■□■□■ 大山参り(オロモルフ)■□■□■

 家族揃って大山に参拝した記録です。


(0)大山とは?
 平成19年2月10日、建国記念の日の前日、家族一同で二度目の大山参りに行ってきました。
 大山とは丹沢山系の端に位置する、海抜1252メートルの円錐形の山容を誇る霊山です。
 神奈川県の地図を出しておきました。エンピツで描いた円の部分です。
 大山参りは江戸時代の人たちの信仰兼娯楽で、とても賑やかだったそうです。
 歴史の教科書にも、時々出てきます。
 大山講という講をつくって、山に登ってお参りするのです。
 江戸時代のお伊勢参りは有名で、たいへんな人出だったそうですが、大山参りはそれに次ぐ名物で、やはり相当な人出だったらしい。
 江戸からだけでなく、遠方からも多くの人が参拝に来たようです。

 大山が神として崇められた歴史はひじょうに古く、戦前に山頂から弥生時代の祭祀遺跡が発掘されていますが、戦後の山頂調査で、縄文土器が発見されました。つまり、縄文時代から祭祀がなされていたらしいのです。
 日本の神社を大和朝廷が公式に認めるようになったのは崇神天皇の時代と言われており、この大山もその時に公認されたそうですが、しかしその前身は遙か縄文時代からあったわけです。
 神社としては4000年の歴史と言っています。

 神社としての名は大山阿夫利神社と言います。阿夫利(あふり)とは雨降りから来たらしく、縄文時代からの山頂での祈りは雨乞いだったと想像されています。
 円錐形の緑豊かな山を神として崇敬する日本の習俗は縄文期からとされますが、大和の三輪山などと並んで、この大山はその典型です。
 大山からいくつもの川が流れ出していて、麓を潤しています。

 奈良時代以降、仏教が盛んになり、古くからの神道との習合の時代が来ますと、山頂に僧侶がお寺を建立して、大山も習合の時代に入ります。
 山岳はどこでもそうですが、それ以後修験道の山として栄えました。
 そして江戸時代になると、庶民の娯楽としての大山参りが盛んになるわけです。
 山麓には240もの宿坊(旅館)が出来、伊勢神宮と同じような御師が大勢活躍して参拝客をもてなしました。

 やがて明治になりますと、神仏分離の嵐で廃仏毀釈がおこり、旅館も御師も激減し、残った御師は先導師と名を変えますが、大山は純粋の神社として再興します。
 またお寺も、後に少し別の場所に小規模ながら再建されました。
 神仏分離以後、元一緒だった神社とお寺は仲の悪い事が多いと聞きますが、大山の場合は――分離の時は廃仏毀釈で大変だったようですが――神社関係者がお寺の再建に尽力したそうです。
 戦後は崇敬者たちの力で神社も綺麗になり、伝統を保っています。

 交通は、小田急線の伊勢原駅(伊勢原市)から北へバス30分で麓に着き、そこから石段を600メートルくらい登ってケーブルカーの駅まで行き、六分で大山阿夫利神社下社につきます。
 その途中に大山寺に参るための駅が一つあります。
 下社は山の中腹にありますが、山頂の上社まではそこから徒歩です。
 登山の好きな人でないと山頂までは無理で、それも先導師に案内して貰わないと危険です。
 距離は、伊勢原駅から大山山頂まで直線で約20キロです。

 大山阿夫利神社の御祭神は山そのものなのですが、神名としては大山祇大神(おおやまつみのおおかみ/山を司るという意味)、大雷神(おおいかづちのかみ)、高おかみの神(難しい漢字なので仮名で書きます)の三神。うち大山祇大神が主祭神です。伊弉諾尊が剣を振るった時に誕生なさった山の神様です。
 またその他に海人の守り神である鳥の石楠船神(とりのいわくすぶねのかみ)も祭られています。お山から遙かに相模湾、江ノ島などが見え、天気が良ければ山頂からは大島、房総まで見えることから、海で働く人たちの願いで祭られたそうです。
 神仏習合の時代、源頼朝よりの寄進など武将たちの寄進が多くあり、また徳川幕府からも寄進があったそうです。
 大山寺は神仏分離以後はこぢんまりとした別場所に移りましたが、元々東大寺の系列で、聖武天皇の勅願寺という位置づけです。不動明王は国の重要文化財です。



(1)駅前大鳥居
 小田急線の伊勢原駅を降りて北方向へ出ると、目の前にこの鳥居があります。
 順番で言うとこれが一の鳥居という事になります。
 左側には「大山阿夫利神社」と書かれ、右側には「関東総鎮護」と書かれています。
 いささかキンキラキン。
 戦後、占領軍の神道指令が出て神社が圧迫され、宗教法人にならざるをえなかった時、それへの対処策として伊勢神宮を本宗とする神社本庁が出来、日本の神社の大部分はそこに属しましたが、阿夫利神社はそうはせず、独自に阿夫利神社本庁を組織して単立の宗教法人になりました。大山講が全国にたくさん有り、麓一帯には旅館(宿坊)やお店が数多くありましたから、かなり規模の大きな本庁だったと思います。
 その間のいきさつは存じませんが、ごく最近になって、神社本庁に属する事になったそうです。

 大山阿夫利神社は、歴史の重み、規模の大きさなどが桁外れですから、プライドも高かったのだろうと思います。
 そのプライドを示す言葉が鳥居にある「関東総鎮護」です。
 阿夫利神社の御神札の袋には必ず記されています。
 つまり関東地方全体の氏神様みたいなものだというわけです。
 この種の謳い文句の使用は、トラブルをおこしがちですが、ずっと使っているところを見ますと、関東全体に認められているのでしょう。
 たしかに、それだけの歴史の重みがあります。
 大山全体がご神体ですから、規模も雄大です。

 さて、この鳥居からが参道だとしますと、参道の長さは20キロもある事になりますが、もちろんここから先は普通の道路です。
 そしてその道路の途中に二の鳥居と書かれた鳥居がありますが、あまり目立つものではありません。



(2)社務所の入り口
 大山の社殿は山の中にありますから、事務的な仕事には不便です。
 で、社務所は麓の比較的手前にあります。
 ここはその入り口です。
 中はかなり広くて、立派な能楽堂があります。




(3)能楽堂
 大山火祭薪能は昔から有名ですが、それを保存するための立派な能楽堂が社務所の敷地内にあります。
 行った日は戸が閉まっていましたので、パンフレットの写真をお目にかけます。
 背後の松などの緑は絵ではなく本物ですから、迫力があります。
 私は能には無知なのですが、家内はたまに行くようです。



(4)えっちらおっちらと階段を
 社務所を過ぎてしばらく行くとバスの終点があり、そのすぐ上に、狭くて長い土産物店の列が続きます。長さ500メートルほどもあり、石段が次から次へと現れる通りです。
 この狭い登り道も参道と称しています。
 私の場合はバスは体にきついので駅からタクシーで行きましたが、タクシーは土産物街を行くことはできません。
 ただ、その左側にやっと一台が通る道がありまして、200か300メートルまでは登ことができます。
 で、そこから土産物街の途中に出て、えっちらおっちらと登ると、通りが無くなり、山の中の階段になります。
 それがこの写真(4)です。
 ここまで来ると、ケーブルカーの駅はまもなくです。



(5)始点の追分け駅
 ここがケーブルカーの下端の駅です。なぜこういう名前なのかは知りません。
「大山とうふまつり」という幟が見えますが、豆腐は大山の名物料理でして、一年中が豆腐祭りです。



(6)ケーブルカー
 ケーブルカーそのものはごく普通の形です。
 出来たのは昭和六年だそうです。戦時中は撤収されましたが、昭和四十年になって再開され、大山の人々は元気づいたとか・・・。
 役員を入れて22人で運営しているそうです。
 昔はこんなものは無しで、歩いて登ったのですから、欧米人も驚く健脚だったのは当然ですね。
 ちなみに私の祖母は幕末の生まれでしたが、物凄い健脚でした。九十歳過ぎても若い私より脚が丈夫でした!
 なお、ケーブルカーが出来る前は、線路のあたりまで店があったそうです。
 急な山道にたいへんな数の旅館や店があったのですね。



(7)不動前駅
 ケーブルカーの始点から終点までの間に駅が一つだけあります。
 不動前駅といって、大山寺へ参拝するための駅です。
 大山寺は前述のように神仏習合時代には大山の中心として栄えましたが、明治の分離令で逼塞し、元あった現阿夫利神社の場所より少し低い位置に、小規模ながら再建されました。
 再建は明治九年に起工し、八年の歳月をかけて竣工しました。
 ここにある不動明王は国の重要文化財で、そのため不動さんとも呼ばれ、駅名も不動前となっています。
 この写真の坂は登ったあとで撮ったのですが、駅からこうのような道をしばらく行きます。



(8)大山寺に近づく
 ひいひい言いながらしばらく歩くと、こういう場所に出ます。
 この左側の石段の上が大山寺です。



(9)大山寺
 これが大山寺です。
 質素な古寺という雰囲気です。
 このお堂の中にお守りなどを授与する場所があり、また、火にあたって休んでいる関係者らしい人もおり、じつに庶民的です。
 何しろ斜面ですから、お堂の前は狭い空間しかなく、柵から見下ろすと断崖です。
 かわらけ投げ道場というのがあり、下方に大きな輪があって、その輪を通ると縁起が良い――というので家族が投げてみましたが、まったく命中しません。かわらけは平板なのでまっすぐには行かないのです。
(テレビのミステリーで犯人がこの大山寺で手伝いをしながら潜んでいるシーンがありましたが、ちょっと無理ですね)



(10)終点の下社駅へ
 で、不動前駅に戻ってケーブルカーに再び乗って、終点の下社駅につきました。
 不動前駅から終点までせいぜい二分くらいしかかかりません。
 不動前で降りなければ、乗っている時間は六分です。
 さあ、いよいよ大山阿夫利神社です。



(11)駅から神社への道
 駅からしばらくこの道を歩いてから左に折れます。
 ぞろぞろと歩いていますが、あたりが急に暗くなってきました。濃霧です。



(12)長い石段
 この長い石段を登ると拝殿前の境内に出るのですが、霧が濃くて先がよく見えません。
 でも、上の方にかすかに鳥居が見えます。
 子供連れがけっこういます。



(13)賑やかな拝殿前
 やっと拝殿に到着しました。
 同じケーブルカーの人たちがたくさんいて、記念撮影などをしているので、しばらく横で待っていました。
 こんなに天気が悪いのに人が多いです。さすがは大山さんです。
 拝殿の背後は鬱蒼とした森林が上まで続いているのですが、霧でまったく見えません。
 自分の日頃の行いが悪いのだろうと悲観。
 ところで、この神社の御祭神は、山そのものですが、神名としましては、前に記しましたように、次の三柱の神です。

◎大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)
◎大雷神(おおいかづちのかみ)
◎高おかみ神(難しい漢字なので仮名で書きますが、雨の下に口を三つ並べてその下に龍を書く字です)
〈海が遠望できるため、この他に海人の守り神である鳥の石楠船神(とりのいわくすぶねのかみ)も祭られています〉

 主祭神の大山祇大神は、伊弉諾尊・伊弉冉尊がお生みになった山を司る神で、谷を持つ山をあらわすらしいのですが、一書の第七では伊弉冉尊が亡くなられた時に上記の三柱の神が同時に生まれたとされています。
 すなわち、国生みの最後に火の神である軻遇突智(かぐつち/別名を火之夜芸速男神)が生まれた際、伊弉冉尊は陰部が焼かれて死んでしまいます。
 怒った伊弉諾尊が剣を振るって生まれた軻遇突智を三段に切りますと、それぞれから神が生まれました。
 それがこの三柱の神です。
 大雷神は雷光の神、高おかみ神は深い谷の神であるらしい。
 要するに、渇水期に雨を恵んでくれる大山をこの三神であらわしているのだと思います。
 死んだ伊弉冉尊は気の毒ですが、古代の女性は医学が未発達でお産で死ぬ人も多かったでしょうから、それを意味する神話なのでしょうし、怖い山火事を防ぎたいという気持ちもあったのかもしれません。



(14)左方からの拝殿
 同じケーブルカーの人たちの参拝が終わってようやく拝殿が静かになり、落ち着いて参拝しました。

 さて、神仏習合が明治初年に廃止になり、大山もその嵐に巻き込まれて混乱し衰退したのですが、それを救って現在の大山阿夫利神社の基礎を築いたのは、平田篤胤のお弟子さんの権田直助でした。
 権田直助は文化六年(1809年)に現埼玉県に世襲の漢方医の息子として生まれ、家業を継ぐべく研鑽しますが、その途中で漢方に疑問を抱き、神社に参籠して目覚め、皇朝医道樹立を志します。
 その後平田篤胤門下生となって古典研究に励み、平田が江戸を追放された時に郷里に戻って医療と著述に専念し、著書を朝廷に献じました。
 文久二年から尊皇倒幕運動に参加して東奔西走の日々を送り、明治二年に新政府の医道関係の職につきますが、明治四年に国事犯の嫌疑を受けて幽閉。翌年放免されて明治六年に政府の命によって大山阿夫利神社祠官となって赴任、神社としての実質最初の責任者となりました。
 それから神仏分離後の大山の社務整備、社殿創建、大山講の改革などに誠心誠意尽くし、古代における大山阿夫利神社を甦らせることに成功しました。
 また国全体の神社行政にも貢献しました。
 明治になってからの神道興隆には、平田篤胤の弟子たちの功績が大きかったと言われますが、権田直助もその一人でした。
 国学者としても書道家としても詩歌の道でも優れており、大山山麓には多くの歌碑があるそうです。
 明治二十年七十八歳で没。



(15)右方からの拝殿
 これは右方から撮った拝殿です。
 神仏分離の明治二年に大山寺跡地を阿夫利神社下社の地と定め、明治六年に仮拝殿が完成しました。
 山頂もむろん神社(上社)となりましたが、明治八年に炎上し、同十年に再建。
(山頂は素人には危険で、現在でも特別な日にしか行けません)
 下社は年々整備を続けましたが、昭和四十八年から多くの浄財を集め、昭和五十二年に現在の拝殿が完成しました。
 そのとき、旧拝殿を右側に移築しましたが、それがこの写真の右端に半分写っている社殿です。



(16)平成13年参拝時の写真
 濃霧で拝殿の背後がまったく見えませんので、平成13年に参拝したときの写真を複写しました。
 背後に濃緑の森林が見えています。
 写真の撮り方が下手なので一部しか見えませんが、森はずっと上まで続いており、まさに緑したたる山中の拝殿です。



(17)拝殿の右をさらに右に折れた場所にある大きな社殿
 現拝殿の右にある旧拝殿(この写真の左端に見えています)から右に折れた場所に、このような立派な社殿があります。
 これは、昭和52年に新設された斎館でしょうが、社務所もかねていると思います。
 右側は神札授与所です。
 阿夫利神社の社務所は山麓にありますが、この大きな下社にも神主さんたちや関係者が寝泊まりしたり事務をしたり出来るような施設がないと困るでしょうから、そのために出来たのだと思います。
 節分か何かの神事の掲示が出ていました。
 この社殿は地表に建っているように見えますが、右端から想像できるように、空中にあります。
 つまり急な斜面に鉄筋の足場を組んで平な地面をつくっているので、この建物の地下が下から見上げる場所にあるわけです。



(18)拝殿から逆に鳥居方向を見る
 拝殿から見る鳥居方向は、要するに山から海を見る方向なので、天気さえ良ければ絶景なのです。
 しかしこの日は私の行いが悪いために、霧で何も見えませんでした。



(19)平成13年の参拝時の遠望
 かわりに平成13年に撮った写真をお見せします。
 この日も曇りで視界はあまり良くなかったのですが、それでもかすかに相模湾が見えました。



(20)茶店三軒
 長い石段を降りたところに大きな茶店が三軒並んで客寄せをしています。
 この右下に大きく綺麗なトイレがあり、老人は助かります。



(21)石碑
 20分おきのケーブルカーに乗って六分で始点の駅へ。下車して山の中の石段を下りますと、道の途中に石碑がたくさんあります。
 参詣の記念に建てられたらしい。
 江戸時代の著名人の大山参りでいちばん有名で熱心だったのは江戸城大奥の春日局です。自分でも何回も来たし、代参もたくさん。
 徳川家の家督問題など大きな事件の時にはここに祈りにきて決意を固めたとか。
 戦国時代の武将たちが多く寄進したり、また頼朝が寄進したりと、有名人の寄進も多いのですが、春日局も再三寄進したらしい。
 あと皇族方の参拝もあったようです。



(22)かんき(歓喜)楼
 山の中の石段をしばらく下りると、長い土産物店の列に入りますが、その上端に当たるところに「かんき楼」という旅館があります。
 江戸時代に御師が活躍した旅館(宿坊)は240もあったそうですが、明治期に激減し、現在は50くらいらしい。
 それでもこんな不便な山の麓に50軒もあるのは凄いことです。
 とくにこの「かんき楼」をご紹介したのは、御師の子孫であるこの旅館(宿坊)出身の方が豊富な資料を駆使して大山の研究書をお書きになったからです。
 後掲します。



(23)土産物店街に入る
「かんき楼」の所から、このように、狭い道を挟んで土産物店、食堂、旅館などが並ぶ一種の参道があります。
 その長さは麓まで500メートル以上もあります。
 急傾斜なので石段が次々にあらわれます。
 これは下りる時に撮った写真ですが、登るのは大変です。
 年寄りにはちと辛い!



(24)土産物屋の列
 土産物、食堂、旅館・・・こういうお店がエンエンと続きます。
 大山名物のコマ作りを実演している所などがテレビに時々紹介されています。



(25)土産物屋の列・続
 登りに撮った写真と帰りに撮った写真が混在していますが、こういうお店が次から次へと続きます。



(26)土産物屋の列・続々
 次から次へと・・・。
 大きな煎餅をその場で焼いてくれる店があり、孫はぽりぽりと。不思議なことに、大きな煎餅は持ち帰りが出来ません。その場で食べるだけです。



(27)ようやく土産物店の最後?
 ようやく、参道最後と書かれた幕が見えました。
(この狭い石段続きの店屋さんに囲まれた道を参道と言っています)
 しかし実は、これより下にも旅館・食堂・土産店などが数百メートルにわたって点在しているのです。
 ただし道は急に広くなり、自動車やバスが通るようになります。



(28)土産物参道出入り口を見上げた写真
 上の幕を抜けた所から逆に見上げますと、このような景色です。
 この写真の背後は道が広くなりますが、旅館などは前記のようにたくさんあります。
 写真の左側に車がやっと通れそうな道がありますが、すぐに行き止まりになってしまいます。
 我々はここから数百メートル下にある老舗旅館で休憩して昼食をとりました。
(この旅館の先祖は、400年前に紀州熊野から出てきた人らしいです)
 このあたりの50軒ほどの旅館は、みな昔の宿坊なので、400年くらいの歴史があります。
 昼食は豆腐料理。豆腐は大山の名物です。
 あらゆるものに豆腐が入っています。
 ところで大山の旅館の玄関の所には、すべて神社があります。大きな神棚というより、小さな神社と言った方が当たっています。
 流石は大山阿夫利神社です!
(ここでデジカメのメモリーが底をついてしまって、写真が撮れなくなり、悔し泣き!)



(29)三ノ宮比々多神社
 小田急線伊勢原駅から大山までの間に重要な神社が二社あります。
 その一つがこの「比々多神社」です。
 これは平成13年に撮った写真ですが、とても綺麗な神社です。
 相模の国(神奈川県)三ノ宮で、紀元前の創建と言われています。延喜式にある式内社ですから、昔から有名だったことがわかります。
 境内から9000年前の縄文土器が発見されたとのこと。
 御祭神は豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)です。国産みの伊弉諾尊伊弉冉尊の前、宇宙が混沌としていた時代の神様です。
 同時に酒解神(さかときのかみ)も祭られています。大山の主祭神・大山祇神と重なる神様らしいのですが、「酒」という字がつくため、関東一円の酒造関係者の崇敬を集めているとか。
 拝殿に参拝者の記名帳がありますので見てみますと、千葉とか埼玉とか同じ関東でもずいぶん遠方からの参拝者が多いことが分かります。
 大山参りの途中にありますから、江戸時代の著名人もたくさん参拝したようです。
 写真の右手に小さな博物館があり、刀剣、土器などの貴重品が陳列されているそうです。



(30)伊勢原大神宮
 デジカメの最後の一枚で撮った写真です。
 江戸時代初期に伊勢から大山参りに来た人がこの地を気に入り、開墾して住みつき、郷里のお伊勢さんを勧請してこの神社を創建したと言われます。
 そしてこれが伊勢原市の名の由来となったそうです。
 右が外宮、左が内宮という珍しい配置の拝殿。形状も伊勢神宮の御正殿にそっくりです。
 こういう配置と拝殿の形状は、無数にある日本の神社の中でもきわめて稀で、数社しかないそうです。
 二つの拝殿と左の社務所とはすべて連結されています。
 これ全体が結婚式場にもなっている大きな神社です。
 伊勢神宮の御分霊なので、前は「伊勢原神明社」といっていたが、比較的近年になった上の名前に変えたそうです。
(たぶん神社本庁には属していないと思います)



(31)内海弁次著『相州大山』書影
 元御師の家である「かんき楼」(写真22)で生まれた内海弁次さんが長年の大山研究を纏めた研究書です。
 ひじょうに豊富な内容です。
 ほんとうは、大山阿夫利神社の社務所で大山の解説書をいろいろと出してほしいのですが、あまりないようです。



(32)足柄郡から見た大山の遠望
 前掲書からの転載です。丹沢山系の右端に大山が見えます。



(33)大山の解説写真
 前掲書からの転載です。解説の文字はオロモルフが入れました。大山の様子がよくわかります。



(34)国道246から見た大山
 これはオロモルフが撮った写真です。国道246は、江戸時代からの大山参りの道が元になってできたそうです。
 ところで、大山と富士山の関係について、こういう話があります。
 大山の主祭神は大山祇神ですが、富士山(浅間神社)の主祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめ)です。
 木花開耶姫命は天孫降臨の瓊瓊杵尊の御妃――要するに神武天皇の曾祖母――となりましたが、この姫命の父親がほかでもない大山祇神です。
 だから冨士より大山の方が格が上だという人がいるとかいないとか・・・(苦笑)。



(35)木太刀と瓢箪から独楽
 大山阿夫利神社の主祭神である大山祇大神は、前に記しましたように、伊弉冉尊が剣を振るったことによって誕生したと日本書紀にあります。
 そこで江戸時代の大山参りでは、大きな木太刀をかついで登って納め、またそれを持ち帰って家の護符とする風習があったそうです。
 その名残がこの写真の木太刀の模型です。
「四五間の木太刀をかつぐ袷かな」
(小林一茶の句です。一茶は山には登らなかったようですが、たくさんの人たちが木太刀を担いで大山に向かう姿を見てこの句をつくったそうです)

 写真の右の瓢箪の側にある小さなピンクの粒は、この瓢箪の中に入っている超小さな独楽です。
 独楽は大山名物の一つなので、「瓢箪からコマ」という洒落で造られたそうです。
 やっとつまめるほど小さな独楽ですが、立派に回ります!
 テレビで放映されて人気が出たらしい。



(36)御神札
「青雲の上に秀立つ阿夫利山 仰ぎても知れ神の御威徳を」
「忘れても悪しき事すな阿夫利山 尾の上の神のみそなわすらむ」
 御神札の袋に書かれていた歌です。

 大山に関する歌や絵を残した文人墨客は無数にいます。
 たとえば、太田蜀山人、高野長英、渡辺崋山、芭蕉、宝井其角、賀茂真淵、橘守部、安藤広重、葛飾北斎、歌川国芳、十返舎一九、二宮尊徳、仮名垣魯文、佐々木信綱、窪田空穂、吉井勇、前田夕暮、などなど・・・。
 なかには遠くから見て描いた人たちもいたようですが、歌だけであれば、万葉集、金塊和歌集(源実朝)にもあります。

(二礼二拍手一礼)
 以上



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