■□■□■ 東京山手大空襲(オロモルフ)■□■□■

■昭和二十年五月二十六日の蛮行

 私の祖父は幕末の生まれですが、日清・日露の両戦役に軍医として従軍しまして、その後は東京の原宿で医院を開業し、貧しい人からお金をとらない医者として親しまれていました。
 戦争が激しくなってから、父が疎開を勧めましたが、「こんな所に爆弾が落ちる筈はない」といって疎開しませんでした。
 父は浅草の隅田川に近い場所で開業していた歯科医で、原宿から毎日通っておりました。

 やがて昭和二十年の三月十日になり、父の歯科医院は消滅しました。
 幸い父は疎開していて無事でしたが、行ってみると、隅田川に無数の死体が浮いていたそうです。

 やがて五月二十五日夜になり、ついに東京原宿が空襲を受けました。
 当時、祖父は八十五歳、祖母は八十歳でしたが、焼けていなかった隣町の千駄ヶ谷に、何とか逃げ延びました。
 ところがその翌日の二十六日の夜、大勢の人が逃げていたその千駄ヶ谷めがけて爆弾の雨が降り、祖母はなんとか逃げましたが、祖父はそこで焼死してしまいました。
 これは明らかに、民間人を狙った大量虐殺行為でした。
(民間人だけが住んでいる場所の周囲に爆弾を落として逃げられないようにしてから皆殺しにする手口は、米軍がよく使っていたようです)

 父が疎開先の埼玉県から駆けつけて祖母を見つけましたが、祖母はのどがからからに渇き目もよく見えないような状態だったそうです。
(関東大震災で逃げた人の話を読んでも、のどが渇いた話と目が見えなくなった話が多いですね)
 やがて祖父の遺体を見つけて、生きのびた人たちと協力して板きれを集め、何人かのご遺体を一緒にして火葬にしたそうです。

 空襲であっても、遺体は火葬場に運ぶことになっていたのですが、三月の下町大空襲によってそれが不可能になったため、その場で火葬にしてよい――というお触れが出ていたそうです。

 しかし素人が板きれを集めたくらいで、人間の遺体が簡単に灰になるはずはありません。
 いくら焼いても灰にならず、とくに腸の部分が焼けず、とても困った――と父はよく言っておりました。
 まさに地獄図であります。

 何年か前、東京都の予算で反日的な空襲記念施設が出来そうになり、反対運動が起こったことは記憶に新しいのですが、その時施設推進運動の側にいた某氏は、昔、家永三郎などと座談して、
「金持ちの家が焼けるのを見て嬉しかった」
 ――という意味のことを楽しそうに語っていました。
 それを読んだとき、心が寒々といたしました。
 そういう人たちが、あの運動をしていたのです。


オロモルフの論考リストに戻る