■■■ 日本無線史第十巻――明治の海軍無線――(オロモルフ)■■■


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4944『日露戦争と無線電信367』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月21日(金)12時05分10秒◆◆◆

▼日本無線史(1)

 次に『日本無線史』の日露戦争関連のサマリーをつくってみます。
『日本無線史』は昭和25年から26年にかけて出された、全十三巻のシリーズで、明治時代から大東亜戦争終了時までの日本の無線の歴史を記した本です。
 戦前から戦中にかけて無線に従事し、戦火の中で生き残った人たちが集結して編纂したとされ、豊富な内容を持っています。
 無線史に興味を持つ人にとっては勿論、日露戦争や大東亜戦争の戦史に興味を持つ人にとっても、不可欠と言える資料です。

◎電波管理委員会(編)『日本無線史 全十三巻』電波管理委員会

 第一巻  昭和25年12月刊行『無線技術史 上』
 第二巻  昭和26年02月刊行『無線技術史 下』
 第三巻  昭和26年02月刊行『無線研究史』
 第四巻  昭和26年09月刊行『無線事業史』
 第五巻  昭和26年02月刊行『國際無線事業史』
 第六巻  昭和26年02月刊行『無線教育及び無線團體史』
 第七巻  昭和26年03月刊行『放送無線電話史 上』
 第八巻  昭和26年03月刊行『放送無線電話史 下』
 第九巻  昭和26年03月刊行『陸軍無線史』
 第十巻  昭和26年09月刊行『海軍無線史』
 第十一巻 昭和26年07月刊行『無線機器製造事業史』
 第十二巻 昭和26年06月刊行『外地無線史』
 第十三巻 昭和26年02月刊行『無線關係條約法令及び年表』

◎続日本無線史刊行会(編)『続日本無線史 全三巻』続日本無線史刊行会

 第一部  昭和47年02月刊行
 第二部上 昭和47年12月刊行
 第二部下 昭和48年01月刊行
(この続編はかなり後に出たものですが、三冊とも相当な大冊で、その中には戦時中のこともかなり書かれています。読んでみますと、大東亜戦争のころの日本の無線技術って、欧米に比べてとても幼稚だったと分かります。これでよくも何年も戦争をやったものだと、涙が出ます。当時無線を担当していた数多くの軍人さんが、靖国神社に祀られています)

 これからしばらくは、この中の『日本無線史 第十巻 海軍無線史』のサマリーをつくってみます。
 他の巻にも日露戦役時の無電機の話は出てきますが、量は少ないので、それらは後に補足の形で記すことにします。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4946『日露戦争と無線電信368』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月22日(土)11時13分20秒◆◆◆

▼日本無線史(2)

◎『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[1]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第一節 発明技術の導入
一 マルコニの発明

 マクスウエル→ヘルツ→マルコニ
 マルコニの最初の成功は明治28年12月(*1)。
 これが世界に報道されたのは明治30年1月(*2)。
 日本海軍でこの発明が真剣に検討されたのは明治32年(*3)。
 しかしその前にも、英国に派遣されていた軍人などが多大な関心を寄せていた。
 海軍大学校の酒井佐保教授は、外国雑誌の無電の記事を学生に知らせていた。

*1:母国のイタリアで数キロ程度の実験に成功したがあまり注目されず、イギリスに渡って開発する希望を持ったようです。

*2:明治29年にイギリスに渡り、6月に特許を出願しました。そしてイギリス郵政省の技師のプリースの援助を受けて、同年の夏から秋にかけて、多くの実験をして、実用性をアピールしました。この成果をプリースが講演や雑誌で宣伝したようです。その結果、明治30年はじめから、多くの新聞雑誌にマルコーニの無電の話が出るようになりました。

*3:日本海軍でプロジェクトが立ち上がる前の年です。

*4:この酒井教授の話を聞いて興味を持った海軍士官の外波内藏吉が、松代松之助の実験にも興味を持って、海軍での研究開発を上層部に働きかけました。外波内藏吉は技術に強い関心を持つ士官でした。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4948『日露戦争と無線電信369』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月23日(日)12時51分30秒◆◆◆

▼日本無線史(3)

◎『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[2]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第一節 発明技術の導入
二 英国駐在員の報告

 明治32年、英国公使館付きの川島令次郎を通して、海軍大機関士小田切延寿が、無線電信についての解説と提案を送ってきた。
 その内容の全文が引用(*1)。
 この報告を読んで海軍中枢が動き、当時建造中の戦艦「敷島」の予算でマルコーニ社から無電機を購入し、試みに積載する方針を定め(*2)、当時駐英公使だった加藤高明が折衝し、見積書をとった。
 しかしその金額は高額であり、使用料以外にも百万円もかかる(たぶん特許料相当の権利料)と言われ、この購入は実現しなかった(*3)。

*1:この歴史的な書簡は、現在まで保存されており、JACARで見る事が出来ます。かなりの長文です。ためしに現在英国で建造中の軍艦に積んでみたらどうか――とあります。

*2:この方針は軍令部長が提案し、海軍大臣が指示したもので、その両方の公文備考もJACARにあります。いずれは海軍全般に採用するがとりあえず二台購入する――とあります。このような海軍首脳の先見性は、大東亜戦争の大臣や軍首脳には見られなかったものです。伊東祐亮軍令部長と山本権兵衛海軍大臣の決断であり、明治期の日本政府の首脳陣の技術観の確かさが印象的です。数多くの若い士官たちによる無数の報告の中から重要なものを見分ける眼力は素晴らしいものがあります。大東亜戦争後に多くの元技術将校が、大東亜戦争開始直前と日露戦争開始直前の軍首脳の技術についての態度を比較して、明治の方が遙かに優れていたと、語っています。山本海軍大臣の新技術を見る目の確かさは定評がありますが、伊東軍令部長もまた、技術者的センスを持つ人でした。(「日本無線史」や「続日本無線史」参照)。

*3:山本海軍大臣は、それでも購入しようとしたようですが、そうしているうちに、国内で開発しようという機運が起こり、また松代松之助の実験も知られるようになりました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4950『日露戦争と無線電信370』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月24日(月)11時59分30秒◆◆◆

▼日本無線史(4)

◎『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[3]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第一節 発明技術の導入
三 海軍中央部の動き

 明治32年に海軍大学校選科を出た(*1)外波内藏吉は、軍令部で沿岸防禦を担当し、望楼に無電機を置けば便利と考えて、調査を上層部に提案。
 電気事業に貢献した加藤木重教(*2)が米国から帰朝したので軍令部に呼んで話を聞くと、とうてい実用ではないとの話。
 明治32年10月に軍務局長(*3)が調査を命じた。
 そこで逓信次官の小松謙次郎に共同研究を打診したところ、同次官は賛成。勧められて電気試験所長の淺野應輔に面会。しかし淺野は逓信省では使い道が無いので海軍が中心になるべきとして、松代松之助らの派遣を許諾(*4)。
 同時期に、海軍大学校の教師をしていた木村浩吉(*5)から、弟の駿吉が二高で私費で研究していると聞いて、文部省と折衝して海軍へ招聘。
(*6)

*1:何月ごろ出たのか不明。本科(将校科)は明治30年12月15日に出ているのでその後一年くらい勉強したのでしょう。選科は今で言えば大学院に近い。

*2:その後加藤木は電気系教科書・参考書の出版で知られました。

*3:諸岡軍務局長。

*4:淺野應輔は無電には懐疑的でしたが、これは当時一般的な発想でした。有線全盛の時代だったからです。したがって淺野らは数年後には先見の明の無さに臍をかむことになります。

*5:駿吉の兄の木村浩吉も早くから無電に興味を持っていたようです。ある資料によると英国滞在中に無電の事を知ったらしい。海軍大学校で木村浩吉と外波内藏吉が知り合っていた事が、木村駿吉の人生を決めたと言ってもよいでしょう。

*6:この小節の内容は、前にご紹介した外波内藏吉の思出談をそのまま写していると思います。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4952『日露戦争と無線電信371』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月25日(火)12時21分21秒◆◆◆

▼日本無線史(5)

◎『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[4]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第一節 発明技術の導入
四 米国駐在員の意見

 明治32年6月21日、米国駐在員海軍大尉秋山眞之は、軍事課長宛、無線電信は将来必ず活用されるので、今のうちに、清国韓国における無電施設設置権を獲得しておくべきという意見を送った(*1)。
 これはただちに採用され、閣議に出され、外交折衝する事になったが、時の駐清公使西徳二郎は、鉄道敷設の意見で無電には消極的で、一応折衝はしたが、うやむやになった。
 韓国は駐韓公使林権助が折衝したが、自分達で作るという理由で拒絶された(*2)。
 いずれも不調に終わった。
 草昧時代に将来を洞察した秋山眞之大尉の炯眼達識は敬服すべきである(*3)。

*1:この書簡は有名ですが、いまだ閲覧出来ていません。何度かこの掲示板に記しましたが、どなたか御存知でしたら教えてください。これに関連するその後の数通の書簡はJACARで閲覧出来ました。

*2:この件について、戦後最初に具体的資料を引用の上で指摘したのは、田丸直吉だと思います。現在では、JACARで大量の資料を見る事が出来ますが、それらを読んでの私の感想は、(保存頁にもありますが)事の重大性を敏感に察知して必死で動こうとした軍首脳部に比して、見当外れの事を言って、真剣に折衝しようとしなかった外務省関係者の鈍感ぶりです。外務大臣が小村寿太郎などになってから、多少は改善されたようですが。

*3:この文章はこの節の末尾をそのまま引用したものですが、たしかに秋山眞之の洞察力は桁が違うと思います。
 これまで記しましたように、逓信省で技術研究の元締めだった淺野應輔は「実用性が無い」と判断して自分たちでの研究を放棄。海軍の小田切は実用性を認めて「建造中の軍艦にためしに積んでみたらどうか」と提案。外波内藏吉は「海軍で調査をするべし」と提言。
 この三人の中で後の二人は相当な先見性が有りましたが、秋山眞之は無電機が使用されるのは当然の事として、その先を考えており、日本の沿岸だけではなく海を挟んだ清国や韓国の沿岸にも日本の無電施設を作って、将来のロシア海軍に備えなければならない――と提言したのです。この提言は図星でした。外務省が折衝に失敗したあと、日露戦争開戦直後から日本は、韓国沿岸や島々に多数の無電望楼を設置して役立てました。法的には明治37年2月調印の日韓議定書によります。
(同時に印象的なのは、海兵を出たばかりの無名の若者に過ぎなかった秋山眞之の提言をいち早く取り上げた山本権兵衛海軍大臣の鋭さです)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4954『日露戦争と無線電信372』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月26日(水)11時44分37秒◆◆◆

▼日本無線史(6)

◎『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[5]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
一 調査委員会の設置と委員

 明治33年2月9日、海軍の無線電信調査委員会(*1)が設置され、同日付で辞令が出た。
 委員長   海軍中佐 外波内藏吉(軍務局長の指揮下)
 委員    海軍大尉 田中耕太郎
 委員付   海軍技手 野俣寛治
 嘱託委員  通信技師 松代松之助(逓信省在籍のままで嘱託)
 嘱託委員付 通信技手 池田武智
 軍務局長諸岡頼之名で、「無線電信ヲ海軍通信器トシテ適用スル方法ヲ調査スベシ」との訓令が出た。

 このすぐあとで、
 委員    海軍教授 木村駿吉(3月9日)
 委員    海軍造兵中技士 種子島時彦(3月15日)
 委員付   海軍技手 益山萬熊(3月15日)

 さらにしばらくしてから、
 委員    海軍少佐 土屋芳樹
 委員    海軍少佐 山口鋭
 委員付   海軍兵曹長 柏田良明
 委員付   海軍上等兵曹 立石彌兵衞
 委員付   海軍二等兵曹 横田猛
 嘱託委員付 通信技手 原住次郎
 嘱託委員付 通信技手 伊東敬一
 ・・・が追加された。
(*2)
 委員会の場所は、海軍兵学校構内の大池に昔有った軍艦「摂津」のための倉庫(10坪ほどのバラック)を改修して使った(*3)。

*1:当時の「調査」という言葉は、かなり広い意味があり、現在の「研究開発」とほぼ同じ意味で使われたようです。

*2:通信技師とか通信技手というのは逓信省からの嘱託です。
 松代松之助や木村駿吉以外の委員や委員付がどのような基準で選ばれたのかは不明ですが、外波内藏吉が苦心惨憺して人集めをしたようです。したがって、無電の研究開発に向いている人を選んでいるような余裕は無かったと思います。
 委員はのちに換わった人も多かったようですが、かなり長く外波や木村と行動をともにした人もいたようです。たとえば土屋芳樹などは、日露戦争が始まった時まで働いていましたし、立石もかなり長くいたようです。ただし技術が分かるのは外波・松代・木村の三名で、それに近いのが逓信省から来た伊東などでした。伊東は後に電氣通信の専門書なども書いた優れた技術者でした。
 無線の研究開発の手伝いに向いた性格というものがあります。簡単に言えば「細かな事の好きな人」に向くのです。向く人より向かない人の方がずっと多いです。だから、中には苦労した人もいたでしょう。

*3:「摂津」は明治維新後の政府が持った、もっとも初期の軍艦で、商船を軍艦に改造したものだったようです。海軍大学校の場所は後の築地魚市場で、東京湾と直接つながって船が入ることの出来る大きな池が構内にありました。海軍大学校の前は兵学校で、その時代に係留されて学生の訓練に使われました。この「摂津」のための倉庫が、兵学校が江田島に移って「摂津」が除かれたあとも残っていたのです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4957『日露戦争と無線電信373』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月27日(木)11時50分48秒◆◆◆

▼日本無線史(7)

◎『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[6]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
二 第一回試験

 明治33年2月21日に第一回の会議が開かれ、調査方針が決められた。
 一、これまで逓信省で調査してきた松代松之助の無電機を調査する(*1)。
 二、距離の調査は第二回とし、今回は諸器具の動作を調べる。
(一)海軍大学校構内で24フィートの縦直導線で、森を隔てて視界外の170メートルの距離で通信して器具を検査する。
(二)同じ導線を小丘の両側383メートルの距離で器具を検査する。

 この方針によって、松代松之助が逓信省(電気試験所)から機械を運んで、ごくごく近距離(障害物が無ければ見えるような距離)で実験したところ、働いた。
 この時は山本大臣はじめ海軍省、軍令部の要人たちが大勢来て見学し、みな強い興味を持った(*2)。
 なにしろ、これが海軍として最初の公開無電実験であり、無電を見たことの有る人など誰もいなかったのだ。
 この公開は、委員会のその後の活動に大変役立った。
 応援する幹部が増えたからである。
 この公開時の記念撮影写真が残っている(*3)。
 明治33年2月27日であった。

*1:電気試験所で松代松之助が試作していた無電機の試作品を海軍に持ち込んで実験しました。松代の当時の試作品は、その写真がいくつか残されていますが、マルコーニの特許の図にそっくりです。すなわち、松代はマルコーニの特許を模範にして、とりあえず同じようなものを作ってみたわけです。ただし特許公報そのものを見たのではなく、イギリスのエレクトリシアンという週刊電気雑誌にこの特許の丁寧な説明記事があり、それを見たようです。この記事の図面は特許公報とほとんど変わりません。

*2:山本海軍大臣の先見の明がよく分かります。大学教授連のほとんどが関心を持たない時代に、大臣自らが、超多忙な時間を割いて見学に来たのですから。この時山本大臣は、外波内藏吉が「一年以内になんとかしたい」と述べたのに対して「一年ではとても無理だろう。三年以内に出来れば上等だ」と答えたそうです。この話も、山本大臣の新技術を見る目の確かさを物語っています。

*3:この記念写真(無電機を囲んだ集合写真)には、山本大臣、外波内藏吉、松代松之助などのほかに、木村浩吉も写っています。駿吉の兄の浩吉が強い興味を持って見学していた事が分かります。駿吉自身はまだ委員では無かったので、加わっていません。


◆◆◆オロモルフ号の航宙日誌4960『日露戦争と無線電信374』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月28日(金)12時06分7秒◆◆◆

▼日本無線史(8)

◎『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[7]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
三 研究の苦心 1

 研究資料は新聞記事くらい(*1)。
 諸機械は造兵廠に製作を依頼。
 駿吉は倉庫に寝泊まり。
 委員会は予算が無く、各部局から貰うなど、苦心惨憺の有様を駿吉の思出談(既出)から引用(*2)。また駿吉の肩書きは海軍教授で、給料は海軍大学校から出た(*3)。
 マルコーニの特許は日本にも出されたが、60日以内という制限が条約に有ったのに対して日本に着いたのが62日めであったため、特許にならなかった(*4)。

*1:ここでは新聞記事と書かれていますが、実際に松代松之助や木村駿吉が参考にしたのは主として電気関係の雑誌でした。

*2:このあたりは木村駿吉の思出談を主に参考にして書いてあります。当時の苦心談を読みますと、外波内藏吉という人の存在が大きかったと感じます。
 技術の遂行は松代松之助や木村駿吉ですが、二人とも天才的で個性的で、簡単に言うことを聞くような人間ではありません。かつ、もともと海軍軍人では有りませんから、上官の命令に従うという発想がありません。
 そのような、優れてはいるけれども個性の強い人間を纏めて一つの仕事を成し遂げるには、リーダーが太っ腹で実行力があり知識もなければなりません。
 また初期の段階では人も機器購入費も出張旅費も基本装置も研究室も無きに等しい有様ですから、それらを四方八方に手配したり依頼したり幹部に談判したりしてかき集める折衝能力もなければなりません。
 そういう仕事は松代松之助や木村駿吉には出来ませんでした。
 そこで外波内藏吉が獅子奮迅の活躍をして、かろうじて実験を続けることが出来ました。
 さらに、この委員会のリーダーは、技術についてもかなり詳しく知っていなければなりませんが、その点でも外波内藏吉は適任でして、同じ時期に旅順港攻略用の自動曲行魚雷を発明して設計して製造して貢献するなど、別の面ですが技術者的能力を発揮しています。
(ちなみに、この委員会活動中、木村駿吉も、無電とはまったく別の技術面の仕事もしております。たとえば海軍内で発明された羅針儀についての分厚い調査報告を明治33年12月に提出しています)
 委員会が発足してすぐに明治天皇へ天覧に供するという名誉がありましたが、この時も外波内藏吉は自ら天皇陛下にご説明しています。
 さらにまた、早期に担当兵卒や将校への訓練を提案し実施し、また戦争が近づくと、製造工場主への折衝・指導なども行っています。
 じつに大変な働きでした。
 この外波内藏吉が技術系のプロジェクトリーダーの資質を持っていた事が、無電機開発が日露戦争に間に合った大きな原因ですね。

*3:木村駿吉は海軍教授という肩書きでしたが、仕事は調査研究でして、他に適当なポストが無かったために臨時に海軍教授という事にして、そこから給料を出すようにしたようです。やがてこの肩書きは海軍技師となり、スッキリします。

*4:このマルコーニの特許問題は、この連載の第16回から25回にわたって詳しく記し、この本のような事は無かっただろうと推理しました。御参照下さい。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4963『日露戦争と無線電信375』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月29日(土)11時45分50秒◆◆◆

▼日本無線史(9)

◎『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[8]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
三 研究の苦心 2

 ドイツのケムニッツ市の教育器具を作っているマックスコール社が、「マルコニ無線電信機」という器具を作ってカタログに出した(*1)。
 これを駿吉が見て明治31年か32年に二高で購入し学生に見せた。
 これはコヒーラと継電器とデコヒーラから成り、近くでインダクションコイルで火花を出すと受信するもの(*2)。
 これはアンテナから電波を出して遠方で受信するものではないが、コヒーラ受信の原理は説明できた。火花が直接コヒーラに働いたのだろう(*3)。
 二高時代の木村駿吉は、ドイツのヘルツの『電波』、イギリスのフハヒーの『無線電信史』を読んでいた。フハヒーの本は電波によらない無線の話が中心だったが、明治31年か32年の出版なのでマルコーニの話も有ったかもしれないと、木村駿吉は述べている(*4)。
 無線電信に必要な大型インダクションコイルは、国産は出来ず輸入もされておらず、東大医科大学の青山胤通教授に外波と木村が日参してレントゲン用の大型を借りた。
 しかしこれもすぐに壊れた(*5)。
 こういう苦心が続き、ようやく実用出来る無電機が出来るようになった。

*1:ケムニッツ市はドイツ工業の中心的な場所。教育器具を専門に作る会社は今の日本にもあります。中学高校大学の理科実験用具などを安く売っています。こういう安価単純な機械を、私は大学での実際の研究に使った事もありますが、今では中国製に変わっているかも。

*2:インダクションコイルもセットになっていたのか、あるいは小型のものを別に買ったのかは不明です。インダクションコイルの定義はやや曖昧ですが、要するに一次と二次の電線巻数が極端に違い、かつ高圧に耐えるように作られたトランスで、テスラが発案したとされてテスラコイルとも言われます。
 当時高圧交流を出す唯一の装置で、高圧大型の製造は困難でした。

*3:これはたぶん電磁誘導だったのだろうと思います。送受の距離はたかだか数メートルだったと思います。

*4:ヘルツの『電波』は有名ですが、フハヒーの本は知られていません。ただ、当時は誘導とか変位電流とか導電電流とかを使った、電波では無い無線が一般的な研究課題で、日本でも明治19年に志田林三郎が隅田川で電流を使った無電を実験しています。志田は明治の技術界を代表する天才工学者で逓信省の技術のトップ。

*5:たちまち壊れたので木村駿吉らは冷や汗をかいたらしい。大型のインダクションコイルは、しばらくして、海軍の工廠で試作が進み、そのデータを元に安中常三郎が国産化に成功します。アンリツ株式会社の祖です。なにしろ数十万ボルトもの高電圧がかかるので、製作が大変なのです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4966『日露戦争と無線電信376』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月30日(日)11時20分16秒◆◆◆

▼日本無線史(10)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[9]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
四 通信実験

 2月27日の第一回実験(公開)に続いて、2月末に軍艦「武藏」と陸上の間で実験した(*1)。
 さらに3月1日から、軍艦「淺間」(*2)と軍艦「龍田」(*3)の間で、軍艦どうしの通信実験がなされた。
 この両艦のアンテナは垂直線で、太さは次のものだった。
 淺間:18番線七ヶ撚の銅線 120フィート(*4)
 龍田:同上         102フィート
 しかし3浬までは良いが7〜8浬で乱れた。
 そこで、18番線単條25フィートにしたら良くなった(*5)。
 次に海軍大学校と羽田海岸の間で実験。羽田は足場用の丸太で櫓を組んだ。
 50センチインダクションコイルで送信し七キロ(*6)離れた羽田で受けた。
 コヒーラ電流は0.5〜1ミリアンペア、継電器電流は0.25ミリアンペア(*7)。

*1:これは、公開実験を見学に来た要人の希望による実験だったようです。「武藏」は1500トンの三等海防艦。この艦は後にも無電実験や無電訓練に使われました。

*2:9700トンの一等巡洋艦。演習の際に二度にわたって明治天皇のお召艦になりました。木村駿吉らが無電実験を天覧に供したのはこの艦上です。戦役中は第二艦隊第二戦隊。

*3:866トンの通報艦。戦役中は三笠に従って通報の役を果たしました。

*4:120フィートは約36メートル。18番線とは直径が1.2ミリ程度の銅線で被覆されていた。七ヶ撚りは標準仕様です。

*5:これは低いアンテナの方が良いという結果で、電波の常識では考えられない事ですが、艦上には数多くのワイヤや煙突など電波を妨害する金属が有りますから、それらとの関係で、長い方が効率が落ちたのでしょう。この話はここだけで、後にはやはり長い方が良いという結果が出たようです。また、撚線では静電容量が増えるので効率が悪いのだろうと単線に変えたという理屈も、首を傾げますが、とにかく当時はアンテナの理屈はどんな学者にも分からなかった時代で、試行錯誤して決めたのです。なお、アンテナの形状は陸地と艦上ではまったく違ってしまいますから、軍艦を使っての実験はきわめて大切でした。

*6:これは七浬だと思います。当時の海軍では浬(海里)の事をマイルと書いたり粁(キロメートル)と書いたりするので混乱します。まあ、おおらかな時代だったようです。呎と尺もごっちゃですし。

*7:この電流値は貴重な資料ですが、電流を流しているのは乾電池であって、電波によって直接流れる電流ではありません。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4969『日露戦争と無線電信377』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 1月31日(月)13時25分58秒◆◆◆

▼日本無線史(11)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[10]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
五 研究問題の焦点

 当時の研究問題は同調だが困難だった。次に受信符号をなるべくレコードに取りたいことだった。
 松代委員は逓信省でやっていたような印字機を使っていたが、木村委員は感度の良い受話器を使って耳で聞く方法に変えた。
 木村委員はカーボンコヒーラを考えた。松代はこれに対して鉄粉を使ってみると音は大きかったがしばらく使うと鉄粉がくっついてしまった。
 結局、記録に残る印字機に適するものを作る事になった。

*1:ここの記述は不十分だと思います。松代松之助が印字機を使っていたので、木村駿吉はそれとは違う音響式を工夫(音響式はマルコーニらも使っていましたが、それとは異なる音響式を工夫したようです)して、両方を比較する実験が何度かなされ、一長一短だったようですが、戦地で素人の兵卒が扱いますから、記録に残らないと困るというので、印字式に統一されました。
(当時の無電機の電波は、間欠的に出ていましたから、それでカーボンを刺激して電流を流すと、音となって聞こえたのです。二倍三倍・・・などの高調音が聞こえたのかも知れません。)
(習熟した担当者が常時無電機の前に坐っているような余裕は有りませんから、電波が届くとベルが鳴って、それを聞いた留守番が担当者を急いで呼びに行って、それから受信を始めるという方法をとっていました。そのベルを鳴らす受信機はやはりコヒーラが必要で、従って音響式はコヒーラ検波器と音響用の検波器の両方が必要でして、厄介だったと思います)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4972『日露戦争と無線電信378』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月 1日(火)13時05分9秒◆◆◆

▼日本無線史(12)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[11]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
六 観艦式場に於ける無線電信の天覧

 明治33年5月に海軍大演習がなされ演習後の観艦式が神戸沖で挙行されたとき、明治天皇が行幸された(*1)。
 その際に天覧に供するため、松代松之助が一週間で設計を完了して横須賀工廠に渡し、工廠では短期間に三台を作った(*2)。
 御召艦「淺間」と供奉艦「明石」と英国から届いたばかりの「敷島」に設置された。
 はじめは単語程度だったが、しだいに文章を通信できた。「淺間」と「明石」の距離は近いので完全に通信出来た。「敷島」との間は、神戸沖を離れて四国に近くなると不可能で、18.5浬だったが、当時として良好だった(*3)。
 軍艦の構造体や火薬への影響なども調べた(*4)。
 委員たちは送受の実演をして天覧に供した。
 そのあと外波内藏吉が写真を元にして天皇に解説を奏上した。
 明治天皇は極めて熱心にお聞きになられ、そのあと、専門的な説明では分からぬのでもう一度詳しく説明せよ――とのお沙汰があり、今度は木村駿吉が詳しくご説明した(*5)。
 明治天皇のこの熱意ある御心に委員一同感激した。

*1:明治33年5月という月が各種の資料に出てきますが、私が明治天皇の行幸日程を調べたところでは、4月末から5月初めにかけての事だったようでして、詳しくご説明したのは4月末の可能性が高いです。はっきりはしませんが。

*2:数週間前に山本大臣から観艦式で天覧に――という命令があり、委員一同必死になったようですが、当時設計の経験のあるのは松代松之助だけであり、松代が設計しました。といってもそれまで電気試験所で実験していたのと同様な機械です。海軍工廠の方でも緊張の極に有ったようで、松代が徹夜で設計するのを、そばで工廠の係員が徹夜で待ちかまえていて、出来るやいなや工廠に運んだそうです。

*3:「淺間」と「明石」の距離は見えるような近距離だったようです。

*4:主にマストやステイの影響ですが、送信機は火花が出るので、火薬への影響を心配する人が多かったようです。

*5:最初のご説明が外波内藏吉だったことは間違いないようですが、二度目の分かりやすい説明が木村駿吉だったのかどうかは、疑問です。松代松之助だった可能性があります。木村駿吉が松代松之助の顔を立てたというエピソードが残されていますし、この時代にもっとも分かりやすい説明の出来るのは松代松之助でした。松代は学会で無電を全く知らない人たちに説明する経験を何度もしていました。
 むろん山本大臣やその周囲の人たちは同席でしょうし、外波内藏吉も同席だったと思います。
(二度にわたる御説明、御進講の有様の記録や思出談がまったく見つからないのが不思議です。どなたか御存知でしょうか)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4975『日露戦争と無線電信379』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月 2日(水)12時30分29秒◆◆◆

▼日本無線史(13)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[12]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
七 実用化の研究

 調査研究は進んだ。
 調査所の側に150尺の電柱と電信所が新設。
 羽田は撤去。
 横須賀軍港内に電柱と電信所が新設。
「龍田」「横須賀丸」「敷設艇」などに無電機を積んでテスト。
 房州大山山領に無電所設置(*1)。
 伊豆大島の三原山や八丈富士に軽気球を持ち込んでテスト。
 三原山では気球が切れて飛んでしまったので外波設計の凧で実験(*2)。
 八丈島や三宅島や筑波山での実験は困難だったが、艦上に無電機を置く研究を進めた(*3)。
 明治33年8月には木村駿吉の音響無電機が完成した(*4)。

*1:大山は千葉県最南端の山です。

*2:凧や気球を使ってアンテナを高く揚げる実験はマルコーニが初期に試みたものです。

*3:前述のように、軍艦の上は金属の構造体やワイヤが無数に有りますから、そこのアンテナの立てるのは極めて難しいのです。また同時に、線条アンテナからどのように電波が出るのかも分かっていない時代でした。

*4:田丸本によりますと、この月に音響による東京(海軍大学校)〜横須賀軍港間の通信に成功しています。

*:はっきりはしませんが、このあたりの記述には、田丸直吉の貢献がかなり有ったのではないかと思います。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4978『日露戦争と無線電信380』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月 3日(木)11時42分38秒◆◆◆

▼日本無線史(14)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[13]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
八 逓信省との交渉

 海軍での無電機研究がかなり進んできたので、電気通信の元締めである逓信省に海軍から申し入れをした。
 明治33年6月7日付。海軍總務長官齋藤實より逓信總務長官古市公威宛(*1)。
 内容は、無電を建設する願いが出た時は、海軍と相談してほしいというもの。
 これに対して、逓信省から返事が有った。
 明治33年9月25日付。逓信總務長官古市公威より海軍總務長官齋藤實宛。
 内容は、逓信省としては無電の許可は当分出さないつもりである、とのこと。
 これに対して海軍は、了解した旨の返信をした(*2)。

*1:總務長官とは後の次官。

*2:当時の無電は、発信すれば電波の届く範囲にあるどの受信機にも感応してしまいますから、海軍の他に無電を出す者がいると困った事になります。そこでこのようなやりとりになったわけです。
 逓信省は無電は当面は公衆通信には使えないという判断(間違った判断)をしていたので、ごく簡単にこのような返事をしたのですが、このやりとりは、海軍省・逓信省ともに見方が甘かったようです。後に一つの事件が起こります。
 逓信省の甘さはすぐに分かります。無電は当面使えないものだと考えていたわけですから・・・。
 海軍省の側は、実際の無電施設が出来なければ大丈夫だと考えていましたが、当時逓信省の電気試験所では、松代松之助の後を継いだ佐伯美津留が必死で大型の無電機を開発しており、その実験電波が海軍に妨害を与える事になったのです。
 海軍は実験の事はあまり考えていなかったのです。

 なお、これらのやりとりの文書はJACARに保存されています。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4981『日露戦争と無線電信381』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月 4日(金)12時29分8秒◆◆◆

▼日本無線史(15)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[14]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
九 要員の養成

 明治33年11月、無電要員の養成をはじめた(*1)。
 下士官は、一等巡洋艦以上の各艦から一名ずつ最優秀者を20名集め(*2)、34年1月14日から5月10日までの約四ヶ月間、委員会付として訓練(*3)。モールス符号は松代松之助が部下の池田・伊東を率いて任に当たった。
 みな頑丈な手を持った人たちなので、繊細な電鍵の扱いには苦労したが、「姿勢を正しくする」「ゆっくり確実に」を強調して、三週間でほぼマスターした(*4)。
 明治34年3月からは、10人の士官が講習を受けた(*5)。
 通信実習は海軍大学校内と横須賀軍港内の放波島(*6)との間でおこなった。
 無線電信の理論は一ヶ月にわたり木村駿吉が講義したが、難解で講習員一同を悩ませた(*7)。
(*8)

注:この條の月日などは、かなり大まかだと思います。以下、分かった範囲で、より正確な月日などを記します。

*1:要員養成も外波内藏吉の提言によって開始されました。11月というのはこの提言の月であって、養成を始めた月ではありません。すなわち11月27日付けの上村彦之丞軍務局長宛の文書で、緊急開始を提言し、かつ訓練内容や人選法などの案を述べています。この文書の一部は、読めない箇所があって、この掲示板でご意見をうかがったことがあります。最近ではだいぶ慣れてきまして、外波のような整った筆記体はだいたい読めるようになりましたが・・・。

*2:軍務局ではただちに動いて訓練は具体化しました。下士官についてですが、ここでは一等巡洋艦以上から一名ずつとしていますが、実際には二等巡洋艦以下もあり、また水雷術練習所などさまざまな部署から集まっています。

*3:集合は1月10日から15日の間と命令されていますから、たぶん15日からでしょう。全国から集まりますから、東京まで時間がかかります。終了は私の資料では4月25日です。

*4:これは松代松之助の思出談にも木村駿吉の思出談にもあります。ここの記述では、手が無骨なのでスピードは出ず、そのかわり正確さに気をつけたように受け取れますが、「ゆっくりと正確に」というモットーは、無電機からの要請でもありました。
 松代松之助らのいた逓信省で扱っているモールス符号は有線であり、その技術は進歩していて人材もいるので、速さを競うようなところがありました。
 しかし水兵さんたちにそれは無理で、すぐに諦めて、そのかわり間違いの無い打電を教えたのです。
 その速度は、おおまかには、(良くて)一分間20字程度だったようです。逓信省の専門家はその二倍またはそれ以上の速度で打っていたと思います。
 さて、先の無電機からの要請ですが、当時の無電機の電波は連続波ではありませんで、間欠的に出る衝撃波(パルス状の波)でした。そしてその衝撃波の頻度は、決して早くは有りませんでした。だから、あまりに高速で打電すると、モールス符号の短点一箇の中に入る電波の波数がとても少なくなり、ある場合にはすっかり抜けてしまって、モールス符号にならない恐れが有ったのです。こういう回路技術から来る制約の話は、ほとんどの資料に書かれていません。

*5:開始は明治34年3月末であり、終了は4月25日または5月4日だったようです。終了がはっきりしないのは、終了の定義によるのだと思います。この10名の士官の名は記録されています。うち一名は事情があって途中でやめています。なおこの10名の中の白根熊三は黄海海戦時に三笠の無電責任者でした。また森初次は日本海海戦時に三笠の無電責任者でした。黒瀬精一は無電研究に向いていたとみえて、戦役後に木村駿吉のもとで新型無電機を開発しており、その後も無電開発に貢献しました。

*6:横須賀港泊町の西端にあった小さな島で、現在では埋め立てられて地続きとなっています。

*7:この木村駿吉の講義の難解さ(教える事の下手さ)は有名で、しかも学問とは無縁の兵卒たちにも同じような難しい話をしたので、皆悲鳴をあげたという逸話があります。そのときある士官が、「木村先生ご自身が分からないと言っているのだから安心せよ」と慰めたとか・・・。
 一方木村駿吉は後に、士官たちに講義した時は逆に教えられる事が多かった――と語っています。当時の海軍兵学校を出た士官たちのレベルは非常に高く、東大以上と言われていましたから、それは当然だと思います。

*8:この記事に書かれているのは、士官兵卒ともに第一回の東京での訓練で、第二回以後は横須賀でなされました。私が調べたところでは、日露戦争終結までの間に訓練を受けた要員数は、士官が開戦までに38名、開戦のため訓練中断が11名、開戦後は無し。下士卒が、開戦までは150名、日本海海戦までの総計295名、明治38年末までの総計360名。開戦後は一ヶ月ちょっとの緊急養成で、十分な訓練は出来ず、配属されてから現場で猛訓練したようです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4984『日露戦争と無線電信382』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月 5日(土)12時13分15秒◆◆◆

▼日本無線史(16)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[15]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
十 通信兵器の製作(前半)

 明治34年5月、通信兵器としての無電機の製造に着手することとなり、敷島・朝日・初瀬・三笠・磐手・出雲の六艦分として予算6014円が計上された(*1)。
 その内容は――
(一)インダクションコイルは50センチ以上のギャップを有すること(*2)。
(二)モーター水銀開閉器を使用すること(*3)。
 性能と条件は――
(一)両電信所間は中間が海面の場合70浬以内。
(二)電信所位置は高く孤立した山領で間に遮るものの無いこと。
(三)予め凧や風船で通信試験をすること。

 製造後の試験では軍艦の間で40浬、陸上と軍艦の間で70浬だったが、従来の旗旒信号や灯火信号に比べれば長距離なので満足された(*4)。
 一刻も早く設置したいとの希望が出たので、明治34年9月初めに調査委員会は調査終了報告を出した(*5)。
 つぎに同年10月18日付けで無電機を兵器として採用する旨の内令が出され(*6)、同時に厳秘にすべしとの訓令が出た(*7)。
 これを利用して同年11月から、平戸の白岳と対馬の豆酘の間で実用実験が開始された(*8)。
 この時点で一段落はしたが、各国海軍でも必死で研究しているので、調査委員会そのものは存続される事になった。

*1:予定としてはこの他にも多くの軍艦が有り、無電望楼も20箇所以上が予定になっていたが、とりあえず実用試験が出来たのは「初瀬」「八雲」「笠置」「磐手」の四艦のみ、陸上では白岳と豆酘の実験所二箇所のみだったらしい。希望や予定と現実とは相当な違いが有ったらしい。なお金額の換算は困難だが、一セットあたり現在価格にして数千万円だったと推理できます。

*2:インダクションコイルの選定が、無電機を兵器として仕様化する際の最大の問題だったようです。

*3:これは水銀に接点を出し入れする時にモータで接点を駆動する方式で、三六式では別の方式に変えられました。

*4:通信距離は、各軍艦望楼の形状条件によって大きく変わっており、軍艦どうしでは最善で45浬であり、近距離でもほとんど通信出来ない事も有ったようです。

*5:9月4日付けで書類が出されました。

*6:この内令は、じつはもっと早い時期、明治34年の1月には軍務局起案で出る筈で、そのような公文備考が残されています。しかし前年新設の艦政本部が窓口になって改めて起案されたため、書類の公的な決済が遅れたようです。ですから委員たちは、兵器として認められたという前提でこの年は実験を繰り返していました。(役所の縄張り問題の萌芽ですね)

*7:厳秘命令は訓令と書かれていますが、実際には水雷発射管と無電機の両方を厳秘にすべきとの内令の形で10月15日(兵器内令の三日前)に出ており、木村駿吉らはこれを忠実に守りました。駿吉らは生真面目であり、厳格にこれを守ったので、実際に使用された無電機の資料がほとんど残っていないのです。

*8:白岳〜豆酘間の実験は、人材配置が不十分だったらしく、とてもノンビリした進み方だったようです。陸地の実験所に優秀な士官級を配属させる事など出来ませんから、モールス符号は一応習ったが、無電の重要性など理解出来ていない兵卒たちがたかだか数名でやっていたようです。飲み水や食事だけでも大変だったでしょうし、電源用のエンジンを動かすだけでも苦労が有ったでしょう。石油エンジンの国産化もまだ出来ていない時代でした。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4987『日露戦争と無線電信383』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月 6日(日)12時48分13秒◆◆◆

▼日本無線史(17)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[16]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
十 通信兵器の製作(後半)

 当時の日本の工業技術は幼稚であり、コイルに巻く銅線もマグネット用の鉄鋼もコヒーラ用の硝子も、なかなか出来ず輸入に頼る有様だった(*1)。
 インダクションコイルも日本での製作は容易ではなく、英国や独逸から輸入したが、注文してから四、五ヶ月かかってやっと届き、しかも運送中に破損することもしばしばだった(*2)。
 このような有様だったのと、無電機の国産や改善は焦眉の急だったので、外波内藏吉(当時中佐)と木村駿吉委員は、無線用品購入と視察のために欧米各国に派遣された(*3)。

*1:資材の輸入という点でも、イギリスとの軍事同盟がきわめて重要で、日本に有利に働きました。なおここに書かれている銅線や鋼鉄や硝子は国産もある程度は出来てはいましたが、品質ではかなり劣っていたようです。軍艦に使うスチールのワイヤーの類も、ほとんどは輸入だったようです。もっともこのような工業製品の品質の不十分さは、大東亜戦争前も同じでした。かろうじて国産が出来たという段階だったと思います。だから技術の内容を知っている松前重義などは戦争に大反対したのです。

*2:高圧に耐えるインダクションコイルは、前記のように、海軍工廠で研究しアンリツの祖の安中常三郎が製造に成功したのですが、これは大手柄でした。なぜかといいますと、輸入品は、扱いが乱暴なので壊れている事が多かったからです。外波内藏吉の話によると半分くらいもが壊れていたそうです。当時の海外の運送業者は、丁寧に扱うと経済的に引き合わないので、壊れたら保険で補うという発想だったそうです。

*3:出張の名目は、外波内藏吉が英国駐在、木村駿吉が英国出張です。文書上の目的は同調方式無電機用機器購入と主として同調方式の調査でした。機器購入のために与えられた予算は21500円で、最初は36000円の筈が削減された模様です。現在価格を推定すれば、一億〜程度でしょう。許可された期間は十ヶ月ですが、いろいろとあって、最終的には帰国まで一年以上になり、軍務局はおかんむりだったようです。この出張で最大の成果は、電磁継電器の購入で、イギリスのシーメンスから英国海軍の許可を得て買いました。国産ではどうしても動作が不安定だったのです。かなり大量に購入し明治36年末に到着したが、さらに後に追加注文して多く購入しています。
 電磁継電器の購入数は、出張中に手配したものが50個で、単価は140円だったようです。合計して7000円という事になります。むろんこれでは足りず、後に大量に輸入しています。戦役中に使用された無電機の数は280台とされているので、少なくとも280個の電磁継電器を入手していたはずです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4990『日露戦争と無線電信384』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月 7日(月)12時26分36秒◆◆◆

▼日本無線史(18)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[17]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第二節 無線電信調査委員会
十一 調査委員会の解散

 外波内藏吉・木村駿吉の欧米視察中、予定の80浬に達したので(*1)、調査委員会は明治35年に解散になった(*2)。
 松代松之助嘱託委員および嘱託委員付は逓信省に復帰する事になった(*3)。
 これと同時に横須賀海軍工廠造兵部内に無電用新施設を置くことになり(*4)、田子正次(後に日本蓄電池専務/*5)と高林という職工(コヒーラに必要な硝子細工に堪能/*6)が残った。

*1:これは執筆者の錯覚で、この時点ではとうてい80浬には達していない。40浬も危うい水準でした。

*2:解散の準備は明治35年11月から始まり、公的には12月27日に解散したらしい。これ以後、無電機開発の主務は軍務局から艦政本部に移りました。

*3:嘱託の人たちの復帰書類は、明治36年1月12日に海軍大臣から逓信大臣宛に出されています。これ以後の松代松之助は、無電とは無関係な通信機器の開発に従事しています。日露戦役で大量に使われた海底ケーブル用の機器なども作っています。物作りの名人でした。

*4:横須賀における研究から製造までの新組織は、海外出張の直前に外波内藏吉が提言していたもので、それが帰国直後に実現したわけです。

*5:二次電池の専門家で、海軍を辞めたあと島津系の日本蓄電池に迎えられて厚遇されましたが、そのすぐあとで湯浅蓄電池に引き抜かれ、そのモラルが非難された人物です。木村駿吉もこの人物は疎んじていたようで、いろいろとトラブルが有り、新聞種にもなっています。

*6:いわゆる職工さんで、苗字しか分かっていない無名の人ですが、コヒーラの硝子管を真空封じする技術はこの人しか持っておらず、戦前から戦中ずっと働いてくれたようです。毎日数個ずつのコヒーラを数年間作り続けて、貢献しました。コヒーラはしばらく使っていると性能が落ちますので、予備が多数必要であり、需要は非常に多かったようです。おそらく、数千個は作ったでしょう。明治34年に、横須賀工廠で1000個製造する予算が500円計上されています。一個50銭ですが、現在価格では数千円/個でしょう。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4993『日露戦争と無線電信385』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月 8日(火)11時48分12秒◆◆◆

▼日本無線史(19)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[18]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
一 欧米に於ける無線電信の視察1

 三四式を改善するため、外波内藏吉と木村駿吉は欧米各国に出張した(*1)。
 木村駿吉は各地の著名な学者を訪問したが、明確な返事は得られなかった。
 先方で無線の資材や機器を購入して日本に送るのが仕事だった(*2)。
 両名は米国での視察を終えたのち英国に渡って調査し、次に独逸を視察して帰国した(*3)。

*1:出発は『極秘明治三十七八年海戦史』では明治34年末となっていますが、木村駿吉の思出談では明治35年の正月早々となっています。書類上は34年末で実際に乗船したのは35年早々だったのでしょう。

*2:送ったのは、前述した電磁継電器(電磁リレー/当時の言い方では電駅器)の大量購入を除けば、主として測定器の類だったようです。これらは留守役が受け取って横須賀工廠に保管していました。

*3:帰国は二人の希望で延期され、さらにそれが船便の都合で延期になり、政府や軍務局では不評だったようです。木村駿吉が書いた延期希望の分かりにくい書簡(海軍大臣宛)が残っています。同調法の調査を強調しているようです。乗船したのは備後丸で、この船が日本に着いたのは明治35年12月11日のようです。横須賀着はその少し後でしょう。予定より二ヶ月遅れて帰国した事になります。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4996『日露戦争と無線電信386』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月 9日(水)12時10分52秒◆◆◆

▼日本無線史(20)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[19]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
一 欧米に於ける無線電信の視察2

以下は木村駿吉の思出談の引用文

(一)米国における視察
 米国は何でも見せてくれるという時代だったが、電気も無電も使われておらず、一流大学の教授たちを訪問しても、要領得なかった(*1)。
 テスラの実験所を訪れたが、無電というよりも無線による電力輸送とか無線による電灯の研究だった(*2)。
 ラングレーの所に行ったら、無線の話はなく、アフリカでの試験飛行や潜水艇の話だった。
 米国から英国に渡るとき、エトリユーリアという大型船に乗ったが、大西洋の真ん中でスクリューと舵を飛ばしてしまい、無電を持っていないので救助も呼べず、一ヶ月ほど漂流してアフリカ東北端に近いフエーヤル島にたどり着いて、そこから海底電信で迎えの船を呼んだ(*3)。

*1:アメリカでもかなり研究はなされていましたが、それまでは無名だった人たちがやっていたので、訪問出来なかったのだと思います。

*2:テスラは交流電気の祖であり、また、無電に使われたインダクションコイルの使用法の元祖でもあります。このテスラに面会した日本人としては、木村駿吉と外波内藏吉は最初だったかもしれません。

*3:こういう事は当時はよく有ったようです。外国出張は命がけの時代でした。したがって船舶用無電の開発も急がれていたわけで、マルコーニの才覚が光ります。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4999『日露戦争と無線電信387』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月10日(木)11時54分43秒◆◆◆

▼日本無線史(21)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[20]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
一 欧米に於ける無線電信の視察3

(二)英国における視察
 英国に渡ったとき、マルコニ会社の特許を拒絶した事や無電機を買い取らなかった事などから、好意は持っていないと考えて直接会社には行かず(*1)、ポルヂューにマルコニ会社が建設中のアンテナを見に行った。
 しかし板囲いの隙間から覗いているところを守衛に咎められて追い払われた(*2)。
 ここは荒涼たる場所で、カナダとの通信のために建設されていた。
 翌年帰朝すると、ポルヂュー〜カナダ間の無電に成功したというニュースが伝わってきた(*3)。
 マルコーニはこれらには、指向性のアンテナを使った(*4)。

*1:こういう事が有っても行くべきだったと思いますが、駐在員から止められたのでしょうか。

*2:これは何だか情けないエピソードですが、覗いただけでもアンテナの形は分かったと思います。木村駿吉自身が描いたらしいポルヂューのアンテナ図を下に示します。ただし実際に駿吉らが見たのは、このように完成する前のもので、違った形だったかもしれません。

*3:年譜によりますと、明治35年12月21日にはじめて成功し、22日にその無電を英国皇帝に献上し、皇帝から返電が有ったとのこと。大西洋横断無電の幕開けですが、マルコーニの商才も分かります。発明家はこうでないと、成功しませんね。

*4:これは私には分かりません。図で見るかぎり、指向性のようには見えません。

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◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4502『日露戦争と無線電信388』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月11日(金)12時25分0秒◆◆◆

▼日本無線史(22)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[21]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
一 欧米に於ける無線電信の視察4

(三)独仏両国に於ける視察
 ドイツではスラビー博士がイギリスでマルコーニを見てそれを真似したというのでイギリスから批判を受けていた。
 ブラウン・シーメンス式とスラビ・アルコ式が合併して、テレフンケン会社が設立されていた(*1)。
 同社でアルコ伯が発明したという音響受信機を見せられた。板バネの上に炭素針を載せたもので、前に木村駿吉が作ったものの方がずっと精巧だった(*2)。
 フランスでは別段視察はしなかった。
 この視察旅行で、日本の調査委員会で研究したもの以上の機械は見つからなかったので、日露戦争が始まっても心配無いという自信がつき、帰国した。

*1:テレフンケン会社設立のことについては、前に記しました。ブラウンはブラウン管で知られる発明家ですが、無電でも相当な業績を上げています。

*2:木村駿吉の音響受信機は、実験もかなりなされているのですが、まったくの独創だったのか、海外の文献にヒントを得たのか、不明です。たぶん後者だと思いますが、日本人的な器用さがあるので、精密な装置が出来たのだと思います。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4506『日露戦争と無線電信389』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月12日(土)13時20分34秒◆◆◆

▼日本無線史(23)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[22]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
一 欧米に於ける無線電信の視察5

 日露戦役が終わったとき、木村駿吉は海軍大臣に上申して、無電機に功績があればそれはマルコーニが源なので、日本政府としてマルコーニに相当の挨拶があるべき――と要望したが、実現しなかった。
 しかし昭和8年11月に来日したときは、勲一等旭日章を賜り、大歓迎した(*1)。
 外波内藏吉・木村駿吉が渡英したときは英国海軍の無電機の視察は許されなかったが、五年後に日本回航の英国軍艦で見たところでは、秘密を守るという約束のもとにマルコーニ社から供給を受けていたようだった(*2)。
 もともと当時の無電機は、どの国でも、送信は火花式、受信はコヒーラの印字か音響式なので、基本は同じで、その中で日本は実際に使用して効果をあげたので、優れていたと言える。
 降伏ロシア軍艦で見ると、スラビーの印字受信機とアルコ伯の炭素音響受信機が有ったが、印字式は壊れていて動かなかった。印字式にはトランスが使われていた(*3)。

*1:この時は、なぜか木村駿吉は歓迎会などに出席していません。呼ばれなかったらしいです。なおこの時代のマルコーニはムッソリーニ礼賛一色でした。

*2:木村駿吉らが英国などで視察していたころ、山本英輔はマルタ島で英国海軍から無電機を見せてもらい、性能の説明を受け、しかもコヒーラのサンプルを貰っています。日英同盟が出来ていたので、英国海軍は日本海軍に多くの情報を提供していたのです。したがって外波・木村が見学を許されなかったのは、依頼のルートに問題が有ったのではないでしょうか。

*3:この話は既出です。日本海軍に編入された戦艦「壱岐」の無電機です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5009『日露戦争と無線電信390』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月13日(日)11時29分52秒◆◆◆

▼日本無線史(24)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[23]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
二 研究の目標と横須賀に於ける研究1

 調査研究の最終目標は、
(一)調査期間が三年以内。
(二)確実通信距離が昼夜を通じて80浬(*1)。

 二人が帰朝した直後の明治36年1月17日から、横須賀で調査を再開した。
 調査委員たちは横須賀海軍工廠に兼務し、艦政本部の指揮のもとに再調査。
 建物は昔雇い外国人官舎だった建物を海岸に移築。
 作業場を作って工廠の職工を五、六十人配属した(*2)。
 組織としては、
「無線電信改良調査所」
「試験所」(*3)
「機械製作所」
 ――が出来た。
 調査研究の委員や補助者は、13名の名が記録(*4)。

*1:三年という数字は、山本海軍大臣が言ったという記録がありますが、80浬という数値を誰が出したのかが分かりません。自主的に決めたのか、軍務局から出されたのか、など不明です。話として伝えられているだけです。

*2:これは相当な人数ですが、無電を知っている人は一人もいなかったと思います。電動機など電機系の職工さんがどれくらいいたのか、不明です。

*3:ここに、外波内藏吉・木村駿吉が欧米視察中に買い込んだ相当数の測定器類が置かれていたようです。

*4:この中にコヒーラ製造を受け持った硝子細工職工は入っていません。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5012『日露戦争と無線電信391』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月14日(月)12時07分10秒◆◆◆

▼日本無線史(25)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[24]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
二 研究の目標と横須賀に於ける研究2

 インダクションコイルはじめ、必要部品は出来るだけ自分たちで作る努力をした。
 輸入品は破損しても修理できない(*1)。
 そのころ大阪で博覧会が有ったが、そこに出品した電気関係の企業を呼んで、長浦で研究中の無電部品を製造するよう依頼した(*2)。
 応ずる者はほとんどいない中で、安中常次郎だけが引き受けた。安中は湯島聖堂近くで学校用理学部品を作っていた(*3)。
 海軍所有の製品や試験結果はすべて見せるとして依頼した。
 はじめ30センチのインダクションコイルを作ったがすぐ壊れた。しかし熱心にやりなおして、次第に良い物が出来るようになった。
 そのうち技術も資金も良くなって、一時に10台(1台千円以上)のインダクションコイルの注文に応じられるようになった(*4)。
 そのうち通信距離も増え、横須賀〜大洗80浬で通信出来るようになった(*5)。

*1:インダクションコイルの輸入品は、到着した時にすでに壊れれている事が多かったようで、外波内藏吉は、これでは戦えない――と危機感を持ちました。

*2:明治36年3月1日から、大阪で第五回内国勧業博覧会が開催されました。たぶんこれの事でしょう。大阪市天王寺が第1会場、堺大浜公園が第2会場(水族館)。

*3:日露戦争には、多くの技術者が貢献しましたが、安中もその一人です。現在のアンリツの祖です。

*4:一台五百万円として五千万円ですね。明治36年から38年にかけて、製造した無電機の数は280台といいますから、少なくとも280は作った筈です。おそらくもっと多かったでしょう。一台の無電機に30センチと50センチの二台使う事が多かったですから・・・。

*5:山本英輔がアースの取り方で苦労した実験がこれです。無電機から何十メートルも電線を伸ばしてその先をアースしたがうまくゆかず、その場でアースしたら受信出来たという教訓です。アースもアンテナも原理がまるで分かっていない時代ですから、大変な苦労が有ったのです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5015『日露戦争と無線電信392』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月15日(火)12時04分20秒◆◆◆

▼日本無線史(26)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[25]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
二 研究の目標と横須賀に於ける研究3

 逓信省でも実験を進めて、明治35年7月21日付けで、海軍省に対して、「長崎附近と台湾間で無電実験をする」という通知が来た(*1)。
 この実験は明治36年7月下旬から始まり、夜間の通信には成功したが、同年12月末に軍用通信と混線するので中止になった。
 海軍では明治34年から平戸〜対馬で実験し、明治36年末に終了した。
 これが改良型で三六式無電機(*2)。

 明治36年横須賀軍港で「音羽」(*3)の進水式が有ったとき、明治天皇の行幸があり、通御にあたる鎮守府廊下の一隅に改良受信機を置き、裏山に送信機を置いて実験して天覧に供し奉った。
 明治33年の神戸での天覧時には大部分が外国部品だったが、今回はほとんどが国産になった旨を奏上した(*4)。

*1:とてもあっさり書かれていますが、これは大問題でして、昭和20年代まで続いた逓信省と海軍省の軋轢のもとでもありました。
 海軍では外波内藏吉らの進言によって、逓信省で無電を許可する際には海軍省と協議してほしいと申し入れており、それに従った通知だったのですが、海軍省では無電についての感覚がまだ出来ておらず、うっかり許可してしまいました。九州から台湾を目指すのですから、これは強力な電波を出す実験でした。海軍の対馬や平戸の実験は人材もおらず呑気なもので、妨害に気づかなかったのですが、明治36年の末になって「おかしい」と気付き、あわてて軍務局の担当が逓信省に実験中止を申し入れました(逓信省まで走って行ったという記録もあります。海軍要人たちは日露戦争間近を実感していたので必死でした)。これによって逓信省の実験は中断したのですが、担当者の佐伯美津留は後々までこの中止を恨んでいたようです。ちなみに佐伯は海軍兵学校を目が悪いという理由で退学になって逓信省に移った人物です。海軍省幹部(窓口の人たち)は、商用無電にのみ神経を使い、実験は軽視していて、うっかり許諾してしまったようです。

*2:平戸〜対馬の実験が三六式の主体のように読めますが、そうではないと思います。平戸〜対馬は実験の一部に過ぎなかった筈です。

*3:国産最初の本格軍艦。区別としては三等巡洋艦です。本体だけでなく搭載する装置類も国産を優先したようです。発電機も、軍艦に積まれた最初の国産だと言われます。岸敬二郎の発明品です。

*4:明治36年11月。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5018『日露戦争と無線電信393』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月16日(水)12時53分3秒◆◆◆

▼日本無線史(27)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[26]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
三 英国海軍無線電信の見学1

 三六式は研究者の努力で優秀だったが、細部の改善には海軍士官が英国海軍無電を見学したのが役立った。
 明治35年1月、日英同盟が成立し、同年4月、英国皇帝エドワード七世戴冠式に小松宮彰仁親王がご出席になることになり、「淺間」「高砂」の二艦が遣英艦隊となった。司令官は伊集院五郎だった。
 旗艦「淺間」に親王がお乗りになり、「高砂」はその供奉艦で、そこに山本英輔が乗っていた。
 4月7日に出港した航海の途中、両艦は開列して無電(三四式)の試験を行った。紅海での成績は28浬だった(*1)。
 英国の海軍基地だったマルタ島でフィッシャー中将を司令長官とする英地中海艦隊と交歓したとき、「高砂」分隊長心得の山本英輔中尉は、英旗艦の無電の見学を許され、日本製と詳しく比較することが出来た(*2)。
 当時の英艦隊は120浬の通信が出来たと称しており、山本中尉は熱心に質問し調査して、帰国してすぐに70頁にも及ぶ報告書を提出した(*3)。

*1:二隻の軍艦の間での三四式の実力は40浬程度とされていますが、実際にはそこまで行かなかったようです。山本英輔は思出談の中で、イギリス海軍の無電機と大きな差が有ったと語っています。なお山本は山本海軍大臣の甥で、のちには聯合艦隊司令長官にもなり、多くの要職を歴任し総理大臣候補にも挙げられて人で、大東亜戦争後までお元気で、戦後にも思出談を残しています。技術にとても詳しい天才的な軍人で、電離層反射に日本で最初に気づいて無数の実験データを取ったことでも知られます。海軍では電離層現象の事を「山本現象」と呼んでいました。大將で退役したのは、二二六事件への対処の仕方を間違えたためとされています。

*2:本資料には一週間ほど見学したと書かれていますが、実際にはずっと短い期間――たかだか数日だったようです。またこの時コヒーラのサンプルを貰ってそれを日本の無電機に入れて試したところ成績が上がったという思出談もあります。

*3:この報告書は未見です。本資料の著者の書き方から見て、著者も見てはおらず、山本英輔の思出談を元に書いているように思えます。現在でもJACARに多くの明治資料が残されてはいますが、海軍省の要所に提出された資料は、ほとんど見つかりません。秋山眞之の最重要な書簡もそうですが、大事にされていたために、かえって終戦時に処分されてしまった可能性が高いです。軍の重要書類が進駐軍の手に渡らないように必死で処分したようですから。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5021『日露戦争と無線電信394』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月17日(木)12時38分52秒◆◆◆

▼日本無線史(28)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[27]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
三 英国海軍無線電信の見学2

 70頁にわたる山本英輔の報告書には、英国海軍の無電機について、
・コヒーラに少量の水銀が入れられていること(*1)。
・長い柄のついたキーを使用すること(*2)。
・ジーメンス製の優秀なリレーを使用すること(*3)。
・モーター付きのインターラプターを使用すること(*4)。
 などが記されていた。
 このため明治36年4月から山本英輔は、艦政本部出仕兼横須賀兵器廠員として外波内藏吉のチームに入り、前年見学してきた部品の改良に力を入れた。
 コヒーラはなかなか改善されなかったが、顕微鏡を導入して金属粉を覗いてみると、凹凸やトゲが激しい事がわかり、薬研に入れてさらに擦って円滑にして水銀を入れると改善された(*5)。
 継電器は36年暮れ近くに英国から届き、これを使用すると通信距離が80浬から200浬に延びた(*6)。

*1:コヒーラの中に少量の水銀を入れるのはマルコーニの資料にも書かれており、松代松之助も使っていた筈ですから、新発見ではありません。

*2:これは、戦前の記念艦三笠の展示無電機についておりますが、その長い柄の用途や意味は不明です。電鍵自体は別に付いていますので、電鍵附属の送受切換スイッチの為なのでしょうかか・・・?

*3:これは外波内藏吉が見つけて買ったもので、山本英輔もたまたま同じリレーに行き当たったという事ですね。

*4:三四式もモータを使っていましたから、これはターボ式の事なのでしょう。三四式ではモータ式、三六式ではターボ式の断続器を使っていました。

*5:コヒーラの研究に顕微鏡を導入したのは山本英輔の貢献であり、のちに木村駿吉はこれを高く評価しています。今では当たり前の話ですが、微細な構造を顕微鏡で確認するという習慣の無かった明治時代ですから、山本の才能は優れていました。おそらく、相当高価だったと思います。工廠の中に一台くらいは有ったのでしょうか。

*6:この数値は変です。80浬になかなか達しなかったのが、やっと達した――という事だと思います。
 達したと言いましても、陸上→陸上、陸上→軍艦、軍艦→陸上、軍艦→軍艦、でみな違います。また、同じ軍艦でも小型艦ではまったく違います。これは装置自身の違いではなく、アンテナの違いによります。
 当時の記録を調べますと、軍艦→軍艦で80浬に達するのはとても難しかったようで、完全な記録は無いようです。
 軍艦どうしの到達距離は、戦役が始まってからかなり進展したようです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5024『日露戦争と無線電信395』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月18日(金)12時32分8秒◆◆◆

▼日本無線史(29)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[28]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第三節 三六式無線電信機の完成
四 遠距離無線通信実験

 明治36年、各地の実験でアースが問題になった。
 夏の終わり頃、吾妻山〜大洗で実験したとき、山本英輔が大洗に行き、気球でアンテナを揚げた。新聞記者が多数見に来た。
 このとき、アースを100メートルほど伸ばしたが、まったく受信出来ず、最後の日に一メートルで切って波打ち際に入れたら鮮明に受信出来た。これで吾妻山〜大洗80浬(*1)の通信が確実に出来るようになった。
 同じころ吾妻山〜焼津での実験では、アースのキャパシティが大事だというのでアースに石油缶200個をつないで埋めたがダメだった(*2)。
 そこで敷設水雷用の七芯ケーブルを芯と外被とを一緒にしたもの(*3)を、山頂から海まで一町半伸ばして先端を海に入れたところ、良好だった。担当は鈴木{吉吉}心一等兵曹だった。
 彼はその後大王崎の装備を担当したが、小山の山頂に150尺の木柱を立て、200メートル離れた小山に小柱を立てて斜めに結んだところ、好成績を得た。これによって垂直で無くとも送受出来ると悟った(*4)。

*1:ほぼ78浬です。

*2:ダイポールをモノポールにするのがアースですが、当時はアンテナのLやCによって周波数が決まりましたから、アースもそのように考えたのでしょうか?

*3:これは、開戦になってから実際に使用されました。軍艦のアースには、この海水用ケーブルの芯線と外被をつないで一体として、その先端を降ろして海水に漬けていました。
 このケーブルの構造などは、水雷術練習所の教科書に出ています。

*4:これはアンテナの理解が出来ていなかったためのもので、実際には垂直成分が放射に効果が有りますが、ただ、斜めに長く張ることによって、全体の長さが長くなり、そのため150尺の垂直部分の電流が増えたのだと思います。おそらく山本英輔のマスト間に張る試みは、この実験の知識が元になっているのでしょう。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5027『日露戦争と無線電信396』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月19日(土)12時12分14秒◆◆◆

▼日本無線史(30)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[29]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
一 出師準備

 明治36年の末から風雲急を告げ、海軍全体に無電機を装備することになり、無電工場では職工を増員して昼夜兼行で作業をしたが、とても造兵部だけでは間に合わないので、必要部品を外注した。
 ところが大晦日と元日だけは休ませてくれと言うので、それなら海軍から職工を派遣すると言ったら怒って、大晦日も元日も休まずにやってくれた。
 間に合わないので部品を貨車に乗せて貨車の中で組み立てようとしたが許可されなかったので、委員らを佐世保に派遣して、すべて佐世保で工事した(*1)。
 明治36年12月28日、内令第百八十九号で、改訂戦時編制聯合艦隊無線装備を命令された艦は15隻で、
◎第一艦隊 初瀬・敷島・八島・笠置・千歳・高砂・宮古
◎第二艦隊 淺間・常磐・磐手・八雲・高千穂
◎第三艦隊 松島・嚴島・橋立

 ついで次の17艦にも無電装備が命令された。
 浪速・和泉・須磨・秋津洲・千代田・龍田・出雲・明石・吾妻・富士・豊橋・吉野・朝日・三笠・八重山・鎮遠・千早

 これらには昼夜兼行、特急工事で装備していった。やがては駆逐艦や仮装巡洋艦にも装備された(*2)。

*1:この時期の委員たちの活動については、断片的ですが多くの資料が残されています。海軍大臣が各工廠に非常準備を訓令したのは明治36年12月12日のことで、この日から木村駿吉たちは非常態勢に入って作業をはじめました。
 12月14日の試験で軍艦と陸上の間で79浬のデータが出て、実験は終了しました。
 12月16日に、三四式から三六式への変更が正式決定しました。上記の三笠などは三四式を三六式に変更した事を意味します。ただし三四式の部品の一部を取り替えるだけの準三六式もあったようです。むろん少し後には全艦が純粋の三六式になりました。ただし蓄電池は間に合わず、相当な苦労が有ったようで、このときに貢献した島津製作所の話が美談として残されています。
 翌1月20日時点で無電工場で製造中の無電機は24台で、すぐに50台を追加しました。
 2月1日の時点で、前年暮れの予定に不足していたのは1台のみでしたが、聯合艦隊の要望が次々に膨らみますから、木村駿吉たちは命がけの製造を続けていました。また設置のために木村駿吉自身が軍艦に乗り組むなど東奔西走していました。

*2:『極秘明治三十七八年海戦史』によりますと、開戦時に無電機を装備していた軍艦は三六式25隻、三四式8隻で、望楼は三六式のみで三箇所でした。
 無電を習得した将校は37名、下士卒は153名でした。
 12月21日に、委員会は送信部に強弱二台が必要との要望を出し、これが認められたので、製造中の24台は12セットとなり、さらに製造が急がれました。受信部も二台になったようです。
 結果としては、送信受信ともに二台備えたものが一セットとなりました。
 また、旗艦のような重要艦には、前部と後部に一セットずつ装備しましたから、合計して四台の無電機が有ることになりました。
 なにしろ試作研究中のものを必死で軍艦に装備するのですから、日に日に装備状態が変わるような有様で、はっきりした数字は分かりません。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5030『日露戦争と無線電信397』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月20日(日)12時59分26秒◆◆◆

▼日本無線史(31)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[30]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
二 要員の補充

 無電要員は、明治34年に養成した20名だけでは不足し、明治36年に田浦の水雷術練習所で第一回練習生として60名の養成がなされた(*1)。
 海軍大尉黒瀬精一が教育の任に当たり、先の20名の中から鈴木吉心と藤井・山内・川村の一等兵曹が選ばれて、明治36年2月21日から9月22日の間、教員を命じられた(*2)。
 これによって80名の要員が出来た(*3)。
 しかし衛生状態の悪い環境で激務をなしたので、健康を害するものが続出し、明治37年の終わりごろには半減してしまった(*4)。
 そこで明治37年の12月に急遽40名の要員が養成された(*5)。
 この増員によって、明治38年5月の日本海海戦における輝かしい無電の効果を収めた。

*1:訓練の人数や時期については、とても大雑把に書かれており、かなりの間違いが有ります。
 明治34年の第一回は氏名不詳を含めて19名。田浦での訓練が開始されたのは明治34年の11月からで、これを第二回としますと、
 第二回:明治35年3月終了で36名
 第三回:明治35年6月終了で20名
 第四回:明治35年11月終了で18名
 第五回:明治36年3月終了で20名
 第六回:明治36年9月終了で17名
 第七回:明治36年12月終了で20名
 人数や時期が、私が調べた資料とだいぶ違いますが、私の資料は海軍省の公文備考で、第四回までは氏名も分かっていますので、こちらが正しいと思います。

*2:鈴木武S、藤井與市、川村重次の三名が第一回の卒業者。山内平作は第二回の田浦での訓練卒業生です。この中の鈴木は器用だったらしく、調査委員会に入って外波・木村の下で働きました。他にも鈴木のような訓練生がいたと思います。なお第二回の山内は卒業試験で100点に近い99.6点をとっています。優秀だから後輩を教える講師になったのですね。

*3:私の資料では150名です。

*4:健康を害して――とありまして、この話は他の資料にも有るのですが、私の考えでは、モールス符号を打ったり電線を繋いだりする無電の操作というのは向き不向きがありますので、どうしても向かない兵卒が多かったのではないか、と思います。
 器用そうな兵卒を選んで決めただけのようで、向かない人も多かったでしょう。無電とはどういうものなのか、誰も知らない時代ですから、適した人材だけではなかったと思います。ノイローゼ気味になったり自棄になったりする人もいたようです。なにしろ本邦初の機械ですから、教える方も学ぶ方も大変でした。逓信省の学校で訓練された電信要員の指は細くて繊細だったが、海軍の兵隊さんの指は太くて頑丈なので驚き、これではスピードは出ないと知って、ゆっくり確実に――と教えたそうです。

*5:無電要員の不足を補うための急速養成の大臣訓令が残されています。明治37年だけで100名ほどの訓練(第八回60名、第九回45名、明治38年終了の第十回が40名)がなされたようですが、なにしろ緊急ですから、一ヶ月程度で戦地に送り出したようです。開戦が迫った第六回、第七回も短縮訓練でした。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5033『日露戦争と無線電信398』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月21日(月)11時19分28秒◆◆◆

▼日本無線史(32)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[31]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
三 戦時中の造修作業

 山本英輔と外波内藏吉は出征したので、木村駿吉が自然にそれまで外波内藏吉がやっていた仕事をする事になった(*1)。
 あるとき若い士官が工場に来て、自分の軍艦に早く装備してほしいと頼むので、木村駿吉が引き受けたところ、翌日海軍次官から電報が来て、濫りに兵器を動かすな――と叱られた(*2)。
 明治37年夏から木村駿吉は各地に赴いて無電機装備や改修をした。
 宗谷岬、根室、千島列島、室戸岬、佐多岬、膨湖島、台湾南端・・・。
 台湾南端にいたとき、旅順陥落の報に接した(*3)。
 ロシア側の旅順は、チーフーと無電連絡していたが、日本士官がチーフーの無電所に忍び込んで機械を壊して、通信を封鎖した。
 ロンドンタイムズは無電を装備した船を派遣して戦況報告していたが、外波内藏吉はこの船に乗り込んで無電内容を調査していた(*4)。
 その手引きで木村駿吉も数日間同船に乗って、無電状況を視察した。

*1:山本英輔は第二艦隊参謀として旗艦「出雲」に乗りましたが、その時、自分が開発した無電機を抱えて、自分で装備したそうです。そして、海戦の合間に数々の実験をして、逆L型アンテナや電離層反射に関する先駆的な研究を成し遂げました。一方外波内藏吉は英語のうまい人だったらしく、軍令部所属で諜報活動に従事し、さしあたっては下記の「海門号」に乗りました。後にはポートサイドに民間人の名目で変名で滞在して、バルチック艦隊の情報を東京に送りました。なお外波内藏吉が設計した旅順港進入用の曲行水雷の解説書が、明治37年2月に第一第二艦隊に配布されました。むろん木村駿吉が中心になって書いた無電のマニュアルも配布され、さらに無電通信規則が定められました。

*2:このような問題では木村駿吉は至って無神経でして、伝記を調べていますと、軍人はもちろん普通のサラリーマンになるのも難しい性格の人だったと分かります。

*3:日本最北端の千島から最南端の台湾南端部まで自ら行って、装備したり修理したりしていました。木村駿吉という人は、身体は驚異的なほど丈夫な人だったらしいです。

*4:この船は海門号(ハイモン)という商船で、この船からの日露海戦の報道は、無電によるマスコミ報道の世界最初のものとして知られています。外波内藏吉はボーイという名目で名前を変えて乗り込んでいました。むろんイギリス側では分かっていた筈です。同盟国ですから。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5036『日露戦争と無線電信399』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月22日(火)12時01分41秒◆◆◆

▼日本無線史(33)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[32]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
四 軍艦吉野の遭難と無線通信

 開戦後の日本海軍の活動はめざましかったが、明治37年5月になって悲報が相次いだ。
 5月15日は最大の厄日で、この日だけで「吉野」「初瀬」「八島」と主要な三艦を失った(*1)。
「吉野」は濃霧のため視界がきかず、後続の「春日」と激突して水線下に孔があき、右舷に傾いて沈没。
 傾いたあとも無電担当者は、水銀開閉器を机から外して水平を保って懸命な無電を打ち続け、ついに艦長らとともに戦死した(*2)。
 これは、船舶遭難無電の本邦最初のことである。

*1:この日、「吉野」は僚艦との衝突で沈没。「初瀬」と「八島」の両戦艦はロシアの機雷によって沈没しました。ロシアの浮流機雷は旅順や大連の周辺の海に無数に散在していました。
 この主要艦沈没を補うために、国産軍艦の建造とともに、潜水艦の採用が決まりましたが、日露戦役には間に合いませんでした。
「初瀬」「八島」の代役はアルゼンチンの好意で入手出来たという「日進」「春日」がつとめました。
 この二隻の巡洋艦は2月に日本に着いたようですが、航路の途中ずっとイギリス海軍が護衛してくれたそうです。ロシア艦隊が途中で攻撃しようと狙って来たからです。

*2:この話は何度かここでしました。
 最後まで持ち場を離れず壮絶な戦死を遂げたのは、三等兵曹竹村倉之進と一等水兵小山音市で、竹村倉之進は第二回(つまり横須賀での最初)の訓練を受けた無電要員、小山音市はその助手役でした。
 木村駿吉はこの壮絶美談を聞いて涙が止まらず、日本海海戦の直前に書き上げた『世界之無線電信』の序文にこのことを記しました。
 この文章は後に教科書副読本にも掲載されました。
 これを纏めたものは、保存頁にもあります。改訂前のものなので不十分ですが。

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yoshinom.htm

 なおこの話は戦前戦中にはとても有名で、私も小学校のころから(記憶は漠然としていますが)知っていました。たぶん修身か國語の教科書に有ったのでしょう。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5039『日露戦争と無線電信400』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月23日(水)13時53分10秒◆◆◆

▼日本無線史(34)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[33]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
五 裏塩艦隊の脱出と無線通信の傍受1

 明治37年7月下旬、ロシアのウラジオ艦隊が脱出して東海方面に来て、日本の商船を撃沈するなど乱暴狼藉を働き、東京湾は封鎖された。
 木村駿吉は吾妻山の無電所に籠もってロシアの無電を傍受した。
 受信は出来、グロムボイなどの文字が出た。
 お互いの艦の名を呼んでから通信を始め、最後に自分の艦名をつけるようだった。
 月光が有ると通信が途絶え、月光が無いと通信が始めることから、月の様子が吾妻山と同じ程度の近くにいるらしかった。
 毎晩受信してその結果を古新聞に張って軍令部に送った。
 後日沈没したロシア艦(ワリヤーク?)の記録では、確かにこのころ吾妻山の近くにいたらしい。
 そのうち感応が弱くなり、伊豆七島の陰に入ったように思えた。
 最後は遠方に行ったらしいと分かったが、どこかは不明で、吾妻山では南の方へ行ったと判断したが、それは間違いで、後に金華山沖に行っていたと分かった。
 ベリニトシの方向探知機の発明はそれから三、四年後だった。

*:このエピソードも非常に有名で、方向探知も電波強度の測定も出来ない時代に、受信機の動きの様子だけで敵がどこにいるのか判断するわけですから、木村駿吉の判断に誤りが有ったのは当然です。
 このウラジオ艦隊を追跡していたのは第二艦隊ですが、第二艦隊参謀をつとめていた山本英輔の方が正しい判断をしていた事が、あとで分かりました。
 この件は明日か明後日に記します。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5042『日露戦争と無線電信401』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月24日(木)11時52分25秒◆◆◆

▼日本無線史(35)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[34]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
五 裏塩艦隊の脱出と無線通信の傍受2

 木村駿吉は敵は近海にいると確信して大本営に連絡したので、大本営では東京湾方面に急行せよと第二艦隊に命じた。
 第二艦隊は前月に対馬海峡でウラジオ艦隊を逃しているので、今度こそはやるだろうと国民は期待していた。
 吾妻山では横須賀の軍要人たちが集まって待ちかまえたが、何事もなく過ぎてしまった。
 第二艦隊の参謀は山本英輔だったが、当時の実情を次のように語っている。

*:木村駿吉は方向探知の出来ない無電技術によってウラジオ艦隊の居場所を推理したのですが、軍事知識が無い上に多くの錯覚があり、まったく別の場所を指示してしまったのです。山本英輔はこれに相当憤慨していたようですが、木村駿吉は強情な性格ですから、決して失敗を認めようとはしませんでした。
 ウラジオ艦隊を何度も取り逃がした第二艦隊に対して国民は怒り、上村司令長官の留守宅は危なかったようです。
 山本英輔の談話は前に二度くらいはこの連載で書いた筈ですが、改めて明日示します。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5045『日露戦争と無線電信402』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月25日(金)12時29分4秒◆◆◆

▼日本無線史(36)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[35]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
五 裏塩艦隊の脱出と無線通信の傍受3

(以下山本英輔の思出談より)
 木村駿吉と喧嘩になったのは次の事である。
 大本営からウラジオ艦隊が東京湾附近にいるので行けと命令されて行動したが、あとから東郷長官から津軽海峡の西口の沖へ行って待てと命令された。
 大本営の通りに行くと、今度は伊豆七島の方へ行けと言われて行くと何もいない。
 何時間前に敵の無電が有ったから行けとまた言われて、三度廻ったが、見つからない。
 居ないと報告しても、吾妻山で無電を感じているからまた行けと言われる。
 島影を敵艦と間違える滑稽な事もあった。
 そのうち石炭が切れてきて、引き揚げねばならなくなった。
 加藤参謀長(*1)が私を呼んで、「大丈夫か、本当に空電なのか」と聞くので、「大本営からは現れたと言って来ましたが、私の見るところ空電です」と答えた。
 再度聞かれたが、同じ事を答えた。
 後にウラジオ艦隊の航海日誌が見つかり、それによると、第二艦隊が伊豆七島を廻っているころには敵はすでに北海道方面に居た事が分かった。
 宗谷海峡から逃げるつもりが霧が濃いので津軽海峡を通過していた事が分かった。
(*2)

*1:日本海海戦時には三笠にいた有名な加藤友三郎(後の元帥・総理大臣)ですが、この頃は第二艦隊の参謀長でした。第二艦隊の当時の参謀には、加藤の下に佐藤鉄太郎とか山本英輔とか優れた理論家がいましたが、どうやら上村司令長官という人の判断力の拙さが影響したようです。対馬で敵を逃したのもそれだったと思います。古武士のような人だったようですが。

*2:この一節は大変有名な話で、木村駿吉が空電を無電と錯覚したり、遠方からの無電を近くと錯覚したりしていた事が分かります。同時に、山本英輔の鋭さも分かります。
 アンテナ形状についての駿吉vs英輔の議論も、戦後になって山本英輔が正しかった事が分かりました。最終的には木村駿吉もそれを認めました。強情な人ですから決して詫びようとはしませんでしたが・・・。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5048『日露戦争と無線電信403』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月26日(土)12時09分41秒◆◆◆

▼日本無線史(37)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[36]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
五 裏塩艦隊の脱出と無線通信の傍受4

 ウラジオ艦隊が去ったあとロシア艦の無電を感受したのは吾妻山だけだったが、これについて木村駿吉は次のように語っている。
 当時造兵部にいた何某という技手は目先の利いた利口者だったが横着だった。彼が試験の為に大王アに出張したとき、上層部からロシア艦の無電が聞こえるか――という照会が有った。その時彼は、
「深夜兵隊がそのことを聞きに来たので、面倒だからそんな事は無いと言っておけ――と返事した」
 これは帰ってからその横着者が木村駿吉に語った言葉で、これが間違いの元だったと思う。
 こういう横着者はいつの時代でもいるもので、実施部隊でも空電を口実にした横着者に悩まされた。

*:この一節は少々奇妙です。この時期の望楼はまだ数が少なかったですが、それでも無電機を備えた施設は吾妻山だけではありませんでした。
 また、大王望楼(三重県突端)でそれらしい無電を感受したかしなかったかの情報が、はたして北海道方面に逃げているウラジオ艦隊の位置探索にどう関係するのか、どうも意味が分かりません。
 木村駿吉のこの発言は、たしかに記録に残されていますが、私の感想では、何人かの講演会の席で、松代松之助への皮肉として述べたのではないか、と思います。
 この横着者は、松代松之助の元部下で海軍に割愛された田子正次ではなかったかと思います。田子はその後民間企業に移ってからも物議を醸しています。
 なおこの話のある木村駿吉の講演は、松代松之助の後、山本英輔の前になされています。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5051『日露戦争と無線電信404』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月27日(日)11時54分41秒◆◆◆

▼日本無線史(38)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[37]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
六 無線通信に関する戦訓1

 山本英輔は、日露戦役中の第二艦隊の無電について、次のような体験談を語っている。
 **********
 旅順の第三回閉塞戦のころから、自分たちは対馬海峡に移り、そこでウラジオ艦隊と遭遇した。
 ある時炭水補充のために竹敷に帰ろうとその南端に来た時、無電の字が混乱したので、敵の妨害だろうと甲板に出ると、ウラジオ艦隊が見えた。
 追いかけたが、竹敷と馬関海峡の間の日本艇隊に砲撃を加えて闇にまぎれて逃げてしまった。
 自分たちは全速で追いかけたが、夜の十一時ごろに北にある望楼から「敵艦見ユ」の無電が有った。
 そうしてみると、敵を追い越してしまったのかと、引き返したが、何も無かった。
 これは、五時ごろの我々の「敵艦見ユ」の無電を、望楼が中継のつもりで打ったものだった。その間あれこれ無電を打っていたので、五時間もたってから中継したのだ。
 この事が有ってから、中継する時は発信者名と時刻を入れる事にした(*1)。
 上村長官は磊落な人だが、竹敷を出ると何度も情報は無いか、大本営に聞け――と言われて、「何か有れば要港部から打ってきます。あまりこちらから打つと敵に知られます」と答え、喧嘩のようになり、加藤友三郎参謀長が間に立って仲裁した。ああいう磊落な人でも責任を感じると情報を欲しがるものだとつくづく感じた(*2)。

*1:この中継法のうち、発信艦名については、聯合艦隊としてはすでに決められていた筈ですが、第二艦隊の対馬海域としては、定めていなかったのでしょう。
 時刻については、聯合艦隊としては決めていなかったようです。
 無電は即座に相手に届きますから、ふつうの場合には、何時にこれを打った――という電文は不要なのですが、中継しますと、大きな遅れが出る事があるので、必要ですが、あまり明確には指示していなかったようです。時間を入れると一字連送の警急信号の筈が、ふつう電文のような長いものになりますから、略したのかも知れません。
 日本海海戦の時も、信濃丸がバルチック艦隊を発見した事は分かったが、それが「何処で何時か」がなかなか三笠に伝わらず、困ったという話があります。
(第二艦隊の無電に対する注意は、『極秘明治三十七八年海戦史』第四部巻四備考文書第36号にあります。山本英輔の話はこの事だろうと思います)

*2:上村第二艦隊長官って、何度も失敗がありますが、豪放磊落なようで、ちょっと失敗しやすい性格だったのでしょうか? 日本海海戦時の予想外の作戦成功は、佐藤鉄太郎参謀の機転が大きかったようです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5054『日露戦争と無線電信405』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 2月28日(月)10時22分35秒◆◆◆

▼日本無線史(39)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[38]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
六 無線通信に関する戦訓2

 戦役中に山本英輔が実験研究したこと。
 **********
 三六式の到達距離は80浬ということになっているが、時に千浬も聞こえることがある。千島で黄海の無電が聞こえたりする。
 そこで、時間・気圧・温度・風向きなどを図に入れて研究していると、夜になると遠方が聞こえると分かった。
 それで、夜間は遠距離に聞こえると、第二艦隊の告示が出された。
 また気圧に関係するらしく、気圧が高いと遠方に届くらしい。
 地球の磁力線との関係も調べたが、結論が得られなかった。

*:山本英輔のこの研究は、『極秘明治三十七八年海戦史』に何編もあり、その量は厖大ですし、内容はきわめて高度です。その当時の東大教授連の電波に関する知識や研究を遙かに凌駕しています。
 海軍の他の研究者や逓信省の専門家たちも、このような研究はしておりません。
 電離層発見まであと一息だったこの成果は、日本の無線の歴史に長く記録されるべきだと思いますが、今のところは海軍関係者の記録の中に有るだけです。
 なお電離層反射の研究は、海外でごく一部の学者が真相に迫っていた時期です。そういう時代に、戦争をしながら研究したのですから、見事です。
 後に山本英輔は、もっと研究していたら博士号が取れたかもしれない――と冗談を言いましたが、戦役中の研究だけで、東大京大教授連の博士論文よりずっと上だったと思います。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5057『日露戦争と無線電信406』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月 1日(火)11時37分37秒◆◆◆

▼日本無線史(40)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[39]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
六 無線通信に関する戦訓3

(山本英輔談話の続き)
 そのころのアンテナは後部マストから後に引っ張っていた。
 これは大砲を撃つとダメになるので木村技師は横架線を試したがうまくないのでやめた。
 しかし横架線は砲戦中でも使用できるので、第二艦隊はみな横架線にしたところ結果が良かった(*1)。
 旗艦では受信機を弾薬通路の所まで持っていって、日本海海戦の開始から28日まで皆受信でき、全体の様子が分かっていた。
 横架線が有効だと分かった。
(*2)

*1:アンテナから電波がどのように輻射しているのかが分かっていない時代でしたから、同じ横架線でも、電波が出たり出なかったりしたでしょう。
 山本英輔の第二艦隊の場合、たまたま現在の逆L型に近い形になっていたようです。
 横架線であろうとなかろうと、線条アンテナでは縦の部分が重要ですが、そういう認識は当時は有りませんでした。

*2:山本英輔はアンテナについても多くの実験をしています。たとえば、木村駿吉式の張り方をした軍艦が、どのような方角を向いていれば電波がよく届くのかどうか――という指向性の実験とか、望楼との間に山があるとどうなるかなど、製造部隊では忙しくて実験していられなかった事柄を、戦争の合間に軍艦で実験して、多くのデータを得ています。
 たとえば、対馬の大河内望楼との無電が、山に遮られてうまく出来ない事がある――と発見して報告しています。
 大河内望楼の場所がなかなか確定できず、最初は大河内湾のそばに有り、日本海海戦の前に標高の高い棹尾アに移転したらしい――と推理しておりますが、その根拠の一つに、この山本英輔の実験があるのです。
 前に記しましたように、山本英輔の実験資料の地図には、大河内望楼は大河内湾のあたりに描かれており、『極秘明治三十七八年海戦史』の望楼地図では棹尾アに描かれています。
 また山本英輔は、逆L型の利点を経験によって感得した日本で最初の人物だったと思います。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5060『日露戦争と無線電信407』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月 2日(水)12時04分23秒◆◆◆

▼日本無線史(41)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[40]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
七 日本海海戦に於ける無線通信1

 明治28年5月27日払暁、信濃丸がバルチック艦隊を発見して無電で警報を発したことは、無電の有効性を世界に示した。
 これを聞いた無線電信調査委員会の委員たちはいかに喜んだことか。五年間の血のにじむような努力が報いられた。
(以下、中主計塚本義胤『日本海海戦』による)(*1)
 5月27日午前5時、口漱をしていると、通路の方で喧しく敵見ユとか聞こえる。飛び出して後甲板に。同僚もたくさん来る。信濃丸が敵見ユと第三艦隊に報じそれが三笠に転電された。
 お互いに「おめでとう」「今度は本当だろう」「いい時刻に来た」。後甲板は気色だった。
 東郷大将は敵位置を報告すべく命じ、麾下の第一第二艦隊に「敵第二艦隊見ゆ直ちに出港用意総汽缶に点火せよ」と命令が下された。
 総員規定のごとく出港準備した。兵員の敏捷は普段でもそうだが、この日はとくに迅速で瞬く間に整備した。三笠の檣頭を眺めて今や遅しと出港の命令を待っている。
 艦隊の各艦もそうであろう。

*1:『朝日艦より見た日本海海戦』(明治40年6月刊行)だと思います。戦艦「朝日」の記録係だった人です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5063『日露戦争と無線電信408』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月 3日(木)12時22分24秒◆◆◆

▼日本無線史(42)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[41]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
七 日本海海戦に於ける無線通信2

 片岡長官(第三艦隊嚴島)は、午前六時ごろに至り、
「敵は午前五時位置二〇三に在り東水道を通過するものの如し」
 と報ぜられた。やはり信濃丸の情報である(*1)。
 これはいよいよ本物である。
 六時五分、三笠は全艦隊に、序列に従い順次に起錨出港することを命じ、第一艦隊の二番艦敷島が嚮導をなし出動した。旗艦はまもなく先頭の位置に就き全隊を指揮された(*2)。

*1:最初は嚴島経由で「敵艦隊見ユ」だけが三笠や他の第一艦隊に届き、何時に何処にいたのかが分からず、困ったようです。この電文は「午前五時二〇三地点」と「東水道を通過するものの如し」という二つの情報が一緒にされたものですが、「午前五時二〇三地点」は第三戦隊の笠置が〇六〇二に嚴島の質問に応じて報告しています。これを嚴島が〇六〇七に三笠に転送しました。またその数分後の〇六〇八には信濃丸が嚴島宛に同様の通報をしています。それから「東水道(対馬の東側)・・・」は、その前の〇五五五に秋津洲の通報を三笠が直接受電しています。このことからも、三笠参謀の混乱が分かります。つまり、「敵艦隊見ユ」の次に「東水道・・・」が受電されて、何時に何処に居るのかが一番後になったのです。嚴島の無電と敵位置判断は最後まで混乱しており、その混乱を和泉の捨て身の索敵行動が救ったのは有名な話です。

*2:もっとも重要な人物が乗っている軍艦が先頭に立つのが勝利の要諦ですね。後から命令しているのでは志気が上がりません。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5066『日露戦争と無線電信409』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月 4日(金)11時49分56秒◆◆◆

▼日本無線史(43)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[42]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
七 日本海海戦に於ける無線通信3

 当時三笠司令部の後任参謀をしていた清河純一大尉は、敵艦見ユの時の苦労を次のように語っている(*1)。

 5月27日、日本海海戦の朝、海峡には片岡長官の率いる第三艦隊の一部、出羽司令官の率いる第四戦隊、その他種々の艦が哨戒に出ていた。
 ところが25、26日と天候が悪かったため、各艦の位置があまり正確でない。
 しかしやむを得ず、その正確ではなかった自艦の位置を図の基礎にして敵艦の位置を報告するので、三笠司令部から見ると各報告が一致しないことになる。
 三笠司令部で見ていた敵情報告はだいたい三つで、

1.第三艦隊長官の報告(*2)
2.出羽司令官(笠置)の報告(*3)
3.和泉の報告(*4)

 であり、これらの報告を図に描くと、五浬離れた平行線のようなものが出来て、敵はどの線で北上してくるのか、どの線に我が艦隊の速力針路を決めて良いのか、非常に困った。 合戦図に有るが、我が艦隊は一時非常に東の方に進み、それから西に引き返している。
 西に引き返したころには、司令部は緊張の状態で、ひょっとすると敵はもう北の方に抜けてしまったのではないか――との心配も有った。

*1:清河純一は有名な財部のもとで長く海軍信号書の編纂実務をしていて、信号書については生き字引のような人でした。そのため聯合艦隊参謀に加わっていたのでしょう。当時の聯合艦隊参謀は、参謀長が加藤友三郎、その下に先任参謀秋山眞之、その下に飯田久恒と清河純一がいました。清河がいちばん若い参謀でした。
 以下の話は、海軍通信学校の講演会で清河純一が講演した時の記録の引用のようです。『通信懐旧談』という冊子に纏められています。「敵艦隊見ユ」が届いた時の三笠参謀内のことについては、飯田久恒の思出談(回想の日本海軍)もありますし、秋山眞之の感慨なども残っていますが、いちばん詳しいのはこの清河の講演録です。一方第一報を打電した信濃丸の記録としては、信濃丸艦長名義の戦時日誌のほかに、無電機のそばにいた人(たしか小森という人)が昭和30年に書いた追憶談があります。

*2:第三艦隊の中心は第五戦隊で、その中心が司令長官の乗る嚴島で、対馬の湾に停泊して、信濃丸からの無電を三笠に取り次ぎましたが、内容は不十分でした。その後、配下とともにバルチック艦隊の情報を三笠に送りましたが、位置を大きく間違えていたようです。参謀には百武三郎などがいました。

*3:笠置は第一艦隊第三戦隊の旗艦で、参謀に有名な山屋他人がおり、信濃丸が発見した時はその北約20浬という近くにおり、かなり正確な情報を持っていて、それを嚴島や三笠に報告していました。午前五時頃に敵は二〇三地点にいた事を三笠に伝えたのはこの笠置です。ただし自艦の位置については曖昧だったようです。悪天候の中を前日から海上に居たからです。

*4:和泉は第三艦隊第六戦隊所属でしたが、当時は単独行動をとっていて、前日は悪天候を避けるために五島列島北端に避難していましたが、この日の早朝信濃丸の報告を感受して現地に急行してバルチック艦隊を発見し、信濃丸が敵を見失ったという報告を聞いてからこれに食い下がって、正確な敵位置を三笠に報告しました。和泉は早朝に宇久島の入り江に居たので、自艦の位置が正確に把握出来たのです。
 なお「東水道に向かうものの如し」はやはり信濃丸の無電で、何隻かの艦が中継していますが、三笠にこれが最初に届いたのは、和泉と同じ第六戦隊に属して単独で(和泉とはまったく違う海域を)哨戒していた秋津洲の無電でした。早朝には信濃丸から北北西35浬くらいの位置にいたようで、したがって信濃丸の無電を明瞭に受電していたのです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5069『日露戦争と無線電信410』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月 5日(土)11時58分3秒◆◆◆

▼日本無線史(44)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[43]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
七 日本海海戦に於ける無線通信4

 皇国の興廃実にこの一戦にあり――という刹那だから、私は加藤参謀長や秋山先任参謀に「つまりどこだ」と問い詰められた。
 その騒ぎのさなかに、思わぬ方角の濛気の中から突然出羽中将旗艦の笠置が見えた。
 一時間ほど前に笠置からの敵艦隊の位置の報告は有ったが、目の前にいる笠置から見てどの方角に敵の二列の大艦隊がいるのか、はっきりしない。
 我々は12隻の単縦陣で戦闘速力で航行しているので気が気でない。
 図に描いていた敵位置と現実の笠置とを結びつける事が出来なかったのだ。
 後日の弁解を言えば、結びつけて指示を出せる筈はなかった。
 笠置が示している位置は、数日前からの出動と悪天候によって実際位置と違っていたのである(*1)。
 仮に指示したとしたら、それは間違った指示になっていたであろう。
 とにかく国運を賭した重大時に非常に困惑した苦い経験だった。

*1:笠置を旗艦とする第一艦隊第三戦隊は、信濃丸がバルチック艦隊を発見した当時は第四警戒線の中央部におり、そこは発見時の信濃丸から北へ20浬ほどの海域でした。
 しかし本文にありますように数日前に出動してずっと悪天候の海上にいましたので、自艦の位置を正確に測る事ができず、三笠に報告した敵の位置(つまりは自艦の位置)は五浬程度違っていたようなのです。笠置は信濃丸の無電を正確に嚴島や三笠に伝える功績は有りましたが、自分たちの位置については、間違っていたのです。
 第三戦隊は10時44分にバルチック艦隊を明瞭に認め、それを追尾し、三笠に遭遇してZ旗を目撃したのち、2時過ぎに敵の前方を横切って大きく迂回して2時35分に敵の後尾につき、2時55分から砲撃を開始したと、戦時日誌にあります(*3)。

*2:昨日の清河純一の件ですが、海軍信号書の編纂に従事していたため信号書に詳しく、思出談の中で信号についても語っていますが、それによりますと、海域を二〇三地点などという番号で呼んで信号を簡略化する方法は、海軍信号書の第五版(明治36年暮れに制定)ではじめて登場したのだそうです(これとは別に明治35年制定の暗号書があります)。これは海域を北緯東経10分ずつに区切って番号で呼ぶもので、秋山眞之が信号書責任者の財部彪に提案したのだとされており、のちに欧米海軍士官たちを感嘆させました。ちなみに財部は日露戦争時は大本営参謀で、大正12年から海軍大臣。日露戦時の海軍大臣山本権兵衛の女婿です。

*3:各軍艦の戦時日誌は伝聞や写しではない一次資料ですから貴重なのですが、注意すべき点もあります。たとえば第三戦隊の航跡を追う場合、旗艦笠置の日誌だけを読めばいいか言いますと、そうはいきません。戦隊の各艦が同一行動を取った場合は、各艦が項目を分担して日誌を書いているからです。第三戦隊の無電の送受については、千歳がもっとも詳しく、笠置の打った無電も千歳の日誌に書かれています。万事このようですから、聯合艦隊のすべての艦の日誌を読まないと日露海戦の全体像を正確に把握することが出来ないのですが、日誌の中には相当な崩し字もありまして、私にはとてもスラスラとは読めません。日露海戦の様相を研究している人たちは、こういう崩し字を読んでおられるのだと思うと、感心してしまいます。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5072『日露戦争と無線電信411』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月 6日(日)12時39分44秒◆◆◆

▼日本無線史(45)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[44]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
七 日本海海戦に於ける無線通信5

 普通の航海において、図上に描かれたこの岬はあそこだと指示するような事なのだが、いろいろの報告が図上で錯綜し、一方自隊の速度が速くてしかも針路がしばしば変わるような場合には、ひじょうに困難な事になる。
 学問的に言えば、大戦術運動から戦術運動に聯絡する瞬間である。
 大艦隊となり高速力となると、この瞬間すなわち図上から実物の艦隊を相手にする運動に移る時がきわめて重要である。
 この時の艦影(じつは檣頭だけ)の誤認、これに基づく指導如何は、真に国家の安否に関する事態を惹起するものと言ってよい。

*:清河参謀の当時の苦労が分かる文章です。前回の文章で、三笠らの航跡が途中で大きく変わったという件ですが、たしかに三笠戦時日誌を見ると、12時半過ぎに大きな針路変更があります。その時進んでいた三笠らの位置と、針路変更して敵に遭遇した位置とでは10浬も違っています。清河参謀の焦りも分かります。その後の時間ですが、1時15分に南西微西の濛気の中に第三戦隊を認めたとありますから、これが千歳戦時日誌にあった三笠との遭遇でしょう。それから少しして1時39分に幽かにバルチック艦隊を認め、1時53分にZ旗を掲げました。第三戦隊はこれを見てから指示によってバルチック艦隊の後尾に廻ったのでしょう(最初から第三戦隊の責務や作戦は決められていたと思いますが)。そして有名な敵前大回頭/丁字戦法があり、2時10分過ぎから日本側の砲撃が始まりました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5075『日露戦争と無線電信412』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月 7日(月)11時56分18秒◆◆◆

▼日本無線史(46)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[45]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
七 日本海海戦に於ける無線通信6

 5月27日当日の報告では和泉のものが内容も整頓しており、どうも和泉を基礎にした方が良いと思ったが、何分にも第三艦隊長官(旗艦嚴島*1)が觸接部隊(*2)の最高指揮官だったので、最初のうちは嚴島の報告に重きを置いて行動した。
 日本海海戦が終わってから、和泉に居た同期生の樺山大尉にこの事を話したら、次のように答えた。
「自分も嚴島や笠置の報告は位置が違っていると思ったが、第三艦隊長官の報告が違っているとは言えなかった」(*3)
 和泉の報告が正しかった事は後で分かったが、これは当然だった。
 26日は風波が激しかったので和泉は宇久島に仮泊していた。そこへ敵発見の警報が来たので、すぐに錨をあげて進むと敵に遭遇し、以後觸接したので、艦の位置はきわめて正確だったのである(*4)。
 いずれにせよ、司令部が混乱するほど豊富な情報が集まったというのは、日本海軍が無線電信を全幅活用したからである。

*1:第三艦隊のもとには第五戦隊・第六戦隊・第七戦隊などがあり、もっとも正確な情報を送った和泉は第六戦隊に属していました。旗艦嚴島は第五戦隊でした。
 索敵作戦に従事していた主要艦船は、台中丸指揮下の仮装巡洋艦隊(信濃丸、佐渡丸など)および第三艦隊および第一艦隊の第三戦隊でした。とくに第三艦隊第録戦隊は各艦バラバラに位置に展開して大活躍していました。文中に出てくる笠置は第三戦隊ですが、この戦隊は位置は間違っていたものの、信濃丸のすぐ近くにいたので、電文そのものは正確でした。

*2:觸接は接触とまぎらわしいですが、敵艦がよく見える位置に食い下がって警戒を続けるという意味です。海軍の作戦用語集によく出てきます。

*3:和泉は第六戦隊ですが、それは第三艦隊に属しており、その長官が嚴島の片岡中将ですから、上官の間違いを指摘する事になり、とても言いにくかったのでしょう。清河大尉は思出談の中で、たとえ上官であってもこういう場合には正直に言うべきだと、述べています。

*4:この話は前にも書きました。宇久島を起点にして艦速と針路を図に描けばよいので、かなり正確だったのでしょう。なお和泉や信濃丸の当日の航跡図は『極秘明治三十七八年海戦史』に有り、インターネットで公開されていますが、白黒二色で小さな文字は不鮮明でして、とても見にくいです。本物は黒と赤と青の三色が使われ、小さな文字も鮮明です。『極秘明治三十七八年海戦史』の他の資料も、こういうカラーと精密度が消されてぼやけた像がインターネットに出ている事が多いですね。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5078『日露戦争と無線電信413』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月 8日(火)12時14分16秒◆◆◆

▼日本無線史(47)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[46]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
七 日本海海戦に於ける無線通信7

 日本海海戦で日本海軍が無電を最大限に活用したことは、第二艦隊旗艦出雲の参謀だった山本英輔が受信した記録を見れば判る。
 山本英輔は戦時になると受信機を防禦区域である弾薬通路に移して、横架式のアンテナを張って、砲撃中でも使えるようにして、最大限受電して記録した。
 日本海海戦中もっとも多くの無電を感受し記録したのは出雲である(*1)。
 それらの中の重要電文を以下に記す(*2)。
(略)
 その数は、
 5月27日:117通
 5月28日:112通
 5月29日:65通
 5月30日:14通
(*3)

 山本英輔は後に、彼の無電日誌の中の日本海海戦時電文のみを切り離して一巻の巻物にして東郷平八郎の閲覧に供したところ、東郷元帥も当時を想起して感慨深いと言われ、その巻物に「無窮の皇威を発揮し感銘限りなし」の題字を記した(*4)。
(*5)

*1:本節の話は前に何度か記しました。横架式についても記しました。山本英輔自身によるこの横架式アンテナの図を下に示します。

*2:実際にはこれは全部ではなく、もっと多かったと思いますが、このような記録を残した事は賞賛に値します。これらに比べてロシア側の記録はまことに杜撰なものです。
 信濃丸がバルチック艦隊を発見してから数時間にわたる無電については、前にこの連載で多くの資料を掲示しましたので、電文そのものは略します。あれから整理を続けまして、とくにほとんどの軍艦の戦時日誌を通読しましてそこにある無電記録を収集して表を作りました。それらは本にした時に附録に示しますが、一般の日露戦記に書かれている信濃丸の無電を嚴島が中継して三笠に云々・・・という記事は相当な省略があると分かりました。

*3:これは飛び交った無電の中で山本英輔が記録した数ですが、有線の方はどうかと言いますと、鎮海湾奥の台中丸が三笠の指示を受けて海底ケーブルで海軍省に送った有線電報の数は、
 5月27日:152通
 5月28日:275通
 5月29日:144通
 平均字数は62字/1通
 海軍省が発信して台中丸が受信した数は不明ですが、発信から受信までの平均時間は27分だったそうです。これは日清戦争の時代にくらべて格段の縮小です。さらに電信が無かった時は朝鮮からの情報が届くのに何日もかかったわけですので、大変な進歩です。

*4:この巻物は幸いにも戦禍を逃れて保存され、現在でも横須賀の三笠記念艦に収蔵されています。下の写真は太平洋学会の雑誌に有ったものです。

*5:本節の話ではありませんが、三笠が送受した無電の記録は三笠の戦時日誌に有ります。重要なものだけですが。この三笠戦時日誌はだいぶ前に活字化されて全四巻の立派な本になっていまして便利なのですが、元の戦時日誌がすべて活字化されているわけではないので注意が必要です。とくに無電の箇所では大きな洩れがあります。読んでいてどうも納得いかなかった箇所があり、JACARで元の日誌が公開されたので読み比べてみたところ、ごそっと抜けていた事が分かりました。また図面はすべてトレースし直していますので、活字化の方が綺麗なのですが、トレースした時に省略してしまった箇所も有るようなので、これも注意が必要です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5081『日露戦争と無線電信414』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月 9日(水)11時25分5秒◆◆◆

▼日本無線史(48)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[47]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
八 露第二艦隊の無線電信1

 日本海海戦でバルチック艦隊(露第二艦隊)が、艦隊内でも無電を使わず、日本艦隊通信にも妨害を加えなかった(*1)のは、日本側にとって意外の幸事だった。
 これについて、ドイツから出たらしい話によると、出発時にドイツのテレフンケン会社から無電機を購入して装備し、ドイツ人技師を雇って通信任務をさせていたが、艦隊がマダガスカルに来るまでにドイツ技師はロシアの軍紀退廃に愛想をつかして、同島で逃げてしまった。ロシア人はネズミが逃げたと侮蔑していた(*2)。
 木村駿吉の想像では、降伏ロシア艦にあった印字式受信機は化粧した木台の上に体裁良く配置しているもので、自己送信の電流誘導に何らの対策もなく、英仏海峡に来るまでに使用出来なくなり、ドイツ技師も持てあまして逃げてしまったのだろう――という事だった(*3)。

*1:これは正確な表現ではありません。その理由は明日記します。

*2:ネズミが逃げるというのは艦船にとって縁起の悪い言葉。

*3:送信電力が受信機に洩れると、受信機が壊れる恐れがありますので、日本の無電機では何重もの防禦をしていました。受信機は金属でカバーされた箱に入っており、その箱の蓋をあけて受信しようとすると、送信機のスイッチが切れて送信電波は出ないようになっていました。
(ここの記述はあくまでも推理であって、正直、不明な点もあります)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5084『日露戦争と無線電信415』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月10日(木)12時47分53秒◆◆◆

▼日本無線史(49)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[48]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
八 露第二艦隊の無線電信2

 前川義一大佐(*1)の語るところによると、
「敵は遂に信濃丸の電波に気付き、直ちにゼムチューグ型の快速巡洋艦一隻が列を離れてまっしぐらにわが信濃丸を追ってきた」
 と語っているので、ロシア艦隊の一部では破損しない音響受信機が有って、傍受していたと思われるが、全体としては不完全で実用出来ぬ程度に劣化していたのだろう。
(*2)

 日本海海戦の捷報が続々と内地に伝わり、無線電信が大捷の大きな要因だったと知り、木村駿吉は驚喜措くところを知らず、思わず工場の床に跪いて合掌したという。
 それ以後一年くらいの間は、感謝の念で一杯で気抜けした思いであったと述懐している。
(*3)

*1:第四回の将校向け無電講習を受けた人物で、最初は初瀬の無電担当となり、日本海海戦時は大尉で信濃丸の無電担当士官でした。

*2:ここでは、日本側の無電にロシアが気づいたという話だけですが、信濃丸戦時日誌を読みますと、しばしば無電妨害を受けた――と記されています。したがって送信も一部では可能だったのでしょう。

*3:内地で懸命に協力していた技術者の多くが、同じような述懐をしています。まさにのるかそるかの総力戦でした。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5088『日露戦争と無線電信416』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月11日(金)11時15分15秒◆◆◆

▼日本無線史(50)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[49]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第四節 日露戦役に於ける無線電信の活用
九 無線の偉功に対する反響

 ここには信濃丸への東郷司令長官の感状と、島村速雄と秋山眞之から木村駿吉に届いた書簡が活字化されて示されています。
 その内容は有名なものですし、本掲示板で何度も話題にしましたので、割愛します(*1)。

 陸海軍が凱旋したのち、兒玉大将・乃木大将・野津大将・黒木大将・奥大将・川村大将は造兵部無電工場に来臨、木村駿吉に親しく挨拶があり、またその後山県元帥も単独で、島津老公爵も単独で来臨した(*2)。
 さらに東大教授助教授五、六十人もが見学に来た。
 木村駿吉は時の人となった。

 戦勝祝賀のために英国ムーア中将が来日し、その中の一名の大尉が無電工場を見学に来た。
 大阪中之島で同艦隊歓迎会が有った時、木村駿吉も出席し、そのあと英国軍艦の一隻に乗って呉まで行った時、同艦装備の無電機を艦長の特別の好意で見学したが、受信機はマルコーニ発明の磁気検波器だった(*3)。
 東郷平八郎主催で浜離宮でなされたムーア中将歓迎会にも木村駿吉は招待され、齋藤海軍大臣からムーア中将に紹介され、また東郷大将からも親しく挨拶を受け、面目をほどこした(*4)。

*1:島村速雄・秋山眞之からの書簡の活字化はいくつかの資料に有りますが、どれも大まかなものです。この「日本無線史」にある活字化も、やはり大まかですので、厳密に検討するには原書簡を読む必要があります。
 この二つの原書簡の鮮明な写真は、明治38年9月の日付で発行された木村駿吉の『世界之無線電信』の巻頭にあります。
 秋山眞之の書簡そのものが掛け軸の形で横須賀の記念艦三笠に収蔵されていますが、これは木村駿吉の本のものと、文章は同じでも改行箇所などが微妙に違っており、後に記念艦のために書き直したもののようです。
 なお無電機のモデルとこの二つの書簡は戦前は記念艦三笠の他に海軍館にもありました。出口に近い廊下ですが、海軍館は入り口と出口が同じ箇所にありましたので、入り口の近くでもあります。ただしその展示の写真が見つからず、無電機のモデルが記念艦三笠のものと同様だったかどうか、また書簡が自筆のものだったのか写真複写だったのか、などが不明です。

*2:見学に来た大将たちはみな陸軍であり、陸軍が海軍の無電の成功を見て強い関心を示していた事が分かります。海軍の要人たちは、実際に軍艦の中で無電機を見ていますので、見学には来なかったようです。

*3:マルコーニの磁気検波器というのは、日本にも特許が出されたもので、磁気の作用を応用した音響型です。

*4:この時は木村夫人も一緒に招待され、一生の思出になったようです。
(ちょっとわからなくて困っておりますのは、ムーア中将の来日の日程です。記録されている二つの歓迎会は別の資料にも有るのですが、月日が不明なのです。もし御存知の方がおられたら、教えてください)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5098『日露戦争と無線電信417』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月15日(火)12時50分25秒◆◆◆

▼日本無線史(51)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[50]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
一 無線操縦魚雷[1]

 日露戦役後の特色ある研究として無線操縦魚雷がある。
 日露戦争の末期、日本海海戦の前に、ダイナマイト砲・魚雷砲などの発明者、アメリカのシムスの無線操縦魚雷を注文した。
 シムスは海戦後に魚雷と操縦器を持って来日した。
 海軍では明治39年に「特別自動水雷審査受領委員会」が設置され、海軍水雷学校長だった木村浩吉(*1)が委員長になり、艦本、水雷学校、横須賀工廠などから委員が選ばれ、木村駿吉も委員になった。
 操縦器の組立調整は造兵部の工場で行い、吾妻山の上から双眼鏡で見ながら操縦電波を送った。

*1:木村浩吉は木村駿吉の兄で、水雷の専門家。この年の三月に水雷術練習所の所長に就任していました。水雷術練習所は翌年水雷学校に改組され、浩吉はそのまま学校長になりました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5101『日露戦争と無線電信418』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月16日(水)11時17分43秒◆◆◆

▼日本無線史(52)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[51]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
一 無線操縦魚雷[2]

 魚雷の外に飛び出したアンテナ、魚雷内のコヒーラ受信機などから出来ており、無電によって「起動」「半速」「全速」「面舵」「取舵」「停止」の六種の操縦が出来るもの。
 動揺のために水平位置を失わないようにこれを吊し、圧搾空気の力で走らせるものである。
 これを岩陰などに隠しておき、その近くを航行する敵艦に衝突させ沈没させるものである。
 試験の結果、六種の操縦は出来たが、実用上の欠点が多数有った。
「魚雷の速度が緩くてとても敵艦に追いつけない」
「波浪が高いとコヒーラや継電器が不良になる」
「少し遠くにゆくと見えなくなって操縦不能になる」
 こういう欠点があるので、一年あまり試験したが、実用性が無いと判断して打ち切った。

*:無線による魚雷の遠隔操縦は、現代の諸兵器の先取りで、さすがはアメリカ人だと思いますが、当時の技術力ではとうてい実用にはなりませんでした。
 外波内藏吉が考えた曲行水雷も、効果が有ったようには見えません。
 ですから木村駿吉の判断は正しかったのですが、技術の進路には沿った発明品だったと思います。
 海軍の研究課題にしてもよかったのではないでしょうか。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5107『日露戦争と無線電信419』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月19日(土)12時21分50秒◆◆◆

▼日本無線史(53)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[52]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
二 第一回國際無線電信会議[1]

 日本海海戦における日本の無電活用は世界に注目された。
 マルコーニの発明を活用して成果をあげる英国の無電事業を快く思っていなかった独逸皇帝ウイルヘルム二世は(*1)、1903年に國際無線電信予備会議を伯林で開催し、ついで1906年(明治39年)に第一回國際無線電信会議が伯林で開催された。
 予備会議には日本は招待されなかったが、第一回の会議には逓信省電気試験所長の淺野應助を首席として、海軍と逓信省の委員が出席した(*2)。
 海軍からは八代六郎、百武三郎、木村駿吉が出席した。

*1:独逸皇太子が訪米帰途に本国に打った無電を、方式が違うとしてマルコーニ社が中継しなかったことが英独間トラブルの発端だと言われます。

*2:この第一回本会議も、予定より大幅に遅れました。その理由は英独間で意見の調整がつかなかったためと言われています。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5109『日露戦争と無線電信420』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月20日(日)11時24分51秒◆◆◆

▼日本無線史(54)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[53]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
二 第一回國際無線電信会議[2]

(以下には木村駿吉の思出談がかなり長く記されています。これは前にも書いた事がありますが、あらためて抜萃します)

 第一回國際無線電信会議は、海上船舶と海岸局の無電に関するものだった。
 日本側委員は、海軍は、木村の他に在独の八代と百武。逓信省は淺野と在仏の田中次郎通信事務官。あとパリにいた仏語学生の滝川(後に外語教授)。
 会議用語は仏語で、しかも術語はふつうの語学者には訳せないので、日本側委員は聾唖であり、日本側の提案もなく他国の議論にも加わらない有様だった。
 私は仏語が多少は分かり、また内容は専門なので、推察が出来た。そこで配られる議事録を英訳して、委員に回覧した。それで委員は遅まきながら会議の様子を知った。

*:正直、珍妙な委員団だったことが分かります。海軍は木村駿吉がいたので大体の事は理解しましたが、逓信省は淺野委員長が(技術系ではあっても)無電には詳しくなく無電は実用性が無いという意見だった人ですから、木村駿吉の独壇場になってしまい、とても口惜しがったようです。後の逓信省の省史には、この國際会議についても書かれていますが、驚く事に、木村駿吉の名前はまったく出ていません。典型的なお役所根性ですね。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5112『日露戦争と無線電信421』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月21日(月)11時26分0秒◆◆◆

▼日本無線史(55)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[54]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
二 第一回國際無線電信会議[3]

 会議で討論中は日本委員は沈黙の美徳を守り、会議が終わると日本人どうしで大議論する。
 日英同盟が有ったので、議論はするものの結局英国のするとおりにするのが良いと結論で大いにリベラリズムを発揮し、英国が賛成する事には賛成し、反対する事には反対した。
 ある日、海岸局の電力を一キロに制限するかしないかという問題が起こった。
 私(木村駿吉)は次のように考えた。
 逓信省の遠距離用には海底ケーブルがある。
 しかし海軍は外国局は頼れない。
 しかも海軍無電機の距離を伸ばす必要がある。
 一般海岸局の混信は避けるべきである。
 したがって海岸局から一般船舶への無電は近距離に限るのがよい。
 日露戦争でも、軍艦はアンテナも低く電力は600ワットで、200浬にも達した。
 だから海岸局の電力を一キロに制限しても、アンテナを高く出来るのだから500浬には達するだろう。

*:ワット数の問題には、いろいろな条件をつけて考えねばなりませんが、木村駿吉のこの考えは、とても単純ではありますが、電離層反射の利用が無ければ大体はあたっていると思います。他の委員はこれよりずっと低レベルだったと思います。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5115『日露戦争と無線電信422』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月22日(火)11時37分36秒◆◆◆

▼日本無線史(56)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[55]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
二 第一回國際無線電信会議[4]

 無電について世界で唯一実用経験のある日本が國際会議で一度も発言しないのは不都合なので、
「海岸局は一キロで十分だということを発言する」
 と淺野博士に言ったところ、彼は怒ってしまい、
「君がそんな発言をするなら僕は今からすぐ帰国する」
 といきまいた。
 そのうち淺野博士は病気になって入院したので、私は何も発言せずに済ませた。
 日本海大捷の直後であり意気軒昂の余炎が手伝ったのであろうが、今日では100キロの放送もある世の中になった。時勢の変化は驚くべきものである。

*:木村駿吉の「一キロで十分」という意見が違っていたとも限りません・・・と思います。もともと電離層反射を使わない無電ですから、一キロ以下でも以上でもあまり変わらなかったと思います。それよりも周波数制限とか変調方式とか同調とかの方がずっと大切です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5118『日露戦争と無線電信423』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月23日(水)11時00分16秒◆◆◆

▼日本無線史(57)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[56]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
二 第一回國際無線電信会議[5]

 伯林の國際会議から帰ってしばらくして、海軍省に出頭を命じられ、齋藤(實)大臣の部屋に通された。少しすると逓信次官の小松謙次郎君が入ってきた。
 私は、國際会議の一キロの件だなと直感した。小松君は淺野博士からの報告によって憤慨して海軍大臣に直接談判に来たのだ。
 私は被告の立場に置かれたらしい。
 私は小松君の横顔を見ながら考えた。
 彼は分科こそ違うが予備門から大学まで同学年で、同じ寄宿舎で同じ風呂に入って放談した仲だ。
 その彼が海軍大臣の前で勝手な熱を吹いたら承知せんぞ。
 こんな事を考えている間に、小松君は大臣に向かって何か言っていたが、気づいた時には五、六秒ムニャムニャと言って帰ってしまった。
 私はお咎めなしで築地に戻った。

*:木村駿吉の話は分かりにくい事が多いのですが、これもちょっと分かりにくいです。しかしとにかく、問題にすべきような事ではありませんし、逓信省の海軍省へのジェラシーは明治時代から相当なものが有ったと分かります。このような逓信(後の郵政)と海軍の角逐は大東亜戦争の最中もずっと続いており、じつに海軍が消滅して戦後になっても続いていたそうです。
 こんな事していちゃ戦争に勝てませんよ。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5121『日露戦争と無線電信424』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月24日(木)12時10分36秒◆◆◆

▼日本無線史(58)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[57]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
二 第一回國際無線電信会議[6]

 会議にゆくためある所での送別会に出ていると、報知の知人社員が来て、あるドイツ人が木村駿吉はドイツの技術を盗んだのだとドイツ新聞に発表し、その通信がドイツから届いた――と知らせてくれた。
 私は翌日造兵部の工場に戻ってその返答を書いた。
 それは東京、大阪、九州の各新聞が掲載してくれた。
 伯林に滞在中、その男の朋友というのが来て、何かしきりに喋ったが、いっこうに分からない。取り合わなかったら二度と来なかった。

*:これが有名なドイツによる誹謗中傷の事件です。新聞記事や木村駿吉の反論も入手して読んだ事ありますが、なんといいますか、ドイツマスゴミの人種差別的病弊は明治時代からだとわかるような記録です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5124『日露戦争と無線電信425』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月25日(金)12時17分8秒◆◆◆

▼日本無線史(59)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[58]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
二 第一回國際無線電信会議[7]

 もっと驚いた事が有った。
 シャーロッテンブルヒ工科大学のスラビー博士(*1)が、日露戦役に使用した受信機は日本が自分の発明を盗んだだと、途轍もない事を言い出したのだ。
 ある宴会で大使館付き武官の八代大佐(*2)に向かって、戦争の時は誰の発明を盗んでもかまいませんよ(*3)、と言ったそうだ。
 これは八代大佐から親しく聞いた事である。
 こんな連中が自分の独り決めで、盗んだ盗まれたと自己陶酔するのは開いた口が塞がらない。
 かかる事を平気で公言する連中は、どんな記録を人知れず書き残しておくか分からない。

*1:スラビー博士は、ドイツのテレフンケン無電機開発者の一人。マルコーニの無電機を見学してそれを真似て作ったとも言われています。とにかくドイツ人は、日本蔑視が強いですね。たしかに技術的には優れており、日露戦争後に日本も輸入してテストしています。

*2:八代六郎。國際無電会議の時に欧州に駐在していたので出席しました。日露戦争では淺間の艦長として勇猛な活躍をし、のちに海軍大臣にもなりました。ジーメンス事件という海軍の不祥事を終息させたことでも知られます。

*3:当時のドイツには、たぶん戦時特許法が出来ており、そのような規定が有ったと思います。日本はまだ戦時特許法が無く、木村駿吉はこの発言がどこから来たのか、理解していなかったようです。日本が戦時特許法を作ったのは、大正期の第一次世界大戦の教訓によりますが、ドイツはじめ欧州各国の特許法を参考にしたようです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5127『日露戦争と無線電信426』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月26日(土)12時21分14秒◆◆◆

▼日本無線史(60)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[59]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
二 第一回國際無線電信会議[8]

 故・法学博士、岸清一君(*1)が私に、
「明治35年に外波木村両君が欧米視察に行った時、海軍省から密命があって、外国に行ったら、良さそうなものを盗んで来いとのことであったと、戦役直後学者間の噂話を耳にしたが、それは真実か」(*2)
 と、途方もない質問をしたことがあった。(*3)

*1:前にも書きましたが、代々木の岸記念体育館にその名を残している、弁護士で法学博士の岸清一です。木村駿吉とは、東京電気の特許問題解決のために一緒にアメリカに行った事があり、知人でした。

*2:他の資料には、新しい材料を見たら、それをつまんで爪の間に入れて持って帰れ――と命令された・・・こんな話も書かれています。
 洋行したら「爪の間に隠して、持ってこい」という話は、私が就職したころに笑い話として聞いた事が有りました。ですから私は、戦後の復興期の話なのかと思っていましたが、どうやら明治時代から有った一種の笑話だったようです。火薬なんかもそうです。
 むろんそんな事は相手がさせませんけど・・・。

*3:当時の無電機は世界の物理学者が取り組んでいた課題でして、それを日本では大学教授では無い木村駿吉がやってのけ、大学の有名教授は見ていただけでした。
 その悔しさからか、木村駿吉への嫉妬が生じ、駿吉の名誉を傷つけるような話が飛び交ったようです。木村駿吉の博士号への猛反対なども、どうやら実際に有ったらしいです。
 ビタミンを世界で最初に発見した農学の鈴木梅太郎のノーベル賞についても、似たような話がありますね。鈴木がもし物理学科の教授だったら、絶対にノーベル賞だったと言われています。本当かどうかは知りませんが、先日亡くなった谷沢永一が書いていました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5129『日露戦争と無線電信427』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月27日(日)12時26分43秒◆◆◆

▼日本無線史(61)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[60]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
三 無線技術の進歩[1]

 明治41年12月25日に無線電話改良委員会が組織され、当時水雷学校長だった岡田啓介大佐(*1)が委員長に任命された。
 研究の対象は主として京大水野敏之丞が提案していた水素ガスを用いるアーク式無線電話だった(*2)。
 明治42年1月13日には、無線電信調査委員会が再発足した。
 委員長は艦政本部の村上格一少将で、岡田啓介水雷学校長も委員に入り、軍務局、軍令部、艦政本部、水雷学校、横須賀工廠から委員が選ばれ、海軍無電の改良が推進された。
 当時はまだ無電研究は横須賀でなされていたが、木村駿吉を中心とする横須賀工廠造兵部内の無線研究班と、黒瀬精一(*3)を中心とする海軍士官よりなる水雷学校の研究班とが有った。
 木村駿吉は水雷学校の教官もかねていて双方の連絡を図るようにはなっていたが、時には両者の意見が対立することも有った(*4)。

*1:後の海軍大臣→総理大臣として知られます。

*2:木村駿吉に対抗意識を燃やした水野教授については何度か書きました。アーク式(電弧式)というのは、アーク放電という放電が、ある電圧の範囲内で負性抵抗を見せる性質を利用して連続的な電波を発生させる方式で、ヨーロッパが先祖です。
 負性抵抗というのは、ふつうの抵抗Rが電気エネルギーを消費するのに対して、−Rという形で表現されて、電気エネルギーがそこから出てくるように見える抵抗です。
 つまりそれ自体が一種の発振器になっています。
 この研究は木村駿吉もやっていましたが、うまくゆかなかったようです。
 後に海軍や逓信省である程度は作りましたが、真空管の登場によって姿を消しました。

*3:黒瀬は第一回の士官用無電訓練を受けた人で、のちに無電機開発部隊の中心になりました。たしか第二回國際無電会議にも出ています。木村駿吉との関係は不明ですが、最初は上下関係で後には独立して開発にあたったと思います。四三式の前の四〇式はこの人の開発です。

*4:木村駿吉に双方の連絡係など、絶対に出来ません。無理です。菅直人にパフォーマンス以外の事をやれ――というのと同じくらい無理です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5132『日露戦争と無線電信428』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月28日(月)11時18分20秒◆◆◆

▼日本無線史(62)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[61]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
三 無線技術の進歩[2]

 木村駿吉の思出談によれば、無電送信機にクエンチドスパーク(瞬滅式)が用いられたのは日露戦役後五、六年たってからで、(第一次)世界大戦中はこの方式だった。
 受信に鉱石検波器(*2)が用いられたのは明治四十一、二年ごろで、海軍では軍艦と駆逐艦の通信に悩まされて、四三式の受信機にこれを用いた。
 四三式(*3)は合調音響受信機(*4)だったが、当時海軍は予算も少なかったので、蓄電器は紙と錫箔で作られ木箱に収められた。
 受聴器だけはサリバン4000オームの上等品を使用した。

*1:瞬滅式という送信方式は、その原理の理解が難しく、当時の解説はすべて舌足らずです。木村駿吉も理解出来ていなかったようです。
 しかしとにかく性能が良いので、ドイツのテレフンケンなどは、日露戦争直後からこの方式を使っていたようです。

*2:鉱石検波器は鳥潟博士の研究が世界に先駆けていて有名ですが、木村駿吉も必死で研究していました。

*3:四三式は、木村駿吉が海軍で開発した最後の無電機です、アンテナの低い駆逐艦などでは好評だったようで、一時はほとんど全ての海軍艦舩に装備されました。
 しかし残念ながら性能的にはドイツ製にかなわず、短期間で消えてゆきました。

*4:音響受信機は日露戦役後の世界的傾向で、京大の水野博士らも主張していましたが、木村駿吉も初期にかなり研究しており、ユニークな発明もしています。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5135『日露戦争と無線電信429』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月29日(火)12時11分21秒◆◆◆

▼日本無線史(63)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[62]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
三 無線技術の進歩[3]

 四三式が、それまでの印字式から合調音響式に変わったのは大きな進歩だった(*1)。
 当時黄鉄鉱は銅山の不要槽にされ山と積まれていたので、六トン貨車一杯が50円くらいで買えたが、海軍で使うと分かってから高騰した。
 米国からパイロンという優れた検波器を造兵部に持ってきた外人がいたが、これはアイロン・パイライト(黄鉄鉱)から付けた名前で、すでに海軍で使っていた(*2)。
 そのころ造兵部に横田という勤勉な一等兵曹がいて、木村駿吉が各種の鉱物について試験をさせた結果、優良なものとして見つけたのが黄鉄鉱だった。

*1:合調すなわち同調を取る方式は、三六式開発の時から検討はしていましたが、コイルやコンデンサを作る技術も理論も未発達で、あきらめていた方式です。また音響式は、記録に残る印字式に座を譲りましたが、もともと木村駿吉は音響式を研究しており、変更に抵抗は無かったと思います。無電通信士の技能が向上してきて、音響式でも間違えないようになってきたのでしょう。

*2:名前から、これの正体が黄鉄鉱であると見破った事は、木村駿吉の自慢話になっています。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5138『日露戦争と無線電信430』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月30日(水)10時03分57秒◆◆◆

▼日本無線史(64)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[63]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
三 無線技術の進歩[4]

 ドイツのレッヘル管、英国のフレミング管を海軍で提唱しはじめたのは日露戦役後二、三年の事であったが、ついに実用にはならなかった(*1)。
 ド・フォレの三極真空管が発明されたのは明治39年だが、第一次大戦で米国が参戦してからラングミュアの電子真空管が現れ、ついで真空管式無線電信電話にまで発達した(*2)。
 第一次大戦の中頃までの受信検波用真空管はガス電離の原理に基づくソフト・バブルで、動作不安定だったが、ラングミュアの真空管はハード・バブル(*3)で、動作は安定になった。

*1:残念ながら、真空管については海軍は日本での先鞭を付けることは出来なかったようです。

*2:日本勢はやはり米国の後追いでしたが、日本では天才少年安藤博が出現して、十代で実用性の高い多極真空管を発明して世界に先鞭をつけ、特許抗争にも打ち克ちました。
 安藤の無電機関連の発明は、老舗のマルコーニ社にも売れました。

*3:高真空の真空管で、後の真空管時代はほとんどがハードバブルです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5141『日露戦争と無線電信431』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 3月31日(木)12時06分13秒◆◆◆

▼日本無線史(65)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[64]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
三 無線技術の進歩[5]

 日露戦役の一、二年後(*1)、海軍省の命令で、京大水野敏之丞教授の発案した受信機と、海軍在来の受信機とを大王崎(*2)と軍艦との間で比較実験する事になり、軍艦二隻(*3)が大王崎と金華山沖を往復することになった。
 艦政本部の鶴内実太郎中佐が立ち会った。
 水野教授のものは、軍艦が大王崎のすぐ下に来た時にようやく受信できた。
 木村駿吉のものは金華山沖までずっと明瞭に受信できた。
 後の調査では、水野博士のものはドイツ人発明の電解検波器を使用した音響受信機だったが、海軍ではすでにテストをしており、ごく近距離でないと実用出来ないことを知って実用にはしなかった方式だった。(*4)

*1:明治41年8月のことだった。

*2:志摩半島南東端で、海軍の無電望楼が有った。

*3:海軍は「音羽」、京大は「満洲」を使用。

*4:ここの文章では受信機のみの試験のように書かれていますが、送受全体で、水野教授のは外国文献を参考にして研究室で作ったもの、海軍は黒瀬・上田両士官が製作した四○式だったようです。したがってこの文章はやや不正確です。海軍側は送信には複球式放電を用い、受信は音響(京大方式に近いもの)と印字式と両方使っていました。受信回路は海軍京大ともに同調式を目指した方式でした。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5144『日露戦争と無線電信432』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月 1日(金)08時50分44秒◆◆◆

▼日本無線史(66)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[65]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
三 無線技術の進歩[6]

 海軍では同調式についての知識は持っていたが、実行はされなかった(*1)。
 造兵部で研究が進み、波長計が出来、これによって研究したところ、同調の必要性が確認された。
 そのころ鉱石検波器が発明され、受信機に同調用やブロック用のコンデンサが加えられ、四三式が出来た。
 それまではアンテナが軍艦でも望楼でもほぼ一定の高さであり、波長は600メートル程度だった。
 しかし駆逐艦にも無電を積むようになり、同調式が必要となった(*2)。

*1:当時の技術では、所定の容量を持ったコンデンサを製造する事が出来なかったようです。

*2:火花式送信機では、アンテナによって発振周波数が変化しました。
 駆逐艦のような小さな艦と、大型の軍艦とではマストの高さが違い、したがってアンテナの高さも違っていて、発振周波数(波長)が違ってしまったのです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5148『日露戦争と無線電信433』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月 3日(日)12時13分1秒◆◆◆

▼日本無線史(67)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[66]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
三 無線技術の進歩[7]

 山本英輔は、日露戦役後、海軍大学校に入学し、戦時中の経験を元にして無電に関する意見書を出した。
 そこでは、記録する必要上、印字機を使用すべきとしていた。
 しかし(世界の趨勢は)感度の点から音響が主流になりつつあり、京大水野教授も音響式を主張していた。
 また、世界では同調式の採用が盛んで、海軍だけが非同調なのは時代遅れだという意見が海軍内部からも出た。
 木村駿吉は同調式よりもむしろ非同調式のエネルギーを増した方が良いという意見だったが、山本英輔らは同調式を主張した。
 木村駿吉はその後は同調式を受け入れ、同時にエネルギー増大も図って、四三式が出来た。
 結果として、海軍としては、受信には同調式音響受信、送信には同調式勢力増加をもって進むことになった。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5151『日露戦争と無線電信434』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月 5日(火)10時41分31秒◆◆◆

▼日本無線史(68)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[67]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
四 無線に関する制度の改正[1]

 日露戦役後、海軍の無電の施設や運用や制度の改善が試みられた。
 明治41年、聯合艦隊司令部に、第一艦隊付として海軍大尉上田良武(*1)が、通信幕僚として配属された。
 これは、艦隊に通信幕僚を設けた最初だった(*2)。
 戦役中、無電について功績の有った山本英輔は、戦後海軍大学校を出て軍令部参謀になり、明治42年1月には無線電信調査委員会委員になり(*3)、制度や技術について大きな貢献をした。

*1:黒瀬精一などとともに、四〇式を開発した将校です。どういう経緯で無電機開発に従事するようになったかは不明です。

*2:日露戦争の時も、重要な軍艦には無電の訓練を受けた将校が配属されましたが、それは従来の参謀としての仕事や、将校としての仕事の傍らで、専任ではありませんでした。

*3:前に記した日露戦役後の委員会です。このころになりますと、先端的技術を勉強している優秀な将校が増えてきて、木村駿吉の出番は減ってきたようです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5153『日露戦争と無線電信435』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月 6日(水)22時12分49秒◆◆◆

▼日本無線史(69)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[68]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
四 無線に関する制度の改正[2]

 山本英輔の貢献の具体例――
 望楼制度改正の意見を出した。
 当時の望楼には文官が当てられ、予備の者はなく、僻地にいて練習しないから技量が落ちている。
 そのため信号の送受も無電機の取扱もうまくいっておらず、改正しなければならない。
(*1)
 ついで、電信兵の独立について意見を出した。
 当時は通信術を習った信号兵が片手間に無電を扱っていた(*2)。
 しかし信号兵はラッパも吹くし通常の信号も行う。
 そのため無電に習熟しないので、電信兵を独立させるべきである。
 またそれを監督する制度も、航海長に無電を教えて電信兵を監督させるようにする。このために兵学校で通信を教えるべきである。
 その他、各艦に無電の監督将校を乗せること、艦隊に一人の監督将校を配属することを提案。
 これは後に、各艦の通信長、艦隊の通信参謀として実現した(*3)。

*1:望楼への兵卒配置は困難な問題で、日露戦争の時代は、なにしろ望楼の数が多く無電を練習した兵卒はわずかしかいない――という現実があって、やむを得なかったと思います。改正は当然ですが、この問題は、大正に入って望楼が激減したので、解消されたようです。

*2:外波内藏吉らの提言によって兵卒の無電訓練が開始されたころは、無電は電気を扱うので電気の知識が必要であり、そのため水雷術の訓練を受けた兵卒たちが選ばれました。水雷術は電気を使うからです。
 しかしやがて、電信も信号の一種であり、後の事を考えると、信号兵から選んで訓練した方がよい――との意見が出て、信号兵が増えたようです。
 ただ、海軍の信号兵の仕事は大量かつ重要で、なかなか両立は難しかったのでしょう。
 なお、海軍における信号と通信は、明治以来の伝統があって、なかなか一緒にならず、昭和までずっと分離した状態が続いたようです。

*3:少し前に記しました、上田大尉が最初だった件です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5155『日露戦争と無線電信436』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月 7日(木)11時40分57秒◆◆◆

▼日本無線史(70)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[69]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第五節 日露戦役後に於ける無線
四 無線に関する制度の改正[3]

 山本英輔の業績の続き
 地中海のシロッコ・ウインド(*1)が吹く時は無電の状態が悪いという文献を翻訳。
 地勢によって無電の届き方が違う事に気付き、各軍港の地勢を調査(*2)。
 電信所の形式を二、三種に限定して、急速建設を可能ならしめた(*3)。
 明治41年春、有栖川若宮が薨去されたとき、雪のために東京から横須賀までの有線電信電話が不通になり、急遽海軍大学校で試験していた無電機を使って横須賀まで通信し、非常時における無電の大切さを認識し、有線が有る場合でも非常時に備えて無電を設置すべしと主張(*4)。
 無線電信の通信規則を作った。これが後の通信規定の始まり。
 電信兵の通信技能の検定法を制定(*5)。
 これらの規定を制定するにあたっては、関係部局の意見の取りまとめや、上司の決裁を得るのに非常な苦労をした(*6)。

*1:初夏にアフリカから地中海を越えてイタリアに吹く暑い南風(あるいは東南)。
サハラ砂漠を起源とする風。砂嵐のための無電不調か

*2:電波の届き方が、地形によって異なることもまた、日露戦争中に山本英輔が気づいた重要な現象です。

*3:それまでは場当たり的だったのでしょう。

*4:これは極めて重要な無線の価値で、現在でもそうなっています。普段はケーブル、非常時は衛星などの無線です。

*5:こういう面でも山本英輔の功績はきわめて大です。

*6:前にお見せしたハンコだらけの書類からも、日露戦役後の日本海軍がとてもお役所的になっていた事が分かります。山本英輔は山本権兵衛のイトコなので、周囲も無視はできず、まだマシだったのでしょうが。

(この後は目次を中心とし、必要に応じて抄録いたします)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5157『日露戦争と無線電信437』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月 8日(金)11時26分5秒◆◆◆

▼日本無線史(71)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[70]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第六節 第一次世界大戦に於ける無線の活用
一 電気部の創設[1]

 日露戦役の軍艦の大部分は英国製だったが、電気の応用はドイツの方が進んでいたので、電気技術の充実が急務となった。
 電気関連には、無電・水雷のような兵器部門と、電動機など補機部門とがあり、区分は判然としなかったので、統一して電気を専門に調査研究する部門の創設と人材育成が叫ばれるようになった。
 岡田啓介(*1)は、明治41年から43年まで水雷学校長であったため、兵器への電気応用とくに無電の研究に詳しく、艦本や教育本部の村上格一少将を説得して、電気部の創設に成功した。
 明治45年4月1日、海軍造兵廠電気部が開設。とくに無電の調査研究が主要業務となった。
 木村駿吉の他、これまで名のあがっていた上田・黒瀬両少佐の外、有能な士官が加わった(*2)。
 場所は横須賀から築地に戻り、立派な建物も出来た。この建物は、江戸防衛の砲台のために幕末に作られたものだった。

*1:後の海軍大臣、そして総理大臣の岡田啓介です。

*2:木村駿吉は次第に現役を退き、上田・黒瀬などが中心となったようです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5160『日露戦争と無線電信438』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月 9日(土)12時14分58秒◆◆◆

▼日本無線史(72)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[71]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第六節 第一次世界大戦に於ける無線の活用
一 電気部の創設[2]

 海外の知識の導入が不可欠となり、テレフンケンの瞬滅式を輸入して研究して大正二年式を作ったり(*1)、GE社の10万サイクル高周波発電機を輸入したりした。これはGE社の二号機だった(*2)。
 こういう技術導入で海軍無電の様相は一変した。

*1:簡単な回路図の例が残されています。

*2:この時代、超高速で回転する発電機によって、電波を直接作ろうという試みがあり、この発電機はその一環です。中波のいちばん低い方の電波が出来ます。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5162『日露戦争と無線電信439』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月10日(日)13時18分49秒◆◆◆

▼日本無線史(73)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[72]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第六節 第一次世界大戦に於ける無線の活用
二 大規模無線電信所の設置計画

 戦役後、日本海軍の活動範囲は一挙に広まった。
 海外の情報を得るため、山本英輔が独国に、黒瀬精一が英国に、上田良武が米国に派遣された。三人ともすでに木村駿吉を上回る無電の実力者だった。
 それらの報告をもとにして、大規模無電局の建設計画が進み、場所は千葉県船橋、機械は独逸のテレフンケン(ジーメンス発売)の250キロVAの瞬滅式と決まった。
 大正二年十月に起工式。

*:この船橋送信所はたいへん有名で、何十年も後まで活躍しました。ただし大正三年一月にジーメンス事件という恥ずべき事件が起こり、山本権兵衛内閣が総辞職に追い込まれました。この時は、若手では岡田啓介とか秋山眞之とかが、解決に奔走したそうですが、詳しい事は知りません。あまり知りたくない事件です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5164『日露戦争と無線電信440』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月11日(月)11時10分3秒◆◆◆

▼日本無線史(74)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[73]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第六節 第一次世界大戦に於ける無線の活用
三 第一次世界大戦の勃発と無線の活躍

 第一次世界大戦では、世界中の無電が不眠不休の活躍をした。
 日本海軍の活躍範囲はきわめて広いものとなり、無電は不可欠だったが、強力な陸上局が無かったため不便があり、船橋無電局の早期完成が要望された。
 この時代の日本艦船は、四三式と大正二年式を搭載していた。
 大正三年八月二十七日に膠州湾の封鎖宣言を独逸軍に対して無電でおこなった。
 これは、この種の軍事宣言を無電でなす世界で最初の例となった。
 海軍が無電を多用したため、一般の無電が妨害を受けるという問題が起こった。

*1:第一次世界大戦は、日本の軍事行動の絶好の練習台となり、多くの改善がなされたようです。無電が遠方へは届かない問題もそうですし、技術の特許面では戦時特許法の制定がなされるようになりました。

四 船橋海軍無線電信所の設置

 待望の開局については、大正四年四月に開所式がなされた。
 独逸からの輸入でドイツ人が指導していたが、第一次大戦で敵国になってしまったために彼等は帰国し、日本人が非常な苦労をして完成させた。
 のちにこの無電局は、逓信省の一般用も併設され、大正天皇と米大統領との間の祝電交換などがなされた。

*1:この無電局は、関東大震災の時の活躍も知られています。日米戦争の「ニイタカヤマノボレ1208」もここからの発信でした。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5164『日露戦争と無線電信441』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月12日(火)11時14分54秒◆◆◆

▼日本無線史(75)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[74]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第七節 第一次世界大戦後に於ける無線施設の整備拡充
一 八八艦隊の建造と無線施設

二 不減衰電波式の採用

 海軍の無電機は、木村駿吉が作った火花式の最初の一撃に力を入れた純衝撃波式のものが最初で、大正二年式では若い士官による瞬滅式になった。これは連続的な波に近い波をつくる事が出来た。
 一方そのころ、アーク放電の負性抵抗を利用した連続波の発振器が考案され、日本ではなかなかうまく行かなかったが外国で成功した例があることが分かり、研究して、大正七年式として制式された。
 もう一つの方法として、超高速の交流発電機で電波を直接作ってしまおうという力任せの方法も考えられ、大正十年式が出来た。この方式は大規模送信所にも採用されるようになった。

三 無線電話の発明と実用

 瞬滅式による無線電話も逓信省で作っていたが、大正十年前後になると、真空管を使った無線電話の実用化が始まり、大正の半ばには、一部実用になった。
 これは、軍艦の砲撃指揮に用いられ、艦隊の砲撃法に革命をもたらした。
 無電と違って、一瞬のうちに艦隊の全艦船に命令が伝わるからである。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5166『日露戦争と無線電信442』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月13日(水)11時21分35秒◆◆◆

▼日本無線史(76)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[75]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第七節 第一次世界大戦後に於ける無線施設の整備拡充
四 海軍無線行政組織の変革

五 電球式送信機の採用

 フレミングの二極真空管やフォレストの三極真空管の発明によって真空管時代が到来し、海軍でも採用しはじめた。
 当初は海軍では電球式と呼んでいた。
 真空管製造は企業の協力も得て進んだ。

六 華府軍縮会議と海軍技術研究所の設置

 八八艦隊用無電機と海軍技研の設立。

七 海軍と海外通信政策

 無線による国際通信や、技術の無い国々への働きかけ、外地での無線局設置など。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5168『日露戦争と無線電信443』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月14日(木)12時19分8秒◆◆◆

▼日本無線史(77)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[76]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第八節 関東大震災に於ける海軍無線の活用

一 震災による海軍の被害

 海軍の重要施設は東京と神奈川県に有ったので、甚大な被害を受けた。

二 海軍無線の活躍

 船橋送信所は使えたので、海軍省と船橋を陸軍の騎馬で連絡して、軍艦が代行する横須賀などと連絡した。聯合艦隊は続々東京湾に集結した。
 この時の通信途絶の教訓は後に生かされた。

三 震災復興と震災による教訓

 海軍技術研究所の移転復旧。

第九節 短波の出現と無線施設の整備
一 海軍に於ける短波の研究

 大正末期に谷惠吉郎によって始まった。
(谷は木村駿吉を顕彰した人物としても知られます)

二 結晶制御式短波送信機

三 全面的短波の採用

四 海軍通信学校の新設と海軍技術研究所の復興

 通信学校は昭和五年開校。最初は従来の水雷学校と同居。しばらくして隣接して新築。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5170『日露戦争と無線電信444』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月15日(金)12時05分45秒◆◆◆

▼日本無線史(78)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[77]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第十節 大演習及び各種演習に於ける練技
一 海軍実施部隊の教育年度

 例年艦隊の訓練は12月1日に始まり11月30日に終わる。

二 大演習における無線通信

 艦隊の行動には通信が最重要だが、簡単ではない。昭和初期にも、聯合艦隊司令長官が「飛行機と通信は遺憾である」と総括した。

三 演習通信の特異点

四 演習中の通信重要事件

 さまざまな事件が演習中に起こり、以後の教訓となった。戦艦陸奥への30浬ほどの電波が届かないという事件が起こったこともある。

第十一節 電波の統制及び部外との連絡

一 総説

二 国際無線会議

 明治36年 第一回予備会議 伯林
 明治39年10月 第一回 伯林
 明治45年6月 第二回 英国
 昭和2年 第三回 ワシントン(大正時代は準備会議が何回か開催された)
 昭和7年 第四回 マドリッド
 昭和13年 第五回 カイロ(その前にCCIRが二回)

三 陸軍、逓信両省との連絡

 大正十年から三省会議がなされるようになった。

四 無線研究機関との連絡

 電波研究委員会など。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5172『日露戦争と無線電信445』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月16日(土)12時13分58秒◆◆◆

▼日本無線史(79)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[78]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第十二節 満洲事変及び支那事変に於ける無線の活用
一 満洲國江防艦隊の無線通信

二 中南支派遣艦隊の無線通信

 ここには箕原勉造兵大技士が明治44年に特別の大電力無電機を作って支那事変に貢献した話があって参考になる。
 火花式の大音響は、夜間になると数浬先まで届いたそうである。
(これでは音響通信と変わりませんね)

三 上海事変と無線通信

四 支那事変と無線通信


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5174『日露戦争と無線電信446』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月17日(日)11時37分58秒◆◆◆

▼日本無線史(80)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[79]

第八編 海軍無線史
第一章 無線通信の活用
第十三節 太平洋戦争に於ける無線の活用
一 総説

 反省が書かれています。

二 通信計画に基く通信施設の拡充に関する諸施策

三 要員の充実に関する諸施策

四 電波選定に関する経緯

 短波に偏っていた点を反省。

五 通信部編制及び聯合通信隊編成に関する問題

六 部外通信の指導に関する政策

七 国際通信に関する政策

 独逸との協定がある程度で、あまり積極的ではなかった。

八 通信計画

 暗号についてなど、非常に詳しい。

九 一般通信実施の概要

 ミッドウエーが問題だった事がわかる。
(といっても、全体としてアメリカに劣っていた事は確かです)

一〇 航空通信

一一 海上交通保護作戦の通信

一二 潜水艦の作戦通信

一三 電波兵器の戦備経過

 レーダー技術の遅れは決定的。
(これについては、情報入手の失敗とか開発計画の失敗とかいろいろ言われていますが、私が戦後まもなく電波通信系の研究所に入った経験では、とにかく技術全般がアメリカに大きく遅れており、個々の失敗成功よりも、富士の裾野が出来ていなかった事が大きかったと思います。要するに、ネジ一本、針金一本をとっても、アメリカと戦争を始めるような技術水準には無かったという事です)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5176『日露戦争と無線電信447』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月18日(月)12時01分41秒◆◆◆

▼日本無線史(81)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[80]

第八編 海軍無線史
第二章 無線通信関係機関の沿革
第一節 技術関係機関
一 序説

二 研究実験機関

 無線研究機関の変遷が図の形にされている。
 研究機関が近代化され整備された後の事が詳述されている。

三 技術行政機関

 明治33年5月に設立された海軍艦政本部に始まる技術行政の歴史。
(三四式無電機はこの設立の影響を受けて、制式化が少し遅れました。ここを読むと、制度が充実すればするほどトラブルが増え、そのトラブルを解決するための会議が増えている事が分かります)

四 造修工作機関

 造兵廠関連の歴史。

五 監督官と監督官事務所

六 技術者養成機関

 海軍の技術者養成には、兵科・造兵科・技師の三系統がある。
 初めは理科系学校で後に工科系学校へ。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5177『日露戦争と無線電信448』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月19日(火)10時49分35秒◆◆◆

▼日本無線史(82)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[81]

第八編 海軍無線史
第二章 無線通信関係機関の沿革
第二節 統帥機関(軍令部)
一 班時代

 軍令部には一班から三班があり、はじめは二班の第三課長が無線通信の担当だった。しかし大正末から無線が進歩したので、四班を新設して、そこが通信全般を扱うようになった。

二 部時代

 昭和8年から班が部になり、通信は四部となった。当初はその中は第八、九、十の三つの課に分かれていた。

三 大本営通信部

 大本営通信部長は、第四部長または次長が兼任した。

四 軍令部第四部長及び部員

第三節 軍政機関

一 海軍省軍務局

 無線関係は軍務局第二課が中心だった。
(軍務局の無線関係では、山本五十六が活躍していました)

二 海軍省人事局

三 海軍省教育局

 大正12年に教育本部が教育局になった。

四 海軍省大臣官房電信課

 これは部内の電信局の役割。海軍省関係の電報類を統括し連絡。

第四節 実施部隊

一 序説

二 陸上部隊

三 海上部隊

四 航空部隊

(ここには現場における指令系統が書かれているので参考になります)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5179『日露戦争と無線電信449』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月20日(水)12時09分35秒◆◆◆

▼日本無線史(83)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[82]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第一節 總説
一 無線技術発達の時代別

(1)第一期前半 明治33年から明治38年
(2)第一期後半 明治39年から明治44年
(3)第二期前半 明治45年から大正6年
(4)第二期後半 大正7年から大正11年
(5)第三期前半 大正12年から昭和6年
(6)第三期後半 昭和7年から昭和11年
(7)第四期前半 昭和12年から昭和16年
(8)第四期後半 昭和17年以降(たぶん終戦時まで)

(1)は日露戦役に間に合わせた。
(2)はようやく複雑になってきたが、まだ研究機関は貧弱。
(3)は戦国時代。八八艦隊。
(4)減衰波から非減衰波へ。
(5)短波が出現した。個々の技術の有機的総合が出来なかった。
(6)性能改善への強い要求が出るようになった。
(7)増強時代で研究より造修に忙殺。有機的総合に欠けた。
(8)電波兵器時代。

二 第一期時代の研究概況

 横須賀工廠では木村駿吉が中心。水雷学校実験室では黒瀬・上田らが中心となって研究し、四三式。
(送受ともに同調式、送信インダクションコイルの代わりに同調変圧器、受信はコヒーラの代わりに鉱石検波器)

 南支事変で当時の最大の無電機を千代田に設置して逓信省の大瀬崎無線局と連絡出来た。瞬滅式の元年式と四三式の過渡期のもの。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5181『日露戦争と無線電信450』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月21日(木)11時51分8秒◆◆◆

▼日本無線史(84)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[83]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第一節 總説
三 第二期時代の研究概況

四 第三期じ第の研究概況

五 第二期及び第三期時代の部外技術摂取及び培養

六 第四期前半時代の研究概況

七 第四期前半時代の造修概況

八 第四期後半時代の研究概況

九 第四期後半時代の造修概況

十 第四期時代の無線技術に対する省察

(一)中央指導者の技術認識不足
(二)科学技術の総動員態勢の不備
(三)重点主義を唱えながら実際は総花式
(四)責任の所在不明と泥縄式
(五)技術指導者の不足と連絡協調の不十分
(六)技術者の不足と生産不振

(注:この部分には、大東亜戦争時代の無線研究開発の問題点が摘出されていて参考になります。まあ、要するに、総合力で大きく劣っていたという事です。海軍上層部も緊張感に欠けていたようです。膨張しきった組織が機能せず、甘い人事が適材適所に反するなど、お役所の悪い面ばかりが目に付きます。昭和初期は臥薪嘗胆するべきだったのでしょう。私が研究所に就職した昭和30年代前半は、終戦から10年以上経っていましたが、それでも日米の差はとても大きなものでした。よくこれで戦争出来たものだと、感心するほどでした。日本の技術が、(軍事や宇宙以外の)総合力でアメリカに匹敵するようになったのは昭和の末から平成の初めにかけての事です。その後バブルに浮かれて技術者が欠乏してしまいましたが)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5183『日露戦争と無線電信451』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月22日(金)12時26分5秒◆◆◆

▼日本無線史(85)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[84]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第二節 火花送信機
一 序説

 明治から大正にかけて使用。大正七年ごろから順次不減衰に置き換えられ、大正末には姿を消した。
 大正十年三月、皇太子裕仁親王が海外巡遊のために軍艦「香取」「鹿島」を派遣したとき、両艦に新しく四年式一号送信機が装備されたが、これが火花式送信機の最後だった。

 制式された火花式送信機の種類――
1.三四式無線電信機
2.三六式無線電信機
3.元年式送信機
4.二年式二号送信機
5.二年式三号送信機
6.二年式四号送信機
7.四年式一号送信機
8.四年式二号送信機
9.四年式三号送信機
10.四年式四号送信機
11.T式甲号送信機
12.T式一号送信機
13.T式二号送信機
14.T式三号送信機
15.T式四号送信機
16.F式二号送信機
17.M式一号送信機
18.N式送信機

 ここでT式とはテレフンケン、F式とはフェッセンデン、M式とはマルコーニ、N式とは日本無線電信電話(*1)である。
(このリストには、同種のものは略され、また制式されても実用の少なかったものは入っていないようです)

二 三四式及び三六式無線電信機

 三六式は波長変更のために空中線波長変更綰又は送信蓄電池を使い(*2)、その後改善された三六式では同調式となった(*3)。
 日露戦争で明治三十七年に佐世保を出陣したころは、数浬した届かないものもあり、その後の必死の努力で所期の80浬がほぼ可能となり、日本海海戦で活躍した。

*1:木村駿吉が創業役員の一人となった企業。

*2:この波長変更の装置も、私の調査では、日露戦争の後、または戦役中の途中で付けられたように思います。なお放電回路を複式にする工夫も、戦役後のように思います。

*3:これは四三式への過渡期と思われます。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5185『日露戦争と無線電信452』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月23日(土)12時12分23秒◆◆◆

▼日本無線史(86)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[85]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第二節 火花送信機
三 元年式送信機とT式送信機

 元年式は最初の瞬滅式の制式。振動変圧器と無音放電。
 T式は最初の輸入無電兵器。

(振動変圧器ってよく分かりません)

四 二年式送信機

 T式を勉強した結果の国産送信機。

五 四年式送信機

 これが海軍瞬滅式の最終形で、これ以後は連続波に移行。

六 F式、M式及びN式

 N式は国産奨励のため。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5187『日露戦争と無線電信453』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月24日(日)11時08分1秒◆◆◆

▼日本無線史(87)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[86]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第三節 電弧式送信機
一 序説

 連続波は電弧式と高周波発電機式があるが、艦船用には後者は無理なので、電弧式が用いられた。
 最初が七年式。

二 電弧式無線電話の実験

 英国のダッデルが明治32年に実験し、デンマークのパウルゼンが無線に使用出来る事を示した(*1)。
 日本では水野教授が海軍嘱託となって電弧式無線電話を研究したが、明治43年までおこなって実用出来なかった(*2)。

三 七年式送信機

 海軍造兵廠で大正六年から林房吉と太田周平が研究して仕上げた。
 甲乙、一〜四号の六種がある。

 一例では1600浬届いた。不減衰電波の良さを証明したが、一時的な利用だった。

第四節 高周波発電機式送信機

 高周波発電機で出来る振動を非線形回路によって何倍かの周波数に揚げる方式で、十年式として制式された。
 周波数を奇数倍にする方式は日本の秘密特許なったが、これは世界的に見ても早期の発明だった(*3)。

*1:アーク放電に負性抵抗特性がある事を利用する方法。

*2:京大水野教授はいろいろな主張をしているが、自分の研究で実用になったものはない。

*3:非常に早く回転する精密な発電機で電波を直接造ってしまおうという方式で、一時が有力視されたが、真空管の出現で消えていった。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5189『日露戦争と無線電信454』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月25日(月)12時09分1秒◆◆◆

▼日本無線史(88)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[87]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第五節 コヒーラー受信機と鉱石受信機
一 序説

 三四式と三六式がコヒーラー。
 四三式が鉱石。
 大正二年式も。
 大正七年式も鉱石を附属させて使用可能。

二 コヒーラー受信機

 三四式と三六式

三 四三式受信機

 音響受信で波長6000メートルまで受信可能。
 アンテナと検波回路はトランス結合。
 同調受信。検波は鉱石。

四 外国製受信機

 鉱石検波で音響受信が中心。
 F式(フェッセンデン)は真空管も有った。

五 二年式

 鉱石検波で音響式。

第六節 真空管式受信機

一 第二期時代に於ける真空管の研究

二 電球検波器

三 七年式受信機

四 一一式低周波増音器

 大正後半から、音声の増幅がなされるようになった。

五 一四式受信機

六 多重受信兼同時交信装置と同時交信装置

七 八七式受信機

八 九一式受信機

九 九二式受信機

(このあたりの数字は皇紀、たとえば九一式は皇紀二五九一年=西暦一九三一年=昭和六年)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5191『日露戦争と無線電信455』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月26日(火)12時28分21秒◆◆◆

▼日本無線史(89)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[88]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第七節 中波無線電話機
一 一号無線電話機

二 二号無線電話機

三 二号無線電話機受信機改一

(以上は艦内連絡用の無線電話で真空管使用)

第八節 真空管式送信機

一 序説
(大正末以後、真空管が全盛期を迎える)

二 一二式送信機及びYT式五号送信機

三 九二式三号及び四号送信機

四 九八式一号及び同二号送信機

五 零式〇三号送信機

六 一式中五号送信機

七 二式中五号送信機

八 三式中七号送信機

九 TM式軽便電信機及びTM式中軽便電信機

(このあたりのものは、すでに大東亜戦争の時代に入っています)

第九節 方位測定器

一 序説

 明治41、2年ごろから実験を始めたが、不十分。三笠に積んだこともある。

二 方向探知機

三 T式方位測定器

四 八七式方位測定器

五 八九式短方向測定器

六 九一式二号、九三式一号方位測定器

七 九三式短方位測定器

八 二式中方位測定器

九 可視式方位測定器の研究

(無線の新しい応用であるこの種の技術の開発は、思うようにはゆかず、成果には乏しかった)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5193『日露戦争と無線電信456』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月27日(水)11時14分8秒◆◆◆

▼日本無線史(90)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[89]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第十節 測波器及び周波数精密測定
一 標準測波器の制定
(周波数の精密測定は大正後半から研究が始まったらしい)

二 波長の整合統一
 国際的な標準も出来るようになった。昭和の初めてには精度は10のマイナス6乗くらいにはなった。

三 電波鑑査機と測波器

第十一節 短波送信機と指向式空中線

一 序説
 大正12年ごろ、波長100メートル以下の短波で遠距離通信が出来ると分かり、昭和初期から使われるようになった。
 また指向性アンテナ(ビームアンテナ)が谷惠吉郎によって発明されて、長く使われた。

二 一五式二号、四号、五号送信機

三 八八式短四号送信機

四 八九式短五号送信機

五 YT式短四号送信機

六 特九〇式短一号送信機

七 九〇式短二号送信機

八 九二式短二号、短三号、短四号送信機

九 九二式短無線電話機

一〇 YT式短無線電話機

一一 九五式短三号、短四号、短五号送信機

一二 九五式送話増幅器

一三 九七式短一号、短二号送信機及び同短〇一号送信機

一四 九七式短六号送信機

一五 九九式短二号送信機

一六 九九式短〇二号送信機

一七 九九式短三号送信機

一八 三式短四号送信機

一九 YT式特三号、特五号送信機

二〇 九一式特三号、特四号送信機

二一 九七式特五号送信機

二二 九九式特三号、特四号送信機

二三 TM式短移動無線電信機

二四 一式短移動無線電信機

二五 短波送信機の研究と改良

(この時代になると、現在とあまり変わりない精密な研究がなされるようになっている)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5195『日露戦争と無線電信457』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月28日(木)09時15分29秒◆◆◆

▼日本無線史(91)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[90]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第十二節 短波受信機

一 序説

 大正15年に初装備で、昭和初期から実用化されはじめた。

二 所期の短波受信機

三 九一式短受信機

四 九二式短受信機陸上用

五 九二式特受信機

六 九七式短受信機

七 仮称九七式短受信機陸上用

(この時代になると、スーパーヘテロダインなど、多くの真空管回路が使用されるようになった)

第十三節 航空機用無線通信機

一 序説

 大正15年が最初の制式で、昭和に入って多くの型式が出来た。

二 初期の航空機用無線機

三 航空機用無線機の研究

四 航空機用短波無線機

五 目黒に於ける航空無線の研究とその成果

六 航空廠に於ける航空無線の研究とその成果

七 太平洋戦争中の研究

(戦争開始時にはある程度の技術は有りましたが、戦時中の改良や生産には相当苦労した事が分かります。なお海軍の航空無線研究は、木村駿吉が海軍を辞めたころは築地で、その後目黒の研究所に移り、しばらくして、横須賀に移りました。横須賀に移ってから、実施部隊との連絡が良くなって能率が上がったそうです)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5197『日露戦争と無線電信458』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月29日(金)11時44分20秒◆◆◆

▼日本無線史(92)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[91]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第十四節 超短波無線電話機

一 序説

二 九〇式無線電話機

三 九三式超短波無線電話機

四 一式超短波無線電話機受話器

五 三式超短波六号送話機

(波長10メートル以下の電波を使う無線電話の研究は、昭和初期に始まっています)

第十五節 無線操縦装置

一 艦船の無線操縦

 明治39年5月、アメリカから購入した無電操縦の魚雷の調査をなすための委員会が設置されたが、実用性少ないという結果が出た。
 大正半ばから、独逸の研究に触発されて、日本でも水雷艇の自働操縦など本格的な研究が始まった。
 関東大震災で装置が焼失したが、その後研究が復活した。
(関東大震災では、数多くの海軍装置が焼失している)

二 航空機の無線操縦

 高射砲練習の標的としての無線操縦航空機の研究がなされた。

(無線を用いた自働操縦の技術は、誰でも考える事ではありますが、映像を送受する技術が無くレーダー技術も未開発の時代なので、今の技術に比べればきわめて原始的なものしか出来なかったと思います)

第十六節 写真電送装置

一 序説

(日本のFAX装置は世界的にも早期に実用化されたお家芸の一つですが、軍用としては、機密保持が困難など、問題が多かったようです。とくに無線を利用するFAXは、停滞したようです)

二 最初の実験用写真電送装置

三 改良型写真電送装置

四 航空機用写真電送装置

五 模写電送装置

六 特殊画字電送装置

第十七節 無線嚮導装置

一 序説

 自艦自機などの位置を測るための無線装置。

二 四航路式試製嚮導装置

三 九六式一号航路無線標識送信機

四 超短波航路無線標識装置


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5199『日露戦争と無線電信459』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 4月30日(土)12時44分47秒◆◆◆

▼日本無線史(93)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[92]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第十八節 無線帰投装置
(輸入品の研究が主体。ある程度は国産化された)

第十九節 盲目着陸装置

一 序説

二 方向探知機を使用する方式

三 米国フリーマン式

四 独逸ローレンツ式

五 千歳航空隊に於ける実験

(当時の日本の技術水準では、きわめて困難だったと思われます)

第二十節 電信暗号機

 通常電文を自動的に暗号にし、また自動的に復元する機械で、これはかなり便利に使われたらしい。しかし暗号化の数学そのものについては、日本は苦手であり、これは明治時代から変わらなかった。

第二十一節 秘密無線電話装置

一 序説

二 九二式多重無線電話装置

三 超短波無線電話機に秘密賦与の研究

四 九八式秘密電話装置有線用

五 探知回避通信装置

(これにはいろいろな方法がありますが、暗号によって分からなくするのではなく、変調の方法によって相手が復調出来なくすることが主眼です。いずれにせよ、アメリカに比べて理論も技術も大幅に遅れていました)

第二十二節 電波兵器

一 序説

二 見張用電波探信機

三 射撃用電波探信機

四 電波探知機

五 電波妨害機

六 電波偽瞞装置

七 反射防止法

八 味方識別装置

九 戦闘機誘導装置

一〇 電波暗視機

一一 電波高度計

一二 飛行機無線操縦の計画と特攻兵器誘導装置

一三 電波測距儀

一四 電波信管

(ここで扱われている電波兵器の中心はいわゆるレーダーですが、当時の日本の技術では優れたレーダーの実現は困難だったと分かります。複雑な装置になればなるほど、化学・電気・機械・製造法など多数の技術を総合しなければならず、そのためには、技術の富士の裾野が広くなければなりませんが、それは当時の日本では無理でした。私がNTTの研究所で研究を始めたのは昭和30年代で、終戦から10年以上経っていましたが、日米の技術レベルの差は非常に大きなものがあり、ネジ一本とっても、国産ものは劣悪でした。理論的にも大きな差がありました。大東亜戦争時の日米の差について、資源の差は有っても技術の差は無かったような(若い方の)意見を時々見かけますが、それは私の研究所での研究時の実感とは合いません。昭和30年代の私どもにとってアメリカ技術は「夢のような」存在でした。必死に追いかけた結果、あまり負けていない――と思うようになったのは、やっと昭和の終わりから平成の初めごろです)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5201『日露戦争と無線電信460』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月 1日(日)11時16分43秒◆◆◆

▼日本無線史(94)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[93]

第八編 海軍無線史
第三章 無線技術の研究と機器の造修
第二十三節 装備法に関する研究

一 序説

(無線装置が多種多様になってきたため、その全体を艦船や航空機や基地にどのように装備するかが問題となってきました)

二 水上艦船の空中線展帳法の研究

三 潜水艦用空中線の研究

四 方位測定器の艦船装備に関する研究

五 艦船無線通信に及ぼす雑音妨害除去法

六 艦船に於ける同時交信に関する研究

七 各種装備費支弁兵器の改良研究

八 電波兵器装備法に関する研究実験

九 陸上耐弾施設内無線施設装備の実験

第二十四節 電波伝播に関する研究

(電波伝播の研究は大正末から起こり、昭和に入って本格化)

第二十五節 その他の研究

一 無線に関する測定

二 部品及び材料に関する研究

三 その他の応用研究


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5203『日露戦争と無線電信461』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月 2日(月)11時32分59秒◆◆◆

▼日本無線史(95)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[94]

第八編 海軍無線史
第四章 陸上無線施設
第一節 總説

一 海軍望楼

 海岸望楼条例 明治27年6月30日公布
 明治36年に20箇所に三六式が装備。
 ついで5箇所に装備。
(これは『極秘明治三十七八年海戦史』の記述とは大きく違っている。同海戦史では、明治37年の開戦時の無電装備望楼は大河内・豆酘・白嶽の三箇所のみ。上の20箇所等は計画の数値であろう)

 五島大瀬崎と潮岬、角島の三箇所は明治41年に逓信省に移管されて、一般向け船舶局となった。船舶用海岸無電局は海軍望楼を先駆とする。

二 海軍無線電信所

 主に大正時代から。

三 海軍通信隊

 満州事変の教訓によって、昭和12年ごろから。

四 見張所

 海軍望楼は大正時代に姿を消したが、その後大東亜戦争開戦前後に、レーダーなど電波兵器のための見張所が海岸に多数(外地にも多数)設けられたが、その場所は日露戦争時の望楼に一致する事が多かった。

五 武官府通信施設

六 水上特攻基地の通信施設

第二節 東京海軍無線電信所

 船橋無線電信所の後継。
 大規模海軍無線の中枢。

第三節 鳳山海軍無線電信所

 台湾の大規模電信所。

第四節 佐世保海軍無線電信所

第五節 横須賀海軍無線電信所

 明治時代からあったものの大規模化。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5205『日露戦争と無線電信462』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月 3日(火)12時22分56秒◆◆◆

▼日本無線史(96)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[95]

第八編 海軍無線史
第四章 陸上無線施設
第六節 其の他の海軍無線電信所

一 父島海軍無線電信所

二 馬公海軍無線電信所

(台湾澎湖島の馬公要港部所属の無電所。澎湖島は台湾軍事の要衝)

三 鎮海海軍無線電信所

(朝鮮半島南端の要衝。日露戦時の聯合艦隊基地)

四 旅順海軍無線電信所

五 宗谷海軍無線電信所

第七節 方位測定所

 電波による索敵技術の中で、レーダ以前の最先端技術。

第八節 外地陸上無線施設

一 内南洋無線施設の整備

二 支那方面無線施設の整備


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5207『日露戦争と無線電信463』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月 4日(水)10時41分47秒◆◆◆

▼日本無線史(97)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[96]

第八編 海軍無線史
第五章 艦船に於ける無線兵装
第一節 總説

一 海軍艦船の通信力

(大東亜戦争時の日本の艦隊表があります)

二 艦船無線兵装の特徴

(非常に厳しい要求があり、とうてい実現出来なかったようです)

三 艦船無線兵装の概要

四 支那事変以後の無線整備の状況

 昭和12年7月(支那事変勃発時)の日本海軍艦艇。
 戦艦   10
 航空母艦  6
 巡洋艦  35
 駆逐艦 136
 潜水艦  80
 海防艦   9
 敷設艦  12
 掃海艇  16
 駆潜艇   3
 砲艦   13
 水雷艇  10
 特務艦  10

(このあとさらに増えてゆきますから、無線装備は複雑多岐大量の要求がありました)

五 支那事変以後の無線兵装上の諸問題

第二節 主力艦の無線兵装

一 序説

二 送受信装置

 長門・陸奥のような当時の主力戦艦は、艤装当時から30kWの大正七年式アーク送信機を装備していた。
 欠陥は、水冷式が軍艦には向かない事や、アークの強い磁場がブリッジの磁気羅針儀に影響する事などであった。
 このため、軽巡では後部に電信室を新設する必要があった。
 まもなく電球式(真空管式・・・初期の真空管は球形だったので電球と呼ばれた)に変更になり、欠点は除去された。

三 送受信装置の特殊用途

四 艦内通信機

五 方位測定器

六 艦内通信装置


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5209『日露戦争と無線電信464』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月 5日(木)12時11分58秒◆◆◆

▼日本無線史(98)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[97]

第八編 海軍無線史
第五章 艦船に於ける無線兵装
第三節 巡洋艦の無線兵装

一 序説

二 重巡洋艦の無線兵装

(7500トン級、8500トン級、一万トン級)

三 軽巡洋艦の無線兵装

(廃船直前の旧型、3000〜3500トン附近、5500トン級)

第四節 潜水母艦等の無線兵装

 略略軽巡並み。

第五節 航空母艦の無線兵装

一 序説

二 初期の無線兵装

三 帰投用方位測定器

四 戦闘機指揮用無線電話機

五 無線兵装の改善

六 無線兵装上の諸問題

七 太平洋戦争中に於ける無線兵装


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5211『日露戦争と無線電信465』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月 6日(金)12時39分59秒◆◆◆

▼日本無線史(99)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[98]

第八編 海軍無線史
第五章 艦船に於ける無線兵装
第六節 駆逐艦及び小艦艇の無線兵装

一 序説

二 駆逐艦の無線兵装

三 小艦艇の無線兵装

四 海防艦(新型)の無線兵装

第七節 潜水艦の無線兵装

一 潜水艦無線の発達

(第一次大戦で日本は戦勝国側になりましたので、ドイツの有名な潜水艦の捕獲品が割り当てられ、10隻近くが日本のものとなったため、これを研究して設計に生かしました。
 無線は瞬滅式でしたが、アンテナに工夫があり、参考になったそうです)

二 支那事変以後に於ける無線兵装の整備

第八節 特務艦の無線兵装

第九節 戦時徴用特設艦艇の無線兵装

第十節 特攻兵器の無線兵装

一 序説

二 各特攻兵器に対する無線兵装

第十一節 商船の無線兵装


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5213『日露戦争と無線電信466』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月 7日(土)12時12分26秒◆◆◆

▼日本無線史(100)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[99]

第八編 海軍無線史
第六章 航空無線兵装
第一節 總説

一 初期の航空無線

二 海軍技術研究所製航空無線機

三 誘導用方位測定器

四 長短兼用電信機

五 原振器と水晶制御

六 雑音と陸上無線施設

七 戦闘機用無線電話機

八 戦闘機指揮用無線電話機

九 隊内連絡用超短波電話機

一〇 帰投用機上方位測定器

一一 航空機無線嚮導装置

一二 航空機用電波探信儀

一三 盲目着陸装置

一四 写真電送装置

第二節 航空隊無線施設

一 大正時代の通信施設

二 昭和初期の通信施設

三 航空隊無線施設の拡充

四 航空隊の方位測定器

五 館山航空隊の通信施設

六 佐伯及び呉両航空隊の通信施設

七 航空隊無線兵装標準

八 鹿屋、木更津及び父島各航空隊の通信施設

九 第二次補充計画

一〇 練習航空隊の通信施設

一一 戦時特設航空基地の通信施設

一二 航空機無線嚮導装置

一三 盲目着陸装置

一四 航空隊通信施設の整備

一五 航空基地無線兵装標準及び整備法


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5215『日露戦争と無線電信467』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月 8日(日)13時09分30秒◆◆◆

▼日本無線史(101)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[100]

第八編 海軍無線史
第六章 航空無線兵装
第三節 航空機無線兵装

一 外国品依存時代
(昭和の初めまで)

二 長波短波混用時代

三 航空の発達と無線通信

四 長短兼用通信機

五 戦闘機用無線電話機

六 超短波電話機

七 機上方位測定器

八 無線嚮導装置

九 電波探信機

一〇 盲目着陸装置

一一 航空機無線兵装標準

一二 雑音防止

一三 無線用電源

一四 航空機装備無線兵器の整備

一五 航空機無線兵装の状況

(ざっと見ているだけですが、印象としましては、昭和初期――日米開戦当時――の日本の無線技術は、アメリカにはとうていかなわないレベルだったと思います。こういう戦前戦中の日米技術水準の差について、大東亜戦史研究者がどの程度認識しているのか、疑問に思う事があります)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5217『日露戦争と無線電信468』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月 9日(月)12時03分44秒◆◆◆

▼日本無線史(102)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[101]

第八編 海軍無線史
第七章 通信法の研究と運用
第一節 總説
(ここで通信法というのは、電波の使い方の規則のことで、通信理論の事ではありません。むろん変調方式などとからんではきますが)

第二節 火花時代

第三節 不減衰長波時代

第四節 短波時代

第五節 昭和十六年海軍無線通信規程

第六節 昭和十六年聯合艦隊無線通信規程

第七節 昭和十八年海軍通信規程

(通信法は、無線を兵器として使用する場合にもきわめて重要なのですが、初期の海軍士官たちの認識はきわめて未熟で、ほとんど無視されていました。大東亜戦争にやっと間に勝ったというのが正直なところでしょう。こういう面でも日本は米国に比して遅れており、軍隊をシステムとしてとらえて動かす発想に乏しく、アメリカと戦争を起こすようなレベルには無かったと思います)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5219『日露戦争と無線電信469』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月10日(火)12時12分30秒◆◆◆

▼日本無線史(103)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[102]

第八編 海軍無線史
第八章 無線通信に関する教育
第一節 總説

一 教育機関の沿革

 明治34年に無線電信調査委員会のもとでなされたのが最初。
 それから水雷関係で・・・。
 教育本部の下に・・・。
 明治43年6月、通信術が電信術と信号術に分かれ、電信術は水雷科、信号術は航海科に属した。
 昭和5年6月に海軍通信学校が出来た。ただし当初は水雷学校内に同居状態だった。

二 教育の内容

(参考までに、日露戦争前の水雷術練習所の電気系教科書を示します。かなり高度で、かつ実用的な内容です)

↓↓↓↓↓



◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5221『日露戦争と無線電信470』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月11日(水)11時41分56秒◆◆◆

▼日本無線史(104)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[103]

第八編 海軍無線史
第八章 無線通信に関する教育
第二節 海軍水雷学校通信部

 無線通信も電気の一種なので水雷学校で教えられていた事は前にも記しました。
 ここに、水雷学校通信部で(特に少年通信兵に)教えていたモールス符号の覚え方がありますので、その中から数字を取りだして書いてみます。

一 ・−−−−  飛行操縦法(ヒコーソージューホー)
二 ・・−−−  二十米(フタジューメーター)
三 ・・・−−  三月有効(ミツキユーコー)
四 ・・・・−− 四谷区長(ヨツヤクチョー)
五 ・・・・・  五目飯(ゴモクメシ)
六 −・・・・  蝋燭立(ローソクタテ)
七 −−・・・  ナサモウ七ツ(ナーモーナナツ)
八 −−−・・  ヤアヤアモウ来タ(ヤーヤーモーキタ)
九 −−−−・  空中航行記(クーチューコーコーキ)
〇 −−−−−  冷凍法良好(レートーホーリョーコー)

(数字にはイロハやアルファベットと違って規則性がありますから、合調音を使わなくても覚えられそうですが、全体がこうなっているので、数字も苦心して考えたのでしょう。当時の少年兵は、こうやってモールス符号を必死で覚えたのですね。)

第三節 海軍通信学校

 昭和五年に水雷学校から組織として独立し、昭和九年に庁舎や講堂を、水雷学校の隣接地に建てて、完全に独立した。

第四節 防府海軍通信学校と海軍電測学校


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5223『日露戦争と無線電信471』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月12日(木)11時15分27秒◆◆◆

▼日本無線史(105)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[104]

第八編 海軍無線史

附録第一 海軍無線年表

(これはかなり貴重な年表ですが、古い時代については、正しいとは限らないので注意が必要です)

附録第二 海軍無線兵器一覧表

一 兵器名称賦与法

二 無線電信送信機

(ここにあります三六式の説明は、日露戦争が終わって改良された三六式ではないか――と思います)

三 無線電信受信機

四 無線電話機

五 航空用無線電信機及び電話機

六 移動無線電信機及び軽便無線電信機

七 方位測定機

八 測波器及び電波鑑査機

九 電波兵器

附録第三 海軍無線関係主要文献一覧表


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌5225『日露戦争と無線電信472』 投稿者:オロモルフ 投稿日:2011年 5月13日(金)11時48分30秒◆◆◆

▼日本無線史(106)

◎(1)『日本無線史 第十巻 海軍無線史』(昭和26年09月刊行)[105]

第八編 海軍無線史

附表第一 中央放送通信系通信電波、通信時間

附表第二 地方放送通信系通信電波、通信時間

附表第三 中央艦所通信系通信電波、通信時間

附表第四ノ一 地方艦所通信系通信電波、通信時間(其ノ一)

附表第四ノ二 地方艦所通信系通信電波、通信時間(其ノ二)

附表第四ノ三 地方艦所通信系通信電波、通信時間(其ノ三)

附表第五 中央固定通信系通信配備、通信電波、通信時間

附表第六ノ一 地方固定通信系通信配備、通信電波、通信時間(其ノ一)

附表第六ノ二 地方固定通信系通信配備、通信電波、通信時間(其ノ二)

附表第七 特定固定通信系通信電波、通信時間

附表第八 共用通信系通信電波及呼出電波

附表第九 部隊通信系(艦隊)通信電波

附表第十 部隊通信系(海上護衛総司令部、鎮守府、警備府)通信電波

附表第十一 部隊通信系(練習聯合航空総隊)通信電波

附表第十二 航空基地通信系及航空機通信系通信電波、通信時間

附表第十三 遠隔管制通信系所属艦所通信電波、通信時間

附表第十四 方位測定管制通信電波

附表第十五 教育実験研究用電波

(これで日本無線史第十巻抄録は終了です。もともと明治期の海軍無電の調査が目的で読んだ本ですので、明治以後の事は端折りました。次は、逓信省関係の巻や製造企業の巻について記します)


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