■■■ 小学生の日本神話――神武天皇即位前紀下――(オロモルフ)■■■


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3252『小学生の日本神話151』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀31

<神武天皇の東征>

 お祭りの様子はつぎのようでした。
 菟田川の朝原(*1)で、身を清めて祈って、水の泡が浮かんでは消えるように(*2)、天手抉八十枚に八十梟帥の運命を付して浮かべ沈めることをなさった。
 さらに天皇は祈って(祈誓して)、
「私は今、八十平瓮を用いて水を使わずに飴(たがね/*3)をつくろう。もし飴が出来たならば、私は武器の威力を借りずに天下を平定することができるだろう」
 と仰せられて、飴をおつくりになった。
 すると飴は水無しで自然にできあがった(*4)。

*1:宇田川の上流。現榛原町大字雨師字朝原。

*2:鴨長明の方丈記にあります。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」
『日本書紀』のこの部分は、水の泡の生成消滅を人の運命になぞらえたもっとも初期の文章です。

*3:飴とは、ここでは餅に近いものだったらしい。

*4:何種類もの呪詛や祈誓(うけい)を次々に実行されて、すべて天皇にとって吉と出ます。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3257『小学生の日本神話152』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀32

<神武天皇の東征>

 神武天皇はまた祈誓(うけい)なさって、
「わたしは厳瓮(いつへ)を丹生川に沈めよう。もし魚がその大小にかかわらず酔って流れる様子が、まるで艨iまき/*1)の葉が水に浮いて流れるようであるなら、わたしはこの国を治めることができるだろう。もしそうでないなら、治めることが出来ないだろう」
 ――と仰せられました。
 そしてただちに厳瓮を川にお入れになったところ、それは口を下にして沈みました。
 しばらくすると魚はすべて浮き上がり、流れのままにただよって口をぱくぱくさせました。
 椎根津彦はこの様子を奏上しました。
 天皇はとてもお喜びになって、丹生川の上流に生えていたよく茂った真榊を抜いてきて立て、神々を祭られました。
 これが、厳瓮を祭儀に用いることの始まりです。

*1:杉または樫のこと。


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▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀33

<神武天皇の東征>

 神武天皇はそこで道臣命にみことのりして、
「いま、わたしは高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の神霊となって(*1)祭りを執り行いたい。おまえを斎主として厳姫(いつひめ/*2)の名を与えよう。そしてそこに据えた埴瓮(はにへ/*3)を名づけて厳瓮(いつへ)の神とし、また火を名づけて厳香来雷(いつのかぐつち/*4)とし、水を名づけて厳罔象女(いつのみつはのめ/*5)とし、食物を名づけて厳稲魂女(いつのうかのめ/*6)とし、薪を名づけて厳山雷(いつのやまつち/*7)とし、草を名づけて厳野椎(いつのつち/*8)としよう」
 ――と仰せられました。

*1:高皇産霊尊の神霊の憑人(よりまし)となること。

*2:潔斎の女神。

*3:粘土でできた瓮。

*4:伊弉冉尊がお生みになり焼死の原因となった火の神。

*5:伊弉冉尊が死ぬときにお生みになった水の神。

*6:伊弉諾尊伊弉冉尊がお生みになった食物の神。

*7:伊弉諾尊伊弉冉尊がお生みになった山の神。

*8:伊弉諾尊伊弉冉尊がお生みになった野の神。

(このあたりを小学生向けに書くのはとても難しいです。苦労するでしょう)


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▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀34

<神武天皇の東征>

 やがて冬になりました。
 十月一日に、天皇は厳瓮の神饌をお召し上がりになり(*1)、兵を整えて出陣されました。
 まず八十梟帥を国見丘で攻撃し、打ち破りました。
 この戦いで天皇は必勝の信念をお持ちでした。
 そこで次のような御歌をお詠みになりました。

「神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺(しただみ)の 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ」(*2)

 この御製の意味は、国見丘を大きな石にたとえているのです。
 しかしながら、一度は敵を打ち破ったとはいえ、その残党が多数いて、完全な勝利にはいたりませんでした。

*1:直会(なおらい)の発祥です。神饌をいただくことによって、神の加護を得、活力を賜ります。

*2:この歌のことは、次回に記します。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3271『小学生の日本神話155』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀35

<神武天皇の東征>

 前回の御製の意味ですが・・・
 細螺(しただみ)というのは、小型の巻き貝のことです。
 伊勢の海の大きな石をはい回る巻き貝のように、敵のいる丘をはい回って、敵を包囲して撃ってしまおう・・・まあ、こういった意味らしいです。

 さて、敵の残党がたくさんいて思うようになりませんので、天皇は部下の道臣命に命令なさいました。
「おまえは、大来目部(おおくめら/*1)をひきいて忍坂邑(おさかのむら/*2)に大きな室(むろ/*3)をつくり、そこで盛大な宴会をやって、賊をあざむき誘い出して討ち取れ」
 そこで道臣命は忍坂に穴蔵を掘り、勇猛果敢な兵士を選んで賊軍に紛れ込ませておきました(*4)。

*1:久米一族。豪族大伴氏がひきいていた軍団です。

*2:現在の桜井市忍坂(おつさか)。

*3:周囲を塗り固めた部屋。

*4:女性に化けたり宴会に誘ったりするのは古代の皇軍どくとくの戦法ですね。


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▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀36

<神武天皇の東征>

 道臣命はひそかに手はずをきめて、
「宴会が終わりに近くなったら、私が立ち上がって歌を歌おう。おまえたちは私が歌う声を聞いたら、いっせいに敵に討ちかかりなさい」
 ――と命じました。
 いよいよ敵と混ざっての宴会がはじまりました。
 賊軍兵士は何も知らずに、酔ってしまいました。
 ころあいをみて道臣命は立ち上がり、つぎのように歌いました。

「忍坂(おさか)の 大室屋(おほむろや)に 人多(ひとさは)は 入居(いりを/*1)りとも 来入居(きいりを)りとも みつみつし(*2) 来目の子らが 頭椎(くぶつつ/*3)い 石椎(いしつつ/*4)い持ち 撃ちてし止まむ」

 この歌を聞いて見方の兵士たちはいっせいに頭椎剣(くぶつちのつるぎ)を抜いて、賊軍を切りかかりました。賊軍は全滅してしまいました。

(戦いのたびに歌が歌われる有名な場面が続きます)

*1:尻をつけて座っているとの意味。

*2:勇ましく勢いがあるという意味で、来目(久米一族)にかかる枕詞。

*3:柄頭が塊状になっている剣。

*4:柄頭が石製の塊状の剣。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3282『小学生の日本神話157』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀37

<神武天皇の東征>

 この成功に天皇の軍勢はとても喜び、大笑いして歌いました。

「今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ」
(今はもう 今はもう ああ間抜けな敵よ 今だけでも 皆たちよ 今だけでも 皆たちよ 喜ぼうよ)

 久米部が歌を歌ったあとに大笑い(*1)するのは、ここから来たのです。

 久米一族たち軍勢は、また歌いました。

「蝦夷を 一人 百な人 人は言えども 手向ひもせず」
(蝦夷を 一騎当千の強者だと人はいうけれども われらにはまったく手向かいしないぞ)

 これらの歌は、すべて天皇のお言葉によって歌ったもので、自分勝手に歌ったわけではありません。

*1:大笑いするのは、敵や悪霊を退散させる意味をもつ一種の儀式です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3288『小学生の日本神話158』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀38

<神武天皇の東征>

 神武天皇は仰せられました。
「戦いに勝っても驕ってはいけない。驕らないのが良い将軍である。いま敵の中心となっていた賊将は滅んだが、まだ刃向かおうとしている敵軍が十数団いる。それらとの戦いがどうなるかわからない。だから長く一カ所に留まっていてはいけない。作戦を練らねばならない」
 そこで天皇の軍はすぐに移動し、別の場所に軍営をもうけられました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3295『小学生の日本神話159』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀39

<神武天皇の東征>

 神武東征はここから新たな段階に移り、大団円への向かいます。

 11月の7日に、天皇の軍は磯城彦(しきつひこ/*1)の軍勢を討とうと、まず使者を派遣して兄磯城(えしき)をお呼びになりました。
 しかし兄磯城は従いませんでした。
 そこで天皇は八咫烏に、兄磯城を呼んでくるようにと命じられました。
 八咫烏は兄磯城の陣営に行って、
「天神の御子が、おまえをお召しになっておられる。いざわ、いざわ(*2)」
 と叫びました。
 兄磯城はこれを聞いて怒り、
「天圧神(あまのおすかみ/*3)が来られたと聞いて憤慨している時なのに、どうして烏のやつが不吉な声で鳴くのか」
 と言い、弓を引き絞って八咫烏を狙って射ました。
 八咫烏は矢をかわして逃げました。

*1:磯城地方の首領である兄磯城と弟磯城を一緒にして表現した言葉。

*2:さあ、さあ、とせかせる呼びかけ。

*3:天上界の威厳ある神。前に歌の判読の時に出てきました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3303『小学生の日本神話160』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀40

<神武天皇の東征>

 それから烏は弟磯城(おとしき)の家に行って言いました。
「天神の御子がおまえをお召しになっておられる。さあ、さあ・・・」
 弟磯城はかしこまって答えました。
「私は天圧神がおいでになられるとお聞きして、朝夕恐れかしこんでおりました。烏よ、おまえがこのように伝えてくれて、とても嬉しく思う」
 弟磯城はこう言うと、木の葉で編んだ平皿八枚をつくり、それに料理を盛って烏にふるまいました。
 それから烏に導かれて天皇のもとに参上し、
「私の兄の兄磯城は、天神の御子がお出でになると聞いて反逆の心を持ち、八十梟帥を集め、武器を準備して刃向かおうとしております。急いで戦術をお立てなさいませ」
 ――と申し上げました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3309『小学生の日本神話161』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀41

<神武天皇の東征>

 神武天皇は部下の諸将を集めて、意見を求められました。
「兄磯城はあきらかに反逆心をもっていて、呼んでも来ようとしない。どうしたらよかろうか」
 諸将は意見を述べました。
「兄磯城はずるがしこい賊です。ですからまず弟磯城を派遣して説得し、同時に兄倉下(えくらじ/*1)と弟倉下(おとくらじ)にも説得させたらよいと思います。それでも言うことを聞かなければ、攻めることにしたらどうでしょうか」
 そこで天皇は、弟磯城に命じて、利害を示して説得させました。
 しかしながら兄磯城は、なおも愚かな策略を使い、反抗心を持ち続けました。

*1:兄倉下、弟倉下ともに八十梟帥の中の人名。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3316『小学生の日本神話162』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀42

<神武天皇の東征>

 そのとき、椎根津彦が計略を考えて申し上げました。
「まずわが女軍(*1)を忍坂の道から出陣させましょう。敵はこれを見て、強い兵を集めて攻撃してくるでしょう。私は味方の強い兵たちをひきいて墨坂にまっすぐに向かい、菟田川の水を汲んで敵軍の炭火にかけて消し止め、すぐさま不意をついて出て行けば、敵は負けてしまうでしょう」
 天皇はこれを良い作戦だとして、ただちに女軍を出発させて敵陣の様子をうかがわせられました。
(*2)

*1:軍を二手に分けて女軍と男軍と呼びます。女の兵士のことではありません。前にも出てきましたが、敵の八十梟帥が女坂に女軍を配し、男坂に男軍を配したので、今度は天皇の軍が二手に分かれようとする作戦です。

*2:このあたりの戦場は、もう狭い意味での大和(三輪山の西山麓)のすぐそばで、ハイキングコースていどの距離です。後に即位なさる橿原もすぐそばです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3322『小学生の日本神話163』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀43

<神武天皇の東征>

 賊軍は女軍を見て大軍が攻めてきたと思い、全兵力をこれに集中しました。
 これまで天皇の軍は、いろいろな作戦を用いてかならず勝利してきましたが、兵士たちは疲労しておりました。
 そこで天皇は御製によって兵士たちをお慰めになりました。

「楯並(たたな/*1)めて 伊那瑳(いなさ/*2)の山の 木の間ゆも い行き守らひ 戦へば 我はや飢ぬ 島つ鳥(しまつとり/*3) 鵜飼が供 今助けに来ね」
(楯を並べて伊那瑳山の木間を通り、敵を見張りながら戦ったので、われわれは飢えてしまった。鵜飼の部民よ、今すぐ食べ物を持って助けに来てくれ)

 それから天皇は男軍をひきいて墨坂を越え、敵兵を後方から攻めて、大将の兄磯城を討ち果たしました。

*1:楯を並べて矢を射ることから伊那瑳にかかります。

*2:現在の榛原町にある山の名らしい。

*3:鵜飼にかかる枕詞。

(このあと、いよいよ長髄彦の軍勢と向き合いますが、天皇の軍は苦戦続きで、ついに金鵄が出現します)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3329『小学生の日本神話164』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀44

<神武天皇の東征>

 その年の12月4日、天皇の軍はついに長髄彦の軍と向き合うようになりました。
 大阪湾に上陸して戦って勝てなかった相手です。
 天皇の軍は勇敢に戦いましたが、何度戦っても勝利することが出来ませんでした。
 するとそのとき、空がにわかに曇って、雹が降ってきました。
 そしてそこに、金色の鵄が舞い降りて、天皇がお持ちになっていた弓の先端に止まりました。
 その鵄は光輝き、まるで稲妻のようでした。
 この光にうたれて、長髄彦の軍勢はみな目がくらみ混乱して、戦う気持ちを失ってしまいました(*1)。

 長髄彦の長髄とはもともと邑の名前で、それを人の名ともしたのです。
 天皇の軍が鵄の瑞祥をえて勝利したことから、人々はその地の長髄邑を鵄邑と名づけました。いま鳥見(とみ/*2)というのは、それがなまったものです。

*1:これが金鵄勲章の元になった金の鵄です。強烈な雷の象徴なのでしょう。

*2:現奈良市西部の富雄町のあたりとされます。この戦いの直前の兄磯城との戦いは三輪山の南西方面でなされましたのに、その次は奈良市というのは距離がありすぎます。三輪山の近くから奈良市まではかなり時間もかかる筈ですし、その途中にいろんな八十梟帥もいたはずです。しかし奈良市までの行軍で苦労した話は記されていません。ですから、もっと三輪山の近く(桜井市とか橿原市とか宇陀郡とか)に長髄彦の軍がいたような気もします。鳥見という土地も奈良市だけではなく三輪山近くにもあります。ですからちょっと不思議な気持ちもするのですが、いろいろと議論があった末、現在では鳥見とは奈良市西部とされています。若干の疑問はありますが、大阪湾に近いという点では理屈に合っております。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3335『小学生の日本神話165』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀45

<神武天皇の東征>

 ここまで来る間に、孔舎衛(くさえ)の戦いで、五瀬命(いつせのみこと/*1)が敵の矢に当たって薨ぜられました。
 神武天皇はこのことをいつも思っておられ、心の中で憤慨しておられました。
 そのため、この長髄彦との戦いでは、徹底して撃破しようと思っておられました。
 そこで天皇は、次のような御製をおつくりになられました。

「みつみつし 来目の子等が 垣本に 粟生(あはふ)には 韮一本(かみらひともと) 其のが本 其根芽繋(そねめつな)ぎて 撃ちてし止まむ」
(久米の者たちの、垣根のあたりには粟が生えている。その粟畑にはくさい韮(にら)が一本、そいつが一本。その韮の根と芽をひとつなぎに引き抜くように、敵を一人残らず撃ってしまおう)

*1:神武天皇の兄にあたる。大阪湾から攻めたとき、長髄彦軍の矢に当たって薨去。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3341『小学生の日本神話166』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀46

<神武天皇の東征>

 神武天皇はさらに御製をお詠みになられました。
「みつみつし 来目の子等が 垣本に 植ゑし山椒(はじかみ) 口疼(くちびひ)く 我は忘れず 撃ちてし止まむ」
(久米の者たちが、垣根のあたりに植えた山椒。その実を食べると口がひりひりして忘れられないように、兄を敵に殺されたことは忘れない。かならず撃つぞ)

 そしてさらに軍を励まして敵を襲いました。
 これらの御製はみな久米歌といいます。
 これを歌った久米部によって名づけられたのです。

 こうしているとき、長髄彦は使者を天皇に派遣してきました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3347『小学生の日本神話167』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇49

<長髄彦との決戦――金鵄の飛来>4
(今回から題を最初のころの書き方に直しました)

 長髄彦の使者が長髄彦の言葉を神武天皇に伝えました。
「昔のこと、天神の御子が天磐船(あまのいわふね)に乗って天降ってこられました。名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと/*)とおっしゃいます。この御方が私の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って、御子をお生みになりました。名を可美真手命(うましまでのみこと)と申します。そこで私は、饒速日命を主人とあがめてお仕えしているのです。いったい、天神の御子がお二方もおられるはずはございません。それなのに、どうしてまた天神の御子と称して、われわれの国を奪おうとされるのですか。私が察するところ、あなたが天神の御子というのは本当ではありますまい」
 神武天皇はこれに対して、
「天神の御子といっても大勢いる。おまえが崇める者が本当に天神の御子ならば、必ずそれを証明する品があるであろう。それを見せなさい」
 ――とおおせられました。

*:のちに、大和朝廷に従って大豪族となった物部氏、および従いながらも微妙な距離を保って栄えた尾張一族や海部一族の共通の先祖とされる〈饒速日命〉の出現です。
〈饒速日命〉については、物部系の史書とされる『先代旧事本紀』に詳しく記されています。
 HISASIさまの翻訳が保存頁にあります。
 ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sendaikuji_mokuji.htm


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3353『小学生の日本神話168』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇50

<長髄彦との決戦――金鵄の飛来>5

 そこで、やってきた長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢(あまのははや)ひとつと歩靫(かちゆき)とを取り出して、天皇のお見せ申しました。
 天皇はそれをご覧になられて、
「偽りではなかった」
 ――と仰せられ、今度はご自分の天羽羽矢と歩靫を長髄彦に示されました。
 長髄彦はそれを見て天皇を尊敬する気持ちになりましたが、武器をかまえ軍勢を配置していましたからその勢いは止まらず、敵対を続けました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3358『小学生の日本神話169』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇51

<長髄彦との決戦――金鵄の飛来>6

 饒速日命は、天神は天孫・神武天皇を心にかけておいでであることを知っていました。
 また、長髄彦は性格が曲がっていて、天と人の区別(神人の別)もつかないことを知っていました。
 そこで饒速日命は、決心して、長髄彦を討ち、その軍勢をともなって天皇に帰順しました。
 神武天皇は最初から饒速日命が天降った神であることを知っておられたうえ(*)、いままた長髄彦を討って功績をあげたので、褒賞を与えて重用なさいました。
 饒速日命は、後々まで天皇にお仕えした物部氏の遠祖です。

*:神武天皇が東征に出発なさる前のお話に饒速日命のことが出てきます。第123回参照。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3362『小学生の日本神話170』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇52

<大和の平定>1

 その翌年の二月二十日、神武天皇は将軍たちに命じて、兵卒の訓練をなさいました。
 このころ、近くに三人の土蜘蛛(*1)がいて、天皇に逆らっていました。
 層富県(そほのあがた/*2)の波{口+多}(はた/*3)の丘岬(おかさき/*4)にいる新城戸畔(にいきとべ/*5)。
 和珥(わに/*6)の坂下にいる居勢祝(こせのはふり/*7)。
 臍見(ほそみ/*8)の長柄(ながら/*9)の丘岬にいる猪祝(いのはふり/*10)。
 この三人の賊でした。

*1:天皇に反抗する土着の賊のこと。
*2:奈良市や生駒市のあたり。
*3:奈良市東南部。
*4:丘の突端。
*5:新城は奈良県大和郡山市の新木町。戸畔はそこを守るという意味。
*6:天理市和珥。
*7:地名から来た名と思われる。天理市のあたりらしい。
*8:地名らしいが不明。
*9:御所市名柄か天理市長柄か。たぶん後者。
*10:天理市あたりの地名から来た名らしい。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3366『小学生の日本神話171』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇53

<大和の平定>2

 これらの賊軍はなかなか帰順しませんでしたので、天皇は軍を三方に向けて派遣し、みな退治なさいました。
 またさらに、高尾張邑(たかおわりのむら/*1)にも、背が低くて手足の長い土蜘蛛がおりましたので、天皇の軍は葛で網をつくって、それで討伐なさいました。
 そこでその邑の名を改めて、葛城と呼びました。
 そもそも磐余(*2)という土地の名は、元は片居または片立(*3)といっていましたが、天皇の軍が賊を打ち破ってその地に満ちたので、磐余と呼ばれるようになりました(*4)。

*1:現在の葛城地方のこと。葛城連峰で知られます。
*2:神武天皇のお名前につけられている土地の名で、現在の桜井市から橿原市にかけての古い地名です。
*3:平均的に人家があるのではなく、一箇所に偏って人が住んでいた場所という意味?
*4:偏って人が住んでいたのが、天皇の軍が満ちてどこにも人がいるようになったため?
(『日本書紀』は常にそうですが、語源の物語が無数にあります)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3370『小学生の日本神話172』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇54

<大和の平定>3

 磐余という地名の語源がもう一つ伝えられています。
 神武天皇が昔、厳瓮(いつへ/*1)の神饌を召し上がり(直会)、出陣して磯城の磐余方面を討伐なさったとき、磯城の八十梟帥が屯聚居(いはみゐ/*2)していましたが、ついに滅びました。そこで名づけて磐余邑といいます。
 また、天皇軍が雄叫びをあげた場所を猛田(たけだ/*3)といい、城をつくった場所を城田(きた/*4)といいます。
 賊の屍がたくさん転がっていた場所を頬枕田(つらまきた/*5)といいます。

 天皇は前年の秋九月にひそかに天香山の土をとって八十平瓮(やそひらか/*6)を作ってもろもろの神を祀り、ついに天下を平定できましたので、土を取った場所を埴安(はにやす/*7)といいます。

*1:前出。
*2:多くの人が寄り集まる場所。
*3:いまの宇陀郡菟田野町のあたり。
*4:添上郡城田村とされるが不明。
*5:不明。
*6:前出。
*7:橿原市東北部。

 こうして残敵を討伐した結果、ついに大和は平定されました。つぎは橿原宮の造営です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3374『小学生の日本神話173』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇55

<橿原宮の造営>1

 三月の七日に、神武天皇はつぎの勅を下されました。
「東方の征討に出てから六年が過ぎた。その間に、天神のご威光をうけて、賊たちを誅滅した。辺境の地はまだ鎮静はしておらず、頑強に抵抗する賊もいるけれども、中央のこの大和の国は、もはや塵も立たぬほどに静かである。そこでここに都をつくって、大きく盛んなものにしよう。ただ、現在は世の中がまだ始まったばかりで、民の心も純朴である。彼らは樹の巣や穴の中に住んで、未開の風習がおこなわれている。そもそも聖人は制度をつくるものであり、その道理は時勢に合うものである。いやしくも民にとって良きものであれば、聖人の業にはどんな妨げも起こらないであろう。」
(この詔勅続きます)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3379『小学生の日本神話174』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇56

<橿原宮の造営>2

(詔勅の続きです)
「そこで、山林をきりひらいて宮殿を造営し、皇位について民を安んじ治めなければならない。
 上は高皇産霊尊と天照大神が国をお授けくださった御徳に応え、下は皇孫瓊瓊杵尊が正義をお育てになった御心を広めよう。
 その後に、我が四方の国々を統合して都を開き、天下を覆って一つの家とすることはとても良いことであろう。
 いま見渡すと、あの畝傍山の東南の橿原の地(*)は、この国の奥深い安住の地であろう。そこに都を定めよう」
 ――と仰せられました。
 そしてこの月に、役人に命じて宮殿の造営を開始なさいました。

*:橿原は、遺蹟から樫木が多く発掘されているそうです。地形的には、大和平野の中央の水郷地帯に突き出た岬状の高台だったらしい。つまり大和の南方にあって、大和全体に進出するのに絶好の地でした。のちに大和朝廷は北東に進んで、三輪山麓に本格的な都をつくるに至ります。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3384『小学生の日本神話175』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇57

<橿原宮の造営>3

 秋、八月十六日、神武天皇は正妃をお立てになろうとして、広く貴族の子女をお捜しになられました。
 そのときある人が、
「事代主神(ことしろぬしのかみ/*1)が三島溝□耳神(みしまのみぞくいみみのかみ/*2)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ/*3)を娶ってお産みになった娘を媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと/*4)と申します。この媛はとても容姿が秀麗でございます」
 ――と奏上しました。
 天皇はたいそうお喜びになりました。
 そして九月二十四日に、この媛命を宮中に召して正妃となさいました。

*1:だいぶ前に出てきました。
*2:三島は現大阪府茨木市高槻市を中心とする地域。溝□(みぞくい)媛は流矢伝説の主人公の名。
*3:玉のような櫛によって懐妊するの意味らしいです。
*4:製鉄に用いられる蹈鞴(タタラ)に関係が深い御名。古代の大和は砂鉄が多く採れ製鉄が盛んだったらしい。製鉄業の盛んな土地を得ることは重大事でした。この媛の生誕の地は三輪山山麓で、大和の中心地です。伝承はさまざまあり、事代主神の娘ということは素戔嗚尊、大国主命の系譜でもあり、また生誕地は大物主神の圏内です。いずれにせよ大和の地の中心・三輪山の神(大神神社→大物主神)を崇敬する人たちとの融和を図り、製鉄業を手中にした形跡があります。

(つぎはいよいよ即位です)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3389『小学生の日本神話176』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇58

<即位と立后>1

 辛酉(しんゆう)の年の春正月の一日(*1)に、天皇は橿原宮において即位なさいました。
 つまり、正式に初代の天皇におなりになったわけです。
 この年を天皇の元年とし、正妃を尊んで皇后となさいました。
 この皇后は神八井命(かむやいのみこと/*2)と神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと/*3)をお産みになられました。

 古い伝承では、天皇をつぎのように讃えております。
「畝傍の橿原に、大地の底の岩に宮柱をしっかりと立て、高天原に千木を聳え立たせて、初めて国をお治めになられた、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと/*4)」
 この天皇の御名は、神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれびこほほでみのすめらみこと/*5)と申し上げます。
(のちに神武天皇(*6)とお呼びするようになりました)

*1:紀元節(建国記念の日)です。
*2:あとでは神八井耳命とされています。神も耳も神聖、靈性を示します。
*3:第二代の綏靖天皇におなりに皇子です。
*4:初めて国をお治めになった天皇という意味です。第十代の崇神天皇も、同じ読みの違う文字で崇敬されています。
*5:実名や業績を元にしたと思われる国風諡号。
*6:後につけられた漢風諡号。


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▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇59

<即位と立后>2

 はじめて天皇が天つ日嗣の大業(天基)を草創なさった日に、大伴氏の遠祖である道臣命が大来目部をひきいて秘策を承り、諷歌(そえうた/*1)と倒語(さかしまごと/*2)を巧みに用いて妖気を払って平定しました。
 倒語が用いられるようになったのは、ここに始まったのです。

*1:風諭の歌。遠回しにさとらせる歌。久米歌にはそういう歌詞が多い。
*2:言葉を逆さに用いて悟らせないようにすること。


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▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇60

<即位と立后>3

 即位なさった翌年、紀元二年二月二日に、神武天皇は、東征に貢献した部下たちに論功行賞をなさいました。
 道臣命には宅地をお与えになりました。場所は築坂邑(*1)です。
 大来目には畝傍山の西の川辺の地に住所をお与えになりました。
(来目邑(くめむら/*2)というのはこれがもとになっています)
 珍彦は倭国造(やまとのくにのみやつこ)となさいました。

*1:畝傍山の南方の地
*2:橿原市久米町のあたり。畝傍山の西を北流する高取川の東岸。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3407『小学生の日本神話179』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇61

<即位と立后>4

 論功行賞は続きます。
 天皇に従って功績をあげた弟猾(おとうかし)には猛田邑(たけたのむら/*1)をお与えになりました。
 そして猛田県主となさいました。
 これが菟田主水部(うだのもひとりら/*2)の遠祖です。
 弟磯城(おとしき)、名を黒速を磯城県主となさいました。
 また剣根(つるぎね/*3)という者を葛城国造になさいました。
 さらに、頭八咫烏(やたからす)にも恩賞を与えられました(*4)。
 その子孫は葛野主殿県主部(かずののとのもりのあがたぬしら/*5)です。

*1:橿原市または宇陀郡のあたり。
*2:飲料水を司る一族。
*3:赤銅八十梟帥を討伐した功績者。
*4:八咫烏は金鵄とはまった違って、天皇に従った一部族と考えられます。シナ伝説にある太陽に棲む三本足の烏と同一視する通説がありますが、本居宣長など江戸時代の国学者たちが綿密な文献考証によってこれを否定しています。詳しくは小生の『女性天皇の歴史』を参照してください。
 保存頁にもあります。
 ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yatagarasu.htm

*5:京都の賀茂県主と同じ氏族。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3413『小学生の日本神話180』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇62

<即位と立后>5

 即位四年二月二十三日に、神武天皇は次のように勅(みことのり)なさいました。
「わが皇祖の御霊が天からお降りになり、わたしの身を照らしてお助けくださった。
 今やすでに、諸々の賊を平定して、天下は無事に治められている。
 そこで、天神(あまつかみ)を郊祀(こうし/*1)して、大きな孝行をなそう」
 そして斎場を鳥見山(とみのやま/*2)の中に設けて、皇祖である天神をお祭り申し上げました。
 その斎場の地を名付けて、上小野(うえつおの)の榛原(はりはら)、下小野(したつおの)の榛原といいます(*3)。

*1:天子が郊外で天を祀ること。
*2:奈良県桜井市の山。今も神社がある。この祭祀はとても有名で、オロモルフらが習った国史の教科書には、イラスト入りで書かれておりました。斎場をきちんと定めて先祖を祀るお祭りの最初とされています。
*3:鳥見山の上や下の榛の原という意味で普通名詞らしい。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3418『小学生の日本神話181』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇63

<即位と立后>6

 即位三十一年の四月一日に神武天皇は国中を視察なさいました。
 そのとき、腋上(わきがみ/*1)の●間丘(ほほまのおか/*2)にお登りになって国の様子をお眺めになられました。
 そしておっしゃいました。
「ああ、なんと美しい国を得たことだろう。内木綿(うつゆう/*3)の狭い国ではあるがあたかも蜻蛉(あきず)が繋がって飛んでいる形のようでもある」
 このことから、秋津島(あきずしま)という名が生じたのです。

*1:奈良県御所市の東北部。
*2:●は「嫌」の女→口とした字。御所市本馬の東方の丘陵とされます。
*3:枕詞。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3423『小学生の日本神話182』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇64

<即位と立后>7

 その昔伊弉諾尊は、この国を名づけて、
「日本(やまと)は浦安(うらやす/*1)の国、細戈(くわしほこ/*2)の千足(ちだ/*3)る国、磯輪上(しわかみ/*4)の秀真国(ほつまくに/*5)」
 ――と仰せられました。
 また大己貴大神は名づけて、
「玉牆(たまかき/*6)の内つ国」
 ――と言われました。
 饒速日命は、天磐船に乗って飛翔して空からこの国を見たので、
「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」
 ――と言われました。

*1:四海安らか。
*2、3:きめの細かな美しい戈。戈で国生みをしたので。
*4:石で囲った祭壇?
*5:もっとも優れた国
*6:美しい垣根(山々)に囲まれた大和。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3428『小学生の日本神話183』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀 巻第三 神日本磐余彦天皇65

<即位と立后>8

 御即位四十二年の正月三日に、皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと/*1)を立てて皇太子になさいましたた。
 七十六年の春三月の十一日に、神武天皇は橿原宮で崩御されました。
 御年百二十七であられました。
 その翌年の秋九月の十二日に、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ/*2)に葬りまつりました。

*1:第二代の綏靖天皇。
*2:畝傍山麓の奈良県橿原市大久保町にあります。昔から場所についてはいろいろな説があるそうです。

[完]

 これで『日本書紀』の神話〜神武天皇の巻を終わります。
 前に記しましたように、これから『古事記』も小学生向けに訳してみようと思います。
 最初のうちは、『古事記』に基づいた子供向けの神話の本はたくさんあるので、そういう本を紹介し、『日本書紀』に基づく本は少ないし正史でもあるので、こちらは大元に従って易しく翻案しました。
 しかし、見ているうちに、『古事記』に基づく児童向けの本のほとんどは、著者の創作に近く、また内容に左翼的なものが多い事が分かってきましたので、『古事記』についても、自分なりに翻案してみようと考えるようになりました。
 しばらくして始めます。


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