■□■□■ 竹島と日露戦争(オロモルフ)■□■□■


■■■ まえがき ■■■

 私は通信工学が専攻ですが、技術史に興味を持ちまして、日露戦争における通信技術の活用を調査しておりました。
 もう10年ほど前のことですが、防衛庁(省)研究所の図書室で調査していたとき、日露戦争当時に日本が竹島を百パーセント自国領土として活用していた事を示す史料を見つけました。
 竹島問題の本は多数ありますが、この資料は見たことがありませんので、参考までに掲示いたします。

 竹島領有と日本海海戦とは密接に関係しており、この史料は明治38年(1905年)1月の閣議決定と同2月の島根県告示による島根県所属公示の直後のものですが、このような使用に対して朝鮮政府は何の抗議もしていません。

 出典は『極秘本明治三十七八年海戦史全150冊』の第四部第四巻です。
(地図は彩色されておりますが、複写には出ませんので見にくくなっています)


■■■ 写真の目次 ■■■

A 竹島調査報告(A−1〜A−10)
B 望楼一覧表(B−1〜B−3)
C 望楼や海底ケーブルの地図(C−1〜C−5)


■■■ A 竹島調査報告 ■■■

 望楼設置のための四件の調査報告が見つかりました。

「明治三十八年一月五日對馬艦長海軍中佐仙頭武央ヨリ水路部長に提出セルリヤンコールド島概要」(リヤンコールド島とは竹島のこと)*
「明治三十八年六月十二日海軍技手木口吉五郎ノ提出セル竹島視察報告」
「明治三十八年六月十四日第三艦隊司令官海軍少将武富邦鼎ノ提出セル竹島視察報告」
「明治三十八年六月十五日橋立艦長海軍大佐福井正義ノ提出セル竹島視察報告」

 水の成分の分析、竹島に暮らしている人たち(人名まであります)のこと、地形図など、かなり詳しい報告です。
 以下のA−1からA−10がそれです。

*この資料は明治38年1〜2月の政府と島根県の決定の直前であり、同決定と密接に関係した調査と思われます。



A−1



A−2



A−3



A−4



A−5



A−6



A−7



A−8



A−9



A−10


■■■ B 望楼一覧表 ■■■

 B−1〜B−3が望楼一覧表の関連部分です。
 B−1は記号の説明のための掲載です。B−2に鬱陵島の望楼があります。B−3に隠岐島二カ所と竹島の資料があります。
 竹島は明治38年8月19日に観測を開始したとあります。
 竹島の人員は、望楼手1、下士1,卒2、臨時雇人2となっています。臨時雇い二名というのは、竹島で漁業に従事していた人を雇ったのかもしれません。



B−1



B−2



B−3


■■■ C 望楼や海底ケーブルの地図 ■■■

 五葉の地図を掲載しました。

 C−1 朝鮮半島の望楼地図
 C−2 山陰の日本海沿岸の望楼地図
 C−3 軍用電信ケーブルの地図、とくに竹島周辺の海底ケーブルに注目
 C−4 C−2の竹島近辺拡大図
 C−5 C−3の竹島近辺拡大図

 簡単な説明を地図の下に記しました。



C−1
 朝鮮の望楼配置図で、右下に鬱陵島(松島)が書かれています。
 これは朝鮮半島の望楼図ですから、日本国土の隠岐は書かれていても望楼の記号はありません。
 また、竹島も書かれていません。朝鮮とは無関係の日本領土と認識していたからです。



C−2
 望楼の配置図の一つで、山陰の日本海沿岸の部分です。
 隠岐と竹島が明示されています。
 隠岐に二カ所、竹島に一カ所の望楼が設置されていた事がわかります。
 円の部分が視界のきく範囲で、円が欠けている部分は視界のきかない範囲です。



C−3
 軍用電信ケーブルのルート図です。
 竹島から隠岐は海底ケーブルが既設で、竹島から鬱陵島までは予定となっています(明治38年6月時点)。
 隠岐から大阪に至る――とありますが、山陰の沿岸に陸揚げしてそこから大阪まで陸上ケーブルで通じていた筈です。



C−4
 C−2の竹島近辺の拡大図です。竹島を望楼として使っていたことは明かです。



C−5
 C−3の竹島近辺の拡大図です。海底ケーブルの様子がよくわかります。


■■■ 通信に関する注記1(望楼一覧表B)■■■

 Bの望楼一覧表で、竹島における「艦船ニ対スル通信器ノ設備」の項が「完備」となっていますが、その意味ははっきりしません。
 記号からは、この時点(明治38年の夏ごろ)では無線電信の設備は無かったように思えます。
 当時の電気通信は、
「有線電信」
「有線電話」
「無線電信」
 ――の三種類で、「無線電話」の技術はまだ有りませんでした。
 もっとも早くから有ったのが「有線電信」で、これは遠距離も可能だが専門家が常駐する必要がありました。
 日露戦争の直前に開発されたのが近距離の「無線電信」で、これは日本海海戦の『信濃丸』の「タタタタ・・・(敵艦隊見ユ)」で有名ですが、設備が大げさで訓練を受けた専門家が必要でしたし、遠距離には届きませんでした。
「有線電話」は装置が簡単で専門家は不要なので便利でしたが、そのかわり遠方には通じませんでしたし、音質もとても悪かったようです。
 そこで、近くの電信局まで「有線電話」で連絡し、それを電信に直して海軍軍令部や各地の要所に連絡するという方法をとっていたようです。
「無線電信」は簡単な符丁を使うのみで、それも緊急時だけでした。どこまで届くのかやってみなければ解らないというレベルでしたし、また混信を避ける技術が無かったからです。


■■■ 通信に関する注記2(C−3の海底ケーブル)■■■

 C−3(またはC−5)の地図から、竹島から旗艦三笠や海軍軍令部への連絡方法は次ぎのように推理されます。
 隠岐には二つの望楼がありましたが、そのうちの一つは海底ケーブルが本土にも竹島にも通じており、有線電信も有線電話も無線電信もあったようです。
 そこで、竹島から隠岐まで電話で連絡し、付近の艦船への連絡事項ならば隠岐の無線電信で艦船に知らせる。また東京の軍令部あるいは基地に停泊中の旗艦三笠への連絡事項ならば隠岐から有線電信で連絡する。
 はっきりしませんが、上のような事が考えられます。
(竹島で有線あるいや無線の電信を送受するには、モールス符号の打てる専門家と電気装置の判る専門家が必要でしたから、無理があったと思います)

 以上ですが、とにかく韓国は、竹島に関しては影も形もありません。
 明治三十八年二月の宣言以降、百パーセント日本の領土として扱っていたことがわかりますが、韓国政府は何の文句も言っていません。


 戦後の韓国の横暴については、下記も参考にしてください。
↓↓↓↓↓
〈対馬を狙う韓国の野望〉


■■■ 付加:竹島望楼の図 ■■■

 以上の資料を発見したのは平成10年防衛省研究所の図書館で明治期の無電を調べていたときですが、そのころから、複写をあちこちに発表したり送付したりしておりました。
 それらを平成19年に整理統合して、本保存頁に保存し、同時に下條正男先生にお送りしましたところ、その価値を認めてくださり、島根県の施設に保存の手続きをとってくださいました。
 さらに最近になって『極秘明治三十七八年海戦史』を再検討しておりましたとき、第八部巻六七八別冊の中にもう少し詳しい望楼場所を示す俯瞰図を見つけましたので、ここに付加いたします。
 S−1がそれです。
(平成20年9月19日付加)


S−1



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