■□■□■ 昭和天皇の基礎教養――杉浦重剛による教育勅語御進講――(オロモルフ)■□■□■


■■■■■ 訳者によるまえがき ■■■■■


◆◆◆ 一 本稿を執筆する理由 ◆◆◆

 第百二十四代の昭和天皇は、第百二十二代の明治天皇以上に厳しい時代に在位され、国民とともに激動の二十世紀を生き抜かれた名君でした。
 おそらく、昭和天皇がおられなかったら、昭和二十年の終戦はもっともっと悲惨なものになっていたでしょうし、戦後の復興も、もっともっと遅れたことでしょう。
 国民のために一身をなげうたれたこのような名君が、一朝一夕になるはずはありません。
 とうぜんながら、天皇になられるための「帝王学」――とくに少年時代のご教育――に、その根元があるはずです。
 そこで、昭和天皇が少年時代に学ばれた倫理の教材のうち『教育勅語』の部分を勉強して、その謎を解こうと思い立ちました。

 本書は、昭和天皇が少年時代にお受けになった道徳の授業の一部である、杉浦重剛という有名な先生の『教育勅語の解説』を、現代語訳したものです。
 現代語訳といいましても、直訳しますと読みにくい文章になりますので、大体の意味が一致していればよい――と気楽に考えて、自由に訳しました。
 いわゆる意訳です。


◆◆◆ 二 用いた原書 ◆◆◆

 もちいた原書は、最近になって編集出版されたつぎの新書です。

◎杉浦重剛(著)/所功(解説)『昭和天皇の教科書 教育勅語』勉誠出版(平成十四年)

 ここには、杉浦重剛の『教育勅語』についての授業ノートと、『教育勅語』そのものと、所功先生による解説があります。

 なおこの授業をお受けになられた時、昭和天皇(迪宮裕仁親王殿下)は御年十三歳であられました。
 もちろん即位される十年以上前ですし、立太子の前――公式に皇太子になられる前――でもありました。

     *

 皇室の方々へのこのような授業/講義は「ご進講」と呼ばれます。


◆◆◆ 三 杉浦重剛先生の略歴 ◆◆◆

 昭和天皇に道徳を教えた杉浦重剛先生は、安政二年(一八五五年)に滋賀県で生まれました。
 現在の東京大学の前身である開成学校の理学を卒業し、東大で教えたのち、日本中学校という学校を創立して、校長として活躍し、衆議院議員にもなりました。
 そして大正三年(一九一四年)から同十年まで、東宮御学問所御用掛という、少年時代の昭和天皇を教育する役職につきました。
 この重大なお役目を誠心誠意果たしたのち、大正十三年に六十九歳で没しました。


◆◆◆ 四 所功先生の略歴 ◆◆◆

 昭和十六年(一九四一年)岐阜県生まれ。
 名古屋大学大学院修士課程を卒業して皇學館大學助教授、文部省教科書調査官を経て、京都産業大学教授(日本文化研究所長)をつとめておられます。
 法学博士で、著書に『日本歴史再考』『伊勢神宮』(講談社学術文庫)、『皇室の伝統と日本文化』(モラロジー研究所)、『京都の三大祭』(角川選書)などがあります。
 日本の伝統文化を大切にする活動をしていらっしゃる先生です。


◆◆◆ 五 原書の構成 ◆◆◆

 原書は、明治天皇が日本人の教育についてのお考えを述べられた『教育勅語』の各節を順序正しく取り上げて、具体的な例をあげながら、その意味を解説しております。
 訳書でも、その順序で章や節をつくりました。
 なお『教育勅語』そのものにつきましては、口語訳や意訳とともに、巻末に記してあります。
 各章のはじめにある『教育勅語』の訳文は、主として巻末の口語訳からとりました。
 各節の文末にある[ ]の中は、訳者による解説です。


■■■■■ 第一章 日本という国をつくった遠い先祖の理想 ■■■■■


『朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗、國を肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。』

(訳:わたくしは、われわれの祖先が、遠大な理想のもとに、道徳的な国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。)


◆◆◆ 一・一 明治天皇が『教育勅語』をくださった理由 ◆◆◆


 明治維新ののち、日本は長足の進歩をとげ、多くの方面で輝かしい文明の華を開かせました。
 しかしながら、欧米の文物を急いで輸入したため、欧米風に染まり、西洋にかぶれてしまう人が出てきました。

 二千年以上も前から発達してきた日本の伝統文化も、世界に比類のない歴史精神も、かえりみようとする人が少なくなり、日本の思想界は危機におちいりました。
 日本古来の道徳であります、国に尽くし、親に孝行し、信念を守り、誠実さを大切にする・・・という美風も、忘れ去られる雰囲気でした。
 したがいまして、明治初期の国民の教育におきましては、しっかりした方針がなく、極端な欧米賛美者もいれば、時代に反する頑迷な人たちもいる――というふうで、とても混乱してしまったのです。

 明治天皇は、このことを深く憂い、ご心配になって、『教育勅語』をわれわれにお下しになり、日本の歴史的精神や輝かしい国柄によって導かれる国民道徳の大もとをお示しになりました。

 明治四十一年に菊池大麓という人がイギリス教育会に招かれて、日本の教育方針は『教育勅語』に基づくことを講演しました。
 イギリスの著名な学者や教育者たちは、菊池氏の講演に感激して、日本の国柄の素晴らしさと確固たる教育方針をうらやみ、イギリスも日本のようにありたい――と言ったそうです。
 このエピソードからも、第百二十二代明治天皇の下された『教育勅語』は、日本の国民の永遠の生命というべきであると考えられます。

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[菊池大麓とは、日本の近代数学の父と言われる明治の数学者です。東大総長、文部大臣、などもつとめた著名な学者です。明治四十一年は日露戦争における日本の勝利の直後であり、世界各国で、日本人の精神面への興味が深まっていました。]


◆◆◆ 一・二 「朕」の説明 ◆◆◆


『教育勅語』の最初にある「朕」とは単数であり、秦の始皇帝が「天子が自分を呼ぶ語」として初めて使ったそうです。
 このあと、天皇が自らを「朕」と言うようになりました。
 したがいまして、「朕」と称するこができるのは、一つの国でただ一人だけであり、複数の人が名乗ることは許されません。

 ところが、その文字のできたシナにおきましては、天子は時代とともに交替して一定しておらず、部下が天子になってしまったり、外国からの侵入者が天子になってしまったり、何人もの天子ができてしまったりしており、「朕」なる語の意味が正しくは成立しておりません。

 世界において、正しい意味で「朕」なる言葉が使われているのは、日本のみです。
 日本は、遠い昔に建国して以来、天子は定まって不変であり、「万世一系」の天皇が中心であり続けています。

**********

[「万世一系」という言葉は、明治憲法の第一条に記されているので有名ですが、江戸後期の学者巌垣東園の『国史略』という本に、
「歴正天皇、正統一系、亘万世而不革」
(意訳:歴代の天皇の位は正しく受け継がれており、そのただ一つの皇統は永遠に変わることがない)
 ――とあるそうです。
 この本は明治になってもよく読まれたそうですから、「万世一系」という言葉はごく自然に使われたのでしょう。

 また、南朝の忠臣・北畠親房の『神皇正統記』の巻一に、「万世一系の誇り」がつぎのように記されています。
「(始まりは天竺に似た面もあったが・・・)されど是は天祖より以来、継体違はずして唯一種まします事、天竺にもその類なし。」
「唯我が国のみ、天地開けし始より今の世の今日に至るまで、日嗣を受け給ふ事邪ならず。一種姓の中におきても、おのづから傍より伝へ給ひしすら、猶ほ正に帰る道ありてぞたもちましましける。これしかしながら、神明の御誓あらたにして、余国に異なるべきいはれなり。」

 意訳しますと、
(他の国々のように、日本は暴力による王朝交替が無かった世界でも稀な国で、多少の問題があってもまた元の正しい状態に戻り、世界でもっとも長く二千年もの間、継続している)
 ――のようになります。
 このような誇りが、北畠親房が述べている「万世一系」の精神なのだろうと思います。
 南北朝時代は、皇室の正当性を争った時代ですから、北畠親房はこの問題をとくに重要視したのでしょう。

 世界の多くの歴史遺産は、観光や研究の対象にすぎませんが、日本の《伊勢神宮》や《出雲大社》や古代天皇の《御陵》はそうではありません。
 古代の日本人が崇めたのと同じ作法で、子孫の日本人が崇め続けております。
 世界に類例の無いこの継続性こそが、「万世一系の誇り」なのです。]


◆◆◆ 一・三 「我ガ」の説明 ◆◆◆


 つぎにあります「我ガ」は複数であり、単数の「朕」とは違って、国民を思う御心によって「われわれが」と言われる場合に使われます。
 天皇と国民は一体である――というお気持ちの表れです。
 文部省の『教育勅語』の英訳でも、our と複数で訳されています。
「朕」と「我ガ」の二つの言葉によって、日本の国柄の特色を示しておられるということもできます。

 すなわち、「朕」は日本の君主が「万世一系」の天皇より他にはないことを示し、「我ガ」は日本全体が一つの家族のようなものであることを示しております。

 天照大神は、皇室のご先祖であるとともに、われわれ日本国民のご先祖でもあります。
「朕」によって皇位の神聖さを示し、「我ガ」によって国民を宝と考えるお気持ちを示している――といってもよいでしょう。

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[古代から日本では、天皇が国民のことを「大御宝」と呼んで大切にしてきました。こんな古代の君主は他国にはおりません。]


◆◆◆ 一・四 皇祖皇宗、國を肇ムルコト宏遠ニ――この日本という国を建国した先祖の遠大な理想―― ◆◆◆


 皇祖皇宗とは、天皇陛下や日本国民の遠いご先祖のことです。
 われわれの遠いご先祖が建国なさった日本という国は、天地と同じように無限で永遠です。


(1)〔天照大神のお言葉〕

 大昔、天照大神は高天原におられて、御孫の瓊瓊杵尊を、この国土に降ろされました。
 これを天孫降臨といいます。
 瓊瓊杵尊が多くの部下をしたがえて降臨なさったとき、天照大神は、「八坂瓊曲玉」「八咫鏡」「天叢雲剣」という三種の神器をお預けになり、かつつぎのように仰せになりました。



「豊葦原の千五百秋の瑞穂国は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。よろしく爾皇孫、就いて治むべし。行け。宝祚の隆ならんこと、天壌とともに窮無かるべし。」

(意訳:この美しく豊かな国は、私の子孫が治めるべき国である。さあ行きなさい。私の子孫が栄えることは、天地とともに永遠であろう/これは天壌無窮(天地とともに永遠であること)の詔勅と言われ、たいへん有名です)

     *

 このようにして瓊瓊杵尊は、九州の日向の高千穂の峰に降りられました。
 ここにおいて天壌無窮の皇運がひらけ、皇祖・天照大神のご子孫は、日本国の永遠でただ一つの皇統として、国民を統合するようになりました。
 天に二つの太陽がないのと同じく、わが日本には二人の君主はなく、しかも神勅に示されているように、国がはじまって以来、天皇と国民の関係は定まっており、臣下が天皇の位を犯したことはありません。
 この関係はまったく乱れることがなく、天皇は国民を宝として慈しみ、国民は身命をささげて天皇に尽くしてきました。
 まして、外国から天皇の位や国土を侵されたことは、夢にもありません。
 このように、われわれの国、日本の国柄の基礎は確立しているのです。


(2)〔神武天皇の偉大な業績〕

 初代の神武天皇は、天照大神の御心を継承して偉大な業績をお上げになりました。
 まず九州を出発し、船に乗って大阪湾に上陸され、大和や河内の豪族を部下とし、大和の橿原に都を定めて、干支でいうと辛酉(かのととり)という年に、初代の天皇となられました。
 これが日本の紀元元年です。
 それはいまからおよそ二千年前で、それから天皇の御代は百二十三代を重ねておられます。
 この神武天皇のさらに前を神代と言っておりますが、それはいったい何年間なのか、推量することもできません。
 日本の歴史の古さがわかります。


(3)〔歴代の天皇は遠いご先祖の立派な業績を見習っておられます〕

 歴代の天皇は、即位されて国民のためにお役目を果たすにあたっても、深く建国の理念を考え、遠いご先祖のご恩と教えを継承され、皇室と国の発展に力を注がれました。

 たとえば――
 第十代崇神天皇は四道将軍と呼ばれる四人の将軍を四方に派遣して国々を治められました。
 第十二代景行天皇は九州の熊襲や北方の蝦夷を平定して平和をもたらしました。
 第十四代仲哀天皇の皇后である神功皇后は、新羅を抑えて日本の力を海外にまで示されました。
 第十五代應神天皇は朝鮮半島を安定させたので、半島からの使者が来るようになりました。
 ・・・などがその例です。

 歴代の天皇は、いずれも遠いご先祖のお教えをお守りになり、日本の尊厳と隆盛をはかってこられましたが、とくに第百二十二代の明治天皇は徳に秀でた立派な御方であり、七百年間の皇室の衰退を回復なさり、内政外交両面で、比類のない時代を実現なさり、ご先祖の建国の教えに見事にお応えになられました。


◆◆◆ 一・五 徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ――道徳的な国家の実現をめざして建国しました―― ◆◆◆


(1)〔樹ツルの意義〕

「樹」の一字は、日本という国の特質をよく表しています。
「樹つ」とは植えつけることです。
 わが国のご先祖は、あたかも樹木を植えつけるように、国民に徳を植えつけられたのです。
 これが、外国の建国者や王と、日本の天皇との大きな違いです。

 外国の王は、力によって国をつくり国民に対します。
 ですから、その力があるうちは国民は服従しますが、ほかにより強い力をもつものが現れますと、たちまちそちらになびくようになります。
 動物界にある弱肉強食と同じです。
 したがいまして、外国における王と民の関係は、力による支配と服従にとどまっております。

 しかし日本の天皇は、国民に対して力で威圧するのではなく、慈しみ愛するお気持ちで国民を大切になさるのです。
 このため、国民は喜んで天皇を信頼し、天皇と国民の信頼関係はきわめて強固なものとなっているのです。


(2)〔天照大神の仁政および「三種の神器」〕

 天照大神の偉大な徳は、古い歴史によってその一部を知るだけですが、知られているだけでも、長く皇室の模範となり、君主の徳を教えるものとなっております。
 すなわち、高天原において、稲を栽培なさり、織物をなさって、国民に食物と衣服をお与えになりました。
 このように国民のためにお働きになったので、国民は天照大神を慕って感謝したのです。
 たまたま素戔嗚尊が乱暴を働いたのでお怒りになり、天の岩戸にお隠れになったとき、国民はみな嘆き、相談して、岩戸から出てくださるように願いました。

 このような徳に秀でた天照大神でしたから、天孫降臨に際して、永遠に不動の詔勅(天壌無窮の詔勅)を天孫にお与えになり、同時に、「三種の神器」に寓意して、君主の徳をお教えになったのです。

 すなわち、「八坂瓊曲玉」は仁を示し、「天叢雲剣」は勇を示し、「八咫鏡」は知を示します。
「君主は知仁勇の三つを身につけてはじめて君主としての徳を完全なものにすることができるのだから、子孫たちは、「三種の神器」の示す意味をよく学ぶように」
 ――と、お教えになられたのです。
 ですから、歴代の天皇は、この天照大神のお教えを身につけて、国民の父母というお立場で、慈愛のある政治を実現してこられたのです。


(3)〔神武天皇の御心の広さと先祖を敬う精神〕

 初代の神武天皇は、その知仁勇の三つの徳に秀でておられ、先祖のお教えにお応えになり、同時に子孫の模範となって、日本の建国という大きな業績をおあげになりました。

 神武天皇の大和への遠征は進取の精神をあらわしておりますが、国を創って先祖のお教えのとおりに愛情によって全土を平定なさいました。
 天皇は御心が広く、敵であっても態度を改めたものは仲間として扱い大切にしました。
 日本の皇室が敵対者を仲間にする同化力は絶大なものがあります。

 神武天皇はまた、慈悲の心があつく、穀物や麻を東国に普及させました。
 先祖を大切にする心もあつく、鳥見の山中(現在の奈良県桜井市)に祭場をつくって先祖の神をお祀りになりました。


(4)〔歴代の天皇がこれを模範になさいました〕

 歴代の天皇は、先祖の厚い徳を模範にして、君主としての責務を果たされました。
 第十代崇神天皇は、疫病が流行して死者が増えたとき、神々をお祀りになったところ、疫病が静まりました。
 そのあと崇神天皇は水田のための施設をおつくりになり、四道将軍を四方に派遣して国の乱れを鎮めました。
 このことによって国民の生活は平和になりましたので、天皇の徳を称えて御肇国天皇(はじめて国を治めた天皇)とお呼びしました。

 第十二代景行天皇は、偉大な勇気をもって国内を平定しました。
 第十六代應神天皇は、学問と教育を盛んにして国民に知識や道徳を知らせました。
 第六十代醍醐天皇は、寒い夜に衣服を脱いで、国民の苦労をじぶんのものとなさいました。
 このように歴代の天皇は、国民の父母としての役割を果たされたのです。

     *

 第十六代仁徳天皇について、つぎのような話がのこされています。
 即位なさってまもないころ、天皇が高台に登って眺められますと、国民の家々から炊事の煙があがっておりません。
 天皇は、
「国民は貧しくて家で食事の支度のできる者も少ないのであろう。近畿の地でもこうなのだから、その外ではもっと大変なのであろう」
 ――とおおせられて、翌月にお触れを出して、
「今後三年のあいだ、税を免除する」
 とし、さらにご自分でも倹約につとめて、皇居が痛んでも修繕せず、風雨が中に入っても我慢をして、国民と苦労をともになさいました。
 この善政によって、国民の暮らしはすっかり楽になりました。
 三年して、天皇がふたたび高台にお登りになったところ、炊事の煙がたくさん上がっているのが見えました。
 仁徳天皇はたいへん喜ばれて、皇后に向かって、
「自分はすでに豊かになった。心配はない」
 ――といわれました。
 皇后はふしぎに思って、
「宮殿は壊れて雨をふせぐこともできません。なのに、どうして豊かになったといえるのでしょうか?」
 ――とお訊ねになりました。
 天皇は、
「君主の大もとは国民である。だから国民が豊かであることは、すなわち、君主が豊かであることなのだ」
 ――とお答えになられました。
 国民は税を納めて宮殿を修復したいと申し出ましたが、天皇はそれを許さず、さらに三年して、ようやく宮殿の修復をなさいました。
 感激した国民は、老幼男女がみな集まって手伝い、ほどなくして、修復がなりました。
 このエピソードは、歴代の天皇が国民の幸福をご自身の幸福とお考えになる好例といえるでしょう。

 第百二十二代明治天皇は、知仁勇を備えておいでで、その国民への愛情や慈悲は仁徳天皇と同じでした。
 明治天皇につぎのような御製があります。

「罪あればわれを罰せよ天つ神 民はわが身の生みし子なれば(明治四十四年)」
「照につけ曇につけておもふかな わが民くさのうへはいかにと(明治三十七年)」

 この御製からも、明治天皇が常に国民のことを気にかけておられる御心が拝察できます。
 明治時代に、わが日本国が、世界中が驚くような発展をとげたのは、決して偶然ではありません。

**********

[(3)について――
 明治天皇も、敵方になってしまった徳川家の人たちにとても優しく接しておられました。
 たとえば明治八年には、水戸の徳川光圀(水戸黄門)の子孫の家にわざわざ行幸されて、なぐさめの御製を下賜なさっています。
 またのちに、徳川の家臣だった多くの人たちに勲章を贈っておられます。]


■■■■■ 第二章 国への忠誠心と親孝行の方法 ■■■■■


『我ガ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ』

(訳:国民は「忠」と「孝」の道を歩みましょう)


◆◆◆ 二・一 「忠」と「孝」の大もと――「国に尽くす気持ち」と「親に優しくする心」とは何か―― ◆◆◆


 第一章におきまして、日本の建国の理想の素晴らしさや、国民が万世一系の天皇をいただいていることや、歴代の天皇は慈愛の心で国民に接してこられたことを、お話ししました。
 日本はこのような国柄ですから、国民の精神もまた、ほかの国とは異なっております。

 日本の国民は、大昔から、慈愛に満ちた皇室のもとで暮らしておりますから、誠をつくして皇室にお仕えしてきました。
 一時の権力に抑えられて、内心不満をもちながらも表面上従っている他国の国民とは、まったく異なっております。

 日本の国民が皇室や国家に対してもつ「忠(忠義/国に尽くす気持ち)」は、子供が親に対してもつ「孝(孝行/親に優しくする心)」と同じです。
 すなわち、日本における「忠」と「孝」は、一体のものなのです。

 われわれ日本人の先祖が万世一系の天皇と国家にお仕えしてきたのと同じような気持ちで、子孫のわれわれも天皇と国家のために力を尽くしております。
 これは遠い先祖の名に恥じず、先祖を安心させる行いであり、最大の親孝行でもあります。
 先祖の心と同じ心をもって、天皇や国家のために働くのは、「忠」であるとともに「孝」でもあるのです。


◆◆◆ 二・二 「忠」とは何でしょうか ◆◆◆


「忠(忠義/国に尽くす気持ち)」とは、欲得抜きの純粋な気持ちで天皇や国家のために尽くそうという気高く道徳的な感情です。
 日本の国民――大和民族――は、神代から現在にいたるまで、この気持ちを持って生きてきました。
 これが、日本の歴史において数多くの忠臣が出た理由です。


(1)〔非時香菓を求めた田道間守の「忠義」〕

 田道間守は第十一代垂仁天皇にお仕えした人です。
 垂仁天皇は田道間守に、常世国(大陸)に行って非時香菓(ミカン・ユズ・キンカンなどの柑橘類)を求めてくるように命じられました。

 十年して田道間守は、非時香菓を得て帰ってきましたが、その前年に垂仁天皇は崩御しておられました。
 これを聞いた田道間守は悲しみ嘆いて、
「非時香菓は遠い遠い国にあるため、往復に十年かかってしまいました。帰ってみると天皇はすでに崩御され、お見せすることができません。もはや生きている意味もありません」
 ――と述べ、天皇のお墓に詣でて、泣きながら死んでしまいました。
 ひとびとはみな、田道間守の気持ちに感じいって、涙を流したと言われます。
 田道間守のような人は、天皇を思う気持ち以外の気持ちをまったく持っていない純粋な人だと言えるでしょう。


(2)〔和氣清麻呂の毅然とした「忠義」〕

 奈良時代の学者である和氣清麻呂は心の正しい人で、第四十八代稱コ天皇(女帝)にお仕えしていました。
 天皇は九州の宇佐八幡宮の神を敬っておられ、その教えをいつも尊重していました。
 野心家の僧・道鏡が天皇に取り入って法王となると、九州の太宰府の祭祀役の人物が、八幡宮の神のお告げであるとして、
「道鏡を天皇の位につければ世の中は平和になる」
 ――と嘘をつきました。
 天皇はあやしんで、和氣清麻呂に命じて、宇佐八幡宮の神のお告げを聞いてくるように命じられました。
 その出発のとき、道鏡は清麻呂に、
「自分に都合のよい話を持って帰るように」
 ――と強要しました。

 しかし清麻呂は、毅然とした態度で、
「日本の国は、建国以来、天皇と国民の関係は定まっている。天皇の位には、かならず天皇の血筋の人が立つ。無法なことを言う者は排除すべきだ」
 ――との神のお告げを、天皇に返答しました。
 これを聞いて権力者の道鏡は怒り、清麻呂を追放して殺そうとしましたが、雷鳴があって清麻呂は助かりました。

 つぎの代の光仁天皇のときに、道鏡は追放され、清麻呂は都に戻り、高い位につき、亡くなったときは、正三位という位を贈られました。
 また嘉永四年(一八五一年)には正一位と護王大明神の称号を贈られました。
 さらに明治になりますと、清麻呂を祀った京都の護王神社が別格官幣社という高い位の神社になりました。
 清麻呂の権力に負けない行いは、皇室の危機を救い安泰にしたもので、護王大明神の名に恥じないものであります。


(3)〔楠木正成の孤独な「忠義」〕

 南北朝時代の直前のことです。
 第九十六代後醍醐天皇は鎌倉幕府の権力者北條氏を成敗しようとなさいましたが、秘密が漏れて失敗し、京都の南の笠置山に潜まれました。
 このとき天皇は、忠義の心のつよい楠木正成を招いて、賊を討つ計略をお聞きになりました。
 正成は、
「天による罰が加われば、賊はかならず倒れます。・・・戦争に勝敗はつきものであり、一度の敗北で目的を動かすことはありません。私はまだ死んではおりませんので、陛下には御心を煩わせることはございません」
 と、誠心誠意、お答えしました。

 そして正成は、少ない兵で敵の大軍を迎えて大いにこれを悩ませました。
 この正成の忠義の心に動かされて、各地に天皇を護ろうとする兵がおこり、新田義貞は鎌倉を滅ぼし、笠置から隠岐に流されていた後醍醐天皇は、無事京都にお帰りになられました。
 天皇は元号を建武となさり、新しい政治を実現なさいました。
 こうして、有名な「建武の中興」がなりました。

 後醍醐天皇がご帰還なさったとき、楠木正成は七千の兵をひきいて兵庫でお出迎えしました。
 天皇は、
「目的が達成できたのはあなたの力である」
 ――と正成の労をねぎらわれましたが、正成は、
「陛下の御徳による勝利です」
 ――と謙遜して、自分の功績とはしませんでした。

 のちに足利尊氏が謀反をおこしたときも、正成はしばしば計略でこれを破りました。
 逃げた尊氏が九州方面から大軍をひきいて再度攻め上って来たとき、正成は必勝の作戦をたてましたが、側近がこれに反対し、天皇もそれに従ってしまわれました。
 正成は敗戦を決意して、十歳の息子の正行に、桜井の駅(大阪府東北部)で、天皇から拝領した菊水の刀を渡して、
「自分が戦死した後、成人したら、忠義の心で国のために一身を捧げるように」
 ――とさとしました。
 これは「桜井の駅の別れ」といって、有名な話です。

 その後正成は湊川で奮戦し、弟の正季と差し違えて、壮絶な戦死を遂げました。

 のちに水戸黄門で有名な徳川光圀は、正成を祀った湊川神社に、
『嗚呼忠臣楠子之墓』
 ――という碑を建てて、この忠臣を顕彰しました。


(4)〔乃木将軍の誠心誠意の「忠義」〕

 明治天皇の御代には、忠義の人が多くおられました。
 なかでも陸軍大将乃木希典(一八四九〜一九一二年)は、無類に忠義の人で、昔の田道間守と比べてもまったく遜色ありません。
 乃木将軍は少年時代には謹厳なる父親に教育を受け、軍人になるにおよんで、西南戦役、日清日露両戦役に出陣して武勲をたて、明治天皇の信頼あつく、晩年には学習院長として、華族の子弟の方々の教育を担当し、明治天皇の御期待にお応えするために専念なさいました。

 しかしながら、明治四十五年七月、明治天皇が崩御なさいましたため、乃木将軍の嘆きは言葉では言えないほどのものがあり、同年の九月十三日午後八時、明治天皇の霊柩車が宮城をお出になる号砲と同時に、

「うつし世を神さりましし大君の みあとしたひて我はゆくなり」

 ――との辞世の歌を残して、赤坂の自邸で自刃なさいました。
 夫人もまた、その傍らで自刃なさいました。

 乃木将軍は、ふだんから人の模範となる行いをしておられ、つねに楠木正成親子の忠義を慕っておられました。
 そして、

「根も幹も枝も残らず朽ちはてし 楠のかをりのたかくもあるかな」

 ――と詠まれました。

 かつて乃木将軍が台湾総督のとき、将軍の母親は台湾に骨を埋める覚悟で渡り、風土病で亡くなられました。
 これは前記歌の「根の朽ちはてし」に相当します。
 また、夫婦ともに明治天皇のあとを慕って自刃なさったのは、「幹の朽ちはてし」に相当します。
 さらに二人のお子さんが日露戦役で名誉の戦死をとげたのは、「枝の朽ちはてし」に相当いたします。
 乃木将軍の誠の忠義は、永遠に国民を感激させ発憤させるものであります。

**********

[(1)について――
 こういう事がありましたので、田道間守のお墓は、垂仁天皇の御陵の一部となっています。なお田道間守という名は、現兵庫県日本海寄りの但馬地方と関係があると言われています。海外に進出する豪族がいた地方です。]

[(2)について――
 これは危うく皇統が守られた史上有名な事件です。護王神社は現在京都市上京区にあり、忠臣が祀られているとして尊敬を集めています。また同時に清麻呂の姉君の廣虫姫も祀られていますが、この姫は戦乱で親を失った子供たちを助け育てので、児童福祉の祖、子育ての神として尊敬されています。]

[(3)について――
 楠木正成が弟の正季と差し違えて戦死したとき、互いに、
「七度生まれかわって天皇の敵を滅ぼそう」
 ――と誓い合ったのは有名です。
 また、「桜井の駅の別れ」で父正成から忠義の道を教えられた正行は、その教えを守って、つぎの第九十七代後村上天皇にお仕えして奮戦しましたが、やはり戦死しました。その最後の決戦の直前に如意輪堂というお堂の壁板に、部下の名とともに記したつぎの辞世の歌は有名です。
「かへらじとかねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる」
 正行は四条畷神社に祀られています。
 これら楠木父子・兄弟の物語は、昔の小学校の歴史教科書に名調子で書かれていましたので、誰もが知っておりました。戦後、こういう熱血漢の物語は軽視されましたが、無責任な政治家がはびこる現在の世相はそのためだろうと思います。]


◆◆◆ 二・三 「孝」とは何でしょうか ◆◆◆


「孝(孝行)」とは、誠心誠意、子供が親を敬い、親に優しくする道徳的な感情を言います。
 この感情は、日本に昔から発達している固有の道徳です。
 また日本においては、先に申しましたように、国柄から言いまして、「忠」と「孝」は一致しており、「国に尽くす気持ち(忠)」はすなわち「親に優しくする心(孝)」でもあります。
 第一・五節の末尾に記しました明治天皇の御製でわかりますように、この二つのことは、じつは一つのことなのです。


(1)〔神武天皇の「孝」――先祖を敬う御心〕

 初代の神武天皇が先祖を敬う御心をお持ちだったことは、すでに申し上げました。
 天皇としての孝行の道とは、神武天皇のように、先祖の教えを守って国の力を発展させることであります。
 神武天皇は、天照大神の教えを守って建国され、しかもその成果を自分一人の功績とはせず、先祖のお力であるとして、鳥見山中で天の神を祀られました。
 これは孝行の心を天下にお示しになったものというべきです。


(2)〔養老の孝行息子〕

 美濃国(現岐阜県)に、とても親孝行なキコリがいました。
 家は貧しくて、タキギを売って生活していました。
 父親はお酒が好きだったので、いつも市場でお酒を求めて父親にすすめていました。
 ある日、山中で石につまずいて倒れたとき、近くでお酒の香りがしました。
 不思議に思って見ると、石の間から液体がわき出ており、なめると、香りがよく美味しいお酒でした。
 キコリは毎日これを汲んで父親にのませました。
 奈良時代の初め、第四十四代元正天皇(女帝)が美濃に行幸なさったとき、その泉を「養老の滝」と名づけて、元号を養老とあらためました。
 養老とは老人に優しくするという意味です。

 この話は、科学の進歩した現代では、すべてを信じるわけにはいきませんが、事実がどうであれ、一人の孝行息子のために天皇が元号を改められたのは、孝行の徳がいかに大きいかを示しております。


(3)〔平重盛の親孝行〕

 有名な平清盛の子の平重盛は、親孝行で知られていました。
 平治の乱のときも、立派な働きをして親を助けました。
 このあと清盛の勢いはとても盛んになり、十年もたたないうちに太政大臣という最高の位につき、一族も高い身分になり、領地も三十以上の国にまで増えました。
 昔の藤原氏にもまさるほど栄えたので、一族のなかには、
「平氏にあらずんば人にあらず」
 ――と自慢する者さえありました。
 これは自分たちの勢いを自慢する有名な言葉です。

 清盛はやがて出家しましたが、その勢いはとまらず、わがままな行動が目立つようになりました。
 後白河上皇(第七十七代後白河天皇)は、これを抑えようとなさいましたが、うまくいかず、これを嘆く役人も増えました。
 その人たちが、俊寛という僧の鹿谷の別荘に集まって、平氏を滅ぼそうと相談しました。
 ところが清盛がこれを知ってとても怒り、その人たちを捕らえて斬り殺そうとしました。
 しかし、忠義と孝行の心の厚い子の重盛は、

「個人的な恨みで役人を殺すべきではありません。平家はいまとても盛んなのですから、こういう時は尊い行いをすることが大切です。子孫のこともお考えになり、わがままをなさいませんよう、行いを慎んでいただきたいのです」

 ――と、涙を流して父清盛を説得しました。

 しかし清盛の怒りはおさまらず、法皇(後白河上皇は出家なされて法皇と呼ばれていました)を押し込めてしまおうとして、一族を集めました。
 一族はみな武装して清盛の屋敷に集まりました。
 すこし遅れて重盛は、まったく武装しないでやって来ました。
 弟の宗盛がこれを見て、そっと、
「これほどの大事件に、どうして武装しないのですか。父上も鎧を着ておられますぞ」
 と注意しました。
 しかし重盛は、
「大事件とは何か。いったい皇室の敵はどこにいるのか。自分は近衛大将(皇居を警備する責任者)である。皇室の危機でなければ、武装などしない」
 ときびしく弟を戒めました。

 この言葉を遠くから聞いた清盛は、さすがに恥ずかしく思ったらしく、鎧の上からあわてて法衣(ころも)をはおって、重盛に会いました。
 法衣の襟の間から鎧の金物が光って見えました。
 これが「衣の下から鎧が見える」ということわざのもとです。

 重盛は涙を流しながら、

「恩を知ってこそはじめて人間といえます。恩を知らないものは鳥や獣と同じです。恩の中でももっとも大切なものは天皇のご恩で、父上や愚かなわれわれまでが高い身分を賜っているのも、天皇のご恩であります。いま、この大きなご恩を忘れて皇室を軽んじる行いをすれば、たちまち神罰がくだって、一族は滅びてしまうでしょう。父上がどうしてもお聞き入れにならないなら、私は近衛の兵をひきいて後白河法皇をお守りしなければなりません。ただ、子である私が父上に手向かうことは、なんという親不孝でしょうか。どうしてもこの企てをなさろうというのなら、どうか、私の首を斬ってからにしてください」

 ――と真心をこめて父の清盛をいさめました。

 これを聞いてさすがの清盛も、ひとまずは思いとどまりました。
 重盛は、まことに、忠義と孝行の道を実行した、立派な人というべきです。

**********

[(2)について――
 ここではお酒が出たこと自体は史実ではないとしているようですが、科学的にもあり得る話です。果実が自然のうちに発酵してお酒になることがあります。自然のうちに出来たお酒をヒントにして、人類はお酒を発明したと言われています。]

[(3)について――
 重盛が忠義と孝行の板挟みになって苦しむ場面を、江戸時代中期の著名な歴史家である頼山陽が『日本外史』の中で、
「欲忠則不幸。欲孝則不忠。重盛進退窮於此矣。」
(読み下し文:忠ならんと欲せば孝ならず、孝ならんと欲せば忠ならず、重盛が進退ここにきわまれり)
 ――という名文句で記述し、それが長く日本語の言い回しとして残りました。

 なお、(3)の事件ののち、重盛は重い病気で父より先に亡くなってしまいました。そのため清盛はひどい振る舞いをして、後白河法皇を押し込めてしまい、そこから、源頼朝、義経、義仲など源氏の反撃がはじまり、源氏と平家の戦いの時代になります。]


■■■■■ 第三章 日本の国柄と教育の根本 ■■■■■


『億兆心ヲ一ニシテ、世々厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源、亦實ニ此ニ存ス。』

(訳:みんなで心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげてきたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりません。そして教育の根本もまた、このような道徳的な国家の確立にあると信じます。)


◆◆◆ 三・一 美しい国民道徳こそが教育の基礎 ◆◆◆


 われわれの国、日本の国柄(国体)は、世界でもまれに見る素晴らしいもので、建国以来長い歴史をもち、徳の高い先祖をもち、国民は、心を合わせて忠孝の道を実践し、美しい国民道徳を実現してきました。
 これは誇るべき日本の国柄の本質であります。
 この国民精神以外には、日本の教育の基礎はありません。
 とくに「孝」と「忠」は日本の国柄の本質であり、教育の大もとはここにあります。


◆◆◆ 三・二 日本の国柄と神社の大切さ ◆◆◆


 日本の国柄の真価を示した立派な人は神社に祀られています。
 したがって日本の神社とは、天皇であろうが国民であろうが、忠義と孝行を実践して日本の国柄の良さを発揮した人を神とあがめて祀るところです。
 ですから国民は、神社にたいして崇敬心をもつべきです。
 古代の偉人はべつにして、飛鳥時代の藤原鎌足は、第三十八代天智天皇をお助けして乱暴な蘇我入鹿を征伐し、大化改新を完成させましたから、奈良県桜井市の談山神社に祀られています。

 前に述べましたように、和氣清麻呂は、僧・道鏡が皇位を狙ったとき、忠義の心で皇統を安全なものとしましたから、護王神社に祀られました。
 楠木正成は、第九十六代後醍醐天皇に尽くしてついに湊川で討ち死にした、日本でも最高の忠義の人なので、湊川神社(前出)に祀られました。
 また近代において国に尽くして戦死した人は靖国神社に祀られています。


◆◆◆ 三・三 徳川時代(江戸時代)に皇室のために尽くした人々――勤王の志士といわれる人たち―― ◆◆◆


 幕末に輩出した勤王の人たちは、一身一家を忘れて、勤王の旗のもとに維新の流れをつくって、七百年におよんだ皇室の衰退を挽回しました。
 この勤王の人たちが輩出した理由は、一つではありませんが、水戸藩などは、徳川家でありながら、勤王の精神を盛んにすることに貢献しました。

 江戸前期の水戸藩主・徳川光圀(水戸黄門)は、『大日本史』を著して日本人として護るべき正しい道を示し、日本に固有の精神を発揮して、前に述べましたように、「嗚呼忠臣楠子之墓」という碑を湊川神社に建てました。
 江戸中期から幕末にかけては、その子孫の斉昭も、皇室を大切にすべきであると唱えて、徳川光圀の遺志を継ぎました。
 こうして水戸学派が盛んになりましたので、光圀は勤王論の大もとと言うことができるでしょう。


■■■■■ 第四章 親孝行の大切さ ■■■■■


『爾臣民、父母ニ孝ニ』

(訳:国民の皆さん、子供は親に孝行をしましょう)


◆◆◆ 四・一 親孝行はすべての行いの基礎です ◆◆◆


 人は万物の霊長と言われており、生物のなかでは最高の地位にあります。
 その理由は、他の生物と違って、「親孝行」をするからです。
 他の生物は自然のうちに生活していて、それ以上の高度な生活をしようとは思いません。
 親が子供を愛するのは自然のことで、動物も同じです。
 しかし子供が親の恩に感じて親を尊敬し優しくするのは、人間だけのことです。

 孝行とは、子供が真心をもって親に尽くすことであり、理屈ではなく感情です。
 そして孝行はすべての行いの基礎であり、道徳の根本はじつに「孝」の一字にあると言っても言い過ぎではありません。


◆◆◆ 四・二 親孝行を奨励した第四十六代孝謙天皇の有名なお言葉 ◆◆◆


 第四十六代孝謙天皇(女帝)はみことのり(天皇のお言葉)をお出しになって、つぎのように親孝行を奨励なさいました。
 奈良時代のことです。

「・・・昔から、民を治め国を安定させるには、必ず孝を以てした。(孝は)あらゆる行動の根本であって、これに優先するものはない。そこで、この国の(役人の)家ごとに『孝経』一巻を所蔵させ、暗誦・学習によく努めさせ、ますます(人民に)教えを垂れるべきである。人民のなかに孝行が人にも聞こえ、村里の人々が敬い仰ぐような者があれば、所轄の長官にその者の名をくわしく報告させるべきである。一方、不孝・不恭(人をないがしろにする)・不友(兄弟を敬愛しない)・不順(道理に従わない)の者があれば、それらを陸奥国(青森県など)の桃生(城)・出羽国(山形県・秋田県)の小勝(柵)に配属し、風俗を矯正すると共に、辺境を防衛させるべきである。・・・」
(東洋文庫の『続日本紀』より)
 この中にあります『孝経』という書物は、孔子が弟子の曽子に作らせたもので、日本では歴代の天皇がこれを重んじられました。

 日本の国民が親孝行を重んじるのは、儒教の影響があるとはいえ、漢書が渡来してからはじめて親孝行をしたわけではありません。
 日本人は、そのずっと前から、すでに親孝行の道を実行しておりました。

 日本の国民は、「孝」の意味を他に拡大して、世界に比類のない国民性を発揮しました。
「忠」も「勇」も「友」も、「孝」が源です。
 孝行の道を完全に行えば、道徳的な人間として恥じるところはありません。

 世の中には、「道徳的行為は難しい」と言う人がおります。
 これは、道徳的生活がなかなか出来ないことへの嘆きです。
 しかし、そんな事はありません。きわめてやさしい事です。
 日夜怠らずに、昔の賢人の教えを実行すれば、立派な人になれるでしょう。

 勤王の志士であった吉田松陰は、処刑となるのを知って、自分が親を思うよりも親が自分を思う心の深いことを感じて、
「親を思ふ心にまさる親心 今日の音信何と聞くらん」
 ――と歌いました。
 親を思う真の心をうかがうことができます。
 このような切実な心によって親孝行をすれば、孝行の道を実行することができるでしょう。

◆◆◆ 四・三 境遇によって違う親孝行の方法 ◆◆◆


 親孝行を実践する方法は、その人の境遇によって違います。

 それほど豊かでない人にとっては、親の健康に気をくばるのが第一の孝行であり、それを「養体」といいます。
 年取った父母は静養が必要です。
 ですから子供たちは、父母に暖かい衣服や美味しい食事をすすめて、その身体が健康であるように気をくばるべきです。
 前に述べた養老の孝行息子のような心で、親に接しましょう。

 高い身分の人たちは、衣服や食事に困ることはないので、むしろ父母の気持ちを汲んで安心させてあげることが第一であり、それを「養心」といいます。
 日本武尊のように、先祖のために大いに力を発揮するのは、高い身分の人の孝行の道です。

 しかしながら、孝行の道の本質は、敬い愛する心で優しく親に接することですから、その方法に差はあっても、その精神は同じです。
 いかに衣服や食事を与えても、敬い愛する心が無ければ親孝行とは言えませんし、いかに大きな仕事を成し遂げても、親を敬う心がなければ、親孝行とは言えません。


◆◆◆ 四・四 平時と有事における親孝行の方法 ◆◆◆


 親孝行の方法は、平時と有事では、当然、違ってきます。
 平時における孝行は、一見やさしそうに思えますが、じつはそうではありません。
 一時的な親孝行は誰にでもできますが、長期にわたってそれを続けるのは、簡単ではありません。

 つぎのエピソードは、平時と有事における親孝行の模範です。


(1)〔中江藤樹の孝行〕

 江戸時代前期の思想家・中江藤樹は近江(今の滋賀県)の人で、祖父は高島城主の加藤家に仕えていた武士でしたが、父は仕官しなかったので、八歳のときに祖父に引き取られて武士となる修行をし、やがて主君に従って祖父とともに四国に渡り、ここで学問に励みました。
 十歳のころ『大学』という儒教の本を読んでその中に、

「自天子以至於庶人壹是皆以脩身爲本」
(読み下し文:天子(君主)より以て庶人(一般大衆)に至るまで、壱に是れ皆身を修むる(人格をみがく)を以て本(基本)と為す)

 ――とあるのを知り、感激して涙を流したそうです。

 十四歳のときに祖父が没したので、藤樹は近江の実家から母親を連れてこようとしますが、母は実家を離れるのを嫌がりました。
 藤樹は祖父のあとを継いで仕官していましたが、二十六歳のとき、主君に辞職を願い、近江に戻って親孝行をしようとしました。
 しかし主君は藤樹の才能を惜しんで辞職を認めようとはしませんでした。

 そこで藤樹は家財を売り、逃げて帰りました。
 そして、わずかなお金を元にして酒売りになって母親を養い、弟子たちに学問を教えました。
 そして「養体」「養心」ふたつの孝養をつくし、母親が没してからも三年間喪に服して、親孝行の道をつくしました。

 世の人たちは、現在まで、藤樹を近江聖人と称してその徳を慕っています。


(2)〔日本武尊の孝行〕

 日本武尊は古代の第十二代景行天皇の皇子で、幼いころから力が強く剛毅な性格でした。
 景行天皇の二十七年(天皇が即位されて二十七年め)の八月に、九州の熊襲が反乱しました。
 天皇は十月に、日本武尊に、これを鎮圧するよう命じました。
 日本武尊は喜び勇んで、十二月に熊襲の地に赴き、これを平定しました。

 また景行天皇の四十年、東国で反乱がありましたが、他に行く者もなく、再び日本武尊が命じられて、遠征して平定しました。
 日本武尊が天皇のご指示によって皇室の力をお示しになったのは、皇太子として理想的な親孝行というべきです。


■■■■■ 第五章 兄弟姉妹は助けあいましょう ■■■■■


『兄弟ニ友ニ』

(訳:兄弟姉妹は互いに助けあいましょう)


◆◆◆ 五・一 兄弟姉妹は一本の樹木から出た枝のようなもの ◆◆◆


『兄弟ニ友ニ』という言葉は、兄弟姉妹は互いに仲良くし助けあうべきだという意味です。
 兄弟姉妹は、父母の分身であり、あたかも一本の樹木の幹から出た枝のようなものです。
 父母から見れば、同じわが子なので、兄弟姉妹の区別なく愛します。
 兄弟姉妹の間では、兄姉は弟妹を愛し、弟妹は兄姉を尊敬し、父母の分身として協力一致して事にあたり、父母を安心させましょう。


◆◆◆ 五・二 兄弟姉妹の間における年齢による秩序 ◆◆◆


 兄弟姉妹は、等しく父母の分身であり、父母から見れば子供への愛情に区別はありませんが、兄弟姉妹の間には、年齢による秩序があるべきです。
 弟妹は兄姉を尊敬しなければならず、兄姉は弟妹を可愛がらなければなりません。
 秩序のある愛情でなければ、動物と異なりません。

 人が万物の霊長として重きをなしているのは、愛の中にもきちんとした秩序があるからです。
 兄姉が弟妹を愛するにしても、その中に年長者としての品位があってこそ、兄姉としての資格を有すると言えるでしょう。
 したがって父母が亡くなったあとは、兄(または姉)は、父母にかわって、弟妹を指導する責任があります。


◆◆◆ 五・三 兄弟姉妹の間の愛情の永続性 ◆◆◆


 すべて人間の「徳」というものは、永続的であるべきで、一時的なものは「徳」とは言いません。
 ことに兄弟姉妹の愛情はそうです。
 父母の近くで遊んでいた幼少のころに仲良くするだけでは意味がありません。

 われわれが理想としている兄弟姉妹間の愛情は、世の中の波風には動かされない永続性をもつものです。
 したがって、幼少の時代はもちろんのこと、皆が成長して各自家庭をつくってからも、終始一貫して不変の愛情でなければなりません。
 これはやさしいようでいて意外にむずかしい事ですので、強調いたします。


◆◆◆ 五・四 兄弟姉妹間の愛情の境遇による変化 ◆◆◆


 親孝行の道が境遇によって同一ではないように、兄弟姉妹の間の愛情も境遇によって変わってきます。
 たとえば、天皇陛下の御兄弟の関係は、一般の国民とは大きく違っております。
 天皇は君主であり、他はすべて臣下ですから、いくら御兄弟の間柄であると言っても、天皇の弟や妹は、君主である兄上に対しては、臣下としての礼儀をもってお仕えしなければなりません。
 御兄君にあたる天皇は、弟や妹を、君主の補佐と考えるべきです。

 これとは違って一般の国民の間では、兄弟姉妹は協力して家名をあげるよう努力すべきですし、また、互いに助け合って一家の繁栄を計るべきです。


(1)〔億計王・弘計王の二人の皇子の兄弟愛〕

 古代(推定五〜六世紀)の第二十二代清寧天皇は、お世継ぎの皇子がおられず、心配しておられました。
 そんなとき、播磨国(兵庫県西南部)に、第十七代履中天皇の御孫にあたる億計王・弘計王の兄弟が見つかり、天皇は喜ばれて、この二人を皇宮にお招ねきになられました。

 これには、つぎのようないきさつがありました。
 先代の第二十一代雄略天皇の御代に、この二人の父親である履中天皇の皇子が殺されるという災難があり、その災難を逃れるために二人は身分を隠し、播磨国のある家の召使いとなって潜みました。
 たまたま地方役人がその家で催された宴会に出席したとき、二人は舞を舞うことになりましたが、このとき弟の弘計王が、兄を思って、兄が天皇の孫であることを暗示する歌を歌ったのです。
 それを聞いた役人はとても驚いて、天皇にこのことを知らせたという次第でした。

 清寧天皇は二人を皇宮に迎え入れ、兄の億計王を皇太子にし、弟の弘計王を皇子としました。
 五年の正月に清寧天皇は崩御されましたが、兄は、
「天皇の血筋であることを訴えたのは弟だから、弟がまず皇位につくべきだ」
 ――と主張しました。
 一方弟は、
「清寧天皇は、兄を皇太子となさいました。たとえ功績があったとはいえ、兄より先に天皇になるのは兄弟の秩序に反します」
 ――と主張しました。

 こうして二人は譲り合って、なかなか天皇が決まりませんでした。
 ついに兄は弟に、先に皇位につくように命令し、弟はこれにしたがい、第二十三代の顯宗天皇となりました。
 兄は弟を補佐しました。
 そして、弟の顯宗天皇が崩御されてから、兄の億計王が、つぎの第二十四代仁賢天皇として即位されました。

 この二人の皇子は、民間に隠れて一般の人の召使いになり、あらゆる苦労を重ねた間、兄弟の愛情はじつにこまやかであり、また皇宮の皇子になってからも、つねに兄弟間の愛情を絶やしませんでした。
 身分の高低にかかわらず、人々の模範であります。


(2)〔備前の兄弟〕

 昔、現在の岡山県にあたる備前の国に、ある兄弟がおりましたが、所有する田畑のことで長年争って決着がつかず、ついに訴訟になりました。
 藩主は、中江藤樹の弟子で儒学者として有名な熊澤蕃山の弟、泉八右衛門にこの裁判を命じました。
 八右衛門は自宅で裁判をひらくことにし、兄弟を呼びました。
 兄弟が来ると八右衛門は家来に、
「急用があるのでいつ来るかわからない。くつろいで待つように」
 ――と言わせて、一室に入れて、一日中会いませんでした。
 日が暮れると、また家来に、
「役所の用事がまだ終わりません。夜が更けても今夜中には訴えを聞きますから、もうしばらく待ちなさい」
 ――と言わせました。
 そして兄弟の間に一個の火鉢を置きました。
 夜中を過ぎても八右衛門は姿を見せませんでした。

 二人の兄弟は、はじめは口をきかずにらみ合っていましたが、このように一室に一日中顔を合わせていては、さすがに血を分けた仲なので、兄は、
「夜が更けてとても寒いので、近づいて火に当たりなさい」
 ――と言い、弟も近づいて火鉢に手をかざすうちに、ようやく互いの気持ちも和らぎ、昔母の膝で遊んだ幼児のころの情景がよみがえってきました。

 そして、今は亡き両親の慈愛を思い出して語り合い、ついに自分たちが私欲で争ったことを後悔するようになり、今後は仲良く田畑を耕そうと語り合い、そのことを八右衛門に申し出ました。
 八右衛門はただちに出てきて、この兄弟の申し出を褒め、
「じつにめでたいことだ」
 ――と言って、こんこんと兄弟愛の徳を説き、兄弟は涙を流して将来のことを誓い合い、お上を煩わせたことを詫びて帰ってゆきました。

 このエピソードからも分かりますように、父母が亡くなったあとこそ、兄弟姉妹はますます仲良くするべきです。
 私欲のために家を破滅させてはいけません。
 徳川吉宗の孫で江戸後期の政治家だった松平定信は、

「埋火のあたりのどかにはらからの まどゐせし夜ぞこひしかりける」

 ――と兄弟姉妹の愛を詠みました。
 大いに味わうべきでありましょう。


■■■■■ 第六章 夫婦の愛情と協力 ■■■■■


『夫婦相和シ』

(訳:夫婦は仲むつまじく互いに協力しあいましょう)


◆◆◆ 六・一 『夫婦相和シ』の重要性 ◆◆◆


 これは、夫婦が互いに仲良くし、夫は妻をいたわり、妻は夫をうやまい、よい家庭をきずくことを言います。
 ひとつの家庭内では、夫婦は子供達の模範となるものですから、互いに真心をこめて協力し、一家の幸福をはかるべきです。

 夫と妻の天職はそれぞれ違っております。
 夫は外で働き、妻は家庭内を無事に保つように働きます。
 このような夫婦の分担があってはじめて、一家の幸福がもたらされます。
 ですから、夫婦は互いに補いあうべきです。

 それぞれが自分の事ばかり考えていては、立派な家庭はできません。
 夫婦の間には調和がなければいけませんが、徳には秩序というものがあります。
 すなわち一家においては、夫が中心となって責任を持ち、妻はこれに協力するべきです。


(1)〔雄略天皇と皇后幡梭姫〕

 古代の天皇のなかでもとくに剛勇で知られている第二十一代雄略天皇は、最初のうちは、部下に対してとても厳しく接しました。
 あるとき葛城山(大阪府と奈良県の間にある山)で狩りをしたとき、たまたま猪が出てきて天皇に近づきました。
 天皇はお付きの人に「これを殺せ」と命じましたが、お付きは怖がって避けてしまったので、天皇みずから弓によって猪を抑えつけ、足で踏み殺してしまわれました。

 狩りが終わってから天皇は、お付きの人が臆病なのを怒って、これを斬ろうとなさ
いました。
 このとき皇后の幡梭姫が、獣のことで人を殺すのはいけない――とおいさめになりました。

 天皇はその忠告を聞き入れて、皇后と同じ車に乗った帰り道に、
「猟する者は鳥や獣を得るが、今自分は良い言葉を得た」
 ――とおおせられました。

 この逸話によって、皇后が天皇に忠告して君主の徳を明らかにした内助の功を知ることができますし、またその忠告をよく聞き入れた天皇の明るいご性格を知ることができます。
 これは夫婦が仲良く協力する美徳を、国民にお知らせになったものと言うべきでしょう。
いました。


(2)〔豊臣秀吉と北政所〕

 豊臣秀吉は誰でもが知っている戦国の英雄です。
 貧しい生まれながら、天下を平定し、衰退していた皇室を復興し、国威を海外にまで広めました。
 その夫人である北政所は、秀吉がまだ貧しかった時に結婚し、大きな内助の功で夫を助けました。
 ですから、秀吉が晩年に関白となり、天下を支配し、聚楽第を造営したり伏見に城をつくったりして贅沢ばかりしていたとき、
「昔の質素な暮らしを忘れてはいけません」
 といさめました。
 秀吉は大変な権力者でしたが、この妻の言葉には耳を傾けたそうです。


■■■■■ 第七章 友人の選び方と付き合い方 ■■■■■


『朋友相信ジ』

(訳:友人は互いに信じあいましょう)


◆◆◆ 七・一 「朋友」という言葉の意味 ◆◆◆


 朋友の「朋」とは、同じところで学んだ知人のことで、「友」とは人生の考え方を同じくする知人のことです。
 したがいまして、こういう親しい人との交際は、真心をもってし、決して欺かないことが必要です。


◆◆◆ 七・二 友人を選ぶことの大切さ ◆◆◆


 人が賢いか愚かかは、友人によって左右されます。
 ですから昭憲皇太后陛下(明治天皇の皇后)は『水は器』という御歌によって、国民に、良き友を選ぶべきであるとお教えになりました。

 古今東西をとわず、多くの人が、友を選ぶことの大切さを説いています。
「自分以下の人間を友としてはいけない」という教えもあります。
 したがいまして、良き友を選んで、たがいに人格を磨きあい、高い品性を養うべきです。

**********

[『水は器』という御歌は、明治二十年に、『金剛石』の御歌と共に華族女学校へ下賜されました。以下に、この二つの御歌を記します。

『水は器』
「水はうつはに したがひて
 そのさまざまに なりぬなり
 人はまじはる 友により
 よきにあしきに うつるなり
 おのれにまさる よき友を
 えらびもとめて もろともに
 こころの駒に むちうちて
 まなびの道に すすめかし」

『金剛石』
「金剛石も みがかずば
 珠のひかりは そはざらむ
 人もまなびて のちにこそ
 まことのコは あらはるれ
 時計のはりの たえまなく
 めぐるがごとく 時のまの
 日かげをしみて はげみなば
 いかなるわざか ならざらむ」

 注:金剛石とはダイヤモンドのことです。]


◆◆◆ 七・三 信じることの大切さと友情の継続 ◆◆◆


 人はみな良き友の必要性を知ってはいますが、しかしそのための「道」によらなければ、良き友を得ることはできません。
 では、友と交わる道とは何かというと、それは「信」の一字です。
 信とは、真心をもって人と交わる徳のことです。

 真心をもって相手と交わり「信」を守れば、相手もまたかならず「信」をもって自分に接するでしょうし、その間柄は年とともに親しくなるでしょう。
 朋友の交わりはけっして一時的なものではありません。
 ひとたび友として交われば、地位の高低は問題ではありません。
 永遠の交わりを継続するべきです。

 私の友人で有名な法律の専門家である穂積陳重博士は、かつて「命名之辞」という一文をつくり、丁寧に「信」を説きました。
 ここでそれを大まかに記します。

「道徳的発達の過程を言えば、「孝」は最初に発生する徳であり、「信」は最後に発達する徳です。「孝」によって一家が成立し、「忠」によって国家が成立し、「信」によって人類社会が成立します。人類が助け合って文化をつくるのは、「信」に基づいています。
 幼稚な時代には、力によって人を支配するので「信」による約束事は生じません。
「信」は最後の発達であり、またもっとも広いものです。
「信」とは、誠心誠意を基本とします。
「信」をもとにして父母に仕えれば「孝」になり、国に尽くせば「忠」になり、人に交われば「義」となります。

 政治の中心は「信」です。
 どんなに食糧難になっても、「信」を失ってはいけません。
 また「信」は社交の根本でもあります。
 徳の高い人は「信」を実行します。
「信」は文明の徳であり、すべての徳の根本であり、人が人である理由です。」

 この文章から、朋友は、不変の「信」をもって交わるべきであると分かります。
 また穂積博士はこの事をつぎの歌で表しました。

「裏表変らぬ人を友とせよ くずの若葉の色にならはで」

(注:くずの葉は表と裏で色が違いますので、このように歌いました)


(1)〔廉頗と藺相如の刎頸の交わり〕

 以下は中国の古典『史記』にあるエピソードです。

 廉頗は春秋戦国時代の趙という国の将軍で、藺相如はその上の位にありました。
 廉頗は、
「自分は戦争で大きな手柄をたてたのに、口先だけの藺相如の方が出世している。しかも彼はもともと卑しい身分の出である。恥をかかせてやる」
 藺相如はこれを聞いて、廉頗を避けて、争おうとはしませんでした。
 お付きの人が言いました。
「廉頗は悪口を言っているのに、あなたは恐れ隠れています。使用人ですら恥じているのに大将がなんということですか」
 すると藺相如はその者に、
「廉頗は秦の王にかなうのか」
 ――と聞いたので、その者は
「かないません」
 と答えたところ、藺相如は、
「秦の王の威厳にさえ、私は負けない。まして廉頗将軍を恐れることなどあろうか。強力な秦の王が趙の国を攻撃してこないのは、われわれ二人がいるからである。いま二人が争えば、力は失せてしまう。私がこうしているのは、国益を優先して、私怨をあとにしているのだ」
 ――と述べました。
 廉頗はこれを聞いて反省し、深く謝罪しました。
 そこで二人は喜び、刎頸の交わりをなしたということです。
 刎頸の交わりとは、友人のために首を斬られてもかまわないほどの親しい交友という意味です。


(2)〔伯牙と鍾子期の絶弦の交わり〕

 以下は中国の古典の『列子』という書物にあるエピソードです。

 伯牙は琴が上手で、鍾子期はこれをよく聴いておりました。
 伯牙の琴は高い志によって弾かれており、鍾子期はそれをよく理解していました。
 鍾子期が没すると、伯牙は琴を壊して弦を切り、死ぬまで弾くことはありませんでした。
 自分の志を理解して聴く人がいなくなったからです。
 このような深い交友関係を「絶弦の交わり」といいます。


(3)〔紀友則の歌〕

 平安時代前期の著名な歌人である紀友則は、つぎのように交友関係を歌いました。

「君ならで誰にか見せむ梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る」

 朋友とはまさに、このようであるべきでしょう。


■■■■■ 第八章 人間として大切な慎み深い態度 ■■■■■


『恭儉己レヲ持シ』

(訳:自分の言動を慎しみましょう)


◆◆◆ 八・一 「恭倹」という文字の意味 ◆◆◆


「恭倹」の「恭」とは慎み深く威張らないことを言います。
 また「倹」とは欲望を抑えてへりくだることを言います。
『教育勅語』の英訳では、「恭」をModesty、「倹」をModerationとしています。

「恭倹」の二字は、ともに礼節――礼儀と節度――の意味を含んでおります。
 品性の優れた人は、何事にも恭倹かつ謙譲の態度でのぞみます。
 したがって周囲に人々に、奥ゆかしさを感じさせ、尊敬の念を起こさせます。

「みのるほど 首をさげる稲穂かな」

 ――とは、「恭倹」の徳を歌ったものです。
 さて、「倹」という文字の意味は、二つあります。
 すなわち、広い意味では、欲望を抑えることであり、狭い意味では、倹約することです。

 古い格言につぎのようにあります。

「自分には倹でも他人には倹でないことを愛と言う。自分に倹で他人にも倹を倹と言う。自分には倹でなく他人には倹を吝(ものおしみ)と言う。愛と倹とは立派な人間の考えであるが、吝はそうでない人間の考えである」


(1)〔天智天皇の恭敬〕

 ここで「恭敬」とは、「恭倹」と似た言葉ですが、
「つつしみうやまうこと」
 ――を意味します。

 中大兄皇子は第三十四代舒明天皇の皇子で、横暴な蘇我入鹿を排除なさり、大化改新を断行なさいました。
 第三十五代の皇極天皇(女帝)はその功績の大きなことをお認めになって、天皇の位を継がせようとなさいましたが、皇子はひそかに、孝徳天皇にお譲りしたいと申し述べました。
 なんという美しい「恭敬」でしょうか。
 皇極天皇はこれを受け入れて位を第三十六代孝徳天皇に譲り、皇子を皇太子にして、政治を補佐させました。
 孝徳天皇が崩御されると、皇極天皇が再び皇位につき、第三十七代齊明天皇となられました。
 齊明天皇が崩御されると、皇太子は仮の皇位におつきになり、先帝の葬儀を十分になさったのちに、正式に第三十八代の天智天皇となられました。
 天智天皇の生き方は「恭敬」であり、一度ならず天皇の位を別の皇族にお譲りになり、国民に模範を示されました。


(2)〔貝原益軒の謙遜〕

 江戸前期から後期にかけての有名な学者・貝原益軒は現福岡県の出身で、博識で著書も多く、社会の役に立つ人物でした。
 つぎのようなエピソードが伝えられております。

 あるとき大阪から帰ろうとして船に乗ったところ、同じ船に数人の人が乗り合わせました。
 みな姓名も郷里も知らないままに、いろいろな物語を話し合いました。
 その中に一人の若い男がおり、周囲の人を無視して聖典類の解説を延々と始めました。
 益軒は黙ってうやうやしくこれを聴いて、その過ちを論ずるようなことはしませんでした。
 船が岸についてから、全員が氏名・郷里を名乗ることになり、益軒も自分の名を名乗ったところ、若者は赤面して、自分の名も告げずに、逃げるようにして去ってしまったということです。


(3)〔江村專齋の節欲〕

「節慾」とは欲望を抑えることです。
 戦国の武将・加藤清正に仕えたことのある学者の江村專齋は、若いころから修行して、九十歳をすぎても目も耳も衰えず、壮年と変わりませんでした。

 第百八代の後水尾天皇が上皇になられてからこの話をお聞きになって、召して修養の方法をご質問なさいました。
 專齋はつぎのようにお答えしたそうです。
「常日頃、「些」(少しという意味)の一字を大切にするだけで、ほかに方法はありません」
 上皇がさらにその理由をご質問なさると、
「食事も「些」、思慮も「些」、生活も「些」のみです」
 ――と申し上げたので、上皇は大いにこれをお褒めになられたそうです。

 江村專齋は、「恭倹」を実行した学者だと言えるでしょう。


(4)〔徳川家康の倹約〕

 有名な徳川家康がある時、板坂卜齋という医学者に、壺の中の高価な人参を与えようとしました。
 両手でそれを与えたのですが、卜齋はその場の棚の上にあった奉書(命令を記して送る用紙)を一枚とって、それに包もうとしました。
 家康は機嫌を悪くして、
「それは大名たちに手紙を書くときに使う奉書である。必要のないときに使うものではない。人参は良薬であってお前たちに必要だからこそ与えるのだ。奉書は一枚といえども無駄にしてはいけない。羽織を脱いで受け取りなさい」
 ――と言いました。
 卜齋は恐縮して奉書を返し、羽織をひろげてうやうやしく受け取ったそうです。

 徳川家康もまた、「恭倹」を実行した武将だと言えるでしょう。


■■■■■ 第九章 博愛の大切さ ■■■■■


『博愛衆ニ及ボシ』

(訳:すべての人々に愛の手をさしのべましょう)


◆◆◆ 九・一 博愛とはなにか ◆◆◆


「わが身をつねって人の痛さを知れ」
「おのれの欲するところを人に施せ」
 ――とは、同情心に訴える道徳的教訓です。

 同情心はそれぞれの人が持っておりますが、これを拡大すれば「博愛」となります。
 したがって「博愛」とは、報酬を期待するのではなく、純粋に他人の利益を思う気持ちです。
 ですから、博愛は赤十字社事業のように、敵味方の区別なく世界中がみな兄弟であるとして、広くこれを愛する徳であります。
 かなり進歩した国民でなければ、この徳の発達はありません。

 博愛の徳は、人に対するだけでなく、鳥や獣にもおよぶものです。


◆◆◆ 九・二 博愛の順序と方法 ◆◆◆


 博愛を実行するにも、順序というものがあります。
 まず近くからはじめるべきです。
 自分の親兄弟を愛さないで、他人の親兄弟に親切にするのは、徳に反することです。
 日本人の利益を無視して他国民のために働くのは、許すべき事ではありません。
 自分に関係の深い人に十分な義務を果たして、その余力をもって広く他人を愛すべきです。

 もし仮に、愛に順序がなくて、世界中を平等に愛しなければならない――とすると、忠義や愛国といった道徳的感情は維持できなくなります。
 国民の道徳は、愛国心が最優先します。


(1)〔仁徳天皇の博愛〕

 仁徳天皇の御仁政については、前にも述べました。
 高台にお登りになって、民の家々に炊事の煙が上がらないのをご覧になって、国民の苦しみをお察しになり、三年間の免税を命じられたのは、まさしく博愛でありました。


(2)〔光明皇后の博愛〕

 光明皇后は、第四十五代聖武天皇の皇后です。
 光明皇后はとても慈善のお心が深く、まず病人のための施設を建設して施薬院という名をおつけになり、また孤児や貧困者のための施設を建設して悲田院という名をおつけになりました。
 これによって、寄る辺のない孤独な人も、身体に障害があって生活困難な人も、救われました。


(3)〔明治天皇の博愛〕

 第百二十二代の明治天皇の御仁徳は、国民がみな知っていることなので、いまさら申し上げるまでもありませんが、つねに困っている国民の救済を心がけておられました。
 社会福祉のための『恩賜財団済生会』を起こされたり、博愛の志のあつい人に藍綬褒章を授けられたりなされたり、その大きく広い御徳は、形容する言葉もありません。


(4)〔和氣廣虫の博愛〕

 和氣廣虫は奈良時代の有名な女性で、和氣清麻呂の姉にあたります。
 第四十六代孝謙天皇(女帝)にお仕えして、天皇に信頼されました。
 そのころ、藤原仲麿が反乱して死罪になり、その部下たち四百人以上も死刑になりそうになりました。
 そのとき廣虫姫は、これを哀れんで、天皇に死刑を思いとどまるよう訴えたので、天皇もこれを聞き入れて死刑を中止し、流罪に減刑なさいました。

 またある時、飢饉があって、捨て子が増えましたが、廣虫姫は路上の捨て子を拾って、八十三人もを自分で育てあげました。
 孝謙天皇は廣虫姫の志の篤いことをお褒めになって、葛木首という姓を賜いました。

 その弟の和氣清麻呂が弓削道鏡のために辺地に流されたとき、廣虫も備後(現広島県東部)に移されました。
 しかし第四十九代光仁天皇が即位されると、召されて元の役職に戻されました。

 光仁天皇は廣虫の人格を評して、
「私の部下は他人の悪をあばいて誹謗しあうが、ひとり廣虫だけは、いまだかつて他人の悪口を言ったことがない」
 ――と仰せになりました。

 これによっても、廣虫の品性が高潔であることが分かります。
 このような姉があるからこそ、清麻呂のような忠義の弟があるのです。
 廣虫と清麻呂姉弟の美徳は、世の中の兄弟姉妹の模範となるものです。
 廣虫はのちに正四位上に進み、典侍(宮中の女性の役職の一つ)となり、七十歳で没しましたが、当時としてはとても長生きでした。


(5)〔奥貫友山の博愛〕

 奥貫友山は現埼玉県の川越の人ですが、幕府に仕える儒学者の成嶋錦江の門人で、青木昆陽や中村蘭林の友人でした。
 江戸中期の寛保二年(一七四二年)、関東に大洪水が起こり、川越の近くはもっとも大きな被害がありました。
 友山は被災者を見かねて、父親と相談して自分の家の米蔵を開いて粥を与え、老人・子供には一人に四升ずつ米を配りましたので、被災者がたくさん集まりました。
 わずかの間に米が無くなったので、自分の金で四方から米を買い集めて救助しました。
 その金もすぐに尽きたので、自分の田地や家屋敷を抵当にして江戸の富豪から金を借りて救助しました。
 こうして、その年の十月から翌年の四月までに友山によって救われた村は四十八、人数は十万六千人以上になりました。
 川越侯は、友山の志に感心して、召して衣服と刀を与えました。

 この少し前、幕府は、飢えた人たちが離散してしまうのを心配して、村から遠く離れるのを禁じましたので、被災者がお米をもらいに行くことができなくなりました。
 友山はこれを失政と考え、師の成嶋錦江の賛同を得て、幕府に進言したので、その禁止令はすぐに解かれました。
 そして金持ちたちが私財を使って飢えた被災者を救いましたので、餓死をまぬがれた人が何万人にもおよびました。
 友山たちは、まさに儒学のかなめを知ると言えるでしょう。

 のちの明和年間(一七六四〜七二年)に、今の埼玉茨城などの地方に飢饉がおこりました。
 このとき貧しい人たちがお金持ちを脅かすなど乱暴をしました。
 友山の家にも乱暴をはたらこうとしたとき、ある人が、昔の友山が被災者を救ったことを大声で述べたので、人々は乱暴をやめ、家の門を拝んで立ち去ったということです。
「積善の家に余慶あり」
(良い事をおこなうと、その子孫までが感謝される)
 ――とはこういう事を言うのでしょう。


(6)〔瓜生 岩の博愛〕

 瓜生岩は、幕末から明治にかけての現福島県の人で、十七歳で商家に嫁入りしましたが、三十四歳のときに夫が病死したので、いまの喜多方市に移りました。
 やがて戊辰戦争がおこり、会津藩士の家族の多くが喜多方に逃げてきましたが、住む家も食事もなく苦しんでいました。

 瓜生岩はこれらの人たちを自分の家に泊め、私財を使って食事や衣服を与えました。
 また、藩士の子弟が父兄を失って離散して悪い習慣に染まるのを見て嘆き、有志を誘って国の許可を得て「幼学所」という施設をつくって、九歳から十三歳までの五十人以上の児童を集めて読み書き算術を教えました。

 明治六年になると、自宅に「貧児養育所」を設け、明治二十年には福島市に「救育所」をつくり、貧しい子供達を教育しました。
 明治二十四年には近くの有志の人たちに勧めて、各地に「育児会」を起こさせました。
 また、震災や日清戦争に際しても、多くの人たちを救いました。
 明治天皇は、明治二十九年には、藍綬褒章を賜って、その善行を表彰なさいました。
 瓜生岩は、明治の廣虫とでも言うべき女性でありましょう。

     *

 ところで、博愛心の大小は、人種によってずいぶん違います。
 最近のヨーロッパ人は、口では万国平和を唱え、赤十字社事業などを説いておりますが、彼らの戦争のやり方を見ますと、敵をひどく虐待しており、赤十字社の主旨はどこに行ったかと疑います。
 これに対してわが日本の国民は、日清・日露の戦役におきましても、また第一次大戦におきましても、負傷したり降伏したりした敵兵をいかに丁寧に扱ったかは、世の中がみな認めていることです。
 日本の国民は、戦争中において赤十字の主旨を尊重した唯一の国民です。
 口で博愛を唱えなくても、それを実行する国民です。

 やたらと口で博愛を唱えながら、これに反する行動をとる外国の国民と、どちらが優れているでしょうか。


■■■■■ 第十章 勉強して自分をみがくこと ■■■■■


『學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、コ器ヲ成就シ』

(訳:学問や教養を深め、職業に専念し、知識を養い、人格をみがきましょう)


◆◆◆ 十・一 学問や教養と人格 ◆◆◆


 国にとって役立つ人物になるためには、まず自分をみがく必要があります。
 自分をみがくには、よく勉強して学問や教養を身につけ、職業の訓練をし、知識を増やすことは必要ですが、これだけでは完全ではありません。
 人格をみがくことがもっとも大切です。

 社会や国家に貢献するためには、理屈を明らかにして、自分の活動が間違わないようにしなければなりません。
 そしてそのためにこそ、知識を増やすことが必要なのです。
 知識を増やすには、勉強が必要です。

 とくに天皇になられるお方は、そのための学問が必要です。
 このような種類の学問を「帝王学」と言います。


(1)〔源義家の勉強〕

 源義家は平安時代中後期の武将ですが、学者で歌人の大江匡房に、
「惜しいことにまだ兵法を知らないな」
 ――とからかわれたことを恥じて、大江に丁寧に頼んで兵法を教わりました。
 のちに清原武衡を奥州金沢に攻めとき、防御の柵から数里はなれたところで、雁が列を乱して飛んでいるのを見て敵兵が隠れているのを知り、偵察してこれを見つけ、ついに武衡を平らげました。
 これは、義家が武将としての学問を勉強したからです。
 もし義家が大江の言葉に怒って兵法を学ばなかったとしたら、隠れた敵兵に討たれてしまい、武将としての名を残さなかったでしょう。


(2)〔蛍の光、窓の雪〕

 第九十九代後亀山天皇の御製に、

「あつめては国の光となりやせん わが窓てらす夜はの蛍は」

 ――があります。
 この御製は、伝承にある「蛍雪の功」をお詠いになったものです。

 昔の中国の偉人である車胤という人は、家が貧しかったので蛍を集めてその光で書物を読んで勉強し、また孫康という人は雪を積んでそれに反射する光で書物を読んで勉強して、立派な人になったと言われています。
 このことから、苦学して勉強して立派な成果をあげることを、「蛍雪の功」と言います。

 日本にも、わずかな光によって必死に勉強して国家のために尽くした人はたくさんおります。

**********

[(1)について――
 源義家は京都の石清水八幡宮で元服したので八幡太郎義家とも呼ばれた有名な武将です。
 多くの戦いに勝利し、東国に源氏の根拠地をつくりました。]


◆◆◆ 十・二 職業のための知識や技術を身につけること ◆◆◆


 学業を身につけて物事の理屈が分かっても、これを実地に応用しなければ意味がありません。
 したがって、身分や貧富に関係なく、なにか一つの職業の知識や技術を身につけて、国民としての義務を果たすべきです。
「一夫、耕さざれば必ず飢ゆる者あり。一婦、織らずんば必ず凍ゆる者あり。」
 と言いますように、一定の職業を持たない者は、国力の発達を阻害しております。
 とくに最近、世界の強国は、激烈な競争をしています。
 したがって一日怠ければ、一日国が退歩します。
 国民は、おのおのの職業に励み、国力の発展に尽くすべきです。

 なかでも、天皇としてのお仕事は、先祖の遺業を継承することにあります。
 これは国の発展に大きな影響を与えるものですから、天皇のお仕事にはとくに留意なさらねばなりません。

 また国民、職業の種類によって、立派であるとか無いとかいった差別をするべきではありません
 職業に貴賤はありません。


(1)〔スピノザの職業〕

 十七世紀のヨーロッパの哲学者スピノザは、眼鏡磨きで生活しながら思索を深めました。
 その卓絶した学識と崇高な品性とは、当時のヨーロッパの学会を驚かせ、尊敬を集めました。


(2)〔ダルトンの職業〕

 ダルトンは十八世紀から十九世紀にかけてのイギリスの化学者でした。
 化学に原子の概念を導入した学者としてその名は不滅です。
 しかし彼は終生私立の小学校教員に甘んじており、その生き方は、スピノザが眼鏡職人をしながら学問に貢献したのと同じく美談というべきです。

 国民は、自分の職業に対しては、一心に努力し、一時の苦労を嫌ってはいけません。
 日本の国民としての資格を得るには、努力が必要です。


◆◆◆ 十・三 『以テ智能ヲ啓發シ』――知的なレベルを高めましょう―― ◆◆◆


 よく勉強して職業を身につけることはまた、知的なレベルを高め、深い教養を得ることでもあります。
 現在の世界は、科学の発達を競い合い、国民に科学的精神を与えようとしています。
 日本の科学文明は、歴史は浅いとはいえ、半世紀で西欧の数世紀にわたる学術を自分のものにしました。
 これは知的な国民性がなければ出来ないことです。

 ところが、ヨーロッパに心酔する論者が、
「日本人は模倣的な国民であって創造の才能が無い」
 などと言うことがあります。
 こういう論者は、時代と社会の状態を見ておりません。

 日本が欧米諸国と交際するようになったのは最近のことです。
 それ以前は、知識は国内に限られていました。
 しかしそういう世界の学問知識を知らなかった時代においても、十七世紀の関孝和のごとく、ヨーロッパに負けない数学を研究した大学者が出ています。
 また十八世紀の伊能忠敬は、世界が驚くような日本地図をつくりました。
 われわれ日本人は、決して模倣だけで満足する国民ではありません。
 明治前に学問の進歩が遅かったのは、世界との競争が無かったからです。

 大和民族の知的水準が高い証拠として、シナの儒学が日本の学問となり、インドの仏教が日本だけで栄えていることがあります。
 そのうち、西洋の学術も日本で栄えるようになるでしょう。

**********

[杉浦重剛のこの予言は、九十年後の今日、正しかったことが証明されました]


◆◆◆ 十・四 『コ器ヲ成就シ』――人格をみがきましょう―― ◆◆◆


 人間が万物の霊長といわれるのは、人としての徳性を備えているからです。
 いかに秀才であっても、いかに博識であっても、高い道徳的な品性が無ければ、真の人間とは言えません。
 したがって、高い道徳的な品性を身につけることは、日本の国民のつとめるべき道であります。


(1)〔中江藤樹〕

 中江藤樹のことは前に記しましたが、わずか十歳のときに、儒教の書物である『大学』の中の、
「天子より以て庶人に至るまで、壱に是れ皆身を修むるを以て本と為す」
(第四・四節の(1)参照)
 ――という文章に感激して、学問を志し、忠孝の道に入り、ますます身を修め母に仕え、率先して子弟を指導しましたので、ついに近江聖人と呼ばれるようになりました。


(2)〔二宮尊徳〕

 二宮尊徳は、「報徳二宮神社」に神として祀られている幕末の偉人です。
 尊徳は子供のころからあらゆる苦労をしましたが、その境遇にうちかって、

『學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、コ器ヲ成就シ』

 ――という、『教育勅語』の教えを実践しました。

 尊徳は現在の小田原市の近くの農村で生まれました。
 家はたいへん貧しく、子供のころから家業を手伝いながら、読書にふけりました。
 山や野に働きに出るときも、かならず書を持って読んでいました。

 両親を病気で失ったため、十六、七歳のころ、伯父の家で暮らしましたが、その伯父は、農家に学問は不要だと言い、本を読むための灯りの油を使わせず、また読書するなら夜も仕事をせよと責めました。
 そこで尊徳は、川の堤防の空き地に油菜を植えてその種子で油をつくり、夜は縄や筵をつくって働き、家人が寝静まってからひそかに起きて、灯火を衣で覆って見つからないようにして読書しました。
 明け方まで読書したこともしばしばだったそうです。

 このように、ふつうの人にはとても我慢できないような苦難に耐えて、ついに人の道を悟り、荒地を開墾し、怠惰の風潮を直し、悪人をたしなめ、あらゆる方面で一身を犠牲にして努力しました。
 そのため、諸大名の財政上の顧問に招かれ、また師匠と仰がれ、『徳器ヲ成就』しました。
 このように、二宮尊徳は、模範的な国民と言えるでしょう。
 尊徳は、現在殿下が御滞在なさっておられる沼津の近くの人ですから、この地方には、その良い影響が残っているでしょう。

 以上は、模範的な国民の例ですが、殿下とされましては、

「どうすれば国民が学を修め業を習い知能を啓発し徳器を成就するようになるか」

 ――を学ばれるべきです。
 これは殿下の天職でございますから、枝葉末節に気をとられてはなりません。

 第五十九代宇多天皇は、有名な菅原道真を登用した天皇ですが、

「天皇というものは百科全書的な知識は持たなくともよい。国を治めるための大切な要点を学ぶべきである」

 ――と仰せになりました。

 やがては天皇におなりになる殿下としましては、この事にご注意くださいませ。


■■■■■ 第十一章 公共への貢献と法や秩序を守る精神 ■■■■■


『進ンデ公益ヲ廣メ、世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ、國法ニ遵ヒ』

(訳:すすんで社会公共のために貢献し、また法律や規則を守りましょう)


◆◆◆ 十一・一 すすんで公共のために貢献しましょう ◆◆◆


 前の章で、「学問や教養を深め、職業に専念し、知識を養い、人格をみがいて国家に役立つ人になるべき」ことをお話ししました。
 さらに先に進んで、民衆の幸福を考え、世の中に必要な事業を興して、国民の生活のために尽くすべきです。
 これを、
『進ンデ公益ヲ廣メ、世務ヲ開キ』
 ――というのです。
 これは前に述べました、
『博愛衆ニ及ボシ』
 ――の精神を拡張したものと言えるでしょう。


◆◆◆ 十一・二 歴代の天皇の社会公共のためのご努力 ◆◆◆


 歴代の天皇は、慈愛の心をお持ちで、率先して国民の生活を豊かになさいました。
 天照大神は、農耕や蚕を人々におすすめになられました。
 初代の神武天皇は農業をおすすめになられました。
 第十一代垂仁天皇や第十六代仁徳天皇は、貯水・治水につとめられました。
 第二十一代雄略天皇は蚕の普及につとめられました。
 第二十六代繼體天皇は農業を盛んにするための「みことのり」をお出しになられました。
 これらによって、歴代天皇の厚い慈愛を知ることができます。

 したがって国民たるものは、公共のために尽くすことが必要です。
 学校・図書館を建設したり、病院・孤児の施設・老人の施設をつくって不幸な人を救ったり、道路や橋を架けたり荒地を開墾したりして民衆のために尽くしましょう。
 これは人としてもっとも高度な事業です。


(1)〔野中兼山の公共のための働き〕

 野中兼山は、江戸時代前期に活躍した土佐の人でした。
 藩主の山内侯に仕えて新しい政治をおこない、土佐を改革した儒学者です。
 土佐の国はもとは長曽我部氏の領地でしたが、断絶してから多くの人が仕事を失いました。
 そこで兼山は浪人をつかって新田開墾をし、水利をはかって、できた農地を民が所有することを許しました。
 また、植林、海上交通、港改修、堤防、魚類繁殖などをはかりました。

 つぎのようなエピソードが伝えられております。
 兼山がかつて江戸に行った帰り、郷里の人に手紙を送って「土佐には無い蛤を一艘分持ち帰って土産にする」と記しました。
 人々は珍味を待っていましたが、帰国した兼山はその蛤をすべて城下の海に投げ入れてしまいました。
 人々が不思議に思って訊ねると、
「これは君たちに贈るものではない。君たちの子孫に贈るものだ」
 と笑って答えました。
 はたしてその後、海から多くの蛤が捕れるようになり、人々は兼山の考えの深さに感心しました。


(2)〔青木昆陽の公共のための働き〕

 東京の下目黒に「甘藷先生墓」という石碑があります。
 これは、江戸時代中期の有名な学者、青木昆陽のお墓です。
 この人が甘藷先生と呼ばれたのは、甘藷(さつまいも)によって公共の利益をもたらしたからです。

 昆陽は甘藷の栽培法を長年研究しました。
 甘藷は、凶作年の穀物の不足を補うことができます。
 また、穀物をつくることのできない痩せた土地にもよくできますので、これの栽培法の確立が望まれました。
 たまたま町奉行の大岡越前に昆陽の研究が知られまして、その紹介で『甘藷考』という書類を将軍に提出することができました。
 それがきっかけで幕府の「薩摩芋御用掛」という役職になり、甘藷の種を薩摩の国(九州)から取り寄せ、これを幕府の土地に植えて試したところ、良い結果が出ました。
 そこで『甘藷考』という本を作り、それとともに甘藷の種芋を伊豆七島、佐渡などに配布しました。
 こうして数年のうちに、東日本全体に甘藷の栽培が広まり、穀物が出来ない年には、これによって多くの人命を救うことができました。


(3)〔玉川庄右衛門たちの玉川上水設計〕

 江戸時代も第三代将軍・徳川家光のころになりますと、江戸の街は日に日に繁栄するようになり、東寄りの土地では、川や沼を埋めて家を建てる人が増えました。
 ところが井戸を掘っても清潔な水を得ることができず、人々は苦しむようになりました。
 将軍はこれを心配して、江戸町奉行の神尾備前守元勝に解決策を考えるよう命令しました。
 元勝はこれを友人たちに相談しました。
 たまたま玉川の村民に、水利の技術を持った庄右衛門と清右衛門の兄弟がおり、検討して、多摩郡羽村から玉川の流れを東方向にひくと、十三里ほどで江戸市中に達するという提案書をつくりました。
 元勝はこれを将軍に提出し、つぎの将軍家綱のときに、庄右衛門たちに、工事を命令しました。

 この工事は、承応二年(一六五三年)四月四日に開始され、翌年の六月に完成しました。
 水路は、武蔵羽村から四谷大木戸におよび、さらに堀をつくって芝虎ノ門にいたりました。
 堀の深さは八尺、広さは十八尺(尺はほぼ三十センチ)、その左右には分流をつくって、地中に溝を掘って水を流して、市民の飲料水にし、また消火に使いました。
 将軍はその功績を褒めて、玉川という姓を賜りました。

 庄右衛門たちの測量方法はとても簡単明瞭なもので、水路を決めるには、夜間に、近いところは線香の火、遠いところは提灯の明かりを人夫に持たせて、あちこちに移動させ、光の見えないことを一つの尺度として、高低や左右を推測し、水路を定めました。
 その技術の非凡さがわかります。


[(1)について――
 野中兼山については、事業のために民衆を使いすぎて恨まれるといった負の面もあったようです]

[(3)について――
 徳川家光は、徳川政権の基礎を確立した将軍として知られます。
 玉川上水は、現東京都羽村市から四谷までの水路で、江戸市中の飲料水から潅漑用まで多くの用途に用いられました。
 十七世紀としては世界的にきわめて優れた人工の水路として、高く評価されています。]


◆◆◆ 十一・三 法律や規則を守りましょう ◆◆◆


 国民として国につくす道は、

一 国の憲法を重んじる。
二 国の法律をよく守る。
三 国難が来れば国のために身を捧げる。

 ――の三つの徳です。

 日本には、昔から、憲法に相当するものがちゃんとありました。
 しかし――聖徳太子による群臣への教え、憲法十七条は別にいたしますと――文章化はされませんでした。
 行政法や刑法にあたる律令などはありましたが、国柄の基本を定めた憲法の条文化はなされておりませんでした。
 昔は物事や人々が素朴で、日本の国柄(国体)は自然のうちに出来て自然のうちに運営されていたからです。

 憲法が無いのに憲法があるのと同じとは、あたかも、健康な人が健康とは何かを知らないのと同じです。
 優れた国柄(国体)があってその条文化が無いのは、むしろ我が国の誇りであり、我が国民の美点なのです。

 しかし、政治が複雑になるにしたがって、文章で書かれた憲法が必要となってきました。
 そこで明治元年(一八六八年)三月十四日、明治天皇は、臣下たちをしたがえて、日本の先祖の神霊に誓って、『五箇条のご誓文』を宣言なさいました。
 これがのちの憲法の基礎となりました。

 明治二十二年(一八八九年)二月十一日、紀元節(建国記念日)において、『皇室典範』および『帝国憲法』を定め、これを先祖の神霊に告げて、一般国民に発布なさいました。
 これによって、日本の立憲政治の基礎が確立されました。
 なお『教育勅語』にある「国憲」とは、今では憲法のことを言いますが、昔は人として守るべき道のことを言いました。


(1)〔源頼朝は天皇と国民のあるべき姿を明白にした〕

 江戸時代の有名な歴史家頼山陽は、名著『日本外史』におきまして、鎌倉幕府をひらいた源頼朝が「天皇と国民のあるべき姿(君臣の分)」を明らかにしたことを絶賛して、

「頼朝は、国家とその未来のために、必要な政策を実行し、越えてはならない道を示した。それによって、天皇と国民のあるべき姿が明瞭になった。もし頼朝がそうしなかったならば、我が国にもシナのように皇位を侵す逆賊がつぎつぎに現れたであろう。頼朝の功績はその先祖に勝っている」

 ――と述べましたが、そのとおりでしょう。


(2)〔豊臣秀吉は天皇と国民の別を明らかにした〕

 豊臣秀吉が戦国を平定して日本で最強の武将になっていた文禄四年(一五九五年)に、明国の使者の李宗城、揚方享などが、
「秀吉を封じて日本国王と為す」
(秀吉を日本国の王に任命する――という意味)
 という文書と、国王としての金印・冠・礼服などの品を持ってきました。
 秀吉はこの使者と伏見城で会見しました。
 使者は文書や品々を渡しました。

 挨拶が終わって、秀吉は文書の内容を読ませました。
 するとそこに、「秀吉を日本の国王に任命する」という言葉があるのを知りました。
 秀吉は激怒して、冠や礼服や文書を床に投げ捨てました。
 これは、秀吉が日本の「天皇と国民の別」を内外に示したエピソードです。


(3)〔醍醐天皇と藤原時平〕

 平安時代の第六十代醍醐天皇は、教養のある優れたお方で、国民を大切にし、良い政治を行いました。
 人々はこの時代のことを「延喜の治」と言っております。
 しかしながら、平和がながく続いて役人たちの贅沢がひどくなりましたので、天皇はしばしば、贅沢を禁止する命令を出しました。
 ところが、それはなかなか実行されませんでした。

 時の左大臣の藤原時平は、贅沢な着物を着て役所に来ていました。
 天皇はこれを見て、

「私はしばしば命令を出して贅沢を禁じた。にもかかわらず、左大臣という最高の位にあるお前がその命令を破っている」

 ――と叱りました。

 時平は一ヶ月間、自宅にこもって責任を取りました。
 そのため、役人たちの風習が改まりました。
 醍醐天皇が時平を叱ったのは、まず最高の位の役人が法を守らなければ、下の役人や国民を導くことができないからです。


(4)〔羽田正養の法を守る精神〕

 江戸中期の末にあたる文化年中に、北海道の択捉島に事変が起こりましたので、幕府はお目付の羽田正養を蝦夷地(北海道)の奉行にして、至急その地に派遣しました。
 正養は武器や大砲を曳いて下総(千葉・茨城)の関所に着きましたが、あまりに急いだため通行券を忘れてしまいました。
 事変は一刻の猶予もありませんから、関所の役人に急ぐ理由を説明しましたが、役人は拒絶しました。
 そこで正養は通行券を取りに戻るあいだ、武器類を預かってくれるよう依頼しましたが、役人は規則に無いとしてそれも拒絶しました。
 そこで正養は多くの人や武器を引き連れて、通行券を取りに江戸まで往復し、やっとその関所を通りました。

 この関所の役人が、高い身分の人を恐れずに規則を守ったことと、正養が事変に駆けつける身にもかかわらず関所の規則に従ったこととは、ともに法を守る精神でありました。

**********

[この説のはじめにあります『五箇条のご誓文』を記しておきます。
一 広く会議を興し万機公論に決すべし。
 (万機公論とは政治は世論に従っておこなえという意味です)
一 上下心を一にして盛んに経綸を行ふべし。
 (経綸とは国を治めることです)
一 官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す。
一 旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし。
 (陋習とは悪い習慣という意味です)
一 智識を世界に求め大に皇基を振起すべし。
 (皇基とは天皇が国を治める事業の基礎という意味です)]

[(1)について――
 鎌倉幕府をひらいた源頼朝は、武家政権確立のためにかなり強引なこともしましたが、基本的には天皇や皇室を大切にし、また伊勢神宮なども大切にしていました。
 当時の頼朝の力をもってすれば、皇室を滅ぼすことなど容易でしたが、そのような事はまったくしようとしませんでした。
 このエピソードでも、(2)の豊臣秀吉のエピソードでも分かりますが、日本の歴史においては、武力において天皇の朝廷をはるかに上回る武将が支配した時代でも、天皇を滅ぼそうとはしないどころか、臣下としての礼儀を尽くしました。前に第一・二節で述べましたように、これこそが日本の歴史における「万世一系の誇り」です。]

[(3)について――
 醍醐天皇は善政で知られており、「延喜の治」は有名な言葉です。ある冬の寒い夜、服を脱いで国民の苦しみを知ろうとなさったエピソードなどが伝えられております。藤原時平は、菅原道真を追放したことで知られる大臣で、三十代で没したとき、その祟りで死んだのだと、人々が噂しました。
 なお時平の贅沢は、天皇の厳しさを皆に教えるためにわざとしたのだ――という話もあります。]

[(4)について――
 この時代は、ロシアが頻々として北方を侵略していました。択捉島も襲われました。またこの時代は、伊能忠敬が日本全土の地図をつくるために測量を続けたり、間宮林蔵が樺太が大陸と離れていることを発見(間宮海峡)した時代です。今考えますと、駆けつけるのが遅れて択捉(さらに北海道全土)がロシアに占領されてしまったら大変なことですから、この二人の法を守る精神には問題がありますが、当時の幕府には、外国からの侵略に対処する法が無かったことが原因でしょう。すなわち「有事法」が整備されていなかったための悲劇です。]


■■■■■ 第十二章 国の安全のために貢献し、先祖の教えを守ろう ■■■■■


『一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉ジ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。是ノ如キハ、獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ、實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ。朕、爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。』

(訳:非常事態が発生した場合は、身命をささげて国の平和と安全のために奉仕しなければなりません。これらのことは、善良な国民として当然のつとめであるばかりでなく、われわれの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的な美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、われわれ子孫の守らなければならないところです。それと共に、このおしえは、昔も今も変らない正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国に示しても、まちがいのない道であります。従って、わたくしも国民の皆さんと共に、父祖の教えを胸に抱いて、立派な徳性を高めるように、心から願い誓うものであります。)

[これが『教育勅語』のさいごの文章です。]


◆◆◆ 十二・一 有事のさいには勇気をもって国に尽くそう ◆◆◆


 日本に危険な事件が起こったとき――すなわち有事の場合――には、国民は正義の勇気を出して国に尽くさなければなりません。
 正義の勇気とは、正しい道を行こうとするときに示す勇気のことであり、別の言い方をすれば、正義によってわき起こる勇気のことです。
 公に奉ずとは、正義の勇気をふるって国のために一身を捧げることを言います。

 この正義の勇気に基づく奉仕には、三つの種類があります。


〔その一〕外国に対して。

 外国が日本の国柄を侮辱しようとする時には、国民は一致協力してこれに対しなければなりません。
 以下にその例を述べます。


(1)〔北條時宗〕

 鎌倉時代の中期、北條時宗が鎌倉幕府の執権(将軍を補佐する最高の位)だったとき、元のフビライが日本を侵略しようとしました。
 文永十一年(一二七四年)、第九十一代後宇多天皇の御代に、元の兵隊一万五千、朝鮮の兵隊八千、軍船九百艘をもって、対馬や壱岐を攻めて島民を殺し、博多に上陸して民家を焼き、人民を殺し財産を奪うなど酷い乱暴をしました。
 しかしたまたま大風大雨が起こり、敵の船は破損して、元の軍は夜のうちに逃げました。

 さらに弘安四年(一二八一年)、元の軍は再度、桁外れの大兵力で攻めてきました。
 兵隊は十万人以上、軍船は四千四百艘が、九州の海上に押し寄せました。
 このとき、第九十代の天皇だった亀山上皇は伊勢大神宮に「身を国難に捧げる」と祈り、時宗は全国の将兵を励まして、日本全体が一致協力して敵に当たりました。
 たまたま一夜、大風が起こって、敵船はことごとく沈没し、十万余の敵兵のうち帰ったのはたったの三人と言われています。
 これを「元寇の役」といいますが、日本国の大きな危機でした。
 この危機を乗り切ることができたのは、君主と国民が一致団結して立ち向かい、国民は正義の勇気をふりしぼって国に尽くしたからです。


〔その二〕内乱に対して。

 国家の危機は、外国と戦争する時だけではありません。
 歴史を振り返りますと、内乱が起こることも少なくありませんでした。
 この場合にも、一身を犠牲にして正しい道のために奮闘するべきです。


(2)〔楠木正成〕

 楠木正成は、第九十六代後醍醐天皇の御代において、はじめ鎌倉幕府の大軍を破り、のちには足利尊氏が反乱したので天皇のために湊川で討ち死にしました。
 その子孫も正成の志をついで身を犠牲にしました。
 正成がもしいなかったならば、その時代の日本はどうなっていたでしょうか。


〔その三〕国に背く役人に対して。

 国に背く役人(逆臣)が正しい道(正道)を乱そうとするときは、自分の身などは忘れて正道を行くべきです。


(3)〔和氣清麻呂〕

 和氣清麻呂は、僧道鏡が天皇の寵愛に慣れて、皇位を狙うようなことがあったとき、毅然として正道をつらぬき、皇室の安泰をもたらしました。

 また明治維新のときには、勤王の志士は天皇を中心にした日本国の正道を実現するために、あらゆる困難にうちかって、献身的に努力しました。


◆◆◆ 十二・二 有事のさいに国に尽くす行為は愛国心に基づいています ◆◆◆


 以上のように、日本の国民が有事に際して「勇気をもって国に尽くす」のは、「国を愛する」純粋な気持ちからです。
 ひとたび危機が起これば、厳しい態度で、最後の一人まで戦います。
 ある外国のように、一連隊の大軍が白旗をあげて降伏するようなみっともない態度は、われわれ大和民族の恥であります。

 日本人がこのような勇気を持った民族となった理由は、ひとえに、遠い先祖が「道徳的な国家」の実現を目指し、歴代天皇が「君主としての徳を身につけるよう努力なさった」からであります。

 殿下におかれましても、このことを深くご理解なさり、君主としての徳を磨かれるよう、希望するものであります。


◆◆◆ 十二・三 『以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。』――天地とともに永遠に栄える国でありますように―― ◆◆◆


 日本の国民たるものは、以上のもろもろの徳を実践して、万世一系の、天地とともに永遠に続く、「天皇を中心にした日本国」の発展に尽力するべきです。

 自分の徳を完成させ、他人に対して徳をおよぼし、自他ともに完全な行いを実践し、国家に対して徳をおよぼし、平時の務めをきちんと行い、有事のさいに徳をおよぼす・・・このようにしてはじめて、「天皇を中心にした日本国」の発展に尽くすことができるのです。


◆◆◆ 十二・四 『是ノ如キハ、獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。』――先祖の教えを守る立派な日本国民になりましょう―― ◆◆◆


 このような行いをする国民は、皇室を敬愛し、また先祖の教えを守り、孝行する子孫です。
 すなわち、前記の徳を完成させた国民は、「忠」と「孝」の双方を備えた国民なのです。


◆◆◆ 十二・五 『斯ノ道ハ、實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ。朕、爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。』――道徳的な国家を建設しようとなさった遠い先祖の教えは、古今東西を通じて間違いのない道であり、全国民が歩むべき道であります―― ◆◆◆


『教育勅語』に記されている道は、遠い先祖のお教えですから、その子孫である天皇は、国民とともにこれを厳しくお守りになってきました。
 この道は、古今東西を問わず正しい道です。
 これはじつに、普遍的で永劫的な真理というべきです。

 わたくし杉浦重剛は、この進講のはじめのところで、菊池大麓が、かつてイギリスにおいて、
「日本の教育の中心は『教育勅語』にある」
 と講演したとき、それを聞いたイギリスの教育家が、宗教以外にこのような権威のあるものは見たことがない――と、とても羨ましがったことを、述べました。

 わたくし重剛も、かつてあるイギリスの友人が、
「日本人は宗教がなくてもなぜこのように尊敬すべき国民になれるのか」
 と不思議がって質問してきたとき、
「日本には遠い先祖のお教えである『教育勅語』がある」
 ――と知らせましたところ、そのイギリス人はとても敬服していました。
『中外ニ施シテ悖ラズ』
(日本だけでなく外国に示しても間違いのない道)
 とは、このことによっても分かります。

 明治天皇は、

『朕、爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ』
(わたくしも国民の皆さんと共に、父祖の教えを胸に抱いて、立派な徳性を高めるように、心から願い誓います)

 ――と宣言なさいました。

 したがいまして、殿下におかれましても、ご自分で実行なさいますと同時に、どうしたら国民にこの道に進んでもらえるかを、お考えになってください。
 重剛はこのことを殿下に期待いたします。

    (大正四年三月、御進講終了)


■■■■■ 訳者によるあとがき ■■■■■


 これで、杉浦重剛による、少年時代の昭和天皇への『教育勅語』御進講ノートの現代語訳(意訳)を終わります。
 最後の部分は、時間が不足したらしく圧縮されていますが、そのかわり他の倫理の時間に補足されているそうです。

 とにもかくにも、文章が破綻するほどの重剛先生の熱情が印象的です。
 重剛は倫理学のご進講を担当した七年間ずっと、早朝の三時に起きて斎戒沐浴して準備し、六時に家を出て七時に御学問所に着き、八時からのご進講に備える――という規律を守り通したそうです。

 多感な少年時代にこのような教育をお受けになった昭和天皇が、後に「まれにみる名君(阿川弘之)」と讃えられる天皇におなりになったのは、当然だという気持ちがいたします。

 この『教育勅語』ご進講が終了した翌年の大正五年十一月三日、立太子の礼がおこなわれ、裕仁親王殿下は、正式に皇太子殿下となられ、世界中にお披露目されました。
 そして大正天皇の崩御によって、昭和元年(一九二六年)即位なさったことは、よく知られています。

 所功先生は、勉誠出版本の解説で、つぎのように記しています。
「・・・極東軍事裁判(東京裁判)の最中でも、戦災に打ち拉がれる国民を励ますため、自ら進んで全国各地を巡幸しておられる。その当時、この天皇を何とか軍事法廷に引き摺り出そうとしたW・ウエッヴ裁判長は、後年(一九六九年)児島襄氏から「天皇についてどう思いますか」と訊ねられた際、
「神だ。あれだけの試練を受けても帝位を維持しているのは、神でなければできない」
 と答えている(『天皇と戦争責任』文藝春秋刊)。」

 国民のために一身を投げうたれるお覚悟をきめた君主は、世界広しといえども、おそらく、日本の歴代天皇以外にはいないでしょう。

『教育勅語』の発布と廃止は以下のとおりです。
 発布:明治二十三年十月三十日
 廃止:昭和二十三年六月、国会で失効が確認
『教育基本法』の施行:昭和二十二年三月三十一日

 つまり、現在の教育基本法が成立した時は、まだ『教育勅語』は失効は確認されておりませんでした。
 という事は、現行の『教育基本法』は、『教育勅語』の存在を前提としていた事になります。
 にもかかわらず後に失効とされてしまった事が、戦後の教育の悲劇の始まりであると、多くの人が指摘しています。
 ソニーの創業者として有名な発明家の井深大氏も、戦後に『教育勅語』を無くしたことが大失敗であった――と述べています。

**********

『発明家を元気づけた昭和天皇のお言葉』

 最後に、訳者にとって印象的なエピソードをひとつ記しておきます。
 昭和天皇は、発明家を力づけたことでも知られています。
 それは、即位のときの勅語に、「創造を大切に」というお言葉があったからです。
 このことは、戦前の発明特許の本によく書かれております。

 大正十五年十二月二十五日大正天皇が崩御され、昭和天皇が即位されましたが、その直後の昭和元年十二月二十八日に、踐祚後の「朝見の儀」という儀式が行われました。
 そのときの勅語の一節が、日本の発明家たちの精神を大いに励ましたのです。
 問題の箇所は、
「・・・模擬ヲ戒メ創造ヲ勗メ日進以テ会通ノ運ニ乗ジ・・・」
 ――というものです。
 大まかな訳は、
(・・・模倣をやめ、創造に努力し、日に日に前進し、これによって世界の動きに遅れることなく・・・)
 ――でしょうか。

 これは、神武天皇以来の数多い「みことのり」の中で、はじめて「創造・発明」の重要性を説いたものだそうです。
 まさに画期的な勅語でした。

 名君だった昭和天皇はこのお考えをすぐに実行に移され、昭和五年十一月には、発明奨励に毎年一万円を下賜されることを決定します。
 また同年十二月十一日には、第一回の日本十大発明家を選んで、宮中にお召しになり、お食事を賜りました(賜餐の栄)。
 その中には、先般ノーベル賞を受賞された田中耕一氏が勤務する『(株)島津製作所』の創業者で、世界最高性能の蓄電池を発明した島津源蔵や、ビタミンを世界で最初に発見した鈴木梅太郎や、実用レベルのFAXを世界で最初に実現した丹羽保次郎などがおりました。
 第二回は昭和十四年五月で、その後この十大発明家は文化勲章に統合されました。

 ・・・というわけで、昭和天皇の名君ぶりがうかがえるのですが、では、このような神武以来の史上初のお言葉が、どうしてこの時、現れたのでしょうか。
 世間一般の常識的な御発言だという理解もあるでしょうが、それにしても、ヒントとなる何かが、ご進講の中にあったのではないか――と疑問に思っていたのです。

 で、杉浦重剛の『教育勅語のご進講』を読んでみましたところ、その中に、見つけました。
 ご進講第九回(本書の第十・三節)において重剛は、

「われわれ日本人は、決して模倣だけで満足する国民ではありません。明治前に学問の進歩が遅かったのは、世界との競争が無かったからです。・・・・・そのうち、西洋の学術も日本で栄えるようになるでしょう」

 ――と述べて、昭和天皇が日本人の独創性について劣等感を持たないように努めているのです。

 当時十三歳だった昭和天皇の御胸の奥深くに、この言葉が刻まれたのではないでしょうか。

 訳者は、文系理系を問わず『教育勅語』の精神を見直す時が来ているように思っております。


■■■■■ 『教育勅語』の原文と訳文 ■■■■■


◆◆◆ 『教育勅語』原文 ◆◆◆

朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗、國を肇ムルコト宏遠ニ、コヲ樹ツルコト深厚ナリ。
我ガ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世々厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源、亦實ニ此ニ存ス。
爾臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ、業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、コ器ヲ成就シ、進ンデ公益ヲ廣メ、世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ、國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉ジ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。是ノ如キハ、獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ、實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ。朕、爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。
  明治二十三年十月三十日
   御名 御璽

(尋常小學修身書巻六より/漢字はほぼそのままですが、読みやすくするための濁音・句読点・振り仮名をつけてあります)
(文末の「御名」とは、明治天皇のお名前である「睦仁」です。また「御璽」とは、天皇陛下の印のことです。大きさは九センチ四方で、「天皇御璽」と記されております。今上天皇陛下も、明治天皇と同じ御璽を使っていらっしゃいます)


◆◆◆ 『教育勅語』の口語訳 ◆◆◆

 わたくしは、われわれの祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、わが国民が忠孝両全の道を完うして、みんなで心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげてきたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さん、子供は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに助け合い、夫婦は仲むつまじく和ぎ合い、友達は胸を開いて信じ合い、また自分の言動を慎しみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで社会公共のために貢献し、また法律や秩序を守ることは勿論のこと、非常事態が発生した場合は、身命をささげて国の平和と安全のために奉仕しなければなりません。
 これらのことは、善良な国民として当然のつとめであるばかりでなく、われわれの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的な美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、われわれ子孫の守らなければならないところです。それと共に、このおしえは、昔も今も変らない正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国に示しても、まちがいのない道であります。従って、わたくしも国民の皆さんと共に、父祖の教えを胸に抱いて、立派な徳性を高めるように、心から願い誓うものであります。

(勉誠出版本の付録より/この口語訳は明治神宮や靖国神社で頒布している訳文とほぼ同じです。各章の冒頭の訳は、これに準じております)


◆◆◆ 『教育勅語』の小中高生向けのやさしい意訳 ◆◆◆

『教育についての明治天皇のお言葉』

 日本の教育問題について、天皇としての私の考えを述べます。

 われわれ日本人の遠い遠い先祖は、雄大な理想のもとに、道徳的な国家をめざして、この日本という国を建国なさいました。
 建国以来の長い歴史において、日本の国民が、国家や家族への愛情をもち、心を合わせて努力した結果、先祖の理想にかなう立派な成果をあげることができました。
 これは日本という国の優れた特質を示すものです。
 したがいまして、教育の根本もまた、建国時の理想とおなじく、道徳的な国家をめざすものであるべきだと、考えます。

 国民のみなさん。
 祖父母や父母を大切にし、兄弟姉妹は助け合い、夫婦は仲良く協力し、友人とは信頼しあいましょう。
 また、自分の言動をつつしみ、周囲の人たちを愛し、勉強にはげんで教養を深め、職業を身につけ、知識を増やし、人格をみがき、すすんで世のため人のために尽くすとともに、規則や法律を守りましょう。
 さらに、非常事態が起こった場合には、国家の安全と平和のために、一身をささげて努力しましょう。
 このような生き方は、善良な国民として当然のことでありますが、また日本という国の伝統的な美風でもあります。

 以上に述べましたことがらは、道徳的な国家をめざした遠い遠い先祖の素晴らしい理想と教えであり、それを実現することは、われわれ子孫の大切なつとめであります。
 この理想と教えは、時代が変わっても変わらない正しい道であり、広い世界にも通用する人間の生き方です。

 天皇である私も、国民のみなさんと一緒に、決して忘れずにこれを守ります。
 さいごに、すべての日本人が立派な人間になりますよう、希望いたします。

(これは訳者によるやさしい意訳です)


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