■□■□■ 天皇陛下と発明(オロモルフ)■□■□■


◆天智天皇

◎齊明天皇六年(660年)――
「又皇太子初造漏剋、使民知時。」
〈又、皇太子、初めて漏剋を造り、民に時を知らしむ。〉

◎天智天皇十年(671年)――
「夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新台、始打候時。動鐘鼓、始用漏剋。此漏剋者天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。」
〈夏四月の丁卯の朔にして辛卯に、漏剋を新台に置き、始めて候時を打つ。鐘鼓を動し、始めて漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の皇太子に爲しましし時に、始めて親ら製造れる所なり、云々。〉
(四月二十五日に、漏剋を新しい台に置くと、時をきざみはじめた。鐘や鼓をうち鳴らして、はじめて漏剋を用いた。この漏剋は、天智天皇が中大兄皇子であられたとき、はじめてご自分でお作りになったものである。)

 漏剋とは水の流れ落ちる量で時を計る装置で、そのもの自体は古くからシナにあったのですが、これに新たな工夫を加えて天智天皇が皇太子時代に自分でお造りになり、時間の基準を定めたという記録です。
 天皇が自ら技術開発をなさったという記録は、たぶんこれが初めてだと思います。天智天皇の凄さが分かります。
 なお長さや容積の基準は、文武天皇の大宝二年(702年)に初めて基準をつくって諸国にこれを頒布したと、『続日本紀』にあります。

◆元明天皇

◎元明天皇和銅六年(713年)――
「詔。正七位上鞍作磨心。能工異才。獨越衆侶。織成錦綾。實稱妙麗。宜磨心子孫免雜戸。賜姓栢原村主。」(鞍は手偏)
(正七位上の鞍作磨心は、飛び抜けて優れた技術と独特の才能を持っている。磨心の織る錦や綾はじつに妙麗である。そこでその子孫は雑戸の身分を免じ、栢原村主という氏姓を賜った)

◎元明天皇和銅七年(714年)――
「授正七位上栢原村主磨心從五位下。」
(正七位上の栢原村主磨心に從五位下の位階を授けた。)

 元明天皇が無名の技術者の卓越した技術を高く評価して、貴族にまで引き上げた記録です。
 奈良時代の朝廷が、いかに技術者を大切にしていたかが分かります。

(『続日本紀』についてはハチマキおじさんの『日本は礼の国だった』参照)

◆昭和天皇

◎名君
 昭和天皇はじつに名君であられました。
 昭和天皇が踐祚なさったときの朝見の儀における勅語は、当時の発明家たちを奮い立たせた事で知られています。
 以下にそれを記します。

◎昭和元年十二月二十八日
 踐祚後朝見ノ儀ニ於テ賜リタル勅語

朕皇祖皇宗ノ威靈ニョリ萬世一系ノ皇位ヲ繼承シ帝國統治ノ大權ヲ總攬シ以テ踐祚ノ式を行ヘリ舊章ニ率由シ先コヲ聿修シ祖宗ノ遺緒ヲ墜ス無カランコトヲ庶幾フ
・・・・・(中略)・・・・・
今ヤ世局ハ正ニ會通ノ運ニ際シ人文ハ恰モ更張ノ期ニ膺ル則チ我國ノ國是ハ日ニ進ムニ在リ日ニ新ニスルニ在リ而シテ博ク中外ノ史ニ徴シ審ニ得失ノ迹ニ鑒ミ進ムヤ其ノ序ニ循ヒ新ニスルヤ其ノ中ヲ執ル是レ深ク心ヲ用フヘキ所ナリ夫レ浮華ヲ斥ケ質實ヲ尚ヒ模擬ヲ戒メ創造ヲ勗メ日進以テ會通ノ運ニ乘シ日新以テ更張ノ期ヲ啓キ人心惟レ同シク民風惟レ和シ汎ク一視同仁ノ化ヲ宣ヘ永ク四海同胞ノ誼ヲ敦クセンコト是レ朕カ軫念最モ切ナル所ニシテ丕顯ナル皇祖考ノ遺訓ヲ明徴ニシ丕承ナル皇考ノ遺志ヲ繼述スル所以ノモノ實ニ此ニ存ス有司其レ克ク朕カ意ヲ體シ皇祖考曁ヒ皇考ニ效セシ所ヲ以テ朕カ躬ヲ匡弼シ朕カ事ヲ奨順シ億兆臣民ト倶ニ天壌無窮ノ寶祚ヲ扶翼セヨ

(直後の昭和二年一月十日に、若槻内閣総理大臣はラジオでこの勅語の解説謹話を放送しています)

◎史上初の「創造性」への言及
 この勅語を拝聴した日本の発明家たちが奮起した理由は、
「模擬ヲ戒メ創造ヲ勗(つと)メ」
 ――という一句にあります。
 模倣をやめて創造に力を入れよ――というお言葉は、発明発見の重要性を国民に教えた「史上初の勅語」だったからです。
 当時の日本はまだまだ発明特許の面では厳しく、欧米との戦いに苦戦していました。
 そういう中で、先駆者たちは身を削って発明に励んでいましたから、この勅語によって勇気百倍したのです。
 そしてそれ以後、日本の発明特許出願数は驚くべき上昇を見せ、昭和11年にはついにアメリカを抜いてドイツに次ぐ世界第二位を記録したのです。
 戦後はこの時代に生を受けた技術者たちが頑張り、圧倒的な世界一になりました。

◎ただちに実行に移された昭和天皇
 昭和天皇はこのようなお言葉を述べられただけではありませんでした。
 特許局の長官を宮中にお呼びになって、最近の特許問題についての御進講を聴し召されました。
 そして、発明協会に毎年一万円を下賜され、発明協会ではそれを恩賜発明賞の運営にあて、毎年受賞者が出、発明家たちは大きな刺激を受けました。
 また十大発明家を選んで宮中に招かれ励まされました。選ばれた発明家たちは賜餐の栄に浴して涙しました。
 この十大発明家の行事は二回催され、その後は新設の文化勲章に吸収されました。

◎なぜ昭和天皇は踐祚に際して「史上初の発明奨励」をなさったのか
 この「朝見ノ儀」における勅語は、時代と歴史をきっちりと踏まえた素晴らしい内容なのですが、私が拝読しましたところでは、神武以来の無数の勅語にまったく見られない斬新なお言葉は、唯一上の「模擬ヲ戒メ創造ヲ勗メ」であろうと拝察いたします。
 では、なぜ昭和天皇はこのような前例の無いお言葉を述べられたのでしょうか?
 私は杉浦重剛先生の御進講記録を読みまして、その謎が解けたような気がいたしました。
 大正時代、十代の昭和天皇に対する御進講が、何人かの大学者によってなされたのですが、教育勅語を中心にした倫理は、教育者として知られた杉浦重剛が担当でした。
 その内容が記録されていますが、杉浦先生は、教育勅語の「以テ智能ヲ啓發シ」の所で、次のように御進講していたのです。

◎杉浦重剛の御進講
「三 以テ智能ヲ啓發シ」(漢字は常用化)
 学を修め業を習ふ所以は、智能を啓発するにあり。方今、世界各国は科学の発達を競ひ、百般学術の研究により民心に科学的精神を与へんとす。我が邦の科学的文明は日なほ浅きも、半世紀にしてよく西欧の数世紀に亘りて成れる学術をことごとく消化せり。これ智的鋭敏の国民性にあらずんば、能はざる所なり。しかるに、酔欧家は謂ふ、「日本人は模倣的国民にして創造の才なし」と。この論は時代と社会状態とを顧みざるものなり。
 日本が諸外国と交通せしは最近に属す。それ以前は知識は国内に限られたり。世界の知識を知らざる時代において、関新助(関孝和)のごとき、微分・積分を発明せし大数学家ありしにあらずや。また伊能忠敬は、測量術を発明せしにあらずや。
 大和民族は決して模倣を以て甘んずる国民にあらず。昔時において学術の進歩の遅かりしは、世界との競争なかりしに基づく。
 大和民族が智的鋭敏なるの証拠には、支那の儒学は、今や日本の学となれるにあらずや。印度の仏教も、日本においてひとり栄え、日本仏教となれるにあらずや。今や西洋の学術も日本において栄ゆる、遠きにあらざるべし。

◎十代の教育の重要性
 多感な十代の昭和天皇の御胸に、この重剛の誇り高い熱い言葉が刻み込まれたのではないでしょうか。
 そしてその御記憶が、朝見の儀の勅語に結実し、苦戦続きだった日本の発明家たちを奮い立たせたのではないでしょうか。

 昭和天皇は、まさに名君であられたと思います。

◎戦後の日本人が忘れ去ったこと
 以上の天智天皇から昭和天皇までの発明特許や技術者への思し召しは、じつは、私が新たに調べた事ではありません。
 戦前の発明家伝や特許解説書には、よく書かれていた事柄なのです。
 いわば定番だったのです。
 しかし戦後は、ほとんど見ることがありません。消されてしまったのです。
 わたしは今『発明特許の日本史』という本を書いておりますが、その本の内容において、上の昭和天皇はじめ歴代天皇のお気持ちを具体的に書き入れたいと試みております。
 十代の少年少女達に、日本人としての誇りを持ってもらわなければ、日本は滅びます。


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