■□■□■「沖縄と国旗」の戦後史(オロモルフ)■□■□■


 ときどき新聞や雑誌に、次のような説が出ております。

「沖縄県民は戦争中に大変な苦労をした。だから「日の丸」がすっかり嫌いになり、強制のとれた終戦(昭和20年8月)後は掲揚しなくなった」

 しかしこの説は、オロモルフの記憶とまったく合いません。

 四年ほど前、雑誌『正論』に保守系の若い論客――と思われる人――が、上のような事を書いていましたので、それへの反論を投稿し、投書欄に掲載してもらったことがあります。
 それは以下のようなデータ(主に毎日新聞による)によっています。

◎昭和24年1月1日
 占領軍のマッカーサーが、年頭の挨拶で、国旗掲揚を許可する旨の発言をしました。
 これを聞いて朝日新聞なども大喜びで、昭和二十四年一月三日の天声人語で「政府は無料で国旗を国民に配れ」と主張しました。

◎昭和27年4月28日
 本土の占領が終了し、沖縄はじめ数地域を除いて日本は独立国家として再生しました。 もちろん本土では日の丸の掲揚がどこでも自由になりました。

◎昭和28年8月
 日本弁護士会などが中心となって、東京裁判で戦犯とされた人たちの名誉回復を希望する大署名運動が起こり、その署名数はじつに四千万にも達しました。文字の書ける日本人の八割以上が署名したことになります。
 そして戦犯を赦免する国会決議が、共産党や社会党を含む全会一致で通り、それに伴って死刑になった旧ABC級戦犯たちも靖国神社に合祀されました。
(これらの合祀も、一般の戦死者の合祀も、靖国神社が勝手におこなったものではありません。大多数の国民の熱望とそれを受けた国会決議に基づいて、厚生省が遺族と神社の間にたってなされたのです。つまり国民の意思に基づく国家的行事としてなされたのです。いま、それをすっかり忘れた靖国議論がなされております)

◎昭和34年
 沖縄はまだ本土復帰がならず、県民の本土復帰の悲願はいやが上にも高まっていました。
 この時代の沖縄のメーデーには、赤旗と同時に日の丸が林立していました。
 そして、沖縄県民の強い要望を受けて当時の本土の社会党や総評は、「日の丸」を沖縄に贈る運動を起こし、20万枚もの「日の丸」を沖縄県民に贈りました。
 これは沖縄のすべての家に行き渡る数でした。
(面白いことに、現在入手可能な社会党史にはこの事がすっぽりと抜け落ちております。意図的に省いたとしか思えません。もう一つ面白いのは、当時の保守党はこういう運動はせず、左翼政党の方が、日の丸贈呈に熱心だったことです)

◎昭和35年秋
 アメリカで出されたコンロン報告という資料で「米民政府への不満が強くなると、沖縄では復帰運動がはげしくなる」と分析しています。
 もちろん復帰とは日本への復帰のことで、独立したいとか中国の一部になりたいといった甘えた意見は、当時の沖縄には有りませんでした。

◎昭和35年11月6日
 沖縄本島で九州各県陸上大会が開催され、戦後はじめて多数の本土の選手が沖縄に上陸しました。
 このときの沖縄県人の熱狂ぶりは大変なもので、選手を乗せたバスが通過する沿道には日の丸の小旗を手にした一万五千人もの人々が待ちかまえ、通過するとバンドが軍艦マーチを奏で、万歳がわき起こりました。
 また開会式には四万人もの県民が全島から集まり、君が代の吹奏とともに大日章旗がメインポールに揚がると、四万人の瞳はうれし涙に光りました。
 これは、戦後の沖縄の大きな行事の席で「日の丸」が掲揚された最初であり、沖縄県民が待ち望んだ光景でした。

◎昭和36年5月20日
 那覇市制四十周年の記念祝賀行事として、プロ野球沖縄シリーズ(東映−西鉄戦)が初めて行われましたが、このときの開会式でも、全員起立脱帽のもとに「君が代」の演奏と「日の丸」の掲揚がなされ、県民は感涙にむせびました。

◎昭和36年6月24日
 占領後の沖縄では、公共の建物に「日の丸」を掲揚することは禁じられていましたから、「日の丸」への渇望は大変なものでした。
 日本本土が占領から独立した昭和二十七年以後もそうでした。
 しかしこの日、沖縄の高等弁務官キャラウェー中将(当時の沖縄の支配者)が、つぎの声明を発表しました。
「米国は、琉球住民が琉球列島で認められている日本のすべての祝日、正月の三日間および琉球の祝祭日には、公共建物に「日の丸」を掲げることを喜んで許可する。この「日の丸」掲揚の許可は、琉球政府、立法院、裁判所、市公会堂および学校に所属する公共建物に適用される」
 沖縄県民は大いに喜んだわけですが、この声明は沖縄県民の強い希望に添って出されたものでした。
 先に沖縄県民の要求に留意したCLU(市民の自由連盟)がワシントンで、
「公共建造物に「日の丸」の掲揚を許可すれば、自然に沖縄住民の感情を満足させることができる」
 ――と政府に勧告していました。
 また当時の池田首相に対して、沖縄代表から国旗掲揚許可についての強い陳情が出されていました。
 池田首相はこの沖縄県民の要望を受けて、渡米中にケネディ大統領に談判しました。
 その結果、大統領も「日の丸」掲揚を認め、それが上記のキャラウェー中将の声明となったのです。

◎昭和39年10月
 中国が初の核実験に成功し、ソ連に負けじと共産思想攻勢を強め、また世界中への侮日プロパガンダを強めました。

◎昭和40年代前半
 これらに洗脳された人たちによる、沖縄での反米運動や左翼運動が激しくなりました。
 近隣国と国内反日家が連合した靖国神社反対運動なども強まりました。

◎昭和47年2月28日
 浅間山荘事件がテレビ中継され、過激派の実態が国民に曝されました。
 この時代はマスコミの多くは過激派の味方で警察を非難しておりましたが、このテレビ中継で一般庶民の見方がだいぶ変わりました。

◎昭和47年5月15日
 佐藤首相らの尽力によって沖縄県として本土復帰しました。佐藤首相退任。

◎昭和49年
 佐藤首相ノーベル平和賞を受賞。
 この受賞と沖縄返還との関係について多くの研究が発表されました。
 今でも時々論文が発表され、密約説などいろいろあります。

◎昭和40年代後半〜
 数年前にテレビで、宮古島の空港を自衛隊基地にという話が話題になっていました。
 沖縄県南端に近い宮古島の離れのような下地島(伊良部町)に日本でも有数の立派な滑走路(3000メートル)を持つ下地島空港があります。
 この空港はこれまでは練習に使用されていたのですが、使用する頻度は毎年少なくなり、収入も減っていました。
 伊良部町の町議会では、収入減と過疎の悩みを克服するためにこの空港を自衛隊に使ってもらう決議を、全会一致でなしました。
 しかし町の意見だけで決められる話ではなく、例によって反対運動が他の地域で起こって、もめている――という話です。
(その後どうなったのかは知りません)

 で、この空港を建設するときの映像がテレビにうつりましたが、そこでも大勢の人が手に手に日の丸を持って振っていました。
 完成は昭和五十四年、建設開始は昭和四十年代ですから、その時代に沖縄の人たちが皆日の丸を振っていたのです。

     *

 このように、先に記しました、

「沖縄県民は戦争中に大変な苦労をした。だから「日の丸」がすっかり嫌いになり、強制のとれた終戦(昭和20年8月)後は掲揚しなくなった」

 ――という言説はまったくの間違いなのですが、では、この間違った歴史――つまり捏造された戦後史――は、いつごろから一般的になったのでしょうか?

 オロモルフの記憶では、どうやらそれは、昭和四十年代のようです。
 昭和三十年代までは、東京の山の手の通りにも「日の丸」がたくさん掲揚されていましたし、それを不思議に思う人などおりませんでした。何か記念行事があると、「日の丸行列」などもやっていました
 これはオロモルフだけの記憶ではなく、家内の記憶とも一致しております。
 またNHKのプロジェクトXにも、昭和三十年代の一般の人たちが日の丸を振る光景が何度も何度も映っています。

 昭和四十年代は過激派の運動が熾烈を極めた時代でもあり、同時に隣国や大陸国家による対日プロパガンダ(戦前の日本をすべて悪とし贖罪を強要するプロパガンダ)が本格的になった時代でもありますが、教科書問題でも大きな事件がありました。
 田中卓博士の高校歴史教科書『最新日本史』が、日本神話にほんの少しだけ(わずか3パーセント!)触れているというだけの理由で文部省検定で刎ねられたのは、昭和四十一年のことでした。
(神話の記述については、この後で多少緩和されました)
 人材面でいいますと、明治生まれの人たちが社会の指導層から引退しはじめた時代でもあります。

 山本夏彦さんの有名な著書に『誰か「戦前」を知らないか』というのがあり、戦前についての誤った言説(捏造史)を叱っておりますが、歴史が捏造されているのは戦後も同じだと感じます。

 どなたか、本当の戦後史を国会図書館のマイクロフィルム新聞などで調べて、
『誰か「戦後」を知らないか』
 ――という本を書いてくださらないでしょうか?


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