■□■□■ 高峰譲吉の米紙への寄稿(オロモルフ)■□■□■

■■■ オロモルフによる説明 ■■■

 高峰譲吉は、タカジアスターゼの発明やアドレナリンの純粋抽出で世界の医薬界に大きな貢献をしたことで知られていますが、日露戦争時にアメリカ世論を味方につけるために民間大使として自費を投じて貢献した愛国者でもありました。

 高峰譲吉がアメリカで没したのち、大正十一年十一月十日に、帝国ホテルで追悼会が開催されました。
 このとき、日露戦争時にアメリカに派遣されて、大統領と友人なのを利用するなどしてアメリカの世論を味方につけるために奔走した金子堅太郎が、高峰讓吉の民間外交を高く評価し、日本政府を批判した挨拶をしています。

「(ロシア贔屓が多かったアメリカで日本贔屓を増やすために私費をなげうって粉骨砕身した高峰讓吉の民間大使ぶりを賞賛した上で)
 ・・・私が亜米利加より帰って来て、亜米利加に対しては国民外交をせねばならぬ、其の国民外交の無冠の大使は高峰博士であると云うことを言ふた所が、日本に於て大いに笑はれた、又攻撃された、金子が国民外交と云ふが、外交が国民外交であつて堪るものか、外交は秘密でなければならぬ、門戸を閉ぢて其中で外務大臣と大使とが話して他に漏れぬやうに機微の間にするのが外交である。国民外交とは何事か、国民が外交を知るとか、外交に喙を入れるのは間違って居ると云ふて、大いに私は攻撃された。・・・所が(いくつか例をあげて)・・・国民外交でなければ亜米利加の外交は成功しない・・・」
(没時の日本政府の高峰讓吉への顕彰は実績に比して極めて低いものでした)

 アメリカとの外交では、アメリカ国民の世論を味方につける事がいかに大切かを、在米して奔走した金子堅太郎はよく知っており、したがって民間人としてその努力をした高峰譲吉を高く評価したのです。
 アメリカとの外交では世論が何よりも大切なことは、高峰譲吉とは別の立場で民間外交を展開した歴史学者の朝河貫一も述べています。
 産経新聞の朝河特集の中に、朝河の言葉として、「米国は与論の国であり・・・与論が政府を動かすことが多くて政府が与論を制したり導いたりすることが少ない」が引用されています。

 アメリカの世論を動かすためには、政府・政治家・役人がアメリカ世論に働きかけることが必要であると同時に、日本の民間人がこれに協力すること――つまりは民間外交――が必要です。
 しかし日本はこの点で大きく遅れています。
 日本の在米民間人と中国の在米民間人では、アメリカ世論への働きかけがまったく違っていて、日本人は意識が低い――と親日アメリカ人が言っているそうです。

 以下に、日露戦争の当時、在米日本人の中心だった高峰譲吉が、いかに民間外交に心をくだいていたかの例として、米紙への寄稿文を紹介いたします。
 出典は、
◎松原宏遠『下瀬火薬發明記』葛城書店(昭和十九年六月)
 ――です。
 翻訳も松原宏遠です。


■■■ 訳者・松原宏遠による解説 ■■■

 これは、日露戦争のときアメリカにあつて、いはゆる「無冠の大使」として活躍した工学博士・薬学博士高峰譲吉博士が、日露開戦後、わづかに旬日をすぎたばかりの明治三十七年二月二十八日「ニューヨーク・プレス」の日曜版に寄稿した快論文であつて、いはば高峰博士の国民外交第一ペーヂをかざる歴史的文献であると同時に、流麗暢達の筆をもつて、日本人の科学的独創性を強調し、その新兵器の鋭利を巧みに宣伝し、しかも日本人の本質が平和愛好の大理念にあることを闡明した点において、まさに愛国科学者としての高峰博士の面目躍如たる手記である。
 なかんづく日本人の科学的独創性ないし「独創と模倣」の問題の扱ひ方、および下瀬火薬にはじまる一連の新兵器紹介は、科学史的に非常に貴重であると思はれるので、敢へて訳出して、清覧に供することとした。
 原文はニューヨーク・プレスの日曜朝刊、全段抜きの大みだしで『日本、驚異的新爆薬を使用す』とある下に『旅順において既に使用、やがて陸戦においても露軍に満喫させん、高峰博士、暗に諷す』『種々の科学部門における日本の驚嘆すべき進歩』と小みだしをつけ、海戦の図を背景に、北里柴三郎博士と筆者高峰博士の写真を掲げてゐる。


■■■「ニューヨーク・プレス」編輯者のことば ■■■

 日本人について語ることの資格において、当市居住の高峰譲吉博士の右に出づるものはない。博士は世界最大の化学者の一人であり、医学のために近代におけるもつとも重要な発見のうちの二つ、アドレナリンとタカ・ヂァスターゼをあたへてゐる。
 アドレナリンは出血に対する即効薬であるほかにニトログリセリンもしくはストリキニーネ以来の強心剤である。
高峰博士の説によれば、日本人は一種の高爆薬を有し、今次の戦争にそれを使用しつつあるが、その偉大な破壊力は、ヨーロッパ諸国あるひはアメリカ合衆国に知られてゐるいかなるものより大きい。博士はそのことに通暁してゐるといふ。
 また博士は、日本がこの爆薬を採用するにあたつては、諸外国によつて製出せられた既知のあらゆる強力な火薬を試みて、しかるのちにしたといつてゐる。
 小銃、野砲およびありとあらゆる兵器部品において、博士の祖国は、諸外国の最善のものを雛型として、改良をなしとげたと博士は公言する。
 当市における高峰博士の研究所は西百四十二番街六百十三番地にある。博士は東京帝国大学の工学士、工学博士1)である。
 博士はサンデイ・プレスの読者のために、その祖国が、いかにして、また何故に五十年にも足らぬ年月のうちに、野蛮な鎖国の状態から、科学・芸術・交易・産業および戦争において第一級の地位を占めるに至つたかを説明する。


■■■ 高峰譲吉が「ニューヨーク・プレス」に寄稿した本文 ■■■

日本における諸科学部門の驚異的発達(高峰譲吉)

 日本人は偉大なる模倣家であるといふことが普通にいはれてゐる。これが事実であることには何らの疑ひもない。しかし、模倣的であるといふことは、独創的であることの先駆にほかならない。アメリカ人は世界ぢゆうを通じてその発明的天才の故を以て注目されてゐる。しかしながら、五十年あるひは七十年以前のアメリカ人を観察するならば諸君は当時彼らが非常にすぐれた模倣家であつたことを知るであらう。産業と関連した現代アメリカ合衆国の発展はおしなべてヨーロッパ諸国から由来し、導入されたものであつた。その鉄道・造船・製鉄・鉱山・紡績――事実上合衆国の大産業の大部分――は、母なる国々において使用されてゐた方法と手段の、単なる模倣の下に遂行せられたのである。
 疑ひもなく、発明的天才はその当時においてもたしかに存在した。しかし、必要は発明の母なりとはいひながら、すでに存在し、かつ何時なりとも使用しえられるもの、数世紀にわたる発明と実験の結果になるものに眼を閉ぢるほど、それほどアメリカ人は愚かではなかつたのである。さりながら、ヨーロッパにおいて発展したよきものをのこる隈なく摂取したとき、アメリカはよりよき何物かを希求した。ここに発明の「母」は現れ、この母はアメリカが全世界にみづからの名声をあまねからしめるまで、発明と改良をつづけてきたのである。
 これはまたまさに日本がなし遂げたところのものである。私の祖国は五十年にも足りない昔に、世界の他の部分に紹介せられた。何世紀ものあひだ、あらかじめ日本は何らの関係も、通信も、交易も、思想も(訳者註、外国から輸入することを)希望しなかつた。それで事は充分に足りたのであり、祖先伝来のことが毎日の実践であつた。古きものは新しきものよりもよかつた。なぜかならば、古きものは歳月の試練を経てをり、新しきものは一つの実験だからであつた。
 そののち、日本は賢明にも近代的な方法と科学を採用し、古い封建制度を廃絶すべく決意した。多種多様な形式における近代文明を摂取し、これを前進させることにおいて、比較的わづかの年月に、日本が不思議なほど長足の進歩をなしとげたことは、誰しもしつてゐるとほりである。
 これ以上詳説しないでも、一八九四年における清国との戦争、および現に進行中のロシアに対する戦争は、私の主張の正しさを証明する。数多の戦争方法はたぶん模倣の階段にあるかに思はれよう。すこぶる多くの長所を、日本が諸外国から摂取し、その利益を享受してゐることは認められなければならないが、しかし、また多くの面において、日本はこの特殊の主題については世界ぢゆうのありとあらゆるものを吸収しつくして、多くの点で、今やその必要が発明によつてのみ充たされうるところまで来てゐるのである。これこそ科学および産業の数多の部門において日本が遭遇してきたところの問題なのである。
 しかしながら、まづ現下の興味ある話題として、過去二週間内外のあひだに実際に使用され、かつ奏効した二三の発明について語らなければなるまいと思ふ。こんにち日本はみづからの発明ならびに製造にかかる弾丸をもつてロシアの戦艦を撃沈しつつあるが、この飛道具を発射し、爆発せしめてゐる高爆薬がいかなる古今の火薬よりも強力であり、また広範囲の破壊力を有するとの主張は、すでに実験によつて証明されてゐるのである。またこの砲弾は、日本国内において設計製作せられた大砲を、同じ由来の砲架に載せて、撃ち出すのである。陸において、また海において露帝の軍隊は味方よりはるかに優勢な砲撃に直面するであらう。日本の兵隊の小銃は、到るところにある近代的小銃の品質と効果とを結合した連発施條銃であるが、これまた日本人の発明と設計と製作にかかるものである。ロシアの戦艦を海底に葬りさつた水雷は、天皇の海軍の将校によつて考案せられた信管を時限・触発ともに装備してゐる。もし陸上の作戦から比率を拡大していふことがゆるされるならば、日本以外の何処にも知られてゐない攻城砲は、かつてイギリスが南アフリカで用ひたこの種の火砲が全く時代おくれであることをイギリス自身に示すであらう。
かかる事態をもたらしたものは、嘗て存在した一国民としての日本人の保守主義ではない。これは純粋かつ単純に覚醒した日本における新思想の結果である。私の祖国では、世界の他の国々から提供された最善のものが試みられ、吟味せられ、何らかよりよきものへの希求は、近代の科学思想に従つて充足された。こんにちの情勢において日本の自由になる戦争手段に貢献した人々のうち、二三を紹介することにしようと思ふ。
 現在手に入れうる最上の火薬として、陸海軍に使用せられてゐる新しい高爆薬は、ロシアの艦船が蒙つた損傷の大部分を、おそらくその功に帰すべきものだが、下瀬雅允の発明にかかる。彼は非常に有能な化学者で、私として誇りとしたいのは、東京の帝国大学の化学研究室で私と同窓であった2)。この爆薬は彼の姓をとつて命名せられ、東京の近郊で政府の警戒のもとに、秘密裡に製造されてゐる。下瀬の発明は天皇陛下に嘉賞せられ、もつとも高貴な勲章を授けられた。
 砲兵会議々長有坂成章中将もまた、日本の戦争能力増加に貢献した注目すべき一人である。彼は大砲・砲架の両者にまたがる発明者で、これが日本の野砲および山砲の最新の発展を構成してゐる。ロシア人はやがて日本軍と陸上に相見ゆるの日、その性能を味はひつくすであらう。有坂中将はまた私がすでに言及した攻城砲をも完成してゐる。これらの火器はすべて、もつぱら日本政府直轄の砲兵工廠において製造されてゐるものである。
 帝国海軍の肥後盛良大尉は、その名を負へる著発信管の発明者であるが、この信管は水雷に装備せられ、すでに敵艦の舷側にその標的を見出してゐる。
 現役を退いた前田亨海軍造兵大監は、速射砲の弾丸に使用せらるべく予定された一連の時限信管および著発信管を考案した。
 日本陸軍の村田経芳中将もまたすでに現役を退いて、貴族院議員となつてゐるが、彼も日本のためにその名を負へる小銃を考案し、これが陸軍の制式銃3)となつてゐる。この卒伍用の最新兵器は弾倉に十発の弾薬を包有する連発施條銃である。これは日清戦争において偉功を奏し、そののちさらに改良されてゐる。
 戦闘用具の発明家のうちには、この他にも多かれ少かれ重要な人々があるが、他の線に沿つた発明の進展を示すために、戦争の技術から平和の科学へ移らせていただきたい。
 電気学の分野では、たとへば、私の同国人岩田の発明した電話改良がある。この発明は送話器に関するもので、これについて、もつとも権威ある電話専門家諸氏が、ペルヴィルの装置と同じ大きさの音声を送る性能があることを認め、かつまた科学者のあひだで「ソリッド・バック」の名で知られてゐる送話器と同じ明瞭さをもつことを保証してゐる。
 しかしながら、医学において、日本は世界の最新国家の一たる地位をかちえた。日本にむかつての近代文明の導入が、主として医学および医療の功績に帰せらるべきことを知るのは、多くの人に興味あることであらう。アジア諸国の門戸開放が、おもに剣の切尖と銃砲によつて行はれたことは周知の事実である。しかも、かかる場合においては、近代文明の導入が表面的にすぎなかつたことを看取しなければならない。キリスト教の宣教師団が懸命の労苦を重ねてゐるが、効果はほとんど挙つてゐない。
 日本の場合には、医学がこの任務を果した。そして導入された文明は、その皮相にとどまらず、国民の心にまで入りこんだ。日本の近代文明をもたらすことに成功したものは実に医薬であつて、キリスト教でもなく、またアームストロング砲の砲口でもなかつた。一八五○年から一八六○年(訳者註、嘉永三年――萬延元年)へかけてオランダから日本に来て居留した医学者たちは、漢方薬に対する近代医薬の優位性を証明した。そして、それからまもなく、日本の医師たちはこの進歩した技術を学ぶことの重要性をさとり、みづからの体系を抛つたのである。ここでいつておくべきであらうと思ふが、それより以前、日本の開業医は薬用植物の使用と、単純な植物性の調合以上の療法をほとんど知らず、人体解剖学についてはさらに知ることがすくなかつた。治療は巧みに叡智を装つて行はれてゐたけれども、臓器病を真面目に、かつ聡明に治療するための努力はすこしもなされてゐなかつたのである。
 蘭法医学ならびに薬法を導入するや、少数のオランダ医師の使徒たちは国内の諸方に散らばり、やがてまもなく患者と弟子の殺到するところとなつた。数年ならずして、「塾」と称する私立の医学研究機関が国内いたるところに設けられたが、そのあひだにも日本の中央政府(訳者註、幕府)は、なほ列強と、通商関係をひらくことさへ躊躇してゐた。実際において、当時外国と取引することは一つの犯罪であつた。海外に渡航しようと試みるものは、首を賭けなければならなかつた。しかし、かかる排外感情のまつただなかで、医学と医療は着実に地歩を築いてゐたのである。
 将軍の政府がやむなく列強と通商條約を締結した時、外国の言語・技術等々に通暁する人物に対する需要は突如として増大した。需要に対する供給は、医学者とその弟子が充たした。帝国政府を維持してきた十数組の閣僚の四○パーセントないし六○パーセントは、医学者か、さもなければその出身であつた。そのなかでよく世界に名を知られてゐるものに、伊藤侯爵や大隈伯爵がある。かういふ次第で、近代日本の進歩の功を医学に帰することができるといふことは、統計的にみて正しいのである。
 何処にもせよアジアの国々へ、近代文明を導入しようと欲するならば、医学者をたくさん送るのがもつとも賢策だとは、私の断固たる信念である。キリスト教やそのほかすべてのものは、自己の価値にしたがつて、あとにつづくであらう。そして、この原則には支那ももちろん例外ではないのである。もし宣教師団に費されただけの金額が医学者の派遣に利用せられたならば、支那の進歩はおそらく十倍も速かに、しかし血液や火薬を失ふことなく遂げられるであらう
 世界の医学発達史には、日本が科学のこの方向における発展のうちに、一歩たりとも後退しなかつたことを証明する十二分の証拠がある。世界を通じての医学的実践を進歩せしめた顕著な発見のうちに、日本人はその役割を分担してゐる。これらの発見者もしくは発明者のなかで、世界周知の発見をなしとげてゐながら、その功績を認められることのほとんどない人、北里柴三郎博士を挙げようと思ふ。北里博士は東京大学医科大学の出身で、ヂフテリア血清療法については、ドイツの細菌学者ベーリンク教授とともに、すくなくとも共同発明者なのである4)。大学卒業後、北里博士はドイツに行き、有名なコッホ教授のもとで細菌学的研究に専念した。彼は今や、日本政府の経営する細菌研究所と、血清およびワクチン製造所の主宰者である。
血清療法発見の功労が主としてベーリンク教授に帰せられるのは、彼が各国の特許をとつたからである。彼はコッホ研究所で北里博士とともに研究をなしてゐるので、北里の探究によつて光明を投じられ、現在実用に供せられるやうになつた他の細菌学上の主題は多いのである。
 もう一人日本にはすぐれた細菌学者がある。ヂフテリア以外の種々の伝染病について研究をとげ、有用な血清をたくさん発見してゐる緒方正規博士がそれである。
 東京大学の医科大学医院長青山胤通博士についても語らなければならない。青山博士は腺ペストの病原菌5)を巧みに遊離したが、その研究の経緯は、一個の科学殉難史である。彼はペスト病が支那に猖獗をきはめてゐるとき、その地に派遣され、調査研究中に感染して危く生命を失ひかけた。この冒険は、しかしながら、目的の達成と将来における疾患の脅威の減少によつてかへつて栄冠をあたへられた。彼は生命のかはりに、この成果を科学の世界にあたへたのである。
 私自身に関していへば私の研究の方向は、主として種々の酵素、とくに糖化性および消化性の酵素に限られてゐる。こんにち医療方面で成功をかちえてゐるものは「タカ・ヂァスターゼ」の名で知られてゐる澱粉消化酵素である。私の注意を惹いたもう一つの方向は、生化学、とくに動物臓器の化学すなはち臓器療法である。三年以前6)、いろいろの研究ののち、私は幸運にも副腎分泌腺の活性要素を純粋な結晶の形で遊離することができた。これが彼の「アドレナリン」で、こんにちまでに発達した強心剤および止血剤中、もつとも作用の強いものである。
以上私の述べたところから、日本人は一朝必要の生じたとき、その天賦の発明的才能を充分に活用する力のあることが明らかであらうと思ふが、なほ敢へて、今後何十年を閲せぬうちに、日本は世界ぢゆうでの独創的な国家の一となるであらうと、私はいひたいのである。


■■■ 訳者・松原宏遠による注 ■■■

1)当時高峰博士のえてゐた学位はまだ工学博士(明治三十二年授与)だけであつた。薬学博士の授与は明治三十九年のことである。
2)工部大学校の化学科でともに実習学をダイヴァースに授けられたといふ意味であらう。同窓といふならば高峰博士の助手清水鉄吉博士のはうがより密接な関係にある。なほ高峰博士と下瀬博士の交友関係については、書簡を参照のこと。
 3)この記述は正しくない。日露戦役のとき歩兵と砲兵は有坂成章中将(当時大佐)が明治三十年に村田銃から改造した三十年式歩兵銃をもち、騎兵と輜重兵は騎銃を携へ、後備兵のみが村田式連発銃をもつて装備した。
 4)この発見について、コツホは北里とベーリンクの共同論文を発表させ、功労に甲乙なしとしてゐる。
 5)ペスト菌の純粋培養に成功したのは青山博士ではなく、このときやはり香港へ派遣されて来た仏領印度支那サイゴンのパスツール研究所員エルサンである。北里博士も発見の報告をしたが、記載に欠陥があつて否定された。
 6)アドレナリンの発明は明治三十二年(一八九九)またタカ・ヂァスターゼの発見はそれより九年前、明治二十三年(一八九○)のことである。


■■■ オロモルフによる推理 ■■■

 この新聞のサーキュレイションは知りませんが、ロシア贔屓が多かった時代のアメリカ新聞にこれだけの長文の日本擁護の文章を掲載するのですから、高峰譲吉の力はたいしたものだったと思います。
 ただ、その「力」は学者としての実績だけではなかっただろうと、推理しています。
 アドレナリンやジアスターゼが知られていた事もあるでしょうし、普段から日米親善に尽くしていた事もあるでしょうが、それだけでロシア贔屓の米言論界でこんな頁を割いてもらえたかどうかは疑問です。
 私は、高峰譲吉が相当な額の私財を投じたのではないか――と推理しています。
 伝記から想像されるのですが、この後も、特許料で得た多額の私財を使って日本人への味方を増やす運動をしていたようです。
 後に伊藤博文や澁澤榮一らが渡米したとき、ロックフェラーなど政財界の要人たちを多数招いたパーティを開催して驚かせたそうですが、それも医薬品での名声と私財投入の両方があったからではないか――と想像されます。
 それにしては、同時代の野口英世に比べて現代日本人の評価が低いのが残念です。
 国益に尽くした貢献度では、圧倒的に高峰譲吉が上ですから・・・。


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