■□■□■ 台湾の少女サヨンの物語(オロモルフ)■□■□■


◆◆◆ 1.台湾の少女サヨンとは ◆◆◆

 これは一部ではよく知られた話なのですが、記者の山田智美さんがあちこちに紹介しておられます。ここでは『台湾の声』の記事を元に、かいつまんで記します。

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 昭和十三年の台湾の話です。
 宜蘭県南澳の山中深く、タイヤル族の村で警手兼教師の任務についていた田北巡査のもとに出征の命令が届き、山を下りることになります。
 人格者として村人に慕われていた巡査だったので、村の若い男女が荷物運びを手伝いました。
 あいにくその日は暴風雨で、村から麓まで行く途中の南澳渓は水かさが増しており、渡ろうとした少女サヨンは、丸木橋から足を滑らせて漆黒の激流に飲み込まれてしまいます。年のころ十六、七歳だったそうです。
 この悲劇は間もなく台湾総督・長谷川清大将の知るところとなり、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にしたということで、愛国美談として顕彰されます。
 サヨンの遺族には長谷川総督より「記念の鐘」が贈られ(この鐘は国民党下で行方不明になったらしい)、「愛国乙女サヨン遭難碑」も遭難場所付近に建てられました。
 李香蘭主演の日活映画「サヨンの鐘」も制作され、西條八十作曲、古賀政男作詞の唄『サヨンの鐘』は台湾全島で流行し、サヨンの悲話は台湾全土に広まりました。この唄は中国語に翻訳されて現在も歌い継がれているという話。
 台湾が国民党に接収されると、サヨンの碑は碑銘を削り取られ、川岸に捨てられましたが、これを地元民が引き上げて、現在は新しい記念碑と並んで南澳南渓の傍らに建っています。
 サヨンが遭難した武塔村では、小学校の教材に「悲しくも感動的な師弟物語」としてサヨンの物語が載っているそうです。
 また、武塔村と、交通が不便だった金洋村を結ぶ念願の橋が完成したとき、この橋は「サヨン橋」と名づけられました。
 さらに断崖の臨海道路、「蘇花公路」に面した武塔村サービスエリアには、神社の鳥居を模したモニュメントと鐘が吊るされたサヨン記念公園がつくられました。
住民の殆どはキリスト教徒ですが、日本と関わりのある鳥居のデザインにしたかったからだそうです。
 戦後、国民党による反日教育が行われてきた台湾ですが、地元では師弟愛を通じた強い親日感情が今でも生きづき、美談として語り継がれています・・・。

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 以上が山田智美さんのエッセイの概要です。
(少女の名前のサヨンって、どういう意味なのか分かりませんので、もしご存じの方がおられたらお教えください)


◆◆◆ 2.日本の歌謡曲としてのサヨン ◆◆◆

 さて、この物語を、日本の歌謡曲(古賀メロディ)の側から見ると、どうなのでしょうか。
 まず、歌詞を記します。西條八十の詩です。

『サヨンの鐘』

嵐吹きまく峰ふもと
ながれ危うき丸木橋
渡るは誰ぞうるわし乙女
紅きくちびるああサヨン


清き乙女の真心を
誰か涙に偲ばざる
南の島のたそがれ深く
鐘は鳴る鳴るああサヨン

(哀愁に満ちた古賀メロディです)

 山田さんの記事では、古賀政男の『サヨンの鐘』が同名の映画の主題歌のように読めますが、事実はちょっと違うようです。古賀全集にある解説を元に記してみます。

 昭和16年の夏に新聞でこの話を読んだ歌手の渡辺はま子が感激して働きかけ、台湾総督府の後援を受けてこのレコードを制作し、自ら歌いました。
 昭和16年の11月に発売になったのですが、ほとんどが台湾に出荷されたため、内地では入手困難になりました。
 ちょうどこのころ台湾では、サヨンの悲話が評判になり、「サヨンの鐘」が朝夕に鳴らされていましたので、この歌はたちまち台湾全体で愛唱されるようになりました。

 山田さんの記事ではサヨンが敬愛していた田北氏は警手兼教師とされていますが、最初の新聞記事では「小学校教師」とされたが実際は警察官で、いずれはサヨンを妻にして一生を高砂族のために捧げる決心をしていたのだそうです。
 だから皆に慕われていたのですね。
(それから、サヨンは丸木橋ではなく鉄橋から落ち、田北氏も濁流に飛び込んで助けようとしたが不可能だった――という説もあるそうです。もうひとつ、鐘についてですが、台湾中から寄付が集まって作られたという話もあります。複数あったのかもしれません)


◆◆◆ 3.映画『サヨンの鐘』 ◆◆◆

 二年後の昭和18年になって、松竹・満映が映画『サヨンの鐘』をつくりました。李香蘭などが出演したようです。
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 ところが制作者側が、曲がすでにある事を知らなかったために、上の曲は主題歌にならず、別に主題歌が作られました。
(渡辺はま子は『サヨンの鐘』を主題歌にしてほしいと願ったそうですが)
 その別の歌が、李香蘭が歌った『サヨンの歌』で、作詞作曲は『サヨンの鐘』と同じ黄金コンビです。
 歌詞は悲歌というよりも南の島の乙女という雰囲気です。

『サヨンの歌』

花を摘み摘み山から山を
歌いくらして夜露にぬれる
わたしゃ気ままな蕃社の娘
親は雲やら霧じゃやら
ハイホーハイホー


谷のながれが化粧の鏡
森の小枝がみどりの櫛よ
わたしゃ朗らか蕃社の娘
花と冠でひと踊り
ハイホーハイホー

(台湾の民謡的雰囲気を持った曲です)

 サヨンの恩師とされた田北氏は、台湾出身兵の部隊に入って献身的に活躍し高砂族などの部下に慕われ、戦後は無事に本土の郷里に復員したということです。

(この『サヨンの鐘』については、戦前の日本批判に結びつける論考もあるようですが、戦中の日本を見てもわかりますように、流行歌というものは政府が宣伝したから流行るとかしないから流行らないとかいうものではありません。ですから、台湾で大流行したという事は、日本人を慕う少女サヨンの物語と古賀メロディとが台湾の人たちの心に響いたということだと思います)

 なお戦時中の古賀政男の曲は、戦時中にふさわしくない哀愁のメロディが多いのですが、戦後に別の人の作ったヒット曲のメロディを先取りしているような部分がたくさんあります。
 真似とは言えないまでも、多くの作曲家が古賀政男から強い影響を受けていたことは確かだと思います。

[完]


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