■□■□■ ロシアの暴挙と小笠原丸の惨劇(オロモルフ)■□■□■


 終戦直後には多くの悲劇が日本人を襲ったが、その中から、忘れてはならない海底ケーブル敷設船の惨憺たる運命について、記しておきたい。
 書いていると怒りが押さえ切れないが、それは『小笠原丸』の惨劇である。

『小笠原丸』とは、明治三十九年七月に竣工した国産初のケーブル敷設船であり、日露戦争で奮戦した『沖縄丸』引退の後は、わが国を代表する敷設船として大活躍をした。
 日露戦争のすぐ後で、太平洋横断の日米海底ケーブルが敷設されたが、それは小笠原を通過していた。
 そこで、この日米ケーブル敷設を主な目的として造船された敷設船が『小笠原丸』と命名されたのだ。

 この船はきな臭い時代が活動期間だったため、とくに大東亜戦争中には、きわめて危険な海域での作業が続き、多くの犠牲者を出した。
 たとえば昭和二十年二月には下田港でグラマンの襲撃を受けて無数の弾痕を残し、多くの死傷者を出している。

 昭和二十年の六月以後は、北海道〜樺太間の海底ケーブル修復のために、潜水艦や空襲を避けながら活動し、奇跡的に沈没は免れて八月十五日の終戦を稚内港で迎えた。
 しかしその直後、不可侵の約束を一方的に破ったソ連軍の侵攻が満洲・樺太・千島などではじまり、北方では樺太の老幼婦女子や逓信省職員の北海道への避難搬送が急務となった。

 そこで依頼を受けた『小笠原丸』は、八月十七日に急遽稚内港を出発して樺太南端の大泊港へ急行し、そこで約1500名の引揚者を乗せて稚内に運んだ。
 しかしまだ大泊には数万の避難者がおり、休むまもなく『小笠原丸』は二度目の搬送のため大泊に向かった。
 八月二十日午前七時に稚内を出発して同午後五時に大泊に到着、やはり約1500人を大至急乗せて午後十一時四十五分出航し、翌八月二十一日午前十一時に稚内に帰港した。ここで1500人中900人を降ろし、残りの600人を乗せて、北海道西側海岸沿いに稚内から小樽へと急いだ。

 しかし、航程あと三分の一で小樽――というところで、惨劇が起こった。
 このときの『小笠原丸』は、もう戦争は終わったからと安心して灯火管制もせずにいたのだが、八月二十二日午前四時二十二分、とつじょとして潜水艦による魚雷攻撃をうけ、たちまち沈没してしまったのだ。
 海岸(増毛町)から約四海里の場所だった。

 浮かび上がった潜水艦は、海面を漂って助けを求める婦女子たちに機銃掃射を浴びせて虐殺また虐殺。十分に殺し終わったところで悠々と姿を消した。
 老幼婦女子600人の他に乗組員と警備隊が100人ほどいたが、その一部が救命艇に乗って陸地に急ぎ、漁港に急を知らせた。

 知らせをうけた漁港では至急漁船で救助に向かったが、乗船者の多くは船室に詰め込まれていたのと、危うく海面に逃れた人たちも機銃掃射で虐殺されたのとで、一般乗客で海岸にたどり着いたのは運良くボートに乗れたわずか19名だったと言われている。また甲板にいてかつ泳ぎの達者な乗組員と警備員も、助かったのは四割のみであった。

 同じその日、その付近で、やはり緊急手配された引揚船の『第二新興丸』(2500トン)と『泰東丸』(880トン)も魚雷攻撃を受けた。
 小型の『泰東丸』は撃沈されて生存者はなく、大型の『第二新興丸』は大破されて多くの犠牲者を出しながらもかろうじて近くの留萌港にたどり着いた。
『泰東丸』の犠牲者数は約400名、『第二新興丸』のそれは667名だったと言われている。

 じつは『第二新興丸』には、用心のために小さな大砲が積まれていた。潜水艦は民間船というので油断して浮き上がったため、この大砲による日本側の必死の反撃によって、沈没した。
 沈没した潜水艦が、他の二隻に魚雷を発射したものと同じだったのかどうかは分からない。

 いずれにせよ、結局、合計して1700名余(あとの調査で1708名とされたらしい)の老幼婦女子が戦争終結後に犠牲になったわけで、空前の残虐行為であった。
 緊急避難時だから乗客名簿などあるはずもなく、したがって遺族にとっては、海で犠牲になったのか陸で殺されたのか、それとも樺太のどこかで生きているのか、それすらも長いことわからなかったであろう。

 この、国際法完全無視の残虐行為をなした潜水艦の国籍は、公式の資料では「不明」となっている。
 終戦後になされたソ連軍による日本婦女子への残虐行為は、満洲を中心とした陸地についてはかなり知られているが、海での残虐もまた凄まじいものがあったのだ。

 昭和六十年ごろ、この三隻の事件を主題として『留萌海岸』という歌謡曲ができ、女子大生歌手がデビューしたことがあった。副題に「遭難船1708柱に捧げる」とあったそうだが、あまり話題にもならず、ヒットもしなかったようである。
 現在慰霊がどのようになっているのかは知らないが、われわれ日本人がこの惨劇を忘れず、子々孫々に語り伝えることこそが、最低限の慰霊ではないだろうか。

 また政府や行政やマスコミも、何らかの慰霊行事に力を入れるべきであろう。
 タイタニックなど問題にならない惨劇なのだから………!
(現在の慰霊についてご存じの方がおられたらご教示ください)

 じつはこれには痛恨の後日談がある。
 昭和六十年前後の中曽根内閣の時代に、この沈没した潜水艦を引き揚げようという運動が起こった。
 しかしそれは実行されなかった。
 風見鶏総理の中曽根康弘が中止させたからである。
 どこの国の軍艦かがはっきりしてしまうと、その国との関係がぎくしゃくするであろう・・・それを恐れたのだと言われている。

 いかにも、北京政府にゴマをすって靖国神社参拝を中断してしまった中曽根らしい決断であった。
 こんな人間が大勲位とは!

(おわり)


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