■□■□■ 伊藤博文著『皇室典範義解』現代語訳(HISASHI)■□■□■


『帝國憲法義解』に続きまして、『皇室典範義解』もHISASHIさまが現代語訳してくださいました。
 いま憲法改正問題とともに、皇室典範改正も話題になっておりますが、これらについて発言するには、現在の典範だけでなく、明治の皇室典範も理解しておく必要があります。
 みなさまが、この翻訳によって、知識を増やすことを願っております。
(オロモルフ)

*******************

筆者 伊藤博文 訳者 HISASHI


◆◆◆ 皇室典範 ◆◆◆

謹んで思うには、皇室の典範があるのは、益々その基礎を鞏固(きょうこ=強固)にし、尊厳を無窮(むきゅう=永遠)に維持するにおいて、無くてはならない憲章である。
祖宗が国を創めて、一つの流れを相承り、天壌とともに無窮にのる。これは蓋し、言説によらず既に一定の模範が有る。以って不易(ふえき=不変)の基準に因らないものではない。今、人文漸く進歩して遵由の路は必ず憲章による。そして皇室典範を作るのは、祖宗の遺意を明微(めいび=明らか)にして、子孫のために永遠の銘典を胎す所以である。
皇室典範は皇室自ら、その家法を条定するものである。故に公式により臣民に公布するものではない。そして将来止むを得ざる必要により、その条章を更定することがあっても、帝国議会の協賛を経る必要は無い。蓋し、皇室の家法は祖宗より承り、子孫に伝える。既に君主が任意に作るものではなく、また臣民のあえて干渉するところではない。


◆◆◆ 第一章 皇位継承 ◆◆◆

第一条 大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承する(大日本国の皇位は祖宗の皇統であり、男系の男子がこれをけいしょうする)

 謹んで思うには、皇位の継承は祖宗以来すでに明訓があり、和気清麿が還って来て奏上した言葉に「国家が開闢して以来、君臣の区別は定まっている。いまだかって臣下をもって君主とすることは未だに無い。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ」と。
皇統が男系に限り女系の所出に及ばないのは、皇家の成法である。女系を採用しないのは上代だけでなく、神武天皇より崇峻天皇にいたるまで三十二世全て女帝を立てた例は無い。故に神功皇后は国に当たること六十九年間、摂政の位をもって終わられた。飯豊尊は政に摂し清寧天皇の後を受け継いだが、この方もまた即位されなかった。清寧天皇が崩御され皇子がなく又近親の皇族男子がなく、そして皇妹春日大姫がおられたが即位されず、群臣は従祖・履中天皇の孫の顕宗天皇を推挙した。これは、上代において既に不文の常典があって、簡単に変えるべきでない家法をなしていたことを見るべきである。その後、推古天皇以来、皇后皇女が即位された例が無いわけではないが、当時の事情を推原するに、一時的に国政を行うに当たって、幼帝が成長するのを待って、位を伝えようとする権宣に外ならず、これを要するに祖宗の常憲ではなく、そして後の世の模範と為すべきではない。本条の行為の継承をもって、男系男子に限り、そしてまた第二十一条に於いて皇后皇女の摂政を掲げるのは、蓋し先王の遺意を紹述するものであり、苟も新例を創るものではない。
祖宗の皇統は一系の正統を承る皇胤をいう。そして、和気清麻呂の所謂皇緒なる者とその解義を同じくするものである。皇統にして皇位を継ぐのは必ず一系に限る。そして二三に分割するべきではない。天智天皇の言う「天に二つの太陽が無いように二王は無い」と。故に後深草天皇以来数世の間、両統互いに代わり遂に南北二朝に至ったのは、皇室の変運であり、祖宗の典憲の存在するところではない。
以上、本条の意義を約説するに、祖宗以来皇祚継承の大義はあきらかであり、日星のように萬世に渡って容易く変わらないものは、蓋し継ぎの三大則とする。
 第一 皇祚を践むのは皇胤に限る
 第二 皇祚を践むのは男系に限る
 第三 皇祚は一系であり分裂してはならない


第二条 皇位は皇長子に伝ふ(皇位は天皇の長男に伝える)


第三条 皇長子在らざるときは皇長孫に伝ふ。皇長子及びその子孫在らざるときは皇次子及びその子孫に伝ふ。以下皆之に例す(天皇の長男がいない時は、長男の子に伝える。長男及びその子孫がいない時は、天皇の次男及びその子孫に伝える。以下すべて之を例とする)

慎んで思うには、莵道稚郎子(うじのわかいらつこ)が言われるには「兄が上に弟が下に、古今の常典です」と。葛野王(かどののおおきみ)が持統天皇に進奏して言うに「我が国家の法です。神代以来、子孫相承り天位を継ぐ。もし兄弟に引き継がれると世が乱れる。」と。これは祖宗以来、子孫直系相伝え長幼の区別に従う事をもっt天位継承の正法とする。そして、その兄弟相伝える事は、反正天皇が履中天皇の後を継いだこと、允恭天皇が反正天皇の後を継いだ事に始まり、みなやむを得ざる事により出て、正しい有り方ではない。第二条第三条が継承の法を一定にして後の王の為に常典を貽し、敢えて権宜左右することを出来ないようにするのは、蓋し祖宗の遺範を慎んで永く乱の芽を後裔に絶つところである。凡そ子孫といえるのは、曾孫以下みなその内にある。[古典に天神の孫也とあるのは(日本書紀巻二)天祖の裔孫をいう。また五世孫七正孫とある(同書巻十)これは、姓氏録の慣用するところである]長子の子孫は、次子より優先されるのは、宗統を重んじることである。長子の子孫がいない時に始めて次子に移る。次子の子孫から第三子以下に於いてもまた同例とする。
次条に皇庶子孫の皇位継承するのは、皇嫡子孫が総て無くなった時に限るという時は、第二第三条は嫡子孫に付いて、その長を択ぶ事をいう。そして、嫡子孫全て無くなった時は、庶子孫においてその長を択ぶのも法による事を知るべきである。


第四条 皇子孫の皇位を継承するは嫡出を先にす。皇庶子孫の皇位を継承するは皇嫡子孫皆在らざるときに限る(皇子孫が行為を継承するのは、嫡出子が優先される。皇庶子孫が皇位を継承するのは、皇嫡子孫が絶えた時に限る)

慎んで思うには、祖宗の嫡子を優先し庶子を後にするのは、神武天皇の庶長子である手研耳命(たぎしみみのみこと)を措いて綏靖天皇(すいぜいてんのう)を立て給うのに始まる。これを継嗣の常典とする。ただし、皇緒万世一日も曠くしてはいけない。故に既に嫡出が無い時は、庶出が位を継ぐ事が出来る。蓋し清寧天皇が崩御し皇嗣がなく履中天皇(りちゅうてんのう)の孫の顕宗天皇(けんそうてんのう)が位を継ぐ。そして、天皇は実にその姉の飯豊青尊(いいどうよあおのみこと)、兄の仁賢天皇(にんけんてんのう)とともに履中天皇の庶出で磐坂市邊押羽皇子(いわさかいちべのおしはのみこ)の子である。[清寧天皇の妹に春日大娘(かすがのおおいらつめ)がいた。これもまた庶出である]武烈天皇(ぶれつてんのう)が崩御して皇嗣が無かった、応神天皇五世の孫の継体天皇を迎えて位に付く。そして天皇は実に応神天皇の庶出の稚渟毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の裔である。この時に当たって皇統が絶えないこと綫のようである。もし、庶系を立て無かったならば、当時すでに言えないようなことが起こっただろう。わが国が庶出を絶たないのは実にやむを得ざることによるものである。
皇嫡子孫が総て無い時に限るとは、長子及び次子以下、及びその子孫に通じてこれをいう。故に皇庶長子は皇嫡幼子孫より先に立つ事は出来ない。長系の庶皇孫は次系の皇嫡子孫より先に立つ事は出来ない。
問いー皇庶子の子は嫡出であるときは、これを嫡皇孫とすることが出来るか。答えー皇庶子の子孫は即ち庶流である。故に皇庶子の嫡出の子は、その庶出の兄弟よりも先に立つべきであるが、皇嫡子孫より先に立つ事はできない。


第五条 皇子孫皆在らざるときは皇兄弟及び其の子孫に伝ふ(皇子孫が絶えた時は、皇兄弟及び其の子孫に伝える)


第六条 皇兄弟及び其の子孫皆在らざるときは皇伯叔父及び其の子孫に伝ふ(皇兄弟及び其の子孫が絶えた時は、皇伯叔父及び其の子孫に伝える)


第七条 皇伯叔父及び其の子孫皆在らざるときは其の以上に於いて最近親の皇族に伝ふ(皇伯叔父及び其の子孫が絶えた時は、それ以外の最も近親の皇族に伝える)

慎んで思うには、第五・第六・第七条は皇子孫が絶えた時に当たり、継嗣を定めるのに、最も近親をもって当たる事を示している。皇子孫は現在の天皇に属する至親の宗系である。皇子孫の嫡庶伴に絶えた時は、皇兄弟をもって最も近親とする。故に継承の権は、皇兄弟の中で一番(継承順の一番)のものに移る。それは現在の天皇と同父であるからである。皇兄又は皇弟の子及び孫は皇兄又は、皇弟の系統に属するものである。皇兄弟及び其の子孫の嫡庶が伴に絶えた時は、これに続き皇伯叔を最も近親とする。故に継承の権は、皇伯叔の中の一番のものに移る。しれは、現在の天皇の父と同父であるからである。皇伯又は皇叔の子及び孫は、皇伯又は皇叔の系統に属するものである。皇伯叔以外に最も近親の皇族といえるのは、皇大伯叔以上皆これに準ずる。一系の下は尊卑相承り、そして宗系がつきて支系に及び、近系がつきて遠系に及ぶ。蓋し、継承の疑義を将来に絶ち、皇緒の慶福を永遠に保とうとするのである。


第八条 皇兄弟以上は同等内において嫡を先にし庶を後にし長を先にし幼を後にする(皇兄弟以上は同等内において嫡子を優先し庶子を後にし、年長者を先に年下を後にする)

慎んで思うには、皇兄弟を一等とし、皇伯叔をまた一等とし、皇大伯叔を一等とする。皇兄弟の等内においては、その嫡長を択び嫡子が無いときは、庶出の中の年長者を択ぶ。皇兄弟の子孫においては皇子孫の例に同じ。皇伯叔の等内においては、嫡子を優先し年長者を優先するのも皇兄弟の等に同じである。皇大伯叔の等においてもまた同じである。蓋し、皇子孫の庶出は皇兄弟の嫡出に優先するのは、皇家がその宗系を重んじる例典であり、天皇の下に尊卑相承り嫡庶ともに絶えなければ支系に移ることは無い。本条は推してこれを各等に及ぼし、一等ごとに嫡長を優先し庶幼を後にし、嫡庶ともに絶えるごとにその等を上げる。全て、その例を同じようにする。故に同等内においてというのである。
嫡子を優先するというのは、嫡出子を優先しまた嫡系を優先することをいう。年長者を先にするというのは、長子を優先しまた長系を優先することをいう。故に皇嫡兄弟及びその子孫は皇庶兄弟より優先され、皇嫡兄弟においては皇長兄及びその子孫は皇幼弟より優先され、皇嫡兄弟が絶えたときは皇庶兄及びその子孫は皇庶弟より優先されるべきである。


第九条 皇嗣精神若は身体の不治の重患あり又は重大の事故ある時は皇族会議及び枢密顧問に諮問し前数条により継承の順序を換ふることを得(皇嗣に精神もしくは身体に不治の重患があり、又は重大な事故がある時は、皇族会議及び枢密顧問に諮問し、前数条により継承の順序を換えることが出来る)

慎んで思うには、皇嗣は先王の憲典のあるところに従って、大統を継ぎ神器を伝える位に居る。そして、人主が勝手に左右することが出来るわけではない。故に継承の順序を換えるときは必ず精神もしくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があって、神器の重きを承るのに堪えられない時に限って、そしてまた皇族会議及び枢密顧問の諮問を経て、始めて決行することが出来る。もし、本条の定めるところによらず継嗣を易くのは、典範の認めないところである。そして、一時の過失のごときは、それによって重大な事故となす類ではない。


◆◆◆ 第二章 践祚即位 ◆◆◆

第十条 天皇崩ずるときは皇嗣即ち践祚し祖宗の神器を承く(天皇が崩御されたときは皇嗣は、直ちに践祚し祖宗の神器を継承する。)

慎んで思うには、神祖以来、鏡・剣・璽の三種の神器を以て皇位のお守りと為したまい、歴代が即位の時には必ず神器を承けることを以て例とされた。允恭天皇元年紀に大中姫命(おおなかつひめのみこと)が群卿に言われるには「皇子[允恭天皇]は正に群臣の要請を聞き届けられた。いま、天皇の御璽を献上しましょう」と。ここにおいて群臣は大喜びし、即日天皇の御璽を奉り再拝した。ここにおいて帝位に登られた。[日本書紀]と言うのはこれである。
上古は践祚、即ち即位であり二つの行いではない。令義解に天皇の即位、これを践祚と言う。祚は位であるとあるのはこれである。この時より、践祚の日に神器を奉られた。蓋し、天子の位は一日でも空けてはならない。[歴世の宣命にみえる蓋し古諺である]故に継体天皇が群臣の迎えるところとなり、未だ帝位を践まれず、そして史臣が既に天皇は樟葉宮に移られたと書いた。[藤原兼実の玉海]そうであるのに、天智天皇は重きを承てなお皇太子と称えて七年の後に即位の礼を行われた。これは践祚と即位と両方の区別をした最初の出来ごとである。その後、歴代践祚の後数年して即位の礼を行われたことがあるが、神器は必ず践祚の時に奉る事は、上古と異なる事はなかった。本条は、皇位が一日も空位であってはならないことを示し、及び神器相承の大義を掲げてこれを旧章を昭明にする。継承の大義は践祚の儀文のあるなしを問わないのは、もとより本条の精神である。
再び慎んで思うには、神武天皇より舒明天皇に至るまで三十四世総て譲位された事はなかった。譲位の例は皇極天皇に始まるのは、蓋し、女帝の仮摂より来たものである。[継体天皇が安閑天皇に譲位されたのは、同日に崩御されたため、未だに譲位の始としてはいけない]聖武天皇・光仁天皇に至って遂に定例となった。これを世変の一つとする。その後、権臣の脅迫によって両統互立を例とすることがあるに至る。そして南北朝の乱は、ここに原因がある、本条に践祚を以て先帝崩御の後にすぐに行われるものと定めたのは、条大の恒典により中古以来の譲位の慣例を改めるものである。


第十一条 即位の礼及び大嘗祭は京都に於いて之を行う(即位の礼及び大嘗祭は京都で行う)

慎んで思うには、天智天皇が称制の後、更に即位の礼が行われて以来、歴代の天皇が根拠とする大典となった。文武天皇紀に載せられた即位の詔に「集まり侍る皇子等、王、臣、百官人民等、天下公民、諸々聞きなさい」とあるのは、蓋し、上代の慣例であり皇族以下百官人民を集めて詔命を天下に布きたまいしなり。即位の古礼が史乗に見えるのは、持統天皇紀に「物部麻呂朝臣(もののべのまろのあそん)が大盾を立て、神祇伯・中臣大島朝臣(なかとみのおおしまのあそん)が天神に寿詞(よごと)をよみあげ、終わってから忌部宿禰色夫知(いんべのすくねのしこふち)は神璽(かんだから)の剣・鏡を皇后に奉上した。皇后は天皇の位に即かれた。公卿百僚は整列し、一斉に再拝し拍手をうった。」とあるのが始である[この前に孝徳紀にも見えるが、備わらず]。即位の式は、大極殿において行われ、冕服を着用し高御座に即かれる[貞観儀式]冷泉天皇の御悩に由り紫宸殿で行われる。その後、大極殿が火災によりなくなって、或いは太政官庁にて行われ、或いは南殿[即ち紫宸殿]にて行われた。武門が政治を専横していたとき、用度を供給せず、践祚の後数年を経たといえどもなお、大礼が行われなかったことがある。維新の後、明治元年八月二十七日、即位の礼を挙行され、臣民は再び祖宗の遺典を仰望する事が出来た。十三年車駕を京都に止められ、旧都の荒廃を嘆惜され「後の大礼を行う者は宜しくこの地に於いてすべし」との旨あり。勅して宮闕を修理させられた。本条に京都に置いて即位の礼及び大嘗祭を行う事を定めるのは、大礼を重んじ遺訓を恪み、また本を忘れないように意を明らかにするのである。
大嘗の祭は、神武天皇元年以来、歴代の天皇が根拠とする大典とされている。蓋し、天皇位に即き天祖及び天神地祇を請饗される礼であり、一世に一度行われるものである[天武天皇以来、毎年行うのを新嘗とし、一世に一度行うのを大嘗とする]。王政の中ごろで
王政が衰えたとき、この儀は久しく廃絶していた[後土御門天皇以来、二百二十年の間廃止し、東山天皇に至って再び行われ、中御門天皇以来五十一年の間は行われず、桜町天皇に至って挙行された]。明治四年十一月、詔があって挙行された。


第十二条 践祚の後元号を建て一世の間に再び改めざること明治元年の定制に従ふ(践祚の後に元号を建てて、一世の間に再び改めない事は、明治元年の定制に従う)

慎んで思うには、孝徳天皇紀に「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)四年を改め、大化元年となす」とあるのは、これが建元の始めであり歴代の例制となったが、その後陰陽占卜の説により、一世の間に何度も年号を改め、徒に史乗の煩わしい状態に至った。明治元年九月八日の布告に云う「今般、ご即位の大礼の斎をなされ、先例の通りを改められ年号については、これまで吉凶の象徴に従って度々改号があったが、今より御一代一号に定められた。慶応四年を改め明治元年とする旨おおされた。」と。これは本条のよるところの令典である。


◆◆◆ 第三章 成年立后立太子 ◆◆◆

第十三条 天皇及び皇太子皇太孫は満十八年を以て成年とす(天皇及び皇太子・皇太孫は、満十八歳で成年とする。)

慎んで思うには、中古以来天皇元服の制度が設けられている。大抵十一歳より十五歳に至って元服を行われた。明治九年民法上の丁年を定めて満二十歳とした。本条は天皇及び皇太子・皇太孫のために成年を定めて十八歳としたのは、天皇及び皇嗣は神器の重みに当たり尋常な通法の拘わるところにないからである。


第十四条 前条の外の皇族は満二十年を以て成年とす(前条以外の皇族は、満二十歳を成年とする。)

慎んで思うには、天皇及び皇嗣の成年を他の皇族に及ぼさないのは、前条の特例の限りにないからである。


第十五条 儲嗣たる皇子を皇太子とす皇太子在らざるときは儲嗣たる皇孫を皇太孫とす(世継ぎである皇子を皇太子とする。皇太子がいない時は、世継ぎである皇孫を皇太孫とする)

慎んで思うには、皇太子は古には「ひつぎのみこ」と呼ばれた。神武天皇紀に「皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を立てて皇太子と為す」と。これは即ち史臣が皇太子の呼称を用い、日嗣の御子の名に当てたものであり、中古以来はこれを採用し典礼とされた。それは、皇子ではなく養子に入って皇嗣となった場合も史臣は、また皇太子という称号を称えた[成務天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子である足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を立てて皇太子と為すのは、即ち皇姓である]。従姪孫の天皇であり、族叔祖を立てるのに至ってもまた太子と呼んだ[孝謙天皇の淳仁天皇に於ける場合がこれである]。ただし、或いは立太子を宣行する場合があり、或いは宣行しない場合もあり、その実一定の成例はない。皇弟を立てるに至っては、或いは儲君と称え[允恭天皇の履中天皇に於ける場合]、或いは太子と称え[後三条天皇の後冷泉天皇に於ける場合]、或いは太弟と称える[嵯峨・淳和・村上・円融・後朱雀・順徳・亀山]。また未だ画一された物ではない。今、既に皇位継承の法を定め、明文を掲げる所と為す時は、立太子・立太孫の外、支系より入って大統を承ける皇嗣は、立坊の儀文によることをもちいない。そして皇太子・皇太孫の名称は皇子・皇孫に限るべきである。


第十六条 皇后皇太子皇太孫を立つるときは詔書を以て之を公布す(皇后・皇太子・皇太孫を立てる時は、詔書をもってこれを公布する。)

慎んで思うには、立后の事は神武天皇以来、歴世の帝紀に載せられている。そして立后の詔は始めて聖務天皇紀に見える。その宣命にいえることあり「天下の政においては独りで行うのではなく、必ず後の政があるべきである。これは特別な事ではなく、天に日月があるように、地に山川があるように天皇と皇后が並んでいる事は、汝等、王、臣等は明らかに見知ったことである云々」。この詔命は坤位(皇后の位)冊立の儀を表するに於いて事理昭明であり、更に賛辞を用いない物である。本条に立后の大礼は必ず詔書をもって公布する事を定めるのは、先王の典故を重んじて且つ中古以来の中宮・准后の設けがあって、従って冊立の儀を欠く事があるのは、将来に依るべき模範とすべきでない事を明らかにするのである。
立太子の詔は、始めて光仁天皇紀に見える。貞観儀式に[立皇太子儀章]宣制の式を載せている。それがいうには「法のままにあるべき政治として某の親王を立て、皇太子と定め賜う。故にこの状態を悟って百官人等仕え奉ると詔る云々」と。蓋し、皇太子皇太孫は祖宗の正統を承け、皇位を継嗣しようとする故に、皇嗣の位置は立坊の儀により始めて定まるのではない。そして立坊の儀はこれに依って臣民が仰ぎ見る事を飽きさせないためである。


◆◆◆ 第四章 敬称 ◆◆◆

第十七条 天皇太皇太后皇太后皇后の敬称は陛下とす(天皇・太皇太后・皇太后・皇后の敬称は陛下とする)

慎んで思うには、陛下は臣下より天子に敷奏するときの敬称である。本条に陛下の敬称を以て通じて至尊に対するの称謂とし、そして敷奏陛見の辞に限らないのは、旧典を敷衍して之を内外に広めるためである。
大宝の令に三后に上啓するのは殿下と称える。本条に太皇太后・皇太后・皇后総てを陛下と称えるのは、嫡后国母は至尊に斎匹し子孫と伴に臣民の至隆である敬礼をうけるべきであるからである。但し、君位は一つであり二つはない。皇后はもとより他の皇族と均しく人臣の列にいる。そして大宝の制度とその呼称を殊にし、なおその実を同じ来るすることを失わないのである。


第十八条 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王の敬称は殿下とす(皇太子・皇太子妃・皇太孫・皇太孫妃・親王・親王妃・内親王・王・王妃・女王の敬称は殿下とする)

慎んで思うには、本条は旧制皇太子において殿下と称えた例により、押し広げて之を皇族におよぼすのである。


◆◆◆ 第五章 摂政 ◆◆◆

第十九条 天皇未だ成年に達せざるときは摂政を置く(天皇が成人に達しない時は摂政を置く)
天皇久きに亘るの故障に由り大政を親らすること能はざるときは皇族会議及び枢密顧問の議を経て摂政を置く(天皇が長期間に亘る故障によって、大政を自ら行う事が出来ない時は、皇族会議及び枢密顧問の議を経て摂政を置く)

慎んで思うには、摂政は以て皇室が避ける事が出来ない変局を救済し、一は皇統の常久を保持し、二は大政の便宜を疎通し両方を失墜させるわずらいを免れるところである。摂政は天皇の天職を摂行し、一切の大政及び皇室の内事を総て天皇に代わりこれを総攬する。そして至尊の名位にいるわけではない。これを古今及び各国の事がらを参照すると、摂政の事例は一つではない。或いは君祚(君位)を仮摂(仮に行う)するものがある[飯豊青尊(いいどよあおのみこと)が摂政に居られたのはこれに近い]、或いは人臣が大政を摂行するものがある[殷の伊尹、我が国の藤原良房がこれである]、或いは共同で摂政を組織し輔臣により摂政の体となすものがある[周の幽王の後の共和、及びバイロン・ザクセン・ウィッテンベルグ等の国における共同摂政がこれである]。そして、国家の危機にまた往々にして摂政の時代に起こるものが少なくない。本条は、摂政を認めて摂位を認めない。以て、大統を厳慎にするのである。そして、人臣による摂政を許さないのは次の上に於いてこれを見る。
天皇が長期間に亘る故障とは、思い病が長期間に亘り治る見込みがなく、又は他の自己により天職を行う事が出来ない事を謂う。そして、その大政を自ら行う事に堪えられなくなって、始めて摂政を置くべきである。もし、天皇が一時の疾病・違和又は国外に在住する事を以て、皇太子皇太孫に命じて代理監国させるが如きは、大宝令にある令をもって勅に代えるの制度により、別に摂政を置かない[欧州各国においても同様である]。摂政を置くのは、やむを得ざる必要による。故に、天皇が既に成年に達し、又は健康が回復し他時は、摂政を罷事は別に明言をまたなくても知るべきである。
次項で皇族会議及び枢密顧問の議を経るのは何故か。蓋し、事態起こって、或いは疑似に流れる事を免れない。故に典範に於いてその議を減る事を掲げて要件とするのである。その諮詢といわずに議を経てと謂うのは何故か。天皇が諮詢の命を自ら発する事が出来ない状況にあっても、皇族会議・枢密顧問は皇室の大事において、経緯を傍観してはならない。進んでその誠を致し、それによって宮禁の大計を定めるべきである。そのあるいは皇族会議の発議によって枢密顧問の審議に付すのか、或いは枢密顧問の発議によって皇族会議に協同を求めるかは、ともに時宜に従うのである。


第二十条 摂政は成年に達したる皇太子又は皇太孫之に任ず(摂政は、成年に達した皇太子又は皇太孫をこれに任命する)


第二十一条 皇太子皇太孫在らざるか又は未だ成年に達せざるときは左の順序により摂政に任ず(皇太子・皇太孫がいない場合、又は未成年である時は左の順序により摂政に任命する)
第一 親王及び王
第二 皇后
第三 皇太后
第四 太皇太后
第五 内親王及び女王

慎んで思うには、推古天皇紀に「厩戸豊聰耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とす。よって録摂政(まつりごとふさねつかさど)らせ、万機(国政)を悉く委ねた。」。これを皇太子摂政の例とする。仲哀天皇が崩御され応神天皇が胎内にあり、皇母である神功皇后が摂政された。これを皇后摂政の例とする。顕宗天皇紀に「白髪天皇(しらかのすめらみこと=清寧天皇)が崩御された。皇太子億計王(おけのおおきみ)と天皇は位を譲らりあわれ、長らく皇位に就かれなかった。これに由って天皇の姉である飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が朝廷に臨み政治を司られた」。これを皇女摂政の例とする。上世摂政に当たる者は、必ず皇族に限る。中古以来始めて大臣摂政の例があり、そして要するに一時の便宜であり、これを後世の模範としてはいけない。本条摂政の制度を定め、皇族に限り人臣に及ぼさないのは、蓋し大政の繁る所を厳にし、神器の重さを慎むことである。
第一条に皇位を継承するのは、男系の男子に限る事を掲げた。そして、本条は皇后・皇女に摂政の権を付与するのは、蓋し、上古以来の慣例を尊び且つ摂政に人を得る道を広く人臣に下及することを防ぐためである。
第二十条に謂う皇太子・皇太孫の成年は、第十三条による。その他の親王以下は普通の成年に達しない時は、摂政に任じてはならない事を知るべきである。


第二十二条 皇族男子の摂政に任ずるは皇位継承の順序に従う其の女子に於けるも亦之に準ず(皇族男子を摂政に任じるのは、皇位継承の順序に従う。それは女子に於いても之に準じる)

慎んで思うには、上代において皇太子が摂政に当たったのは、摂政の重任と皇位継承の順序とをあわせて一条の軌轍(車の通った後の轍)とした義例を始めるものである。蓋し、各国の古史が載せるところを参考にすると、摂政は長年徳器の人を択んでこれに任命した。そして継統の変の多くは、これによって起こる。本条に摂政の任を専ら皇位継承の順序に従わせるのは、宗統の倫序を以てあわせて摂政に及ぼし、危疑の門を将来に絶つところである。故に第十九条により、摂政を置く必要がある時が発生した際は、皇位継承の順次に当たる皇族は群臣の推挙を待つのではなく、進んで摂政に任ずる権利及び義務を有すべき事は、皇太子が大位を継ぐ事と何等変わるところはない。
皇族女子は、皇位継承の権利はない[第一条]。ただし、摂政に任ずる順序は皇位継承の順序に比準して後先を定める。


第二十三条 皇族女子の摂政に任ずるは其の配偶あらざる者に限る(皇族女子を摂政に任ずる場合、配偶者がいない者に限る)

慎んで思うには、上代において既に結婚した皇族女子を摂政に任じた例は存在しない。蓋し、其の夫に従うという義と並行する事は出来ないからである。そして、異姓に嫁いだ王女が王族では無い時は、従って又摂政に権利がないべきである。
但し、それが皇族に嫁いだ後、夫を失って寡婦となった者、及び異姓に嫁いでも離婚して本族に復帰し、又は孀婦となった後にその夫の家を離れて本族に復帰する者は、また摂政になるための権利を失わない。故に本条は未だ嫁がない皇女といわずに、配偶者がいない者という。


第二十四条 最近親の皇族未だ成年に達せざるか又は其の他の事故に由り他の皇族摂政に任じたるときは後来最近親の皇族成年に達し又はその事故既に除くと雖皇太子及び皇太孫に対する外其の任を譲ることなし(最近親の皇族が未だ成年に達しないか、又はその他の事故により他の皇族を摂政に任じた時は、後に最近親の皇族が成年に達し又は事故が既に除かれても、皇太子及び皇太孫に対する以外は、摂政の任を譲る事はない。)

慎んで思うには、本条は明文をもって予め疑義を判定する。皇太子・皇太孫は大統の宗系である故に、成年に達し又は事故が除かれた場合は、他の皇族及び皇后以下摂政に当たれる者総て、其の任を譲らなければならない。但し、甲の皇族と乙の皇族との間で単に親疎の区別がある物に関しては、一たび摂政に任じられた甲は、其の任を乙に譲る事は必要ない。また、任意にこれを譲る事は出来ないものとする。


第二十五条 摂政又は摂政たるべき者精神若しくは身体の重患あり又は重大の事故あるときは皇族会議及び枢密顧問の議を経て其の順序を換ふることを得(摂政又は摂政たるべき者が精神もしくは身体に重大な病気があり、又は重大な事故のある時は、皇族会議及び枢密顧問の議を経て其の順序を換える事が出来る。)

慎んで思うには、摂政又は摂政たるべき者が、重大な病気又は重大な事故がある事により、其の順序を換える必要な時機が発生した場合には、皇族会議及び枢密顧問は和衷同心(心のそこから思いを同じくし)をもって、その誠をもって大計を定めなければならない。
本条に重大な病気というのは、不治の重大な病気とはいわず、第九条と文が異なるのは、彼比の間にもとより軽重の別があるからである。


◆◆◆ 第六章 太傅 ◆◆◆

第二十六条 天皇未だ成年に達せざるときは太傅を置き保育を掌らしむ(天皇が成年に達しないときは、太傅を置き保育を掌らせる)

慎んで思うには、太子の傅の職は、大宝の令に見える。そして持統天皇紀に「直廣壹(じきこういち)・當麻國見(たぎまのくにみ)をもって東宮太傅となす」の事を載せているのであるから、蓋しその由って来ることは久しい。本条は天皇が幼沖のために太傅を置く事を定めるのは、保傳の任の重さは、摂政に次ぐものである[大宝令に傳一人、道徳を以って東宮を導く事を掌る]。そして、太傅は専ら保育教導の任に止まり、大政に関与する事は無く、摂政は大政を摂行するが保導及び天皇の私事に干渉しない。


第二十七条 先帝遺命を以って太傅を任ぜざりしときは摂政より皇族会議及び枢密顧問に諮詢し之を選任す(先帝が遺命により太傅を任命しないときは、摂政が皇族会議及び枢密顧問に諮詢し、これを選任する)


第二十八条 太傅は摂政及びその子孫之に任ずることを得ず(太傅は摂政及びその子孫をこれに任ずることは出来ない)


第二十九条 摂政は皇族会議及び枢密顧問に諮詢したる後に非ざれば太傅を退職せしむることを得ず(摂政は皇族会議及び枢密顧問に諮詢した後で無ければ、太傅を退職させることが出来ない)

慎んで思うには、摂政は大政を総摂するのみでなく、兼ねてまた皇族の内事を監督する。ゆえに先帝の遺命が無いときは、摂政は太傅を選任することを怠らないように、そして摂政及びその子孫は太傅に任じることが出来ず、及び太傅の任免は必ず皇族会議及び枢密顧問に諮詢し、そしてその後決行することを定めるのは、危疑の門を慎み摂政にその忠順を全くさせようとするのである。


◆◆◆ 第七章 皇族 ◆◆◆

第三十条 皇族と称ふるは太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王を謂う(皇族と称するのは、太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫・皇太孫妃・親王・親王妃・内親王・王・王妃・女王をいう)

慎んで思うには、太皇太后・皇太后は、令義解に「天子の祖母が后位に登った者を太皇太后と為すと言い、天子の母が后位に登った者を皇太后と為すという。」といっている。続日本紀に天平應眞仁正皇太后(てんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう=光明皇太后)「聖武皇帝(しょうむこうてい)が皇太子であっとき、納めて妃とした。(続日本紀 巻第二十二・天平宝字四年六月七日条 光明皇太后が崩御された時の記述)」とあり、これは古は皇太子の正式な配偶者を称えて妃と謂ったのである[御息所(みやすどころ)の名称は延喜以後の物語にみえる。蓋し、俗称であり典例ではない]。また、日本書紀に大津皇子妃、皇女山辺の文がある[持統紀]。これは凡そ皇子の正式な配偶者もまた妃と称えたのである。
皇族とは、凡そ皇胤の男子、及びその正式な配偶者、及び皇胤の女子をいう。凡そ皇族の男子は、みな皇位継承の権利を有する者である。故に中世以来、府庫の空費が原因で姓を賜い臣籍に列する例を本条は取らないところである。皇女であって異姓の臣籍に嫁いだ者は、その夫の身分に従う。故に本条に内親王・女王というのは、未だ結婚していない女王をさすことを知るべきである。
太皇太后・皇太后・皇后の叙列は大宝令により尊属の序次に従う。


第三十一条 皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王女を内親王とし五世以下は男を王女を女王とす(皇子より皇玄孫に至るまでは、男を親王、女を内親王とし、五世以下は男を王、女を女王とする)

慎んで思うには、子の子を孫とし、孫の子を曾孫とし、曾孫の子を玄孫とする[和名称による]。子を一世とし、孫を二世とし、曾孫を三世とし、玄孫を四世とし、玄孫の子を五世とする。大宝令に親王から五世と謂うのはこの事である。これを上古に考えると、皇子は「ミコ」と称え、皇女は「ヒメミコ」と称える。親王・内親王の呼び名は、持統天皇紀「六年正月朔(一月一日)、親王・内親王・王・女王・内命婦(ないびょうぶ)等に位を賜る」と見えたのが始である。大宝令に「凡そ皇兄弟・皇子すべて親王と為す」と。この時は、まだ宣下の式は無かった。宣下の式は蓋し、淳仁天皇紀に「兄弟姉妹、親王と称す」と見えるのが始である。皇孫であり親王内親王の宣下があったのは、三条天皇の皇孫である敦貞親王・敦元親王・●子内親王・嘉子内親王を始とする。紹運録に見える亀山天皇の皇子である恒明親王、その子である全仁親王、その子である満仁親王、その子である直仁親王、その子である全明親王、その子である恒直親王、相嗣いで常葉井宮と称したのは、これは世襲親王家の始めである。蓋し令には、親王の称は皇兄弟皇子に限っていたのを、その後宣下式により歴世の皇孫が親王の称を賜った。本条に皇玄孫以上は親王・ない親王とすることを定めるのは、現行の慣例を斟酌し、且つ宣下を待たずに皇親の王男・王女であることを示している。
大宝令での五世以下は皇親ではない。そして正親司の司るところは、四世以上に限る。僧であるのに継体天皇が皇位を継承されたのは、実に応神天皇五世の孫という事でである。これは、中古の制度は必ずしも先王の遺範ではない。本条に五世以下を王・女王であることを定めるのは、宗室の子孫は五世の後に至っても、皇族であることを失わせないようにし、それによって親親の義を広めるためである。[文武天皇慶雲三年の詔に言うには「令に准じるに五世の王は、王名を得ると雖も、皇親の限りに在らず。今、五世の王は王名有りと雖も、皇親の籍を絶って諸臣の例に入る。思うに親親の恩を顧み絶籍の痛みに耐えられない。今より以降、五世の王は皇親の限りにあって、その承嫡は相承って王とせよ。自餘は令の如し。」(慶雲三年二月十六日条)と。又聖武天皇天平元年の詔にいうには「五世の王の嫡子以上の者が皇孫の王を娶って生まれた子は、皇親の籍に入れよ、それ以外は、慶雲三年の格に従え」(天平元年八月五日条)と。その後、桓武天皇の延暦十年に至り、勅して令制に戻した]


第三十二条 天皇支系より入て大統を承くるときは皇兄弟姉妹の王女王たる者に特に親王内親王の号を宣賜す(天皇が支系より入って大統を受け継いだ時は、天皇の皇兄弟姉妹の王・王女は特に親王・内親王の号を宣賜する)

慎んで思うには、大宝令に「凡そ皇兄弟・皇子みな親王となす」とあり、これは皇兄弟は皇子と同じく親王とのな得るべき事が既に成典にある。天皇が支系より入って、大統を受け継いだならば、皇兄弟・姉妹はみな親王・内親王の尊号を得るのは、光仁天皇が大統を継ぎ、皇弟湯原王・榎井王を陛せて親王となされたのを始例とする。前条の注に引く所の淳仁天皇の皇兄弟・姉妹の例もまた同じで、本条には宣下の例を持ちいるのは前条とその儀を異にするからである。


第三十三条 皇族の誕生命名婚嫁薨去は宮内大臣之を公告す(皇族の誕生・命名・婚嫁・薨去は宮内大臣がこれを公告する)

慎んで思うには、皇太子・皇太孫の立坊は詔書をもって公布する外、凡そ皇族の生死・婚及び命名は宮内大臣より公告する。蓋し、皇族は皇統の関わるところであり、臣民の仰望の集まるところである。ゆえに、臣民に対して公にし、みなに聞き知らせるのである。


第三十四条 皇統譜及前条に関る記録は図書寮に於て尚蔵す(皇統譜及び前条に関する記録は、図書寮に於いて保管する)

慎んで思うには図書寮が保管するところの皇統譜及び皇族記録は、大統の源流を明らかにし宗室の本末を遡って証明する。本条が特に之を掲げて、皇室と書の登録は、嫌疑を定め乱の萌芽を絶つ典籍であることを明らかにする。


第三十五条 皇族は天皇之を監督す(皇族は天皇がこれを監督する)

慎んで思うには、天皇は皇室の家父である。故に皇族の廩俸(生活費)は皇室経費より賜り、皇族各人の結婚又は外国に旅行するには勅許を必要とし、父が居ない幼い男女の教育及び保護は勅命による。凡そ皇族は総て天皇の監督の下にある事は、家人の家父における状態と同じである。これは皇族の幸福及び栄誉を保つためである。


第三十六条 摂政在任の時は前条の事を摂行す(摂政在任の時は、前条の事を摂行する)

慎んで思うには、摂政は大政を摂行するのみでなく、兼ねてまた皇室の家父であることを摂行する。故に皇族各人は、摂政に対して家人従順の義務を有するべし。


第三十七条 皇族男女幼年にして父なき者は宮内の官僚に命じ保育を掌らしむ事宣に依り天皇は其の父母の選挙せる後見人を認可し又は之を勅撰すべし(皇族男女が幼年で父親が居ない者に対して、宮内の官僚に命じて保育を掌らせることは宣下により、天皇は其の父母の選挙する後見人を認可し又はこれを勅撰すべし)


第三十八条 皇族の後見人は成年以上の皇族に限る(皇族の後見人は、成年以上の皇族に限る)

慎んで思うには、天皇は皇族を監督する。故に皇族が幼く父が居ない時は、勅旨により宮内官僚に命じて保育を掌らせなければならない。或いは、其の父の遺嘱により後見人を選挙し、または其の母が後見人を選挙した時は、天皇は之を認可し或いは特に後見人を勅撰して、保育に当たらせる事があるのは、総て事宜に従う。そして後見人の行うところの事は、天皇が自ら之を監督しなければならない。


第三十九条 皇族の婚嫁は同族又は勅旨に由り特に認許せられたる華族に限る(皇族の結婚相手は、同族又は勅旨により特に認許された華族に限る)

慎んで思うには、皇族の結婚といえるのは、皇后を選ぶ事も、もとよりその中にある。上代において皇后は皇親に択ぶその人臣の家から取るのは、聖武天皇が藤原不比等等の娘である安宿媛を立てて、皇后とされたのに始まる[仁徳天皇の磐之媛におけるは、聖武天皇の詔の先例として引用されたところであるが、その実態は皇族に係る]。中古以来、皇親の他は藤原氏・橘氏・平氏・源氏の四姓より皇后を奉ることとなった。その他の皇族は大宝令に「凡そ王は親王を娶り臣は五世王を娶ることを許す。ただ五世王は親王を娶る事は出来ない」と。これは、その婚姻において無名位を重んじたのである。本条は、祖宗の古法を尊重し、又華族の家に婚嫁する事を許すのは、かねて中世以来の慣例を斟酌し、貞淑を択ぶ道を広めるのである。そして又、特に認許を得た家に限るのは、名門右族を択ぼうとするためである。


第四十条 皇族の婚嫁は勅許に由る(皇族の結婚は、勅許による)

慎んで思うには、皇族の結婚は必ず勅許に由るのは、至尊の監督の大権により、皇族の栄誉を保たせるためである。


第四十一条 皇族の婚嫁を許可するの勅書は宮内大臣之に副署す(皇族の結婚を許可する勅書は、宮内大臣がこれに副署をする)

慎んで思うには、皇族の婚嫁で本法に違い勅許を得ない者は、婚嫁を認めない。その婦は皇族である礼遇及び名称を得られない。故に勅許を付するに当たって、また、特に慎重に取り計らう。


第四十二条 皇族は養子を為すことを得ず(皇族は養子を取る事が出来ない)

慎んで思うには、皇家に養子・猶子の習いがあるのは、蓋し、嵯峨天皇の皇子である源定(みなもとのさだむ)を淳和天皇の子とし[時の人は、定に二父母ありといった]、源融(みなもとのとおる)を仁明天皇の子とされたのに始まる。そして未だ養子・猶子の名称はない。皇族の子孫で天皇の養子となったのは、融(源融)の孫の堤茂(さだしげ)を光孝天皇の養子とされたのに始まる。猶子の名称は神皇正統紀に亀山院天皇の姪の煕仁(伏見天皇)を猶子にして東宮にすえられたとあり、及び職原鈔に「忠房親王を後宇多院の猶子となす」ちあるのが始とする。猶子とは、蓋し皇子に準じる義である[大日本史に清仁親王(すみひとしんのう)と弟の昭登(あきのり)等は、帝(花山帝)が剃髪した後に生まれた。帝はもっとも清仁を愛し、左大臣・道長(藤原道長)に託して皇子を冷泉上皇の譜子に準じ、勅して清仁を第五子とし昭登を第六子として、両者を親王とした]。凡そこれらは皆、中世以来の沿習であり、古の典例ではない。本条は宗系紊乱の門を塞ぐのである。その皇猶子の事に及ばないのは、皇養子と同列であるからである。


第四十三条 皇族国境の外に旅行せむとするときは勅許を請ふへし(皇族が国外に旅行しようとする時は、勅許を請わなければならない)

慎んで思うには、これは皇族が天皇の監督に属する要件の一つよるものである。国外に旅行する者は、勅許を要する時は、外国政府の文武の官に補任するものはいわないので、この点を知るべきである。


第四十四条 皇族女子の臣籍に嫁したる者は皇族の列に在らず但し特旨によりその内親王女王の称を有せしむることあるべし(皇族女子が臣籍の者と結婚した場合は、皇族の列から外れる。但し、特旨により、その内親王・女王の呼称を持つ場合がある)

慎んで思うには、女子で婚姻する者は、それぞれその夫の身分に従う。故に皇族女子が臣籍の者と結婚した場合は、皇族の列から外れる。ここに臣籍というのは、専ら異姓の臣籍をいう。その内親王または女王の尊称を有する事があるとは、近時の前例によるのである、然るにまた必ず特旨があるのは、その特に賜る尊称で有り、その身分によるものではない。


◆◆◆ 第八章 世伝御料 ◆◆◆

第四十五条 土地物件の世伝御料と定めたるものは分割譲与することを得ず(土地・物件で世伝御料と定めた物は、分割・譲与する事は出来ない)

慎んで思うには、世伝御料は皇室に係属する。天皇はこれを後嗣に伝え、皇統の遺物として随意に分割し又は譲与される事は出来ない。故に後嵯峨天皇、後深草天皇をして亀山天皇に位を伝えさせ、遺命をもって長講堂領二百八十所を後深草天皇の子孫に譲与したような事は、一時の変例であり将来に依るべき典憲ではない。
上代に屯家(みやけ)を置き又は御田と呼ぶ。御田の穀物を収める所を屯倉という。垂仁天皇紀に「屯倉、ここには彌夜気という」(垂仁天皇二十七年)と註がされたこれの事である。仁徳天皇紀に「倭の屯田は、帝の屯である。帝の子といえども帝でなければ得る事は出来ない」(仁徳天皇紀応神天皇四十一年春二月)とある。これは上古において既に世伝御料の制度があって、継体の天皇がこれを掌有された。その他の屯田は賜予または遺命をもって分割譲与されたことは全て勅旨に従うものである。即ち天皇の私法上の財産として、皇室に係属されたものである。安閑天皇紀に「皇后や次の妃のために、屯倉を地を立てて後代に伝えさせ、その跡をあきらかにさせる」(安閑天皇元年冬十月十五日条)とあるがごとき。これは世伝御料とその種類が異なることを知るべきである。
我が国建国の初に、一国統治の公義により豪族達を斥けて、彼等が私に国土を領有することを許さなかった[古事記の建御雷神(たけみかづちのかみ)が大国主命(おおくにぬしのみこと)に問うた条に「汝が領有する葦原の中つ国は、我が御子の治めるべき国なり云々」]。そして皇室の経費は全国の租税を持ってこれを供奉し、更に内庫の私産を用いて供給するのは、全く立憲の主義に符合するものであり、善美である国体の基礎であるというべきである。故に本条は、上代の所謂、屯家・御田の類を一部の御料に属する物をさす。そして皇室経費は別に憲法を以てこれを定めたのである。


第四十六条 世伝御料に編入する土地物件は枢密顧問に諮詢し勅書を以て之を定め宮内大臣之を公告す(世伝御料に編入する土地・物件は枢密顧問に諮詢し、勅書を以てこれを定め、宮内大臣がこれを公告する)

慎んで思うには、土地・物件の世伝御料に編入する物は、普通民法の外において処分されるべき者である。故に枢密顧問の議を詢うたのち、勅書を以てこれを定めるのは、その慎重をきするところである。又、宮内大臣より公告するのは、臣民に対して広くこれを知らせるためである。
皇室の常産は、皇室の図書に登録し、その土地は地籍に明記する必要がある。叡旨をもって一たび皇室の常産に編入された物は、更に分離して私産とする事が出来ない。


◆◆◆ 第九章 皇室経費 ◆◆◆

第四十七条 皇室諸般の経費は特に常額を定め国庫より支出せしむ(皇室における諸般の経費は、特に常額を定めて国庫より支出させる)

慎んで思うには、皇室の経費は特に常額を定めて、国庫の至重の義務として毎年支出させる。蓋し、天皇は一国の元首として臣民を統治し、従って臣民の正供によりその需要に奉ずるのは、当然の権利である。故に議会は皇室経費として規定の歳額を議し、及びこれを検査する権限はない。ただし、新に増額を要するに当たっては、更に議会の協賛を経る必要がある。故に常額というのである。
皇族の歳費は、皇室経費より支弁し、別に国庫予算の科目を設けない。所謂、諸般の経費の中に包括するものである。


第四十八条 皇室経費の予算決算検査及びその他の規則は皇室会計法の定むる所に依る(皇室経費の予算・決算・検査及びその他の規則は、皇室会計法の定める所による)

慎んで思うには、皇室経費は既に議会の議を経ない。又会計検査院の検査を必要としない。そして別に皇室会計法により、その上記を定めて以て正確と節約とを要すべきである。


◆◆◆ 第十章 皇族訴追及懲戒 ◆◆◆

第四十九条 皇族相互の民事の訴訟は勅旨に依り宮内省に於いて裁判員を命じ裁判せしめ勅裁を経て之を執行す(皇族相互の民事訴訟は、勅旨により宮内省において裁判員を命じ裁判をさせ、勅裁を経てこれを執行する)

慎んで思うには、皇族と皇族との間に起こる訴訟は、内廷の裁判によるべきである。故に宮内省において勧解させて、勧解が成立しない時は、特に裁判員を命じて之を裁判させて更に勅裁を経てこれを執行させる。
その他、普通の民法において裁判所の登録又は処分を要するものは、皆宮内省がこれに当たる。


第五十条 人民より皇族に対する民事の訴訟は東京控訴院に於いて之を裁判す但し皇族は代人を以て訴訟に当たらしめ自ら訴廷に出るを要せず(人民より皇族に対する民事の訴訟は、東京控訴院でこれを裁判する、但し皇族は、代人を立てて訴訟に当たらせ、自ら裁判に出る必要は無い)

慎んで思うには、本条は人民より皇族に対する民事訴訟は、東京控訴院でこれを裁判する事を定めるのは、皇族の特権を示すものである。そして、その詳説は蓋し別にこれを定める所があるとする。皇族より原告として人民に対する訴訟は、普通の訴訟原則により被告人の所轄裁判所がこれを裁判するべきである。
普通の訴訟人は、裁判所より本人尋問を必要とし、召喚するに当たり訴廷に出ない事は出来ない。そして皇族は自ら出る必要が無く、これもまた特権である。
その他の訴訟手続きにして、この典範又は他の法律に別段の条規が無ければ、総て普通裁判構成法及び訴訟法による。


第五十一条 皇族は勅許を得るに非ざれば拘引し又は裁判所に召喚することを得ず(皇族は勅許を得るので無ければ、拘引し又は裁判所に召喚する事は出来ない)

慎んで思うには、皇族は犯罪があっても拘引する事が出来ない。それが現行犯であってもまた同じであり、又刑事の審問のために裁判所に召喚することも出来ない。予審判事は書記とともにその所在(皇族の所在地)において陳述を聴くべきである。但し、天皇の勅許を得た時は例外とする。
皇族が証人である場合は、治罪法にこれを掲げる[第百八十七条]。そして勅許を得る限りではない。


第五十二条 皇族其の品位を辱むるの所行あり又は皇室に対し忠順を欠くときは勅旨を以て之を懲戒し其の重き者は皇族特権の一部又は全部を停止し若しくは剥奪すべし(皇族に其の品位を辱める所行があり、又は皇室に対し忠順を欠く時は、勅旨を以てこれを懲戒し、その懲戒の重い者は皇族特権の一部、又は全部を停止若しくは剥奪すべし)

慎んで思うには、皇族は皇室に対し忠順の義務を負う者である。故に皇室に不忠であるのと品位を辱める汚行とは、ともに紀律を破る者として懲戒処分を被るべきである。
皇族懲戒の権は、天皇の自ら執るところである。懲戒の重き者は、皇族特権の一部又は全部を停止又は全部を剥奪する。停止は期限があり、剥奪は期限が無い。


第五十三条 皇族蕩産の所行あるときは勅旨を以て治産の禁を宣告し其の管財者を任ずべし(皇族に蕩産の所行がある時は、勅旨を以て治産の禁止を宣告し、その管財者を任ずべし)

慎んで思うには、皇族に蕩産(財産を使い果たすこと)の所行がある者に対して、民法上の治産の禁止を宣告し、及びその管財人を命じ財産を管理させる事は、また勅旨による。これは天皇の監督の権に属するからである。


第五十四条 前二条は皇族会議に諮詢したる後之を勅裁す(前二条は皇族会議に諮詢した後に、これを勅裁する)

慎んで思うには、皇族会議は皇室の内事について、天皇の諮詢に応えるべく、そして皇族の懲戒又は治産の処分については、特に諮詢を必要とする。


◆◆◆ 第十一章 皇族会議 ◆◆◆

第五十五条 皇族会議は成年以上の皇族男子を以て組織し内大臣枢密院議長宮内大臣司法大臣大審院長を以て参列せしむ(皇族会議は成年以上の皇族男子で組織し、内大臣・枢密院議長・宮内大臣・司法大臣・大審院長を参列させる)

慎んで思うには、皇族会議は第一に皇室典範に関わる改正の諮詢を受け、第二に第十九条第二項及び第二十五条の場合において議決を経る必要があり、第三に皇嗣を変える時に諮詢を受け、第四に皇族の懲戒及び治産の処分の諮詢を受け、その他皇室に関わる重要事件及び民法において親族会議に関わる事件の諮詢を受ける。その議事の規則は別にこれを定めるべきである。


第五十六条 天皇は皇族会議に親臨し又は皇族中の一員に命じて議長たらしむ(天皇は皇族会議に親臨し、又は皇族の中の一員に命じて議長にさせる)

慎んで思うには、天皇が皇族会議に親臨されるときは、自ら会議を統理される。その親臨されない時、又は自ら会議を統理されない時は、別に議長を指名する。


◆◆◆ 第十二章 補足 ◆◆◆

第五十七条 現在の皇族五世以下親王の号を宣賜したる者は旧に依る(現在の皇族五世以下で親王の号を宣賜した者は、旧による)

慎んで思うには、典範の定める所に依れば、五世以下の王は親王と称える事は出来ない。本条は現在の宣下親王のためにその既得の尊栄を奪わない。そしてその継嗣以下未だ宣下が無いのは、典範の本則による事を知るべきである。


第五十八条 皇位継承の順序は総て実系による現在皇養子皇猶子又は他の継嗣たるの故を以て之を混ずることなし(皇位継承の順序は、総て実系による。現在、皇養子・皇猶子又は他の継嗣であることをもって、これが混乱する事は無い)

慎んで思うには、現在の親王家、親王宣下を受けた多くは、皇養子・皇猶子である近例に従ったのである。第四十二条は皇族養子の制度を廃止した。そして現在、既に行った者には上及しない。但し、皇位継承の順序は、総て宗支遠近の実系により養子・猶子の名称及び甲家の子・乙家の継嗣であるのに関わらない。その間、多少の紛錯があったが、その名によってその実を混同することがあってはならない。


第五十九条 親王内親王王女王の品位は之を廃す(親王・内親王・王・女王の品位は、これを廃止する)

慎んで思うには、親王・内親王の叙品、王・女王の叙位は、蓋し中古にあって隋唐の制度によれる、皇族は既に品位を以て班別をなし、そして親疎・長幼の倫序に従って喪失した。よくよく皇族は生まれて●(サンズイに黄)流の尊栄にいる。そして人臣の位階によって陛叙するのは不適切である。本条に品位の旧制を廃止するのは、倫序を以て重しとするによるのである。


第六十条 親王の家格及びその他此の典範に抵触する例規は総て之を廃す(親王の家格、及びその他この典範に抵触する例規は、総てこれを廃止する。)

慎んで思うには、有栖川宮、閑院宮は明治元年閏四月の令により、世襲親王である[被仰出書に有栖川宮嫡子は、今より先これまでの通り、御養子を可とし親王宣下を為す。閑院宮嫡子は相続のときより先これまでの通り、御養子を可とし親王宣下を為す。]賀陽宮、山階宮、聖護院宮、仁和寺宮、華頂宮、聖高院宮、梶井宮は同令により一代皇族である[嫡子は始めて姓を賜り、臣籍の列に加わる]。三年十二月十日の令に四親王[伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮を四親王とする]の外の親王家は、二代目より姓を賜り華族に列せられることを定められた[山階宮、東伏見宮、梨本宮]。十四年二月小松宮親王を世襲皇族に、山階宮親王を二代皇族に列せられた。十六年七月久邇宮親王を二代皇族に列せられた。今、典範において、既に皇養子・皇猶子の制度を廃止したるときは、従って世襲親王の旧制も又廃除に帰せられる事は出来ない。皇子孫は諸王と雖もまた、皇族たることを失わない時は、従って賜姓の制度及び一代皇族又は二代皇族の家格は、また廃除に帰せられる事は出来ない。


第六十一条 皇族の財産歳費及び諸規則は別にこれを定べし(皇族の財産・歳費・諸規則は、別にこれを定める)

慎んで思うには、皇族の各個の財産及び歳費・廩給の方法、およびその他の皇族に関わる諸般の規則は、蓋し別に皇族令によりこれを定めようとする。故に典範は務めて大体を掲げる。そして詳説繁文に落ちいることを望まない。


第六十二条 将来此の典範の条項を改正し又は増補すべきの必要あるに当ては皇族会議及び枢密顧問に諮詢してこれを勅定すべし(将来、この典範の条項を改正し、又は増補すべき必要がある時は、皇族会議及び枢密顧問に諮詢してこれを勅定する)

慎んで思うには、皇室典範は天皇立憲を経始される制作の一つとして、永遠に伝える皇室の実典である。故に本条は、その紛更を慎む意図をもつのである。よくよく憲法によるに、その条項に改正を必要とすることがある時は、これを議会に付し、特に鄭重な方式により議決させる。そして皇室典範においては、独り皇族会議と枢密顧問に諮詢するのに止まる。憲法と同一の軌轍に依らないのは何故か。蓋し、皇室の事は皇室自らこれを決定すべきであり、これを臣民の公義に付すべきではないからである。

=============================

本日で最終です。皆様有難うございました。
http://www.kenkenfukuyo.org/

***************

◎HISASHIさん、ありがとうございます。

前から疑問に思っていたのですが、皇族の範囲の境界はどうなっていたのでしょうか。
律令では「天皇の四世の孫まで」とあると、高森明勅さんが言っていましたが、明治と昭和の皇室典範では、どうなっているのでしょうか?
(オロモルフ)


皇族の範囲 投稿者:HISASHI  投稿日:12月25日(土)23時11分54秒

◎オロモルフ様

>前から疑問に思っていたのですが、皇族の範囲の境界はどうなっていたのでしょうか。
旧皇室典範では、王・王妃・女王までを皇族としています。王・女王は天皇の五世以下の子孫ですから、宗室の子孫は皇族の扱いを受けているようです。具体的にいえば、宗室及び宮家が皇族ということでしょう。現在の皇室典範では、三世以下を王・女王としている以外は、旧皇室典範と変わりありません。もっとも、昭和の皇籍離脱により宮家は減りましたが。

>律令では「天皇の四世の孫まで」とあると、高森明勅さんが言っていましたが、

令制では正しくその通りで、それは文武天皇が慶雲三年(706年)に下された詔「令に準ず。五世の王は王名を得ると雖も皇親の限りに在らず。皇親の籍を絶ち諸臣の列に入れられている」で示されています。(続日本紀 巻第三 慶雲三年二月十六日条)ただし、この詔で「五世の孫も皇親の籍に入れ、その嫡系も王にせよ」とあり、この時から宗室の五世の孫以下も皇族になったようです。

なお、皇室典範義解に「桓武天皇の延暦十年に至り勅して令制にかえしたり」とある事から、その時に「四世の孫までを皇親の籍」とした令制の状態に戻ったようです。


◎HISASHIさん、お忙しいのにありがとうございます。
ところで、この成年というのは、皇位をつぐ資格と関係するのでしょうか。
(オロモルフ)


Re:Re:皇室典範義解010 投稿者:HISASHI  投稿日: 1月20日(木)22時27分39秒

◎オロモルフ様

>ところで、この成年というのは、皇位をつぐ資格と関係するのでしょうか。

皇位を継ぐ資格には関係しませんが、「摂政」に係ってきます。

第十九条で「天皇未だ成年に達せざるときは摂政を置く(天皇が成年に達しない時は摂政を置く)」とあり、また第二十条に「摂政は成年に達したる皇太子又は皇太孫之に任ず(摂政は成年に達した皇太子又は皇太孫を之に任命する)」と有ります。

上記の事から、継承には「成年」で有るか無いかは係らないが、政務を執る資格(能力)が有るか無いかの基準となっていると考えられます。


HISASHIさまの論考リストに戻る