■□■□■ 我が国キリスト教の普及と『神道破斥』(オロモルフ) ■□■□■

▲古屋安雄教授の話。
 産経新聞に、国際基督教大学名誉教授で聖学院大学*教授の古屋安雄という方のエッセイ(聞き書き)が載っていました。
「武士道と伸び悩むキリスト教」
 という題です。
 古屋氏は、日本のキリスト教徒が、明治初年に禁教令が廃止されてから百年以上たつのに信者の数が1パーセントにならないこと、およびクリスチャンの平均信仰持続年数が2.8年にすぎない(教会に通いはじめても大部分の人は三年以内で居なくなってしまうということ)という現実に対しての解釈として、
「キリスト教を明治初年に受け入れたのは、元武士階級の知識人たちで、そのため知識階級の宗教になってしまい、大衆性が得られなかったためだ」
 ――という意見を述べていました。

*たしかレインボーブリッジとかいう北朝鮮がらみの怪しげな団体が関係しておりました。

▲オロモルフは違う意見です。
 大衆性が得られなかったという事は事実ですが、その原因を武士道にするのは、ちょっと変だと思います。
 プロテスタントとカソリックを合わせても、(たぶん確信的共産主義者と同じく)1パーセント以下にしかならないのは、「神道破斥」という思想にあるからだと思います。

▲『神道破斥』という本。
 これは、明治二年、イギリスから日本に来た宣教師のジョージ・エンソルが日本人の二川一謄の協力を得て書いた、神道を論破し排斥するための教則本です。
(当時の日本人が妖僧エンソルと呼んだ人です)
 キリスト教が仏教を排斥する本は、シナで布教していた宣教師が書いたのがありましたので、それを和訳すれば良かったようですが、神道は日本だけですので、来日してから勉強して新たに書いたのです。

▲『神道破斥』の内容。
 神道の信者の主張を宣教師が次々に論破する形式をとっている本ですが、その内容は当然ながら稚拙です。
 神道側の主張も稚拙ですし、それへの反論も稚拙です。
 しかしこれは、はじめて神道や神社を知った宣教師が書いたものですし、協力した日本人の神道知識もあいまいでしたから、無理もありません。
 思わず笑ってしまうような内容ですが、やむをえません。

▲『神道破斥』の本質。
 しかし、いかに稚拙であっても、この本は、キリスト教信者が日本で1パーセントを越えない理由を示しているように思います。
 そこにあります宣教師の言葉は、あくまでも論破であり排斥であって、何千年も前からその土地に住んでいる日本人の社会習慣や伝統を理解して融和しようという精神がまったく見られないのです。
 日本の神社の境内が、キリスト教徒であろうと無神論者であろうとイスラム教徒であろうと拒まない(そもそもそんな事は神主さんの意識に無い)のと対照的です。

 その昔日本に仏教が伝来したとき、一時的な混乱はあったものの――といっても宗教論争というよりも蘇我・物部といった豪族間の軋轢が実態だったようですが――比較的短期間の間に融和して、お寺と神社の区別すら分からないほどになってしまい、そのために仏教は日本の社会に根付きました。
(《伊勢神宮》にすらお寺ができました! さすがに遠慮して離れた場所だったようですが。それから、戦乱で中断していた《伊勢神宮》の式年遷宮を復活させたのは、寺院の尼さんたちの努力でした!)
 日本の仏教寺院の建築様式は、大陸からの影響はありますが、むしろ弥生時代の神道的建築の影響の方が強いと思います。つまり大工さんの感覚が無意識のうちに神道的なのです。
 さまざまな習慣もそうです。
 しかしキリスト教は今でも、一部の教徒が「靖国神社参拝反対」の裁判を起こすなど、日本の伝統文化(神道的な伝統)に歯をむき出しております。
 これでは、永遠に1パーセントを越えることは不可能でしょう。

▲もと上役の珍意見
 もう80歳を過ぎている、オロモルフのもと上役が、手紙をくれまして、相対論の計算をしてほしいと、言ってきました。
 エッと思って読んでみますと、それはキリスト教の問題でした。
 神が存在するとしますと、その神が動くことによって膨大な重力波が発生するであろう。
 それがどのくらいの強さになるのか、計算してみてくれ――という依頼なのです。
 さすがのオロモルフも呆然としまして、計算しませんでした。

 それで思い出しましたが、たしかヨーロッパの昔の哲学者が、神は存在するが、あらゆる場所に充満しているので身動きがとれず、何も出来ないでいる――と述べたとか。
 あいまいな記憶で申し訳有りませんが・・・。

 昔クリスチャンが身近に何人もいまして、オロモルフが理工系なのを知って、
「あのアインシュタインですら神を信じていた」
 ――といって勧誘しました。
 で、その後アインシュタインの伝記を書いた時に調べたのですが、どうやらアインシュタインは生活習慣としての信者ではあったけれども、神についてかなり皮肉な見方をしていたことがわかりました。
 たとえば、「粘性の無い物質」といった表現です。

▲新井白石
 江戸時代の天才政治家兼学者の新井白石と宣教師シドッティの対論は有名です。
『西洋紀聞』にあります。
 西尾幹二さんも、この新井白石の議論を重視しておられるようです。立場上明確には述べておられないようですが・・・。
 我が国におけるキリスト教問題を論ずるためには、欠かせない文献だろうと思います。


オロモルフの論考リストに戻る