■□■□■ 東京大空襲と祖父の死(オロモルフ)■□■□■

◆◆◆ 東京大空襲と祖父の死 ◆◆◆

 前にも一度か二度記したことがあるのですが、これまでの保存頁にありませんので、記録の意味もあって、改めて纏めておきたいと思います。

◆◆◆ 祖父の生い立ち ◆◆◆

 私の祖父は、文久二年(1862年)に現長野県の山奥で生まれました。
 明治のはじめに東京に出て医学校(現在の東大医学部)に入り、明治二十年に卒業しました。
 東京での下宿は、明治維新で職を失った元旗本の家でして、(よくある話ですが)それが縁でその元旗本の娘と結婚しました。
 大学を卒業する前に結婚したらしい。
 元旗本の妻というのが、江戸城大奥に勤めていた遣り手ばあさんみたいな人だったので、娘をけしかけたのでしょう。

◆◆◆ 日清日露両戦役 ◆◆◆

 卒業してまもなく、明治27年に日清戦争が起こります。
 まだ近代医学を勉強した医師は数少ない時代ですから、動員されて、戦地で働きました。どこでどうしていたのかは、よく分かりません。
 それから、郷里の長野県やその周辺で働いていましたが、明治37年になると日露戦争が勃発し、やはり動員されて、軍医として従軍します。
 どうやら陸軍だったようで、病院船に乗っていたこともあるようです。
 そのときの大変さは、長火鉢の前で髭をしごきながらよく話していました。
 戦争が終わって帰国してみると、妻は病死しており、娘も病死するなど多事多難だったようですが、結局死んだ妻の妹と再婚することになり、やがて東京で開業します。
 場所は原宿です。
 そういうわけで、孫にあたる私は、東京の原宿で生まれました。

◆◆◆ 無欲な祖父 ◆◆◆

 原宿で開業した祖父は、金銭的には超音痴でしたが、人格者であり、貧乏な人からはお金を取らない親切な医師として、原宿や千駄ヶ谷周辺で長く親しまれておりました。
 とても丈夫な人で、八十歳を過ぎてからも、患者さんを見ており、往診もしておりました。
 財産問題にはまったく無関心で、すべての財産が妻の実家のものになっていても何も言わず、さらに親戚を何人も預かっておりました。
 定職につかない係累がおり、それも自宅に置いていました。
 また別の親戚一家も、無料で小さな家に住まわせていました。

◆◆◆ 終わりの日 ◆◆◆

 しかし、その祖父にも、ついに終わりの日が来ます。
 米軍による阿鼻叫喚の空襲です。
 民間人しか住んでいない地区への無差別爆撃です。
 原宿方面への空襲は昭和二十年の五月でした。
 つまり終戦の直前です。
 私の両親は、祖父母に疎開を勧めましたが、祖父も祖母も、こんな所に爆弾が落ちる筈はない――と言って、疎開しませんでした。
 しかし米軍は、祖父母の家の場所のような、民間人しか住んでいない所へも、じつに計画的に爆弾を落としたのです。
 しかも、逃げ延びた人たちを追いかけるように、爆撃しています。
 次にそれを詳しく説明します。

◆◆◆ 疎開 ◆◆◆

 オロモルフの一家が疎開したのは、昭和十九年です。
 そのときオロモルフは、小学校の五年生になったばかりでした。
 オロモルフは兵庫県にある母方の叔父の家に預けられました。
 上の弟は集団疎開しました。本人の希望でした。そういう雰囲気だったのです。
 父母と下の弟は、昭和十九年の初めに、父の患者さんの紹介で知った埼玉県の某所に疎開しました。
 それまで住んでいた家は、規則によって壊しました。
(焼ける前に壊してしまおうというわけですが、丈夫に建てたので壊れにくく、建てた大工さんが壊したので、残念がっていたそうです)
 しばらくして、母が集団疎開の弟を見に行きますと、いかにもお腹が空いている様子で、わずかな食事についているおかずの魚の骨を、いつまでもいつまでも嘗めている姿を見まして、「これはいけない」と、すぐに埼玉県の一家と合流させました。

[子どもは、父と母の所で育つのが一番です。ときどき他人の家で苦労するのは勉強になりますが、大体は親の目の届く所に置くべきです。とくに女性にとって子育ては極めて貴い立派な仕事だと思います。オロモルフの子供も転勤によって母親から離れた事があり、それは失敗でした。といいましても、発明家伝を読むと、六歳くらいで親元を離れて丁稚奉公に行って苦労して偉人になった人が多いので、明治の人は凄いと思いますが・・・]

 オロモルフの疎開先は親戚なので大丈夫だと思われていましたが、そうはいかず、丈夫な人たちの間で苦労しまして、骨と皮にやせ細ってしまいました。
 家族は埼玉県でイジメや盗みで嫌な思いをしたし東京に近いので、翌年の昭和二十年の夏近くに、別の親戚の世話で岐阜県の多治見市の近くに移りました。先祖に関係の深い町の傍です。そこでオロモルフは合流しました。
 父が疎開先に迎えに来ましたが、骨と皮の姿に驚いたそうです。

◆◆◆ 軍民お構いなし ◆◆◆

 話は戻りまして、一家が疎開した昭和十九年の初め、前述のように、祖父母も疎開した方が良い――と、父母が説得しましたが、「こんな所に爆弾が落ちる筈はない」と、疎開を拒みました。
 民間人しか住んでいない場所ですから、本来は爆弾など落ちる筈のない地域なので、祖父母の考えももっともですが、米軍は国際法を無視し、軍事施設も民間人もお構いなしに爆弾を落としたのです。

◆◆◆ 下町の大空襲 ◆◆◆

 昭和二十年三月十日の早朝零時過ぎ、下町で大空襲がありました。
 じつは、父は浅草の松屋の一階で歯科医を開業しておりましたので、ニュースを聞いて疎開先から駆けつけてみますと、隅田川には死体が無数に浮いていたそうです。
 むろん大部分は民間人です。
 松屋の歯科医院も焼けてしまいました。
 火は、隅田川を横切って延焼したらしい。
 で、この下町の大空襲のあとで、町の適当な場所で遺体を火葬にしてよい――というお触れが出ました。
 それまでは、空襲で死んでも、火葬場に運んでいたのです。
(実態は知りませんが、規則はそうだったようです)
 それが、一度に十万人も死んだ(実際はそれ以上だと思います)ものですから、火葬場に運ぶなど不可能になり、街角で焼け残りの板きれなどを燃やして火葬にしたのです。

[補足:東京の下町大空襲での死者は、厳密な調査で十万人強ということになっており、この端数を切り捨てて一般に十万人と言っているようです。
 いかにも日本人的です。
 もしこれが北京政府なら、強引に四捨五入ではなく四入五入して、すぐに二十万人とし、十年後には百万人とし、二十年後には一千万人とでもすることでしょう。
 日本は逆に、実際より少な目に言うのです!]

[日本人は、戦争による民間人の死者数も、じつに厳密に調べて最少の数字を出して、それを記録して、常にその数字を使いますね。北京政府のように、年々死者数を増やしていくというプロパガンダはしません。あちらの資料では南京問題でも重慶問題でも、死者数は年々増大しております。計画的に増やしております! サッカーで騒いだ重慶の死者の数字など、この数年で急増しているそうです! 良心的過ぎる日本とは大違いです。オロモルフは、実際の日本の民間人の死者数は、百科事典などに出ている六十数万よりずっと多く、百万人はいるだろうと思っております。後遺症であとで死んだ人も多いでしょうし]

 さて、米軍による民間人への空襲殺戮はこのあとも続き、ついに五月がやってきます。

◆◆◆ 昭和二十年五月二十五日夜 ◆◆◆

 いよいよその日がやってきました。
 昭和二十年五月二十五日の夜です。
 祖父母の家の場所は、現在の住居表示では渋谷区神宮前でしたが、そのあたり一面に、焼夷弾が落ちました。
 その夜は警戒警報がなく、いきなり空襲警報が鳴り、鳴ったとたんに爆弾が落ち始めたそうです。
 米軍の爆撃方法というのは、人間の逃げ道を無くすようなジュウタン爆撃、あるいは一定地域を包み込むような爆撃ですから、逃げるのは大変です。
 いろんな人の手記を読みますと、運良く助かった人というのは、青山墓地や明治神宮に逃げたようです。
 青山墓地の墓に供えている花の水を飲んで助かった人とか、軍隊が守っていて民間人を入れさせなかった明治神宮に無理矢理潜り込んで助かった人とかがいたそうです。
 しかし祖父祖母は反対方向に逃げたのです。

◆◆◆ 昭和二十五年五月二十六日夜 ◆◆◆

 その夜、貯金通帳と印鑑を持った祖父と、実印を持ったらしい祖母は、近所の人と一緒に、千駄ヶ谷の方向に逃げました。
 どうやら、千駄ヶ谷まで逃げたらしい。
 約一キロ逃げたことになります。
 その夜はなんとか生き延びたのですが、翌日二十六日の夜に、前日を上回る大空襲が千駄ヶ谷を襲いました。
<人々が逃げて集まっていた場所を狙って再度空襲した>のです。
 祖父と祖母は必死で逃げたそうですが、ついに祖母は祖父を見失ってしまいます。
 そして明け方(二十七日の早朝)にやっと探しあてたときは、焼死(たぶん煙に巻かれて)しておりました。

◆◆◆ 民間の老人を狙う蛮行 ◆◆◆

 祖父は文久二年(1862年)の生まれですから、没時の昭和二十年(1945年)では満八十三歳でした。当時は数えなので、八十四か八十五と言っていた筈です。
 生き延びた祖母は慶応二年(1866年)の生まれなので、このとき満七十九歳だった筈です。
 こんな老人の上に二夜続けて逃げた先にまで爆弾の雨が降るのですからたまりません。

◆◆◆ 駆けつけた父 ◆◆◆

 埼玉県に疎開していた父がニュースで原宿空襲を知って、かけつけました。
 たぶん二十七日のうちに駆けつけたのだと思います。
(よく電車が通じていたものですが、当時の日本の電車や郵便は、爆弾が降る中を必死で運営していたのです)
 そしてようやく祖母を捜しあて、祖父の遺体を火葬にしました。
 祖母は猛烈に喉が渇き、煙で目がほとんど見えないような状態だったそうです。
[猛烈な喉の渇きと目が見えなくなる現象は、他の災害でも同じですね。関東大震災の記録を読んでも、一様に同じことが書いてあります。ですから災害時には飲み水は不可欠です。皆さん、災害用の飲料水は、常に備蓄しておきましょう]

◆◆◆ 地獄図の火葬 ◆◆◆

 戸籍簿を見ますと、祖父が死んだのは、千駄ヶ谷四丁目七三五番地で、時間は昭和二十年五月二十七日の朝六時三十分となっております。
 しかし、そんなに厳密に場所と時間が分かったとは思えず、これはたぶん、祖母が祖父の遺体を発見した場所と時間のおおまかな表現なのでしょう。
 父と祖母はその場で、周囲の人と協力して、祖父の遺体を火葬にしましたが、なかなか骨にならないので大変だったそうです。
 それはそうです。
 人間の体のほとんどは水分ですから簡単には骨になりません。
 火葬場の猛烈な熱エネルギーで焼くのとは違って、そのへんの板きれを拾ってきて燃すのですから、とても大変だったと思います。
 しかも、何人もの遺体を一緒に燃すのですから、想像もできない惨状です。
 とくに水分の多い「腸」がなかなか灰にならず、大変だったそうです。
 まさに地獄図です。

◆◆◆ 御国に尽くしたのに ◆◆◆

 というわけで、日清日露で御国の為に尽くし、その後はお金をとらない医者として親しまれていた祖父は、骨になってしまいました。
 そのお骨は、いま青山墓地の墓石の下に眠っておりますが、それが本当に祖父のものなのかどうか分かりません。
 何人も一緒に火葬にしましたから、他の人と区別などつかなかったと思います。
 祖母も父も「大変だった」と言うだけで、具体的な話はほとんどしませんでした。

 先祖から伝わった家伝や系図の類も皆焼けてしまいました。勝海舟の書も孫文の書も焼けてしまいました。私の海野十三などのSF本も焼けてしまいました。
 繰り返しますが、昭和20年の米軍の爆撃は、原爆であるなしに関わらず、民間人への狂気の大虐殺でした。

[おわり]


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