること無く、至誠純忠、勇氣ある首相の登場を、切に祈るばかりである。

【八月十五日參拜の逸事】靖國會HPより
http://www.kitanet.ne.jp/~ars/aumi1.htm
 八月十五日の終戰の日には、特別の參拜をすることを、全會一致で決議し、池田良八・國神社權宮司に相談した所、「八月十五日は、英靈の最も悲しむ日であるから、神社としてはやらない」との返事であつたが、再び權宮司に面談し、「英靈の最も悲しむ日であるからこそ、私々國民は、英靈の前で、日本の再建をお誓ひせねばならないと思ふ」と云ふ理由を訴へた所、遂に神社は、「皆さんが御希望であるならば、やつてもよい」と許しを戴いた。
 翌昭和三十六年八月十五日、第一囘國忠靈祭が、二十名位の參加者で執り行はれた。徳川義親侯(松平春嶽公五男)を總代に、今村均元大將が副總代に、山本健介老(水戸愛郷塾・橘孝三郎翁の友人)が事務局長、塙三郎副事務局長の體制が發足した(忠靈と云ふ呼び名を用ゐたのは、辯護士中里義美氏によるもの)由。


◆◆◆ 靖國神社考23・松平永芳大人を繼ぐは、誰ぞ 投稿者:備中處士 投稿日:11月19日(日)11時19分43秒◆◆◆

●松平永芳大人『讓ることのできない傳統の一脈』に曰く、「
 私の在任中は、天皇陛下の御親拜は強ひてお願ひしないと決めてゐました。天皇さまに公私はない。天皇陛下に私的參拜も公的參拜もない、陛下は思召しで御參拜になられたんだ、と言へば、それで濟むんですが、總理も宮内廰長官も侍從長も、毅然とした態度で、天皇陛下に公私はないんだといふ、それだけのことをキツパリと言ひ切るとは思へない。そこでモタヽヽして變なことを言はれたら、かえつて後々の害となる。變な例を作つてしまふと、先例重視の官僚によつて、御親拜ができなくなつてしまふ恐れがある。それで私が宮司の間は、絶對にお願ひしないことにしてきました。
 その代はり、春秋の例大祭には、キチンと勅使の御差遣を戴いてきてゐます。それに御直宮の高松宮・三笠宮を始め、お若い皇族樣方に、極力御參拜に來ていたゞくやうお願ひしまして、よくお務めくださつてゐます。
 國民はみんな、皇室は長く續いてゐるから無くならないと思ひ込んでゐるけれど、安易にさう考へることはできないと思ひます。萬世一系の天皇と言ひますが、それは昔の日本だから言へたのです。戰前の日本と今の日本が、全く性格の違ふ日本になつてしまつたといふことをよく心得てゐないから、皇室も開かれてゐれば御安泰だ、靖國神社も國家護持がよいと言ひ出す。戰前なら國家護持でも危ないことはなかつたけれども、今の日本は、戰前と全く内容の違ふ日本だから、國家護持なんて危ない。何か法案を通す時、保守政權であつても、野黨の攻撃を受けて讓歩させられたりでもしたら、靖國神社の形態が完全に崩れてしまふ恐れがあるんです。それと同じやうに、萬世一系といふものも、今の日本では大變頼りないものになつてしまつてゐるんです。ですから、平成元年の秋、秋季例大祭・御創建百二十周年記念大祭・昭和大修築竣工奉祝大祭、この三つの大祭を無事終へた折、私は敢へて『今日この頃が、戰前戰後、世代交代の節目であり、果たしてこのやうな大きな神社が、正しく傳統を守りつゝ維持經營していけるかどうかが問題であり、祝典をめでたしゝゞゝゝと言つてをられず、今日が當神社苦難の門出である』と申し述べました。
 祖父松平春嶽は、勅許を經ないでアメリカとの修好通商條約に調印した時の大老井伊直弼に、切腹を覺悟して、單獨で談判したため、三十二萬石の藩主の座を外され失脚しましたが、己の信念を曲げませんでした。自分の一命を捨てゝも、國のためには權力に對して、言ふべきことは言ふといふ態度だつたと思ひます。この祖父の心を心として、私の父も公職を貫き通しました。その父を眺めて私は育ちましたので、祖父を歴史上の人物と言ふよりも、むしろ祖父春嶽に育てられたやうな感じです。それから子供の時から、日夜、勉強部屋で、祖父春嶽の油彩の遺影額を見て參りました。ですから、靖國神社の宮司といふ重責を拜命してをりました時も、その日々の御奉仕を、祖父の精神によつて、微力ながら果たしてゐる、といふ感じを持つて過ごして參りました。
 今後も祖父と父の精神を繼いでゐる者として、皇室を戴いた從來の國史を重んずる傳統國家復活のため、息の根が止まるまで、務めさせていたゞきたいと思つてをります。
 今、宮中の側近は、侍從から宮内廰管理職まで、殆んど出向官僚でせう。二年くらゐで、どんゞゝ變はつていく。二年以上ゐると、出向先の同僚に遲れを取つてしまふから、二年以上はゐたくないと思つてゐるやうなのです。だから二年の間、事勿れ主義で御奉仕して、箔づけをして歸つて行く」と。


◆◆◆ 靖國神社考24・松平永芳大人『國家護持に對する宮司見解』 投稿者:備中處士 投稿日:11月19日(日)11時22分13秒◆◆◆

〜承前〜

●湯澤貞・前宮司『靖國の言ひ分、英靈たちの聲』に曰く、「
(湯澤氏)いつの日か、天皇陛下に御親拜いたゞきたいといふ皆樣の希望を考慮して、宮家に關係のある方に御勤めいたゞきたいといふ結論になり、南部(第九代南部利昭現宮司)さんに白羽の矢が立ちました。南部さんは、常陸宮殿下と學習院の同級生ださうで、皇室と御縁が深くなつたやうな氣がいたしました。
 南部さんは神職の經驗がなく、當初は返事を保留されたやうでした。しかしあるとき、學習院の同窓會で、天皇・皇后兩陛下から、「靖國神社をよろしく」と言はれて、「これは引き受けるほかない」と決斷したとおつしやつてゐましたね。
 宮司選びに携はつた久邇邦昭・霞會館理事長(神社廳統理)が、陛下に南部さんのことを申し上げてゐたのだと思ひます。
(石川水穗氏)陛下が、直接南部さんにお言葉をかけられたといふことですね。
(湯澤氏)さうです。私どもの就退任のときには、御所をはじめ、各宮家に記帳に參ります。たゞ名前を書いて歸つてくるだけですけれども、南部さんと一緒に參りました秋篠宮家では、秋篠宮・同妃兩殿下が立つてをられて、驚きました。南部さんが宮司になつたといふことに、御心遣ひを頂いたのだと思ひます。
(石川氏)數年前に靖國神社崇敬奉贊會の山内豐秋會長が、宮内廳に、陛下の御親拜をお願ひしたところ、「首相の公式參拜が可能になれば檢討する」といふ返事だつたと聞いてゐます。陛下は靖國神社のことは大事に思つていらつしやるから、環境が整へば、御親拜が復活すると思ひます」と。

●松平永芳宮司『國家護持に對する宮司見解』(昭和五十四年四月二十七日)に曰く、「
 小職、靖國神社宮司の重責拜命以前から、靖國神社國家護持問題に關心を拂ひ、現憲法下、又た保守政治家の保身、弱腰體質下では、如何樣にもなるまいと考へ、中途半端な革新との妥協法案の通過することを恐れてきた。
 着任して過去の動靜を知るに及び、益々現憲法下、そして戰前の國家體制(國體・政體・思想・言論等)と全く異質の國家體制となつた、現國政下に於ては、傳統的靖國神社の姿に於ての國家護持など、絶對に成立せず、成立させるべきではない、との感を深くして居る。
 國家が護持する、言ひかへると、國家が神社に對して豫算を投入すると言ふことは、その額の如何を問はず、神社に國家權力が介入することであり、祭祀・人事・財産管理等の一切を、國家權力によつて左右し得るといふことに外ならない。
 戰前ならいざ知らず、將來、傳統國家(國體・政體・習俗等)を否定するが如き政權、又は強力野黨が、何時如何なる時期に出現するかも計り知れないのが、我が國の悲しむべき現實の姿である。
 宮司は、神社の末永き御安泰を確保する責務を負ふもの故、目前の利害により、判斷を誤ることなき樣、微力非才ながら苦慮してゐる次第である」と。

 枝島賢二こと中島一光氏HP『彌榮』→「永代祭祀への道」(『靖國』平成二年五月號)參看。
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/index.htm


◆◆◆ 靖國神社考25・國家護持か、國民護持か 投稿者:備中處士 投稿日:11月20日(月)17時59分56秒◆◆◆

●松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』に曰く、「
 戰友會・遺族會の悲願中の悲願だつた‥‥「靖國法案」をよく讀むと、靖國神社といふ名稱こそ殘すものゝ、役員である理事長などは總理が任命するし、宗教色はなくせといふのです。法制局の見解によれば、祝詞は感謝の言葉にかへ、降神・昇神の儀はやめる。修祓も別の形式を考案し、拜禮も自由にするといふ。つまり政府は、カネを出すかはりに政府が牛耳る。靖國神社と稱するものゝ中身は、神社ではなくなつてしまうんです。ところが、戰前派の人たちは、法制局がいぢくつた法案なんか、目を通しませんし、國家護持といへば、今のまゝの姿の靖國神社を國が守つてくれると、日本人らしい純粹な氣持で信じてゐる。そこへ當の靖國神社の宮司が反對を打ちあげたものですから、すごい反撃でした。しかし人からおカネをもらへば、胸を張つて言ひたいことも言へなくなります。政府の庇護を受け、それに縛られてゐると、とんでもない政權が現はれ、どんな目にあふか分らない。それに村や町のお社だつて、お祭りとなれば、氏子がめいめいに寄附するから、自分たちのお宮だといふ意識が生れる。これがすべて町費でやるとなれば、さうはいかない。だから靖國神社も、戰前と異質な戰後の國家による國家護持では危險なので、國民護持・國民總氏子でいくんだと、私は繰り返し申し上げた‥‥。靖國神社といふのは、決して平穩な神社ではありません。政治的に非常に壓力のかゝる神社です。それは左からの壓力だけではなく、さうでないところからもかゝつてくる。一見「愛國」・「憂國」を裝つた形でもかゝつてくる。だから、ともかく權力に迎合したらいけない、權力に屈伏したら、ご創建以來の純粹性が目茶苦茶になつてしまふ。權力の壓力を蹴とばして、切りまくる勇氣をもたないといけない」と。

 靖國神社の所謂國家護持に對する、現在に於る公式見解については、
●靖國神社HP→新着イベント→過去のイベント→『文藝春秋掲載記事(「靖國神社に巣くふ怪僧X」平成十七年十月號)に對する靖國神社見解』(『靖國』十一月號)に曰く、「
 靖國神社は、戰後止むを得ず一宗教法人となつてゐますが、明治天皇の思し召しとして創建されたその主旨を體し、今も神社の國家的性格が不變であることは、歴代の宮司以下、職員の一貫して確信してゐるところであります。從つて、記事中にもあります松平永芳元宮司の示された、神道による祭祀、御社殿のたゝずまひを變へない、神社名を變へないといふ三原則は、當然嚴守すべきであり、靖國神社の本姿を曲げての、所謂國家護持はあり得ません。たゞ、時代に應じた御社殿以外の外觀の變遷がありますことは、ご理解をいたゞきたいと存じます。
 また、本記事の末尾を讀みますと、筆者の靖國神社の行く末に對する憂ひの思ひが感じられます。たゞ、その憂ひの中に、「神社に左派思想が入りこんでゐる」といふ指摘がありましたが、このやうな憶測は、神社として甚だ不本意であると言はざるを得ません。國事に殉ぜられた方々を奉齋し、祭祀の嚴修によつて、その「みたま」を奉慰顯彰する、といふ靖國神社の本旨は、悠久に不變であります」と。

 愚案、松平永芳大人の本懷は、蓋し「戰前派の人たちは、法制局がいぢくつた法案なんか、目を通しませんし、國家護持といへば、今のまゝの姿の靖國神社を國が守つてくれると、日本人らしい純粹な氣持で信じてゐる」當時の戰友會・遺族會等への、血涙を以てした諫言指導でありました。即ち「靖國神社の本姿を曲げての、所謂國家護持(即ち松平大人の云ふ「戰前と異質な、戰後の國家による國家護持」)はあり得」ないのであつて、松平大人も「國家的性格が不變である」靖國神社の國家護持を否定した訣では決して無い。件の靖國神社の公式見解の據て來る所の眞意は、現在に於ても、松平大人の識見のまゝであり、何ら搖ぐ所は無いのであつて、我々は只管ら靖國神社を信ずれば良い?のかも知れない。靖國神社の祀職、奉贊ないし崇敬會の長たる方々、更めて松平精神の明確な確認を、内外に發信喧傳して、我々を指導して戴きたいものであります。
 再び申し上げたい。「現憲法下、そして戰前の國家體制(國體・政體・習俗・思想・言論等)と全く異質の國家體制となつた、現國政下に於ては、傳統的靖國神社の姿に於ての國家護持など、絶對に成立せず、成立させるべきではない」(松平永芳大人『國家護持に對する宮司見解』)。こゝは隱忍自重、本來あるべき國家體制が確立するまで、戰後の所謂國家護持を容認することは出來ない。「靖國神社は、國家護持の精神のやどる所である。從つて若し此の崇高にして嚴烈なる本質を誤り、一時便宜の處置によつて、之を左右するとならば、それは國家の基礎を動搖せしむるものなる事を覺悟しなければならぬ」(平泉澄博士『靖國神社總説』)と。


◆◆◆ 靖國神社考26・彌生慰靈堂・東京都慰靈堂 投稿者:備中處士 投稿日:11月20日(月)18時01分40秒◆◆◆

 國家・國民のために命を捧げた人々に對する神社祭式での慰靈をやめて、無宗教の慰靈にしてしまつた先例として、殉職警察官の慰靈施設・彌生慰靈堂(★彌生「神社」→★彌生「廟」→★彌生「慰靈堂」)が現存する。下記をご覽ください。因循姑息、勇氣なき現代の政治家・官僚が、靖國神社を、どうしたいのか‥‥、こゝに於てか、明確に判るではないか。
http://www.kunaicho.go.jp/dounittei/photo1/photo-200408-92.html

●千駄木庵主人・四宮正貴氏『靖國神社と殉職警察官の慰靈施設「彌生慰靈堂」』(四宮政治文化研究所HP→コラム)に曰く、
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-shinomiya/ron/2006/ron061014.htm
 國のために命を捧げた人々に對して、神社祭式での慰靈をやめて、無宗教の慰靈施設となつてしまつた先例がある。それは、千代田區の北の丸公園にある皇宮警察・警視廳・東京消防廳などの殉職者慰靈施設・彌生慰靈堂である。
 この施設は、明治十八年に『彌生神社』として創建された。以來、毎年、神式による合祀・慰靈祭を行つてきた。終戰後、神道指令の影響で、名稱が『彌生廟』と改められ、奉贊會主催の慰靈祭といふ形に變化した。しかし戰前・戰後を通じて、神道祭式には變化はなかつた。昭和四十七年、聯合赤軍の淺間山莊事件で殉職した警察官の合祀祭も、神道祭式で行はれた。
 ところが、昭和五十八年、神道祭式から、いはゆる無宗教方式に變更された。この變更について、警視廳は、『法律を守る立場にある警察としては、政教問題が取り沙汰されてゐるときでもあり、どこからも文句のでない無宗教方式へ變更した』と説明した。小生も何囘か參拜してゐるが、本殿は神社形式の建物である。しかし鳥居などは取り外されてゐる。
 東京都慰靈堂は佛教施設であり、そこで行はれる春秋の慰靈大法要には、都廳・都議會の幹部が、公式に參列してゐる。殉職警察官を神道祭式で慰靈しても、何ら問題はない。殉職者への慰靈といふ、極めて重要な行事を、わが國傳統信仰たる神道祭式で行はないといふのは、敬神崇祖といふ、わが國の倫理精神の基本、そして日本傳統信仰たる神道祭式を、警視廳が否定したといふことである。
 小生は何度か、警察廳長官及び警視總監に對し、殉職警察官慰靈施設は、日本傳統信仰に基づく慰靈、すなはち神道祭祀に戻すべきであると要望してゐるが、いまだに實現してゐない。殉職警察官慰靈施設の無宗教化が、最近の警察官の道義精神希薄化・不祥事續發の原因の一つであると考へる。「無宗教」とは、靈魂の否定であり、道義の否定である」と。


◆◆◆ 靖國神社考27・國民總氏子 投稿者:備中處士 投稿日:11月21日(火)17時59分42秒◆◆◆

●松平永芳大人『日本の心、未だ失せず』に曰く、「
 明治の文豪夏目漱石は、「ケーベル先生」と題する短編(明治四十四年七月發表・全集所載)に、
 「文科大學(松平註・後の東京帝國大學文學部)へ行つて、此處で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の學生が九十人迄は、數ある日本の教授の名を口にする前に、先づフオン・ケーベルと答へるだらう。斯程に多くの學生から尊敬される先生は、日本の學生に對して終始かはらざる興味を抱いて、十八年の長い間、哲學の講義を續けてゐる。先生が疾くに索莫たる日本を去るべくして、未だに去らないのは、實に此の愛すべき學生あるが爲である。‥‥」と述べてゐる。
 このケーベル博士は、日本をこよなく愛したが故に、日本を理解することも深刻であり、
 「純粹の日本が消えてなくなる日は、もう遠くはあるまい。恐らくは片田舍の村々において鍬をとる農民、又、邊鄙な島々において網を打つ漁民、さういふ人々のゐる所には、未だ本當の日本といふものが殘つてゐよう。併し乍ら大抵の所では、殊に都會においては、俗惡な西洋の物質文明が、高貴なる日本の精神文化を、悉く打ちこはしてしまつた。純粹の日本が消えてなくなる日も、もう遠くはあるまい」と歎いたといふ。
 以上の樣は、今から、七・八十年前、明治の御代のことであるが、當時、既に日本古來の純粹さは、急速に失はれつゝあつたのであらう。ケーベル先生、今日のわが國を見、果たして何と評されることであらうか。
 しかし去る七月、私は靖國神社に職を奉ずるに及び、國籍不明の日本人が氾濫する中で、少數ではあるが、今日なほ傳統的日本人の眞心を堅持する同胞が、何組か存在することを知つて、言葉では盡せぬ喜びを感じてゐる。
 その一例は、「明治神宮・靖國神社獻饌講」の二千數百名に及ぶ講員各位の如きで、全く純粹無垢の心境を以て、聊かの自己宣傳臭も、利を求めようとする言動もなく、たゞ默々として兩社御祭神に對し、自らの汗の結晶たる新米を獻じ、又、餅つき奉仕を續けられること、三十有八年に及んでゐる。
 私は、戰時・戰後のわが國苦難の時代にも屈することのなかつた、この講の存在を、後の世に傳へたく、又、斯かる眞心が、嬉しくも今日のわが國に存在することを、同憂同學の諸彦へも傳へたく、以下「明治神宮・靖國神社獻饌講三十五年の歩み」(昭和五十一年十一月發行の講結成三十五年記念の記録册子所載)を、そのまゝ轉記紹介する。
 「昭和十六年十月、明治神宮外苑日本青年會館でおこなはれた、『全國烈士慰靈祭』に參列した、茨城縣那珂郡前渡村の黒澤忠次は、いたく肝に銘ずるところがあつて、何とかして、明治天皇の御神徳と護國の英靈に報謝の念を表はしたいと、地元の前渡・部田野・中根・柳澤の各部落の篤農家に呼びかけると共に、當時の陸軍次官柳川平助中將に相談を持ちかけたところ、同中將も直ちに贊意を表はされ、靖國神社との仲介をかつて出られ、昭和十六年十二月三十一日、茨城縣那珂郡前渡村村長磯崎忠五郎・代表黒澤忠次以下七名が、第一囘神饌(鏡餅・鯛・野菜)を靖國神社に奉納、昇殿參拜をし、同時に明治神宮に獻饌願書を提出したのにはじまり、以後、茨城縣獻饌會(會長・陸軍中將柳川平助)を組織し、兩社の獻饌を續けることとなつたが、大東亞戰爭が次第に不利となり、内地空襲が熾烈となつた昭和十九年頃も、艦載機による低空射撃下にあつて、身を挺しての獻饌は、一度も缺かす事はなかつた。
 しかしながら、昭和二十年八月、終戰に伴ふ大混亂の世情は、獻饌會の存續をも容易ならざるものにしたが、兩社の祭典用神饌米調達の窮状を知り、黒澤講元は深く意を決するところがあつて、同士相計つて、神饌米奉納を主目的にした『明治神宮・靖國神社獻饌講』として、發展的解消・再發足をみるに至り、今日に及んだのである。」


◆◆◆ 靖國神社考28・國民總氏子、續 投稿者:備中處士 投稿日:11月21日(火)18時01分53秒◆◆◆

〜承前〜

 右文中の發起人であり、現在の獻饌講講元の黒澤翁(當年八十七歳)とは、そも如何なる人物であるか、次に述べたいと思ふ。
 翁、名は忠次、明治二十五年一月を以て、茨城縣那珂郡前渡村(現・那珂湊市阿字ケ浦町)に誕生、湊商業學校を卒業後、農事に或いは漁業に從事し、現在は旅館の經營者であるが、この間、前渡村村議(三期)、同村翼贊壯年團長・司法保護委員・那珂湊市市議(三期)等の公職をも歴任、更に地元の觀光開發にも竝々ならぬ情熱を注ぎ、阿字ケ浦海水浴場の開設責任者でもある。翁が壯年の日、「全國烈士慰靈祭」に參列、いたく肝に銘じ、皇恩報謝と殉國者慰靈の必要を悟り、奮起一番、兩神社に神饌奉納を決意されたのは、水戸學發祥の地、常陸の風土にはぐくまれたことに由來なきことではないやうである。
 終戰直後、翁が從來の會を發展的に解消せしめ、改めて自ら獻饌講講元となつて、那珂湊・勝田・水戸・常陸太田・日立等五市の町々、大洗町・那珂町・小川町・東海村・常澄村(愚案、此の文は『日本』より引用。但し『靖國』には「清澄村」とあり。チヤンネル櫻・掲示板の「山桜」樣云、常澄村の誤記ならむ、と)・玉里村等の町村、これら廣域の有志の士を糾合して、明治・靖國の兩宮に奉仕の誠を捧げらるゝ樣は、まことに清々しく、美事であり、これに贊同同調された二千餘の講員の心情も、今の世には容易に見られぬ貴いものと言はなければならない。
 今日の混迷せる日本が、何とか支へられてゐるのは、保身や榮達を事とする政治家の力でも、事なかれを念願とする行政官達の力でもなく、實にケーベル博士の言ふ、日本の心を失つてゐない、前述、獻饌講講員の如き同胞の力である、との感を深めずにはをられない。
 なほ、喜ぶべきは、講元黒澤翁は、去る四十三年の明治の佳節に、地域社會の發展と福祉向上等の功績大なりとして、勳五等に敍せられ、瑞寶章を授けられたこと、更にこれを記念して、地元有志の發願により、阿字ケ浦海岸に、翁の銅像と顯影碑が建立されたことである。
 幸ひにして私は、昨秋、獻饌講地區代表者の阿字ケ浦に於ける會合に招かれて、謝意を表明する機會を與へられたが、その折に、翁の銅像を見た。驚いたことに、銅像は、公民館の前庭にも、又、町内の廣場にもなく、海邊の護岸堤外の岩場、少々天候が荒れゝば、太平洋の荒濤をまともにかぶるであらう岩場に位置してゐた。しかし私は、翁が狂瀾怒濤の戰後の苦難時代にも、毅然として、明治・靖國兩神社に奉仕し續けられたことを象徴してゐるかの如くで、却つて好ましく思ひ、又、翁の愛する阿字ケ浦海岸とその町竝みを見守らるゝが如くで、寧ろ像は、その所を得てゐるやうにさへ思はれた。私は、祖國を愛する心ある同胞と共に、現在の講員各位が、次の世代へ、次の世代も、亦た次々へと講を引き繼ぎ、末永く奉仕の誠を捧げ續けられんことを、たゞに兩神社の爲のみならず、わが傳統國家日本の爲に、祈念し續けたいと思つてゐる」と。

 愚案、松平永芳大人は、「靖國神社は、『國民總氏子』の神社である」べきと仰いました。現在の靖國神社を支へ奉つてをるのも、かやうな名も無いかも知れぬが、私心なき方々の御力と誠忠と謂ふべきでありませう。殊に「太平洋の荒濤をまともにかぶるであらう岩場に」屹立してゐる黒澤忠次翁の銅像に注目する邊り、流石は『武人・松平永芳』大人(棚橋信之氏「大山晉吾靖國神社廣報課長宛・質問状」)と、敬慕の想ひを新たにした次第であります。


◆◆◆ 靖國神社考29・靖國神社を利用する者ども 投稿者:備中處士 投稿日:11月22日(水)18時05分32秒◆◆◆

●松平永芳大人『讓ることのできない傳統の一脈』に曰く、「
 靖國神社に參拜する時は、今日の日本の平和と繁榮に對して、御靈方のおかげでありがたうございます、といふ感謝の祈りと同時に、平和であるけれども、萬が一の時には、皆さんと同じやうに國に一命を捧げますといふ誓ひをするべきだ、と私は思つてゐます。宮司時代の祝詞も、神社外で行ふ祭典で奏する祭文も、すべてそのやうな氣持ちで奏しました。一例をあげますと、毎年、私が祭主となつてやつてゐる、橋本景岳先生の墓前祭(愚案、景岳會主催の景岳祭)での祭文は、かうです。「謹みて景岳橋本左内先生の靈に告げ奉る」で始まり、日本の情勢はかうだと述べて、「以て祖國の精神復興‥‥に寄與挺身せむことを誓ひ奉る」とし、最後は「冀はくは先生、我等が志を壯なりとし、嚴烈なる批判を下し、以て道義を重んずる傳統國家復活への活動を守護したまはらむことを」と、結ぶやうにしてゐます。單なる苦しい時の神頼みではいけない。結びは自分の誓ひを述べ、それを見守り守護したまはんことを、と終るべきなんです。だから靖國御社頭での祈りとは誓ひだ、御靈と同じやうに、いざといふ時は、國に命を投げ出します、といふ誓ひのない祈りでは、御祭神の御滿足は得られないと、私は思つてゐます。
 ところが、御遺族を票田にしてゐる政治家諸氏の參拜は、必ずしも純粹であるとは思へないのです。私が宮司に就任したときの總理は福田さんで、それから中曾根さんまでの總理は、春秋の例大祭に必ず來られてゐたんですが、總理を辭めたら來られない。一度總理をした方で、その後參拜に來た方は、殆んどをられません。そこがをかしい。總理を辭めても、國會議員ではあるんだから、「みんなで靖國神社に參拜する國會議員の會」の先頭に立つて來られゝばいいんですが、「俺はもう元老で、雜魚どもとは一緒には行かない」とばかりに、來なくなる。だから參拜は、心からのものではなく、自分の點數稼ぎのため、御遺族を票田にしてゐるだけなんだ、と言はれても致し方ないでせう。
 もつと無禮なのは、代議士方の大半が參集所まで來て、參拜しないことです。どこゞゝの遺族會は何時に昇殿參拜をすると、前からの申込みで分かつてゐますから、その豫定を聞き出し、地元の代議士がやつて來るんです。北門を通つて遊就舘の前に車を置いて、參集所に集まつてゐる御遺族の前で一席ぶつて、さあ參拜となると、忙しいからと、そのまゝ歸つてしまふ。御遺族の先頭に立つて昇殿參拜をするのが原則だけれども、ご多忙の先生方だから、これはまあ許せますが、せめて參集所を出た時に五十メートルほど歩いて、御社頭でおじぎぐらゐしてから、車に乘つて歸つて頂きたいのですが、そんなことをされる先生なんて、殆んどゐない。御遺族を利用しようといふ方々ばかりなんです。親分が來ない時には祕書が來て、代理で挨拶して歸つてしまふ。戰前派だつて、そんな程度なんです。傳統國家護持のため、一命を捧げられた御祭神の御心を蹂躙して憚らない。そんな指導者・政治家たちを、十四年間見て來ました。悲しいことでありました」と。

 愚案、皆樣、おらが代議士は、本道に大丈夫ですか。之を讀んで、怒髮、天を衝きませぬか。洵に悲しまない方は、小生の論考を讀まれる必要は無い。もう、そろゝゝ氣づいてよい。現在の大政を與かる政治家共に、期待なんぞ、本當に出來るのですか。餘りにも悲しいではありませぬか。仁侠の徒でさへ、神樣を、それは大切に御祭りです。政治家共は、やくざにも劣る、人非人と謂ふべきでありませう。小生は、政治家の腹の中を、いつぺん見てみたい。驕る者、久しからずとは、驕れる者、如何で知るべき。
 見極めよ、民主政治家の本性を。我が國史を無視して、己の由つて來る所を忘れ、精神的放浪の旅、往いて歸る所を知らず、支那・朝鮮に非ずんば米歐、儒佛に非ずんば邪蘇を本として、我が國體を閑却し、大義に眛く、奸猾、利を求め、倨傲、利に驕る、これ何人であるか。滔々たる世の大勢に抗して正道を求め、眞の皇民として己の分を辨へ、一意至尊を奉戴して、其の鴻恩に報い奉り、英靈たる死友に背かざらむとする、果して何人であるか。
 又た石原藤夫博士は、ご自分のネット日誌に、「参拝する人たちにカメラを向けるマスコミ人の中で、自身も参拝した人って、どれだけいたのだろうか? 参拝しない人が、参拝する人にカメラを向けることの非礼に気づかないのだろうか? 私の感覚だと、靖国を参拝しない人が靖国を議論するのは、SFを読まない人がSFを議論するのと同じです」と、上品に御書きでありました。さう云へば、八月十五日の開門では、參道を一番に駈け拔ける、カメラマンの一團(ジーパン族)をテレビで見ました。呆然‥‥、耻を知れ!


◆◆◆ 靖國神社考30・我々に求められるもの 投稿者:備中處士 投稿日:11月22日(水)18時08分13秒◆◆◆

〜承前〜

 思出話で恐縮ですが、昭和天皇崩御の砌、小生は、知らず新幹線に飛び乘つてをりました。悲しみに包まれた皇居を奉拜、記帳テントを遠く離れ、獨り靜かに御別れを申し上げましたが、喪服の小生に、新聞記者がマイクを突きつけて來ましたが、ぎろつと睨み付けてやりました。かやうな秋に於いてさへ、カメラマンはジーパンに、こ汚い帽子をかぶつてをりました。とんぼ歸りの新幹線の中、悔し涙を流したことでした。マスコミの教育・禮儀は、何うなつてをるのでせうか‥‥。あれは人間ではありませんね、將に彼の政治家共と同類と謂ふべく、今後は禽獸と看做す事と致します。


●昭和天皇御製

「歌御會始・山色新」昭和三年
  山山の 色はあらたに みゆれども わがまつりごと いかにかあるらむ

「歌御會始・光」昭和三十五年
  さしのぼる 朝日の光 へだてなく 世を照らさむぞ わがねがひなる

「歌御會始・聲」昭和四十一年
  日日のこの わがゆく道を 正さむと かくれたる人の 聲をもとむる

●葦津珍彦翁『かくれたる民の心を』(新人物往來社『現代維新の原點』昭和五十一年七月刊に所收)に曰く、「
 陛下は「かくれたる民の心」をもとめられてゐる。國平らかに民安かれと祈られる陛下としては當然である。忠誠の民は、その赤心を、陛下に申し上げるがいい。しかし敗戰後の現在の陛下の御立場を深く考へれば、陛下には、すべての國民の意思を申し上げ、國民の意の存するところは御存知いたゞいても、現在の陛下の御仕事である御儀式のこと、御祭のことなどは別として、「國政上」のことで、國民の間の政治對決が、陛下の御立場に累を及ぼすことは、嚴として愼むべきであらう。陛下は、その御祭・御儀式において、國民の精神的指標をおしめしいたゞくだけでいい。
 政治的に對決は、國民の間で相討議し、必要とあれば相戰つても、勝つも敗れるも、おのれが責任として、いさぎよく進退せねばならない。陛下の御名を利用して、勝ちをもとめ、有利の戰ひをしようとする者は、假にその心事が忠誠であつても、累を天朝に及ぼすおそれがあり、愼まねばならない。陛下には、すべての民の心を知り、國情を知つていたゞいて、國論の大勢が決し、新しく國是が定められる最後の段階で、その最高の精神的權威づけをしていたゞき、國の基礎を固めていたゞくことが大切なのである。政治的に勝敗を爭ふ者は、天皇に決して御すがりしてはならない。しかしその戰ひの目標において、つねに「天皇の御存在」を、最高の基礎條件としての信をつらぬかねばならない。これが私の唯今の心境である。
 これは建武中興や明治維新の先例と、いさゝかニユアンスがちがふ。建武中興では、忠誠の士は、初めから勅旨をいたゞいて政敵を打つ行動に出た。だが明治維新では、かなり違つてゐた。しかし討幕派も佐幕派も、いづれも往々にして天朝の政治權威に御すがりして、戰ひを有利にしようと試みたあとも見える。
 だが明治の維新後は、大きく變つた。
 維新の徹底を追求して戰つた西郷南洲は、自らの忠誠の志は表明したが、決して陛下に御すがりして、有利の戰ひをしようとはしなかつた。帝國憲法ができてのち、政治對決において、陛下に御すがりしようとする者は、逆に君側の奸とされた。西南の役いらいの政治對決の新しいルールは、われゝゝの先人たちが、悲壯なる數萬の犠牲を積み重ねて、天朝の精神的權威の高さを、より明白に徹底させるために、生命をさゝげて築きあげて來た路線である。この公正堂々たる先人の路線を、私は決して後退させてはならないと信じてゐる。
 たゞ天皇の御存在そのものを根底から否定しようとする者に對しては、これはこゝで稱する政治對決ではなく、より深い精神對決である。天朝の敵・賊敵の名をもつて、討たねばならないこともあり得る。
 天皇陛下は、民安かれ國平らかなれと祈りつゝ、光榮ある日本國の傳統の恢弘のために、「かくれたる民の聲」をもとめられる。われゝゝはこの御心に應へて、あらゆる民の聲を上聞に達しよう。しかしそれは國民の間の見解のあらゆる對決を、陛下に御すがりして、自説にとつて有利に解決しようといふのではない。國民自らの力によつて解決の大道を開き、やがて陛下の御裁可を得て、天皇國日本の光榮恢復の道について、正々堂々と御裁可をあおぐのである。われゝゝは、日本民族の前途に、天皇精神の光榮が光りかがやくことを切望する。しかしそれは決して陛下に、政治的な累を及ぼすものであつてはならない。これが忠誠なる民の道であらうと、私は思つてゐる」と。


◆◆◆ 靖國神社考31・靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する神社なり 投稿者:備中處士 投稿日:11月22日(水)18時15分31秒◆◆◆

 劈頭に掲ぐる所の御沙汰書・宣命・御祭文に曰く、「
 賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起遊ば被れ度く、‥‥唱義精忠、天下に魁けして國事に斃れ候ふ諸子及び草莽有志の輩、寃枉、禍ひに羅る者、少なからず、此れ等の爲す所、親子の恩愛を捨て、世襲の祿を離れ、墳墓の地を去り、櫛風沐雨、四方に濳行し、專ら舊幕府の失職を憤怒し、死を以て哀訴、或は縉紳家を鼓舞し、或は諸侯門に説得し、出沒顯晦、萬苦を厭はず、竟ひに身を抛ち候ふ者、全く名義を明かにし、皇運を挽囘せんとの至情より盡力する所、其の志、實に嘉みす可し。尚ほ況や國家に大勳勞有る者、爭か湮滅に忍ぶ可けんやと、歎き思し食被れ候ふ。之に依りて其の志操を天下に表はし、其の忠魂を慰め被れ度く」、
 「天皇の大命に坐せ。‥‥戰場にして大き功しを立てし事を、萬代までに傳へ給はむとして、年毎の此の月の今日の祭を永き例しと、武官の人等に命せて、種種の物等を備へ奉り齋き祭らせ給ふ」、
 「内外の國の荒振る寇等を刑罰め、不服人を言向け和はし給ふ時に、汝命等の赤き直き誠心を以て、家を忘れ身を擲ちて、各もおのも死亡にし其の大き高き勳功しに依りてし、大皇國をば安國と知し食す事ぞと思ほし食すが故に、靖國神社と改め稱へ、別格官幣社と定め奉りて、御幣帛奉り齋ひ奉らせ給ひ、今より後、彌や遠永に怠る事無く祭り給はむとす。故れ是の状を告げ給はくと白し給ふ天皇の大命【聖旨=靖國神社に於て今なほ最も重んずる所の「明治天皇の聖旨」なり】を聞し食せ」と。

 「靖國神社は、額に矢じりは受けても、後ろには受けない草莽の兵士の勇武、皇軍兵士の武勳を祀つてゐる、天皇の軍隊の神社である。誰一人、後ろ傷を持つ兵士は祀られてゐない。賊軍の會津藩士も、天皇の軍隊でも無い自衞隊隊員は、祀ることが出來ない。靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する神社である。戰歿者合祀は、軍務として見なされた。いはゞ其の神職は、其の守衞は、從軍記章が授けられた從軍兵士であつた。松平・大野宮司がゐなくなつた今、靖國神社が、間違ひなく正統を受け繼いでゐるかどうか、明治天皇の『聖旨』を護つてゐるかどうか見守つて行く、もう一つの『靖國神社正統尊崇奉贊會』が必要である」等々とする、「一兵士」樣の、『皇軍兵士』としての觀點からする、瞠目すべき言説があります。靖國神社に對する認識が、更めて一新されることでありませう。小生の如き戰後に生れ育つた者にあつては、現今も多くを學ばせて戴きつゝあり、固唾を呑んで見守る覺悟であります。
 御縁あつて本論のご閲覽を賜つた御方に、辭別けて申し上げます。是非とも進んで熟讀されむことを、強く御願ひ申し上げます。松平精神を復興し、靖國神社の正統を受け繼ぐ爲に‥‥。

●チヤンネル櫻→掲示板→地獄の戰場→愛国主義者樣『保守派よ!總理大臣の靖國神社參拜を支援せよ!』十六頁〜三十五頁の
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=761&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=150
 其の續篇・一兵士樣『靖國神社の正統を次代者はどう受け繼ぐべきか』
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1164&forum=1&start=0
 此の六頁以降に、松平永芳大人の眞面目が紹介されてをります。同慶至極に存じます。


 又た同憂の士(茶畑元35樣HP『早稻田日記』)を見つけました。
http://blogsearch.plaza.rakuten.co.jp/search?fm=keyword_search_cc&qt=%BE%BE%CA%BF+url%3Ahttp%3A//plaza.rakuten.co.jp/goaheadgo


◆◆◆ 靖國神社考32・補遺/下篇 投稿者:備中處士 投稿日:11月23日(木)18時49分52秒◆◆◆

 靖國神社の御事を、おほけなくも述べさせて戴いてをるのに、基本的文獻たる『靖國神社事歴大要』・『靖國神社忠魂史』全五卷・『靖國神社百年史』全四卷は未だ見ず(靖國神社考5・6)、『靖國神社誌』をやうやく落掌したものゝ、心許ないこと千萬、恐懼すること甚だしいものがあります。博雅憂國の士のご示教ご叱正を、鶴首してお待ち申し上げます。
 以降の下篇は、主に「資料藏」とならざるを得ませんが、沈思默識、反覆熟考して戴ければ幸甚です。

 靖國神社考11の原文
●『靖國神社・社務日誌』昭和五十三年十月七日條(『靖國神社百年史』所收の由)に曰く、「
 來る十七日、新祭神合祀の儀、上奏。翌十八日、勅使御差遣申請のため、池田(良八)權宮司、宮内廳侍從職及び掌典職へ出向す」(例年の如く、新「合祀者名簿」を奉獻す)と。

 靖國神社考9の原文
●松平永芳大人『昭和五十三年十一月二十四日附・宮司通達』(『「靖國」奉仕十四年の無念』平成四年■月・靖國神社々務所刊に所收)に曰く、「
 安政の大獄をはじめ、幕末の内戰等による死亡者を、當社諸記録に於ては、「幕末殉難者」或は「維新殉難者」と呼稱してゐる實情に鑑み、爾後、大東亞戰爭終結後の所謂「戰犯刑死者・引責自決者」等を、「昭和殉難者」と呼稱し、要する場合は、「昭和殉難者(刑死)・同(未決獄死)・同(自決)」等の如く區分する」と。

●葦津珍彦翁『祈る心と怨む心と』(昭和三十六年一月筆、昭和六十一年十一月『神國の民の心』所收・島津書房刊)に曰く、「
 人生の一大事に對決したときに、人は神に祈らずにはをられない。これは人間の至情である。生死の關頭に立つて、生を祈り、勝敗の岐路に立つて、勝利を祈るのも、人間の心の自然である。けれども、神は、時として生を祈るものに死を、勝利を祈るものに敗北を與へたまふ。
 人間の心は生を欲し、勝利を欲する。それ故に、祈らずにをられない。だが、人間の心をもつて、神々の御こゝろを豫想し判斷することは許されない。
 神々は、高き深き御こゝろをもつて、生を通じてではなく、死を通じて人を救ひ、勝利に非ずして、敗北を通じて人を救ひたまふことがある。神々の用ゐたまふ手段は、限りなく多樣である、限りなく神祕である。われゝゝは、つねに神々の恩頼を祈つてやまない。神々は、つねにわれらを導き、われらに恩頼をたれさせたまふ。
 しかし、われらは、必ずしも事の成功を通じてではなく、失敗を通じて、神々の恩頼を感じ、勝利を通じてではなく、敗北を通じて、神々の恩頼をさとる場合がある。
 もし、この消息をさとらずして、神々を怨むものは、信仰なきものであり、神のこゝろの深くして遠きを知らざるものといはねばならない。成功するが可か、失敗するが可か、その最終最高の判斷の權威が、神に屬することを認めないで、おのれに屬すると信ずるもののみが、神々を怨む。かゝる人は、當初から神々に祈つたのではなくして、神に對しておのれの主張を要求し、命令したのにほかならない。形は頭を下げ儀禮をつくしてゐても、おのれの判斷を神の御こゝろに優先して實現することを要求したのであつて、内面的には神に命令したのである。その命令に、神が服しなかつたからとて、不滿を感じ怨みをいだくに至るのである。それは初めから祈つたのではなくして、要求し命令したのである。それは祈りといふものに形は似てゐても、その心は全く異なるものである。
 祈る心は、神々の御こゝろの高くして深いことを信ずることより發せねばならない。それは、神々の恩頼をもとめてやまない心である。生死の關頭に立つときに、人間が「生」を通じての恩頼をねがひ、成敗の岐路に立つときに、「成」を通じての恩頼をねがふのは、人間心理として自然であり、それは決してとがむべきことではない。
 しかし「生」を選ぶか、「死」を選ぶか、それは、究極的には神々の御こゝろによつて決せらるべきことであつて、人間が決定し、神々に強要すべきことではない。われゝゝは、終局的な意味においては、生死も勝敗も、すべてを神の御こゝろのまゝに隨順しつゝ、たゞひたすらに神々の恩頼を祈つてやまないものである。
 いつの世にも、悲しいこと、憤りを禁じえないことは少なくない。だが、それらの現象に心をうばはれて、神を否定することは許されない。
 「祈つても、聽かれなかつた」などと怨む人は、初めから祈る心をもつて神々に對したのではなくして、神々におのれの意志を強要し命令し實現しようとして、我意をつらぬきえなかつたといふにすぎないのではないか」と。


◆◆◆ 靖國神社考33・松平永芳大人『東京教育懇話會志』 投稿者:備中處士 投稿日:11月24日(金)18時17分13秒◆◆◆

 松平大人の發言として、内容は重複するが、東京教育懇話會と云ふ内輪の會合での講話二件(靖國神社考6)、斷簡遺墨と雖も、こゝにしか無い内容もある。東京教育懇話會は、日本の中正且つ健全な教育の振興に寄與することを目的として、昭和三十六年十一月に發足したるもの、架藏の村尾次郎博士『東京教育懇話會志・續輯』に據れば、宇野精一・山口康助・齋藤忠・白山桂三・早川敏一・福田恆存等の顔ぶれが揃ふを見る。
 前掲の茶畑元35樣『早稻田日記』(平成十八年九月七日條・松平永芳宮司の思ひ出〜その4)により拜見したが、此の『志』にも全文を發見することが出來た。茶畑元35樣は、或は之に據られたのかも知れない。本項は之に據り紹介したい。

●松平永芳大人『新春隨想』に曰く、「
 山口(康助)幹事の年頭挨拶の後、齋藤(忠)會員の音頭で乾杯。初春を壽ぐ。今年の新春隨想は、松平永芳會員。靖國神社の現状についてお話があつた。以下、要旨。
 私が宮司の辭令をうけたのは、昭和五十三年のことである。就任してすぐ定年制を布き、宮司の定年を七十歳と決めたから、餘すところ二年ばかりとなる。靖國神社は神社本廳に屬さない、一種の獨立王國のやうになつてゐるが、さういふ形態の中で、上の方がいつまでも頑張つてゐては下への勵みにならないと思ひ、定年制を採用した。これは他の神社にも、少なからぬ影響を及ぼした。靖國神社は戰死者の遺族によつて支へられてゐる部分が多いが、遺族の老齢化が拔き難い現實として存在する。現在、息子さんを亡くした親御さんに、八十歳以下の方は無くなつてゐるし、主人を失つた未亡人に、五十五歳以下の方はほとんど無い。遺族の老齢化が進むにしたがつて、祭神との絆が減り、支へは日一日と取拂はれてゆくといふ、難かしい情況にある。そこで私は就任した年に、はなはだ役所的な表現だが、「靖國神社整備十ケ年計劃」を立てた。大きな改築などを、この十年間に濟ませ、この間の整備で、百年の御安泰を確保したいと考へたからである。いろゝゝな方々の御盡力で順調に運んだが、現在着手しつゝある遊就館は、視聽覺機材などを活用した、教育の場にしてゆきたいと思つてゐる。といふのは、出撃直前に兩親に宛てた特攻隊員の遺書などを、長い時間ながめてゐる高校生の姿をよく見掛けることがあるからで、おそらく自分の年齢にひきあてゝみて、思ふところが多いのだらうと思ふ。かういふ彼等に、神社の由來・祭神の性格などをわかりやすく傳へ、世代交替に備へたいと思つてゐる。
 私は靖國神社を、國民總氏子の神社だと考へてゐる。氏神樣に對して、春秋なにがしかの奉贊をするやうに、國民が少額多數で支へる、それが本然の姿だと思つてゐる。したがつて靖國神社國家護持法案に、私は反對する。この法案に關しては、衆議院法制局が合憲といふ見解を示してゐるが、政教分離に抵觸しないやうに、神社祭式も祝詞も不可といふことになつてしまふものであり、私が戲れに[靖國神社空中分解法案]と呼ぶのは、それが本質をはなはだしく無視した法文であるからである。大體、一國の總理が胸を張つて參拜することの出來ない情況で、國家護持もなにもあつたものではない。かう言ふと、善意からこの法案制定を推進してゐる方々が、「宮司、けしからん」とおつしやるが、それは實際に、この法案に目を通したことが無いからである。國家護持法案が通れば、今のまゝの靖國神社が維持しやすくなるだらうと、戰前・戰中の常識的な考へをもとに判斷するのは、大きな間違ひである。この法案で運營されることになれば、靖國神社は、先づ神社でなくなつてしまひ、政府に牛耳られる結果、他のなんとか公園などと、選ぶところのない性格のものとなるのは確實である。
 私の思ふところ、絶對に崩してはならないポイントが、三つある。第一は、神靈をお慰めするには、我國傳統の神道祭式をもつてすることである。第二に、御本殿、境内のたゝずまひを變革しないこと。古くなつたからといつて、壯麗華美なものに變更することはナンセンスである。「靖國で會はう」と散つてゆかれた祭神は、現在のお社の姿を思ひ浮べてをられたわけである。したがつて戰前からの姿を推持することが必要である。第三に、明治天皇の命名し給うた社名を踏襲して改稱しないこと。以上である。祭式と神社のたゝずまひ、ならびに名稱に變更をきたすことは、本質を根底から覆す結果につながつてゆくからである。護持法案が適用されると、これらの條件はすべて吹つ飛んでしまふ。私の反對する所以である。


◆◆◆ 靖國神社考34・松平永芳大人『東京教育懇話會志』、續 投稿者:備中處士 投稿日:11月24日(金)18時26分5秒◆◆◆

〜承前〜

 生涯のうちで意義のあることをしたと、私の自負することができるのは、いはゆる「A級戰犯」を合祀したことである。就任三ケ月後、昭和五十三年、秋の例大祭のときのことであつた。「A級戰犯」の合祀については、議事録によれば、昭和四十五年に承認を得てゐる事柄であつた。ところが、時期をみはからつてといふことで、宮司一任のまゝ放置されてゐた。B級・C級戰犯は、既に昭和三十四年に合祀されてゐる。B級・C級がよくて、A級がいけないといふ根據は何か、大體、さういふランクを誰が決めたんだ、と考へてゆくと、結局、占領軍のやつたことだといふことになる。現行憲法の否定は、われゝゝの願ふところだが、その前には極東軍事裁判がある。この根源をたゝいてしまはうといふ意圖のもとに、「A級戰犯」十四柱を新たに祭神とした。そして「A級戰犯」の呼稱は、御靈を呼ぶにふさはしくないと考へ、「昭和殉難者」とお呼びすることにした。これは當社の諸記録に徴し、幕末殉難者・維新殉難者と呼稱してゐる實情に沿つたものであり、然るべき處置だと考へてゐる(出席會員二十八名)」と。


●松平永芳大人『靖國神社當面の諸問題』に曰く、「
 靖國神社が政治問題の渦中に卷き込まれることを避けること、このことは宮司の私が、常に心を碎いてきてゐるところである。二百四十六萬柱の神々を背に負ふ身としては、これは當然の心得であつて、マスコミに對してコメントしない理由は、ジャーナリストは言つた通りを傳へないといふ不信の念が根柢にあるのは勿論だが、それ以上に、私の發言が元になつて神社が騒々しくなつては、祭神に對して申譯が立たないといふ氣持がはたらくためである。したがつて昨年の大晦日に朝日新聞が、「A級戰犯合祀の意向、靖國神社宮司が示唆」の見出のもとに、あたかも私がインタビユーに應へたかのやうな記事を掲載したが、根も葉も無いつくりごとで、そのやうな事實は全く無い。年が改まつて正月六日の讀賈新聞朝刊は、「A級戰犯合祀取りやめ、自民、靖國に要請、神社側は拒否」といふ記事で一面を飾つたが、これも事實ではなく、靖國神社が自民黨とかゝる取引をしたことや相談に應じたことなど、一切無い。たゞし自主憲法期成同盟の清原事務局長が、自民黨の金丸幹事長の使者に立ち、A級戰犯を祭神から外すことはできないかと、權宮司の許に言つてきたことが一度あつた。勿論、そんなことはできないと答へた。神道の本來の考へ方からいへば、一度靖國神社に祀られた上は、御靈はそこに留りますのであり、たとへお移し申し上げても、それは分靈に過ぎないからである。この讀賈の記事は、卒讀すると、神社と自民黨に裏交渉があるやうな印象をあたへるが、事實無根といふほかはない。「火の無いところに煙は立たない」と俗にいふが、こと靖國神社に關する限り、火の無いところに煙の立つてゐるといふのが、現在の情況である。このやうにいはゆる「A級戰犯」の合祀についての論議はやかましいことだが、これは自民黨のトツプ筋が無分別なことを口にするために、世間一般が混亂してゐるに過ぎず、靖國神社は正式な手續にのつとつて、「A級戰犯」の合祀を行つたまでのことである。


◆◆◆ 靖國神社考35・松平永芳大人『東京教育懇話會志』、續々 投稿者:備中處士 投稿日:11月24日(金)18時27分35秒◆◆◆

〜承前〜

 講和條約發效後の昭和二十八年五月十八日から八月十日に亙る期間、第十六國會が開かれたが、この國會において、「東京裁判受刑者等に關する特別措置」が審議された。これはいはゆる「戰犯」(役所の呼稱では「法務死亡者」)も、戰沒者と全く同樣の取扱をするといふ議案の審議で、七月二十三日の衆議院厚生委員會で決議され、この決議に基いて、恩給受給資格を持ついはゆる「戰犯」に對しては恩給法により、それ以外の「戰犯」に對しては遺族等援護法によつて、それぞれの遺族に對し戰沒者遺族に對する場合と變らない待遇がはかられるやうになつた。この體制によつて、厚生省は戰後を開始したのだ、と言つてよいだらう。「法務關係遺族に對する戰傷病者戰沒者遺族等援護法および恩給法の適用について」といふ、昭和二十八年九月十五日付の京都府民生部から送られてきた通知が、資料として私の手許にある。その内容は要するに、昭和二十八年四月一日の時點に遡つて、「戰犯」の遺族にも恩給あるいは年金が下給できるはこびとなつたから、厚生大臣宛に遺族年金請求書をお出しなさい、といふ内容の通知で、同樣な公文は、各地方自治體から管内に居住する「戰犯」遺族の許に、それぞれ屆けられたに相違ない。この立法措置により、いはゆる「戰犯」は、戰沒者と同等の資格をもつに至つた。この立法と行政の措置に沿つて、靖國神社は對處してゐるに過ぎない。それにも拘らず、若年議員ならいざ知らず、自民黨のトツプ・レベルのお歴々が、靖國神社の獨斷的行爲であるかのやうな口吻を洩らすに至つては、言語道斷、一體、何を仰言つてゐるのか、もう少し勉強願ひたいと言ひたいところである。靖國神社の立場からすれは、昭和二十八年四月一日の時點を以て、「戰犯」として處刑された方々の御靈を合祀申上げなくてはならない責務を負ふに至つたのである。その際、「戰犯」に冠せられたA級・B級・C級といふ形容は、總て聯合國側が向ふで勝手にランキングしたものに過ぎず、當方には、何等かゝはりのない事柄に屬する。
 靖國神社は、然るべき法的根據によつて、昭和殉難者を合祀申上げた。こゝに昭和殉難者と呼稱するのは、新聞ジヤーナリズムが「A級戰犯」と呼び、公文書では法務死と呼ばれる、東京裁判で亡くなられた方々のことである。「戰犯」などといふ心ない言葉を、神社は到底許容することができないし、法務死といふ言葉も、官廳間の用語としてはそれでよいだらうが、當方で使ふにはどうも落着きが惡い。そこで色々思案した擧句、明治維新の際、國に殉ぜられた方々を幕末殉難者・維新殉難者と呼稱してゐる當社記録に徴し、昭和殉難者とお呼びする旨、昭和五十三年十一月二十三日の宮司通達で社内に徹底させた。この昭和殉難者十四柱の御靈を含めて、計百七十六柱を合祀申上げたのは、昭和五十三年、秋の例大祭の時であつた。昭和二十八年四月から、然るべくお祀り申上ぐべき方々を、この時點まで放置してゐた理由は、當初は「東條さんの名前は、國民感情に相當刺戟が強いだらう」といふ、靖國神社と厚生省の配慮に基いたもので、それで合祀が暫く見送られてゐた。私が宮司に就任したのは、昭和五十三年七月のことだが、その八年ほど前の昭和四十五年六月三十日に、靖國神社の總代會で、ある方が、東條さん以下の方々の御靈をいつまで放つておくんだと發言し、それに對して、當時は靖國神社國家護持運動の盛んな時であつて、時期が適當ではないから、然るべき時期を見計らつて合祀する旨、前任の筑波宮司が、總代會に囘答をしてゐる。はからずも宮司を拜命することになつて、私は過去の神社記録、總てに目を通した。この議事録を見るに及んで、宮司預けになつてゐる事柄だし、國家護持法案も流れて、機を見る必要は何も無いから、就任早々三ケ月、秋の例大祭で昭和殉難者の合祀を、總代會の了承を得て斷行した。就任早々で、いさゝか荷が重かつたが、その時の氣持は、今やつてしまはないと、二・三年經つて合祀申上げたときに、お前は就任以來、その間をどういふつもりで運營してゐたんだ、と問はれたときに、答に窮するであらうと思つたからにほかならない。新聞は半年後の春の例大祭にこのことを知り、クリスチヤンの大平首相の參拜と絡めて、「A級戰犯をひそかに祀つてゐた」と報じたが、戰前であれば官報によつて合祀の神々を報じたわけだが、戰後にはさういふ手段は無い。合祀後、遺族に通知を差上げることで、御了承いたゞいてゐるのが現状であり、ひそかにどうかうといふ性質のものではない。


◆◆◆ 靖國神社考36・一視同仁の御傳統 投稿者:備中處士 投稿日:11月25日(土)17時08分52秒◆◆◆

〜承前〜

 それにつけても、講和條約發效と同時に、すぐかのやうに事務的な處置を敏速に行ふことのできた當時の國會や保守黨には、確固たる見識が備はつてゐたんだなと、賞讚したい氣持が湧く。今日の國會、自民黨の現状と見較べてみるとき、今昔の感に堪へない(出席會員二十八名・客人二名)」と。


●松平永芳大人『讓ることのできない傳統の一脈』に曰く、「
 私は生き殘り軍人で、同期生の半分は戰死してゐます。正規の軍人として生き殘つた以上、一切の位階・勳等などは頂かない、これが昭和二十年八月十五日以降の私の考へです。色氣でもあつて勳章でも頂きたいと思つたら、權力の壓力に抗することなんて、できなくなつてしまひます」(靖國神社考10に補ふべくして洩らした嚴訓。松平永芳大人こそは、眞に忠義、骨髓に填むる底の武人でありました)と。

 亦た前掲(靖國神社考29)に引き續いて曰く、「
 さういふ政界の實態を見てきましたから、私の在任中は、天皇陛下の御親拜は、強ひてお願ひしないと決めてゐました。天皇さまに公私はない。天皇陛下に私的參拜も公的參拜もない、陛下は思召しで御參拜になられたんだ、と言へば、それで濟むんですが、總理も宮内廰長官も侍從長も、毅然とした態度で、天皇陛下に公私はないんだといふ、それだけのことをキツパリと言ひ切るとは思へない。そこでモタヽヽして變なことを言はれたら、かえつて後々の害となる。變な例を作つてしまふと、先例重視の官僚によつて、御親拜ができなくなつてしまふ恐れがある。それで私が宮司の間は、絶對にお願ひしないことにしてきました。
 その代はり、春秋の例大祭には、キチンと勅使の御差遣を戴いてきてゐます。それに御直宮の高松宮・三笠宮を始め、お若い皇族樣方に、極力御參拜に來ていたゞくやうお願ひしまして、よくお務め下さつてをります。御參拜の時、皇族方はモーニング・ロングドレスで來られるんですが、高松宮殿下だけは、いつも背廣で來られてゐました。それは高松宮殿下には、一つの御意見がおありで、「靖國神社はモーニングで威儀を正していかなければ行けない、堅苦しい神社ではなく、誰でも、たとへボロを纏つてゐても、本當に心のある人が來るべき神社なんだ。近くを通り掛かつて、今日はちよつと服裝があれだから遠慮するといふことではなくて、心があれば行くところなんだ」といふことなんです。御祭神への對し方は心で、といふことの御教示なんです。
 殿下方は御參拜いたゞく時、以前は御參拜の後、遠くの囘廊から遺族に向かつて、御手をお振りになるだけでした。それではと思つて、私が宮司になりましてからは、拜殿にできるだけ多くの御遺族に竝んでいたゞいて、御參拜のあと、拜殿までお下がりいたゞいて、遺族に聲をかけていたゞくといふことに致しました。さうしましたら、高松宮殿下と御一緒にお參りのことが多かつた三笠宮寛仁殿下が、「高松さんや三笠さんは軍人さんだつたから、いろんなことをおつしやれるだらうけれど、ぼくたちは戰後生まれだから、遺族とどんな話をしてよいのか分からない」とおつしやる。ですから「戰爭の話なんか、遺族になさる必要は少しもございません。どこから來たのかとか、おばあさんに幾つになつたのか、いつまでも元氣にしなさいとか、それだけおつしやればいいんです。戰爭を知らない世代だから、何をいつてよいか分からないと、難しくお考へになる必要はありません。遺族は、お若い殿下方がいらつしやつて、直接お言葉をかけられるのを喜ばれるんです」と申し上げたのを覺えてゐます。それで何度も御參拜に來られて、だんゞゝ馴れていらつしやつた。殿下は御專門が福祉で、老人や身障者のことについて馴れていらつしやるから、「遠くからよく來たね」、「靖國神社に、また來年も來ることができるやう、今から一所懸命歩かなきや駄目だよ」などとお聲をかけられて、高齢の御遺族と自然體でお接觸なされて、御遺族も殿下とお話しができたといふことで、それはもう喜んでをります。


◆◆◆ 靖國神社考37・一視同仁の御傳統、續 投稿者:備中處士 投稿日:11月25日(土)17時11分32秒◆◆◆

〜承前〜

 私が退任する直前、最後に宮司名前入りで論説を書くぞ、といつて、社報『靖國』平成四年二月一日號に、「謹愼謙虚」といふ題で、岩倉具視公のことを書いたんです。そこに明治神宮聖徳記念繪畫舘にある『岩倉邸行幸』の繪を掲載しました。岩倉公が亡くなる少し前に、明治天皇が岩倉邸に見舞ひの行幸をなさつた。この繪の中で、もう自分では起き上がれず、令息夫人に背中を支へられて身を起こしてゐる岩倉公に對して、天皇さまは、軍服姿で直立不動の姿勢でおられる。これが王者の見舞ひです。王者には王者の見舞ひの態度があるんです。こゝで天皇さまが腰を屈めたり、疊にひざをつけたりしてしまはれたら、王者としての繪にならない。社報にはそんな説明はしてゐないですが、さういふ意味をこめて、岩倉公のことを書きました。皇室のお立場では、開かれるべきといつても、限度があり、國民と同じ床でお振る舞ひをなされゝば良いといふものではないんです。
 先帝陛下は、人からどう思はれるかなど、全然意に介されませんでした。ネクタイが少々曲がつてゐようと、お帽子が歪んでゐようと、全然意に介されないで、一切、御私心といふものをお持ちにならず、常に大きな御慈悲を吐露されつゝ、國民は言ふに及ばず、他國の人々にも懇ろに接せられました。そのお姿に國民は、先帝陛下の一視同仁の片寄らざる御情愛を感じてきたわけです。
 戰後、神奈川縣を始めとして、全國御巡幸をなされた時のことです。ある工場をお視察の折、整列工員の先頭に居た工場長か組合長かが、突然、陛下の方に手を差し延べて、握手を求めました。囘りの人が一瞬息を呑んだその時、陛下は何の御躊躇もなく、「日本流でゆきませう」と仰せられ、帽子を差し掲げられ、堵列する工員たち一同に、御會釋を賜つたのです。一人に對する握手は、たとへその人が代表者であつたとしても、皆に通じることにはならないので、一樣に御會釋を賜る途をおとりになつたと拜察されます。それにしましても、突然のおもひがけぬ折、瞬時にしても、最も適切に對處されましたことは、先帝陛下が常日ごろから一視同仁といふことを、よくゝゝ御心掛けの結果であると思ひます。このことを私は、當日宮内大臣として御側に隨從してゐた亡父(松平慶民)から聞き知りまして、感銘のあまり、今も忘れられないでゐます。やはり皇室は、さうでなければいけないのです。
 平成の御大典の後、兩陛下は、日本大學に行幸啓になりました。如何なる特殊事情があつてのことか知りませんが、日本大學創立百周年記念式典とのことですが、今後百周年を迎へる大學は、日本大學だけではありません。もし他の大學が同じく百周年といふことで、行幸啓をお願ひしてきたら、どうなされるのか。日大においでになつてしまつたら、もう今度はあそこには行かない、こゝには行くといはれるわけにはいかなくなる。同じ百周年でも、皇室に縁のある學校、例へば學習院なら、これは皇族方を御教育するために創つた學校ですから、行幸になつても、理路整然たる説明がつく。ところが今囘は、その時ちようどお暇だつたからいらつしやつたやうに受け止められかねない。そんな輕率なことで、天皇さまが動かれるやうになつてしまはれたら、それは必ず公平とか一視同仁といふ點で、問題になつてくるでせう。
 灣岸危機の時も、關係者が歸國すると、天皇さまは「御苦勞だつた」とねぎらはれた。ところがペルシヤ灣で大變な苦勞をして、實に見事な成果をあげ、國際的にも大變評價された海上自衞隊の掃海部隊關係者には、何の御沙汰もありませんでした。灣岸派遣の論議は、政治家の間で論議した政治問題であつて、天皇さまとされては、國を護る一つの組織として、國會できちんと豫算をつけて認めてゐる自衞隊が、立派な成果を擧げてきたら、歴代天皇の一視同仁の御精神をもつて、「御苦勞だつた」とねぎらひの御言葉の傳達があつて然るべしと、私は思ひます。自衞隊員も日本國民、島原市民も日本國民、いづれに御聲をおかけになつても、それは政治に關與せられた事にはならないことです。今後、内閣・宮中側近の配慮すべき所でせう」と。

 愚案、靖國神社へ、正々堂々、敢然として神道上の正式參拜できる内閣總理大臣にして、初めて誠忠無比の宮内廳長官を任命することが可能となり、我々は天眞を仰ぎ奉る道福を感佩できるのであらう。小生は、松平永芳大人の玉文に、微諫の遺意を藏するのを見て、たゞ恐懼謹愼するのである。


◆◆◆ 靖國神社考38・藩屏なき皇室の御苦難 投稿者:備中處士 投稿日:11月25日(土)17時13分21秒◆◆◆

〜承前〜

 更に曰く、「
 今、宮中の側近は、侍從から宮内廳管理職まで、殆んど出向官僚でせう。二年ぐらゐで、どんゞゝ變はつていく。二年以上ゐると、出向先の同僚に遲れを取つてしまふから、二年以上はゐたくないと思つてゐるやうなのです。だから二年の間、事勿れ主義で御奉仕して、箔づけをして歸つて行く。
 ですから、戰後もつとも厭な時代に、宮内大臣を仰せつかつた私の父みたいに、殿下方に御進言申し上げるやうなことをしない。昔は、國民と同じやうに振る舞はれる皇族さま方を平民的であると申し上げ、今は民主的だといふことなのでせうが、昔は、あの皇族さんは平民的であると言つて、チヤホヤしてお氣にいりになつて、皇族を御利用しようとする人達が多かつた。それを私の父は、國民と同じやうに振る舞はれたいといふのは、御私心である。御私心があつてなされることは、どんなことをなされても、絶對に駄目ですと、御進言申し上げてをりました。ですから、みんな困つたことがあると、父に御進言していたゞけないかと頼みに來る。
 全員がさうである必要はないんですけれども、側近の何人かは、皇室と何百年も盛衰を共にした公家の末裔とか、舊華族とかである必要があると思ひます。たとへが惡くて恐縮ですが、皇室を卵にたとへると、卵の黄身が壞れずにきちんとしてゐるのは、白身があるからです。ところが終戰後、皇族とか舊華族を、みんな排除してしまつたでせう。だから白身が無くなつてしまつて、黄身と殻だけになつた。これでは、皇室の御本質・御生活を本當に理解し、御相談に乘つて差し上げ、時には御進言申し上げる人もゐないし、皇室は成り立たないやうに思ひます。何も華族制度を殘せといふことではなく、その制度の中で育つたやうな人で立派な人を、要所々々に存續させるべきでありました。
 先帝陛下の御大葬の日は、小雨が降りしきり、凍て付くやうな寒さでした。その雨の中を、警官はずつと立ち盡くして警備をし、國民も沿道でお見送りをしました。そこで陛下は、「この寒い中、國民はお見送りしてくれて有り難う。また警官その他の關係者は、長いこと御苦勞であつた」と、思召しをお傳へになりたい。よつて宮内廳長官は、總理にその思召しを傳へる。それを受けて總理は、テレビを通じて、すぐに宮中に參上して、かういふお言葉を賜つたと、國民竝びに警備に當たつた關係者に對して、思召しの程を傳へるべきなのですが、結果は官房長官の記者會見で、一寸この思召しのことに觸れたゞけで終つてしまつたのです。陛下の思召しが、官僚組織のために、スンナリと國民に傳はらないことは、宮内廳を全く一般官廳と同一に考へてゐる結果で、將來の一大檢討事項と思ひます」と。


◆◆◆ 靖國神社考39・昭和殉難者合祀の來歴 投稿者:備中處士 投稿日:11月26日(日)16時32分7秒◆◆◆

●所功博士『「靖國祭神」の要件と合祀の來歴』(藝林會『藝林』平成十八年十月・第五十五卷第二號)に曰く、「
 いはゆるA級の方々については、長い年月を要した。そのいきさつを、神社から提供された記録などにより、少し詳しくみておかう。まづ昭和四十一年二月八日、厚生省援護局調査課長から、靖國神社調査部長あて「靖國神社未合祀の戰爭裁判關係死沒者に關する祭神名票の送付について」と題する文書が送られた。その内譯は、「東京裁判關係(A級)死沒者・十二柱」(刑死七柱・獄死五柱)を筆頭に、軍人・軍屬(B・C級)内地刑死者が五十三柱、同内地獄死者が二十九柱(講和發效前十三柱と發效後十六柱)、非軍人・軍屬の外地死沒者五十五柱(刑死・病死四十三柱と未決死沒十二柱)など、合計二百五柱である。
 そこで、神社としては、いはゆるA級の方々も、B・C級と同樣に合祀すべきところ、この前後から「靖國神社國家護持法案」の實現に向けて、日本遺族會や國會議員有志などの動きが活發になり、おそらく世論(國民感情)に配慮して、A級のみ先送りせざるをえないことになつたのであらう。
 たとへば、靖國神社創立百周年の昭和四十四年、やうやく六月に國會へ上程された同法案が、八月に一旦廢案となつたことをふまへて、九月の崇敬會總代會(十名)では、「未合祀の東京裁判受刑者十二名(刑死七名・獄死五名)、内地未決中、死亡者十名(病死六名・自決四名)の取扱につき諮り、將來は合祀すべきものと考へてゐるが、現段階に於いては、暫く其の儘として、‥‥差支へない」といふことで、「全員の意見一致」をみてゐる。
 ついで、翌四十五年六月の總代會でも、ある總代から、「A級だけ合祀しないことは、極東裁判を認めたことに‥‥なると思ふ」と、合祀促進の意見があり、別の總代から、「宮司が決定すべきでないのか」との意見が出された。それに對して、宮司(代表役員)の筑波藤麿氏が、「時期は愼重に考慮し、(總代會の)御方針に從ひ、合祀することとする」と返答してゐる。そして同四十九年に、五度目の靖國法案が廢案となつた後も、先送りされ、結局、同五十三年三月に、同宮司が病沒するまで(總代會の方針内定から九年間)、實行されなかつたことになる(注十九)。
 このやうな延引措置は、「靖國祭神」合祀の基本的・慣例的な在り方と、著しく異なる。合祀對象の祭神選考(要件確認)は、戰後も一貫して國家(厚生省)が、都道府縣の協力により行つてきたのである。そしてその公的な「祭神名票」(昭和四十六年からは、神社からの照會依頼に對する囘答資料)を送付された靖國神社では、私的な判斷をすることなく、それに基づいて速やかに合祀するのが當然(だから勝手に分祀するやうなことも不可能)とされてきたのである。
 そこで、同五十三年七月、第六代宮司として就任した松平永芳氏は、從來のいきさつを調べて、關係者に手順を確かめ、十月六日の崇敬者總代會で、「A級戰犯十四名の合祀については、昭和四十五年六月三十日の總代會で、時期を見て合祀する旨、決定されて居り、今囘これを合祀することとした」と報告し、總代全員の諒解をえた。ついで、早速、翌七日には、「來る十七日、新祭神合祀の儀、上奏。翌十八日、勅使御差遣申請のため、池田權宮司、宮内廳侍從職及び掌典職へ出向す」と、『社務日誌』にみえるとほり、例年のごとく、新しい「合祀者名簿」を、宮内廳の侍從職と掌典職へ持參してゐる(注二十)。
 その上で、十七日夜、「支那事變・大東亞戰爭、合計千七百六十六柱」の中に、A級の十四名を含めて、その靈璽簿が奉安され、やうやく合祀されたのである。そして翌十七日の「秋季例大祭當日祭」終了後、松平宮司が挨拶の中で、「昨夜、靈璽奉安祭、即ち未合祀の神靈を合祀申し上げる祭典が執り行はれ、‥‥その中の十四柱の神靈は、白菊會(A・B・C級殉難者遺族會)關係の方々」である旨を説明してゐる(松平永芳大人『「靖國」奉仕十四年の無念』平成四年■月・靖國神社々務所刊に所收の付載資料「昭和五十三年十月十八日・秋季例大祭當日祭に於ける宮司挨拶」)。‥‥


◆◆◆ 靖國神社考40・昭和殉難者合祀の來歴、續 投稿者:備中處士 投稿日:11月26日(日)16時34分0秒◆◆◆

〜承前〜

(注十九) この筑波藤麿氏は、‥‥東大文學部の國史學科を卒業して、同期の坂本太郎博士等と「六國史索引」等の作成も手がけ、昭和二十一年から三十二年餘り、靖國神社の第五代宮司を務めた。その間の數多い事績で、大變ユニークなものが二つある。
 一つは、創立九十周年の同三十四年十月、從來「臣下」の「軍人・軍屬」を、全員「靖國大神」一座に祀つてきた靖國神社で、それ以外に、「北白川宮能久親王」(明治二十八年、臺灣に近衞師團長として出征中、薨去)と、その直孫「永久王」(昭和十五年、駐蒙古軍參謀として出征中、薨去)の、「皇族御二方」を、「新たなる御靈代(神鏡)に招魂申し上げ、内々陣左側に一座を設け」、合祀したことである。
 もう一つは、同四十年七月、本殿に向つて左奧の「元宮」脇に、「鎮霊社」を建立し、「嘉永六年以降、幾多の戰爭・事變に起因して、非命に斃れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命斷ちにし命等にして、靖國神社に祀られざる諸命の御靈」一座と、「西暦一八五三年以降、幾多の戰爭・事變に關係ひて、死歿にし諸外國人の御靈」一座とを併せ祀つてゐる(共に無名不特定の集合靈であつて、本殿の「靖國大神」とは、全く異なる)。

(注二十) 徳川義寛氏口述『侍從長の遺言・昭和天皇との五十年』(平成九年[二月]・朝日新聞社刊)によれば、「靖國神社の合祀者名簿は、いつもは十月に神社が出して來たものを、陛下のお手元に上げることになつてゐたんですが、昭和五十三年は、遲れて十一月に出して來た」とある。しかし、これは完全な記憶違ひか、思ひ込みであつて、十月七日に、池田權宮司が、宮内廳侍從職と掌典職を訪ね、「合祀者名簿」を持參してゐることは、文中に引いた『社務日誌』に明らかである。
 なほ、聞き手の岩井克己記者が加へた解説の末尾に、「天皇は、昭和五十年十一月二十一日を最後に、靖國神社には參拜してをらず、春秋の例大祭には、他の皇族が出席してゐる。天皇が『今後、參拜せず』の意向を示したのは、A級戰犯合祀が報道され、内外の批判が出る前からだつた、と證言する元宮内廳幹部もゐる」とみえる。これは、「富田メモ」の信憑性を檢討するにも、重要な『證言』であらう。私も、昭和天皇は、『終戰三十年』(昭和五十年)を區切りとして(その親拜が、國會で公式か私的か論議されたことも配慮され)、『今後、參拜せず』と考へてをられたものと拜察する」と。


●『例大祭・御祭文』(『靖國神社誌』より。明治十三年以降の御文例、凡そ此の例なり)
 天皇の大命に坐せ。掛け卷くも恐き靖國神社の大前に、「四等掌典・正七位・小西有勳」を使ひと爲て、白し給はくと白さく、新しき代の初めより、處々の役に、大勳功を立て給ひ、又た夙くより大御代の爲め國の爲め、身を效し力を竭すと爲て、身亡せ給ひし人々の事等、恆にめぐくうむがしく思ほし食すが故に、年毎の今日の祭に、御幣帛奉り齋き祭らせ給ふ、此の状を聞し食して、天皇の大御代を動く事無くさやぐ事無く、彌益々に常石に堅石に守り幸へ給へと白し給ふ、天皇の大命を聞し食せと、恐み恐みも白す。


◆◆◆ 靖國神社考41・靖國神社の祝詞 投稿者:備中處士 投稿日:11月26日(日)16時37分40秒◆◆◆

●松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか・靖國奉仕十四年の無念』に曰く、「
 宮司になつて考へましたのは、何か決斷を要する場合、御祭神の意に添ふか添はないか、ご遺族のお心に適ふか適はないか、それを第一にして行かうと云ふことです。靖國神社がよその御社と異なるところは、『古事記』や『日本書紀』に出てくる「何々の命」と云つた、古くからの神樣をお祀りしてゐるんぢや無い。自分の父親や兄弟が祀られてゐる、我が子・我が夫が祀られてゐる、さういふ神社だと云ふことです。今でもしばゝゞ見かけますけれど、昇殿ご參拜なさつた方が、目頭にハンカチをあて、涙を拭はれる。伊勢神宮や明治神宮、これらは日本國民にとつて最も大切なお宮ですが、お參りして涙を拭ふといふ光景は、まづ無いでせう。ところが靖國神社は、ご自身のご縁のあつた御靈がおいでになる。そこで語らひをされ、涙を流される。それが特色だと思うんです。‥‥一等の間題は、ご遺族と相接するとき、どうしたら一番お氣持にお添ひできるか、と云ふことでした。
 例へば祝詞は、大きな聲で奏上するやうに致しました。一つは、靖國神社では二百四十六萬餘の大勢の神々に聽いて戴かなければいけない。と同時に、うしろに何百人かのご遺族・戰友が控へてをられる。その方々は、宮司が、自分たちの身内なり戰友だつた神々に、どう云ふことを奏上してゐるのか、お聽きにならなければいけない。そんな氣がしましたものですから、出來るだけ大きな音聲で、區切りを付けて奏上しました。‥‥在任中、祝詞奏上のとき、聲がかすれたり咳をしないやうに、特に風邪には氣をつけました」と。

●靖國神社『昭和四十三年十月十八日・秋季例大祭當日祭』祝詞(梅田義彦博士『祝詞範例全書』昭和四十五年一月・堀書店刊)
 此れの所の底津岩根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、稱へ辭と竟へ奉る、掛けまくも畏き靖國神社の大前に、「宮司・從三位勳一等・筑波ノ藤麿」、恐み恐みも白さく、
 恆の例しのまにゝゝ、十月十あまり八日に仕へ奉る秋の大祭りに、言は卷くも綾に畏き
天皇命の大御心以ちて、掌典「矢尾板ノ敦」を勅使(みつかひ)として、宇豆の大幣帛を奉らしめ給ふ事を、嬉しみ奉り辱み奉りて、今日の朝日の豐榮登りに齋まはり清まはりて捧げ奉る、御衣(みそ)は和妙・荒妙、御酒は□(瓦に長、みか)の八腹に滿て湛へ、御食は和稻・荒稻の飯ひに仕へ奉り、山野の物は毛の和物・毛の荒物・甘菜・辛菜、海川の物は鰭の廣物・鰭の狹物・奧津藻菜・邊津藻菜、種々の物に、御縁り深き人々より獻奉れる味(ため)つ物をも、机代に置き足らはして、神靈(みこゝろ)慰みの樂典(ねいろ)を奏で奉り、崇敬者總代「○○○○」を始めて、御遺族・崇敬者等(ら)、廣前も狹らに參ゐ集ひ、菅の根の懇ろに拜み偲び奉る状を、御心も平穩ひに聞し食し諾ひ給ひて、今も往く先も御國の鎭めと永遠へに鎭り坐して、
天皇命の大御代を、常磐に堅磐に齋ひ奉り、嚴(いか)し御代の足し御代と幸へ奉り給ひ、御縁り深き御遺族を始めて、天の下の國民(おほみたから)に至るまでに守り導き給ひ、四方の海は風立たず、浦安の國と成し幸へ給へと、恐み恐みも稱へ辭と竟へ奉らくと白す。
 辭と別きて今度び新たに合せ祀り齋ひ鎭め奉りし、「○○○○」の神靈等(みたまたち)の御前に白さく、
 今し告げ奉れる事の由をも、捧げ奉れる御食津物をも、平けく安けく相ひ嘗へに聞し食し諾ひ給ひて、天地の極み、月日と共に、常磐に堅磐に鎭り坐して、國内(くぬち)平穩ひに浦安の國と守り幸へ給へと、恐み恐みも白す。

●靖國神社『みたま祭』祝詞(神社新報社編『最新祝詞例文集』下卷・昭和三十七年六月刊)
 此れの所の底津岩根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、稱へ辭と竟へ奉る、掛けまくも畏き靖國神社の大前に、「宮司・從三位勳三等・筑波ノ藤麿」、恐み恐みも白さく、
 年毎の例しの隨(まにま)に、みたま祭仕へ奉らむとして、今日の夕日の降(くだち)の清祓に、神職を始め、此の御祭に、預り仕へ奉らむ諸人等を祓ひ清め、今日より四日の間(ほど)、御垣邊には、花火打揚げ御燈懸け列ね、種々の演藝(わざをぎ)を行ひ、御前には數々の花を活け生やし、裝ひも美しく飾り立て、今宵はしも神靈(みたま)和めの御神樂を始めて、調べ床しき雅樂の舞歌仕へ奉りつゝ、崇敬者總代「池田清」始め、縁故(ゆか)り深き人々、齋庭も狹らに參ゐ集ひ、菅の根の懇ろに、前夜の御祭仕へ奉る状を、あな宇牟賀しと見行(みそな)はし給ひて、御祭事、落つる事なく、美はしく仕へ奉らしめ給へと、御食・御酒・海川・山野の味つ物を獻り、恐み恐みも稱へ辭と竟へ奉らくと白す。


◆◆◆ 靖國神社考42・靖國大神の願ひ 投稿者:備中處士 投稿日:11月27日(月)18時07分52秒◆◆◆

●大野俊康・元宮司『後に續くを信ず・戰歿學徒が殉じた「神國日本」』に曰く、「
 私の初搭乘から單獨飛行まで、手取り足取り指導してくれた助教の神田富太郎軍曹は、昭和二十年四月八日、第八十一振武隊員として、熊谷飛行學校から知覽基地へと向かはれましたが、最後の見送りの時、私の手をしつかり握つて、「大野、あとは頼むぞ」と言つた軍曹の、その聲・手の温もり、そしてその笑顔は、未だに忘れることはできません。‥‥
 (「あとは頼む」の眞意とは、)大分縣師範學校出身の學徒兵の西田高光海軍少佐は、特攻出撃を前に、海軍報道班員の山岡莊八氏に、次のやうに心境を述べられてゐます。
 『學鷲は、一應インテリです。さう簡單に勝てるなどとは思つてゐません。しかし負けたとしても、その後はどうなるのです‥‥おわかりでせう。われゝゝの生命は、講話の條件にも、その後の日本人の運命にもつながつてゐますよ。さう、民族の誇りに‥‥』
 民族の誇りに殉じる――これが學鷲(學徒兵の飛行機乘り)の心だつた。よく「かはいさうだ」と言ふ人がゐますが、憐みなんか、要らないのです。後に續くを信ず――誇りを抱いて死んでいつた自分たちの志を繼いで、この國を守つてもらひたい、といふのが、靖國の神々の願ひなのですね。‥‥
 靖國神社宮司の重職をお受けさせていたゞいた時(愚案、平成四年四月一日)には、三十數名をります神職のうちで、軍隊生活經驗者は、私一人になつてゐました。さういふ意味でも、私自身、英靈のみ心の語り部になつて、生涯傳へて歩き、我が國が英靈のみ心にかなふ國柄となるやう努めることこそ、靖國神社宮司の仕事だと思ひ定めて、御奉仕させていたゞきました。‥‥
 (終戰の大詔は、)宮城縣の山奧の高清水町の、小學校の校庭で拜聽しました。「さらに戰へ」との、激勵の大詔と信じてゐましたから、「神國が遂に滅亡した!」と、まさに悲憤懊惱、慟哭の極みでした。悲嘆に眩(く)れて夜を迎へ、「神國日本が滅びたのだから、もうこのまゝ夜は明けないのだらう」と、信じて疑ひませんでした。ところが暗黒の一夜が明けた翌朝、いつもと同じやうに、朝日が昇つたのです。それもいつもより一際大きな日輪が赫々(あかゝゝ)と!。不思議でしたね。魂が搖さぶられるやうな、大きな驚きでした。さうだ、陛下も「堪へ難きを堪へて」、頑張れとおつしやつたぢやないかと、朝日に大いに勇氣づけられ、涙を流しながら拜んだことを覺えてゐます。
 平成八年の靖國神社獻詠歌に、當時の氣持ちを、こんな歌に詠みました。
  赫々と、のぼる朝日に、手を合せ、泣きて拜みし、終戰明けの日
 ‥‥私たちは日本の歴史・理想に對する誇り、皇室を有り難く思ふ氣持ちは、とても強かつた。ですから、終戰の大詔を拜した時の動搖は大變なもので、「神國が遂に滅亡した! 神國日本が暗黒日本になつてしまつた」と。逆に言へば、それほど純粹に國體を信じてゐたのです。一緒にゐた者の中には、竹林で軍刀を引き拔いて、竹に切り付ける者もゐました。‥‥
 しかし實は、神國が滅びたのではない。國民の信念の問題だつたのです。「神國が滅びた」といふのは、國民が敗戰といふ現象にとらはれて、さう思ひこんだゞけのことで、日本の國體は戰前も戰後も、嚴として變はらず存在し續けたのです。昭和天皇樣は戰前も戰後も、全くお變はりにならなかつた。國民が再びそのことに氣がついたのは、昭和天皇樣の全國御巡幸によつてゞした。


◆◆◆ 靖國神社考43・神國不滅 投稿者:備中處士 投稿日:11月27日(月)18時10分53秒◆◆◆

〜承前〜

 國民は有史以來、初めての敗戰に、本當に失意のどん底でした。都市は一面燒け野原で、食べる物もない――そんな慘憺たる状態から、日本が不死鳥のやうに甦ることができたのは何故か。それは、昭和天皇樣が、全國を御巡幸なさつたからなのです。天皇陛下萬歳を叫び、日の丸を振り、君が代を歌ふ――それで人々は、日本人としての氣概を取り戻したのです。占領中は、日の丸も君が代も禁止でしたが、この時だけは許された。御巡幸がなければ、戰後の復興はもつと遲れたでせうし、もつと違つた形になつてゐたかも知れません。‥‥
 (敗戰とは、實に精神的な大事件だつた。日本人はそれまで信じてきた國體への確信が、本物であつたかどうかを試された。調子のいい時に、調子のいいことを言ふ者はいくらでもゐますが、絶望に陷つた時に、尚も信じ續けられるか否か、そこに人間の信念が問はれるわけです) そのことで思ひ起こすのは、吉田松陰先生が遺された言葉です。松陰先生は、安政の大獄によつて打ち首の刑に處せられましたが、その十六日前の十月十一日、同じ小傳馬町の牢獄に入つてをります、堀江克之助といふ友人から手紙をもらひ、その返事に、次のやうに記されました。
 『天照の神勅に、「日嗣の隆えまさんこと、天壤と窮りなかるべし」と之れあり候ふ所、神勅相違なければ、日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば、正氣重ねて發生の時は、必ずあるなり。只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざるなり』‥‥
 當時は、吉田松陰・橋本左内をはじめ、正義の士・忠義の士が、次々に打ち首や重罪に處されるといふ、道義がひつくり返つたやうな時代ですよ。しかもこの時、既に松陰先生の死罪は確實でした。そのやうな絶望的な時にあつて、「天照大神樣の御神勅に、『日嗣の隆えまさんこと、天壤と窮りなかるべし』とあるではないか。その神勅に相違なかつたならば、日本は決して滅びないのだ」と、喝破されたのです。歴代の天皇樣は、神勅のまゝに、懸命に、國安かれ、民安かれ、と行じていたゞいてをるではないか。それを國民が疑ふとは何事か、といふことです。
 そして松陰先生は、十月二十七日、牢獄を出て處刑場に行かれる時に、次の辭世を詠まれました。‥‥
 『吾れ今、國の爲に死す。死して君親に負むかず。悠々たり、天地の事。鑑照、明神に在り』
 神勅を疑ふべきではない、神勅は嚴としてあるのだ、といふ尊い信念があればこそ、「自分は國のために死ぬのである」と、堂々と言ひ切られたのだと思ひます。そして自分を死罪にした幕府が、是か否か。死罪に處せられる自分が、否か是か。その理非曲直は、天地の神々がはつきり見そなはすものであると、悠々として死んでいかれたのです。‥‥
 日本の國は、今、本當に亂れてゐます。しかし、天皇陛下は、如何なる時でも、默々と、そして堂々と、天照大神樣の御神勅の隨(まにま)に、萬世一系の皇位を踐んでをられます。そして宮中祭祀、稻穗のお供へ、日本古來の道を、百二十五代今上陛下、ご立派に御勤めいたゞいてゐます。何といふ素晴らしい國ではありませんか。神勅、まさに今に生きてゐるのです。
 明治天皇樣のお若い頃の御製に、次のやうなものがあります。
 『人もわれも 道を守りて かはらずば この敷島の 國はうごかじ』
「人も」といふのは、國民です。「われも」といふのは、天皇陛下です。明治天皇樣の後、大正天皇樣、昭和天皇樣、そして今上陛下も、皆、御歴代のお氣持ちの隨に、日本古來の道を、御神勅の道を、默々として守つてをられます。陛下は、皇室は、絶對に變はつてはをられないのです。變はつてゐるのは、國民ではないですか。國民も、皇室をお手本にして道を守つていくのでなければ、日本の國は榮えません。「只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざるなり」との、松陰先生のお言葉を、胸に刻みたいものです。‥‥
 今、世の中は「二十一世紀、二十一世紀」と騒いでゐますが、來年(平成十二年)は「皇紀二千六百六十年」です。‥‥「二十一世紀」ではなく、「皇紀二千六百六十年」と、誇りをもつて言へる日本に戻すべく、お互ひに力を盡くして參りませう」と。

 愚案、「あまつひつきの みさかりは あめつちと きはみなからんものぞ」。天壤無窮之神勅こそは、世界無二、太古傳統の大神言である。天壤無窮の神勅を信ずとは、些か皇國の学問を見知つた者の、誰でも簡單に云ふことであるが、眞實に信ずるとは、洵に正しき學問と道力とが必要である。學ばざれば、一歩も動くことが出來ない。先哲正師の御教へを仰ぐ所以である。


◆◆◆ 靖國神社考44・みたま祭 投稿者:備中處士 投稿日:11月28日(火)20時43分9秒◆◆◆

●所功博士『あの道、この徑、一○○話』(平成十六年十二月・モラロジー研究所刊/十四年八月十三日筆・産經新聞西日本版夕刊)に曰く、「
 お盆(盆供養)は、西日本では、新暦八月十五日に月遲れ盆を行ふ所が多い。しかし東日本では、舊暦の日付を新暦に置き換へて、七月十五日に行ふ所が少なくない。
 これは『盂蘭盆經』によれば、釋尊の弟子の目蓮が、餓鬼道に墮ちて、「到懸」(さかさづり)の責め苦に喘ぐ亡き母を救ふために、七月十五日、ご飯とお菓子を載せて供養したことに始まるといふ。
 それが日本にも傳はり、すでに齊明女帝五年七月十五日の詔で、「京内の諸寺に於いて盂蘭盆經を勸講し、七世の父母に報ぜしむ」と布告され、朝廷でも長らく恆例佛事として行はれてきたのである。
 しかも、このウラボンの語源については、イラン語で死者の魂や穀物の靈をさすウルバンに由來するとの説がある。また民俗學者の柳田國男氏などによれば、舊暦(太陰太陽暦)の正月十五日と七月十五日は、一年の前半と後半とに初めて滿月の出る好日であり、古くから祖先の御靈祭が行はれてきたといふ。それゆゑ、わが國のお盆は、單なる施餓鬼供養でなく、むしろ御彼岸會のやうな先祖供養の意味合ひを含んでゐる。
 この七月十五日の前後三日間、賑やかに「みたま祭」を行つてゐるのが、東京の靖國神社である。このスタートには、柳田國男氏の功績が大きい。氏は、昭和二十年八月の大戰終結間際に、滿七十歳で『先祖の話』を書きあげ、「國の爲に戰つて死んだ若人(ほとんど未婚)だけは、何としても、これを佛教徒のいふ無縁ぼとけの列に疎外しておくわけにいくまい」と考へてゐた。
 その矢先、柳田氏は、靖國神社の若い神職S氏から、お盆の古俗により、英靈を慰めるため「みたま祭」ができないかと、相談を受けた。そこで、柳田家ゆかりの長野縣遺族會有志などに呼びかけて、翌年七月、靖國の境内でおいて催された文化講座で、「氏神と氏子」について講義した。これが機縁となり、翌二十二年七月から、千代田區民などの協力を得て、現在のやうな「みたま祭」が、正式に發足したのである」と。

 愚案、小堀桂一郎博士『靖國神社と日本人』(平成十年八月・PHP新書)の「みたま祭と日本人の信仰」に、「靖國神社は、國民を總氏子とする國民護持方式の神社であればよい」との觀點からする、「みたま祭」に關する秀逸なる指摘がある。此の著書は、『靖國神社百年史』全四卷等を基として書かれた由。


◆◆◆ 靖國神社考45・忠魂不朽 投稿者:備中處士 投稿日:11月28日(火)20時45分24秒◆◆◆

 靖國神社崇敬者總代(十名のうちの一人)・所功法學博士の尊父は、博士三歳の時、昭和十八年七月二十七日、ソロモン諸島ニユージヨージア島ムンダノ戰鬪に於て戰死された由。三十二歳の時、一大決心し、十二分の下調べ準備の上、空路一萬キロ、昭和四十七年七月二十六日、飯盒の内蓋に「所」の文字を發見、更に其の翌日、父上の命日の、正に其の日に、其の遺骨を、博士自身の手で拾はれたのでした。亦た『靖國の祈り遙かに』(平成十四年七月・神社新報社刊)参照。

●所功博士『飯盒の遺書・ソロモン戰跡巡拜報告』(皇學館大學講演叢書第二十五輯・昭和四十八年六月刊)に曰く、「
 父に會ひたい――お父さんは一體どんなところで戰死したのか、ぜひ自分で確かめたいと思ふやうになつたのは、中學一年の時です。‥‥
 準備の第六は、現地に建てる慰靈祭を用意することです。それには、英靈が心から喜んで下さるものをと考へ、まづ伊勢神宮の工作所に頼んで、御用材の檜を頂き、頭に銅板の笠をかぶせました。これに何と書くか。ソロモン群島で戰死された將兵は約九萬人。ニユージヨージア諸島だけでも、數千人が亡くなつてゐます。そこで、平泉澄先生の御宅へ參上し、その標柱の正面に「忠魂」と、墨書して頂きました。あらゆる英靈の眞意を表はす文字は、忠魂の二字以外にない、と信ずるが故です。そのさい、先生より歌を賜はりました。
 「島にまして 幾年月ぞ 今こそは 吾子の迎へに 歸りませ御魂」
この「御魂」は、ひとり父のみではない、ソロモンに眠る數萬の英靈すべてを含むものと考へ、標柱の左側面には、この御歌を書き寫し‥‥。
 七月二十七日――この日は、私にとつて最も感動的な日となるでありませう。それは單に、父の遺骨をみつけることが出來たからだけではありません。遺骨は、やがて土に化するでせうが、斷じて朽ちざるものがあります。それは父が、そして日本の全將兵が、み國に捧げた「忠魂」にほかなりません。師團長であれ一兵卒であれ、はるか三千里のソロモンに出陣した勇氣、そして祖國日本の命運を守り通すため、大東亞の共榮を成し遂げるために、父母や妻子を殘して、尊かるべき一身をなげうつた赤誠は、いかに年月がたち、どんな風雨にさらされようとも、決して消え去るものではないと信じます。
 ともあれ、私が三十年ぶりに父と「再會」しえたのは、父の忠魂の導きによるものと考へるほかありません。私共が、全く見知らぬ多數の現地人に心から歡迎されたのも、英靈たちの忠魂の働きによるものと思へてならないのです。歸國後、このことを平泉先生に御報告申しあげましたところ、折り返し左の歌を賜はりました。
 「父と子の えにしの不思議 三千里 八重の潮路を 越えて相寄る」
 「忠魂は 朽ちずありけり 花散りて 年月あまた 流れたれども」
 ‥‥このやうな忠靈祭を、なぜ政府は主催しないのでせうか。なぜ識者は支援しないのでせうか。どんな追悼式も、亡くなつた人の心を汲んで催すのが當然でありませう。とすれば、九段で會ふことを誓つて散華された英靈たちの追悼式は、靖國神社で「忠靈祭」を行ふ以外にありますまい。それを政府で主催して、陛下の御臨席を仰ぐか、または天皇の勅祭として政府が援助することこそ、最も英靈の意に叶ふのではないでせうか。‥‥
 收骨事業は中斷されても致し方ありません。たゞし、あくまで努力せねばならぬことは、み國のために殉ぜられた英靈の魂が、安んじて祖國へ歸れるやう、靖國神社をはじめ日本全體を、本然の姿に戻すことでありませう。これは決して他人事ではない。遺兒の一人であり、教職の一隅にたつ私自身の新しい大きな課題であると思つて居ります」と。


◆◆◆ 靖國神社考46・御創立百三十年記念事業 投稿者:備中處士 投稿日:11月29日(水)18時18分27秒◆◆◆

●南部利昭宮司『御創立百三十年記念事業竣成の御禮の御挨拶』(靖國神社HP)に曰く、「
 當靖國神社では、御創立百三十年を機に記念事業を行ふべく、平成十一年より、崇敬者各位に御奉贊をお願ひ申し上げてまゐりました。お蔭をもちまして、第一の事業「御祭神名票の『コンピユーター入力』による永久保存管理體制の確立」、第二の事業「遊就館『改修』及び新館新築」は、滯りなく完了し、去る平成十六年九月には、最後の事業となりました「祭儀所・參集所等、參拜者接遇施設の改修」も、目出度く竣工致し、參集所は新たに『參集殿』と改稱するに至りました。‥‥
 こゝに三本柱とも言ふべき事業が竣成し、まづ御祭神名票のデータベース化により、御遺族・戰友からの御祭神調査依頼に短期間に対應でき、また奉贊会御加入の御遺族にお送りする「祭神之記」を通じて、御遺族と神社の末永い紐帶が、着實に結ばれつゝあります。また戰歿者の御遺品・御遺書等を展示して御祭神を顯彰し、近代史の眞實を證す新・遊就館の展示により、來館する若い世代が確實に日本人としての自覺を覺醒しつゝあります。そして、このたび御遺族・戰友等、御高齢の崇敬者の便をはかり、且つ青少年にも馴染みやすい設備を整へた御參拜の待合所として、參集殿が竣工致しました」と。

●松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか・靖國奉仕十四年の無念』に曰く、「
 第二に、神社のたゝずまひを絶對に變へない。我々は『靖國で會はう』、『靖國の櫻の下で再會しよう』と誓ひ合つて、戰地に赴いたのです。そのときの御社の姿、現在の姿ですが、これを變へるわけにはいかない。たとへ『何百億圓寄進するから、日光東照宮のやうな壯麗華美な社殿にしてくれ』と言はれても、絶對に肯けない。このたび、御本殿も全解體修理しました(昭和大修築)が、私が固く言ひ渡しましたのは、『これは「改修」では無い、「修築」なんだ』と。『板の一枚・柱の一本にいたるまで、砂擦りをして綺麗にしてもらつては困る。布で洗ふだけにしてほしい』と。御創建以來、百數十年經つてゐますので、雨漏りで腐つたやうな所が多少はある。そこだけ新しい部材を補充し、大部分は御創建當時の材料で、ガタの生じた所を締めつけて再建したわけです。御本殿と囘廊と拜殿は、神社の重要部分、中心部分です。この姿は、どうあつても變へない、それが第二の決心でした」と。

●松平永芳大人『讓ることのできない傳統の一脈』に曰く、「
 戰前・戰中派の我々世代が世を去つたなら、靖國神社が衰微の一途をたどるとか、政治に左右されて變貌するといふやうなことがあつてはならない。將來を見据ゑ、私は宮司に就任してからは、爲すべきことは爲し、思ひ切つて切るべきことは切り捨てるやうに致しました。その際にあくまで守らなければならない傳統と、時世に應じて替へていいところと、その區別をよく見極めなければいけない。その判斷の基は、御祭神がお喜びになるかどうか、御遺族の御心に適ふか適はないかであると、いつも私は言つてゐました。‥‥
 時世に應じて替へるところは替へていく一方で、宮司になつた以上は、明治天皇さまの御創建以來の御精神を、命がけで守らうと決意しました。‥‥
 私は在任中に、『境内には餘計なものは、絶對に造らないといふ方針』をとりましたから、在任した十四年間に新たに出來たものと言へば、軍犬慰靈像と、拜殿の脇に造つた國旗掲揚臺だけです。國旗掲揚臺を造つたのは、祝祭日に限らず、國旗を掲げるためです。それは我々出征將兵は、みんな戰地で進軍する時、日の丸の旗を掲げたわけで、祝祭日の日の丸とは譯が違ふ。だから雨の日でも雪の日でも、神門を開くと同時に宿直が掲げて、神門が閉じられた時に降ろすやうにしました」と。

●一兵士樣の證言(靖國神社考31「靖國神社の正統を次代者はどう受け繼ぐべきか」)に曰く、「
 祭神のコンピユータ管理を最大限に怒つたのが、松平前宮司です。『祭神をコンピユータで管理しよう、なんて發言した奴は誰だ!』と、神社に怒鳴り込んで來ました、それは恐ろしい顔だつたと、當時の女子職員は教へてくれました。しかし既に現役を退かれた松平宮司には、決定を覆す力はありませんでした。無念極まりなかつたと思ひます」と。


◆◆◆ 靖國神社考47・御創立百三十年記念事業、續 投稿者:備中處士 投稿日:11月29日(水)18時20分17秒◆◆◆

 愚案、前に紹介申し上げた、「松平樣が宮司職を退かれて卒去までの十三年間、後任宮司への無念を知る者としては、斷腸の思ひで、湯澤前宮司の『靖國の言ひ分、英靈たちの聲』インタビユー記事に目を通しました」と云ふ、豐國神社權禰宜・棚橋信之氏の「松平元宮司は、戰後、防衞廳防衞研究戰史室に勤務されてをられたときから、宮司在任中、昭和六十一年の遊就館再開に到るまで、『後世に殘る「史料」の收集と整理の重要性から、歴史觀に言及するものではない』ことを、首尾一貫、理路整然と明言されてをられました。その意味で、此の度の遊就館大改修」は疑問とする、と云ふ言擧が、いたく氣になつてをります(靖國神社考6の二書)。
 松平永芳大人は、我が國體、大東亞戰爭の理想、靖國神社の何たるかを知らざる今時の權力者、及び岡崎某の如き、評論家・學者と稱する輩が容喙する、此の靖國神社を巡る今日を、的確に見通されてゐたのでせう。故に靖國神社としては、歴史觀の主張は神社外でしてもらつて、敢へて「後世に殘る史料の收集と整理」にのみ力を致されたのでありませう。正に慧眼と謂はねばなりませぬ。
 松平大人の仰る「靖國神社といふのは、決して平穩な神社ではありません。政治的に非常に壓力のかゝる神社です。それは左からの壓力だけではなく、さうでないところからもかゝつてくる。一見『愛國』・『憂國』を裝つた形でもかゝつてくる。だから、ともかく權力に迎合したらいけない、權力に屈伏したら、ご創建以來の純粹性が目茶苦茶になつてしまふ。權力の壓力を蹴とばして、切りまくる勇氣をもたないといけない、といふことを、次の宮司への一番の申し送りにいたしました」てふ遺訓が、更めて耳朶に響いて已みません。
 神社の本義は、祭祀の嚴修に在り。其の祭祀を亂すもの、清淨と靜謐を破るものは、極力、之に留意し、之を排斥なければならない。都會の神社なるが故に已むを得ないとは云へ、靖國神社は、觀光名所・歴史論爭・政治的主張の場などであつてはなりませぬ。不遜放言を承知で敢へて申し上げますが、現在の靖國神社の祀職の方々は、「御社運の隆昌」のみに專心する嫌ひ無きにしも非ず。
 借問す、松平精神は、果たして現今も正しく繼承されてゐるのかどうか、是非とも何方か御示教を賜りたい。參集所改め參集殿は、「御本殿と囘廊と拜殿は、神社の重要中心部分」では無いので、「改修」で宜しいのか何うか‥‥。

●『靖國神社社憲』(昭和二十七年九月三十日制定)の「前文」に曰く、「
 いやしくも本神社に職を奉ずる者は、その任の輕重、職域の如何を問はず、深く本神社を信奉し、祭神の御神徳を體し、清明を以てその任に當り、祭祀を嚴修し、祭神の遺族崇敬者を教導し、御社運の隆昌を計り、以て萬世にゆるぎなき太平の基を開き、本神社御創立のよつて立つ安國の理想の實現に、一意邁進しなければならない」と。


◆◆◆ 靖國神社考48・遊就館は目に見える御靈の祭祀場なり 投稿者:備中處士 投稿日:11月30日(木)17時16分49秒◆◆◆

 松平永芳大人は、「靖國神社の御社殿には『目に見えない御靈』が祀られ、遊就館には『目に見える御靈』が祀られてゐる」と、仰られてゐた由です(以前に引用させて戴いた、茶畑元35樣『早稻田日記』の平成十八年九月一日條「靖國神社の『遊就館』展示變更に思ふこと」より)。
http://plaza.rakuten.co.jp/goaheadgo/diary/200609010000/


●永江太郎氏『展示パネル編集責任者の證言・米中の靖國「遊就館」批判に應へる』(『諸君』平成十八年十一月號)より

○軍事史學會理事・永江太郎(元防衞廳防衞研究所戰史部主任研究官・現植草學園短期大學講師)氏の語る遊就館
 明治十五年、遊就館が出來たときには、實は靖國神社と關係ない施設で、陸軍省直轄の「國立軍事博物館」であつた。當時、歐米諸國には武器展示を目的とする軍事博物館があつたので、之を模範として、近代日本軍事史における武器技術の發達の歴史を、實物で展示する武器陳列場を作るといふ趣旨であつた。戰後の昭和二十年九月、陸軍省から靖國神社へ移管されたときは、別棟(現在の靖國會館二階)に「寶物遺品館」を作つて、樣々な武器等の資料を展示した。昭和六十一年、「遊就館」として再建。當時、二階は武器を展示する軍事博物館、一階は遺書や遺品を主に竝べた英靈顯彰の場であつたが、平成十三年改築の際に、之を一つにして歴史の大きな流れの中で説明しようとした。曰く、「

 しばゝゞ遊就館の展示に對して、「靖國史觀」といふ言葉が使はれます。しかし我々からすると、そんなつもりは全く無いのです。‥‥遊就館の新館ができて、現在の展示が行はれるやうになつたのが、平成十四年です。私(永江氏)は知人の神社職員から、「自分たちでは、展示物の歴史的背景を説明できないから」と、パネル展示で歴史の流れを説明する作業を頼まれて、開館の一年くらゐ前から、遊就館にかゝはりました。十人くらゐの軍事史の專門家に聲をかけ、それぞれ專門の分野を執筆してもらひました。英文については、飜譯業者に依頼してゐます。
 そのときの基本的スタンスは、あくまでも「史料を以て語らしむ」といふもので、いはゆる「靖國史觀」を打ち出さうといつた意圖はありませんでした。いま遊就館は、樣々な批判を受けてゐます。曰く、「大東亞戰爭肯定史觀」・「東京裁判否定史觀」等々。しかし我々としては、實物を主體として、説明はそれを補足するものと考へてゐました。勿論、どのやうな史料を選ぶかや、その意味を説明するときは、どうしても我々が歴史家として培つてきた歴史觀が反映せざるを得ませんが、特定の史觀ありきでスタートしたのではなく、あくまでも遊就館が持つてゐる現物資料から出發してゐます。
 したがつて樣々な批判に對しても、「これは我々の主張で、一歩も讓れない」といふものではありません。たとへば新しい史料が出たりすれば、當然、パネル等の説明を書き換へる必要が出てくるでせう。それが歴史のダイナミズムといふものではないでせうか。また史料的には間違ひではなくとも、その解釋や表現の仕方が誤解を招くといふこともある。さうした點については、指摘があれば、直すべきは直していく。これは我々の最初からの基本的考へ方です。‥‥
 「反米的」云々といふ點で、一言反論させていたゞければ、當時、日本にとつてアメリカは敵であり、ルーズベルトは、その最高指揮官であつた。これは嚴然たる事實である。戰爭に至る流れを説明するときには、どうしても當時の日本の立場はどうだつたのか、當事者の考へや世界觀はどのやうなものだつたのかを示す必要があると思ひます。勿論、その後のサンフランシスコ講和條約以後、「昨日の敵は今日の友」として、日米はやつてきてゐるのですが、それとこれとは別物だと思ひます。‥‥ヒツトラー・ルーズベルト・スターリンの三人の寫眞をパネルにして、竝べて掲げてありますが、‥‥我々としては、當時の世界の三大巨頭として提示したつもりだつたのです。日米開戰の原因について、史料を提示して説明しようとしてゐるのに、その入口で感情的に反感を抱かれては非常に殘念ですので、改善策を檢討してゐます。‥‥
 遊就館は、歴史論爭の場ではありません。本來であれば、武器や遺品の説明だけでよいかも知れません。しかし今日では、日露戰爭の遼陽會戰や奉天會戰といつても、その區別がつく人はあまりゐないでせう。マリアナ決戰・ルソン島決戰といふコーナーには、やはり説明がいります。なぜ戰爭になつたかにも觸れる必要があります。ですから、學説ではなく、資料展示によつて、閲覽者に判斷してもらふといふ氣持ちで作成してゐます。‥‥


◆◆◆ 靖國神社考49・遊就館は目に見える御靈の祭祀場なり、續 投稿者:備中處士 投稿日:11月30日(木)17時18分38秒◆◆◆

〜承前〜

 日本の戰爭目的は、最初は自存自衞でしたが、植民地の解放もあつたことは間違ひありません。‥‥
 あくまでも遊就館の展示に關してお答へしたいと思ひますが、東京裁判については、我々は日本政府の公式見解に基づいて書いてゐるつもりです。‥‥先の西村(熊雄條約局長)答辯などを讀めば、サンフランシスコ講和條約の解釋が、「從來から一貫」したものなどでは全くなく、近年になつて、大きく方向轉換したものだといふことは明らかです。かつて大平正芳首相は、「A級戰犯あるいは大東亞戰爭といふものに對する審判は、歴史がいたすであらうといふやうに、私は考へてをります」と答辯しました。一國の宰相たるもの、このくらゐの見識をもつていたゞきたいと思ひます。
 今囘の米國側の問題點の指摘は具體的ですから、反論も出來れば改善も出來ます。これは中韓に限りませんが、「不愉快である」とか、「歴史觀が歪んでゐる」と言はれても、私たちも對應に困る。具體的に、できれば史料に基づいて指摘していたゞければ、我々が再檢討を進める上でも、一番ありがたいですね。‥‥
 (支那の「中國人民抗日戰爭紀念館」や韓國の「独立紀念館」等の)主張が、いつたい何の史料に基づいてゐるのか、典據不明のものも少なくありません。南京大虐殺記念館などもさうです。生々しい臘人形やジオラマなどを使つて、「日本軍の惡業」と稱して展示してゐますが、博物館といふよりも、政治的プロパガンダのための施設でせう。遊就館は、少なくともそんな立場は取つてゐません。‥‥
 遊就館は、靖國神社といふ一民間團體の運營してゐるものですから、いま言はれたやうな海外の國立の戰爭博物館のやうに、惠まれた條件での活動はなかなか出來ません。しかし一般の人たちの「歴史を知りたい」といふニーズに應へようといふ思ひはあります。たとへば若い人たちが展示されてゐる特攻隊の遺書を讀んで、自分たちが學校で教はつたのとは違ふ歴史があることを感じた、といふ感想を書いてくれたりする。それが、自分の國の歴史をより深く學ぶきつかけになつてくれゝば、遊就館を作つた意義があると思ひます。‥‥
 現在の遊就館も、來年でちやうど五周年を迎へます。これまでに指摘された問題點を含め、タイミング的には、そろゝゝ全體的に見直し作業を行ふべきだと思つてゐます。そして改めるべきは改めて、もつと説明が必要な部分は、典據史料の提示なども行ふ。批判の聲も取り入れながら、歴史に關する議論を深め、日本を守つた先人の歩みを、もつと知つていたゞきたいと願つてゐます」と。

 愚案、抑も遊就館は、明治天皇の「忠勇なる陸海軍の功績を、不朽に傳ふべし」との大御心を體して(賀茂百樹大人)、充實し來りし寶藏である。而して戰後の不幸に際會するも、松平永芳大人は、防衞廳防衞研究戰史室に勤務されてをられた時から、宮司在任中、昭和六十一年の遊就館再開に到るまで、「後世に殘る『史料』の收集と整理の重要性から、歴史觀に言及するものではない」ことを、首尾一貫、理路整然と明言されてをり(棚橋信之氏)、亦た「靖國神社の御社殿には『目に見えない御靈』が祀られ、遊就館には『目に見える御靈』が祀られてゐる」(茶畑元35氏)と道破され、永江太郎氏、之を承けて事に據り直書し、愚劣なる政治家・評論家輩の攻撃に曝される中、將に辛苦努力せられつゝある。此の精神の在る所、遊就館の意義は、皇國中興の日にこそ、再び光り輝くに違ひ無い。


◆◆◆ 靖國神社考50・靖國會第六代總代・宇山草地貞吾翁 投稿者:備中處士 投稿日:12月 1日(金)18時57分38秒◆◆◆

●宇山草地貞吾關東軍作戰參謀大佐『囘想録・再刊序』(芙蓉書房刊)に曰く、「
 私は、心底から唯物共産主義と、いはゆる戰後民主主義なるものを好まない人間である。兩者とも、極度に階級や個人の自由・解放・恣意・權利を主張して、人倫の常經、公共の秩序、社會の規範、國家の尊嚴・道義に反するものだからである。私は、ソ聯(今はロシア)抑留十一年半の間、その非道無殘なスターリン共産主義と、遺憾なく抗爭した。運あつて、昭和三十一年末、懷かしい瞼の祖國――有り難い天皇の國――日本に歸還したのは良かつたが、殘念ながら、そこには占領下の遺物といふべきか、生々しい戰後民主主義なる非日的世情・風潮の亂脈跋扈があつた。奧ゆかしい日本的正氣も香薫も消え失せた、悲しい祖國の現状に當惑した。九十五叟の私が悲願としてゐるのは、一日も早い日本朝野全體からの戰後民主主義の追放であり、東京裁判史觀に因る自虐謝罪觀念・意識の打破である」と。

 小生は、かつて空將・後藤脩博(清敏)第二航空參謀少佐の『シベリヤ幽囚記』(昭和五十二年五月・日本學協會刊)を拜讀し、泪したことがございます。亦た下記のサイトはご存知でせうか。靖國會第六代總代・宇山草地貞吾・關東軍參謀大佐の記事です。
●宇山會事務局HPより
http://www12.plala.or.jp/uzankai/zimukyoku.htm

○宇山會代表・濱野晃吉氏『弔辭』(平成十三年十二月二十二日・お別れ會・於千日谷會堂)に曰く、「
 多數の諸先輩がご列席いたゞく中で、誠に僭越ではございますが、宇山會を代表して、(草地)先生の教へ子として、お別れの言葉を捧げます(草地宇山翁は、平成十三年十一月十五日歸幽)。
 本年八月三日から五日まで、大東亞聖戰大碑建立第二囘祝賀會に參加させていたゞき、先生には來年もお會ひしませうと申し上げたのに、殘念至極であります。先生のご意向で、八月四日夜、體調が惡いにもかゝはらず、宇山會若手の我々のために時間をとつて頂き、自分の知り得る限りのことを、必死に語られようとし、何か聞きたいことはないか、何でも知つてゐることは話すから尋ねるやう、言はれました。
 今ま思へば、次囘は會へないかも知れないといふ思ひから、最後の最後まで教へておきたかつたのでせう。
 先生と初めてお會ひしたのが、昭和四十一年、創設間もない京都産業大學追分寮でありました。三百名の寮生と寢食を共にしながら、我々に「大和心」・「大和魂」を語られ、先生のずば拔けた記憶力に驚嘆したり、先生の歴史上の武將のお話に、我々は夢中で聞き入りました。
 先生は、強く、たくましく、とても優しく、我々寮生は、皆、先生に憧れを抱いたものでした。先生とは一年といふ短い期間でありましたが、眞の日本人とはかくあるべしと、身をもつて教へて頂きました。
 その後、後藤旭君の紹介で、宇山會に參加させて頂き、久しぶりに先生にお會ひ出來、感無量でありました。この間、末次一郎先生(新樹會代表幹事)から、草地先生がソ聯のゴルバチヨフ大統領と會見し、ゴルバチヨフ大統領に向かひ、「ゴルバチヨフ君、私は君の父親と同じ年で、父親のやうなものだ。その父親として言ふ。北方領土は、日本に返し給へ」と、實に堂々と毅然と言はれ、ソ聯に抑留された他の二代表と異なり、實に立派であつたと聞かされてゐたので、その報告をすると、「さうか、末次と活動していゐるのか」と、喜んでいたゞいた笑顔が、強く印象に殘つてゐます。
 先生は、ソ聯抑留の間、ソ聯の横暴にも、破廉恥なる民主運動の妨害にも屈することなく、超然として、常に軍人としての矜持を失ふことはありませんでした。それがために、シベリヤ民主運動は、先生を中心とする一團を「極反動」と決め付け、「白樺の肥やしにせよ」と迫りました。その「極反動・草地一派」は、祖國に歸りては「草地會」となりました。やがて昭和三十一年十二月二十六日、先生が歸國されてよりは、「宇山會」と改稱されました。夢にまで見た祖國に歸つて、先生の見たものは、占領軍が引き上げた後の占領政策によつて、無殘に變はり果てた、魂の拔けた、祖國の變はり果てた姿でありました。唖然とされた先生は、それ以來、昭和の高山彦九郎になられました。先生は、本邦碩學の平泉澄先生の高弟であられましたから、崎門學をよくされたのであります。崎門の系統は、始祖山崎闇齋から幕末の吉田松陰・橋本景岳兩先生を經て、昭和の平泉先生から草地先生へと繋がつてゐたのでした。占領軍が一番恐れたもの、それは、彼らが「ブルー・ブルー・スクール」と呼んだ、かつての「青々塾」でした(愚案、實は「グリーン・グリーン・スクール」の誤りならむ。平泉澄博士の主宰。但し松陰先生を崎門とするは非なり)。


◆◆◆ 靖國神社考51・靖國會第六代總代・宇山草地貞吾翁、續 投稿者:備中處士 投稿日:12月 1日(金)19時00分32秒◆◆◆

〜承前〜

 だから先生は、ソ聯が東京裁判に備へ、作戰部隊を謀略部隊と認めるやう迫り、繰返し獨房に入れ、徹底した拷問を受けたにもかゝはらず、生死をさまよひながら、如何なる壓力・拷問に屈せず、耐へ拔いた、その高き節操は、微動だにせず、變はることはなかつたのでせう。
 先生の理想は、日本一家・世界一家・同胞相愛・人類共歡でありました。人間には、夫々主義思想があり、同時に主義思想を超越する能力をもちあはせてゐます。シベリヤの悲劇は、主義思想に完全埋沒して、一歩もこれを超越し得ないところに起こりました。如何に主義思想が違つても、私達は共存共榮が出來る、その反省から、先生は「不拒不追」(來る者は拒まず、去る者は追はず)を信條とされたのです。
 平成十一年十月七日、先生は生死の狭間にありました。先生の魂は、雲海をさ迷ひながらも蘇り、平成十二年八月四日、あの「大東亞聖戰大碑」(裏面には「八紘爲宇」、石川縣護國神社參道に在り)を建立されました。正しく執念の快擧でした。
 先の大戰は、「極東軍事裁判」において、「好戰的な日本が、東南アジアの資源獲得をねらつた侵略戰爭であつた」と裁定され、罪なき東條以下、七名が絞首刑になりました。我々の父母の世代は「一億總懺悔」をして、「原爆の碑」が出來ました。そして國民あげて、戰爭放棄と反戰を唱へ續けました。その結果、我々の父母の世代は、青春時代の軍國日本を語ることも無く、肩をすぼめて、經濟復興のみに終始したと言ふのが、戰後の大筋でありませう。
 先生は、大東亞戰爭は、日本の自存自衞と、アジアを歐米の植民地支配から解放するために行つたものである。その證據に、當時五十數ケ國であつた獨立國が、この大戰後百八十ケ國を超えてゐる。このやうに多數の民族を救つた戰爭は、人類史上はじめてであり、まさしく聖戰であつたと訴へ續けられました。また大戰後、國民が天皇陛下の氣持をもつてをれば、このやうなだらしない國にはならなかつたと説いて來られました。さうした先生の日本覺醒活動により、占領軍の置き土産の「マインドコントロール」、いはゆる「ワーギルト・インフオメーシヨン・プログラム」は、容易に解けはじめ、やがて「大東亞戰爭」の本質が見えて來ました。さうすることによつてのみ、我々の父母の世代に浴びせられた嘲笑は感謝へと變はり、我々の世代は我々の子供に向つて、子供達の祖父母の世代の正しかつたことを傳へることが出來る。それではじめて世代の斷絶が克服でき、我々も諸外國に向かつて臆することなく、堂々と胸張つて出て行くことが出來る。それには、百卷の書物を讀んでも、所詮、負け犬の遠吼え、我々は確乎不拔の證が欲しかつた。謝罪外交を拂拭し、再び七つの海に雄飛する反力壁が、どうしても欲しかつたのであります。
 そんな折、先生蘇り、「聖戰大碑」が建立されましたことは、眞に日本再生の基盤となり、核となることと感じ入り、厚く々ゝ御禮申し上げます。先生は滿身創痍の病身をおして、建立式典の挨拶に立たれ、ありつたけの大聲をはりあげ、
 「鳴いて血をはく ほとゝぎす 大東亞 大御戰は 萬世の 歴史を照らす 鑑なりけり」
と言はれた聲が心にしみました。我々は今後とも、先生のご遺志を繼承し、皇室の御安泰と大東亞戰爭史觀の復活に、益々努力いたしますことを、茲にお誓ひ申し上げ、お別れの御挨拶といたします」と。

 又た次の中島一光氏「尊皇・愛國のHP彌榮」を參看されたい。
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Kusaji.html


◆◆◆ 靖國神社考52・平泉澄博士『神道の自主性』 投稿者:備中處士 投稿日:12月 2日(土)18時59分15秒◆◆◆

 松平永芳大人の識見の基盤は、固より祖父春嶽・尊父慶民大人の家學、皇室の藩屏としての自覺、或は帝國軍人(海軍少佐)としての矜持、自衞隊(陸軍一佐)の經驗に因るは勿論であるが、又た終生の恩師と仰ぐ所の、寒林平泉澄先生の指導誘掖に負ふ所も、亦た大なりと謂はなければならない。
 平泉博士の靖國神社と冠する論文は、先に引用(靖國神社考11・『靖國神社總説』)したが、更に其の神道觀の一端を探つてみたい。其の文たるや、斷簡遺墨なりと雖も、皆な以て聯璧、之を擲たば、當に金石の聲を做すべし。全篇、是れ皇國道義の學であります。蓋し松平大人行藏の據つて來る所、其の思想の淵源である。

●平泉澄博士『神道の自主性』(昭和二十七年冬・『寒林史筆』同三十九年七月・立花書房刊に所收)に曰く、「
 周の武王は、世に稱して聖王と讚へられてゐます。その起つて殷を伐つに當つては、天下の賢士ことごとく之に從つたのであり、未だ一人として之に反對した者は無かつたのであります。しかるに伯夷兄弟は、斷然之に反對し、その非を鳴らしたのであります。殷の紂王いかに惡逆なればとて、君主はどこまでも君主であり、周の武王いかに聰明なればとて、臣下はどこまでも臣下である、その臣下にして君主を伐つといふ事は、何としても承服しがたき無道であると、この一點を固く執つて讓らないのであります。しかも其の固執の極は、遂にこゝに生命をかけたのであります。「擧世、之を非とするに、力行して惑はざる者に至つては、即ち千百年に乃ち一人あるのみ」と、韓退之が感歎したのは、實に之が爲であります。
 凡そ道を考へるには、是等の所に於いて、反覆熟考し沈思するを必要とします。勝利者にこびへつらはず、武力の前に慴伏せずして、敢然としてその無道不徳を責むる者、曾て之を伯夷に見、今また之をビーアド博士に見るのでありますが、この氣象なくして道を考へる事は、絶對に不可能であります。若しこの氣象なく、この勇氣が無いといふのであれば、常に利害得失に留意し、時代の大勢にひきづられ、大衆の叫びに同調し、昨非今是、毎日々々、目標は變つてゆくの外ありませぬ。
 こゝにひるがへつて神道界の現状を見るに、是等の點に於いて、果して如何でありませうか。もとより不幸なる敗戰の後、占領下の七八年が忍從苦難の時である事は、まことにやむを得なかつた所であります。忍び難きを忍べと仰せられたのは、實にその爲であつたのであります。しかしながらそれは、どこまでも忍從であるべきであります。忍從であつて、決して屈伏であつてはならないのであります。屈伏であつてはならず、阿諛であつてはならないのであります。忍從であれば、發揚は出來ますまいが、少なくともその本質は之をそこなふ事なく、或は却つて苦難のうちに其の根柢を固める事さへ出來るのであります。しかし若し慴伏し、屈從し、阿諛し、從屬するといふ事であれば、それは必ずや自らの本質を毀損し、道を歪曲するに至るのであります。日本國敗れたりとして、俄かに國體を疑ひ、神道非難せられたりとして、あわてゝ佛教やキリスト教に媚び、古道を抂げ、舊恩を忘れるといふやうな事がありましては、それは神道の自滅に外ならないのであります。‥‥
 道を信じて疑はず、道を奉じて進むところ、いかなる危難に遭遇しても、毫もたじろがない毅然たる態度は、孔子に於いても見る事が出來ます。たとへば匡に於いて危險に陷つた時、弟子共はおそれおのゝいたが、孔子は少しも動搖せず、泰然として「天の未だ斯文をほろぼさゞるや、匡人それ予れを如何せん」と云つたのでありました(論語子罕第九・史記孔子世家)。かやうであつてこそ、初めて道といふに價するのであります。勝敗によつて動搖し、利害をかへりみて二の足をふむといふ、卑怯未練の心に於いては、道は未だ理解せられず、體得せられず、信奉せられてゐないのであります。


◆◆◆ 靖國神社考53・平泉澄博士『神道の自主性』、續 投稿者:備中處士 投稿日:12月 2日(土)19時00分15秒◆◆◆

〜承前〜

 道を信ずるが故に危難を恐れず、利害損得によつて動搖する事の無かつためざましい例は、十字架を負ふキリストや、匡になやむ孔子など、遠くに之を求めるまでもありませぬ、間近く我が國に、外ならぬ神道のうちに、いくらも之を見る事が出來るのであります。而して其の最も顯著なるものは、北畠親房公の如き、實にその人でありませう。北畠准后は、延元・興國の間、大勢悉く非でありまして、官軍の諸將、相ついで倒れ、足利の逆威、天をひたす有樣であつたに拘らず、あくまで道を信じて少しも疑はず、毫も無道に屈せず、曾て不義におもねらず、敢然として邪惡を排斥し、逆賊を討伐してやまれなかつたのであります。而して其の大著、神皇正統記を始めとし、東家祕傳・元元集・二十一社記等、神道に於いて最も貴ぶべき數々の述作は、實にかゝる苦難の間に執筆せられたのであります。神道に生きる者の崇高なる精神は、こゝに光を發したのであり、神道の正しい傳統は、正にこゝに存するのであります。
 今や神道は、數年に亙る忍從の後に、再びその自主性を取戻すべき時節を迎へました。而してその自主性を取戻さむが爲には、戰勝に傲る不遜の心をしりぞけると共に、敗戰におびゆる卑屈の態度を脱却しなければなりませぬ。道は權勢武力によつて、右に抂げられ、左に捩ぢられるものであつてはなりませぬ。得意の朝にも敬虔に、失意の夕にも泰然として、ひたすらに神を仰ぎ、神に仕へ、神の教を承け、神の道を行くところの、公明正大なる態度こそ、正しく傳統を繼承する所以でありませう」と。


◆◆◆ 靖國神社考54・平泉澄博士『受難の神道』 投稿者:備中處士 投稿日:12月 3日(日)16時41分26秒◆◆◆

●平泉澄博士『受難の神道』(昭和三十年冬・『寒林史筆』所收)に曰く、「
 七百年の昔、承久の歎きは、七百年の後、昭和の歎きとなつた。ミツドウエー、ガダルカナルに始まる敗退は、サイパン・グワム・テニアンの失陷、相つぐに至つて、戰局の前途を暗澹たらしめ、玉碎の悲報、到來するごとに、恰も木曾川撤收の昔の如く、人々を震駭せしめた。やがて戰の終るや、米軍は鎌倉勢の如く進駐し來り、ほしいまゝに其の占領政策を實施した。承久の昔にも、「霜刑の法、朝議拘らず」、官軍の將士は、十分の審理と、合法の處分によらずして、數多く梟首せられたが、昭和の今も、表に裁判の公正を裝ひつゝ、その實は勝者の威力による無理非法の斷罪が行はれた。その占領は、今より十年前に始まり、而して今より三年前に終つたが、しかしながら、「あさましかりし秋の名殘」(愚案、宮内卿家隆の歌)は、今以て拭ひ去らるゝに至らず、暴戻を憤り、屈辱を恨んでは、木々の葉も風に騒いで靜まらぬのである。
 占領政策は、もとより多岐にわかれ、多端にわたる。從つて、その被害の及ぶところ、また多方面にわたる事、いふまでも無いが、其の被害の最も甚大なるものゝ一つとして、神道を擧げるに、何人も異論は無いであらう。神道が受けたる打撃を象徴するものは、諸社の境内入口に立てられたる標柱である。それらの標柱には、上は官幣大社より、下は村社に至るまで、それぞれ社格が表示せられてゐた。占領政策は、極めて冷嚴に、且つ極めて執拗に、社格の抹殺を命令し、之に從はざる者は、嚴科に處すべしと威嚇した。今見る諸社の標柱の、上部塗抹の汚點は、此の「あさましかりし秋の名殘」に外ならない。木々の葉、風に騒いで、憤懣の氣、今以て消えないのは、當然では無いか。
 強制せられたるものは、標柱に於ける社格の表記の廢止のみでは、無論なかつた。それは社格そのものゝ廢止の、當然の歸結であつた。社格の廢止は、特に官國幣社に對しては、その財源を斷ち、水道を涸らすの祕策であつた。事實、一時は諸社の經營は大打撃をうけ、中にはよろめくかと思はれたものも、少なくなかつた。府縣社以下に於いては、もとより事情を異にするが、それにしても、府縣や町村との、直接の連繋を絶たれて、種々の不都合を生じ、不都合とまでゆかないにしても、少なくとも神社の權威をゆすぶられた感があつた。
 神社の寶藏もまた、此の屈辱の間に、荒らされた。就中、刀劔類は、往々にして、掠奪の厄にあつた。大分の柞原八幡宮の、寶藏するところの刀劔二百振、悉く奪取し去られたといふ如き、その一例である。
 研究と教育も、亦た、大なる打撃を受けた。大正年間、上田萬年・三上參次・芳賀矢一、三博士の提唱斡旋によつて其の端緒を開き、その後十數年を經て、漸く獨立充實の氣運を迎へた東京帝國大學文學部の神道講座は、敗戰と共に廢止を餘儀なくせられた。また多年に亙り數多くの神道人を教育し來り、やがて大學として、その研究機關を充實せしめつゝあつた伊勢の神宮皇學館も、解散の強制にあひ、涙を呑んで四散するの止むなきに至つた。之に加ふるに、斯界有力者の追放と、言論の苛察なる抑壓とを以てして、神道の公正なる指導は、著しき阻害に遭うたのである。
 即ち今次米軍の占領政策によつて、神道の受けたる打撃は、神道史上空前の、深刻にして廣大なるものであつた。神社の中に、之によつて著しく衰微したものがあり、神道人の中に、之によつて甚だ動搖したものゝあつたのは、無理ならぬ事情と云はねばならないであらう。‥‥


◆◆◆ 靖國神社考55・平泉澄博士『受難の神道』、續 投稿者:備中處士 投稿日:12月 3日(日)16時43分24秒◆◆◆

〜承前〜

 凡そ佛教が、幾多の迫害を越えて、その教義を守り、その教線を伸ばし來つた事、またキリスト教が、その象徴とする十字架の示すが如く、火あぶりの凄絶なる處刑をくゞつて發展し來つた事は、‥‥。しからば今や神道が、敗戰と共に苦難に陷り、占領政策の爲に抑壓を受けても、敢へて怪しむに足らず、驚くを要しないのである。寧ろかくの如き苦難、かくの如き抑壓こそ、神道の根本を深く掘り下げ、その根柢に厚く培ひ、強烈の魔風にも動搖せざる眞實の力を養ふべき好箇の機會では無いか。
 思へば神道は、從來あまりに安易平穩の道を辿つて來た。恩寵に狃れ、安逸に育つ者は、自然剛操の氣魄を缺き、難に臨んで動搖せざるを得ない。百難不屈、金剛不壞の精神は、風雨にさらされ、怒濤と戰ひ、鍛錬に鍛錬を加へて、初めて養はれるのである。さればこそ、大西郷も、「貧居傑士を生じ、勳業多難に顯はる、雪に耐へて梅花麗しく、霜を經て楓葉丹し」と歌つたのである。然らば今日、神道が多難に陷り、社頭霜白く、神山雪深きを見るは、即ち是れ百錬の鐵槌を與へられ、千磨の精礪を惠まれたるものと云つてよい。神道にして不朽の生命ありとするならば、必ずや奮起一番、禍を轉じて福となし、鐵槌によつて錬へられ、精礪によつて研がれて、陸離たる光彩を放つに至るであらう。
 しかも斯くの如きは、古來神道の教訓し來つたところである。即ち日本書紀神代卷に、素戔鳴尊が、その爲し給うたところの樣々の惡事によつて、天上より追放せられ、葦原中國に居るを許されず、根の國に向つて放逐せられ給うた時に、雨降りによつて宿りを衆神に乞はれたが、斷られたので、「こゝをもて風雨甚だしといへども、留まり休む事を得ず、たしなみつゝ降りき」とあつて、その「たしなみつゝ」に、辛苦の二字が宛てゝある。之に就いて、日本書記通證は、先づ玉木葦齋の説をかゝげて、素戔鳴尊、根の國に下り給ふ時、「流離顛沛の間、此の艱辛勞苦に遭ひ、荒金の質、變化功熟し、終に聖敬の域に歸せしもの、豈に是れ祓除の功效に非ずや、道に志す者、宜しく深く味ふべし」といひ、次に著者谷川士清、自ら辛苦の二字を解説して、
 「今ま按ずるに、學術の要、唯だ此の二字を貴しと爲す。其れ神聖の教、土金の功に在りて、而して其の躬に行ひ、心に得る所以の者は、實に辛苦の二字に在り。又た祓除の功と相發す。故に中臣祓、素尊の故事を擧げて、遂に功を速佐須良姫に歸す。則ち吾道の歸宿、神聖の心法、亦た以て默識すべし。蓋し素尊荒金の性、日に鍛へ月に錬り、終に莫大の功徳を成得たるもの、皆な此より出づ。夫れ辛苦困難、つぶさに之を嘗めずんば、則ち清々の地、豈に其れ期すべけむや。徳性を養ひ、氣質を變ずる、是に於いてか、以て法と爲すべし。故に曰く、學術の要、唯だ此の二字を貴しと爲すと。學者、尤もよろしく服膺すべし」
と述べてゐる。然らば即ち千辛萬苦のうちに錬磨して、やがて清清の境地に到達するは、神道に於いて、既に先賢の明示するところである。
 災厄の日に、周章狼狽するは、勇士の耻づるところ、苦難の時に、變説改論するは、君子の爲さざるところである。神道が、此の災厄に畏怖せず、この苦難に退轉せず、むしろ轉禍爲福の妙用を發揮すべき時、先賢の教は、炳として後學の行手を照らすのである」と。


◆◆◆ 靖國神社考56・平泉澄博士『神道と國家との關係』 投稿者:備中處士 投稿日:12月 4日(月)18時11分8秒◆◆◆

●平泉澄博士『神道と國家との關係』(昭和三十一年冬・『寒林史筆』所收)に曰く、「
 我が國は、古來神國と稱せられ、神道と國家との關係は、明々白々、一點の疑を容れないところである。しかるに、それが問題となつたのは、大東亞戰爭、一敗、地にまみれて、一國の政治、占領軍の力制頤使にゆだねざるを得なかつた時、その占領政策の一つ、しかも、極めて重要なる一つとして、神道と國家との分離が、強制強要せられてより以來の事である。而して其の占領は、足掛八年にして終つたけれども、一たび設定せられたる枠は、容易に之を除去する事が出來ず、一たび掘られたる溝は、今も猶ほ之を埋め得ずして、今日神道と國家との關係は、頗る困難な状態に在り、困惑と動搖とが、隨所に現れてゐるのである。されば此の重大なる問題、國家より之を見れば、國家の命脈に關する問題、神道より之を見れば、神道の死活に關する問題、之を明確にする事は、我等の最も重大なる任務である。‥‥
 即ちそれぞれの國家が、その國の功勞者を祀るは、當然の事であつて、イギリスかくの如く、フランスかくの如く、イタリヤかくの如くであるに拘らず、何故に日本國は、その國家の大事を雙肩に擔ひ、國家を危難より救つた功臣を祀る事を、遠慮し、忌避しなければならないのであるか。占領政策は不當に苛酷であり、獨立後の踏襲は、無自覺な屈從であるといはなければならぬ。
 神道と國家との關係は、是に於いて極めて明瞭である。神道は國家と不可分の關係にある。それは制度の上に於いてよりは、その信仰、つまりその本質の上に於いて、さうである。神道は國家の特別の保護を受くべきものとして云ふのではない。國家の安泰を祈り、大難に臨んで、君國を守護すべきものとして云ふのである。同時に、日本の國家は、神道の信仰、神道の精神を、その基盤として、建立せられ、存立してゐるのである。日本國にして、この精神、この信仰を失ふ時は、それは實に存立の基盤を失ふ時であり、動搖の危機に直面するものといはなければならぬ。我が國は神國なりといふは、既に千年も前より云ひふるされたる言葉である。しかしながら今日の悲運に際會し、日本國と、神道と、二つながら逆境に在り、艱難の極に在る時に於いては、神國日本といふ言葉は、從前に百倍し千倍する深刻と崇高神嚴とを以て、我等の胸を打つのである」と。


◆◆◆ 靖國神社考57・平泉澄博士『神道の眼目』 投稿者:備中處士 投稿日:12月 5日(火)18時14分34秒◆◆◆

●平泉澄博士『神道の眼目』(昭和三十三年九月『千家尊宣先生還暦記念・神道論文集』所收)に曰く、「
 行路の難きは、山よりも難く、水よりも險し、行路の難きは、水に在らず、山に在らず、只だ人情反覆の間に在りとは、白樂天が夫婦の關係に借りて、君臣の間の道義、終を全うせざるもの多きを歎いた「太行路」の詩の一節であるが、國運の消長、あだかも潮の干滿の如くに急であつた此の十年餘りの間に、我等は不幸にして古人の此の歎息をくりかへさゞるを得なかつた。特に尊朝愛國を以て賞せられたのは、國史の明記せられる所、持統天皇四年、大伴博麻に始まるのであるが、それは尊朝愛國の文字の見えるのが珍しいだけで、尊朝愛國の事實は、それ以前に數多くあり、それ以後に數多く存し、一々の事蹟を探るまでも無い。國家の建設及びその存續が、一に尊朝愛國に依るものであつて、それ無くして國家の存立し得ない事は、道理明々白々であると云はねばならない。人と人との結ばれるは、尊敬と愛情とによつてでなければならぬ。まして國家の結成であれば、その尊敬も愛情も、極めて高く強いものでなければならぬ事、理の當然であるのに、そしてそれは十數年前まで、何人も疑はなかつた所であるに拘らず、今日忠君愛國を説く者少なく、稀に之を説く者あれば、世人は目するに頑迷を以てし、固陋を以てし、到底之に同調し得ざる時代はづれの思想とするのである。
 これ然し更に深くその根柢を洗へば、國家に對する感激のうすらいだ事が、その本源を成してゐるのであらう。大東亞戰爭の初め、勝利の快報、相ついで至るや、人々は歡喜して君が代をうたひ、踊躍して日の丸の旗を振り、君國の尊嚴を仰ぎ見、永遠の隆昌を讚美した。しかるに數年の激戰、遂に利なく、やむを得ずして膝を屈するに及び、浮薄の徒輩は俄かに幻滅を感じ、やがて此の土に進駐し來り、抗敵すべからざる武力を以て、既に武器を放棄したる民衆に強壓に加ふる事、七八年の長きに及ぶや、人心は動搖し、信念は變化した。今は日の丸の旗を掲げる感激もなければ、君が代をうたふ熱情もない。その最も具體的に現れた一つが、紀元節の反對である。
 凡そ國民として、その國家の建設を喜び、之を追思し、記念して、祝賀の意を表するは、當然の事である。しかるに世には、或はその年代に誤差ありとし、或はその史實に疑惑ありとして、紀元節に反對し、單なる反對でなく、結束して囂々たる非難を弘布しつゝあるのである。その反對のいはれなき事は、既に我等の論じて、ラジオにより、書籍によつて普及したる所であるから、こゝには説かぬ。たゞ一つ、その後某新聞に出てゐた所であるが、某教授は、國史學の專攻でありながら、紀元節の問題には興味が無いと云つてゐるといふ、この不思議の言について少しく觸れて置かう。凡そ歴史を攻究する者にとつて、國家民族の興亡盛衰こそ、最大の關心事であらねばならぬ。國衰へて何の藝術であらう。民族亡びて何の文學であらう。國史を學ぶ者は、我が國の興起について、溯つて國家の建設について、深く考ふる所なければならぬ。しかるに紀元節の問題に興味なしとして、その論評をさしひかへる事は、取りも直さず我が國の盛衰に無關心なる事の表明であり、國家に無頓着になり、國家をかろんずる俗見濁流に溺れたものといはざるを得ないのである。


◆◆◆ 靖國神社考58・平泉澄博士『神道の眼目』、續 投稿者:備中處士 投稿日:12月 5日(火)18時17分3秒◆◆◆

〜承前〜

 國史家の中にかゝる浮薄の態度が見られるのみでは無い。神道家の中にも、神道は國家との關係を離脱する事がその本旨であり、嘗て國家との關係緊密であつた事は、その本旨にもどるものであり、やむを得ざる強制に出でたものであつて、敗戰によつて初めて本然の姿に復歸したかの如くに説くものがある。我等はこゝに占領政策の完全なる成功と、臆病なる心の完全なる慴伏とを見るのである。
 無論、中には國家との關係の復活を希望する聲も聞かれる。しかし大切なるは、形式上の復縁、或は國家の保護を受ける事には無くして、根本の問題は、神道が皇國護持の祈りに生きる事になければならない。苦難は、至深の祈りと懸命の努力とによつて、克服せらるべきものであつて、その至誠なく、その勤勞なくして、漫然他にすがる依頼心によつては、解決せらるべくも無い。そしてそれは、苦難の程度が深刻苛烈であればあるだけ、一層重大なのである。嘗て南風競はず、皇國の道義、地に墜ちようとした時に、伊勢の神宮の貢獻した所、否、それ以上に、北畠親房公の奉公された跡をかへりみるがよい。神道の當面する苦難を突破すべき方途は、神道の當に生くべき所に生き、立つべき所に立ち、行くべき道を行ふ以外には無い。
 親房公の理解し、信仰し、而して宣布せられた所には、その時代の學問思想の影響を受けて、多少の附會もあり、混雜もあるものゝ、その中核をなし、主幹をなすものは、實に神道の本質であつて、その點では後世群小神道家の遠く及ぶ所では無い。
 親房公と離れる事は、神道の本質から遠ざかる事である。皇國の一大事因縁を忘却する時、神道は單なる原始宗教か、又は低劣なる民俗に墮するであらう。いかにもそれは、本來神道と無縁のものではないであらう。しかも日本の國家建設と共に、神道は向上し、高揚せられた。「日本」なる國家は、神道に於いて、莊嚴淨土に外ならぬ。‥‥
 若林強齋の『神道大意』に、
 「生きては忠孝の身を立てゝ、どこまでも君父にそむき奉らぬ樣に、死しては八百萬神の下座につらなりて、君上を護り奉り、國土を鎭むる神靈となる樣にと云ふより外、志はないぞ、じやによつて死生の間にとんじやくはない」(谷省吾學士所藏、享保十年、野村正明筆録本)。
と云ひ、その門下松岡文雄の『神道學則日本魂』に、
 「たとへ儒生・釋徒・異端・殊道の頑なるも、村□[田に亡]・野夫・賈販・奴隷の愚なるも、悃々□[ヒに矢に欠]々として國祚の永命を祈り、紫極の靖鎭を護る者は、此れ之を日本魂といふ」。
と云ひ、その『附録問答』に、
 「異端といへども、此の君を尊んで寶祚長久を祈り奉る者は、反て我が國の一物也。只だ明けても暮れても、君は千世ませ千代ませと祝し奉るより外、我が國に生れし人の魂はなき筈也」。
と云ふと、相通ずるものである。
 されば名は神道とは云はないでも、此の根本主要の點に於いて明確に符合するものは、即ち是れ神道であり、同時に此の眼目に於いて相容れないものは、名は神道といひ、形は神道に似ようとも、それは神道の異端に外ならぬ。前者の適例は、根本通明の『讀易私記』である。曰く、
 「按ずるに、天子一姓の道、もと是れ天道なり。然れども教學に非ざれば、則ち此の道を持すること能はず。教學の國家に於ける、此れより重きはなきなり」(原漢文)。
又た曰く、
 「夫れ君臣の道たるや、百諫きかれざるも、逃れて去るの道なし。しかるを況んや天子一姓、皇統相繼の國に於いてをや。君道の隆なること、天子一姓の國より盛なるはなし。君命一たび之に下れば、則ち難を犯し死を視ること、猶ほ歸るがごとき也。難に臨んでは、則ち之に死する能はざるを以て耻となす。死する能はざる者あれば、則ち父母も子とせず、妻も夫とせず、朋友も齒ひせざる也。曰く、建國以來の君臣にあらずや。汝ひとり汝の祖、奕世勤王、忠を盡せしを念はざるか。何ぞその死せざると。故に天子一姓、その兵、天下に敵なし」(同前)。


◆◆◆ 靖國神社考59・平泉澄博士『神道の眼目』、續々 投稿者:備中處士 投稿日:12月 5日(火)18時18分27秒◆◆◆

〜承前〜

 これ即ちラフカジオ・ハーン小泉八雲の驚嘆して注目したるところである。彼は日本の社會構造が、すべてその根強き祖先崇拜の上に立つてゐる事、日本の歴史は、實際その宗教の歴史である事に注意して、生者にあらずして、むしろ死者が國民の統治者であり、國民の運命の形成者であつたと喝破してゐる。そしてたまゝゝ際會した日露戰爭に、國民の踊躍して難に赴くさまを見て、
 「今戰爭に召集されて居る數萬の青年にして、光榮を荷つて本國に歸らうと云ふ希望の言葉を洩らすものは、一人もない、――口に出す希望は、天皇と祖國の爲めに死んだ者の靈が集まる處と信ぜられて居る招魂社――『靈を呼び起こす社』に祀られて、長く世人に記憶されようといふ事のみである。古來の信仰の、此の戰爭の際ほど強い時はない。(中略)愛國の宗教としての神道は、充分にその力を發揮させれば、極東全部の運命に影響を及ぼすのみならず、文明の將來に影響すべき力である。日本人が宗教に無頓着であると説く位、日本人に就いての不合理な斷言はない。宗教は今迄のやうに、今も猶ほ日本人民の眞の生命であり、――彼等のあらゆる行動の動機で、また指導の力である。實行と忍苦の宗教であり、僞信と僞善のない宗教である」(戸川明三氏譯文による)。
と驚歎したのであつた。
 小泉八雲の後に於いて、神道を、從つて日本を、その本質に迫つて理解し、禮讚した人は、蓋しポンソンビ博士であらう。博士はその所信を表明するに、驚くべき勇氣を以てした。即ち博士自身は、滔々たる世界の潮流に抗して、確固不動の尊王家であつて、今猶ほ帝王神權説を信奉する者なる事を告白し、君主の稱號は、決して臣下によつて奪はれるものではない事を斷言し、特に日本の天皇は、肉體を具へさせ給ふ所の神、即ち現人神にまします事、そしてそれは、單にその職務のためばかりでなく、その血統のために、さやうにあらせられるのである事、且つまたそれは、天皇御自身の宣言、又は布告によるものでも無ければ、人民一致の贊成によるものでもなく、實に天照太神の直系の後裔に在らせられるが故に外ならぬ事を説いてゐるのである(佐藤芳二郎編『ポンソンビ博士の眞面目』參照。愚案、此の本の副題は、「日本の神を敬ひ、日本の皇を尊び、日本の國を愛し、日本に住み、日本で死んだ、一英人日本學者」昭和三十三年五月・本尊美記念會刊)。
 あゝ斯くの如きは、純眞なる日本人のすべてが先祖代々信じて來た所である。しかるに占領軍の政策が、此の信念をくつがへす事こそ、強き日本の國家組織を弛め、固き日本の國民團結を崩す上に、最も效果ありと看て取つて、こゝに打撃を加へて以來、人々の信念は動搖し、皇國日本と同時に、神道も亦よろめきわたつたのであつた。禍なるかな、心臆したる者よ、信仰は脅迫によつても抂げられない筈ではないか。信仰に對する脅迫は默殺してよろしく、默殺が猶ほ許されないならば、死を以て抵抗してよいではないか。況んや占領は、七八年にして終つたのである。颱風は一過したのである。神道は、その本來の面目に立ちかへるべきである。
 神道は正直をたふとぶ。いかに巧妙なるも、そらゞゝしき詭辯は、神明のうけ給はざるところである。神を祭る者は、神を信ずる者は、神に祈る者は、世の濁流に恐れ、之に媚び、わづかなる戰の勝敗によつて、態度を二三にしてならぬ」と。


◆◆◆ 靖國神社考60・平泉澄博士『神道の本質』 投稿者:備中處士 投稿日:12月 6日(水)17時54分22秒◆◆◆

●平泉澄博士『神道の本質』(神社本廳主催指導神職研修會・昭和五十一年七月二三兩日集中講義・於伊勢の神宮道場、平成十年九月『先哲を仰ぐ・三訂版』錦正社刊に所收)に曰く、「
 和氣清麻呂公が大きな陰謀を打碎いて、本當の神慮をうかゞひ知ることができたといふことは、既に命がけの行であるといふことを痛感するのであります。これが神道である。なまやさしいものでない。‥‥
 源實朝公は、神道の行者であつて、日本の神道及び日本の道義の殉教者といふべきであります。‥‥
 法規といふものは守らなければならぬ。しかしもつと大切なものは、道義であります。道義を根本にして、法規といふものを運用してゆかなければならぬ。神社行政は、(非常な忠君の)家の子孫が、何かの缺陷が有るにせよ、それを何とか世話をしてゆくといふことを考へるべきである。國家は、その最も悲運のときにおいて、國家の根本を培つてきた人々を無視してはならぬ、と云ふ事を私は思ひます。‥‥
 和氣清麻呂公・菅原道眞公・源實朝公・明惠上人・北畠親房公・山崎闇齋先生・澁川春海先生・谷秦山先生・橘曙覽先生・眞木和泉守、全部誰一人として、安穩な生活を送つた人がない。‥‥これといふ國家の保護を受けた人はない。神道は國家の保護をうけて伸びたのではない。國家をお守り申し上げる。この考へに、神道は立たなくてちやならん。われゝゝは、國の保護を要求すべきものではない。國をお守り申し上げることを考へなくちやならぬ。そしてこれによつて、はじめて神道も神道として生き、日本の國も日本の國として生きる。‥‥神道は、何らの保護をうけてをらない。むしろ國を荷つてきました。このことを私共は銘記しなければならないと思ひます。この氣魄あつて、はじめて神道は發揮されると思ひます。‥‥
 國家の重大事は、心を澄ましてをるといふと、分つてくる。神道は、巫女さん、いろんなことを豫言したり豫想したりする人がありますが、あゝいふくだらんことに陷つてはならぬが、しかし國家の重大事においては、神道は神々の力を借りて、進路を誤たぬやうにしなくてはならぬ。つまりはわれゝゝが神を信じ神に祈る、そのまことが、どこまで徹底してをるかといふことにあると思ひます。‥‥
 今後の日本の前途を思ふと、重大な苦難、苦難と云ふ以上の恐るべき事態が、さしせまつてゐることを思ふのであります。その間において、皇國をお守り申し上げ、日本の永遠の重みといふものは、神道の雙肩にかゝるものだと思ひます」と。


◆◆◆ 靖國神社考61・尚武重忠は、皇國不變の國是なり矣 投稿者:備中處士 投稿日:12月 7日(木)18時08分4秒◆◆◆

●秦山谷先生『炳丹録序』に曰く、「
 世之所謂眞儒、徒に中庸時中之語を執り、深く造(いた)ること能ず。妄りに解するに時に諧ふを以てし、己之諛悦側媚之謀に便す。擧俗、相ひ慣ひ、靡然として風を成す。余、竊かに懼るゝこと有り焉。因て繙閲有る毎とに、其の忠憤激烈、磊磊落落なる者を勾索し、且つ考へ且つ謄し、頃(このご)ろ積んで册を成す。題して炳丹録と曰ふ。蓋し諸れを朱子、唯だ此の一念、炳然として丹の如しの言に摘む也。
 夫れ子と爲て孝に死し、臣と爲て忠に死するは、乃ち天倫之常分、人道之大節、天地之間に逃るゝ所ろ無し矣。是を以て紀綱紊亂、風俗頽弊之朝に立てば、則ち謇謇諤諤、以て上、主聽を悟し、下、民生を保たずんばある可からざる也。流竄放謫、較べざる所に在り。國家顛覆、宗社、墟と爲るの秋に屬(あ)はゞ、則ち節に仗り義に死して、以て外、平日温飽之恩に酬ひ、内、人心本然之安きに就かずんばある可からざる也。刀鋸鼎□[金に獲の右]、辭せざる所に在り。是れ皆な臣子、當然之實務、貴賤、問ふ所に非ず、班列、顧みる所に非ざる也。
 古昔、箕子・比干といふ者有り、天子之貴戚也。又た伯夷・叔齊といふ者有り、海濱之褐夫也。倶に青史に鎭埀し、凛乎として萬世人道之大義を振ふ。其の功、特に此に在り。而して凡そ策書の傳ふる所、忠臣と曰ひ義士と曰ひ賢人と曰ひ君子と曰ふ者も、亦た皆な是れのみ已。其れ然り也、正に當に天地と竝べ稱して人と曰ふべし。而して其の他は、同じく髮を戴き齒を含むと雖も、只だ是れ糞壤草木なるのみ也已。
 然りと雖も生死、事、大なり。苟くも義、以て其の私を制し、氣、以て其の決を致すに非ざる自りんば、未だ必ずしも變を歴、險を蹈んで、而して移らざる者有らざる也。蓋し義は精す可き也。其の方、知を致すに在り。氣は大にす可き也。其の術、志を持するに在り。其の傳、孟子之書に出で、其の説、朱子之言に詳かなり。諸れを窮むるを儒學と曰ひ、焉れに達するを眞儒と曰ふ。近世腐儒之云云する所と、其れ豈に絲髮之似たる有らんや也哉。
 今ま斯の一編、漢自り明に至り、賢人君子、傾くを支へ躯を捐(す)つる、義膽忠肝、頗る備はれり。方に當世の學者とともに講明するに好き者なり。然りと雖も夫の數君子、或は謫死し或は餓死し或は斬死し、或は妻子、□[サに俎]醢せられ、或は父母、屠肉せられ、絶えて一箇之飽食、安居する者無き也。吁、是れ今日、滔滔之士、聞くことを樂しむ所ならむや耶。遂に繕寫して之を藏す」と。

●景岳橋本先生『參政中野靱負(雪江)に送りたる照會書』(安政三年四月二十六日)に曰く、「
 但だ國是と申す者は、國家祖宗の時、既に成り居り候ふ者にて、後代子孫に在りては、其の弊を救ひ候へば、宜しき義に御座候ふ。子孫之代に在りて、別段、國是を營立すると申す例しもなく、道理もなし。祖宗とても、別に深智巧慮して御編み出し被成れ候ふにては無之く、但だ天地自然、一定之理に御基づき被遊れ、時勢人情を御斟酌被爲在られ、衆人之心、一同趣向致し候ふ處を御考合せ被成れ、國是御立て被遊れ候ふ也。‥‥
 元來、皇國は異邦と違ひ、革命と申す亂習惡風、無之き事故ゑ、當今と申し候ひても、直に神武天皇の御孫謀、御遺烈、御恪守、御維持被遊れ候て、然る可き義と存じ奉り候ふ。但し右申上げ候ふ通り、時代之沿革と申す者、有之り候得ば、神皇之御意に法り候ふ事、肝要にして、其の作爲制度に至り候ては、些少、換改潤色、無之く候半では、叶ひ申さず候ふ。
 然れば神皇之御孫謀、御遺烈と申し候ふは、即ち人、忠義を重んじ、士、武道を尚びふ二箇條に御座候ふ。此れ即ち我が皇國之國是と申す者に御座候ふ也。此の二箇條、皇國之皇國たる所にして、支那之華靡浮大、西洋之固滯暗鈍に比し候得ば、雲泥之相違、神皇之御遺烈、必ず尚武重忠の四字に限り申し候ふ。‥‥
 實に尚武之風を忠實之心にて守り候はゞ、風俗も益々敦重に相成り、士道も益々興起仕り、國勢國體、萬邦に卓出仕る可く候ふ事、目前に御座候ふ。決して唐樣を慕ふにも及ばす、和蘭陀の眞似をするにも及ばざる可く存じ奉り候ふ。
 既に東篁(師の崎門學者たる吉田翁)論中にも有之り候ふ通り、忠實の二字は萬世之龜鑑、百行之根本、此は寢ても醒ても忘却す可からざる義に御座候ふ。幸ひ此の忠實之二字も、我國之得手物に候へば、此の得手物を棟となし、彼の尚武と申す得手物を梁に致し候はゞ、如何なる大廈も建營申す可く、隨分、五大洲に武徳を輝し候ふ事も出來申す可き也。況や彈丸黒子之北地(露西亞)に雄峙致し候ふ位は、論ずるに足らずと存じ奉り候ふ。
 國是之論は、此の外、一言も申し上ぐ可き事なし。右之趣、反復御考斷被下る可く候ふ。‥‥
 大丈夫、憂ふる所は國家之安危、撰ぶ所は義之至當と不當とのみ耳、其の他は論ぜざる所なり」と。


◆◆◆ 靖國神社考62・熱祷し奉る、靖國神社の復古を 投稿者:備中處士 投稿日:12月 8日(金)00時11分7秒◆◆◆

 掉尾に當り、皇國日本の再興と靖國神社の彌榮を、謹んで懇祷し奉る。

●賀茂百樹大人『靖國神社誌』「緒言」に曰く、「
 靖國神社は、皇上御仁徳の餘澤と、國民盡忠の精神との結晶にして、明治の昭代に於ける精華なることは、今更ら喋々を竢たず。されば他の幾多の神社に異なれる由緒と特例とを有せること、勿論なり。
 忠魂を慰むる爲に神社を建てゝ、永く祭祀せむ、益々忠節を抽んでよ、との最も忝き叡慮によりて創建せられしが如き、例祭日を年中數囘に勅定あらせられしが如き、其の祭典は、凡て勅旨を以て行はせ給ひしが如き、且つ例祭に勅使を御差遣あらせらるゝが如き、その祭神數の、國家の隆昌と與に増加し給ふが如き、各郡村に亙りて祭神の遺族あらざるなく、翕然として國民の崇敬を一にせるが如き、是れ他の神社に異なる由緒と特例なりとす。
 されば皇室の御殊遇は申すも恐し、國家の敬待、亦た異なるものあり。而して祭神の靈徳に至りては、更に掲焉なりとす。義勇、公に奉じ、天壤無窮の皇運を扶翼し奉り、生きては不滅の勳業を建てゝ、國家を泰山の安きに置き、死しては不朽の感化を埀れて、極天、皇基を守護し給へるが如き、わが大和民族の標識として、千木高く雲際に仰がれ、國家元氣の神藪として、宮柱動きなく、萬世に齋はれ給ふ。斯かる特別神社なれば、自ら一般の神社法規を以て律すべからざるものあり。此の書を見るもの、亦た其の意を以てせざるべからず」と。

●同上「起源」に曰く、「
 謹みて按ずるに、皇祖、國を建て統を埀れ給ひしより、列聖相承け、億兆を慈育し給ひて、恩徳、洽く民心に孚し、深く肺腑に徹しぬれば、臣民、唯だ皇室の御爲めに身を獻げて、忠勇、事にしたがひ、死しても、亦た護國の神たらむことを期す。生死一貫、國家に對する赤誠は、この國民の性格となり、遂に我が國體の美を濟し、國史の粹を作るに至りぬ。
 それ敬神尚武は、政教の大本にして、忠勇は、國家の元氣なり。國家の元氣は、強健ならざるべからず。是れ古來神社を建設し、忠勇の神靈を奉祀して偉烈を顯彰し、威靈を欽仰する所以なり。されば此の事の、獨り我が國にのみ存して、他國に之なきは、固より然る所なりとす。
 而して幕府施政の末期、時運窮極し、内憂外患、荐(しき)りに臻(いた)るや、勤王の志士、雲の如くに起り、元氣の□[酉に温の右]釀する所、王政復古の大業を激成し、進取の國是、維れ新たにして、明治二十七八年役を經、明治三十七八年役にいたりて、有史以來、未曾有の偉績を奏し、東洋の局面を一變し、世界の歴史に異彩を放つに至りぬ。神州正大の氣の靈動、遺憾なしと謂ふべし。
 されど嘉永癸丑以降、忠憤義烈、殉難死節の偉丈夫を失ひたること、亦た夥し。是に於てか、先帝、大いに之を愍ませたまひ、民間に於ても、志士また志士を追念し、神州の特風として、靈祭擧行の議を提唱し、‥‥
 固より叡慮によりておこり、國體に適合せる擧なれば、年と共に、愈々人心に感孚し、明治十二年、社號を賜ひ、社格を附せられ(割註略)、長へに祭祀の典を擧げしめられ、畏くも萬乘の尊を以てして、尚ほ且つ崇敬の禮を加へさせ給へば、至誠至忠なる我が祭神の威徳は、赫々として内外萬邦に輝き、臣子後昆、永く聖慮の辱きを念ひ、天壤無窮の帝道と與に、臣道の發揚、亦た盡くる期なからんとす。神州の生民、誰か額手して祝福せざるものあらむ」と。


◆◆◆ 靖國神社考63・跋 投稿者:備中處士 投稿日:12月 8日(金)00時13分51秒◆◆◆

 本論考は、『チヤンネル櫻→掲示板→本格議論→「靖國神社に、清淨と静謐の環境を!」』なるスレツドを、増補改訂したものです。松平永芳大人の口述『誰が御靈を汚したのか・靖國奉仕十四年の無念』を基礎として、俄か勉強にて、どうにかこゝまで書き終へました。愚案放言は兎も角、其の引用および其の配置には魂を込め意を寓しましたので、些か清鑑に供せしこともあらむかと自ら慰めて、閲覽を煩はせた御方には、更めて滿腔の謝意を捧げます。洵に難有うございました。
 なほ御神璽(御神體)の御件は、新たに探索し得た所もございますが、『靖國神社誌』の奉記以外は、憚り多し(本來、謹中の極謹、祕中の極祕にして、一部の者のみが拜見し得、且つ守祕するもの、喋々口外を許さゞるものならむ)と考ふるに至り、之を控へさせて戴きましたこと、一言こゝに申し添へたいと存じます。

 我々日本人は、産靈紋理のまゝに、皇御民に生れたることを、難有き無上の喜びとし、然るが故に、
天照日坐皇大御神の神勅を奉體して、
上御一人の大御心に副ひ奉り、顯幽兩界を通じて、神人相共に、大神業を翼贊成就する使命を奉行貫徹しなければならぬことは、更めて申し上げるまでもありませぬ。

 靖國神社の御事につきましては、
天皇陛下の大御心、靖國大神の御心を第一に考へることが根本、人間樣(祀職・ご遺族・崇敬者を含む)の考へは、其の次である、と愚考いたします。
 「靖國神社中興之祖」と謳はれし松平芳永大人と雖も、宮司退任後に在つては、御祭神の「コンピユータ管理」に對し憤怒、又た「鎮霊社」に對する「宮司願ひ」等、如何しようも無い事もあられたやうであります(「一兵士」樣の證言)。加ふるに保守家の論調、掲示板等に於ける各位のご意見を拜聽しても、首相の靖國神社參拜の實績を熱望され、參拜の作法・心構へは二の次と考へてをられる御方が殆んどであると御見受け致します。而して之を放置傍觀せむか、聖旨の空洞、祭祀の俗化、或は權力への接近、洵に靖國神社の將來を懼れざるを得ません。
 つらゝゝ思ふに、本末先後を忘却轉倒した不禮不淨を重ねる首相參拜は、之を深く悲しみ憂ふる所にして、否、内外に對するパフオーマンスに終始する、神道を信仰せざる者の參拜は、遂に之を許す事が出來ない。是れ即ち、おほけなくも管見を開陳してまで、「松平精神の復興恢弘」を訴ふる所以であります。爾後、彌や益々に、
皇上陛下の稜威を仰ぎ奉り、幽顯一貫の確信を以て、神明の照覽を乞ひつゝ、顯身の此の臭皮袋が信ずるところを、出來ることを、謙虚に省みながら、鋭意、辛苦努力して參る所存であります。
 冀はくば、靖國神社の現状を憂ふる方々よ、能ふべくんば、祀職の御方へ、總代の御方へ、質疑諫言をして戴きたく、能はざれば、靖國神社の清淨と靜謐を懇祷たまはりたく、靖國神社奉贊の實を上ぐる爲め、相共に、擧族殉皇、報恩感謝の精神を、地道に且つおほらかに、「時を待つて動く」の氣概を以て、謹んで相承恢弘して參らうではありませんか。  恐惶謹言


●松陰吉田先生『又讀七則』に曰く、「
 天朝を憂へ、因て遂に夷狄を憤る者あり、夷狄を憤り、因て遂に天朝を憂ふる者あり。‥‥然れども其の孰れか本、孰れか末なるは、未だ自ら信ずる能はざりき。向に八月の間、一友に啓發せられて、矍然として始めて悟れり。從前、天朝を憂へしは、竝な夷狄に憤りを爲して見を起せり。本末、既に錯れり。眞に天朝を憂ふるに非ざりし也」と。

●神祇道學師・神習舍薑園佐久良東雄大人の哥
○ 死に變り 生きかはりつゝ もろともに 橿原の御代に かへさゞらめや


 平成十八年十二月八日 大東亞戰爭開戰大詔奉戴六十五周年の日に、筆を擱く

 『靖國神社考』、件の如し。敬拍手   備中處士 拜


◆◆◆ 靖國神社考64・參考文獻一 投稿者:備中處士 投稿日:12月 9日(土)19時08分51秒◆◆◆

●參考文獻(敬稱省略・順不同)

【詔勅・御製】
一、森清人『みことのり』(平成七年六月・錦正社刊)
一、阪本健一「明治天皇の神祇關係詔勅解説抄」(『明治神道史の研究』昭和五十八年十二月・國書刊行會刊に所收)
一、宮内廳侍從職編『昭和天皇御製集・おほうなばら』(平成二年十月・神社本廳刊)
一、「天皇陛下御製・皇后陛下御歌」(『今上陛下を仰ぐ・平成の御代に生きる國民として・論文選集U』同十六年三月・日本青年協議會刊に所收)

【賀茂百樹】
一、賀茂百樹『靖國神社誌』(明治四十四年十二月・四十五年六月改訂/「近代神社行政史研究叢書W」として平成十四年八月・神社本廳教學研究所復刻)
一、賀茂百樹『明治神宮と靖國神社との御關係』(大正九年十一月三日謹述、昭和九年十二月・有備會本部刊)
一、賀茂百樹「大御心」(大正十二年七月十二日謹述、『明治神宮と靖國神社との御關係』所收)

【筑波藤麿】
一、靖國神社「みたま祭」祝詞(神社新報社編『最新祝詞例文集』下卷・昭和三十七年六月刊)
一、靖國神社「昭和四十三年十月十八日・秋季例大祭當日祭」祝詞(梅田義彦『祝詞範例全書』昭和四十五年一月・堀書店刊)

【松平永芳】
一、松平永芳「日本の心、未だ失せず」(日本學協會『日本』昭和五十四年三月號/靖國神社々報『靖國』同五十四年四月號)
一、松平永芳「平泉澄先生仰慕――御家庭における先生御夫妻」(『日本』昭和六十年二月號)
一、松平永芳「新春隨想」(東京教育懇話會「第二五二囘例會報告」昭和六十年正月十八日、『東京教育懇話會志・續輯』平成二年十一月刊に所收)
一、松平永芳「靖國神社當面の諸問題」(東京教育懇話會「第二六四囘例會報告」昭和六十一年二月十七日、『東京教育懇話會志・續輯』所收)
一、松平永芳「感懷『有難う』と言ふこと」(『日本』昭和六十一年五月號)
一、松平永芳「我が家の生涯教育」(『日本』昭和六十二年七月號)
一、松平永芳「靖國神社」(新人物往來社『別册歴史研究・神社シリーズ・靖國神社』平成元年刊)
一、松平永芳「謹愼謙虚」(『靖國』平成四年二月一日號)
一、松平永芳「誰が御靈を汚したのか・靖國奉仕十四年の無念」(文藝春秋社『諸君』平成四年十二月號)
一、松平永芳「讓ることのできない傳統の一脈・祖父春嶽の精神を受け繼ぐ者として」(日本青年協議會『祖國と青年』平成五年一月號/『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集T』同十五年三月・日本青年協議會刊に所收)
一、松平永芳「家庭教育(精神・しつけ教育)について」(『日本』平成十八年一月號・三月號)
一、伴五十嗣郎「靈魂不滅・松平永芳樣を偲ぶ」(『日本』平成十七年九月號)
一、永江太郎「今は亡き松平永芳樣の追憶」(『日本』平成十七年九月號)
一、渡辺一雄「元靖國神社宮司・松平永芳氏・怒りの遺言・最後にこれだけはいつておきたい・病床で語られたお言葉を、今、全公開する」(『諸君』平成十七年十月號)

【大野俊康】
一、大野俊康「後に續くを信ず・戰歿學徒が殉じた『神國日本』」(『祖國と青年』平成十一年十月號/『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集T』所收)

【湯澤 貞】
一、湯澤貞『句集・散る櫻』(平成十六年九月・近代出版社刊)
一、湯澤貞「靖國の言ひ分、英靈たちの聲」(産經新聞社『正論』平成十七年八月號)

【全  般】
一、阪本是丸「『靖國』の基礎知識」(江藤淳・小堀桂一郎編『靖國論集・日本の鎭魂の傳統のために』昭和六十一年十二月・日本教文社刊に所收)
一、藤波孝生「インタビユー・中曾根政權を支へた元官房長官が明かす靖國參拜の舞臺裏」(『正論』平成十三年十一月號/小堀桂一郎・渡部昇一編『決定版・全論點・新世紀の靖國神社』同十七年十月・近代出版社刊に所收)
一、小堀桂一郎『靖國神社と日本人』(平成十年八月・PHP新書)
一、小堀桂一郎「天皇陛下の靖國神社御親拜を」(『祖國と青年』平成十四年四月號/同十五年三月刊『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集T』所收)
一、所功『飯盒の遺書・ソロモン戰跡巡拜報告』(皇學館大學講演叢書第二十五輯・昭和四十八年六月・皇學館大學出版部刊)
一、所功『靖國の祈り遙かに』(平成十四年七月・神社新報社刊)
一、所功『あの道、この徑、一○○話』(平成十六年十二月・モラロジー研究所刊)
一、所功「『靖國祭神』の要件と合祀の來歴」(藝林會『藝林』平成十八年十月・第五十五卷第二號)
一、永江太郎「展示パネル編集責任者の證言・米中の靖國『遊就館』批判に應へる」(『諸君』平成十八年十一月號)
一、大原康男『「靖國神社への呪縛」を解く』(小學館文庫・平成十五年八月刊)
一、石原藤夫『靖國神社に參拜しよう』(平成十八年四月・榮光出版社刊)


◆◆◆ 靖國神社考65・參考文獻二 投稿者:備中處士 投稿日:12月 9日(土)19時10分32秒◆◆◆

【平泉 澄】
一、平泉澄「神道の自主性」(昭和二十七年冬・『寒林史筆』同三十九年七月・立花書房刊に所收)
一、平泉澄「受難の神道」(昭和三十年冬・『寒林史筆』所收)
一、平泉澄「神道と國家との關係」(昭和三十一年冬・『寒林史筆』所收)
一、平泉澄「神道の眼目」(昭和三十三年九月『千家尊宣先生還暦記念・神道論文集』所收)
一、平泉澄「靖國神社總説」(神道史學會『神道史研究』昭和四十二年十一月・第十五卷第五第六合併號)
一、平泉澄「神道の本質」(神社本廳主催指導神職研修會・昭和五十一年七月二三兩日集中講義・於伊勢の神宮道場、『日本』同六十年四月號〜九月號/平成十年九月『先哲を仰ぐ・三訂版』錦正社刊に所收)

【其  他】
一、宮内省(圖書寮)藏版『修補・殉難録稿』(昭和八年十一月・吉川弘文館刊/平成十七年三月・マツノ書店復刻)
一、友清歡眞『靈の世界觀』(昭和十六年十月刊/『友清歡眞全集』第三卷・同四十六年四月・神道天行居刊)
一、井原頼明『増補・皇室事典』(昭和十七年四月・冨山房刊/同五十四年五月復刊)
一、永積寅彦『八十年間お側に仕へて・昭和天皇と私』(學習研究社・昭和五十七年二月刊)
一、勅使河原大鳳『「異境備忘録」釋義・幽神界研究』(平成十四年十月・山雅房刊)
一、葦津珍彦「かくれたる民の心を」(『現代維新の原點』昭和五十一年七月・新人物往來社刊に所收)
一、葦津珍彦「祈る心と怨む心と」(昭和三十六年一月筆、昭和六十一年十一月『神國の民の心』所收・島津書房刊)
一、幡掛正浩『神國の道理』(昭和五十二年三月・日本教文社刊)
一、鈴木正男『昭和天皇の御巡幸』(平成四年九月・展轉社刊)

【インターネツト】
一、『日本會議』HP→歴史→日本の建國→鎌田純一「宮中祭祀と建國の心」(平成七年十二月二十日取材)
http://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1710-04kamata.html
一、『靖國神社』HP→新着イベント→過去のイベント→
*「文藝春秋掲載記事(「靖國神社に巣くふ怪僧X」平成十七年十月號)に對する靖國神社見解」(『靖國』十一月號)
*南部利昭「御創立百三十年記念事業竣成の御禮の御挨拶」
一、『靖國會』HP→「靖國會の歴史」
http://www.kitanet.ne.jp/~ars/aumi1.htm
一、『宇山會』HP→「宇山會事務局」
http://www12.plala.or.jp/uzankai/zimukyoku.htm
一、枝島賢二こと中島一光HP『彌榮』→「永代祭祀への道」(『靖國』平成二年五月號)
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/index.htm
一、『鐵扇會』HP→「靖國參拜問題」特別企劃→靖國神社側資料→「靖国神社宮司・松平永芳『靖国神社』(昭和六十年・中曾根參拜について等)」
http://www.tetsusenkai.net/official/yasukuni/data/matsudaira.html
一、棚橋信之HP『鎭守の杜プロジエクト』→
*「靖國神社元宮司の松平永芳さまの講演録『誰が御靈を汚したのか・靖國奉仕十四年の無念』」
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html
*「正論編集部への意見具申書」(平成十七年七月二十日附)
http://www.geocities.jp/gutokujp/shokan.html
*「靖國神社廣報課長への質問状」(平成十七年八月二十一日附)
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/questions.pdf
一、茶畑元35HP『早稻田日記』→「松平永芳宮司の思ひ出・その1〜その4」
http://blogsearch.plaza.rakuten.co.jp/search?fm=keyword_search_cc&qt=%BE%BE%CA%BF+url%3Ahttp%3A//plaza.rakuten.co.jp/goaheadgo
一、四宮正貴HP『四宮政治文化研究所』→コラム→「靖國神社と殉職警察官の慰靈施設『彌生慰靈堂』」
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-shinomiya/ron/2006/ron061014.htm
一、チヤンネル櫻HP『掲示板』→地獄の戰場→
*愛国主義者「保守派よ!總理大臣の靖國神社參拜を支援せよ!」十六頁〜三十五頁の「一兵士」發言
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=761&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=150
*一兵士「靖國神社の正統を次代者はどう受け繼ぐべきか」の「一兵士」發言(現在、連載進行中)
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1164&forum=1&start=0

【未  見】(基本的文獻として、見むと欲して見る能はざるもの)
一、『靖國神社事歴大要』(明治四十四年二月・國晃館刊)
一、『靖國神社忠魂史』全五卷(陸海軍大臣監修・昭和八〜十年九月/平成十八年十一月・ゆまに書房復刊)
一、『靖國神社百年史』全四卷(資料篇・事歴年表、昭和五十八年六月〜六十二年六月・原書房刊)


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 備中處士さま、長い間ありがとうございました。
 文献だけでもじつに貴重な資料だと思います。
 皆様が熟読されることを期待いたします。

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 ついでのようで恐縮ですが、オロモルフの掲示板でお馴染みのHISASHIさまのサイトに保存されております『国立国会図書館編集「靖国神社問題資料集」』からの引用は、入手の難しい資料であるだけに貴重だと思います。
 オロモルフもHISASHIさまに教えられて図書館で借り出しましたが、大きな図書館でなければ収蔵されていません。

↓↓↓↓↓
http://www.kenkenfukuyo.org/data/yasukuni/index.html

 これを読みますと、現在の法律・政治情勢・社会風潮のなかでの(麻生外相が言われたような)靖國神社国家管理の方向がいかに危険であるかが分かります。
(オロモルフ)


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