■■■ 小学生の日本神話――神武天皇即位前紀上――(オロモルフ)■■■


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3030『小学生の日本神話121』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀1

<神武天皇の東征>

 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと/*1)は、諱(いみな/*2)を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と申され、天照大神の直系の子孫である彦波瀲武鵜草葺不合尊の四番目の皇子です(*3)。
 母君は海神の二番目の娘である玉依姫です。
 生まれながらにして御聡明で、強い意志をお持ちでした。
 御年十五で皇太子になられました(*4)。
 成人して日向国の吾田邑(あたむら)の吾平津媛(あひらつひめ/*5)を妃となさり、手研耳命(たぎしみみのみこと/*6)が誕生なさいました。

*1:神武天皇の国風諡号。前に解説しました。神武天皇という御名は『日本書紀』が出来たあとで付けられた漢風諡号です。
*2:貴人の実名。実名を呼ぶことを忌む習慣から諱といいます。
*3:彦火火出見尊補と彦波瀲武鵜草葺不合尊のお名前の意味は前に解説しました。
*4:四人兄弟の末弟が皇太子になられるという、末子相続の典型です。
*5:現鹿児島県南さつま市付近の豪族の媛と考えられます。
*6:「たぎし」は形の凹凸を示す。「みみ」は霊か耳か。素直ではない――という意味の名前らしいです。こういう名前がついたのは、この御子は後に正室の皇子と皇統を争って反逆するからです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3037『小学生の日本神話122』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀2

<神武天皇の東征>

 神日本磐余彦天皇(神武天皇)は、四十五歳になられたとき、兄君たちや御子たちに語りました。
「昔わが天神の高皇産霊尊・大日霊女尊(*1)は、この豊葦原瑞穂国を天孫の彦火瓊瓊杵尊にお授けになられた。そこで瓊瓊杵尊は、天の門を押し開き、雲路を押し分け、先払いの神々を伴って地上に天降られた。このとき地上はまだ暗く秩序も無い時代であった。そこで瓊瓊杵尊はその暗い世にあって正しい道を養い、この西の国をお治めになられた。わが皇祖も父君も、神にして聖であり、慶事を積み瑞祥を重ねて(*2)、多くの歳月が経過した。天孫が降臨してから百七十九万二千四百七十余年が過ぎた」(*3)

*1:天照大神のことです。
*2:このあたりの原文にある「養正」「積慶」「重暉」を『三種の神器』の精神に当てはめ、「養正」→「剣」、「積慶」→玉、「重暉」→「鏡」としたのは、里見岸雄の父親の田中智學だそうです。
*3:この「 」の中は、有名な神武天皇の東征宣言の前半です。わたしの訳では重厚さが出ておりませんが・・・。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3040『小学生の日本神話123』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀3

<神武天皇の東征>

「・・・しかしながら、はるかに遠い地はいまもなお天子の恵みに浴していない。大きな村にも小さな村にも首長がいて、それぞれ境をつくって争っている。さてそこで、塩土老翁(*1)にたずねてみた。すると『東の方に美しい国があります。四方が青々とした山で囲まれています。そこへ天磐船(あまのいわふね/*2)に乗って飛び降った者がおります』と答えた。わたしが思うに、その国はきっと、天つ日嗣(あまつひつぎ)の大業をひろめ、天下を治めるのに良いところであろう。わが国の中心となる地であろう。その天から飛び降ったという者は、おそらくは饒速日命(にぎはやひのみこと/*3)であろう。その地に行って都をつくろうではないか」

*1:前に解説があります。潮流に乗ってくる人によって遠方の情報がもたらされることから、ここに書かれたのでしょうか。
*2:天上界における、磐のように堅固な船。天空を飛びます。
*3:物部一族の遠祖とされる神。同時に尾張一族や海部一族の遠祖ともされる神。天孫降臨なさった瓊瓊杵尊の御子で、海幸彦・山幸彦のご兄弟のもう一人の兄弟とされます。瓊瓊杵尊ご自身のご兄弟だったという説もあります。『先代旧事本紀』で重視されている神です。
 いずれにせよ、神武天皇の遠戚という伝承です。後に神武天皇に帰順します。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3045『小学生の日本神話124』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀4

<神武天皇の東征>

 皇子たちはこれ聞いて、
「道理は明かです。わたしどもも常々そう考えておりました。ただちに実行なさいませ」
 ――とお答えした。
 この年、大歳は甲寅(こういん/*1)でありました。

 そこでその年の冬十月の五日に、神日本磐余彦天皇(*2)は、御自ら諸皇子、船軍を率いて、東征の途につかれました。
 軍勢が速吸之門(はやすいなと/*3)に着いたとき、一人の漁師が小舟に乗って近づいてきました。
 天皇は、
「おまえは誰か」
 ――とお声をかけられました。
 その漁師は、
「わたしは国神(くにつかみ)で、珍彦(うずひこ/*4)と申します。曲浦(わだのうら/*5)で釣りをしておりますと、天神の御子がお出でになると知りましたので、お迎えに参りました」
 ――とお答えしました。

*1:(こういん/きのえとら)『日本書紀』に干支が出る最初です。この年を最初に記すシナ古典があったからではないかと言われています。『日本書紀』では、歴代即位元年の記述の末尾に「是年、大歳・・にあり」等と記すのが通例となっています。
 なお甲寅の年を西暦に換算すると、
 ・・・-667 -607 -547 -487 -427 -367 -307 -247 -187 -127 -67 -7 54 114 174 234 294 354 414 474 534 594 654・・・
 ――となりますが、年代の絶対値はあまり意味がありません。おめでたい干支を記したということです。

*2:初代天皇として即位なさる前ですが、天皇(すめらみこと)と記されています。

*3:海流の速い海峡という意味だが、この場合は九州と四国の間の豊予海峡。

*4:(うづひこ)潮流が渦巻くの意味らしい。潮流を知る神か? この国神はあとで大切にされています。

*5:湾曲した浦という意味。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3051『小学生の日本神話125』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀5

<神武天皇の東征>

 この返事をお聞きになった天皇は、
「おまえはわたしのために先導してくれるか」
 と、仰せられました。
 珍彦はお答えしました。
「ご先導もうしあげます」
 天皇は勅して、この漁師に椎木(*1)の竿の先を差し出してつかまえさせ、御船に引き入れて、水先案内人とされました。
 そして、その功績によって、椎根津彦という名前をお与えになりました。
 これは、倭直部(やまとのあたいら/*2)の始祖です。

*1:椎は堅い木なので棹に用いられたそうです。

*2:『新撰姓氏録』の「大和国神別」の「大和宿彌」の項に、椎根津彦の伝記があります。のちに軍機の功によって大倭国造に任じられました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3058『小学生の日本神話126』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀6

<神武天皇の東征>

 天皇のご一行は、椎根津彦の案内で速吸之門を無事に通って、筑紫の国の莵狭(うさ/*1)に到着なさいました。
 この当時、莵狭には莵狭国造(うさのくにのみやつこ/*2)というこの地の首長の先祖がいました。
 名前を、莵狭津彦・莵狭津媛(*3)といいました。
 この者たちが、天皇ご一行をお迎えするために、莵狭川(*4)の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや/*5)という宮を造って、そこにお招きして、ご馳走を献上しました。
 このとき天皇は、莵狭津媛を家来の天種子命(あまのたねこのみこと/*6)にすすめて夫婦になさいました。
 この天種子命とは中臣氏の遠祖にあたります。

*1:大分県宇佐市です。

*2:国造(くにのみやつこ)とは古い時代に各地方を治めていた首長で、五〜六世紀ごろに朝廷に従った者に贈られた称号です。たくさんいました。

*3:古代によくあったとされる彦媛制が連想されます。女性が神意を占い男性がそれを実行したと言われます。邪馬台国の卑弥呼とそばの男性もそうだったのだろうという説があります。

*4:昔宇佐川と呼ばれ、現在では駅館川といわれる川。

*5:意味が分かりにくいですが、大急ぎで建てたために柱も一本で屋根を支えるなど簡略な建築だったと考えられます。

*6:天孫降臨の瓊瓊杵尊に随伴した天児屋根命の孫とされています。宇佐と中臣氏の密接な関係を示す由緒譚です。中臣は藤原氏の祖でもあります。

(昨日のテレビで浦島伝説の真相という話をしていましたけど、とても新しい系図や絵をもとに大昔の話をしていて、日本最古の文献である『古事記』や『日本書紀』にある竜宮城の話はほとんどしませんでしたね)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3063『小学生の日本神話127』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀7

<神武天皇の東征>

 こうして天皇のご一行の軍船は、十一月の九日に、筑紫国の岡水門(おかのみなと/*1)にご到着になられました。
 そこから瀬戸内に向かって出発し、十二月の二十七日には、安芸国に着き、上陸して埃宮(えのみや/*2)に滞在なさいました。

*1:現在の福岡県遠賀郡遠賀川の河口付近とされています。

*2:広島県安芸郡府中町にあったといわれています。埃(え)とはあいうえおの「え」を示す仮名ですが、「え」は愛しいという意味もあるそうです。

 神武天皇の東征ご出発については、各地に伝承がたくさん残っており、それらは前に記しました出雲井晶先生の『教科書が教えない神武天皇』にあります。文献もご紹介しました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3075『小学生の日本神話128』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀8

<神武天皇の東征>

 高島宮に三年間滞在して準備を整えたのち、戊午の年の春二月の十一日に、天皇の軍勢は東を目指し、軍船を並べて出発なさいました。
 やがて難波(なにわ)の岬まで来ますと、ひじょうに速い潮流に出会いました。そこでここを浪速国(なみはやのくに)と言います。あるいは浪花(なみはな)とも言います。
 現在――『日本書紀』が書かれた時代――難波(なにわ)と言うのは、それが訛ったものです。

 三月の十日になりますと、難波の河(*1)をさかのぼって、河内国(こうちのくに)の草香邑(くさかのむら/*2)の青雲(あおくも/*3)の白肩津(しらかたのつ/*4)に到着なさいました(*5)。

*1:現在の寝屋川ではないかとも言われます。

*2:東大阪市日下のあたりとされます。

*3:白肩にかかる枕詞

*4:白肩は白潟。現在の生駒山麓の近くとされます。

*5:古代における大阪湾は現在よりずっと奥まで入り込んだ汽水湖になっており、大河(または汽水湖)をさかのぼった終着点がすでに生駒山麓だったと考えられます。

[この條終わり]


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3081『小学生の日本神話129』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀9

<神武天皇の東征>

 その年の四月九日、大阪湾の奥で上陸した天皇の軍勢は徒歩で竜田(*1)に向かいました。
 しかし道が険しくて隊列を組んですすむことが出来ませんでした。
 そこでいったん後退して、さらに東方の胆駒山(いこまのやま/*2)を越えて奈良盆地に入ろうと計画なさいました。
 そのとき、長髄彦がこのことを知って、
「天神の御子が来るのは、この国を奪うためであろう」
 ――と考えて、自分の軍勢をひきいて、天皇軍を孔舎絵衛坂(くさえのさか/*3)に迎え撃ちました。
 そのため、この地で天皇の軍と長髄彦の軍が激戦を交えることになりました。

*1:奈良県生駒郡斑鳩町の竜田。大阪方面から奈良盆地に入るには生駒山地や金剛山地を越えなければなりませんが、竜田のあたりで越える方法は古代にはあまり無く、二上山のあたりから越えるのが普通だったそうです。なお『古事記』には竜田越えの話はありません。

*2:現在の生駒山です。生駒山を越える道はたくさんあるので、どこだったかは不明です。

*3:現在の近鉄奈良線の生駒トンネルの西出口山麓のあたりとされます。このあたりは饒速日命の本拠ですから、親戚どうしの激しい争いが起こったわけです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3085『小学生の日本神話130』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀10

<神武天皇の東征>

 その激しい戦いのなかで、敵の放った矢が五瀬命(いつせのみこと/*)の肘にあたって命は大けがをし、天皇の軍は不利になりました。
 これ以上の進軍は不可能になりました。
 そこで天皇は、つぎのようにお考えになりました。
「私は日神の子孫でありながら太陽の方角にいる敵を撃っている。これは天の道に反している。ここはひとまず退却して弱そうに見せ、あらためて天神地祇を祭り、日神の神威を背に受けて、われわれの前に日蔭ができるのに従って敵を撃ち倒すのが良いだろう。そのようにすれば、刃を血に染めることもなく敵は敗れるであろう」
 一同は、
「仰せのとおりです」
 と、申し上げました。

*:彦五瀬命。神武天皇のいちばん上の兄です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3092『小学生の日本神話131』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀11

<神武天皇の東征>

 そこで天皇は軍勢にお命じになりました。
「しばらく留まれ。前進するな」
 そして軍を引いて戻られました。
 草香津(くさかのつ/*1)まで戻り、そこで盾を立てて雄叫びして士気を鼓舞なさいました。
 そのためその津を盾津(たてつ/*2)といいます。いま蓼津(たでつ)というのはそれが訛ったものです。
 その前、孔舎衛の戦いである人が大樹に隠れて難を逃れたことがありました。
 そこでその大樹をさして「この樹の恩は母の恩のようだ」と言いました。
 そのためこの地は母木邑(おもきのむら/*3)と名づけられました。

*1:前に出てきました。現在の日下のあたりです。

*2:草香津と同じ場所です。

*3:現在の東大阪市豊浦町らしいです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3098『小学生の日本神話132』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀12

<神武天皇の東征>

 五月の八日になって、天皇の軍は茅渟(ちぬ/*1)の山城水門(やまきのみなと/*2)に到着しました。
 そこで、五瀬命が受けた流矢の傷がひどく痛んできました。
 五瀬命は剣の柄を握りしめて叫びました。
「ああ残念だ。ますらお(*3)でありながら、賊のために手傷を負い、仇も討たずに死んでしまうとは」
 人々は、このことから、その土地を雄水門(おのみなと)と呼びました。
 天皇の軍はさらに進んで紀国の竃山(かまやま/*4)に達しましたが、そこで五瀬命は亡くなられました。
 天皇は五瀬命をその土地に葬りました。

*1:和泉の海の名だそうです。現在の大阪府泉南市男里のあたりとされています。

*2:地勢からの名で、山の近くの港らしい。

*3:立派な男性。

*4:和歌山市和田。五瀬命を祀る延喜式内社(旧官幣大社)竃山神社があります。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3103『小学生の日本神話133』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀13

<神武天皇の東征>

 それから一月半ののち、六月の二十三日になって、天皇の軍は名草邑(なぐさのむら/*1)に到着しました。
 そこにいた名草戸畔(なぐさとべ/*2)という賊を討伐しました。
 そこから狭野(さの/*3)を越えて熊野の神邑(みわのむら/*4)に至り、天磐盾(あまのいわたて/*5)に登って、さらに前進しました。

*1:和歌山市西南の名草山付近らしいです。

*2:その地域の首領。

*3:和歌山県新宮市佐野らしいです。つまり紀伊半島を大きく周回したのですね。

*4:新宮市新宮のあたりといわれます。この神邑の神は熊野速玉神社をさしているらしい。

*5:新宮市神倉山といわれます。ここに神倉神社があります。磐盾とは盾のようになった岩の意味。あたりを見回したのでしょうか。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3107『小学生の日本神話134』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀14

<神武天皇の東征>

 軍船で岸沿いに進んでいた天皇の軍勢は、にわかに暴風に遭い、船は大きく揺れて方角が定まらず、漂流しまいました。
 そのとき、神武天皇の上から二番目の兄である稲飯命(いないのみこと)は嘆息して、
「ああ、わたしの祖先は天神であり、母は海神である。それなのにどうして陸で苦しみ海で苦しまなければならないのか」
 ――と仰せられました。
 そして言い終わるとすぐに剣を抜いて海に身を投げて、鋤持神(さいもちのかみ/*1)になってしまわれました。

 つづいて、神武天皇の上から三番目の兄である三毛入野命(みけいりののみこと)も、
「わたしの母と叔母は海神であるのに、どうしてこんなに浪を荒くして溺れさせようとなさるのか」
 ――と仰せられて、波浪に身を投げて、常世国(とこよのくに/*2)に行ってしまわれました。

*1:鮫のこと。古代においては鮫は神として恐れられました。鋤は鋭い鮫の歯を示します。

*2:永遠不変の国。不老長生の国。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3111『小学生の日本神話135』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀15

<神武天皇の東征>

 ご兄弟をすべて失った神武天皇は、皇子の手研耳尊(たぎしみみのみこと)とともに軍勢をひきいて進み、熊野の荒坂津(あらさかのつ/*1)に到着されました。またの名を丹敷浦(にしきのうら/*2)といいます。
 そこで丹敷戸畔(にしきとべ/*3)という賊を討伐なさいました。
 ところがそのとき、悪い神がいて、毒気を吐き、天皇の兵はその毒にあたってつぎつぎに倒れました。
 兵たちは恐れ、元気がなくなってしまいました。
 神武東征の最大の危機です。

*1:熊野市二木島町という説があるそうですが、疑わしいらしい。

*2:三重県度会郡紀勢町錦とされます。いずれにせよ紀伊半島南部の上陸地点ですが、上陸するだけでも大変だったことがわかります。

*3:丹敷浦の首領でしょう。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3114『小学生の日本神話136』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀16

<神武天皇の東征>

 そのときそこに高倉下(たかくらじ/*1)という者がいて、次のような夢を見ました。

 **********

 天照大神が武甕雷神(たけみかづちのかみ/*2)に向かって、
「葦原中国はまだ乱れて騒然としているありさまが聞こえてくる。おまえが行って、前と同じように平定せよ」
 ――と仰せられました。
 これに対して武甕雷神はお答えしました。
「私が参らなくとも、かつて地上の国を平定したときに使った剣を地上に下せば、国中は自然に治まることでしょう」
 天照大神は、
「よろしい、そうしましょう」
 と、武甕雷神の考えに賛成なさいました(*3)。

*1:高い倉の下という意味の人名。

*2:かつて大国主命と談判して成功した神。そのときに使った霊威ある剣を神武天皇に預けるということ。

*3:石上神宮に主祭神として奉斎され、明治になって禁足地の地中から発見された剣の由緒譚のはじまりです。この剣のその後については順次ご説明いたします。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3119『小学生の日本神話137』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀17

<神武天皇の東征>

 天照大神のご了解を得た武甕雷神は、さっそく高倉下に、
「わたしの剣はフツ霊(ふつのみたま)という。いま、これをおまえの倉の中に置こう。それを天孫に献上しなさい」
 ――と教えました。
 高倉下は、
「承知しました」
 ――とお答えしましたが、そこで眼が覚めました。

**********

 この不思議な夢を見た高倉下は、夢の中の教えを信じて倉の戸を開けてみました。
 するとそこに天から落ちた剣があり、それは倉の敷き板に突き刺さっていました。
 そこで高倉下はその剣を抜き取って、神武天皇の献上しました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3125『小学生の日本神話138』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀18

<神武天皇の東征>

 そのとき天皇は、毒気に当たって気を失っておられました。
 しかしその剣の霊験でたちまち目をお醒ましになられて、
「わたしはどうしてこんなに長い間眠っていたのだろう」
 と仰せられました。
 続いて、同じように毒気に当たっていた兵士たちも、つぎつぎに眠りから覚めて起き上がりました。
 そういうわけで、霊剣(*1)によって助けられた天皇と兵士たちは、海岸から熊野の国の内部へと進みはじめました。
 しかしこの国は山が険しく道もありませんでした。
 それで天皇の軍勢は、どう行ったらよいのか分からなくなってしまいました。

*1:この霊剣「フツ霊(ふつのみたま)」のその後ですが、神武天皇即位ののち、物部氏の遠祖である宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中に奉祀しました。
 その後崇神天皇の御代になって全国の著名な神社を天皇がお認めになったとき、物部氏の先祖の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、勅命によって大和に石上神宮*を創祀して奉斎するようになりました。
 石上神宮では主祭神「布都御魂大神」として祀られています。
 このほかに、饒速日命から継承された神剣「布留御魂大神」および、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治なさった時にお使いになった「布都斯魂大神」も主祭神として祀られています。
 つまり古代神話に出てきます有名な霊剣のうち「草薙剣」を除く三振りが石上神宮の祭神になっているわけです。
 古代における物部氏の力が分かります。
 やがて明治になりまして、国によって菅政友が宮司になりましたが、明治七年に禁足地を発掘してこの霊剣を発見し、いまでは奥宮に奉斎されています。
 その形状の手書き図面が残されています。
 なぜ禁足地に埋められていたかといいますと、戦乱による強奪を避けるためだったと言われています。
 禁足地からは数多くの社宝が発見されています。
(*百濟から贈られた七支刀が伝世され現存することで知られる神社です)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3130『小学生の日本神話139』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀19

<神武天皇の東征>

 困った天皇はその夜、夢を見ました。
 夢の中で天照大神が、
「わたしがこれから頭八咫烏(*)を派遣しよう。その烏を道案内にして進みなさい」
 ――お教えになりました。
 翌日にると、その夢のとおり、頭八咫烏が舞い降りてきました。
 天皇は、
「この烏が来たということは、瑞夢にかなっている。皇祖の威徳のなんと偉大なことか、なんと輝かしく盛んなことか。わが皇祖の天照大神は、天つ日嗣の大業を助けようとの思し召しなのであろう」
 ――と仰せられました。

*:八咫烏の「咫」は親指と中指を開いた長さ。「頭」は翼ではなく頭の大きさで図ったということとも言われます。実際にその大きさを計算した学者もいますが、「とても大きくて立派だ」という意味に受け取るべきでしょう。
 なおこの八咫烏を、シナ伝説にある太陽に棲む三本足の鴉と同一視する意見がありますが、それは違うと思います。三本足説はおそらく、平安以降にできた俗説だと思います。
『新撰姓氏録』では八咫烏を鴨縣主の祖としており、烏のように木から木へと飛び移りながら道案内をしたそうです。八咫烏神社の言い伝えでは、黒い衣服を着て木を伝って案内したので、神武天皇が「まるで大きな烏のようだ」と言われて、そこから八咫烏という綽名が出来た――としているそうです。
 本居宣長ら江戸時代の学者も、丹念な文献調査の末に、三本足説をはっきりと否定しています。
 この問題につきましては、拙著『女性天皇の歴史』の第三章に詳しく記してあります。
(ここの保存頁にもあります)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3134『小学生の日本神話140』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀20

<神武天皇の東征>

 このとき、大伴氏の遠祖である日臣命(ひのおみのみこと/*1)は、大来目(おおくめ/*2)をひきいて大きな車を使って山をならし道を拓いて、烏の行方を探し、これを見ながら後を追って行きました。
 そしてついに、菟田(うだ/*3)の下県(しもつあがた/*4)に到着しました。
 ここまで道を切りひらきながら進んだので、その土地を名づけて菟田の穿邑(うかちのむら/*4)といいます。
 天皇は日臣命を褒賞なさり、
「おまえは忠義で武勇がある。よく先に立って道案内をつとめた。これからはおまえの名を道臣(みちのおみ)としよう」
 ――と仰せられました。

*1:『新撰姓氏録』に高魂命(高皇産霊尊)の九世孫とあります。

*2:大伴氏とともに神武天皇を助けた親衛隊。久米歌で知られます。

*3:現在の奈良県宇陀郡とされます。

*4:現在の宇陀郡菟田野町宇賀志(うかし)とされます。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3138『小学生の日本神話141』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀21

<神武天皇の東征>

 秋、八月の二日に、天皇は菟田県(うだのあがた)を支配していた兄猾(えうかし/*1)と弟猾(おとうかし)の二人をお呼びになりました。
 弟猾はすぐに駆けつけましたが、兄猾は来ませんでした。
 弟猾は、つぎのように申し上げました。
「兄の兄猾は天孫に反逆して襲撃するつもりでおりました。しかし天皇の軍勢が強いのを見まして、まともに戦ったのでは勝てないと思い、ひそかに伏兵を置き、天皇を捕らえる大きなねずみ取りのようなカラクリを仕掛けた宮殿(*2)をつくり、ご馳走を並べてご招待し、謀略によって天皇を殺そうとしております。どうかお備えくださいませ」

*1:この名は、穿邑(うかちのむら)に音の似ている猾(うかし)という言葉を使って、悪い兄と良い弟を表現したものと考えられます。
 兄弟が善人と悪人に分かれている話は、『記紀』によくあります。

*2:『日本書紀』には、潜水艦の先祖、飛行機の先祖、機械仕掛けの先祖など、技術の話もよく出てきます。
 あとの方になると技術開発をした天皇の話もあります。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3143『小学生の日本神話142』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀22

<神武天皇の東征>

 そこで天皇は道臣命に命じて、兄猾の様子を見に行かせました。
 道臣命は、兄猾が反逆しようとしているのを見破って、大いに怒り、
「おまえが造った建物にまずおまえが入れ」
 ――と叫んで、剣の柄を握りしめ弓をひきしぼって、兄猾を宮殿に追い込みました。
 追い込まれた兄猾は、自分のつくった罠を踏んで圧死してしまいました。
 そこで道臣命はその死体を引き出して斬りました。
 血が流れて踝まで浸しました。
 そのため、その土地は、菟田の血原(*1)といいます。
 その後弟猾は、牛肉(*2)と酒を揃えて、天皇軍をねぎらいました。

*1:現在の宇陀郡内には、室生村田口と三本松の二カ所にチハラという地名が残っているそうです。

*2:神武天皇の時代に牛肉を食する習慣が有ったかどうかですが、そういう場合も有っただろうと、小学館本では記しています。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3148『小学生の日本神話143』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀23

<神武天皇の東征>

 天皇はその酒と牛肉を兵士たちに分け与えて、次のような歌をお詠みになりました。

「菟田の 高城(たかき)に 鴫羂(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし くぢら障り 前妻が 肴乞はさば 立ソバの 実の無けくを こきしひゑね 後妻が 肴乞はさば イシサカキ 実の多けくを こきだひゑね」(*1)
(菟田の高台の狩り場に鴫をとる罠をしかけたら、待っていた鴫はかからずに鯨がかかったよ。これは大猟だ。古女房がおかずをほしいと言ったらそばぐりの実の果肉をはぎ取ってやれ。若女房がおかずをほしい言ったらいちいがしの実の果肉が多いところをやれ)

 これを来目歌といいます。
 いま楽府(*2)でこの歌を奏するときは、舞の手の広げ方の大小や声の太さ細さの別がありますが、これは古式がいまに残っているからです。

*1:書くと文字化けになりそうな漢字はカタカナにしました。

*2:音楽・歌謡を司る宮廷の役所。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3152『小学生の日本神話144』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀24

<神武天皇の東征>

 その後、神武天皇は吉野の地の視察のため、菟田の穿邑から、軽装の兵を従えただけで巡幸なさいました。
 吉野に到着されたとき、井戸の中から現れた者がいました。その者は身体が光っていて尾がありました。
 天皇は、
「おまえは何者なのか」
 ――とおたずねになりました。
 その者は、
「わたしは国神(くにつかみ)です。名を井光(いひか)と申します」
 ――とお答えし、臣下になりました(*1)。
 これが吉野の首部(おびとら)の始祖(*2)です。

*1:天皇に名を聞かれてお答えすること自体が、臣下になりますという意味ですが、原文でも自分のことを「臣」と称しています。

*2:『日本書紀』天武紀十二年十月に、
「・・・吉野首・・・に、姓を賜ひて連と曰ふ」
 ――とあります。
 また、『新撰姓氏録』の大和国神別の地祇に、「吉野連」の説明があります。
「加彌比加尼之後也。諡神武天皇行幸吉野。到神瀬、遣人汲水。使者還曰、有光井女。天皇召問之、汝誰人。答曰、・・・・・・」
 井戸の中に尾があって身体が光る人間がいた――という話は面白いですが、吉野の特産だった水銀を発掘する鉱山師たちだったのだろうと言われています。尾というのは鉱山師独特の尻当てのこととされています。
『新撰姓氏録』でも、神武天皇はこの女性に「水光姫」という名を賜ったと記されています。水銀を意味する名です。
 古代の大和の地は、防御に適し、稲が出来ただけではなく、砂鉄や水銀朱の産地としても知られていまして、首都とするには絶好の土地でした。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3157『小学生の日本神話145』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀25

<神武天皇の東征>

 天皇がさらにお進みになりますと、そこにまた、尾のある者が、岩を押し分けて現れました。
 天皇が、
「おまえは何者か」
 ――とお尋ねになりますと、その者はお答えしました。
「わたしは磐排別(いわおしわく/*1)の子であります」
 これは吉野の国ス部(くにすら/*2)の始祖です。

*1:岩を押し分けて出てきた若者。名前を名乗ったこと自体が、天皇に帰順しますとの意味です。

*2:スは木偏に巣。現在の吉野町南国栖(くす)に名が残されています。應神天皇の十九年十月の条に、この一族が土地の産物を天皇に献じた時の話があります。
 濃い酒を献じて歌を歌ったとあり、さらにその人たちは「性格がとても純朴である」と記されています。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3222『小学生の日本神話145』◆◆◆
(うっかりして145が二回になってしまいました)

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀25

<神武天皇の東征>

 それから神武天皇の一行は吉野川に沿って下り、西の方に進まれました。
 するとそこに、梁(やな/*1)を仕掛けて魚を捕っている者がおりました。
 天皇が問いかけられますと、その者は、
「私は苞苴担(にえもつ/*2)の子です」
 ――とお答えしました。
 これは阿太(あだ/*3)の養(蘆+鳥)部(うかいら/*4)の始祖であります。

*1:木を並べて水をせき止めて魚を捕る仕掛け。

*2:苞も苴も藁で包んだものを示し、神や天皇に献げる御饌を持つ者との意味。

*3:現在の奈良県五條市東部。五條市の中を吉野川がうねって流れています。

*4:吉野川の鮎を獲るために鵜飼いが古くから行われていたそうです。

(これから天皇の軍勢は、いくつもの戦いを勝ち抜きます)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3227『小学生の日本神話146』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀26

<神武天皇の東征>

 同じ年の九月五日に、天皇は菟田の高倉山(*1)にお登りになり、この国の様子をご視察になられました。
 すると、国見丘(くにみのおか/*2)に八十梟帥(やそたける/*3)がいることが分かりました。
 そして、女坂(めさか/*4)に女軍(めいくさ)を配し、男坂(おさか/*5)に男軍(おいくさ)を配し、さらに墨坂(すみさか/*6)に(火+赤)炭(おこしずみ/*7)を置いて待ちかまえているのが見えました。

*1:宇陀郡大宇陀町守道にある440メートルの山。高倉は山麓の地名だそうです。

*2:音羽山の南の経ケ塚とされます。大宇陀町と桜井市の間の山で、東西に両方を見渡すことができます。

*3:多くの兵士たちという意味。

*4:半坂。海抜450メートルの峠を越えて栗原、忍坂をへて旧櫻井町に向かう。

*5:上宮奥。海抜780メートルの大峠をへて旧多武峰村に通じる。

*6:榛原町の近鉄駅から西北一キロ弱の西峠の坂。大和と伊勢を結ぶ要路。

*7:進路を妨害するために焚いている火。

(このあたりの記述は、宇陀郡から櫻井市や明日香村にかけての地図を見ると面白いです)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3233『小学生の日本神話147』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀27

<神武天皇の東征>

 また磐余邑には兄磯城(えしき/*1)の軍勢が満ちていました。
 賊軍の拠点はすべて要害の地でした。
 これでは天皇の軍勢は通ることができません。
 そこで神武天皇は祈誓(うけい)をしてやすまれました。
 すると夢の中に天神が現れて、次のように天皇の教えられました。
「天香具山の社の土(*2)を取って、天平瓮(あまのひらか/*3)を八十枚つくりなさい。それから厳瓮(いつへ/*4)もつくりなさい。そして天神地祇を祀り、霊威のある呪詛をしなさい。そうすれば敵は自然に降伏するであろう」

*1:磯城地方の首領の名前。

*2:香具山の土は大和を中心とした国の象徴で、この土を取ることは大和の地を支配する意味を持ちます。崇神天皇の時代にもそういう話があります。

*3:神聖な平らな土器の皿。

*4:御神酒を入れる神聖な土器の壺。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3239『小学生の日本神話148』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀28

<神武天皇の東征>

 神武天皇は謹んで夢の教えを承り、そのとおりに実行しようとなさいました。
 するとそのとき、天皇の配下になった弟猾(おとうかし)が次のように奏上しました。

「大和国の磯城邑(しきのむら/*1)に磯城八十梟帥(しきのやそたける/*2)がおります。また高尾張邑(たかおわりのむら/*3)に赤銅八十梟帥(あかがねのやそたける/*4)がおります。この者どもはみな天皇に逆らうつもりです。わたしは心配しております。ですからいますぐに天香具山の土を取って天平瓮(あまのひらか)を作り、天社国社(あまつやしろくにつやしろ)の神をお祭りなさいませ。そのあとで賊を征伐すれば、平定はたやすいでありましょう(*5)」

*1:現在の三輪山の西麓のあたり。狭い意味での大和の中です。

*2:磯城というのは地名であるとともに、石の城という意味もあります。ですから、磯城邑の賊軍という意味にもとれますし、堅固な城を持つ賊軍という意味にもとれます。

*3:葛城地方で御所市の西南部とされます。

*4:銅製の武器を持つ賊軍?

*5:天皇が祈誓(うけい)をした上で吉の夢を見たことはすなわち吉兆を示します。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3243『小学生の日本神話149』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀29

<神武天皇の東征>

 神武天皇は、ご自分の夢を吉兆と思っておられたところへ、さらに弟猾(おとうかし)が夢と同じ提案をしたので、お喜びになられました。
 そして、配下の椎根津彦(しいねつひこ)に破れた衣服と蓑笠を着せて老人の姿にさせ、弟猾に蓑を着せて老婆の姿に変装させ、つぎのようにご命令になりました。

「おまえたち二人は天香具山に行って頂上の土を取ってきなさい。天つ日嗣(ひつぎ)の大業がなるかどうかは、おまえたちが成功するかどうかで占うことにしよう。慎重にせよ」

 命令された椎根津彦は、祈誓(うけい)を立てて、

「天皇が本当にこの国を平定なさるのならば行く道は開かれるでしょう。そうでなければ賊軍に阻止されて行けないでしょう」

 ――と言い、弟猾と二人で敵陣に向かって出発しました。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌3248『小学生の日本神話150』◆◆◆

▼『日本書紀』の神武天皇即位前紀30

<神武天皇の東征>

 二人の姿を見て賊軍は大笑いし、
「なんと見にくいじじいとばばあだ」
 ――と言って、疑うことをせず、道を通しました。
 二人は無事に香具山に着き、土を取って帰ってきました。
 天皇はたいそうお喜びになられ、その土によって八十平瓮(やそひらか/*1)・天手抉八十枚(あまのたくじりやそひら/*2)・厳瓮(いつへ/*3)をおつくりになり、丹生川(*4)の上流にのぼって、これらを用いて天神地祇を祀られました。

*1:前に出た平瓮です。

*2:丸めた土の中央を指でくぼめてつくった祭祀用土器。

*3:前に出た瓶です。

*4:菟田川のことだろうと考えられたいます。

(このあたり、注記がとても多くなっていますが、小学生向けの本にこんな注をつけるわけにはいきません。ですから、要点を外さずにいかに省略するかが難問題です)


(下に続きます)


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