■□■□■ 『日本書紀』に見る対外問題(オロモルフ)■□■□■

『日本書紀』に記録されている対外折衝の記録を、箇条書きにしてみました。
 当然ながらその大部分は朝鮮半島問題です。
 私の感覚では、日本と朝鮮半島との関係は二千年あるいはそれ以上前から連続しており、従って昨今の韓国や北朝鮮との難しい問題も、二千年の歴史の流れの一環としてとらえて対処する必要があると思います。
 とくに国会議員にはぜひ『日本書紀』に記された対半島問題を勉強して現在の政治に活かしてほしいと希望いたします。

 記号としまして、
 ○は大和朝廷にとって好ましい結果だった事項。
 ●は大和朝廷にとって好ましくない結果だった事項。
 ▽は戦いや激しい軋轢の有った事項。
 ――を使いました。
 ただし、複雑な対外事項をこのような簡単な記号で表現することはもともと不可能ですので、メモ程度に考えてください。
 [ ]内は人物の所属。→は行った先です。
 詳しくは原文をご覧ください


◆◆◆[[[崇神天皇]]]◆◆◆

◎六十五年七月
[任那(蘇那カ叱智)]任那→大和○
(半島からの朝貢の最初の記録)


◆◆◆[[[垂仁天皇]]]◆◆◆

◎元年
[任那(蘇那カ叱智)]大和→任那○
(朝貢の使者に贈り物を託して帰したが、任那に帰る途中で新羅がその贈り物を奪った。これが任那と新羅の抗争の始まりとされる。なおこのとき、垂仁天皇は、先帝の御名・御間城入彦(ミマキイリヒコ)から国の名を任那(ミマナ)にせよと仰せられた。これより任那という国名ができた――と記されている。この名は日本の史書だけではなく朝鮮半島やシナの史書にもある)

◎三年三月
[新羅(天日槍)]新羅→大和○
(新羅の王子・天日槍(アメノヒホコ)が大和への帰属を願って来朝した。携えてきた宝物は但馬国に納めて神宝とした。天日槍はのちに但馬に住んで日本女性と結婚して子孫ができた。その四代目が田道間守とされる)

◎九十年二月
[大和(田道間守)]大和→シナ大陸
(天皇の命で不老長寿の柑橘類を求めて大陸に渡った)

◎九十一年三月
[大和(田道間守)]シナ大陸→大和
(無事柑橘類を求めて帰朝したが、垂仁天皇はすでに崩御しておられたので悲嘆して没した)


◆◆◆[[[仲哀天皇(実質神功皇后)]]]◆◆◆

◎九年十月三日
[大和(皇后)]大和→新羅▽○(有名な神功皇后の大遠征)
◎九年十月三日
[大和(皇后)]新羅→大和○(いわゆる三韓征伐)


◆◆◆[[[神功皇后]]]◆◆◆

◎五年三月七日
[新羅]新羅→大和●
◎五年三月七日
[大和]大和→新羅▽○
◎三十九年
[大和]大和→魏(魏志倭人伝の引用)
◎四十年
[魏]魏→大和(魏志倭人伝の引用)
◎四十三年
[大和]大和→魏(魏志倭人伝の引用)
◎四十六年三月一日
[大和]大和→卓淳○(卓淳は現大邱市で新羅による百済攻撃を抑える要衝)
◎四十六年三月一日
[大和]大和→百済○
◎四十七年四月
[百済]百済→大和
◎四十七年四月
[新羅]新羅→大和
◎四十七年四月
[百済]百済→新羅▽●(新羅による収奪)
◎四十七年四月
[大和]大和→新羅▽○
◎四十九年三月
[大和]大和→卓淳・新羅▽○(領土を侵した新羅への懲罰成功)
◎四十九年三月
[大和]大和→任那七国▽○(大和朝廷の直轄地任那七国の成立)
◎四十九年三月
[大和]大和→済州島▽○(済州島を百済へ譲渡)
[[[神功皇后]]]続
◎五十年二月
[大和]任那七国→大和○
◎五十年五月
[大和]百済→大和○
◎五十年五月
[百済]百済→大和○
◎五十一年三月
[百済]百済→大和○
◎五十一年三月
[大和]大和→百済○
◎五十二年九月十日
[大和]百済→大和○(以上は百済や任那に対する大和朝廷の力が強大なことを示す)
◎五十二年九月十日
[百済]百済→大和(七国成立を記念した七枝刀と七子鏡の朝貢/以後百済は毎年朝貢)
◎五十五年
(百済情報)
 百済の肖古王が薨。王子貴須が新王。
◎六十二年
[大和]大和→新羅▽●(新羅への懲罰失敗)
◎六十二年
[大和]大和→加羅▽○(新羅に侵略された加羅*を回復)
*:加羅は任那七国の一つで、魏志倭人伝にある狗邪韓国とされます。
◎六十四年
(百済情報)
 百済の貴須王が薨。王子枕流が新王。
◎六十五年
(百済情報)
 百済の枕流王が薨。王子阿花ではなく叔父の辰斯が位を奪って新王。
◎六十六年十月
[大和]大和→晋(起居注の引用)


◆◆◆[[[應神天皇]]]◆◆◆

◎三年
[大和]大和→百済▽○(辰斯王を廃して阿花王をたてることに成功。つまり大和朝廷が百済の王を定めた)
◎七年九月
[高麗]高麗→大和○
◎七年九月
[百済]百済→大和○
◎七年九月
[任那]任那→大和○
◎七年九月
[新羅]新羅→大和○
◎八年三月
[百済]百済→大和○
◎八年三月
(百済記の引用)
 阿花王が無礼だったので懲罰を加えた。阿花王は王子直支を人質に日本に出して謝罪。
◎十四年二月
[百済]百済→大和○
◎十四年
[百済]百済→大和●
◎十四年
[新羅]新羅→加羅▽●
◎十四年
[大和]大和→加羅▽●(十四年の三項目は、百済の訪日団が新羅に邪魔されて加羅に足止めされたので、大和が軍隊を加羅に派遣したがうまくいかなかった紛争)
◎十五年八月六日
[百済]百済→大和○
◎十六年二月
[百済]百済→大和○(王仁の来訪)
◎十六年
(百済情報)
 阿花王が薨。
◎十六年
[百済]大和→百済(大和にいた阿花の王子直支を王とするよう大和朝廷が決定)
◎十六年八月
[大和]大和→新羅▽○(十四年の項にある新羅に邪魔されていた大和軍への援兵派遣)
◎十六年八月
[大和+百済]加羅→大和○(援軍の成功)
◎二十年九月
[任那or百済]任那or百済→大和○(倭漢直の先祖の帰化)
◎二十五年
(百済情報)
 直支王が薨。王子の久爾辛が王となったが補佐した要人が大和に無礼だった。
◎二十五年
[百済]百済→大和(天皇が上の要人を呼びつけた)▽
◎二十八年九月
[高麗]高麗→大和▽●(高麗使者が無礼な国書を持参したので応対した皇子が怒って破り捨てた)
◎三十一年八月
[新羅]新羅→大和▽●(新羅工作員?が瀬戸内海に係留してあった大和朝廷の軍船多数を焼いた)
◎三十一年八月
[大和]大和→新羅▽(上の件で抗議)
◎三十一年八月
[新羅]新羅→大和▽○(新羅王が詫びて工匠を献上)
◎三十七年二月一日
[大和]大和→高麗→呉○(高麗経由で呉に行き縫媛を求めた)
◎三十九年二月
[百済]百済→大和○(百済王の妹が贈られてきた)
◎四十一年二月
[大和]呉→大和○(縫媛を連れた使者が戻った)
◎四十一年二月
[大和]大和→韓国*(應神天皇崩御後の混乱を解決する人物を大和に戻すため)
*:日本の文献の「韓国」なる言葉の初出で、任那や百済と思われるが不明です。
◎四十一年二月
[大和]韓国→大和(80人の漕ぎ手を使って連れ戻した)


◆◆◆[[[仁徳天皇]]]◆◆◆

◎十一年
[新羅]新羅→大和○(贈られた新羅人を治水工事に使用)
◎十二年七月三日
[高麗]高麗→大和○(高麗が鉄の盾と鉄の的を献上*)
*:石上神宮に保存されている古代の鉄盾が連想されます。
◎十七年
[大和]大和→新羅▽(新羅が朝貢しなかったので詰問の使者)
◎十七年
[新羅]新羅→大和○(新羅は詫びて大量の品を献上した)
◎四十一年三月
[大和]大和→百済▽(百済各地の産物を調査に行ったが王族に邪魔されたので抗議)
◎四十一年三月
[百済]百済→大和▽(百済王は邪魔した王族を縛って大和に送ったが嘘をついて逃げた*)
*:この王族は後に許され日本で鷹飼をはじめたとされます。
◎五十三年
[大和]大和→新羅▽●(新羅が朝貢しなかったので詰問)
◎五十三年
[大和]大和→新羅▽(軍隊を派遣し新羅と激戦)
◎五十三年
[大和]新羅→大和▽○(新羅に勝利し多くの捕虜を連れ帰った*)
*:百済や任那以外の半島からの帰化人の中には、日本が戦争に勝ったときの捕虜もかなりいたと思います。神功皇后や應神天皇の時代には半島全域で強烈な戦争をしていましたから。
◎五十八年十月
[呉]呉→大和○(朝貢に来た)
◎五十八年十月
[高麗]高麗→大和○(朝貢に来た)


◆◆◆[[[履中天皇]]]◆◆◆

◎対外記述無し


◆◆◆[[[反正天皇]]]◆◆◆

◎対外記述無し


◆◆◆[[[允恭天皇]]]◆◆◆

◎三年一月
[大和]大和→新羅(天皇ご病気のため医師を求めた)
◎三年八月
[新羅]新羅→大和(医師が来て治療した)
◎四十二年一月十四日
(允恭天皇崩御)
[新羅]新羅→大和(崩御を悲しむための多数の楽人が来て、対馬から都までの道中ずっと舞を舞い泣き続けた*)
*:葬儀のとき泣き叫ぶ半島の風習は古代からだと分かります。朝鮮半島のことがもっとも詳しく書かれているのが『日本書紀』です。あとはシナ史書。朝鮮で史書が書かれるのはそのずっと後ですが、史実の記述ははるか前の『日本書紀』の方が詳しいと思います。
◎四十二年十一月
[新羅]大和→新羅▽(楽人たちが帰るとき、言葉の誤解から日本を恨むようになり、その後朝貢の船や品物を減らした)


◆◆◆[[[安康天皇]]]◆◆◆

◎対外記述無し


◆◆◆[[[雄略天皇]]]◆◆◆

◎二年七月
[百済]百済→大和▽(百済が贈った池津姫が浮気をしたため死刑になった)
◎五年四月
[百済]百済→大和(上に懲りた百済王が弟を大和に差し出すことにした)
◎五年六月一日
[百済]百済→筑紫(武寧王が筑紫で誕生*)
*:今上天皇陛下のお言葉で物議をかもした問題です。また武寧王誕生の件では、遺跡発掘によって『日本書紀』の記述が『三国史記』に比べて遙かに正確精密である事が判明しています。
◎五年七月
[百済]筑紫→大和○(上記の弟が都に着き、天皇に仕えた)
◎六年四月
[呉]呉→大和○(朝貢)
◎七年
[大和]大和→任那▽●(天皇に不満をもつ任那に赴任した国司が新羅に内通)
◎七年
[大和]大和→百済▽●(この問題で百済に派遣された国司の子が新羅を討たずにいた)
◎七年
[大和]百済→大和▽(その妻が夫を殺して戻った*)
*:朝廷周辺の不満分子が新羅に籠絡される話はいろいろとあります。現在と同じです。
◎八年二月
[呉]呉→大和○(朝貢*)
*:呉の国というのは、三国時代に呉の国があった江東江南地方の国という意味らしい。この時代には頻繁に往来していたらしい。
◎八年
[新羅]新羅×→×大和▽●(新羅は八年間朝貢せず、高麗兵を雇って大和軍に備えた)
◎八年
[高麗]高麗→新羅▽(新羅が国内の高麗人を皆殺しにしたので怒った高麗が攻めた)
◎八年
[新羅]新羅→任那▽(新羅が任那に援軍を求めた*)
*:新羅というのは日本との約束を破っておきながら、困るとすぐ日本に援助を求めるのですね。
◎八年
[任那(大和)]任那→高麗軍▽○(日本軍が高麗軍を破り新羅を説諭)
◎九年三月
[大和]大和→新羅▽●○(新羅は対馬まで乗り出し百済や高麗の大和への朝貢を妨害したので懲罰のため大軍を派遣し、勝利する*)
*:助けてくれた国にすぐに嫌がらせをするのが新羅。新羅の厄介さは『日本書紀』の時代を過ぎて『続日本紀』の時代になってもまだ続いています。
◎九年五月
[大和]大和→新羅▽●(上の戦争で戦死した将軍の息子が新羅に行って勝手な振る舞いをしてトラブルを起こした)
◎十一年七月
[百済?]百済?→大和(百済または呉からの逃亡者が来た)
◎十二年四月四日
[大和]大和→呉(使者派遣)
◎十四年一月十三日
[呉]呉→大和○(呉から技術者が献上された)
◎十四年三月
(呉からの帰化人の落ち着き先やトラブルの話)
◎二十年冬
[高麗]高麗→百済▽●(高麗軍が百済を滅ぼしたが、百済は大和の官家なので遠慮して王族全員追放はしなかった*)
*:百済は大和の援助を得て現ソウル付近まで拡張していたが、この敗戦で南に縮小したらしい。
◎二十一年三月
[大和]大和→百済▽○(軍隊を派遣し残った王族を助けて百済を再興させた)
◎二十三年四月
[百済]大和→百済○(文斤王が没したので、天皇は昆支王の五人の王子のうち末多王を選んで王に任命し、百済に送り届けた)
◎二十三年
[百済]百済→大和○(多くの朝貢)
◎二十三年
[大和(筑紫)]大和→高麗▽○(筑紫の武将が派遣されて高麗を破った)
◎二十三年八月
[大和]大和→大和▽●○(新羅を討つための将軍が率いた蝦夷が天皇崩御の機会を狙って吉備で暴れて戦争になり、天皇の軍が勝った)

注:雄略天皇は勇猛で知られ、強力な軍勢を配下に持ち、日本列島のほぼ全域と朝鮮半島の多くを支配したと称し、シナ王朝(宋)もほぼこれを認めたらしい。


◆◆◆[[[清寧天皇]]]◆◆◆

◎対外記述無し


◆◆◆[[[顯宗天皇]]]◆◆◆

◎三年二月一日
[大和]大和→任那○(壱岐と対馬の県主が朝廷に貢献する話がある)
◎三年
[大和]大和→任那→高麗▽●(紀生磐宿禰が独自に高麗と通交し三韓の王になろうとした*)
*:いつの時代にも変なのがいますね。この紀生磐宿禰は又の名を紀大磐宿禰といって、雄略天皇九年五月の条に書きました新羅征伐で戦死した将軍(紀小弓宿禰)の息子です。せっかく父親が新羅征伐に奮闘したのに息子が勝手な真似をして外地経営を台無しにしてしまったのです。
◎三年
[大和]任那→百済▽●(紀生磐が神聖と名乗って勝手に百済を攻めた)
◎三年
[百済]百済→任那▽●(百済が紀生磐と激戦して勝利)
◎三年
[大和]任那→大和▽●(負けた紀生磐が戻る)
◎六年九月
[大和]大和→高麗○(技術者を求めた)
◎六年九月
[大和]高麗→大和○(技術者を連れ帰った)


◆◆◆[[[武烈天皇]]]◆◆◆

◎三年十一月
(百済の意多郎が没したので葬った。王族で身分の高い人質だったらしい)
◎四年
(百済情報)
 未多王が民を苦しめたので、日本(九州の島)で生まれた武寧王が立った。
 この記事の中で、武寧王の血縁関係についての『百済新撰』の説を批判しているが、遺跡発掘によって『日本書紀』の正しさが判明した。
◎六年十月
[百済]百済→大和▽(朝貢だが、その前長く朝貢しなかったので使いの麻那王を帰さなかった)
◎七年四月
[百済]百済→大和▽(王族の斯我を使者にして朝貢に来たが、その国書に「麻那は王族ではない。斯我を大和朝廷に仕えさせる」とあった。斯我は大和で子供を産み、その子孫が倭君となった――とある*)
*:この話はのちに桓武天皇の生母の生家和史と結びつけられたらしいが、結びつけは天皇にゴマをする学者の創作とされている。これを元に天皇家は韓国系だという話が出来た。史実性は無いし遺伝的にも無意味な話である。今上天皇のお言葉は慎重にされるよう宮内庁に要望したい。


◆◆◆[[[繼體天皇]]]*◆◆◆

*:この繼體天皇の御代から、『日本書紀』から計算される年代と実年代とがほぼ一致すると言われます。繼體天皇は西暦530年ごろに崩御。

◎二年十二月
[済州島]済州島→百済(百済への初めての使者とされる)
◎三年二月
[大和]大和→百済○(使者派遣)
◎三年
[百済]任那→百済▽(任那に住んでいた百済人を調べて送り返し戸籍をつくった)
◎六年四月六日
[大和]大和→百済○(馬を贈った)
◎六年十二月
[百済]百済→大和▽●(百済が百済に近い任那の四県の割譲を願ってきたので承諾したが反対派も多くおり、国内が大混乱になった。賛成派は百済から賄賂をもらったという噂が流れた*)
*:ここから三韓の混乱がはじまり、国益を損ねます。領土の割譲による混乱は歴史の教訓ですね。
◎七年六月
[百済]百済→大和▽(学者が贈られてきた。同時に伴跛がわが領土己?を奪ったので戻してほしいと願った*)
*:伴跛は任那の有力国で、大和朝廷が任那の四県を百済に割譲したことに不満で大和から離反したとされます。己?は百済と任那の間にある重要な地。この時代の外地経営が混乱していたことが推理できます。
◎七年八月二十六日
(百済情報)
 百済の太子淳陀薨。
◎七年十一月五日
[百済ら]百済ら→大和▽●(百済、新羅、安羅、伴跛の代表を召して、己?と帯沙を百済に与えるという勅命を告げた)
◎七年十一月
[伴跛]伴跛→大和▽(伴跛の使者が己?の地をほしいと願ったが拒否した)
◎八年三月
[伴跛]伴跛→新羅▽●(怒った伴跛は大和との戦いに備えるとともに新羅を攻めた)
◎九年二月四日
[百済]大和→百済(百済の将軍らに大和の将軍をつけて帰国させた)
◎九年
[大和]大和→帯沙江▽(伴跛が大和を恨んで暴虐をはたらいているとの情報が入ったので大和軍を派遣)
◎九年四月
[大和]帯沙江→?慕羅島▽●(大和軍は伴跛と闘って破れて河口の島に逃れた)
◎十年五月
[大和]?慕羅島→己?→百済▽(百済は大和軍を迎えてねぎらった)
◎十年九月
[百済+大和]百済→大和(百済は大和軍に将軍をつけて大和に帰し、己?を賜ったことを感謝*)
*:この一連の派遣軍の顛末は、この時代になると大和軍の力が弱まっていたことを示します。
◎十年九月十四日
[百済+高麗+日系]高麗+百済→大和○(百済は、自国の将軍と日系人とを高麗の使者に付き添わせて来朝し大和と修好した*)
*:この日系人は原文も日本となっていて、名前から信濃出身と推理。こういう日系百済人はたくさんおり、その子孫が白村江の会戦のあと日本に亡命してきたと考えられる。だから渡部昇一先生は天智天皇の時代の多くの帰化人を「外地からの引揚者」と推理し、日本語が通じたし同じ神道だったと想像している。
◎十七年五月
(百済情報)
 武寧王が薨。
◎十八年一月
(百済情報)
 太子が即位して聖明王に。
◎二十一年六月三日
[大和]大和×→×任那・新羅▽●(新羅に奪われた任那の地を奪回するための軍勢を派遣しようとしたが、新羅に賄賂を贈られた筑紫の磐井一族が妨害した)
◎二十二年十一月十一日
[大和]大和→筑紫▽○(九州で朝廷の軍が激戦して磐井の反乱を鎮圧した。しかし新羅征伐は挫折)
◎二十三年三月
[百済]百済→大和(百済が朝貢の船のため加羅の多沙津を使わせてほしいと願ってきた)
◎二十三年三月
[大和]大和→加羅▽●(天皇は承知して使いを加羅に派遣した)
◎二十三年三月
[大和]加羅→大和▽●(しかし加羅は承知せず使者はやむなく引き返した)
◎二十三年三月
[大和]大和→加羅▽(朝廷ではさらに使者を派遣して多沙津を百済に譲渡した。加羅は怒って新羅と結んだが、そこでトラブルが起こり、新羅につけこまれ、領土を奪われた*)
*:このあと、百済新羅任那の諸国の間でさらなる混乱がおこり、収拾がつかなくなります。
◎二十三年三月
[大和]大和→安羅▽●(大和朝廷では使者を安羅(加羅の隣の任那の有力国で日本府がおかれた国)に派遣し新羅を説得しようとした。安羅は高殿を建てて朝廷の使者を迎えた。新羅は下級の役人を派遣し百済は将軍を派遣したが、双方数ヶ月の会議の間高殿の下で待たされたので身分の高い百済の将軍たちは怒った)
◎二十三年四月七日
[任那]任那→大和▽●(任那の王(加羅の王か)が来朝して、應神天皇が官家(直轄領)をおいたのは道理にかなっているが新羅が再三侵略しているので助けてほしい――と願った)
◎二十三年四月
[任那・大和]大和→任那▽●(任那王に大和の使者がつきそって任那に行き、任那にいる日本の近江毛野臣に任那と新羅を和解させるように命じた。しかし毛野臣の体面にこだわる外交手段が拙劣で混乱を招き、新羅は怒り、四つの村を略奪した)
◎二十四年九月
[任那]任那→大和▽●(任那の使者が、毛野臣が政務を怠り人民を困らせている――と訴えた。たとえば日本人と現地人の混血がたくさんいるが、毛野臣はその帰属をめぐる争いに誓湯(くかたち)をさせるので熱湯で爛れ死ぬ人が多いと訴えた*)
*:このころになると外地経営はどうしようもなくなっていると分かりますが、こういった大和朝廷の恥になるような事柄も正直に書かれているのが『日本書紀』のよい所です。
◎二十四年九月
[大和]大和→任那▽●(朝廷では百済系帰化人調吉士を派遣して毛野臣を帰国させようとしたが、懲罰をおそれて帰らなかった)
◎二十四年九月
[任那]任那→新羅+百済▽●(埒があかないので任那の王は新羅と百済に頼んで兵を出してもらった。両国の兵は毛野臣を囲んだが攻略はできず、帰りにいくつかの城を奪った)
◎二十四年十月
[大和]任那→大和▽●(調吉士が帰国して毛野臣の横暴を報告した)
◎二十四年十月
[大和]大和→任那(そこでさらに使者を送って毛野臣を召還した)
◎二十四年
[大和]任那→大和(毛野臣はやむなく帰国の途についたが対馬で没した)
◎二十五年二月七日
 繼體天皇崩御*。
*:百済本記にこの年崩御と書かれているが、別の本では二十八年崩御とある――と記して、どれが正しいかは後生の人が研究するだろうとしています。『日本書紀』の表現は良心的です。また百済本記の引用から、この頃大和と関係が深かったらしい任那の安羅(日本府)に百済や高麗が攻め寄せているようにうかがえます。すでに任那は累卵の危うきにあります。
 もはや任那とその周辺の直轄地や係属国を抑えることは不可能になっているとわかりますし、大和から派遣された人ですら朝廷に背いていることがわかりますが、その原因の一つは、繼體天皇を囲む大和の豪族たちの不和や戦略下手にあったようです。


◆◆◆[[[安閑天皇]]]◆◆◆

◎対外記述無し(535年ごろ崩御)


◆◆◆[[[宣化天皇]]]◆◆◆
(539年ごろ崩御)

◎二年十月一日
[新羅]新羅→任那▽●(新羅が任那を攻めた)
◎二年十月一日
[大和]大和→任那▽○(大伴金村の子供の磐と狭手彦が軍を従えた。磐は筑紫で新羅の攻撃に備えた。狭手彦は半島に渡って任那と百済を助けた*)
*:狭手彦は出征にともなう悲恋でも有名で、山上憶良などの歌に詠まれています。有能な武将だったらしく、このあとも半島に派遣されて高麗を討って百済を助けるなど大活躍をしています。


◆◆◆ むすび ◆◆◆

 ここまでで『日本書紀』の頁にしてほぼ半分です。これ以後は半島関係の記事は猛烈に増え、とても書ききれません。それは以下の理由によります。
 繼體天皇の時代から直轄領としての任那の存続はかなり怪しくなるのですが、宣化天皇の次の欽明天皇の時代になってついに新羅によって滅亡させられます(562年)。そのことは欽明紀に詳細に記されています。

 任那が滅亡してから百済も急速に力を失い、天智天皇が活躍された時代についに滅亡し(660年)、大和朝廷の半島での権限は消滅します。
 新羅は日本にとってとても厄介な国であったことは、瀬戸内の多数の船が新羅人によって焼かれたことなどここまでの多くの記事でもわかりますが、このあとの任那と百済滅亡の『日本書紀』の記事でもわかります。たとえば新羅の工作員?による三種の神器の盗難事件なども有名です。また厄介な新羅問題は『日本書紀』の時代が過ぎて『続日本紀』の時代(奈良時代)になっても続きます。

 半島の勢力は統一新羅、高麗、李氏朝鮮、現韓国と移りますが、新羅のあとも多くの事件が起こっています。1019年(平安時代)に対馬・壱岐・九州が女真族(半島の向こう)によって侵略された刀伊の入寇、1274、81年(鎌倉時代)の元・高麗による元寇、1419年(室町時代)に李氏朝鮮が大軍で対馬を侵略した応永の外寇、日本海側で暴れた海賊(『続日本紀』)など。

 現在の韓国が新羅の後裔とするなら、新羅の厄介さは古代から現在まで二千年も続いていることになります。
 いま北朝鮮問題について、「飴と鞭」という言葉が盛んに使われていますが、歴史を振り返ってみますと、朝鮮半島の国との関係はうまくいったのは、「実際に鞭を振り下ろした時だけ」のように思えます。
 政治家はぜひこのような歴史を勉強して厄介な隣国に騙されないようにしてほしいと希望いたします。

[完]


オロモルフの論考リストに戻る