■□■□■ 戦災孤児を救済した歴史上の女性たち(オロモルフ)■□■□■


▼戦災孤児と女性

 戦争が起こると、気の毒な戦災孤児が生まれます。
 大東亜戦争の末期は史上最悪の時代で、無数の戦災孤児が街を彷徨い、悲惨な人生をたどりましたが、彼らを救おうと立ち上がった人たちもおり、多くの施設ができました。
 私の知人に戦災孤児出身がおりましたが、ある女性が運営する施設で育ち、勉強がよく出来るというので期待されて、お金を出してもらって私立の大学にまで行きました。
 その施設の運営者に会ったことがありますが、いわゆる肝っ玉母さんのような人でした。
 昭和20年代の日本には、こういう女性の活躍が多く見られたようです。

 戦災孤児を救おうとする日本女性の活躍は、戦後に始まったものではありません。
 大正時代に後の昭和天皇に倫理をご進講した杉浦重剛のご進講記録は書物として残されていますが、その中に教育勅語ご進講の記録があります。

 杉浦重剛は、その中で、戊辰戦争で家庭を失った気の毒な孤児たち(戦災孤児)を救った瓜生岩(うりゅう・いわ)という女性の話をしています。
 口語訳して以下に示します。

▼瓜生岩の物語

 瓜生岩は、幕末から明治にかけての現福島県の人で、十七歳で商家に嫁入りしましたが、三十四歳のときに夫が病死したので、いまの喜多方市に移りました。
 やがて戊辰戦争がおこり、会津藩士の家族の多くが喜多方に逃げてきましたが、住む家も食事もなく苦しんでいました。

 瓜生岩はこれらの人たちを自分の家に泊め、私財を使って食事や衣服を与えました。
また、藩士の子弟が父兄を失って離散して悪い習慣に染まるのを見て嘆き、有志を誘って国の許可を得て「幼学所」という施設をつくって、九歳から十三歳までの五十人以上の児童を集めて読み書き算術を教えました。

 明治六年になると、自宅に「貧児養育所」を設け、明治二十年には福島市に「救育所」をつくり、貧しい子供達を教育しました。
 明治二十四年には近くの有志の人たちに勧めて、各地に「育児会」を起こさせました。
また、震災や日清戦争に際しても、多くの人たちを救いました。
 明治天皇は、明治二十九年に藍綬褒章を賜って、その善行を表彰なさいました。
瓜生岩は、「明治の廣虫」とでも言うべき女性でありましょう。

▼廣虫とは?

 上のご進講記録の最後に、「明治の廣虫」という言葉が出てきますが、それは『続日本紀』に記録された廣虫という女性で、孤児救済運動の先駆者とされています。

 皇室における、貧しい孤児の救済として有名な事績は、光明皇后による悲田院です。
 光明皇后は、第四十五代聖武天皇の皇后(藤原不比等の三女で702〜760)で、とても慈善のお心が深く、まず病人のための施設である施薬院をおつくりになり、さらに孤児や貧困者のための施設である悲田院をおつくりになったことで知られています。

 廣虫は光明皇后の皇女である孝謙天皇にお仕えした女性ですから、光明皇后の御心に深く影響されて、「孤児救済事業」に邁進したのだと想像します。

 その厳しい時代背景などとともに、かいつまんで記してみます。
(杉浦重剛先生のご進講にも廣虫の話は出てきますが、簡単なので、ここでは拙著『皇統の危機に思う』にある少し詳しい話を引用いたします)

▼廣虫の物語

◎混迷の時代背景

 八世紀中葉、奈良時代の中後期にあたる時代に即位なさったのが、女性天皇として知られる第四十六代孝謙天皇かつ第四十八代稱徳天皇(重祚/718〜770)です。
 この時代、第四十五代の聖武天皇や光明皇后が活躍して東大寺の大仏を建立なさったり、行基菩薩が伝説をつくったり、僧鑑眞が来日したりしました。
 すなわち、外来思想だった仏教が、とても盛んになった時代です。
 しかし、聖武天皇のあと、はやくも、その弊害が出てきました。
 盛んになった仏教の権威を背負った野心家の僧たちが、呪術をもって政界――つまり皇室――に進出し、血なまぐさい事件を起こすようになったのです。

◎孝謙天皇・稱徳天皇

 聖武天皇をお継ぎになった第四十六代の孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の皇女で、たいへん気性の激しい女帝だったといわれています。
 御気性の面では、地味で穏やかであられた聖武天皇の前の元明・元正両女性天皇とは大きく違っておられました。
 聖武天皇の治世は、光明皇后の政治力が抜群であったためか、皇室における女性の地位が高く、「男女を問わず皇后所生の直系をたてる」という原則が――一時的だったようですが――できて、史上唯一の女性皇太子になられた方です。
(この時代前後は役人にも女性が多くおり、男女の待遇の差も少なかったようです)

 そのあと、淳仁天皇が第四十七代をお継ぎになりましたが、そこで惠美押勝のクーデターという大変な事件(764年)が起こり、お気の毒な淳仁天皇(733〜765)は淡路島に流されて(たぶん)自害なさいました。
 このクーデターには、すでに譲位・剃髪していた孝謙上皇も深く関与しておられました。
そして重祚して、第四十八代の稱徳天皇になられました。
 このことだけでも、この時代がいかに危機的だったかが分かります。
 この大変な時代にあって、皇統断絶の危機を救ったのが、和氣の姉弟でした。

◎和氣廣虫と和氣清麻呂

 和氣廣虫(730〜799)は、現岡山県の豪族*の娘で、光明皇后にお仕えする役人だった葛木戸主と結婚しました。
 しかし夫が若くして没したため未亡人となり、そのあと、退位なさっていた孝謙上皇の側近の女官として活躍しました。
 能力抜群の女性だったらしく、上皇に重用され、西暦762年に上皇が剃髪なさったとき、それに従って剃髪して、法均と号しました。
 そして、上皇が重祚して稱徳天皇になられてからもお側に仕え、のちには第四十九代の光仁天皇(709〜781)にもお仕えしました。

 一方廣虫の弟である和氣清麻呂(733〜799)も、孝謙天皇の時代に皇室に登用され、惠美押勝の乱に功をたてて、皇室内で重きをなしました。
 文武両道に優れた人材だったようです。
 波乱の人生でしたが、第四十九代の光仁天皇や第五十代の桓武天皇(737〜806)にもお仕えし、平安遷都にも功績があったと伝えられております。

(*)厳密には藤野和氣(または別)真人という氏族の出らしい

◎怪僧・弓削道鏡

 この時代は、仏教の権威を笠に着た僧たちが勢力を伸ばしたわけですが、その典型が弓削道鏡でした。
 道鏡(?〜772)は、大阪府河内の出身で、出身地の名をとって弓削道鏡と言われました。
 家系については、それを飾り立てる伝説はいろいろとあり、弓削とは弓をつくる一族をあらわしますが、実際には無名の一族の出だったようです。
 秀才だったらしく、当時の流行の仏門に入り、サンスクリットを学び、葛木山で修行して呪術を修得し、看病禅師として名をあげました。
 看病とは、祈祷(と若干の医薬)によって病気を治すことです。

 そして東大寺に移り住み、西暦761年に孝謙上皇のご病気を癒したということで信用されて、皇室に入り込みました。
 惠美押勝のクーデターの結果として孝謙上皇が重祚して稱徳天皇になられますと、ますますお側に侍って歓心を得、最高の位にまで上り詰めました。
 そして横暴な政治をなすようになりました。

◎惠美押勝の乱

 惠美押勝は元の名を藤原仲麻呂(706〜764)といい、藤原一族のなかでもひときわひかる天才的な政治家でした。
 数学的な才能で信用されたともいわれ、光明皇后の信任をえて、大仏建立にも貢献しました。また養老令の施行にも手腕を発揮したといわれます。
 聖武天皇が退位なさってから、さらに力を伸ばし、聖武天皇が期待しておられた皇太子を策略で廃して、自分の推す皇族を新たに皇太子にすえたとされています。
 このお方が第四十七代の悲劇の淳仁天皇です。

 しかし、道鏡が孝謙上皇の歓心を買って出世したため、自分の立場が危うくなり、反発して西暦764年9月にクーデターを起こします。
 この時代、横暴な新羅を征伐するための軍備を整えておりましたが、その兵力の一部を味方にして、クーデターを成功させようとしたのです。
 しかしそれは失敗し、妻子とともに官軍方に追われ、斬られてしまいます。
 惠美押勝の推した淳仁天皇も淡路島に流され、そこで自害なさいます。

◎和氣廣虫の諫言と孤児救済

 これによって孝謙上皇が新たに重祚なさって稱徳天皇となられるのですが、そのとき、反乱軍の側に連なってしまった人たちへの処刑がなされようとしました。
 その人数は、375人もおりました。
 このとき、敢然として稱徳天皇に諫言したのが、和氣廣虫です。
 やむをえず連座してしまった多くの人たちまで死刑にするのは、徳をもって国民に臨む皇室の伝統に反する――というわけです。
 稱徳天皇は勝ち気なお方ですが、怜悧でもあられたので、信用のあつい廣虫の諫言を受け入れて、死刑を中止しました。

 この件について、『続日本紀』につぐ正史『日本後紀』には次のようにあります。

 連及當斬者三百七十五人。法均切諌。天皇納之。減死刑以處流徒。

 これは、神武以来の「君主の徳」が守られた一幕でした。

 さて、その和氣廣虫は、夫の存命中にも、都の路地で孤児となっていた子供10人ほどを養育していましたが、このクーデターや飢饉で多くの孤児が出たことを知って心を痛め、83人もの孤児を引き取って養育し、自分の養子にしました。
 廣虫のこの行動は、光明皇后の慈悲の御心を受け継ぐものでもあったと思います。
この業績によって和氣廣虫は、葛木首(おびと)という姓(かばね)を賜り、後に日本の(あるいは世界の)「孤児救済事業*」の先駆者と言われるようになりました。
(*)私は戦災孤児救済事業と呼んでいます。

◎道鏡の専横と太宰府神官の上奏

 政敵だった惠美押勝がいなくなってから、道鏡はますます増長し、稱徳天皇を操るようになってきました。
 そしてついには、自分が稱徳天皇のあとを嗣いで天皇になろうという、とんでもない野心を持つにいたりました。
 そんなとき、九州の宇佐八幡宮の神託事件がおこります。
 西暦七六九年のことです。

 太宰主神(太宰府の神官の最高位)中臣習宜阿曽麻呂なる人物が、宇佐八幡宮の神のお告げがあったとして、

「八幡神教言。令道鏡即皇位天下太平。(『続日本紀』)」
(道鏡を皇位に即かしめたならば、天下は必ず太平となろう、という八幡の神のお告げがあった)

 ――と上奏しました。
 これが道鏡の策略であり、それに媚びた神官のゴマスリであった事は明かです。
 じつはこの神官の上司である当時の太宰府の長は、道鏡の弟だったそうです・・・。

 これは大変なことでした。
 万世一系どころではありません。
 さすがの稱徳天皇も疑問を持たれたらしく、側近女官で信用の厚い和氣廣虫に、
「宇佐八幡宮に行って、この神託が本当かどうか確認してくるように」
――と命じられました。

◎道鏡による籠絡と和氣清麻呂の毅然たる諫言

 おそらくは、和氣姉弟の相談や、道鏡の横暴に眉をひそめる人たちの相談があったのでしょう。
 和氣廣虫は健康上の理由でこれを辞退し、かわりに弟の和氣清麻呂が行くことになりました。
 この事態にすっかり喜んだ道鏡は、和氣清麻呂に、
「自分に都合の良い神託を得てくれば出世を約束する」
――といい、さらに清麻呂の一族に次々に高い位を与えました。

 大命を帯びた和氣清麻呂は宇佐八幡宮に参拝しましたが、そこで得た神託は、まったく違うものでした。
 すなわち、

我國家開闢以来君臣定矣。以臣爲君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。天道之人。宜早掃除。(『続日本紀』)
(我が国ははじまって以来君臣の別は定まっている。臣を君としたことは未だかつてない。天皇には必ず天皇の血統を立てよ。無道の人は早く掃討すべきである)

 ――というものでした。
 和氣清麻呂は、この神託を、死を覚悟して稱徳天皇に上奏しました。

 昔の神託というのは、要するに、高度の政治的判断あるいは政治的主張です。
 神懸かり的な経過をたどって得られる言葉ではあっても、それは政治家としての意見の一種です。
 この時代は、道鏡の周囲に集まる人々と、伝統を重んじてそれに反発する人々との間で激しいせめぎ合いがあり、そのせめぎ合いの中で、和氣清麻呂は、皇統の断絶を防ぐために、あえて権力者の道鏡に背く言葉を上奏した――というのが真相でしょう。

 この上奏によって、道鏡は怒り狂い、稱徳天皇はご不満ながらも、道鏡の即位はお許しになりませんでした。

◎和氣清麻呂・和氣廣虫の流罪とその間の事件

 怒った道鏡は、稱徳天皇の名によって、和氣清麻呂と和氣廣虫を流罪にしました。
しかも名前を、別部穢麻呂、別部狹虫と侮蔑的に変えてしまいました。
(現在でも名前を蔑称に変えられたら屈辱ですが、言葉(言霊)を重んじた当時にあっては、なおさら深刻な屈辱だったと考えられます)

 和氣清麻呂は、九州の大隅(鹿児島)に流されましたが、その途中で、きわどい事件がおこります。
 清麻呂を殺害しようと計る道鏡の家来が、旅の途中で襲ってきたのです。
 しかし幸いなことに雷鳴がとどろいてはたさず、そのうちに天皇のお使いが来て、殺されずにすみました。
 この事件について『日本後紀』は、

道鏡又追将殺清麻呂於道。雷雨晦瞑。未即行刑。俄而勅使來僅得免。

 ――と記しています。
 また、配流ののち、ひそかに生活の糧を送った重臣もいたとされます。
 皇室を囲む人々の間で、道鏡への批判と和氣清麻呂たちへの同情が強かったことがうかがえる伝承です。

 一方姉の和氣廣虫ですが、流された先は現広島県でした。
 ここは廣虫の出身地の近くです。稱徳天皇も、配慮なさったのでしょう。

◎光仁天皇による復権

 この大事件の直後に、稱徳天皇は崩御なさり、そのあと、天智天皇の御孫にあたる光仁天皇が第四十九代として即位なさいました。
 このとき光仁天皇は六十一歳であり、皇族の中でもまったく目立たない御方でしたから、異例の御即位でした。
 そういう皇族であったため、将来天皇になられるとは思ってもおらず、したがってお妃の中には、身分の低い女性もおりました。
 その中の一人に百済系を自称する無名の家の出身者がおり、その女性が次の桓武天皇をお生みになりました。
 これが、かつて今上天皇陛下が「日韓の関係の深さ」を物語るエピソードとしてお話しになり、物議をかもしたお妃です。
(このエピソードのナンセンスさにつきましては拙著『女性天皇の歴史』に書いておきました)

 さて、光仁天皇は、それまでの皇室の乱れをよくご存じでしたから、老齢ではあられても、乱れの是正に力をそそがれ、即位なさったその年に、道鏡を遠方の栃木県の寺の責任者にして都から追放し、和氣清麻呂と和氣廣虫を京へお戻しになりました。
 道鏡はそれから二年ほどして、病没しました。

 光仁天皇は和氣廣虫の博愛と潔い態度を、次のようにお褒めになったそうです。

諸侍從臣。毀譽紛紜。未嘗聞法均語也過。(『日本後紀』)
(私の部下は他人の悪をあばいて誹謗しあうが、ひとり廣虫だけは、いまだかつて他人の悪口を言ったことがない)

 清麻呂はむろんですが、廣虫も面目をほどこし、正四位上にすすみ、没後には正三位を追贈されました。

◎神として祀られた和氣の姉弟

 和氣清麻呂と和氣廣虫は、現在、京都市上京区の『護王神社』に祀られています。
 清麻呂は断絶の危機から皇統を救った大忠臣として崇敬されており、姉の廣虫も、弟に協力した忠臣として尊敬されております。
 さらに廣虫は、「孤児救済の先駆者」であるため、この神社には『子育明神』という別称もあります。

◎感想

 クーデターで重臣が殺され、天皇ですらお命を失うような時代に、勝った方の天皇に「諫言」するのですから、和氣廣虫も清麻呂も命がけでした。姉弟ともに死を覚悟していたに違いありません。
 しかしこの「諫言」によって「皇統」は保たれました。
 まさに危機一髪でした。

 和氣廣虫がクーデターによる刑死者を救い、「君主の徳」を守った「諫言」もまた、命がけだったと考えられます。
 厳しい姿勢の孝謙上皇と怒り狂う野心家の道鏡に対する諫言だったのですから・・・。
また同時に廣虫は、「孤児救済事業」によって、皇室が「博愛の精神」をもっていることを国民に知らせました。
 この「博愛の精神」を強調しているのが教育勅語の「博愛衆ニ及ボシ」という一節です。

 注意すべきは、このような重大な事件が続き、殺伐とした雰囲気だったにもかかわらず、 横暴をきわめた道鏡が死刑にはなっていないという事実です。
 皇位を狙うような悪いことをしたのに――です。
 現在とは違いますから、遠い地方の低い身分への転職は事実上の抹殺ではありますが、とはいえ一応は職につけているのです。
 権力者が交替するたびに、前権力者の側近たちを大勢虐殺してしまう外国の王朝とは、たいへんな違いです。
 まさに「君主の徳」でありましょう。

▼女性による戦災孤児救済事業

 ――の日本における先駆は、史書に記された範囲では和氣廣虫だと思いますが、外国については存じません。
 きちんとした資料が残されている女性としては、世界でも和氣廣虫が最古ではないでしょうか?

 和氣廣虫や和氣清麻呂の物語は、私が小学校の時に習った「国史」では、一つの独立した節をなしていて、印象に残りました。
 そこには、清麻呂の忠義はもちろん、廣虫が孤児を救済した事もちゃんと書かれていました。
 しかし戦後は、扶桑社の中学用教科書にすら書かれていません。
(明成社の高校用日本史にはチラっと出ています)
 現在の道徳教育では、こういう偉人伝こそ教えるべきだと思います。ただ単に命は大切・・・といったお題目を唱えるのではなく・・・。


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